徳川家康 展覧会

徳川家康

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/18 04:27 UTC 版)

展覧会

  • 「夏季特別展 徳川家康―天下人への歩み―」、2023年7月23日~2023年9月18日、徳川美術館・名古屋市蓬左文庫・読売新聞社[251]

脚注

注釈

  1. ^ 徳川家譜でも松平記でも天文11年12月26日の生まれと記されているが、家康自身は慶長8年(1603年)に作成したまじないに使う願文に自らの年齢を『六十一歳癸卯歳』と記しており、生年を天文12年(癸卯)としている。徳川美術館学芸部部長代理を務めた原史彦はこのズレについて、家康が生まれたとされる天文11年12月26日は寅年、寅の日、寅の刻であり、誕生日すらも帝王になる資質を備えていたことを強調するため誕生日をわざと書き換えたと推測され、本来の生年は家康自身の言う通り天文12年であるとする説を唱えている。歴史学者の磯田道史も原の説に近い立場を取っており、勇敢にみせるイメージ戦略をとるため卯年ではなく寅年生まれであることにしたと推測する他、家康の幼名である竹千代は父・広忠が天文12年2月26日夜の連歌会で詠んだ句にちなんでおり、嫡男である家康が2カ月以上も命名されなかったのは不自然であるとして、家康本来の誕生日は天文12年2月26日からそう遠くない日であるとの可能性を指摘している[10]。その後、歴史学者の遠藤珠紀が家康の生年が卯年であるとする史料が全て陰陽道関係のものであることに注目し、陰陽道では実際の暦日に基づく暦月と異なって立春をもって正月とする節月(節切り)を採用しており、天文11年は12月21日に立春を迎えていることからそれ以降(12月26日)に生まれた家康は暦月では寅年・節月では卯年生まれとなるため、陰陽道に関する文書では卯年として扱われたとしている(遠藤は家康と同様の事例として南北朝時代の公家で暦応4年12月23日に生まれた広橋仲光の例を挙げている)[11]。遠藤説は、家康が天文11年12月26日生まれであるが故に発生した特殊な問題として捉えている。
  2. ^ 松平氏では天文12年(1543年)に長く松平広忠の名代(家督代行)を務めていた松平信孝(広忠の叔父)が広忠や重臣の阿部大蔵らによって追放されているが、広忠と大子の婚姻自体が水野氏と連携関係にあった信孝主導による縁組であり、信孝を排除した結果として水野氏との同盟関係が終了したと新説も出されている[14]。なお、当時の水野氏は複数の流れに分かれており、信元(緒川家)の水野氏が織田方についたことが明確になるのは織田信長が織田氏を継承して知多郡への支配の立て直しを意図した後であり、可能性の1つとして松平広忠の死後に今川氏が安祥松平家を断絶させずに竹千代(家康)を後継者とする方針を決めたことに対する反発が信元離反の一因になったとする指摘もある[15]
  3. ^ この説では、松平広忠が叔父・信孝、戸田氏が牧野氏と争った際に今川義元・織田信秀が共に信孝および牧野氏を支援したことで今川・織田両氏の間に一時的な連携が生じたとする[18]。また、重臣の酒井忠尚も信孝陣営にあったとされる[19]。なお、天文期の今川・織田両氏による三河侵攻については村岡幹生の「織田信秀岡崎攻落考証」[20]をきっかけに岡崎城が織田氏に攻め落とされたことが新たな有力説になっているが、その際の松平広忠の政治的立場については依然として今川方にあったとする村岡と今川からの離反を図ったために今川・織田両氏による三河侵攻が生じたとみる平野明夫[21]や糟谷幸裕[22]らとの議論がある[23]。その後、村岡も説を修正し、両者の連携を認めた上で岡崎城の陥落に前後して連携が破綻してしまったことが、今川義元の行動を不可解にしている(松平広忠との和睦と今川方への帰参誘引)と推測している[24]
  4. ^ なお、当時の情報伝達の状況から、実際の松平広忠の織田氏への降伏と人質の差出が8月であった可能性も指摘されている[25]ため、時期的には竹千代が人質に出されたと伝えられる時期と被ることになる。
  5. ^ 家臣の岩松八弥の謀反によって殺害されたとする説がある(『岡崎市史』は暗殺説を採る)一方で、暗殺説は信頼性の低い史料からの付会に過ぎず、岩松による襲撃が事実としてもそれが死因と断定できる根拠はなく、病死を否定する理由はないとする意見もある[20]
