混雑緩和対策
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 10:05 UTC 版)
三大経済圏を結び、工業・商業の密集地帯を結ぶ東名・名神の輸送量は暫時増加したが、やがて東名の容量の限界を超え、特に大都市圏や線形が厳しくトンネル区間が多い山間部では渋滞が散見され始めた。これにより、高速道路の機能である高速性、定時性、安全性を図ることが困難となってきた。加えて休憩施設の混雑も著しく、平日夜間には大型車の駐車スペースが不足し、休日にはレジャー目的の小型車のスペースが不足するという事態に直面した。休憩施設については、園地や緑地を駐車マスに切り替える工事で急場をしのいだ。 大井松田IC - 御殿場IC間の改築 画像左 : 路線改良された大井松田IC - 御殿場IC間。左側の片側3車線道路が増設された上り線。右側は当初の往復4車線道路で、新上り線の開通を機に4車線全てが下り線となった。画面右端が再度の移転を強いられた寺院で、改築特有の問題を浮き彫りにした。画像右 : 既存線との交差は2か所。画像はその内の吾妻山トンネルと都夫良野トンネル間に架かる新鍛冶屋敷橋。 東名最初の渋滞緩和を目的とした大規模改良は、大井松田IC - 御殿場IC間である。これは渋滞が慢性化した本線について、渋滞箇所や事故多発地点など多角的に検討し、各インターチェンジ区間毎に改築の必要性と緊急性を精査した結果、本区間が選定されたもので、1982年(昭和57年)1月開催の第26回国土開発幹線自動車道建設審議会にて整備計画の策定に至った。改築では往復4車線を6車線化するが、工事の前提条件として東名を営業しながら施工する。この制約から、4車線の両側に1車線ずつ付け足す方法が全区間で採用できなかった。特に東名酒匂川橋等の高い橋脚の橋と、都夫良野トンネルと吾妻山トンネルを営業しながら拡幅することは困難であり、さらに土地の利用形態にも問題があった。東名と並行する平地に住居地区が広がり、しかも国道246号と国鉄御殿場線が位置して高密度に利用されていることから、この点でも道路両側への拡幅は困難であった。 考慮の結果、両側への拡幅と、3車線を別途建設する2形態を採用するに至った。しかしながら、大井松田IC - 御殿場IC間25.3 kmのうち、両側拡幅は御殿場IC寄りのわずか5.1 kmで、それ以外は後者の別線建設となった。別線は平地側への新設を避けることから、大井松田ICから吾妻山トンネル間は既存線の山側(北側)に設けてほぼ並行して建設、都夫良野トンネルから小山バスストップ付近までは逆に既存線の北側が平地となっていることから、反対の南側の山地に建設した。これにより別線は既存線を軸にねじれることから、既存線を横断する箇所が存在する。別線の特徴としては、並列部以西では箱根外輪山端部を通り、この点で鮎沢川沿いの谷筋を通る既存線とは著しく様相が異なる。この山地部は尾根が南北方向に位置し、そこを別線が東西に貫通することから、この区間はトンネルと橋梁が連続する。このことは谷筋に沿って走る既存線よりもカーブが少なくなることを意味し、全体的に下り坂となっている本区間において安全性が向上した。ただし、並列区間では既存線に併走する関係上、既存線の線形と類似した線形を用いざるを得なかった。別線は並列区間の大井松田IC - 吾妻山トンネル間で既存線の北側に位置して、大井松田ICで上り線にそのまま接続する。このことから別線は上り線専用となった。別線は吾妻山トンネル付近で既存線の南側にまたぐが、小山町付近で両側拡幅区間の上り線に接続する必要から、東名足柄橋を構築して再度またいでいる。結果、クロスポイントは2か所となった。一方の既存線は、上下4車線を下り一方向として運用することになった。既存線を下り方向に統一する理由は、当該区間が登り坂であるために、走行速度の低下を生じて渋滞の温床となるところへ、4車線運用によって交通の分散を図って走行速度の向上を期待できるためである。