地上駅時代
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2006年(平成18年)11月24日までは、相対式ホーム2面4線(うち2線はホームに面せず)を有する地上駅であった。上りホームに駅舎と北口改札があり、2面のホームは跨線橋で結ばれ、跨線橋上に南口改札があった。駅舎の佇まいと比較的長い時間通過待ちで停車する各駅停車の光景は郊外や下町の駅を彷彿させた。また、かつては貨物駅が新宿方(渋谷区内)にあり、代々木上原から当駅までの高架複々線化まではその痕跡があった。高架複々線化後は当駅の小田原寄りで急行線と緩行線が合流し複線になっていた。当駅構内は2線が本線格で急行線、外側2線が側線格で緩行線となり、急行線にホームがない構造だった。通過線は、ホームの設置がない通過専用線として1927年(昭和2年)に開業した時から存在していた。 小田急電鉄では、1989年(平成元年)より代々木上原駅 - 梅ヶ丘駅の間で連続立体交差化(地下化)・複々線化工事に着手した。その過程で用地捻出のために複々線の内側2線を撤去するとともに、内側線跡に上り仮設ホームと仮設橋上駅舎を建設し、2006年11月25日に上り線が移設された。仮設駅舎にはエレベーターが出入口とコンコース間に2基、コンコースとホーム間に2基、計4基設置された。これにより従来の北口改札は橋上に移された。同時に南口改札も臨時改札口として使用を開始した。工事の進捗に伴い暫定複線化された2008年(平成20年)3月29日には単式ホーム2面2線、2009年(平成21年)4月25日から地下化までは島式ホーム1面2線と、形態が変化した。 この間に旧上りホームと旧駅舎の撤去を行い、跡地に上りトンネルと駅を建設した。上りトンネルと駅の完成により、上り線路を地下へ切り替え、地上に下りホームと線路を移設、下りホームを撤去し、跡地に下りトンネルと地下ホームを建設した。 2013年(平成25年)3月23日の地下化に伴い、東京都道420号鮫洲大山線に跨る地上踏切が除却された。 北口旧駅舎 地下複々線化工事に伴い開設された臨時口。写真右上に見える小屋は旧南口駅舎(2006年12月21日)。 北口仮設駅舎(2006年12月21日) 上り線仮ホーム建設中(2006年9月23日) 通過線が撤去された工事中の東北沢駅(2005年10月)
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地上駅時代
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高架化以前は、阪急の駅と能勢電鉄の駅は並列していたものの、改札はそれぞれ分離されていた。両駅に跨がるホーム上には、1980年にラッシュ時の改札口混雑緩和対策として連絡改札が設置された。この連絡改札は、阪急の下り線が高架化された段階で廃止され、阪急・能勢電の間で改札を経ずに乗り換えることが可能になった。 阪急電鉄 有効長8両編成分の相対式ホームを有していた。10両編成での運転が開始されてからは、大阪側の2両がドアカットされ、該当する各ドアの位置にあたる軌道脇に、車内から見えるようにドアが開かない旨を知らせる看板が立てられていた。 東西に改札があり、東側は地下に、西側は上りホームの先端に改札があった。西側の改札から入って下りホームへ行く場合には、改札横にあった地下道(東改札口の地下道とは別)を通るようになっていた。東側の地下改札は、庄内駅の地下改札と酷似している。ただし、売店は庄内駅とは異なり地下にあった。東改札から階段で上がった宝塚行きホーム左側と、当時あったジャスコのはす向かいとの間に、改札内外両方から利用できた「阪急そば」が営業していた。 能勢電鉄 開業時は阪急の駅に対しほぼ垂直にホームが設置されていたが、池田駅前(後の川西国鉄前駅)まで路線が延長された際に、阪急の駅に対して平行なレイアウトとなった。長らくホーム1面1線に側線1本という構造だったが、妙見線の複線化に伴い駅の改良が行われ、有効長4両編成(610系以前については5両)のホーム2面2線となった(阪急ホームに近い南側から2号線・1号線で、日中は2号線のみ使用)。 駅前再開発により廃止されるまで、妙見線は川西国鉄前駅まで線路が延びていたが、この区間は1960年頃から当駅 - 川西国鉄前駅間の1駅の間だけを列車が往復する盲腸線となっていた。川西国鉄前行きの列車は1号線の西端から発車し、列車が運行されない時間帯も車両は当駅に留置されていた。 駅のすぐ東側が急カーブとなっており、1966年に若干緩和されたものの、それでも半径30メートル(制限速度15km/h)と急で、阪急から譲渡された車両はこの急カーブを通過するために連結器を改造する必要があった。駅移転をともなう高架化の結果、このカーブ半径は大幅に緩和され、連結器も阪急との直通運転に備えて再度改造し阪急と統一した。 改札は長らく東側改札のみで、この改札の建物は能勢電鉄の本社社屋も兼ねていた。既に阪急の高架化が進められていた1990年ごろに、川西国鉄前への廃線跡を使って西改札口が設置されたが、1993年6月26日には高架橋用地確保のため、先に高架化されていた阪急の高架下に移転している。