  6. ^ 前年の天文18年(1549年)、安祥城太原雪斎に攻められ生け捕りにされていた。
  7. ^ 『東照宮御実紀』では少将宮町、『武徳編年集成』では宮カ崎とされている。
  8. ^ 松平広忠の嫡男である竹千代を人質にとった処遇は、今川氏による松平氏に対する過酷な処遇であるというのが通説である。しかし近年、むしろ今川義元の厚意(もちろん義元の側の思惑もあるが)によるものだという説もある[27]。また、そもそもの話として幼少の竹千代では松平家中・領国の存続は不可能であり、松平領の安定のためにも駿府で保護する必要性があった[28][29]
  9. ^ 近年の研究では、岡崎城そのものには今川氏の城代が入っていたものの、松平領はあくまでも将来的には竹千代が継ぐものであり、今川義元は安祥松平家で唯一岡崎城に残されていた随念院(松平信忠の娘、竹千代の大叔母)を擁した松平家臣団による政務を承認する形で実際の統治が行われたと考えられている[30]
  10. ^ 『武徳編年集成』によると今川家の家臣の中でも岡部家は息子(岡部正綱)が同年齢の家康と仲良くなったことから、家康に極めて好意的かつ協力的であったようである。後に岡部正綱は家康の家臣となり、甲州制圧作戦でその外交手腕を発揮することになる。
  11. ^ なお、この駿府人質時代に北条氏規も駿府で人質となっていたため、このころから二人に親交があったとする説があり、『大日本史料』などはこの説を載せている。また、住居が隣同士だったという説もある[31]。さらに浅倉直美は北条氏規は関口親永の婿養子であったとする説を唱えている(つまり、氏規の妻とされる女性は築山殿の姉妹ということになる)[32]。後に後北条氏と同盟を結んだ際に氏規はその交わりの窓口となった。氏規の系統は、狭山藩として小藩ながらも廃藩置県まで存続。
  12. ^ なお、天文16年の政治的混乱の中で、広忠の存命中に竹千代へ家督を譲らされた可能性も指摘されている[34]が、現時点では結論が出せないとされている[25]
  13. ^ 近年では築山殿の母親を義元の近親または養妹とする説に否定的な説もあるが、それでも関口氏自体が今川氏一門として遇された家であり、関口氏の婿になることはそのまま今川氏の親類衆に加えられることを意味していた[37]
  14. ^ 祖父の清康、父の広忠の官途名は確認されておらず(名乗る前に早世したためか)、曽祖父である信忠の左近蔵人佐を継ぐ形で今川義元から与えられたものと考えられる[38]
  15. ^ 山中は岡崎城が織田軍に落とされたとされる天文16年9月から間もない天文17年(1548年)1月に今川義元によって奥平貞能に与えられていたが、その貞能は三河忩劇において反今川派に属していた[40]
  16. ^ 永禄10年(1567年)に今川氏真が鈴木重勝と近藤康用に所領を宛行した判物[51]の中で氏真が「酉年四月十二日岡崎逆心之刻」における両者の戦功を評価する文言があり、氏真が酉年にあたる永禄4年(1561年)4月に岡崎城の松平元康が(今川氏視点から見て)反逆を起こしたと認識していたことが分かる。
  17. ^ 近年、永禄4年の合意は松平・織田間の和睦の合意に過ぎず同盟の性格を持っていない[54]、実際の同盟締結は永禄10年5月の信康と徳姫の婚姻に伴って成立したとする柴裕之の説もある[55]
  18. ^ 一般的に場所は清州城と言われ同盟の名になっているが、史実上の場所は不明である[56]。会談自体の存在を疑問視する見解もある[54]
  19. ^ 経営史学者の菊地浩之は大子の再婚相手である久松俊勝が「長家」と名乗っていた時期があることを指摘し、久松長家(俊勝)を父親代わりとみなしてその偏諱を用いたが、家光以後に「家」の通字徳川将軍家として重要になりその由来は隠された。また長家も家康が大名となり、その権勢が拡大して逆に「家」のつく名「長家」をはばかり「俊勝」と改名したという説を唱えている[59]。日本史研究家の渡邊大門は「根拠不詳で説得力に欠ける」[60]、日本史家の平山優は「何らの裏づけもない、印象論としかいいようがなく、まったく検討に値しません。松平・徳川氏の研究者は、そもそもこれを学説と認定すらしていません」と述べている[61][62]
