駅概要
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/05 08:46 UTC 版)
南京東路直下、敦化北路口附近にあり、住所は台北市松山区南京東路四段10-1号。駅名は駅附近にある台北アリーナからとられた。
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駅概要
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/21 04:06 UTC 版)
高島駅から分岐し、ほぼUの字を描いて180度向きを変えて横浜港高島埠頭の突堤に通じた先に設置されていた駅であった。有蓋車が乗り入れ貨物船から積み降ろされた貨物のみを扱っていた小規模な駅であった。 駅跡地は再開発され、MM21中央地区の一角となっている。開発は遅れていたが、2010年代後半から開発が進んでいる。。かつてあった倉庫は撤去され、突堤だった駅跡地も付近が埋め立てられ突堤ではなくなっている。
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駅概要
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/23 01:26 UTC 版)
桜木町駅の東側に隣接した地上駅であった。桜木町駅のうち、貨物扱いを行う部分を独立させた駅で、日本で最初の鉄道として新橋 - 横浜間が開通した際の横浜駅に相当する。横浜港における貨物取扱の拠点の一つだった。開業から廃止されるまで旅客営業は行っていなかったが、希に臨時列車が発着することがあった。 駅跡地は、桜木町駅前広場・桜木町駅前交通広場(バスターミナル)として使用されている。また当駅と横浜港新港埠頭に存在した横浜港駅までを結んだ路線は現在、「汽車道」として歩道化されている。
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駅概要
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/24 06:56 UTC 版)
日本製紙物流東京事業部北王子倉庫の西端に位置する地上駅。4本の側線を持ち、倉庫にある貨物ホーム用の荷役線1本を有した。荷役線では、コンテナ車にコンテナを積んだまま荷役作業を行っていた。 駅構内の入換作業には、日本通運のモーターカー2両が使用されていた。 石巻港駅から、紙製品を積んだ貨物列車が1日4本到着していた。かつては、有蓋車(ワム80000形)で輸送していたが、2003年4月に一部が、2006年3月より全列車がコンテナ化された。 2014年3月14日をもって日本製紙が専用線貨物取扱を終了したことにより、同日付で営業休止、同年7月1日をもって廃止された。 跡地には大規模マンション「ザ・ガーデンズ東京王子」が建設されている。
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駅概要
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2013/08/21 14:06 UTC 版)
熊沢一衛率いる伊勢電気鉄道が、拡大政策の一環で津新地駅(津市中心部)から新松阪駅(松阪市南方)に至る路線を開業させた際、設置された駅のひとつである。伊勢電の路線は津新地駅を出た後、S字状にカーブを切って市街地を沿うように線路が敷かれていたが、市の中心部を貫通している岩田川を渡ってまもなくのところ、街を東方向に外れた場所に設けられたのがこの駅であった。この駅をはさむ区間は開業時から廃線時まで終始複線で、駅は相対式ホーム2面2線であったといわれている。 駅名は、岩田川河口以南にある清渚の名称に因み、伝説の海として名前を残すものであった。また駅東方100mのところにある木立の中には、松尾芭蕉が阿漕(阿古木)を詠んだ句碑が存在した。 現在、付近に同名のバス停が設置されている。
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駅概要
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2013/04/19 21:16 UTC 版)
もともと、三重交通の前身である松阪軽便鉄道が松阪駅と大石駅の間を開業させた際は設けられていなかった停車場であったが、伊勢電気鉄道が新松阪駅と大神宮前駅間を開業させた際、両線の接続駅として設置された。伊勢電は高架線であり、相対式ホーム2面2線の配置だったのに対し、松阪軽便鉄道のそれは停留場として扱われ、単式ホームがあるだけであった。 戦中、現在の近鉄山田線との並行を理由に新松阪と大神宮前を結ぶ線路は撤去され、松阪線だけの停車場となる。廃止時には小ぶりな木造の駅舎が存在していた。 松阪線は1964年に廃止されるが、廃止後しばらく経つまで伊勢電線の乗り越え橋脚が残されていた。しかし、現在は痕跡をとどめない。
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駅概要
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2015/12/02 15:56 UTC 版)
「ブリュッセル=リュクサンブール駅」の記事における「駅概要」の解説
開業年 1854年8月23日 駅コード LX 乗り入れ路線 161 番線数 6 この項目は、鉄道駅に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:鉄道/PJ鉄道)。
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駅概要
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/04/19 01:50 UTC 版)
大阪側から穴虫峠を越えた辺りに枕木を利用して駅が建てられており、駅周辺にある観光地であった屯鶴峯を訪れに来た団体客が乗降していた。
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駅概要
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/04/28 06:10 UTC 版)
駅は、第二次世界大戦中の1945年(昭和20年)に営業が休止となり、そのまま再開されることがなく24年後の1969年(昭和44年)に廃止となった。(同時に、桑町駅と猪田道駅の間にあった四十九駅も当駅と同様の経過をたどって廃止となった。)位置は、現在の新居7号踏切付近にあった。
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駅概要
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/13 23:21 UTC 版)
田端駅付近の6本の着発線と上中里駅付近から王子駅付近にかけてのびる1本の着発線(山手着発線)を通路線が結ぶかたちで2km弱に亘る長い構内をもつ地上駅。構内にはそのほか仕訳線(留置線)と田端運転所南部機留線があり、東北新幹線の車両基地である東京新幹線車両センター(上一運)とすぐ隣合せの位置関係になっている。なお田端機関区も併設されているが、こちらはJR貨物の乗務員基地であり、構内があるわけではない。 上中里駅付近では大崎駅方面からの山手貨物線と合流し、反対に田端駅付近の構内南端から先に進むと常磐貨物線となって三河島駅で日暮里駅からの常磐線と合流する。常磐貨物線の起点および山手貨物線の終点であるとともに東北貨物線の事実上の起点になっており、田端信号場駅総合事務所付近の着発1番線にある甲号距離標には「7k110m東北貨物」「0k000m常磐貨物」と併記されている。北王子線(2014年3月運転終了)は構内北端から分岐していた。 田端信号場駅はかつて田端操車場や田端操駅と呼ばれ、日本で最も歴史のある貨物操車場の1つとして鉄道貨物輸送に大きく貢献したが、鉄道貨物輸送自体の衰退、コンテナ輸送やフレートライナー方式導入などの近代化・合理化、そして武蔵野線や武蔵野操車場開業による都心バイパスルートの確立により取扱車数が減少する中、東京まで延伸する東北新幹線の車両基地として構内用地の大半が切換えられたことで、操配設備の規模を大幅に縮小して現在に至っている。新幹線車両基地が完成したのは1985年のことで、かつて東海道・東北・中央・常磐各方面への方向別仕訳線だったエリアや山手貨物線、東北貨物線方面への出発線があったエリアが、収容線や入出区線にあてられた。これは構内全面積約28万㎡のうち約46%にあたる13万㎡が新幹線基地に切換えられた大規模工事であった。 また、現在のJR東日本東京支社ビル付近には、かつて1面のコンテナホームがあった他、東北本線(尾久廻り)の高架線東側には日本運輸倉庫株式会社東京食品事業所の荷役線があり、有蓋車やコンテナを積んだコンテナ車が乗り入れていた。1975年頃までは、主に秋葉原貨物駅との連絡用として、常磐線の日暮里駅とを結ぶ単線の連絡線もあり、三河島駅へ向かう貨物線と合わせてデルタ線を構成していた。
