評価・批判
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/09 09:04 UTC 版)
「アンドリュー・サリス」の記事における「評価・批判」の解説
サリスの映画コラムの戦闘的な姿勢は晩年まで変わることがなく、そのために論敵は数多かった。とくに『ニューヨーカー』誌の人気コラムニストだったポーリン・ケイルとは、生涯を通じて論争を繰り返した。論争の中心はサリスが提唱する「作家主義」である。 1962年にサリスが作家主義を論じたエッセイを発表したのち、ケイルはこれを全面的に斥ける論文を発表した。ケイルによれば、サリスの作家主義論は映画作品に「内的な意味」を求めすぎており、作品とは関係のない際限ない深読みにおちいる危険がある。また映画というジャンルにおいては脚本家やプロデューサー、カメラマンなど多くの人々の共同作業として作品が成立する以上、「映画監督」という一人の個人にのみ作品の芸術性が依存していると考えるのは誤りである。サリスは再びこれに激しく反論しているが、ケイルも洒脱な筆致で幅広い読者の人気を集めていたため、どちらを支持するかで映画ファンの立場も二分され「サリス派/ポーリン派 Sarristes/Paulettes」なる言葉まで生まれている。 このほかサリスの作家主義に対しては、『ニューヨーク』誌に寄稿する映画評論家ジョン・サイモンを中心に、サリスは監督による人工的な構築物としての意味を強調しすぎるあまり、映画における物語の役割を不当に軽視しているといった批判が行われている。 またサリスの『アメリカ映画:監督と潮流 1929-1968』は現在にいたるまで米国の映画批評・映画研究に大きな影響力を保ってきたが、そこに示されている評価が、単なるサリス個人の好悪にもとづく独断にすぎないという批判もしばしばなされてきた。同書においてサリスはサイレント期から1960年代までの映画監督150人ほどを列記し、「殿堂入り」「一発屋」「見る価値なし」などとグループ分けしているが、ここでサリスは後に巨匠と目されるようになったビリー・ワイルダーも「才能不足」と酷評し、スタンリー・キューブリックの『2001年宇宙の旅』は「一貫した物語をつづる能力が欠如」「映画ではなくイベントにすぎない」などと切り捨てている。最晩年に到ってサリスがワイルダーやキューブリックを高く評価する立場に転じたことも、映画監督の評価なるものに抜きがたいあいまいさ・不確かさを見てとる「作家主義」批判に根拠を与えている。 一方で、サリスが推し進めた作家主義は、当時庶民の娯楽としてのみ見られがちだった映画が、文学や絵画と同様の高い価値をもつ芸術作品だと考える見方を米国社会に広く普及させた。また作品にあらわれる映像技法や、そこで表現される映像の意味を監督の視点から読み解こうとするサリスの手法が、印象批評に陥りがちだった当時の映画批評の水準を大きく引き上げ、その後の米国における映画研究の発展に重要な道筋をつけたことも大きな功績である。
※この「評価・批判」の解説は、「アンドリュー・サリス」の解説の一部です。
「評価・批判」を含む「アンドリュー・サリス」の記事については、「アンドリュー・サリス」の概要を参照ください。
評価・批判
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 14:44 UTC 版)
ニューエイジに文化を借用され、商売道具として利用され、アイデンティティを脅かされている非西洋・先住民族の側からは、文化の盗用、スピリチュアリティの搾取・濫用であり、身勝手に改造し本物のようにふるまうなど文化を汚染しており、神聖な儀式を盗んで冒涜しているという厳しい批判がある。ニューエイジの支持者は、「世界のスピリチュアル文化は今や公有財産であり、誰もが手に入れられるもの」であると反論している。 主要な批判として、ニューエイジの個人の自己実現の探究が、実際には真の意味での宗教文化を生み出すことを妨げているという意見がある。 浅はかで、独善的で、無批判的で鈍感、現実逃避、自己陶酔であり、ほとんどが紛い物の治療のようなものの寄せ集めに過ぎない、安っぽい偽物、迷信、霊的にキッチュ、騙しやすい人々から金を巻き上げる手段にすぎないなどと批判されている。様々な研究者は、ニューエイジ的スピリチュアリティを、一種のスピリチュアルなナルシシズムまたは疑似神秘主義とみなしており、ニューエイジの重要な支持者デイヴィッド・スパングラー(英語版)ですら、ニューエイジャーのナルシシズムと世界からの逃避を指摘している。内面にフォーカスすることで政治的関心の領域が狭まっていく傾向があり、この背景に権威主義の危険性があると指摘されている。スパングラーは、「自分の完全な人生を積極的に造り上げるのではなく、新時代を待つことを口実にして、無力感と無責任にひそかに身をゆだねること」をニューエイジの問題の一つとして挙げている。宗教学者の島薗進も、ニューエイジや新霊性運動は、世界は悲劇に満ちており自分はそれに対して無力だが、自分自身には何かをすることができるとして、社会対立や差別構造から目を背けて内向しがちであると指摘している。 またスパングラーは、「未来と引き換えに行われる過去からの疎外。ただ新しいからというだけの理由で新奇なものを好むこと。…全体性との交わりを引き換えにした、無差別性と識別の欠如。その結果、限界の意義を理解し、尊重することができないこと。…心的現象と知恵の混同、チャネリングとスピリチュアリティの混同、ニューエイジの観点と究極的な真理との混同」などの欠点を列挙している。ただし彼は、こうした欠点は一部のニューエイジャーにしか見られないと述べている。 