  20. ^ 永禄7年4月に今川氏真は「三州急用」すなわち家康討伐を理由に免税特権を無視した臨時徴収を実施し、更に武田信玄にも援軍を要請しているが、同年7月に北条氏康の要請で氏康の太田資正討伐に援軍を派遣した結果、家康討伐は先送りにされた。その結果、三河側では氏真による家康討伐に期待して反家康勢力が挙兵し、遠江側では臨時徴税をしながら家康討伐を起こさなかった氏真への不信感が高まったことによって遠州忩劇が引き起こされたと指摘されている。しかし、前後して発生した2つの反乱は「今川氏真の来援を期待していた三河の反乱軍は氏真が遠江の反乱鎮圧に専念したために支援を得られず家康に敗れる」「松平家康の来援を期待していた遠江の反乱軍は家康が三河の反乱鎮圧に専念したために支援を得られず氏真に敗れる」という皮肉な形で終結することになった[65][66]
  21. ^ 正確には以前より織田領であった加茂・碧海両郡の西部地域はそのまま織田領となっている[67]
  22. ^ 引用元は『岡崎市史』。
  23. ^ 細川氏嫡流の当主は管領の地位に就くとともに代々右京大夫に任じられたことから「京兆家」と称されていた。これに対して管領を支える盟友的存在の守護大名が左京大夫に任じられており、足利義澄細川政元期の赤松政則足利義稙細川高国期の大内義興足利義晴細川晴元期の六角義賢がこれに該当する。
  24. ^ ただし、家康が左京大夫任命そのものを辞退していないことは、公家側の日記に「徳川左京大夫(家康)」[72][73]という記述があることより確認できる。また、家康自身が延暦寺に充てて「左京大夫家康」と自書した文書[74]も現存しているため、朝廷や寺社に対しては三河守よりも格上とみなされている左京大夫を称した可能性もある[75]
  25. ^ 後年、義昭は天下の実権をめぐって信長との間に対立を深めると、義昭の家康に対する呼称も「徳川三河守」と変わっている。
  26. ^ 一方で義昭が家康の徳川改姓を認めていなかったとする説もある。元亀元年(1570年)9月に三好三人衆討伐のために足利義昭から家康に宛てられたとみられる御内書[76]の宛名が徳川改姓・三河守任官以前の「松平蔵人」になっており、これは松平改姓が将軍不在時に行われ、かつ義昭の従兄弟でありながら不仲だった近衛前久の推挙であったことに、義昭が不満を抱いていたとみられている[77][注釈 25]
  27. ^ なお、武田氏は友好的関係にある織田信長を通じて信長の同盟相手である家康に武田との協調再考を持ちかけているが家康はこれを退けており、家康は信長からも一定程度独立した立場であったと考えられている。ただし、元亀元年の4月頃までは双方の取次である榊原康政と土屋昌続の間で外交交渉が行われており、公式に手切が宣言されたのは、同年10月の上杉謙信との同盟締結時であったとみられている[78]
  28. ^ 『当代記』によれば、当初は見附に本拠地を移す予定で普請を行っていた(城之崎城がその跡という)が、織田信長の要望を受けて浜松に変更したという。信長からすれば、織田と徳川の本拠地が離れすぎてしまうことを望まなかったと推測される[79]
  29. ^ これを遡る元亀2年4月には武田氏による三河・遠江への大規模な侵攻があったとされているが、近年は根拠となる文書群の年代比定の誤りが指摘され、これは天正3年(1575年)の出来事であったことが指摘されている[80]
  30. ^ 家康と朝日姫の婚姻について、当初家康側は朝日姫が家康の男子を生んだ場合、秀吉が徳川家の家督問題に干渉することを警戒していた。同時代史料では確認できないものの、『三河後風土記』や『武徳編年集成』にはこの時家康が、
    1. 朝日姫が家康の子を産んでも嫡子とはしないこと。
    2. 長丸(後の秀忠)を秀吉の人質としないこと。
    3. 万一、家康が死去しても秀吉は徳川領5か国を長丸に安堵して家康の家督を継がせること。
    を婚姻の条件にしたとされる。(1)と(3)は実際起こらなかったものの、(2)については家康が秀吉の小田原征伐に従って北条氏と断交することを決めた天正18年1月に家康自身の意向で長丸を人質に差し出したものの、秀吉は同月のうちに長丸を帰国させている。秀吉は他の大名の妻子と異なる扱いを長丸に対して行ったのは、(2)の条件に基づく判断であったと考えられ、(1)と(3)の条件も実在した可能性が高い[94]