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駅概要
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/01/24 04:15 UTC 版)
駅は、東海道本線と並行向きに京都駅を出た列車が、南へ進行方向を変えるあたりに設けられていた。やがて、不要不急の駅であるとみなされ廃止された。
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駅概要
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/06 01:16 UTC 版)
当駅は、専用線発着のコンテナ貨物および車扱貨物の取扱駅であり、新潟貨物ターミナル駅が管理する駅の一つである。駅名の「焼島」は、かつて通船川河口に存在した中州の名に由来する。 地上駅であり、北越コーポレーション新潟工場の東に位置する。駅は着発線や数本側線があるのみで小規模である。駅から北越コーポレーション新潟工場へ専用線が伸びており、当駅では同工場で生産された紙製品の発送がある。発送先は関東地方が主で、隅田川駅構内の「エフ・プラザ隅田川(隅田川ニッソウセンター)」へ送る輸送も行われている。2008年に9号抄紙機の稼動に伴い、新しいコンテナ扱いの専用線を開設した。JRになってから新しく開設されたコンテナ専用線は初めてのことで、車扱貨物の専用線を含めても山陰本線岡見駅の専用線に続いて2件目である。新専用線の総工費は約1億円 で、当駅の東新潟港駅方約50mのところから分岐して、線路長は約210m、新専用線用のコンテナ荷役用のコンテナホームは工場内に9両編成対応のものが2面あり、総面積9000平方メートル、1日あたり12フィートコンテナ85個の取り扱いが可能。専用線を用いた輸送割合はおよそ36%である。新潟貨物ターミナル駅まで専用列車で運び、そこから高速貨物列車に継送して主に熊谷貨物ターミナル駅、隅田川駅へ発送される予定となっている。 駅構内や専用線の入換作業は北越紀州製紙グループの北越物流が受託しており、日立製作所製の青いディーゼル機関車(スイッチャー)が入換作業に使用されている。操車係は青い作業着を着ているのが特徴である。 当駅を発着する貨物列車は、午前中に隅田川駅から返送の定期列車の到着、新潟貨物ターミナル駅から返送のコンテナ車を連結した臨時列車の到着、および当駅から新潟貨物ターミナル駅へ交番検査に出す貨車を連結した定期列車が各1本ずつ設定されている。午後には当駅から隅田川駅へ発送の定期列車の発車、新潟貨物ターミナル駅へ発送のコンテナ車を連結した臨時列車の発車、および新潟貨物ターミナル駅から返送の交番検査を完了した貨車を連結した定期列車の到着が各1本ずつ設定されている。なお、新潟貨物ターミナル駅発着の臨時コンテナ列車はそこから別のコンテナ列車によって発送先へと継走される。 かつては、駅周辺にある日本鋼管新潟製造所(のちに改組され、現在はJFE精密本社工場)や旭カーボン本社工場などへ続く専用線もあった。旭カーボン線からは、西武鉄道小川駅(ブリヂストン東京工場)向けのカーボンブラックが発送されていた。また2010年10月4日発の列車まで有蓋車ワム80000形を使用した輸送が行われていたが、コンテナ輸送に切り替えられて廃止となった。1997年まではワキ5000形も使用されていた。
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駅概要
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/02/03 09:22 UTC 版)
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駅概要
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/30 06:26 UTC 版)
苫小牧港苫小牧埠頭にできた石油タンクへ海上輸送された石油製品を鉄道輸送するために開設された駅。 地上駅で、6本の構内側線を有していた。そこから東へ向かって出光興産苫小牧製油所への専用線が、西へ向かって石油幹線が伸び、この幹線からさらに日本石油、昭和石油、共同石油、大協石油の苫小牧油槽所への専用線が分岐していた。 晩年はジャパンエナジー(旧・共同石油)のみ鉄道輸送を継続し、札幌貨物ターミナル駅および北旭川駅構内にある日本オイルターミナルの油槽所へ石油製品を発送していた。なお、当駅は苫小牧港開発株式会社線で最後まで貨車発着のあった駅だった。 廃止後しばらくは空き地となっていたが、現在は日本CCS調査株式会社苫小牧事務所となっている。
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駅概要
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/13 02:42 UTC 版)
日本化成小名浜西工場の東端に位置し、その工場からの専用線も接続していた。当駅からは有蓋貨車を用いた化学肥料の発送があったが、1980年6月末に工場が閉鎖されたため貨物の取り扱いが無くなった。その後取り扱いの再開が見込まれないことから、路線廃止より前の1982年8月1日に廃駅となった。
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駅概要
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/13 02:42 UTC 版)
小名浜製錬小名浜製錬所の南端に位置し、その工場からの専用線も接続していた。工場の東端に位置していた南宮下駅からは濃硫酸の発送があったのに対し、当駅からは工場で生産された製品を有蓋貨車に詰め込み輸送していた。しかし国鉄の貨物取り扱い駅が少なくなることから1983年12月よりトラック輸送に切り替えられた。後に当駅から先の区間が廃止され、2001年に全線廃止に伴って当駅も廃止された。
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駅概要
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/13 02:43 UTC 版)
日本海水小名浜工場の南端に位置し、その工場からの専用線も接続していた。当駅からは生石灰の発送があったが、1977年より輸送の大幅減少やトラック輸送に転換されたことなどから貨物の取り扱いが無くなった。その後取り扱いの再開が見込まれないことから、1984年4月1日に廃駅となった。
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駅概要
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/03 04:41 UTC 版)
1888年に東海道本線の建設資材を沼津港から陸揚げし輸送するために開設されたのが始まりである。当時は正式な駅ではなかったが、1899年に正式に駅として開業した。当初、狩野川の右岸(現・港大橋付近)に駅があったが、沼津港(現在の沼津港内港)の完成に伴い、1947年に移転した。但し、移転前の駅も引き続き構内側線として廃止時まで使用されていた。 貨物輸送は、構内側線が引かれていた沼津魚市場からの海産物の発送や、漁船の燃料輸送、木材輸送などがあった。しかしトラックが普及し、貨物輸送の多くがそれに切り替わったことにより輸送量が減少。1974年に廃駅となった。 国道1号と交差していたため、事故が多く廃止直前まで接触事故があった。事故防止の対策で踏切前で列車を止めていたともいう。 なお、廃線後この貨物支線跡の一部は沼津市によって蛇松緑道という遊歩道として整備されている。 蛇松緑道から分岐して川へ向かった終点には実物の二分の一サイズの蒸気機関車とレールが展示されていたが、現在は撤去され現存しない。
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駅概要
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/03 18:46 UTC 版)
秩父太平洋セメント(太平洋セメントグループ)秩父工場の東側に位置する地上駅で、同工場の専用線が接続している。 群馬県多野郡神流町にある叶山鉱山から総延長23キロのベルトコンベアーで輸送された石灰石は当駅で貨車に積み替えられ、三ヶ尻駅(太平洋セメント熊谷工場)へ輸送されている。駅構内の入換用に、2両のディーゼル機関車(D203、D304)が常駐している。石灰石を満載した貨物列車を出発線に移す際には、かつて入替で使用されていた大野原駅側のおよそ10パーミルのハンプを登坂するために、D304型ディーゼル機関車が補機として貨物列車を押し、電気機関車を突放するシーンが見られる。また、扇町駅 - 三ヶ尻駅間で石炭輸送列車が運行されていた頃は、熊谷工場の休業時期のみ当駅発着となっていた。なお、石炭はクリンカー焼成の際に燃料として使用されるものである。 かつては隅田川駅など関東各地へ向けたセメント輸送が行われていたが、徐々に縮小された後、2006年(平成18年)3月18日のダイヤ改正を以て廃止された。