自己実現を至上とし、ラディカルな個人主義の側面があるため、他者との関わりや連帯が薄いが、孤独であっては自己表現ができない(他者との関係でしか「わたし」は成り立たない)ため、自己実現を目指して個人主義を貫くほど自己実現が妨げられるという矛盾がある。シャーリー・マクレーンの後年の著作6冊は孤独や寂しさのトーンがあり、自己実現と自由のモラルに徹底的に忠実であろうとすれば、「すごく孤独で淋しく」あるしかないのではないか、それは挑戦的で自由な自立した人生の代償として受け入れるべきものだと語られる。しかし、一人で生きることは成長につながらないのではという疑問もあるという。一人きりの暮らしは退屈であり、成長のためには生活の中に、ぶつかり合い受け入れ合う自分と違う相手、成長のチャンスを与えてくれる誰かを持つことが必要で、その相手のいない自分は、結局望んだほど成長していないのではないかと語っている。島薗は、ニューエイジのある種の寂寥感と内向性は、豊かな先進国の、特に高学歴者の性格やライフスタイルの反映と思われると述べている。 ニューエイジ・精神世界・スピリチュアル・自己啓発の世界には、自分を知りコントロールできれば何とかなる、なにかすばらしいブレイクスルーがあるという期待感があり、麻薬のような魅力を放ち人を惹き付けているが、表象文化研究者の加藤有希子は、この期待感がニューエイジとその周辺をキッチュにしている一つの要因であると述べている。 ニューエイジには「救い」の観念の欠如が見られ、同胞愛や奉仕、互助の精神があまりない。ニューエイジャーは、運命の法則は把握でき個人によってコントロールできると考えるため、自立心に富んでいるように見えるが、悪や不幸をリアリティをもって想像できない(しない)傾向があり、ストイックなまでの自立の精神がそのまま他者に向けられ、暗黙の裡に「あなたがそういう境遇にいるのは、あなた自身の責任なのだ」、自業自得なのだというメッセージが発せられる。加藤は、そのような倫理観は、弱者を追い詰める残酷で心の狭い上からの押し付けであり、心構えを変えるだけ現実に変化がみられるほど摩擦の少ない世界に生きるエリートの思考法であると述べている。失敗や不幸が全て自分の気持ちに帰せられるため、積極思考から出発したにもかかわらず、非常に自己嫌悪に陥りやすく、加藤はそもそも「自分をコントロールする」という考えそのものが錯誤である可能性を指摘している。自分を知ってコントロールすることで現実をコントロールできるという考えや「本当の私」への期待は、現在では社会全体に広まり、就活のバイブル的存在の『絶対内定』、文科省が小学生に配布する『心のノート』などにも見られる。 宗教学者の島薗進は、こうしたニューエイジ思想は、貧富の格差や差別の肯定に利用される可能性がある指摘している。多くの宗教が同様の批判を受けてきたが、神や仏といった超越的なものの前での人間の平等が説かれ同胞愛が鼓舞される場合、差別批判の可能性が開かれ、宗教が差別批判の運動を率いることもあった。しかしニューエイジは、同胞愛、平等な人間の横の連帯という理念が乏しいため、差別批判の根拠がはっきりしない。 ポジティブであらねばならないと思い、ネガティブな気持ちを持つことを心配し、常に気持ちを修正し続けることは、強い義務感であり、バーバラ・エーレンライク(英語版)は『ポジティブ病の国、アメリカ』(Bright-sided 、2009)で、ポジティブシンキングは、ある意味ではカルヴァン主義のような前時代的な厳しい精神修養になっていると指摘している。 人間性回復運動、エスリン研究所、ニューエイジで重視された「自分で自分を変えられる」「自分で自分を作ることができる」という信念は、「自分はなんでもできる」という思考に、そして「望んだ結果は、必ず手に入る」という考えに繋がり、自己変革の手法が商売に展開してビジネスマン向けの自己啓発セミナーが行われた。そして、化粧品の連鎖販売取引を行ったホリディマジックでの人材育成を通して、自己啓発のノウハウ自体がネズミ講の商材ともなっており、これは日本にも上陸している。
※この「評価・批判」の解説は、「ニューエイジ」の解説の一部です。
「評価・批判」を含む「ニューエイジ」の記事については、「ニューエイジ」の概要を参照ください。
評価・批判
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/16 04:17 UTC 版)
森村によれば、森村は本書を刊行したことで右翼の街宣車から罵声を浴びせられたり、嫌がらせ電話や窓への投石をされた。 秦郁彦は、731部隊による細菌戦研究や人体実験を認めつつも、『悪魔の飽食』を「ノベル(小説)とノンフィクションがごちゃまぜになった」作品と評した。秦によれば、写真誤用事件が社会的に注目されたことが奇しくも切っ掛けとなって、歴史家の間でも731部隊関係資料発掘などが進み、「森村事件以後の数年、七三一部隊に関する学術的研究は大幅に進展した」。斎藤美奈子は『悪魔の飽食』の731部隊についての記述を「カッパ・ノベルスという大衆的なメディアで放った意義は大きかった」とする一方、一部に「ドラマチックな表現」があり「演出過剰」のきらいがあるとする。中川八洋は「ノンフィクション作品」ではなく、「プロパガンダ小説」であると批判した。
※この「評価・批判」の解説は、「悪魔の飽食」の解説の一部です。
「評価・批判」を含む「悪魔の飽食」の記事については、「悪魔の飽食」の概要を参照ください。
評価・批判
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/14 15:23 UTC 版)