  31. ^ もっとも、初期における家康の秀吉への臣従は不完全であったとする見方もある。軍事力によって家康を服属させた訳ではない秀吉は、徳川・北条両氏の同盟関係を破棄させる強制力を持たず、家康は秀吉と北条氏の間では「中立」的存在であった。このため、秀吉は西国平定を優先にし、家康との調整が必要となる北条氏討伐は先延ばしにされることになった[94][96]
  32. ^ この官職は武家の名誉職で、一般の大名が帯びられるものではなく、将軍の嫡子および実弟などのみに許されていたものである[要出典]
  33. ^ ルイス・フロイスによると、オルガンティーノ1588年5月6日付の書簡で、「坂東の戦は、7月にはすでに(挙行される)と言い触らされており、坂東の北条殿(の領地)が家康の領国に(加えられることに)なっていますから、それも暴君(秀吉)にとっては喜ばしいことではありません(原文:e o Fonjodano do Bandou vai entrando pelos reynos de Yyeyasu, couza de que o tirano se nâo pode alegrar.)」と書いている[102]。ただし、1588年には結局出兵は無く、2年後に持ち越しとなった。またこの訳文は松田毅一川崎桃太によるが、原文は家康の関東移封ではなく、北条の侵攻を意味するという異論もある[103]
  34. ^ ただし、『家忠日記』によれば、7月18日には家康が江戸城に入城している。8月1日は佐竹氏の領国画定によって、徳川氏を含めた関東諸将の国分が確定した日であり、それが八朔の祝いと結びつけられたと考えられている[110]
  35. ^ 井伊直政・本多忠勝・榊原康政の知行割に関しては、川田貞夫が豊臣政権によって配置・石高を指定されたとする説を唱えて、以後通説となっている。ただし、川田が主張した鳥居元忠・大久保忠世にも適用されたとする考えには、通説を支持する学者の間でもこれは認めないとする市村高男らの反論(井伊・本多・榊原家のみとする)がある。なお、こうした豊臣政権の大名家内部の知行割に対する関与自体は、上杉家における直江兼続の事例などがあり徳川家に限ったことではなかった[111]
  36. ^ 常山紀談』には、本多正信の「殿は渡海なされますか」との問いに家康が「箱根を誰に守らせるのか」と答えたエピソードが書かれている。
  37. ^ 他にも加藤清正や宇喜多秀家および細川忠興の計画への関与の噂もあった。また、石田三成は増田・長束両奉行とともに家康に協力的な立場を取ったという[116]
  38. ^ ただし、加賀征伐そのものが当時流布した根拠の無い風説に過ぎないとし、家康の大坂城入城とそれに伴う新体制(家康による事実上の専権)構築をめぐって、家康と利長の意見の相違が生じて一時的な緊迫をもたらしたとする説もある[118]
  39. ^ なお出典の定かでない話ではあるが、これに先立ち、伊尾川(現・揖斐川)で家康自身が銃撃されたという伝承もあるという。詳しくは神戸町の項を参照のこと。
  40. ^ 豊臣家は摂家の一つにすぎないとされただけで、将来の豊臣秀頼の関白職就任が完全に否定されたということではない。
  41. ^ 家康の源氏復姓の時期については諸説がある(後述)。 清和源氏の出自でなくとも将軍職への就任には問題がなく、過去には摂家将軍皇族将軍の例もあり、将軍になるには清和源氏でなければならないというのは江戸時代に作られた俗説である。
  42. ^ 関ヶ原の戦い後の戦後処理で家康の五男である武田信吉と娘婿である蒲生秀行の新しい所領が確定していなかった。このため、上杉氏・佐竹氏の処分との関連性が言われ、島津氏家臣鎌田政近が国元に充てた書状では、「武田信吉が直江兼続の娘を娶って上杉景勝の養嗣子となる」という風説を記している(『旧記雑録後編』)。しかし、武田信吉の病気もあってこの風説は実現されず、慶長6年8月の上杉氏の減封確定後に没収された旧上杉領の中から会津60万石が蒲生秀行に与えられた[129]。その後、減転封の処分を受けた佐竹氏の旧領が信吉に与えられることになる。
  43. ^
    徳川家康征夷大将軍補任の宣旨

