地上時代
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地上時代は三条通の南、三条大橋東詰南に駅施設があった。京阪線の地下化工事が始まる直前(1978年頃)の状況を記す。京津線では降車ホームにも番号がついていたが、京阪線は番号がなかった。 京阪線のりば1中書島・宇治方面宇治線直通 宇治行きのりば 2京橋・淀屋橋方面 特急のりば 3中書島・枚方市・京橋・淀屋橋方面 急行・準急のりば 4中書島・枚方市・京橋・淀屋橋方面 普通のりば 1番線はもともとの本線で琵琶湖疏水の上にあり、1922年(大正11年)の駅完成時にはホームがなく、複線であった。1939年(昭和14年)の京阪線3連化時に単線化して設置された。東側に降車ホームがあり、0番線と名づけられていた。このホームは京津線に直通しており、延長上に7・8番線があった。有効長が短く、4両編成までしか入線できなかった。 2番線は、櫛形で反対側は3番線と一体のホームとなっていた。 2番線と3番線の間には、急行の乗客のために構内踏切が設けられていた。また、特急の停車中は左右両方の扉を開き、車内を通って3番線に行けるよう便宜が図られていた。 4番線は、最も鴨川寄りにあり3番線とは対向して設置されていた。ホーム構造の関係上、4番線発着列車と京津線との乗り換えには北端を迂回しなければならなかった。 1967年頃に配線変更が行われたが、変更前の4番線ホームは有効長が短かった。降車用ホームとして使用されており、3番線との中央部に交差渡り線が設置され、入換えが行われていた。 地上時代の駅構内、1番線ホームより北正面改札方向(1981年) 地上時代の駅構内、宇治行1番線と京津線ホーム、間を右に抜けると南改札(1981年) 地上時代の構内踏切(1981年)
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地上時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 03:10 UTC 版)
現行の構造になる前は3面4線のホームを有する地上駅で、大井町線が変則相対式(上り・下りとも南側にホームがあった)、目蒲線が島式であった。 また、かつての目蒲線には山側に独立した貨物用ホームがあった他、旅客ホームは櫛形4面3線で、中線(2両分)を利用した目黒方面からの折り返し運転にも対応できる構造であった。目黒⇔大岡山間の折り返し運転が廃止された昭和20年代後半には中線も廃止され、中線跡は埋め戻されてホーム化された。地下化前の旧ホームでは、中線を埋めてホーム化した部分を確認することができ、この部分には、「東急弘潤会」運営の駅売店が設置されていた。このような経緯から、目蒲線用旧ホームは他駅では見られない広いホーム幅を有しており、旧櫛形の余剰部分には、定期券売場や「東急ジャンボー」・「田園そば」の売店が設置されていた。 東横線複々線化工事に伴い、利便性向上を目的に同一方向・同ホーム化と踏切解消のため、駅全体の地下化工事が実施された。改良前は大井町線は緑が丘 - 当駅間で目蒲線(現・目黒線)上下線を高架橋でオーバーパスしていたが、改良後は目蒲線(現・目黒線)上り線をオーバーパスし、当駅 - 北千束駅間で目蒲線(現・目黒線)下り線をアンダーパスしている。 改良工事に伴い当駅の二子玉川園・蒲田寄り(当時)にあった交通量の多い「大岡山1号踏切」が廃止されたほか、大井町線北千束 - 当駅間にあった4か所の踏切(北千束1号踏切 - 4号踏切)が廃止されている(北千束1号踏切は解消後、人道橋に変更)。 工事延長:大井町線1,100 m・目蒲線(現・目黒線)900 m 事業費:315億円 掘削量:17万6,000 m3
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