肯定的評価 映画監督の是枝裕和は、「これは、新聞記者という職業についての映画ではない。人が、この時代に、保身を超えて持つべき矜持についての映画だ」と絶賛するコメントを寄せた。 否定的評価・批判 経営コンサルタントであり経済思想家である倉本圭造は、この映画が「左翼さんの内輪ウケ」映画であると評している。映画では内閣情報調査室の官僚がツイッターで左翼を攻撃する書き込みをするところや「新しい獣医学部設立」の目的は生物兵器研究であるといった陰謀論的展開にリアリティがない一方で、実力派の俳優と映画監督が上質の映像にしてしまったため、ストーリー自体の「ギャグなのか?」感が余計にチグハグな滑稽さを醸し出してしまっていると倉本は述べている。なお、倉本は「右翼さんの内輪ウケ映画」があってもいいように、「左翼さんの内輪ウケ映画」があってもいいとしながら、日本の左派が影響力を取り戻すにあたって「百田尚樹氏の日本国紀」を嘲笑しておいて、自分たちがやってるのはコレってどうなんだ!?というのは、良識的な左派の人ならちゃんと問題だとわかっているはずと皮肉を述べている。
※この「評価・批判」の解説は、「新聞記者 (映画)」の解説の一部です。
「評価・批判」を含む「新聞記者 (映画)」の記事については、「新聞記者 (映画)」の概要を参照ください。
評価・批判
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/16 22:48 UTC 版)
肥満でありながら自信に満ちた芸能人やモデルの活躍により肥満女性のイメージの肯定的変換に役立ったという意見がある。 欧米のファッション業界が太めの女性を起用する動きは、若年層の摂食障害の原因がファッション業界にあるとの批判をかわすためのアリバイに過ぎないとの見方がある。 デザイナのカール・ラガーフェルドは2009年に雑誌のインタビューで「曲線美人は望まれていない」とファッション業界が痩身モデルを重視する考えを支持した。 ぽっちゃりした女性を「やわらかい」「優しい」「包容力がある」 「おっとりしている」「おおらか」などとする定型化された安易なキャラクター付けに批判がある。また、そのイメージにふさわしい明るく可愛く振る舞う女性のみが受け入れられているだけであり、肥満への偏見は相変わらず残存したままであるとの指摘がある。 健康を重視する立場の人々からは、言葉を変えたところで肥満が不健康の象徴であることに変わりはないという批判がある。
※この「評価・批判」の解説は、「ぽっちゃり」の解説の一部です。
「評価・批判」を含む「ぽっちゃり」の記事については、「ぽっちゃり」の概要を参照ください。
評価・批判
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/16 10:19 UTC 版)
佐伯の宗教史研究は比較宗教学者マックス・ミュラー(アーリアン学説の提唱者)の影響を受けたものであり、彼の景教東伝史研究は、英語の著書も刊行されたことから日本国内のみならず国際的にも高い評価を獲得した。この結果、佐伯はその後長く景教史研究の国際的権威とみなされることになった。 しかしその一方、1908年の論文「太秦を論ず」で発表された「秦氏=ユダヤ人景教徒」説は、古代日本の渡来人系有力氏族・秦氏の本拠地であった京都・太秦の地名・遺跡などを根拠としながらもほとんど語呂合わせ的なものであり、当時の歴史学界ではほとんど相手にされなかった(現在も否定されている)。 彼の日ユ同祖論(日本人・ユダヤ人同祖論)を主張する人々からは、同祖論を学術的に根拠づけるものとして歓迎されたが、晩年、弟子の服部之総に「在来の、日本的に矮小な開発計画では駄目だ。ユダヤ人の大資本を導入してやろう。それにはユダヤ人の注意を日本に向けさせる必要がある」と、同祖論が単なる功利的な「企画」であることを語り、服部を仰天させた。
※この「評価・批判」の解説は、「佐伯好郎」の解説の一部です。
「評価・批判」を含む「佐伯好郎」の記事については、「佐伯好郎」の概要を参照ください。
評価・批判
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/19 02:23 UTC 版)
「韓国ドメインからの2ちゃんねるへのサイバーテロ事件」の記事における「評価・批判」の解説
中央日報 テロ当初は「日本陥落」というタイトルで、テロを煽る記事を書いていたが、アメリカのサーバーが損害賠償請求をほのめかす声明を発表してからは一転、社説で、「日本ネチズンによるキム・ヨナへの誹謗中傷は金メダルを取れなかった悔しさからくる稚拙なもの」と非難し、それに対抗するのは同レベルだから「もうやめよう」と呼びかけた。 朝鮮日報 朝鮮日報は2010年7月2日、韓国メディアが反日感情を過度に刺激しているという指摘があると報じ、今回の事件もメディアの過剰反応が原因だと指摘している。
※この「評価・批判」の解説は、「韓国ドメインからの2ちゃんねるへのサイバーテロ事件」の解説の一部です。
「評価・批判」を含む「韓国ドメインからの2ちゃんねるへのサイバーテロ事件」の記事については、「韓国ドメインからの2ちゃんねるへのサイバーテロ事件」の概要を参照ください。
評価・批判
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 05:21 UTC 版)
蓮實重彦・上野昻志・絓秀実らは座談で、鶴見が左翼系知識人にすりよりながら、いつも左翼にならないこと、また蓮實重彦は「動体視力」つまり映画や文学を語る時の視力が鶴見には決定的に欠けており、それゆえ、鶴見の文化評論がことごとく無内容なものになっていると批判している。また幸福会ヤマギシ会を支持し、ヤマギシ被害者から抗議を受けた。 伊藤隆は鶴見をいいだもも、飯沼二郎と並んで「進歩派」と定義している。