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駅概要
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/26 10:00 UTC 版)
神戸港の拡張・整備により、1967年に摩耶埠頭が竣工した。当駅は、この摩耶埠頭でも船舶と鉄道との貨物接続輸送を行うために1972年に開設された。神戸港駅、湊川駅、兵庫港駅等に続く、神戸港の車扱貨物輸送の拠点となっていた。 摩耶埠頭の中央部に、駅事務所や操車場、貨物ホーム等があった。また、灘区大石南町付近にも操車場(通称、灘浜埠頭信号所)があり、神戸港駅から来る貨物列車はここで一旦機回しをし方向転換を行った後、埠頭中央部の操車場に至る構造になっていた。開業時期が比較的遅く、各突堤までの引込線建設は見送られた。 灘浜埠頭信号所からは、神戸製鋼所神戸製鉄所(灘地区・脇浜地区)への専用線が分岐し、鉄鋼製品輸送などを行っていた。神戸港駅からこの信号所までの3kmほどの路線は元は1960年頃に敷設された同社の専用線であった。国鉄線に編入後も神戸港駅 - 灘浜埠頭信号所 - 当駅間の列車運行業務は日本通運摩耶支店に委託されており、機関車(DD13形)を同支店が国鉄から借り受けて運行していた。 昭和47年に開業したものの、すでにモータリゼーションが進展していたいたことから当初から取扱量は低迷傾向だったことに加え、その後の車扱貨物輸送の斜陽化やコンテナ輸送への移行により、当駅の貨物取扱量は一層減少した。そして開業から14年後の1986年に廃止となった。 摩耶埠頭第四突堤は日本初の外貿コンテナターミナルとして建設されたことから、当駅でも海上コンテナの取扱を行うこととし、貨物ホームにはトランスファークレーンが設置され、第四突堤との間は海上コンテナをトレーラーで継送する形態で輸送が行われた。しかしながら取扱数は伸びず、1978年に国鉄が海上コンテナの取扱を中止したのに伴い当駅でも取扱が中止された。
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駅概要
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/03 02:45 UTC 版)
1914年3月8日近江鉄道多賀線開業と同時に開設。1943年10月太平洋戦争戦局悪化のために不要不急駅として営業休止となった。終戦後も駅は再開予定がたっていたものの、10年後の1953年10月に廃駅となった。多賀線は高宮〜多賀(当時)2.5kmの短い路線で土田駅が廃止されてから中間駅がなかったが、2008年3月15日、高宮〜多賀大社前間にスクリーン駅が開業し、同区間に54年5か月ぶりの中間駅ができた。ただし土田駅とは駅の位置が異なっている(土田駅よりも1.1km高宮駅寄り)。 廃駅後は駅舎・プラットホームともに撤去され、当時の面影は留めていない。跡地は土田西交差点の南西の位置で、線路沿いにある排水溝が駅の跡地を回り込む形で線路脇が広くなっている。現在は踏切の地上設備の設置に使用されている。
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駅概要
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/11 10:17 UTC 版)
車扱貨物の取扱駅。 駅の東側に広がるENEOS(旧・新日本石油精製、開業時は東北石油)仙台製油所の荷役線(専用線)2本と荷役設備があり、当駅から石油類の発送が行われている。現在の発送先は盛岡貨物ターミナル駅(日本オイルターミナル盛岡営業所)と郡山駅(日本オイルターミナル郡山営業所)である。 駅構内の南側にある化学薬品輸送会社の木田仙台港流通センターへ向かう荷役線があり、酒田港駅などから苛性ソーダや塩酸が到着していたが、タンクコンテナへの移行によって2005年頃に廃止された。
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駅概要
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/23 04:20 UTC 版)
向浜駅は、専用線発着コンテナ貨物・専用線発着車扱貨物の取扱駅である。 駅には日本製紙板紙事業本部秋田工場の専用線が接続し、当駅では専用線を介して工場を発着するコンテナを取り扱っている。主な取扱品は、紙製品や工場で使用される化学薬品、燃料用の廃タイヤなど。紙の発送先は関東・東海・近畿地方などの遠方が多い。 かつては工場で使用される化学薬品のタンク車輸送も行われており、酒田港駅や勿来駅から液体塩素や苛性ソーダ、奥野谷浜駅からラテックスが到着していた。 また1980年代ごろまで、駅南方にある新秋木工業秋田工場や秋田プライウッド向浜工場などの製材工場への専用線も存在した。
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駅概要
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/02 00:23 UTC 版)
総武本線貨物支線の貨物駅として1929年(昭和4年)に開業し、付近を流れる小名木川との水陸の物流連絡として機能した。最盛期には5面のコンテナホーム、6本のコンテナ荷役線、4面の有蓋車用貨物ホーム、6本の貨物荷役線を有していた東京都東部の鉄道貨物輸送の拠点であった。 しかし、貨物輸送形態の変化による取り扱い量減少によって2000年(平成12年)に廃止され、業務は隅田川駅に移管された。 総武本線越中島支線の貨車牽引は、古くは新小岩機関区のD51形などの蒸気機関車、末期は佐倉機関区(後の千葉機関区)DD51形などが担当した。また、当駅の貨車入れ換えや越中島貨物駅への貨車牽引は京葉臨海鉄道へ委託していた時期があり、同社の機関車の姿が見られた。 かつては、貨物輸送の他、都営地下鉄大江戸線の12-000形を木場車庫へ搬入する際に当駅まで甲種車両輸送された。また、付近には車両製造メーカー工場として都内唯一の存在であった汽車製造東京製作所に続く専用線があり、現在の川崎重工業へ合併され工場が閉鎖された1972年まで甲種車両輸送列車の始発駅となっていた時期もあった。151系、181系、153系、157系、165系、101系、103系、113系、115系、455系の他0系新幹線、私鉄・地下鉄公共電車・海外向け車両もここから輸送された。 現在は、再開発により構内の線路・施設のほとんどが撤去され、待避線が残されていて越中島貨物駅の構内扱いとなっている。撤去された部分は現在もJR貨物の所有地であり、2010年6月4日に跡地を活用する形で複合商業施設「アリオ北砂」がオープンした。 なお、廃止後も駅東側にある明治通りの交差点名は「小名木川駅前」のまま現在に至っている。
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駅概要
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/11 15:30 UTC 版)
明野川を挟んだ日高本線の向かい側にあった駅。数本の側線が存在した。 1980年頃から日本製紙勇払工場で生産された紙製品が、当駅で有蓋貨車に積み込まれ飯田町駅へ輸送されていた。その後1994年(平成6年)にコンテナによる輸送に置き換わり、発駅も苫小牧駅に変更になり廃止になった。 また、開業時から1997年(平成9年)まで、駅西側にある北海道曹達苫小牧工場に至る専用線があり、化学薬品を扱いタンク車が乗り入れていた。
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駅概要
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/11 15:31 UTC 版)
当駅は路線の開通より1年遅れて開業した。当初は菱北化成苫小牧工場へ至る専用線が分岐しているのみであったが、苫小牧港中央埠頭・勇払埠頭に企業が進出したため徐々に接続する専用線の数は増加した。しかし1980年代になると次々に専用線は廃止されていき、苫小牧ケミカル苫小牧工場へ至るもののみが残った。また1991年(平成3年)に駅西側にトヨタ自動車北海道工場が竣工したが、同工場への専用線敷設計画は実現しなかった。残った苫小牧ケミカル線も濃硫酸の発送に使用されていたが、1994年(平成6年)ごろに使用されなくなり、当駅の貨物取扱は終了した。 当駅は、8本ほどの側線を有していた地上駅であった。駅南側へ向かってホクレン肥料苫小牧工場(旧・菱北化成苫小牧工場)へ至る専用線が分岐し、その線から清水鋼鉄苫小牧製鋼所へ至る専用線が分岐していた。駅西側に向かって日東エフシー苫小牧工場やホクレンくみあい飼料苫小牧工場、北海道飼料苫小牧工場へ至る専用線が分岐し、また苫小牧ケミカル苫小牧工場へ至る専用線は本線に沿ってU字を描き工場へ至っていた。
