地上駅時代とは? わかりやすく解説

地上駅時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/06 19:49 UTC 版)

東北沢駅」の記事における「地上駅時代」の解説

2006年平成18年11月24日までは、相対式ホーム2面4線(うち2線はホーム面せず)を有する地上駅であった上りホーム駅舎北口改札があり、2面ホーム跨線橋結ばれ跨線橋上に南口改札があった。駅舎佇まい比較長い時間通過待ち停車する各駅停車光景郊外下町の駅を彷彿させた。また、かつては貨物駅新宿方(渋谷区内)にあり、代々木上原から当駅までの高架複々線化まではその痕跡があった。高架複々線化後は当駅の小田原寄り急行線緩行線合流し複線になっていた。当駅構内は2線が本線格で急行線外側2線が側線格で緩行線となり、急行線ホームがない構造だった。通過線は、ホーム設置がない通過専用線として1927年昭和2年)に開業した時から存在していた。 小田急電鉄では、1989年平成元年)より代々木上原駅 - 梅ヶ丘駅の間で連続立体交差化地下化)・複々線化工事着手した。その過程用地捻出のために複々線内側2線を撤去するとともに内側線跡に上り仮設ホーム仮設橋上駅舎建設し2006年11月25日上り線移設された。仮設駅舎にはエレベーター出入口コンコース間に2基、コンコースホーム間に2基、計4基設置された。これにより従来北口改札橋上移された。同時に南口改札臨時改札口として使用開始した工事の進捗に伴い暫定複線化された2008年平成20年3月29日には単式ホーム2面2線、2009年平成21年4月25日から地下化までは島式ホーム1面2線と、形態変化したこの間に旧上りホーム旧駅舎の撤去行い跡地上りトンネルと駅を建設した上りトンネルと駅の完成により、上り線路を地下切り替え地上下りホーム線路移設下りホーム撤去し跡地下りトンネル地下ホーム建設した2013年平成25年3月23日地下化に伴い東京都道420号鮫洲大山線に跨る地上踏切除却された。 北口旧駅地下複々線化工事に伴い開設され臨時口。写真右上見え小屋は旧南口駅舎2006年12月21日)。 北口仮設駅舎(2006年12月21日上り線ホーム建設中2006年9月23日通過線が撤去され工事中東北沢駅2005年10月

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地上駅時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/25 13:55 UTC 版)

川西能勢口駅」の記事における「地上駅時代」の解説

高架化以前は、阪急の駅と能勢電鉄の駅は並列していたものの、改札それぞれ分離されていた。両駅に跨がるホーム上には、1980年ラッシュ時改札口混雑緩和対策として連絡改札設置された。この連絡改札は、阪急下り線高架化された段階廃止され阪急能勢電の間で改札経ず乗り換えることが可能になった。 阪急電鉄 有効長8両編成分の相対式ホーム有していた。10両編成での運転が開始されてからは、大阪側の2両がドアカットされ、該当するドア位置にあたる軌道脇に、車内から見えるようにドア開かない旨を知らせ看板立てられていた。 東西改札があり、東側地下に、西側上りホーム先端改札があった。西側改札から入って下りホームへ行く場合には、改札にあった地下道東改札口地下道とは別)を通るようになっていた。東側地下改札は、庄内駅地下改札酷似している。ただし、売店庄内駅とは異なり地下にあった東改札から階段上がった宝塚行きホーム左側と、当時あったジャスコはす向かいとの間に、改札内両方から利用できた「阪急そば」が営業していた。 能勢電鉄 開業時阪急の駅に対しほぼ垂直にホーム設置されていたが、池田駅前(後の川西国前駅)まで路線延長された際に、阪急の駅に対して平行なレイアウトとなった長らくホーム1面1線に側線1本という構造だったが、妙見線複線化に伴い駅の改良が行われ、有効長4両編成610系以前については5両)のホーム2面2線となった阪急ホームに近い南側から2号線1号線で、日中2号線のみ使用)。 駅前再開発により廃止されるまで、妙見線川西国鉄前駅まで線路延びていたが、この区間1960年頃から当駅 - 川西国鉄前駅間の1駅の間だけを列車往復する盲腸線となっていた。川西国鉄前行きの列車1号線西端から発車し列車運行されない時間帯車両は当駅に留置されていた。 駅のすぐ東側急カーブとなっており、1966年若干緩和されたものの、それでも半径30メートル制限速度15km/h)と急で、阪急から譲渡され車両はこの急カーブ通過するために連結器改造する必要があった。駅移転をともなう高架化結果、このカーブ半径大幅に緩和され連結器阪急との直通運転備えて再度改造し阪急統一した改札長らく東側改札のみで、この改札建物能勢電鉄本社社屋兼ねていた。既に阪急高架化進められていた1990年ごろに、川西国鉄前への廃線跡使って西改札口が設置されたが、1993年6月26日には高架橋用地確保のため、先に高架化されていた阪急高架下移転している。