※この「評価・批判」の解説は、「鶴見俊輔」の解説の一部です。
「評価・批判」を含む「鶴見俊輔」の記事については、「鶴見俊輔」の概要を参照ください。
評価・批判
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/13 18:57 UTC 版)
「ファシズムの定義」も参照 ファシズムに対しては第二次世界大戦の終結後以降、さまざまな理由から幅広い批評・批判がなされている。ファシストの思想への批判以外にも、その本質や特徴、更には整合性を持った思想かどうか、について議論が続いている。ある見解では、ファシズムは現実の思想では全く無い。この見解ではファシズムは、単に虚無的な暴力を約束しただけの非合理的で機会主義の政策による体制であり、論理的または合理的な定義は持たず、その公式な思想の各部分は単なる宣伝の道具で、しばしば矛盾する。 第二次世界大戦以前 第二次世界大戦以前は、多くの指導者がファシズムやファシストのリーダーに敬意を払った。ウィンストン・チャーチルは、ムッソリーニは共産主義の脅威からイタリアを防衛するための強力な能力を持っていると主張し、また自由主義のための犠牲の価値を主張して、1937年後半までイタリアのファシスト体制を支援した。パン・アフリカ主義のナショナリストであるマーカス・ガーベイはかつて、彼は最初のファシストであると主張し、ムッソリーニやアドルフ・ヒトラーが下層階級を起源に生まれたという事実を尊敬すると宣言した。アメリカ合衆国大統領のフランクリン・ルーズベルトは、第二次エチオピア戦争でイタリアのエチオピアへの侵略を非難する前に、彼がムッソリーニを示して「賞賛に値する紳士と連絡を保っている」と言った。マハトマ・ガンディーは、ムッソリーニとイタリアに平和の価値を広める試みのため、1931年12月にムッソリーニに会いにイタリアに旅行した。ただしこれらの行動には外交的配慮や儀礼的なものも含まれる。しかし、アメリカ対日協議会の元になったニューズウィーク役員などによる公然たる支援は形式的といえないものであった。 第二次世界大戦が始まると、彼らの多くはファシズムを批判的に扱うようになり、あるいは言及を控えるようになった。こうした彼らの過去はしばしば反対者からファシストに好意的であったと批判される時の材料となる。 マルクス主義者による批判 マルクス主義者は唯物史観と階級闘争の立場から、ファシズムを資本主義者による専制だと非難する。それは保守主義的な反動を作る試みであり、労働者階級には人気があるが、実際には労働者階級を抑圧するとした。ファシズムの支持基盤は、単に独占資本主義であったという説、国家や民族全体の熱狂であったとする説の他、大企業などの資本家階級でも労働者階級でもない保守的な中産階級であったとの説もある。 マルクス・レーニン主義者は、ファシズムを「全ブルジョアによる労働者階級に対する政治的な攻撃」「大資本、大地主の家来」と批判した。ウラジーミル・レーニンは「ファシズムは腐敗崩壊段階の資本主義」と批判した。ゲオルギ・ディミトロフはコミンテルン第七回大会でイタリアのファシスト政権を「金融資本の最も反動的な、最も排外的な要素によるテロリズム独裁」であると非難した。マルクス・レーニン主義者達はウラジーミル・レーニンの論に従ってファシズムが「帝国主義」から生まれたものであるとした。レフ・トロツキーはコミンテルンとは異なった見解として、「イタリアのファシズム運動は広範な大衆の自然発生的な運動」で、「ファシズムの真の基盤は小ブルジョアジー」であるため、イタリアとドイツでは大きな基盤があり、労働者階級が多いイギリスでは基盤は小さいが今後は予測できない、と分析した。 ハンガリーの共産主義者の Djula Sas は1923年の評論で、イタリアのファシストは労働者階級の組織を解体し、特定の地域では賃金を大幅減少させ、相続や戦争の利益への税を廃止して、「国家的生産」の必要性を強調した、と記した。Sas によれば、これらの行動はファシズムは産業資本主義の奉仕であったことを明白に示した。 マルクス主義者によるファシズム批判に対する反論としては、マルクス主義者のファシズム解釈は、典型的には発展途上の取り組みを基礎としており、マルクス主義者のファシズムの発展途上の視点は、開発途上国ではファシズムが出現しなかった理由の説明の欠落が批判されている。また、大きい相違を持つ複数の運動を、単純に「ファシスト」と分類しているとの批判がある。この結果、カストロ配下のキューバや、ホー・チ・ミン配下のベトナムなどを含む複数の共産主義体制は、そのような解釈で「ファシスト」と宣言し続けている。 第二次世界大戦後 心理学者のエーリヒ・フロムは著作「自由からの逃走」で、ファシズム(ナチズム)を少数者による狂気と恐怖支配とするのは間違いで、近代の人間は自由を得て伝統的な権威や束縛を失った結果、孤独・無力・恐怖となり、「自由からの逃走」として自ら権威を求めるファシズムや、更には多くの民主国家においても強制的同一化が発生したと主張した。 ハンナ・アーレントは著作「全体主義の起源」でファシズムとスターリニズムは、いずれもジョルジュ・ソレルの思想の影響を受け、その起源はバブーフなどの「フランス全体主義」であるとして、ファシズムとスターリニズムを「双生児的な全体主義」と呼んで批判した。この見解は両者を批判するリバタリアニズムの立場からも主張されている。 経営学のピーター・ドラッカーはファシズムの特色として積極的信条を持たず他者を攻撃・否定すること、政治と社会の基盤が権力であることを否定すること、そしてファシズムへの参加は提唱者によって行われる約束を信じるのではなく、信じないために行われるという三点をあげている。 