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駅概要
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/12 14:11 UTC 版)
2面3線のコンテナホーム(ヤード)を有する地上駅。うち1面1線はかつての有蓋車用貨物ホームで上屋付きとなっている。衣浦臨海鉄道の中枢の駅で、機関車や貨車の検修庫(半田埠頭技術区)がある。
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駅概要
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/05 16:05 UTC 版)
1933年(昭和8年)に京成が日暮里 - 上野公園(現京成上野)間の地下線を完成させた際、その入口付近に設けられた。名前の通り寛永寺の近くに存在し、ホームは対向式2面2線だった。 太平洋戦争末期の1945年、運輸省疎開のため日暮里 - 上野公園間のトンネルが接収を受けたことに伴い営業休止。下り線のみ三線軌条に変更した上で、谷中墓地近くの斜面に設けられた連絡線から国鉄の優等客車を搬入し、駅舎を含めて事務所・指令室として使用していたが、換気が非常に悪いことから、あまり利用されていなかったという。また上り線のホームはネジを製造する軍需工場となっていた。 終戦直後は客車の搬出を行うため日暮里 - 上野公園間を上り線のみの単線で運転していた。そのため、同区間と博物館動物園駅の営業再開が同年10月1日であるのに対し、当駅の営業再開は1946年11月1日となっている。 翌年の1947年にかけて営業再開したものの、終戦間もなくの鉄道車両の性能・整備状況及び保線状況では、急勾配上にある当駅からの発着が困難であり、運行上の危険が生じたことによる保安上の観点に加え、利用客も見込めないため、休止、のち廃止になったという。
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駅概要
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/06 13:37 UTC 版)
「高島駅 (神奈川県)」の記事における「駅概要」の解説
地上駅で、3階建の駅舎があった。高島線東横浜駅方面や表高島駅、根岸線から集められた貨車を仕分けするための操車場(高島ヤード)を有し、規模は大きかった。駅構内には機関区である横浜機関区(神奈川臨海鉄道の横浜機関区とは別、旧高島機関区)を併設し、本線北側にコンテナ車・有蓋車用の貨物ホームが2面、荷役線が3本存在した。また、1970年代まで横浜市の鉄道貨物輸送の拠点であり、駅北側の帷子川からの荷揚作業も行われていた。この他、駅南側にあり1983年に閉鎖・移転した三菱重工業横浜造船所へ続く専用線も存在した。駅跡地周辺は「横浜みなとみらい21」という再開発地区となっているが、開発の遅れもあり更地が多い。
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駅概要
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 23:59 UTC 版)
ENEOS新潟事業所(旧・新日本石油加工新潟工場)の西側にあった地上駅。末期は小さな操車場が残るのみとなっていた。 2004年(平成16年)ごろまでは、新日本石油加工新潟工場へ至る専用線が駅から分岐し、当駅には根岸駅より石油類が到着していた。また濃硫酸の到着もあり、当駅でタンク車からタンクローリーへの詰め替えを行っていた。 ENEOS新潟事業所は1999年(平成11年)4月までは新潟製油所を名乗り、石油精製を行っていた。そのため当駅から甲信越地方や東北地方へ向けて石油輸送が行われていたが、石油精製の終了に伴い1998年(平成10年)10月3日のダイヤ改正までに全廃された。また新潟貨物ターミナル駅が開業する1990年(平成2年)までは当駅が新潟県一帯の鉄道貨物輸送の拠点駅として機能し、複数のコンテナホームが置かれていた。
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駅概要
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 01:12 UTC 版)
かつては貨物の扱いがあったが、既に荷役設備はなく、新金線 - 総武快速線を直通する貨物列車の機関車の方向転換や一部貨車の入換作業を行う小さな操車場として機能している。現在の定期列車は、隅田川駅 - 千葉貨物駅間を結ぶものや鹿島臨港線へ直通する貨物列車が、1日上下4本ずつ発着するのみである。この他、越中島貨物駅に隣接する東京レールセンターから発送されるレールを運搬する工事列車(工臨)が新小岩信号場を中継して東日本旅客鉄道(JR東日本)の各地(主に関東地区・信越地区)へ運転されており、主に平日にその姿を見ることが出来る。 なお、金町駅から新金線経由で当駅に到着した電気機関車牽引の貨物列車や工事列車は、越中島貨物駅方面へ向かう場合は非電化区間のためディーゼル機関車へのつなぎ換えが必要であり、千葉貨物駅方面へ向かう場合には機回し作業が必要となる。したがって、当駅発着となる列車は、いずれかの入換作業が発生することになる。 また、構内には東日本旅客鉄道(JR東日本)の所有するバラスト輸送用ホッパ車が留置されており、JR東日本千葉支社管内の工事列車(工臨)で使用される。ホッパ車はバラスト輸送のため水郡線西金駅まで運転されることがある。 操車場の規模縮小に併せて総合事務所が新築され、駅事務所の他、機関区や保全区等の現業機関が入居している。 かつて駅構内はさらに広く、車扱貨物ホームや機関区(新小岩機関区)、そして貨車の検査を行う新小岩車両所などもあった。しかし、貨物ホームは1986年に閉鎖、一時廃車になったDD51がここに集められ解体場となっていた。機関区と車両所は1997年にそれぞれ蘇我駅(千葉機関区)・川崎貨物駅(川崎車両所)へ移転した。また2000年の総武本線から京葉線・武蔵野線経由へ貨物列車の走行経路の変更により、当駅の規模は著しく縮小した。縮小部分については再開発され、私学事業団運動場や集合住宅等に転用されている。
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駅概要
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/08 15:56 UTC 版)
本駅は、北投路の東側、三合街口の南側にある。駅名は現在の地名「奇岩」から名づけられた。この奇岩という名前は、軍艦岩を取り囲む石の概観が驚くべき(奇)形であったことに由来する。 北投行きと淡水行きの列車は両方とも1番線に入る。北投行きの列車が1番線に入る際に、淡水へ向かう乗客には同じ1番線で乗り換えるようアナウンスが入る。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/11/03 14:36 UTC 版)
1891年9月1日、宇都宮駅と長久保駅間に開業した。しかし当時、宇都宮駅~矢板駅間は鬼怒川の氾濫で不通になることが多かったため、日本鉄道本線南区は1897年2月25日に宇都宮駅~現在の蒲須坂駅付近のルート変更を行なった(現在の東北本線のルート)。それにより、1897年2月24日までの運行をもって廃止になった。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/23 04:18 UTC 版)
本線と側線1本のみで貨物ホームなどはなく、貨物の到着・発送はできない。ただし、国土交通省が実施した「環日本海シーアンドレール構想」の実証実験においては、当駅近くに大浜コンテナヤードがあることから、仮設積替ヤードを設置し、海上コンテナの取扱を行った。 かつては、日本石油(現:ENEOS)・日本セメント(現:太平洋セメント)・秋田海陸運送が専用線を使用していた。専用線の線路はいずれも撤去されている。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/11/03 14:37 UTC 版)
1886年(明治19年)10月1日、日本鉄道の宇都宮駅 - 那須駅(現・西那須野駅)が開業。その1ヵ月後の同年11月1日に宇都宮駅と矢板駅間に開業した。 当時の駅年間営業実績は旅客31,850人、貨物6,612トン、運賃収入17,976円であった。 宇都宮駅 - 矢板駅間は夏季の鬼怒川の大水により護岸工事や橋脚の改修工事などに多額の費用を費やしていた。このため日本鉄道本線南区(大日本帝国陸地測量部明治25年測図には『東北鉄道』とある)は1897年(明治30年)2月25日に宇都宮駅 - 現在の蒲須坂駅の北側約700付近間のルート変更を行なった(現在の東北本線のルート)。それにより、1897年(明治30年)2月24日までの運行をもって廃止になった。
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駅概要
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/16 09:58 UTC 版)