    内大臣源朝臣 左中辨藤原朝臣光廣傳宣、權大納言藤原朝臣兼勝宣、奉 勅、件人宜爲征夷大將軍者 慶長八年二月十二日 中務大輔兼右大史算博士小槻宿禰孝亮奉

    (訓読文)
    内大臣源朝臣(徳川家康、正二位) 左中弁藤原朝臣光広(烏丸光広、正四位上・蔵人頭兼帯)伝へ宣(の)る、権大納言藤原朝臣兼勝(広橋兼勝、正二位)宣(の)る、勅(みことのり)を奉(うけたまは)るに、件人(くだんのひと)宜しく征夷大将軍に為すべし者(てへり) 慶長8年(1603年)2月12日 中務大輔右大史算博士小槻宿禰孝亮(壬生孝亮、従五位下)奉(うけたまは)る

    — 日光東照宮文書、壬生家四巻之日記

    ※同日、右大臣に転任し、源氏長者、牛車乗車宮中出入許可、兵仗随身、淳和奨学両院別当の宣旨も賜う。

  44. ^ 当時のオランダは公式には共和制であった(ネーデルラント連邦共和国)。オランダが正式に王制となるのは19世紀初めのウィーン会議後である。
  45. ^ 家康はこの時期、主筋である豊臣氏を滅ぼすことの是非を林羅山に諮問しているともいわれるが[139]、この時期の林羅山は家康に対して、そのような大きな発言権はないとする近年研究もある[140]
  46. ^ 『摂戦実録』によれば、撰文をした文英清韓は「国家安康と申し候は、御名乗りの字をかくし題にいれ、縁語をとりて申す也」と弁明し、家康のを「かくし題」とした意識的な撰文であると認め、五山の僧の答申はいずれも諱を避けなかったことについて問題視したという[139]。ただし『摂戦実録』の成立年代は江戸時代・1752年である[1]
  47. ^ で評判になっている目新しい料理として茶屋四郎次郎清次が紹介し、田中城(現・静岡県藤枝市)にて供したものである[159]。なお、「天ぷら」とは呼ばれているが、衣は無く、実際はから揚げに近い。cf. 天ぷら#逸話
  48. ^ 江戸城内に限った話ではなく、温度計による油温管理ができなかった時代、食用油は容易に引火し、かつ消火は困難であった。それゆえにそれ以外の建物内においても、天ぷらは火災予防のため忌避され、専ら屋台で調理人により料理される時代が太平洋戦争まで続いた[162]
  49. ^ 『東武実録』では、久能での埋葬の段では「神柩」とし、日光への「改葬」の段では「霊柩」として、柩の呼称を区別している。
  50. ^ 野村玄によれば、当時国内では寛永飢饉、国外では交替と鎖国令に伴うポルトガルの報復の可能性によって江戸幕府は緊迫した状況にあり、将軍であった徳川家光は単なる家康への崇敬のみならず、元寇のときの風宮改号の故事を先例として東照社を東照宮と改号して「敵国降伏」を祈願したとする[165]
  51. ^ 徳川慶喜の墓地がある「谷中墓地」と称される区域は、都立谷中霊園の他に天王寺墓地と寛永寺墓地も含まれており、寛永寺墓地に属する。
  52. ^ a b 年は、1582年10月4日以前はユリウス暦、それ以降はグレゴリオ暦に基づく。日付は宣明暦長暦。
  53. ^ 天正14年の段階で遡及的に叙位されたと考えられる。以下同じ[182]
  54. ^ 『奥平家譜』、直心影流伝書による。なお『急賀斎由緒書』では奥山流。
  55. ^ 柳生宗厳と立ち会って無刀取りされたため宗厳に剣術指南役として出仕を命ずるも、宗厳は老齢を理由に辞退。
  56. ^ 家康は、将軍即位後も鷹狩や鮎漁の際に、頻繁に府中御殿に滞在[189]
  57. ^ 渡辺守綱伝世品は個人蔵、榊原康政伝世品は東京国立博物館蔵(南蛮胴具足 e国宝)
  58. ^ 吉良氏は安城松平家(徳川宗家)にも影響を与えた三河の名族というだけではなく、足利氏の有力な庶流として御一家に列せられた一族であった[39]。谷口雄太は「新田氏流」という概念は『太平記』の影響によって後世作り出されたフィクションで、室町・戦国期には新田氏は足利氏の庶流・一門として扱われていたとする(当然、世良田氏や得河氏も足利一門ということになる)認識から、家康は徳川氏を(新田氏ではなく)将軍・足利氏の一門として位置づけるために実際に有力一門である吉良氏の系図の借用を行ったと主張している[208]
  59. ^ 中には福島家のような取り潰され方[要出典]をした大名もあり、徳川政権の安定を優先させていたと思われる。
  60. ^ 天正13年(1585年)の石川数正の寝返りにより、様々な制度を改めざるを得なくなったという事情もある。
  61. ^ とはいえ、秀吉・家康の天下人となった二人とも信長の元にいたことから、その影響を排除して考えることはできない。信長の姪達である浅井三姉妹から秀吉は自身の側室に長女の茶々を、家康は後継者である秀忠の正室に三女のを迎えており、信長の血縁が重みをもっていたことが窺える。
  62. ^ 2013年の時点では無疵の健全作と思われていたが[226]、その後の調査で疵をならして修復した形跡が発見されている[227]
  63. ^ 他に穴山信君や秋山虎康、または武田信玄の娘などという説もある。
  64. ^ 一説に母は下山殿ともいわれる。
  65. ^ 一説に母は於梶ともいわれる。
  66. ^ 他に蔭山氏広や冷川村百姓の娘などという説もある。
  67. ^ 他に江戸重通の娘などという説もある。
  68. ^ 松代藩真田幸道が江戸幕府に提出した諸系図には台徳院殿(徳川秀忠)娘となっている。
  69. ^ 『柳営婦女伝系』(『徳川諸家系譜』第1巻 続群書類従完成会)の長勝院(小督局)の項に結城秀康が双子であったことが記載されており、また、高野山にある小督局の墓には永見貞愛の名も刻まれている[247]
  70. ^ 徳川実紀』に落胤説があったとの記述がある。
  71. ^ 『後藤庄三郎由緒書』、寛政10年(1798年)ころの史料なので信憑性には疑問がある。
  72. ^ 日光山輪王寺所蔵にある重要文化財の守り袋の考察の一説。