反ファシズム 詳細は「反ファシズム」を参照 ファシズムに対する批判者の立場を総合して反ファシズムと呼ばれる。戦後に誕生したイタリア共和国において反ファシズムが基本理念とされ、支配的なイデオロギーとなった。1960年にはファシスト系のイタリア社会運動の党大会開催に抗議し、ジェノバでイタリア共産党主導によるゼネストが暴動が発生した。しかしイタリア社会運動もその後穏健化し、明確な「ファシズム」復活の危機は減少している。セルジョ・ルッツァット(イタリア語版)は『反ファシズムの危機』の中で「反ファシズム」が「ファシズム」の存在を前提としており、明確な「ファシズム」が存在しない現状で「反ファシズム」が単なる偶像と化してしまうのではないかという危機感を表明した。
※この「評価・批判」の解説は、「ファシズム」の解説の一部です。
「評価・批判」を含む「ファシズム」の記事については、「ファシズム」の概要を参照ください。
評価・批判
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/27 08:15 UTC 版)
神社本庁は指令により神道の信仰が「不当に圧迫された」とした。 葦津珍彦は神道指令に関する1960年(昭和35年)の論文で、「重大な障害がない限り」("as long as there is no serious obstacle")占領軍は「被占領地の信仰と慣習に干渉すべきでない」("should not intervene in the religious faith or customs of an occupied area")ということがハーグ条約で定められていたとして、日本占領軍による神道の弾圧は国際法からの逸脱だと批判した。 新田均と武田秀章は神道と日本の国家は本来「区別しがたいほどに密接している」ものであり、国家と独立した歴史を持つキリスト教の政教分離と比べて神道の政教分離は非現実的であるとして、平成17年に神道指令を批判した。 島薗進と菅孝行は神道指令は神社を国家から切り離すことに主眼を置いており、天皇と皇室の祭祀に制約を加えなかった点で不徹底であったとする。
※この「評価・批判」の解説は、「神道指令」の解説の一部です。
「評価・批判」を含む「神道指令」の記事については、「神道指令」の概要を参照ください。
評価・批判
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/10 23:57 UTC 版)
歴史を研究する際は、あくまでイデオロギーからは離れるべきで、一方を悪玉、他方を善玉というレッテル貼りをする研究では真実を見失うとしている[いつ?]。これについて井沢元彦はまさにその通りだと藤岡を評価し、藤原彰のように近現代史の学者はイデオロギーで研究結果を出してしまう人が多いと指摘している。一方で、著書『歴史人物シリーズ 高杉晋作』に関して、「確証された史実のみで書き綴ると」「無味乾燥になってしまう」から「私は、許されるウソは書いてもよい、許されないウソはなるべく書かない、という方針で執筆を続けることにした。」と述べている。 米軍史ニュースサイトのWar History Onlineは、近年の日本のナショナリスト運動は、第二次世界大戦中の日本の歴史を消毒しようとしている」と、藤岡信勝らの主張を「不吉な歴史修正主義者」として批判し、それを書き直すことは、歴史を生きてきた人々を侮辱することだと批判した。 東京大学教育学部で9年間同僚だった元学部長の佐藤学は、藤岡は1991年に文部省の在外研究員として渡米するにあたって「アメリカの教室におけるナショナリズムを、文化人類学の方法で研究して1年で学位論文を書く」と言っていたが、挫折して帰国した。「自虐的な日本人ということが語られるのはその頃からです。けれども、僕から見ると、彼のほうがよっぽど自虐的です。ロシアやアメリカの陰謀説に自分自身の歴史や日本の歴史を重ねてしまっている。戦後の日本人の一部が抱き続けた報復感(ルサンチマン)と屈辱感が凝縮して表れていると思えてしかたがない」などと語っている。 二十数年来の付き合いがあった教育学者板倉聖宣は、藤岡が著書『近現代史教育の改革―善玉・悪玉史観を超えて』で「板倉氏が、湾岸戦争の一時期、イラクのサダム・フセインをアラブ解放の旗手であるかのようにあつかう発言をされた。これは私には、まったく意外なことであった」と書いた ことに対し、そのような発言はしていないと反論している。
※この「評価・批判」の解説は、「藤岡信勝」の解説の一部です。
「評価・批判」を含む「藤岡信勝」の記事については、「藤岡信勝」の概要を参照ください。
評価・批判
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/18 09:16 UTC 版)