太平洋セメント熊谷工場の東側に位置する地上駅で、同工場の専用線が接続している。 石灰石が影森駅(三輪鉱山採掘)や武州原谷駅(叶山鉱山採掘)から当駅へ輸送されていたほか、工場燃料用石炭(コークス)が扇町駅より当駅へ輸送されていた。 2020年9月30日を以て当駅 - 熊谷貨物ターミナル間の貨物輸送が終了するため、同区間は廃止され、当駅が三ヶ尻線の終着駅となる予定。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/19 07:48 UTC 版)
「末広町駅 (神奈川県)」の記事における「駅概要」の解説
コンテナ貨物・車扱貨物の取り扱い駅。 コンテナホームがあり、梶ヶ谷貨物ターミナル駅発の生活廃棄物輸送列車「クリーンかわさき号」が到着する。ここから最終処分場まではトラックで輸送される。 東芝浜川崎工場の専用線があり、希に特大貨物列車が運行されることがある。 ENEOS川崎製油所の専用線(2003年までキグナス石油精製が保有)があり、関東各地へ向けて石油貨物列車が運行される。 かつては、日本冶金工業川崎工場、花王川崎工場までの専用線があった。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/15 06:45 UTC 版)
新潟港西港区にある地上駅。 現在は操車場が残されているのみである。かつては、昭和シェル石油新潟製油所や駅東南にあった新潟鐵工所大山工場へ続く専用線があり、石油製品の発送や工場で製造された車両の搬出に使用されていたが、昭和シェル石油新潟製油所の閉鎖及び新潟鐵工所大山工場の新潟東港地区への移転(新潟構機工場・現在の新潟トランシス新潟事業所)に伴い1998年11月18日の発送をもって廃止された。当駅もその日以降、貨物列車の発着は無くなっている。焼島 - 当駅間に存在した、国道113号線とクロスする踏切は、遮断棒や警報機設備が撤去され、軌道もアスファルトで埋められて事実上の廃止状態となっている。 1980年代までは昭和シェル石油新潟製油所専用線や新潟鐵工所専用線のほか、新潟港臨港埠頭に張り巡らされていたリンコーコーポレーション専用線や食糧庁倉庫(新潟食糧事務所)専用線、新潟鐵工所専用線から分岐していたフジタ建材リース新潟工場専用線などが存在した。 なお、撤去された線路のうち、新潟港臨港埠頭地区の敷地はのちに新潟みなとトンネルの山の下側出入り口部分の道路として活用されている。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/20 01:51 UTC 版)
車扱貨物の取扱駅である。 取扱品は東日本旅客鉄道(JR東日本)向けのレールである。仙台港で陸揚げされたレールは、当駅でラフテレーンクレーンを使用し長物車に積み込まれる。 駅の周辺には倉庫街が広がっており、かつては有蓋車による貨物輸送が行われていた。また1983年の専用線一覧表によれば、当駅には宮城県共同倉庫の専用線が接続していた。なお、周辺にはセメント出荷基地が多くあるが、これらからの輸送は行われていない。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/18 02:50 UTC 版)
車扱貨物の取扱駅となっている。 富士石油袖ヶ浦製油所への専用線が敷設され、線路上に石油荷役設備が設置されている。石油製品の発送先は倉賀野駅・郡山駅・宇都宮貨物ターミナル駅・八王子駅。 2000年ごろまでは、ジャパンエナジー袖ヶ浦潤滑油工場(現・JXTGエネルギー袖ヶ浦事業所)への専用線もあり、機械油などの発送も行われていた。
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駅概要
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/08/19 23:08 UTC 版)
かつては列車交換可能な島式ホーム1面2線であったが、1974年(昭和49年)10月に交換設備が撤去されている。 2009年(平成21年)までは駅舎が保線区作業者の休憩所として使われていた。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/02/22 07:29 UTC 版)
釧路西港の開発に伴い、釧路東港の北埠頭駅付近にあった石油施設が駅周辺に移転、石油を輸送するために開設された。 ジャパンエナジー、日本石油、三菱石油、コスモ石油、出光興産の油槽所があり、航路で輸送されてきた石油を当駅より内陸の油槽所に発送していた。最盛期には1日タンク車100両以上を発送していた。しかし内陸の油槽所の閉鎖や1981年に国鉄石勝線が全通した影響で道央地区にある製油所から直接油槽所へ輸送する方式に改まったため輸送量が減少した(日本石油は室蘭市、出光興産は苫小牧市に製油所がある)。 その後も輸送量は減少し続け、最後まで残っていたジャパンエナジーの帯広駅(現在の帯広貨物駅)への輸送も1999年6月に廃止になり、貨物列車は全廃された。
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駅概要
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/18 04:59 UTC 版)
「北埠頭駅 (北海道)」の記事における「駅概要」の解説
1950年(昭和25年)に整備された釧路港北埠頭で船舶へ石炭を積み込むために1952年(昭和27年)に雄別炭礦鉄道(後の雄別鉄道)が開設した。構内に貯炭所が設けられ、雄別炭鉱などから石炭を満載した貨物列車が到着していた。その後にセメント、肥料なども取り扱われるようになった。 1970年(昭和45年)に、炭鉱の閉鎖に伴い石炭輸送は廃止されたが、釧路港と日本国有鉄道を結ぶ貨物輸送の重要路線であったため釧路開発埠頭に継承された。しかし、1980年代になると輸送量が減少、1984年(昭和59年)2月1日の国鉄ダイヤ改正に合わせ、同日に廃止された。 末期には、現在の宇部三菱セメント釧路サービスステーション、太平洋セメント釧路サービスステーション(移転して閉鎖)のセメント輸送や、北埠頭にある倉庫群への有蓋貨車での輸送等を行っていた。また1977年(昭和52年)頃まで油槽所があり石油輸送もあったが、油槽所が西港駅へ移転したことで終了した。 また、東隣の中央埠頭には国鉄浜釧路駅があった。当駅ではコンテナの扱いはなかったが、浜釧路駅では主にコンテナを扱っていた。
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駅概要
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/12 01:00 UTC 版)
「ノッティング・ヒル・ゲート駅」の記事における「駅概要」の解説
サークル線とディストリクト線は線路を共有しており、同じホームに発着する。セントラル線は別のホームに発着する。
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駅概要
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/16 23:58 UTC 版)
当駅は石牌路の南側、東華街、西安街に挟まれた場所に位置する。駅名は、地名とかつて存在していた駅名「石牌」から名づけられた。この「石牌」とは、当時存在していた清朝統治時代の漢民族と原住民の集落の境界線の基準として置かれていた石碑のことを指す。この石碑は現在も当駅の出入り口前広場に保存されている。 台湾語では、古代からの名前である「石牌仔」をそのまま踏襲して発音する。また、台北栄民総医院と国立陽明大学が近くにあることから、本駅は「石碑駅(栄総/陽明大学)」と表示されることがあった。現在も石碑(せきひ)などと表示されることがある。これは「公館駅(台湾大学)」と同じ表記方法である。
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駅概要
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/08 08:55 UTC 版)
車扱貨物の取扱駅となっている。地上駅で、富士電機千葉工場への専用線があり、まれに特大貨物輸送列車が運転される。 かつては、周辺のDIC千葉工場や三井造船千葉事業所、古河電気工業千葉事業所、王子コーンスターチ千葉工場、日本配合飼料千葉工場(1988年閉鎖)、不二サッシ千葉工場への専用線も存在した。
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駅概要
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/08 08:56 UTC 版)
車扱貨物の取扱駅であるが、貨車の発着はなく、貨物列車の交換作業のみ行われている。 1990年代まで三井化学市原工場への専用線があり、大竹駅から到着するイソヘキセンや、秋田港駅へ発送する接着剤、三島駅へ発送するエチレングリコールなどの化学薬品を取り扱っていた。 また、JSR千葉工場や出光興産千葉製油所への専用線も存在した。