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地上駅時代

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今津駅 (兵庫県)」の記事における「地上駅時代」の解説

阪急今津線が当駅まで延伸した当時は現在とほぼ同じ位置に駅があり、阪神本線とはL字接続であった。後に阪急今津駅編成増強などもあり、約200メートル南へ移転し、現在ある阪神今津駅北側ロータリーのあたりで塚口駅のようなほぼ直角の単線急カーブとなりながら、阪神本線とほぼ平行になるよう延伸された。 阪急今津線線路は、駅移転時に戦時中軍需物資輸送目的として阪神本線繋げられたが、戦後阪急車両久寿川駅まで暴走したこともあって事故後に分断された。 「日本の鉄道事故 (1949年以前)#阪急今津線暴走事故」も参照 阪急今津駅高架化工事で仮ホーム移転するまで(#歴史参照)は、阪急今津駅2面1線、阪神今津駅2面2線の構造であった北側から順に、阪急降車ホーム阪急線路、阪急乗車ホーム、そしてその南側金網挟んで阪神の上ホームがあり、阪神の上下線路を挟んで阪神下りホーム、という構造であった阪急上記通りかつては阪神線路繋がっていたこともありホーム頭端式ではなく分断されてからも両方ホーム繋げられことはなかった。また、ホーム有効長6両編成停車できる長さである120mほどあったが、1984年西宮北口駅今津線分断され以降3両編成しか発着しなくなったため、ホーム中央部には柵が設けられ東側3両編成分には立ち入りできなくなった。なお、降車ホーム乗車ホームとで改札口分離されており、阪神への乗り換え踏切を渡る必要があった。また、阪急ホーム北側には阪神保線車、事業用車などが留置され線路伸びていたが、これらは堀切信号場移設されている。 阪神阪急同様に改札口上下それぞれのホームに1か所ずつ設けられていたが、構内地下道設けられており、上下線間の移動改札を出る必要はなかった。なお、阪急阪神ともに改札口神戸方面端部にあった阪急阪神下りホーム相互乗り換えは、改札口のに西側にあった地下道(現在は廃止)か、市道今津西線踏切横断して連絡であった

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地上駅時代( - 2010年2月)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/30 04:51 UTC 版)

布袋駅」の記事における「地上駅時代( - 2010年2月)」の解説

1番線6両編成対応、2-4番線は8両編成対応の島式2面4線と側線有する地上駅駅舎ホーム構内踏切つながっている。犬山線内で構内踏切残っているのは当駅のみである。かつては貨物扱い拠点駅のひとつであった駅舎名鉄駅で最古となる1912年大正元年)の開業当初からのもの。外観大正浪漫感じさせる擬洋風建築となっており、洋風ハイカラ車寄せと、瓦葺き屋根という対照瀟洒な印象生んでいた。なお、かつては、同線の岩倉、古知野(現、江南駅)、扶桑などといった駅も同様の駅舎であったが、地下駅舎化や橋上駅舎化などによって次々と取り壊され最後に残ったのがこの布袋駅であった車寄せ飾りには名古屋電気鉄道時代社紋刻まれている。 布袋地区有志駅舎保存する活動乗り出し2007年平成19年5月21日テレビ愛知速ホゥ!取り上げられた。2009年平成21年11月には、一部保存向けて住民有志30名が「布袋駅舎保存会」を設立したその後布袋駅旧駅舎が地元住民保存運動実り名鉄から市に一部譲り渡されることが決まった。市が名鉄交渉し2010年平成22年5月27日基本合意至った旧駅舎の取り壊し免れなかったが、車寄せ飾り天井など建物一部備品類を市が名鉄から譲り受けることとなった駅舎備品取り外し同年9月下旬ごろ行われ江南市民まつりで展示された。10月より駅舎解体工事着手仮駅舎の工事下り線ホーム2011年夏に完成した仮線工事進められ2012年10月27日始発より下り犬山方面)が仮線切り替わった駅北側にあった桜の木仮線工事支障となるため、2012年2月切り取られた。 のりば番線路線方向行先1・2犬山線 下り 犬山方面 3・4上り 名古屋方面 ホーム屋根骨組み知立駅同じくレール再利用したもので、CARNEGIE 18971897年 カーネギー鉄鋼:現USスチール)の銘があるものもあった。 下りホーム西側貨物側線廃車予定車両新造車両疎開留置使用される場合もあり、近年では、2008年平成20年12月26日前述ダイヤ改正前日)までのしばらくの間1700系(1702F)の留置使用された他、同日からは入れ替わり同日運用離脱した7000系(7041Fと7043Fの2編成)が数ヶ月留置されていた。 旧駅旧駅舎の車寄せ残っていた名古屋電気鉄道時代社紋 構内 屋根骨組みに残るCARNEGIE 1897の銘 布袋駅(地上駅時代) 構内配線略図上小田井名古屋方面江南犬山方面 凡例 出典:

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地上駅時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 23:13 UTC 版)

三塊厝駅」の記事における「地上駅時代」の解説

1908年明治41年2月1日 - 「臨時停車場」として開設1911年明治44年11月10日 - 貨物業務開始1923年大正12年) - 現在の北里三徳西街908号駅舎建てた1941年昭和16年6月21日 - 三等駅となり:頁51貨物業務支線発着分のとなった1962年 - 旅客扱い終了した1986年9月22日 - 貨物取り扱い終了9月26日 - 廃止。(基隆起点399.3km) 1990年7月15日 - 線路撤去1995年11月 - 当駅から高雄港駅間の線路撤去2004年4月9日 - 高雄市市定古蹟指定された。

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地上駅時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 17:04 UTC 版)

下北沢駅」の記事における「地上駅時代」の解説

2013年3月22日までの地上時代は、方向単式ホーム2面2線を有していた。下り線ホーム上下線の間に位置する開業当初島式ホームであり、上りホームは後に設置されたものである南口北口改札外コンコースとを連絡するエレベーター設置されていたが、改札内コンコースホーム連絡するエスカレーターエレベーター設置されていなかった。 旧北口2007年12月3日) 旧南口2007年11月30日ホーム遠景京王井の頭線。下、小田急小田原線旧線2003年12月

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地上駅時代 ( - 1995年7月)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 14:52 UTC 版)

名鉄一宮駅」の記事における「地上駅時代 ( - 1995年7月)」の解説

島式2面4線のホーム持ちこのうち西側長さ60mのホーム尾西線用、東側長さ113mのホーム名古屋本線であった。後に名古屋本線ホーム混雑緩和のため西側拡張され尾西線ホーム東側1線を名古屋本線下り線として引き直したため、尾西線1面1線、名古屋本線1面2線の計2面3線の配線となった。このほか、起線乗り入れていた1952年昭和27年12月までは尾西線ホーム西側起線低床ホーム設けられていた。 地上時代尾張一宮駅との共同使用駅であり、東口国鉄民営化後JR東海)、西口名鉄管轄となっていた。中間改札もなく、両駅は尾張一宮駅上下ホーム新一宮駅名古屋本線ホームとを結ぶ跨線橋と、尾張一宮駅下り線ホーム新一宮駅ホームとを結ぶ地下道によって繋がっていた。名鉄ホーム間には跨線橋もう一つ設けられていたが、これは戦後になって地下道混雑緩和のために増設されたものであった岐阜方に貨車中継のための側線が3線あり、1966年昭和41年)の貨物営業廃止まで国鉄貨物連絡行っていた。なお、名古屋本線の1500V昇圧1948年昭和23年)、尾西線の1500V昇圧1952年昭和27年)と時期ずらして実施され、期間中駅構内が600Vと1500Vの複電圧となっていたため、その間貨車入換作業10形12号700形709号といった蒸気機関車が行っていた。 連続立体交差事業伴って仮駅移行すると再びホーム構成2面4線となり、尾西線ホームが2線になったほか、名古屋方に留置線設けられた。工事段階的に進められ、まず1993年平成5年2月名古屋本線高架化された。これに先立ち高架化していた尾張一宮駅との駅共同使用はこの時をもって解消され改札口分離された。この時点では尾西線引き続き仮駅営業行っており、津島方面1・2番線、玉ノ井方面1番線使用していた。 1994年平成6年11月尾西線津島方面高架化されると玉ノ井方面が各線から分断され孤立状態となった。この時同区間廃止検討されたが、1995年平成7年7月高架化されて各線と再び線路繋がったこの間区間には5500系5511編成および5519編成の各2両計4両が運用にあたり高架化再接続されるまで同区間走り続けた新一宮駅 構内配線略図1957年地上2面4線時代) ↑ 津島方面玉ノ井方面新名古屋方面新岐阜方面国鉄 尾張一宮駅 凡例 出典:ホーム番号時期により異なり1952年昭和27年当時尾西線ホーム3・4番、名古屋本線ホーム5・6であったが、1954年昭和29年)頃には尾西線ホーム2・3番、名古屋本線ホーム4・5となっていた。 新一宮駅尾張一宮駅 構内配線略図1980年代中盤地上2面3線時代) ↑ 津島方面玉ノ井方面新名古屋方面名古屋方面新岐阜方面岐阜方面 凡例 出典: 新一宮駅尾張一宮駅 構内配線略図1992年仮駅2面4線時代) ↑ 津島方面玉ノ井方面新名古屋方面名古屋方面新岐阜方面岐阜方面 凡例 出典:

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地上駅時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/05 01:37 UTC 版)

調布駅」の記事における「地上駅時代」の解説

2012年8月18日までは島式ホーム2面4線を有する地上駅であった番線路線方向行先備考1■相模原線 下り 京王多摩センター・橋本方面京王線 京王八王子高尾山口多摩動物公園方面 待避線 2本線 3■京王線 上り 新宿都営新宿線方面 相模原線からの直通および京王線本線 4待避線 このうち相模原線への列車1番線相模原線からの列車3番線にしか発着できず、相模原線直通列車同士緩急接続不可であった相模原線からの上列車3番線在線している場合京王線の上列車4番線入線していた。 改札口南口東口地下に、北口地上駅舎内にあったが、当駅付近連続立体交差事業進捗に伴い2008年9月14日より全て仮橋駅舎上となり、北口南口統合して中央口とした。北口以外は終電前に閉鎖されていたが(東口21時15分南口0時10分)、2006年6月中旬からは東口7時から、北口南口始発時点から開き全ての改札口終電まで開くようになったその後東口中央口同様に始発から終電まで開けようになった東口終電前に閉鎖されていた時は連絡通路閉鎖されたため、上りホーム下りホームとの移動南口北口を結ぶ通路経由するしかなかった。 ホームからは東口通じ階段が1か所、中央口通じ階段が2か所存在しホーム間の乗り換えにはいずれかの通路を使う必要があった。東口への通路中央口を結ぶ通路つながっていなかった。また、仮橋駅舎使用開始に伴い、各ホームエレベーター設置された。自動精算機中央口にのみ設置されていた。 2008年9月までの北口駅舎下り線ホームから新宿方を望む 旧下り線ホームから府中方を望む 駅西側配線左側相模原線橋本方面右側京王線府中方面駅西側から進入する相模原線列車(左)と本線列車(右) 同時進入する相模原線列車(左)と本線列車(右)

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地上駅時代( - 2015年2月)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 03:43 UTC 版)

知立駅」の記事における「地上駅時代( - 2015年2月)」の解説

3面6線の地上駅旅客ホーム構成仮駅同様だが、それに加えて西側留置線があり、これが1番線となっていた。 バリアフリー化前は跨線橋はなく、2・3番線ホーム及び4・5番線ホームへは豊橋寄り地下通路繋がっていた。地下通路は仮ホーム移行に従って順次閉鎖された。2010年平成22年以降6番線ホーム改札口の間にスロープ設けられたのち、連続立体交差事業先行しホームを結ぶ仮の跨線橋エレベーター工事着工し2011年平成23年3月23日利用開始した。これが完成するまではホームにはエレベーター無く車椅子利用者は駅員補助を受ける必要があり、6番線ホーム以外は改札口通らず、駅を迂回して専用口から直接ホーム内に入る形になっていた。 ホームの上屋根は、名鉄の駅にしては高くなっている。その支柱はすべて古レール再利用したもので、中には1897年明治30年カーネギー英語版)の文字読み取れるものもある。 本線上り6番ホーム豊橋寄りには、知立の弘法さんとして親しまれている遍照院遙拝所があった。北改札口移転後改札外移設されている。 駅構内にはサンコス立ち食いそば・うどん店軽食店などがあった。 知立駅 構内配線略図2009年) ↑ 刈谷碧南方面東岡崎豊橋西尾方面名古屋岐阜犬山方面豊田市猿投方面 凡例 出典: 駅舎 改札口 地下通路 ホーム全景 2・3番線留置線レール用いたホーム屋根 遙拝所

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