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地上駅時代
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阪急今津線が当駅まで延伸した当時は現在とほぼ同じ位置に駅があり、阪神本線とはL字接続であった。後に阪急今津駅は編成増強などもあり、約200メートル南へ移転し、現在ある阪神今津駅北側のロータリーのあたりで塚口駅のようなほぼ直角の単線急カーブとなりながら、阪神本線とほぼ平行になるよう延伸された。 阪急今津線の線路は、駅移転時に戦時中の軍需物資輸送を目的として阪神本線と繋げられたが、戦後に阪急車両が久寿川駅まで暴走したこともあって事故後に分断された。 「日本の鉄道事故 (1949年以前)#阪急今津線暴走事故」も参照 阪急今津駅が高架化工事で仮ホームに移転するまで(#歴史も参照)は、阪急今津駅は2面1線、阪神今津駅は2面2線の構造であった。北側から順に、阪急の降車ホーム、阪急線路、阪急の乗車ホーム、そしてその南側に金網を挟んで阪神の上りホームがあり、阪神の上下線路を挟んで阪神の下りホーム、という構造であった。 阪急は上記の通り、かつては阪神と線路が繋がっていたこともありホームは頭端式ではなく、分断されてからも両方のホームが繋げられることはなかった。また、ホームの有効長は6両編成が停車できる長さである120mほどあったが、1984年に西宮北口駅で今津線が分断されて以降は3両編成しか発着しなくなったため、ホーム中央部には柵が設けられ、東側の3両編成分には立ち入りできなくなった。なお、降車ホームと乗車ホームとで改札口は分離されており、阪神への乗り換えは踏切を渡る必要があった。また、阪急ホームの北側には阪神の保線車、事業用車などが留置される線路が伸びていたが、これらは堀切信号場に移設されている。 阪神も阪急同様に改札口は上下線それぞれのホームに1か所ずつ設けられていたが、構内地下道が設けられており、上下線間の移動は改札を出る必要はなかった。なお、阪急、阪神ともに改札口は神戸方面端部にあった。 阪急と阪神下りホーム相互の乗り換えは、改札口のに西側にあった地下道(現在は廃止)か、市道今津西線の踏切を横断しての連絡であった。
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地上駅時代( - 2010年2月)
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「布袋駅」の記事における「地上駅時代( - 2010年2月)」の解説
1番線は6両編成対応、2-4番線は8両編成対応の島式2面4線と側線を有する地上駅。駅舎とホームは構内踏切でつながっている。犬山線内で構内踏切が残っているのは当駅のみである。かつては貨物扱いの拠点駅のひとつであった。 駅舎は名鉄駅で最古となる1912年(大正元年)の開業当初からのもの。外観は大正浪漫を感じさせる擬洋風建築となっており、洋風のハイカラな車寄せと、瓦葺きの屋根という対照が瀟洒な印象を生んでいた。なお、かつては、同線の岩倉、古知野(現、江南駅)、扶桑などといった駅も同様の駅舎であったが、地下駅舎化や橋上駅舎化などによって次々と取り壊され、最後に残ったのがこの布袋駅であった。車寄せの飾りには名古屋電気鉄道時代の社紋が刻まれている。 布袋地区の有志は駅舎を保存する活動に乗り出し、2007年(平成19年)5月21日のテレビ愛知・速ホゥ!で取り上げられた。2009年(平成21年)11月には、一部保存に向けて住民有志約30名が「布袋駅舎保存会」を設立した。 その後、布袋駅の旧駅舎が地元住民の保存運動が実り、名鉄から市に一部が譲り渡されることが決まった。市が名鉄と交渉し、2010年(平成22年)5月27日に基本合意に至った。旧駅舎の取り壊しは免れなかったが、車寄せや飾り天井など建物の一部や備品類を市が名鉄から譲り受けることとなった。駅舎の備品の取り外しは同年9月下旬ごろ行われ、江南市民まつりで展示された。10月より駅舎解体工事に着手、仮駅舎の工事は下り線ホームが2011年夏に完成した。仮線の工事も進められ、2012年10月27日の始発より下り(犬山方面)が仮線に切り替わった。駅北側にあった桜の木は仮線工事の支障となるため、2012年2月に切り取られた。 のりば番線路線方向行先1・2■ 犬山線 下り 犬山方面 3・4上り 名古屋方面 ホーム屋根の骨組みや柱は知立駅と同じく古レールを再利用したもので、CARNEGIE 1897(1897年 カーネギー鉄鋼:現USスチール)の銘があるものもあった。 下りホーム西側の貨物側線は廃車予定の車両や新造車両の疎開留置に使用される場合もあり、近年では、2008年(平成20年)12月26日(前述のダイヤ改正前日)までのしばらくの間、1700系(1702F)の留置に使用された他、同日からは入れ替わりに同日で運用を離脱した、7000系(7041Fと7043Fの2編成)が数ヶ月間留置されていた。 旧駅舎 旧駅舎の車寄せに残っていた名古屋電気鉄道時代の社紋 構内 屋根の骨組みに残るCARNEGIE 1897の銘 布袋駅(地上駅時代) 構内配線略図 ←上小田井・名古屋方面 →江南・犬山方面 凡例 出典:
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地上駅時代
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1908年(明治41年)2月1日 - 「臨時停車場」として開設。 1911年(明治44年)11月10日 - 貨物業務を開始。 1923年(大正12年) - 現在の鳳北里三徳西街90巷8号に駅舎を建てた。 1941年(昭和16年)6月21日 - 三等駅となり:頁51、貨物業務は支線発着分のみとなった。 1962年 - 旅客扱いを終了した。 1986年9月22日 - 貨物取り扱いを終了。 9月26日 - 廃止。(基隆起点399.3km) 1990年7月15日 - 線路を撤去。 1995年11月 - 当駅から高雄港駅間の線路を撤去。 2004年4月9日 - 高雄市市定古蹟に指定された。
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地上駅時代
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2013年3月22日までの地上時代は、方向別単式ホーム2面2線を有していた。下り線ホームは上下線の間に位置する。開業当初は島式ホームであり、上りホームは後に設置されたものである。 南口・北口と改札外コンコースとを連絡するエレベーターが設置されていたが、改札内コンコースとホームを連絡するエスカレーターとエレベーターは設置されていなかった。 旧北口(2007年12月3日) 旧南口(2007年11月30日) ホーム遠景(橋、京王井の頭線。下、小田急小田原線旧線。2003年12月)
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地上駅時代 ( - 1995年7月)
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「名鉄一宮駅」の記事における「地上駅時代 ( - 1995年7月)」の解説
島式2面4線のホームを持ち、このうち西側の長さ60mのホームが尾西線用、東側の長さ113mのホームが名古屋本線用であった。後に名古屋本線ホームは混雑緩和のため西側に拡張され、尾西線ホームの東側1線を名古屋本線下り線として引き直したため、尾西線1面1線、名古屋本線1面2線の計2面3線の配線となった。このほか、起線が乗り入れていた1952年(昭和27年)12月までは尾西線ホームの西側に起線用低床ホームが設けられていた。 地上時代は尾張一宮駅との共同使用駅であり、東口が国鉄(民営化後はJR東海)、西口が名鉄の管轄となっていた。中間改札もなく、両駅は尾張一宮駅上下線ホームと新一宮駅名古屋本線ホームとを結ぶ跨線橋と、尾張一宮駅下り線ホームと新一宮駅両ホームとを結ぶ地下道によって繋がっていた。名鉄両ホーム間には跨線橋がもう一つ設けられていたが、これは戦後になって地下道の混雑緩和のために増設されたものであった。 岐阜方には貨車中継のための側線が3線あり、1966年(昭和41年)の貨物営業廃止まで国鉄と貨物の連絡を行っていた。なお、名古屋本線の1500V昇圧が1948年(昭和23年)、尾西線の1500V昇圧が1952年(昭和27年)と時期をずらして実施され、期間中は駅構内が600Vと1500Vの複電圧となっていたため、その間の貨車入換作業は10形12号や700形709号といった蒸気機関車が行っていた。 連続立体交差事業に伴って仮駅に移行すると再びホーム構成は2面4線となり、尾西線ホームが2線になったほか、名古屋方に留置線が設けられた。工事は段階的に進められ、まず1993年(平成5年)2月に名古屋本線が高架化された。これに先立ち高架化していた尾張一宮駅との駅共同使用はこの時をもって解消され、改札口も分離された。この時点では尾西線は引き続き仮駅で営業を行っており、津島方面が1・2番線、玉ノ井方面が1番線を使用していた。 1994年(平成6年)11月に尾西線津島方面が高架化されると玉ノ井方面が各線から分断され、孤立状態となった。この時同区間の廃止も検討されたが、1995年(平成7年)7月に高架化されて各線と再び線路が繋がった。この間同区間には5500系5511編成および5519編成の各2両計4両が運用にあたり、高架化で再接続されるまで同区間を走り続けた。 