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駅概要
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/05 15:42 UTC 版)
「一本松駅 (北海道苫小牧市)」の記事における「駅概要」の解説
開業時から廃止される1980年代まで車扱貨物の取扱駅になっており、苫小牧港通の高架橋の東側あたりから分岐、南側の港にある日之出化学工業苫小牧工場(現・北海道発送センター)に至る専用線があり、有蓋貨車が乗り入れていたほか、一本松専用幹線や芽室農協支線の所管駅とされていた。 運賃を精算するための駅であっていわゆる駅舎や荷役設備というものは無く、また、新苫小牧駅の操車場が近いために他の4駅にはあった留置や仕分用の側線も一切持たず、外から見ると駅というより信号場に近い配置である。同様に駅舎や荷役設備を持たない駅としては、浜五井駅や椎津駅がある。
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駅概要
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/05 05:40 UTC 版)
日本国有鉄道及び日本貨物鉄道の苫小牧操車場(後に貨物駅として整備されて苫小牧駅貨物ホーム)から約1km東(沼ノ端駅)側にあり、同操車場間、及び操車場南東側に設けられた苫小牧市営公共臨港線石炭埠頭線の操車場(中野駅)間にそれぞれ連絡線が敷かれて接続していた。 構内西端港湾側に駅舎、東側に操車場を有していた。
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駅概要
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/04 16:42 UTC 版)
2面2線の有蓋車用の上屋付貨物ホームと、貨物列車組成のための操車場から構成されていた。 当時、日本全国に27駅存在した本社指定組成駅の一つであり、常磐線の長距離・短距離貨物列車や磐越東線の貨物列車の組成を行っていた。
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駅概要
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/09 06:58 UTC 版)
専用線発着の車扱貨物の取扱駅である。 本線と5本ほどの側線、1面1線の有蓋車用貨物ホームを有する地上駅。ただし有蓋車用ホームは既に使用されていない。貨物ホームの北側にサイロが3基あり、貨車用の荷役設備も存在する。それを使用し、後述の貨物輸送が行われている。
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駅概要
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/09 15:31 UTC 版)
かつては、日本鋼管京浜製鉄所(現:JFEスチール東日本製鉄所京浜地区)、東亜石油京浜製油所、日立造船神奈川工場(2009年3月閉鎖)、東洋ガラス川崎工場(1955年新設、2013年閉鎖)への専用線があった。 晩年は車扱貨物の取扱駅であったが、定期列車の設定はなかった。 駅所在地の横の歩道には、川崎鶴見臨港バスの「日立造船入口」停留所が設置されている(塩浜営業所が運行)。
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駅概要
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/09 15:14 UTC 版)
2005年1月末の貨物列車運行休止までは、コンテナホームが1面と荷役線が1本、側線があった。また駅の北側に向かって日立金属九州工場への専用線が伸び、この専用線にもコンテナ車が入線していた。 1980年代までは、ホーム北側に南北2.5kmほどのヤード、20本ほどの営業仕分け線を持つ小規模な操車場があり、ここから九州電力苅田発電所や麻生セメント苅田工場、宇部興産苅田セメント工場、太平洋セメント(旧・日本セメント)苅田サービスステーション(既に閉鎖)など5社の専用線や、苅田港の石炭埠頭へ向かう桟橋線2本(内1本が国鉄、もう1本は福岡県営)や公共臨港線4本(すべて福岡県営)が分岐していた。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/26 05:26 UTC 版)
高砂線と野口線の接続駅だったが、両線とも列車本数が少なく、付近を走る国鉄山陽本線や山陽電気鉄道本線がこの地域の旅客輸送の大半を担っていたこともあり、市街にあり、加古川市役所からは一番近い鉄道駅だったにも関わらず、日中は乗客は多く見られなかった。 駅舎のない無人駅で、島式ホーム1面2線の配線となっており、西側のホームを高砂線が、東側のホームを野口線が使用していた。ホームの北端には一応改札用の柵も設けてあったが、ほとんど利用されていなかった。野口線には客車列車時代の名残で、機回し線が残存していた。 その姿から、「日本一寂しい国鉄・私鉄の接続駅」と呼ばれることもあったとされる。 野口五郎がアイドルとして人気絶頂だった1970年代には、「幸福駅」に始まる「縁起駅名」ブームの中で、愛媛県の五郎駅とあわせて紹介されることがあった。ただし、そのころすでに当駅は無人駅で、入場券や「野口から五郎行き」の乗車券を買ったりすることはできなかった。
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駅概要
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/30 14:53 UTC 版)
鶴見と桜木町を結ぶ貨物線である高島線の中間にある駅で、当駅より鶴見方は複線、桜木町方は単線となっている。さらに桜木町駅より先は高密度運転路線の根岸線へと接続しているため、通常運転停車のできない桜木町駅に代わって一部の貨物列車が当駅で運転停車や上下交換を行う。当駅は2005年(平成17年)度を最後に貨物の発着実績がなく、信号場としてのみ機能している。 かつての瑞穂駅への貨物支線を転用した在日米軍基地「横浜ノース・ドック」専用線が、駅の東側の旧千若信号場(当駅構内扱い)から分岐しており、かつて燃料輸送に使用されていた。その専用線から横浜倉庫の埠頭への路線も分岐しており、同社のウェブページで紹介されているが、これも既に使用されていない。 同じく旧千若信号場から日本製粉横浜工場への専用線が存在し、ホキ2200形を使用した小麦の発送が行われていた。なお同工場は、ホッパコンテナを使用して近隣貨物駅へトラックで輸送するかたちで、小麦粉の鉄道輸送を現在でも行っている。 1982年(昭和57年)まで、横浜市中央卸売市場本場内にあった横浜市場駅への貨物支線が分岐していた。またそれとは別に、より駅に近い市場青果棟へ向かう専用線も存在した。1959年(昭和34年)までは、東神奈川駅へ向かう貨物支線も分岐しており、廃線跡の運河にかかる鉄橋が駅近くに残っている。かつては当駅常備の貨車も多く存在した。 駅構内(踏切から撮影) かつて東神奈川から分岐していた線路跡
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/17 06:04 UTC 版)
名前の通り、清水港に隣接した臨海駅であった。駅東側の、豊年製油静岡工場(現・J-オイルミルズ静岡事業所)への専用線があり、有蓋車による貨物輸送を行っていた。また、貨車と船の間で直接材木の積み下ろしができる「テルファークレーン(テルハ)」があり、この駅のシンボル的な存在となっていた。 開業以来貨物駅であったが、本線の海側に1面のホームがあった。
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駅概要
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/29 14:23 UTC 版)
当駅周辺で赤穂線のルート変更がなされている(旧ルートは現ルートよりも南側だった)。その頃の航空写真から、当駅の開業と同時にルート変更が行われたと思われる。なお、現在の航空写真から、旧ルートの名残は全くない。 本線北側には構内側線が広がっていたが、2007年(平成19年)を皮切りにその多くが撤去され、現在は本線と副本線各1線のみが残存している。残りの線路は本線とは接続されておらず、副本線には両方向に出発信号機があるものの、貨物列車が旅客列車を待避する場合のみ使用されるため、線路は錆び付いている。また、非電化であるうえ枕木と枕木の間に木が生えている箇所もあり、使用する場合は線路の整備が必要となる。 駅西側の天和駅付近からは三菱電機の工場へと延びる専用線が分岐しており、工場で製造された変圧器を輸送する際に大物車を使用した特大貨物輸送列車が不定期に運行される。 かつては駅北側の住友大阪セメント赤穂工場への専用線も存在したが、1995年(平成7年)3月30日に廃止されている。