出典

  1. ^ 先発グレゴリオ暦だと1543年2月10日
  2. ^ a b c d 中村 1965, p. 55.
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  4. ^ a b 中村 1965, p. 682.
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  7. ^ 『東照宮御実紀』巻二
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  18. ^ 柴 2017, pp. 40–41.
  19. ^ 黒田 1996, pp. 276–277, 柴裕之「松平元康との関係」.
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  21. ^ 平野明夫 著「家康は、いつ今川氏から完全に自立したのか」、平野明夫 編『家康研究の最前線ーここまでわかった「東照神君」の実像』洋泉社〈洋泉社新書〉、2017年。 
  22. ^ 糟谷幸裕 著「天文十五年~永禄三年」、大石泰史 編『今川史年表ー氏親・氏輝・義元・氏真』高志書院、2017年。 
  23. ^ 糟谷幸裕 著「国衆の本領・家中と戦国大名ー今川領国を事例に」、戦国史研究会 編『戦国時代の大名と国衆 支配・従属・自立のメカニズム』戎光祥出版、2018年、145頁。ISBN 978-4-86403-308-4 
  24. ^ 村岡幹生『戦国期三河松平氏の研究』(岩田書院、2023年)「織田信秀岡崎攻落考証」追記、P291-295.
  25. ^ a b 大石泰史「国衆松平氏と今川氏」黒田基樹 編『シリーズ・戦国大名の新研究 第3巻 徳川家康とその時代』(戎光祥出版、2023年5月) ISBN 978-4-86403-473-9 P56-59.
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参考文献

古典

書籍

論文

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  • 柴裕之「永禄期における今川・松平両氏の戦争と室町幕府―将軍足利義輝の駿・三停戦令の考察を通じて―」『地方史研究』315号、2005年。 /改題所収:柴裕之「今川・松平両氏の戦争と室町幕府将軍」『戦国・織豊期大名徳川氏の領国支配』岩田書院、2014年。 
  • 赤坂恒明「元亀二年の『堂上次第』について ─特に左京大夫家康(三川 徳川)に関する記載を中心に ─」『十六世紀史論叢』創刊号、2013年3月、58-78頁。 
  • 村川浩平天正・文禄・慶長期、武家叙任と豊臣姓下賜の事例」『駒沢史学』第80巻、駒澤大学文学部、2013年、112-129頁。 
  • 福井款彦 著「【総説】伊勢国桑名の名工 村正〜その虚と実〜」、桑名市博物館 編『特別企画展「村正 ―伊勢桑名の刀工―」』桑名市博物館、2016年、41-46頁。 
  • 原, 史彦「「刀 銘 村正」の伝来と妖刀村正伝説」『金鯱叢書』第45巻、徳川美術館、2017年、27-57頁。 
  • 小川雄 著「今川氏の三河・尾張経略と水野一族」、戦国史研究会 編『論集 戦国大名今川氏』岩田書院、2020年。 









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