ブラヴァツキーの最初の著作『ヴェールを剥がれたイシス』は、大学教授やジャーナリストからは見向きもされず、比較宗教学の祖でブラヴァツキー同様すべての宗教には一つの共通の基盤があると考える傾向のあったマックス・ミュラーからも、容赦ない批判を受けた。しかし、生活にゆとりのある中産階級のオカルティズム愛好者や独学の心霊研究家たちの心を動かし、千部印刷された本は数週間で品切れになった。 ブラヴァツキーの精力的で喧嘩好きな性格や、神秘を演出するためのちょっとした手品、思想を彩る作り話、演出された態度、学問的精密さと「科学的」資料が重視された時代に著作の典拠をセンセーショナルに偽るといったやり方は反発を招いた。神智学協会に始まる〈神智学〉を分析、批判したルネ・ゲノンは、「〈神智学〉は東洋の正当な思想を代表するものでは全くない」と結論付けており、フレデリック・ルノワールもこれに賛同している(ただしルノワールは、ゲノンの批判の中には、仏教に関する誤った理解に基づく根拠のない批判や、公平ではない批判も含まれていたことも同時に指摘している)。 ルノワールは、「仏教はそこでは、根本的に西洋的な、わけてもキリスト教的な伝統の刻印を残したままの教義を表現するための、一種の口実でしかなかった」と述べ、神智学協会が主導した企てを「自身の教義の本体や自身の神話をでっちあげるために仏教を横取りする」意図的な同化の企てであると批判している。また、〈神智学〉の魅力は「流行と異国趣味の活用」「寛容でドグマなき宗教」「チベットとオカルト的力」などにあり、 転生の理論は仏教由来ではなく西洋の進歩主義の投影であり、その教義はブリコラージュであるとし、〈神智学〉の内実は西洋オカルティズムと東洋宗教の寄せ集めであると指摘した。 奇妙な歴史観・進化の解釈、人類進化の先頭に立つのは「アーリア」民族で、オーストラリア・アフリカの原住民は「脳の狭い」人間の名残でアーリア人より遙かに劣るとするような人種差別的見解などが評価を下げているが、ニューエイジとその周辺を研究したセオドア・ローザクは、ブラヴァツキーの思想には歴然としたあらゆる欠陥があり、批判が山積みにされているが、彼女のオカルト諸派の教えに対する直感は鋭く、主題にふさわしいスケールの仕事をし、その才能は際立っていると評価している。 彼女のぶかっこうな形而上学的思弁を評価できないにしても、その〈神智学〉は19世紀思想中で最も冒険的で興味ある体系であり、少なくとも超越的パーソナリティに関する心理学(トランスパーソナル心理学)においては創始者と見るべきであると述べている。一方、大田俊寛は、〈神智学〉を一つの始まりとする、輪廻転生を通した「霊魂の進化」という思想は、往々にして純然たる誇大妄想の体系に帰着してしまい、霊的なレベルを根拠とする階級意識・差別意識、被害妄想の昂進、偽史の膨張などの問題が見られると指摘している。
※この「評価・批判」の解説は、「神智学」の解説の一部です。
「評価・批判」を含む「神智学」の記事については、「神智学」の概要を参照ください。
評価・批判
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/06/25 23:52 UTC 版)
「プレミアム・パスポート事業」の記事における「評価・批判」の解説
榊原智子によると、協賛店舗の飲食店チェーン店長は「親子でくつろげるというイメージが定着し、女性や高齢者にも客層が広がった」と話したほか、他の自治体からは「少ないお金で実施できる子育て支援策」として注目され、同様の事業が20県以上で導入されたという。一方、プレミアム・パスポート事業や石川県庁がモデルとしたフランスの「大家族カード(カルト・ファミーユ・ノンブルーズ)」が、子どもが3人以上いて出費が多くなる家庭への「多子世帯支援」としているのに対して、行政関係者の間で「多子世帯だけが対象でいいのか」という見方があるという。 横内孝によると、事業開始から2年足らずで全国に広がり、ある県の担当者は「ほとんどの自治体は今、財政的余裕がない。少ない予算で大きな効果が期待できる」と指摘する一方で、優待サービス導入をためらう自治体の担当者は「協賛企業が地域によって偏り、どこに住んでいるかによって、住民がサービスを利用する機会が公平にならない恐れがあった」ともらしたという。 島村友紀によると、子育て家庭へのメリットだけでなく、大型店舗等に流れがちなファミリー層を地元商店街に呼び戻し、その活性化にもつながることから、「子育て家庭、地元店舗、行政にとってメリットのある好事例」という。
※この「評価・批判」の解説は、「プレミアム・パスポート事業」の解説の一部です。
「評価・批判」を含む「プレミアム・パスポート事業」の記事については、「プレミアム・パスポート事業」の概要を参照ください。
評価・批判
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/28 08:45 UTC 版)
誰でもわかるやさしい文体という宣教師達の考え方と、格調の高い漢文風にしようという日本人補佐たちの意見が重なり、独特の和漢混交体での翻訳となった。その評価は分かれるが、日本語の書き言葉自体が大きく揺れ動いていた時期でもあり、明治元訳はその後の日本語の文章の一つのモデルを示したとも評されている。特に旧約聖書の詩篇については、その文体の美しさから日本文学へ影響を与えている。 協力者の一人高橋五郎は、新約聖書は「支那訳」、旧約聖書は「英人は英文の聖書より翻訳し、米人はカイル・デリチに等に本づき」訳したため一致を欠き、文体にも問題があるが、とにかく完成したことは評価している。これに対して、松山高吉は、新約聖書はギリシア語の原書からの翻訳であることと、旧約聖書翻訳における日本側委員に向けられた批判の弁明を行った。 磯貝雲峯は1891年に『福音新報』に寄せた『今日の日本訳聖書』という文書の中で、西洋では聖書が文学書としてすぐれた翻訳がなされているばかりでなく、その地方の文学に影響を及ぼしていること、それに対して「明治元訳」は直訳調で日本文と思えないものが多いとして、速やかな改訳を訴えている。 浅田栄治は専門家の立場から、かなり詳細に誤訳を拾い出している。間違いのない訳は旧約聖書では三分の一、新約聖書では五分の一としている。しかも、誤訳の箇所は英訳聖書や中国語訳聖書と共通するとして原文から直接翻訳する必要を説いている。 上田敏は、一部の翻訳に高い評価を与えている。近代化の流れの中で浅薄な西洋文化があふれるとき、「精確厳密なる研究」こそが大切であり、そのためには聖書の精読が必要であると説いている。「明治元訳」は「筆路頗る雅健なり」と高い評価をしている。