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駅概要
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/27 14:32 UTC 版)
1面1線の単式ホームと線路を有していた地上駅。無人駅で、無人化された後に待合室は開放型の簡易な物に建て替えられた。それまでは、同線の途中駅では唯一、1970年代後半まで木造の駅舎が残っていた。入り口には改札用の柵が残されていて、使用済の乗車券の投入箱が架けられていた。 駅のすぐ横には山陽電気鉄道が築堤上を走っており、駅の西約200mの位置に山陽電気鉄道尾上の松駅があり、乗り換えが可能であった。 また当駅から神戸製鋼所加古川事業所まで専用線を2路線敷設する計画もあったが、実現しなかった。その軌道敷地が一部道路となり残存する。 駅廃止後もかつてのホームの跡がしばらくの間残っていたが、現在は撤去されている。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/03 14:52 UTC 版)
戦中、現在の阪神競馬場にあたる場所に存在した川西航空機宝塚製作所への通勤客輸送を図るべく、小林駅 - 仁川駅間に開設された駅である。場所は金龍寺の裏手に当たる地点で、相対式ホームが設置されていたとされる。 営業時間は通勤時間帯の朝夕に限られていたが、軍需輸送の絡みで利用客数は多く、最大時は一日に4万人の利用があったとされる。 終戦直前の1945年7月24日には工場周辺が大規模な空襲を受け、そして8月15日の終戦により役目を完全に終えたため、その年の9月21日に廃駅とされた。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/04 00:25 UTC 版)
阪神本線は1905年、出入橋 - 雲井通間で営業を開始した。その後大阪側では梅田への延伸を翌年に実施するが、神戸側でもさらなる乗客増を目指して延伸を図ることとなり、京町、海岸通、メリケン波止場、元町を経て三宮町に戻る循環線の建設を申請した。申請は神戸電気鉄道(後の神戸市電)をはじめ市内への参入を企図する複数の事業者と競合することとなり、結局阪神は雲井通から改めた三宮から南へ200m、現在の国際会館がある場所へ線路を延伸し、神戸電気鉄道の滝道停留場と接続を図る事になった。1910年2月には神戸電気鉄道と線路連絡設備契約を結び、翌年の1911年には共同で用地の買収を開始、それを受けて路線の延長の工事も着手された。こうして阪神は翌1912年に滝道への延伸を果たした。駅は3面2線の櫛形ホームで開業し、別称として当初は加納町駅と呼ばれていたが、後には神戸駅とよばれるようになった。なお正式名称の滝道駅は、現在のフラワーロードが、名勝布引の滝の方向へまっすぐ伸びている道であることにより「滝道」と呼ばれていたことに由来する。 神戸電気鉄道の滝道停留場は阪神に先駆けて1910年4月5日に開業。後の神戸市電阪神三宮停留場より若干南にあった。その後1912年12月28日には滝道より北へ熊内一丁目へ路線を延伸し(布引線、後の神戸市電栄町線)、その際阪神電車のホームに隣接して停留場を開設したため、駅は3面3線となった。 大正中期になると、阪神本線のみならず、神戸電気滝道停留場にも鉄骨屋根がかけられた。これにより雨天時でも、市電と阪神電車の間を傘なしで乗り継げるようになった。また電飾も施され、夜には「大阪行 のりば 阪神電車」の表示が輝いた。 1933年、当時市内を通過する鉄道は地下化するという方針を取っていた神戸市の要求を受け入れる形で、阪神は国道の拡幅に際して岩屋以西に残っていた本線の併用軌道を地下化で解消することになった。それに伴い同線の神戸側ターミナル駅は地下に設けられた2代目の神戸駅(現在の神戸三宮駅)へ移行することになり、この滝道駅は使命を終えた。 滝道停留場は阪神の駅廃止後も存続し、神戸電気が神戸市に買収されると神戸市電の停留場となった。1933年1月1日には当停留場から税関前まで臨港線(のちの税関線)が開業、滝道停留場からは四方向に線路が延びることになった。しかし、阪神電車との連絡を果たさなくなったことに加えて、市電東部国道線が開通し、滝道駅を起点とし東部国道線に平行している市電磯上線が休止されたことで存在意義が薄れ、磯上線の正式廃止と前後して停留場としては廃止となっている。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/04 00:35 UTC 版)
山陽電気鉄道の前身である兵庫電気軌道が兵庫駅 - 須磨駅間で営業を開始した際、同線の起点駅として設けられた。このときの名前は単に兵庫であった。兵庫電気軌道では市街地への乗り入れを画策していたが、神戸市街で路面電車の運営を画策していた神戸電気鉄道(後の神戸市電)と競合するためやむなく断念し、この地に起点を置いたものである。 開業時は線路1本の単純な折り返し駅であったが、開業20日目には神戸電気鉄道が隣接して兵庫駅前までの開業を果たし、兵庫電気軌道沿線から市街への連絡を果たすようになっている。 その後、兵庫電気軌道が神戸姫路電気鉄道とともに買収され、宇治川電気電鉄部の運営となると、車両規格や電圧の差を乗り越えて姫路への直通運転を実施することになり、それに備えて直通車用に線路を増設、3線を持つ頭端式ホームの駅となった。 戦中には国鉄との連絡駅名を全て「電鉄〜」と変える方針により電鉄兵庫駅と改称され、更に発着線が1本削減されて2線となるものの、戦後に神戸市の都市計画を受けて北側へ移転するとともに拡幅、旅客4線・貨物1線というターミナルとして相応しい駅へ変貌した。 なお、兵庫電気軌道という路面電車(軌道法準拠)扱いで開業した名残で、兵庫駅を出ると長田駅まで1.5kmの区間は廃止時まで併用軌道となっていた。そのため出発信号機は普通の三灯式であったものの、場内信号機は路面電車と同じ赤の×と黄の↑で進行の可否を示し、それに進入番線を行灯で示すものとなっていた。 1968年の神戸高速鉄道開業により、山陽電気鉄道本線の電鉄兵庫・西代間は廃止されることになったため、このとき電鉄兵庫駅も廃駅となった。実質的な代替は、少し離れた場所に設けられた阪神神戸高速線(神戸高速鉄道東西線)の大開駅が担っている。 なお、駅の跡地はツインタワーの公団住宅から成る高層棟と、勤労市民センター及び関西スーパー等が入居する低層棟とで構成された兵庫駅前ビルとなっている。
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宇部港に面する、宇部興産の最重要拠点工場が付近にあり、当駅で取り扱う貨物も宇部興産向けの石灰石や石炭等が大半であった。工場へ多くの専用線が伸びていた。なお、当駅は工場の東半分へ続く専用線が分岐し、残りの西半分への専用線は隣駅の居能駅から分岐していた。 その他に貯炭所が設けられていた宇部港石炭埠頭へ続く専用線もあり、石炭の出荷に使用されていた。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/05 01:49 UTC 版)
本線北側に数本の仕分線が敷設され、その北側に位置する1棟の上屋付貨物ホームに、2本の荷役線が引き込まれていた。 車扱貨物のみを取り扱い、コンテナ貨物は取り扱っていなかった。 地上駅で、2階建ての駅舎があった。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 13:45 UTC 版)
地上駅で、臨時の車扱貨物の取扱駅であり、神栖駅と奥野谷浜駅を結ぶ貨物列車が運転停車を行った。 かつては、駅周辺に工場がある旭硝子(現・AGC)や鹿島ケミカル、旭電化工業(現・ADEKA)、クラレ、鐘淵化学工業(現・カネカ)の専用線がそれぞれ駅から分岐していたが、これらはすべて廃止されている。このうち旭硝子専用線が最後まで使用され、液化塩素の発送があった。 かつての旅客営業運行では、鹿島港南駅が閉塞の境となっていなかったことから、車庫のある神栖駅からここまで旅客車両を出庫回送した上で折り返していた。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/06 18:54 UTC 版)
相対式ホーム2面2線の高架駅。直営駅(早朝・夜間は無人)であり、駅舎がある。夜間は列車交換を行っている。 駐輪場は高架化に先駆けて2012年7月より高架下に仮設のものが設置されているが、最終的には駅西側に設置される予定。 新浜松駅〜八幡駅の高架化以前(遠州助信駅時代)は交差点を挟んで南向かい(新津町)に設置されていた。 また、地上駅時代には遠州鉄道では最後となった反転フラップ式案内表示機を設置していたが、2005年度より始まった「遠州鉄道鉄道線高架化事業」完成後に消滅した。なお、同事業完成前には島式ホーム1面2線だった。 高架化に先駆け、2012年2月より仮駅舎に移転していたほか、駅東側に存在した立体駐輪場(収容354台)も2012年7月より仮駐輪場に移転している。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/21 07:10 UTC 版)