さらに、既存の登坂車線をそのまま使用することが可能で、これにより緩速交通を登坂車線に誘導することによって、交通分散の効果をより高めることができる。7車線化の運用は1991年(平成3年)12月24日からで、以後、渋滞がなくなり、ラジオ等の交通情報から「都夫良野トンネル」が消えた。 当該区間の改築では、東名新設の時と同様に用地買収の壁に突き当たった。買収は1983年(昭和58年)から始まった。この時は、新設の際に用地を明け渡した地主および寺院が、今度は改築ルートに被ったことから再度の移転を強いられる事象が発生した。今回の買収では、金銭より代替地を要求する声が強かったが、首都圏に近いところで似た値打ちの土地を見つけることは甚だ困難であった。何よりも山北町の山林を所有する業者との交渉が難航し、公団に対して20億円超の巨額の補償を要求したが、業者は地上げで騒がれた金融会社のペーパーカンパニーであった。別の業者に至っては、土地を提供する代わりに別線にできるパーキングエリアのレストランの営業権を要求したが、こうした不当な要求を公団は頑として突っぱねた。 厚木IC - 大井松田IC間6車線化 東名の運用開始後、首都圏の交通量の伸長が著しく、渋滞が御殿場付近まで達するに及んだ。そこで、厚木IC - 大井松田IC間の拡幅を行い、1995年(平成7年)までに往復6車線化された。当該区間は、大井松田IC以西の区間と異なり、全区間上下線の両側に1車線ずつ付け足す方式を採用した。 横浜IC改良 横浜ICは特に渋滞が酷く、連絡する国道16号との合流に端を発した渋滞は、料金所の容量不足でさらに増幅し、それがランプウェイを遡って本線まで及ぶに至り、最終的に本線を通過する車両まで渋滞に巻き込まれた。開通前における当ICの予想された出入交通量46,000台(日換算)に対し、渋滞が深刻化した1988年(昭和63年)時点では67,000台であった。当ICはその交通量の多さからダブルトランペットで計画され、このため、国道16号との取り付けは立体交差であるが、ICの前後にある交差点(国道246号交差点、県道18号交差点)による信号待機の車列に東名からの流出交通が合流することで、ダブルトランペットの効果が消失していた。公団は料金所ブース増設と、ランプウェイの2車線化、付加車線設置により、それなりの効果をあげたが根本的解決には至らなかった。この時点で公団は追加ICの必要を認め、これはのちに横浜青葉IC設置へと至った。この結果、国道246号の立体交差完成とも相まって、横浜IC、東名川崎ICの出口渋滞件数は大きく減少した。本線流出入もスムーズとなって、本線の平均速度が3パーセント向上した。なお、横浜青葉ICの供用を前に、横浜市内に東名のインターチェンジが2か所になることを踏まえ、利用者への誘導を適切に図る必要から横浜ICは1997年(平成9年)4月1日をもって横浜町田ICに名称変更された。 静岡IC - 焼津IC間の改築 画像左 : 静岡IC - 日本坂トンネル間。トンネル区間以外でも部分的に3車線化した。画像右 : 静岡IC - 焼津IC間も線増に伴って従来道路を片方向化した。このため左右ルート選択となった。 静岡県通過区間のうち、日本坂トンネル坑口を先頭とした交通集中による渋滞が、年間250回以上という高頻度で発生している状況を鑑みて路線増設を計画した。対象区間は、静岡IC - 焼津IC間(11.8 km)で、この内の日本坂トンネルを含む4.5 kmについて、既設の本線(往復4車線)の海側に新たに片側3車線の本線を新設し、既設道路は下り線を上り線に反転した上で、片側4車線の上り専用として運用することにした。また、上り線の場合、日本坂PAから静岡ICまでを3車線(トンネル部4車線)、下り線はトンネル手前から焼津ICまでを3車線化した。トンネル部の運用開始は1998年(平成10年)3月27日である。
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