新一宮駅 構内配線略図(1957年、地上2面4線時代) ↑ 津島方面 ↑玉ノ井方面 ←新名古屋方面 →新岐阜方面 ↓ 国鉄 尾張一宮駅 凡例 出典:ホーム番号は時期により異なり、1952年(昭和27年)当時は尾西線ホームが3・4番、名古屋本線ホームが5・6番であったが、1954年(昭和29年)頃には尾西線ホームが2・3番、名古屋本線ホームが4・5番となっていた。 新一宮駅・尾張一宮駅 構内配線略図(1980年代中盤、地上2面3線時代) ↑ 津島方面 ↑玉ノ井方面 ←新名古屋方面←名古屋方面 →新岐阜方面→岐阜方面 凡例 出典: 新一宮駅・尾張一宮駅 構内配線略図(1992年、仮駅2面4線時代) ↑ 津島方面 ↑玉ノ井方面 ←新名古屋方面←名古屋方面 →新岐阜方面→岐阜方面 凡例 出典:
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地上駅時代
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2012年8月18日までは島式ホーム2面4線を有する地上駅であった。 番線路線方向行先備考1■相模原線 下り 京王多摩センター・橋本方面 ■京王線 京王八王子・高尾山口・多摩動物公園方面 待避線 2本線 3■京王線 上り 新宿・ 都営新宿線方面 相模原線からの直通および京王線の本線 4待避線 このうち、相模原線への列車は1番線、相模原線からの列車は3番線にしか発着できず、相模原線直通列車同士の緩急接続は不可能であった。相模原線からの上り列車が3番線に在線している場合、京王線の上り列車は4番線へ入線していた。 改札口は南口と東口は地下に、北口は地上の駅舎内にあったが、当駅付近の連続立体交差事業の進捗に伴い、2008年9月14日より全て仮橋上駅舎上となり、北口と南口を統合して中央口とした。北口以外は終電を前に閉鎖されていたが(東口は21時15分、南口は0時10分)、2006年6月中旬からは東口が7時から、北口・南口は始発時点から開き、全ての改札口が終電まで開くようになった。その後、東口も中央口と同様に始発から終電まで開けるようになった。東口が終電前に閉鎖されていた時は連絡通路も閉鎖されたため、上りホームと下りホームとの移動は南口と北口を結ぶ通路を経由するしかなかった。 ホームからは東口に通じる階段が1か所、中央口に通じる階段が2か所存在し、ホーム間の乗り換えにはいずれかの通路を使う必要があった。東口への通路と中央口を結ぶ通路はつながっていなかった。また、仮橋上駅舎使用開始に伴い、各ホームにエレベーターが設置された。自動精算機は中央口にのみ設置されていた。 2008年9月までの北口駅舎 旧下り線ホームから新宿方を望む 旧下り線ホームから府中方を望む 駅西側の配線(左側が相模原線橋本方面、右側が京王線府中方面) 駅西側から進入する相模原線列車(左)と本線列車(右) 同時進入する相模原線列車(左)と本線列車(右)
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地上駅時代( - 2015年2月)
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「知立駅」の記事における「地上駅時代( - 2015年2月)」の解説
3面6線の地上駅。旅客ホームの構成は仮駅と同様だが、それに加えて西側に留置線があり、これが1番線となっていた。 バリアフリー化前は跨線橋はなく、2・3番線ホーム及び4・5番線ホームへは豊橋寄りの地下通路で繋がっていた。地下通路は仮ホーム移行に従って順次閉鎖された。2010年(平成22年)以降、6番線ホームと改札口の間にスロープが設けられたのち、連続立体交差事業に先行し、ホームを結ぶ仮の跨線橋とエレベーターの工事が着工し、2011年(平成23年)3月23日に利用を開始した。これが完成するまではホームにはエレベーターは無く、車椅子利用者は駅員の補助を受ける必要があり、6番線ホーム以外は改札口を通らず、駅を迂回して専用口から直接ホーム内に入る形になっていた。 ホームの上屋根は、名鉄の駅にしては高くなっている。その支柱はすべて古レールを再利用したもので、中には1897年(明治30年)カーネギー(英語版)の文字が読み取れるものもある。 本線上り6番ホームの豊橋寄りには、知立の弘法さんとして親しまれている遍照院の遙拝所があった。北改札口移転後は改札外に移設されている。 駅構内にはサンコス、立ち食いそば・うどん店、軽食店などがあった。 知立駅 構内配線略図(2009年) ↑ 刈谷・碧南方面 ←東岡崎・豊橋・西尾方面 →名古屋・岐阜・犬山方面 ↓ 豊田市・猿投方面 凡例 出典: 駅舎 改札口 地下通路 ホーム全景 2・3番線と留置線 古レールを用いたホーム屋根 遙拝所
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