日本通運、秋田鉄鋼埠頭、太平プロパンの各社の短い専用線が接続していたが、廃止され、現在[いつ?]は何も残っていない。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/18 01:26 UTC 版)
尾張北部から笠寺観音への街道(笠寺道)と交差する地点に設置されたことからこの名が付いた。 相対式2面2線のホームであった。ただし、ホームは踏み切りを挟んで、上りホームが東側にあり、下りホームが西側にあった。駅舎は、木造平屋建の駅舎が上り線側にあるだけであった。 休止から60年以上も旧駅舎は残されていたが、2012年に解体された。旧ホームは依然として線路脇に残っているが、現在矢田駅付近から小幡駅まで、立体交差事業の構想があり、近く旧ホームも撤去される可能性がある。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/13 00:48 UTC 版)
北千住駅から続く複々線区間は当駅までとなっており、西新井駅 - 竹ノ塚駅間から続く高架区間も当駅で終わる。日比谷線と相互直通運転が開始された当初は直通列車の運行区間が当駅までであった。のちに北春日部駅・東武動物公園駅・日光線南栗橋駅まで延長されたが、現行ダイヤでも当駅が始発・終点となる列車は朝夕を中心に多く設定されている。 2013年3月15日までは昼間時の日比谷線直通列車の半分が当駅止まりで、後続の区間準急がこれに接続するダイヤになっていた。翌16日より直通運転区間が南栗橋駅まで延長され、昼間時は1時間に6本(東武動物公園発着が4本と南栗橋発着が2本)に変更されたため当駅発着が廃止された。これに伴い、昼間時の北千住・浅草方面の電車が減少した。
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駅概要
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/07 06:18 UTC 版)
名鉄築港線と名古屋臨海鉄道東築線との交点はほぼ90度の平面交差(ダイヤモンドクロッシング)の箇所があるが、当駅の敷地はこの箇所を含めた北側一帯である。駅構内の線路の終点はこの平面交差から北へ約500m付近まで延びている。 当駅の敷地へは、築港線からは直接入れない(平面交差のため)。当駅の終点部から東名古屋港駅へ向かう引込線があり、大江駅方面からの車輌は一旦東名古屋港駅へ向かい、スイッチバックで引込線に入ることとなる。 敷地内の線路は築港線の線路を除いて電化されておらず、電車を留置することはできない。 数本の引込み線がある他、目立つ駅舎はない。1984年(昭和59年)に名古屋鉄道築港線は貨物営業を廃止しており、貨物駅であるが定期貨物列車の設定はない。しかし、名古屋臨海鉄道東築線から東港線を経由し、JR東海道本線 笠寺駅へ接続されていることから、車両・資材の搬入や廃棄車両の搬出、車両の輸出などの車扱貨物の中継駅として重要な駅である。 東築線の駅構内 名鉄築港線(右)と名電築港駅からの引込線(左)
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駅概要
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/22 09:48 UTC 版)
駅名が示す通り、この貨物線は一番距離の短い所ではナゴヤ球場から徒歩1分の所を通っていたため、JR東海では新幹線の高架脇で、同線と球場前の道が交差する現在踏切となっている所から南側にかけて、長さ135 mの6両編成が停車可能なプラットホームを設置した。名鉄のナゴヤ球場前駅から球場へは徒歩で10分程度を要していたため、利便性ではこちらが上であった。 なお、名古屋港線は東海道本線の支線という扱いではあるが、名古屋港線の分岐点である山王信号場が中央本線上にあるという性格上、当駅行きの列車は中央本線を通らなければならなかったため、名古屋駅から当駅行きの臨時列車の標示は中央本線の発車標上に表示されていた[要出典]。 臨時駅ということもあって、ホームは新幹線高架に接する側に片面のみ、鉄骨で組んだという簡素なものであった。行きは名鉄で来たが、帰りはJRに切り替えるような旅客への対応策としてきっぷ売り場も設置されていたが、期間限定の臨時営業であるためレンタルのニッケンから借りたプレハブ窓口で手売りしていた。 主要駅から当駅までの通し運賃は開業時、名古屋駅からが140円、岡崎駅からが700円、勝川駅、尾張一宮駅からが300円、岐阜駅からが540円、桑名駅からが460円であった。 この運賃は1989年(平成元年)4月1日の消費税添加により改定されている。なお、当時は名古屋駅から140円で行ける(すなわち3 km以内の)常設駅は存在しなかったため、名古屋駅の券売機はナゴヤ球場正門前駅用のボタンを有し、営業日のみボタンに付けられた蓋を外すという運用が行われた。 JRの特定都区市内制度の「名古屋市内」駅としての取り扱いは名古屋港線が貨物会社線という事や、あくまでも期間限定の臨時駅および路線であることから行われていなかった。
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駅概要
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/30 00:31 UTC 版)
京阪が沿線の運動施設として建設した「京阪グラウンド」への最寄駅として1922年(大正11年)3月に寝屋川駅(現・寝屋川市駅)と香里駅(現・香里園駅)の間、当時の大阪府北河内郡豊野村に「運動場前駅」という名称の臨時駅として設置したのが最初である。同年11月に常設駅となった。 1942年(昭和17年)に京阪グラウンドが利用率の低下で閉鎖され、跡地は宅地となった(現在の豊野団地)ことから1943年(昭和18年)に駅名も地名から付けられた「豊野駅」と変更された。 駅構造は島式ホーム2面4線。待避線も設置され、本駅折り返しの大阪方面列車も設定されていた。規模は寝屋川市駅より大きく、利用者も同駅より多かったという。 1963年(昭和38年)、京阪本線が淀屋橋延長直後に寝屋川市駅がそれまでの位置から京都寄りに移設された際、本駅と機能を統合する形で廃止され、待避線は香里園駅に設置された。駅跡付近は寝屋川市駅方向からの高架部の終了部分であり、現在は上り線の線路脇に撤去されたホームの敷地が一部わかる程度となっている。
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駅概要
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/30 20:42 UTC 版)
専用線発着コンテナ貨物・専用線発着車扱貨物の取扱駅となっている。 地上駅で、三菱ケミカル鹿島事業所、ENEOSマテリアル鹿島工場(旧・JSR鹿島工場)への専用線が分岐している。神栖 - 奥野谷浜間には、平日午前不定期にJSR向けのコンテナ列車が運行されている。 かつては信越化学工業鹿島工場、鹿島石油鹿島製油所、武田薬品工業鹿島工場への専用線もあった。武田薬品工業専用線では、速星駅からタンク車で濃硝酸が輸送されていたが2008年3月限りで廃止された。信越化学工業専用線ではポリ塩化ビニルを、鹿島石油専用線では石油などを取り扱っていた。三菱化学専用線には液化酸化エチレンの荷役設備が設置され、塩浜駅へ液化酸化エチレンが発送されていたが2011年3月限りで廃止された。(東日本大震災により3月11日発送をもって事実上終了)
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駅概要
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/23 17:25 UTC 版)
貨物駅であったが当駅で取り扱う貨物は存在せず、閉塞区間の境界となる信号場としてのみ機能し、日本国内でも希少な通過中のタブレット授受が行われていた。また当駅と小坂駅との間は急勾配があり、上り列車に連結される補助機関車を解放する駅にもなっていた。そのほか、日本で最後まで腕木式の通過信号機が現役で使われていた。 かつては旅客営業も行っており、その名残で島式ホーム1面2線と単式ホーム1面1線が残っていた。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/19 02:19 UTC 版)
専用線コンテナ貨物・専用線発着車扱貨物の取扱駅である。 駅の北側にある三菱製紙八戸工場へ至る専用線があり、当駅からコンテナによる紙製品の輸送が新座貨物ターミナル駅や百済貨物ターミナル駅へ向けて行われている。かつては紙製品輸送は有蓋車を用いていたが、2003年3月の金町駅行き輸送廃止をもってコンテナへの置き換えが完了した。また、まれに酒田港駅からタンク車で液体塩素が到着している。 1995年頃までは八戸製錬八戸製錬所への専用線があり化学薬品の取り扱いを、1980年代まで鉄鋼会社の専用線があり有蓋貨車を使用した輸送を行っていた。
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