※この「評価・批判」の解説は、「明治元訳聖書」の解説の一部です。
「評価・批判」を含む「明治元訳聖書」の記事については、「明治元訳聖書」の概要を参照ください。
評価・批判
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/03 11:01 UTC 版)
「Oyezプロジェクト」の記事における「評価・批判」の解説
Oyezは1998年、アメリカ法曹協会のSilver Gavel Awards(英語版)を受賞した。 Oyezは2006年に国営メディアのボイス・オブ・アメリカ (VOA) 上で「今週のウェブサイト」として特集された。 2000年アメリカ合衆国大統領選挙のフロリダ州得票数を巡る「ブッシュ対ゴア事件」では、Oyezの報じ方に疑問が呈されたことがある。Oyezはウェブサイト上で、9人の合衆国最高裁判事が7対2で「フロリダ州の投票を再計算すべきとのフロリダ州最高裁判決は違憲」と報じた。しかし2007年、ワシントン大学政治学教授のScott Lemieuxは、"OYEZ: NOT TRUSTWORTHY?" (Oyezは信頼できない?) と題した批評をリベラル系政治オンラインメディアのThe American Prospect(英語版)に投稿し、Oyezの「7対2」とした表記を「ウソ」だと指摘している。9名の合衆国最高裁判事のうち、スティーブン・ブライヤー判事とデイヴィッド・スーター判事の2名はフロリダ州最高裁の判決に対して賛否両論であり、違憲7名にカウントすべきでないとLemieuxは主張している。"...Oyez, normally a valuable resource, is..." (Oyezは基本的には有益な情報源ではあるが...) とことわりを入れた上で、「7対2」でブッシュ支持との合衆国最高裁判決が右派 (つまりブッシュの所属する保守系の共和党支持者) によって繰り返し悪用されている点を問題指摘している。
※この「評価・批判」の解説は、「Oyezプロジェクト」の解説の一部です。
「評価・批判」を含む「Oyezプロジェクト」の記事については、「Oyezプロジェクト」の概要を参照ください。
評価・批判
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/06 04:46 UTC 版)
1943年3月、トマス・サグルーによる、ケイシーの最初の伝記『There is a River』が刊行された。リーディングの記録を分析し歴史観や思想を論じた本など、晩年から死後にかけてケイシーに関する著作が複数出版されて広く読まれ、徐々に社会に知られるようになった。 1950年にジナ・サーミナラが著した『Many Mansions』(邦題:転生の秘密)は版を重ね、ロングセラーとなった。1967年から68年にかけて本国で計8冊もの関連書籍が出版され、ニューエイジ思想の浸透に大きく寄与した。 彼の情報源であるアカシックレコードは、求められる情報の性質によって得手・不得手があるとされている。例えば、前世の行為に基づく災難や病疫、聖書の記者に聞かなければ理解できないこと、質問者の個性や長所、治療や健康に関する医学的な質問、といった属人的な情報は比較的有用であったともいわれるが、一方、石油はどこに埋蔵されているか、日本軍の侵攻の予定、あるいは普遍的な真理や瞑想の人生への応用等の質問への回答は有用とは言い難く、具体性に欠き抽象的な表現が多い。時々寄せられる、予言が正確でなかった場合の苦情への回答や、予言ができないという説明として、個人の行動に依存するものや選択によるもの、あるいはビジョンの不足により予言できないものもあるとも述べている(257-27 22 Ans,311-11 24Ans 他)。 また、未来の予言に関するものに限れば、当たっているものを探す方が難しく、アトランティスの再浮上、ピラミッドに隠された文献の発見、日本の海への没入(1958年から1998年の間に日本の大部分が沈没するといった予言が有名でありハラリエルという「警告」の天使が語った特殊な例とされる)といった予言の類は外れている。1998年にイエス・キリストが再来し、その際巨大地震が相次いで起こり地球の地形が一変するという予言も外れている。 初期の頃のケッチャム医師やアーサー・ラマースらによって残された、神話的な治療、形而上学的なリーディングや、十中八九を当てた予知能力といった、一部の神話化されたエピソードが前面に出ることで、強い予知能力を持っている印象を与えている。しかし、実際に記録として残されているリーディング結果に当たった予言があるかは不明である。記録によって検証される範囲では、少なくとも超常的なリーディングの内容を見いだすのは困難であり、一部のケイシー研究家や占い師によって、神話が伝承されている状況にある。 また瞑想だけで人格が高まるような表現や、「中世の文明から抜け出たばかりの日本人は、西洋人が見えるようなオーラを見ることができず、無理して視力を酷使しているため、皆眼鏡をかけている」と揶揄するなど、人種差別的な発言もある。表象文化論を研究する埼玉大学基盤教育研究センター准教授の加藤有希子は、当時のオーラ言説の多くは植民地主義的人種差別や女性蔑視の温床になっており、ケイシーの場合も「社会的弱者に対して優位性を示したいという、コロニアリズム特有の歪んだ欲望が見て取れる」と指摘している。
※この「評価・批判」の解説は、「エドガー・ケイシー」の解説の一部です。
「評価・批判」を含む「エドガー・ケイシー」の記事については、「エドガー・ケイシー」の概要を参照ください。
評価・批判
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/31 21:59 UTC 版)
日本維新の会の浦野靖人は、日本の受動喫煙防止法案がもくもく会の抵抗によって阻まれている実情を、国会の中で再三に渡り言及している。2016年3月18日の厚生労働委員会において、受動喫煙防止法案が進まない原因の一つとしてもくもく会の存在を挙げ、「その団体が割と権力を持っておりまして、なかなか前に進まないというのが現状」「もう多分進まないんじゃないかと思っているぐらい抵抗が激しい」との現状を語った。 2017年3月8日の内閣委員会において、厚生労働省が検討している原則屋内禁煙の健康増進法改正案について、「これからももくもく会の皆さんの抵抗がまだまだあるとは思いますけれども、この法案、必ず出していただきたい」と主張した。 2018年6月15日の厚生労働委員会において、前年に厚生労働省が検討していた原則屋内禁煙の健康増進法改正案が提出できなかった原因について、「国会内には、もくもく議連という、たばこを吸う方々の強力な抵抗勢力がある」「その関係もあって、去年、実はこの法案が前に進まなかったんじゃないか」との考えを示した。 宇都宮市議会議員の鎌倉三郎は、2017年3月7日の定例会において、たばこの吸える居酒屋で国政を論じているもくもく会を模範例に挙げ、「喫煙者ファースト」の立場からの受動喫煙対策を嘆願した。
※この「評価・批判」の解説は、「もくもく会」の解説の一部です。
「評価・批判」を含む「もくもく会」の記事については、「もくもく会」の概要を参照ください。
評価・批判
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/24 06:26 UTC 版)
「アースダイバー (書籍)」の記事における「評価・批判」の解説
関東圏を中心に反響を呼び、NHK総合テレビの番組『ブラタモリ』(2008年 - 2012年)、書籍『東京スリバチ地形散歩』などの歴史の古層を探る散歩や、地形ブームの端緒になった。地質学者の羽鳥謙三は、普及書としては異色であると述べ、熟練のライターである中沢は「雑な知識をやたらめったらに料理している」が、「地形というもの見直してみる手掛かりになる」と評している。 自然科学的に厳密な著作ではないため、学者からは批判も少なくない。多摩美術大学の中沢のゼミ・首都大学東京大学院「インダストリアルアートプロジェクト演習」と共に本書のコンセプトをGoogle Earthを使って再解釈するコンテンツ「アースダイバーマップbis」 を作成した渡邉英徳は、本書を「小説」「楽しい読み物」と受け止めているため、「学術的視点からの批判については(意味はわかったとしても)不可解に感じてしまう」と述べている。建築家の河野裕は「アカデミックな論文や公的資料じゃないし、エンターテイメント性までとがめちゃったらつまらない」「ある程度のフィクション性を前提に(了解の上で)楽しんでる人のほうが多いだろう」と述べ、「読物」としては面白いと評価している。一方、まじめな研究論文として受け止めている人も少なくない、受け手側にも問題があるという指摘もある。東京大学海洋教育センターとの共同で、アースダイバーを基にした教育プログラムを開発し、高校生対象のフィールドワークも実施している。その際には地理学者の茅根創が学術的な面を補完している。 地理学者の小口高は、本書が地形ブームに貢献した点を評価しつつ、「地学の常識からは考えられない場所にまで縄文の海が入っ」ており、大きな誤りであると述べ、「しかし本の中では、縄文の海の分布を地学の成果を用いて復元したように記述し(p13~15)、地学書を参考文献に掲載。一方で海の分布はフィクションという表明はない」 と指摘している。中沢の緑の党は環境重視だが、そうであるなら「自然科学の正しい知識を踏まえるべきだが、この点に懸念がある。」と述べている。 慶應義塾大学の石川初は、「アースダイビングという「譬え話」でわかった気になるにはあまりに勿体ないほどに、これまで地理学や地形学や地質学や考古学が蓄積してきた知見はエキサイティングだし奥が深い」、また「地理学/地形学の成果とその応用としての都市観」という議論のひとつとして「アースダイバーの普及による誤解」を、学術的観点からあらため洗い直す必要があると述べている。この本の個人的に残念な点として、中沢の既往研究へのリスペクトがあまり感じられない点を挙げている。
※この「評価・批判」の解説は、「アースダイバー (書籍)」の解説の一部です。
「評価・批判」を含む「アースダイバー (書籍)」の記事については、「アースダイバー (書籍)」の概要を参照ください。
評価・批判
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/08 08:32 UTC 版)
「エルンスト・ヘッケル」の記事における「評価・批判」の解説
19世紀中ごろ、進化論は科学の台頭を象徴する出来事だったが、宗教、政治を巻き込む社会問題となり、危険思想ともなった。進化論を支持したヘッケルは生前から誤解と中傷を受けることが少なくなかった。今日でも優生学の源流にあるとして批判されもするが、他方、生物学者として再評価されてもいる。
※この「評価・批判」の解説は、「エルンスト・ヘッケル」の解説の一部です。
「評価・批判」を含む「エルンスト・ヘッケル」の記事については、「エルンスト・ヘッケル」の概要を参照ください。
- 評価批判のページへのリンク