池田勇人
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/05/02 14:14 UTC 版)
人間関係
吉田茂
- 吉田茂の大磯の家に行くと酒を飲んで、吉田に自分の本当の親父と同じような調子で談論風発し、少しの遠慮もない態度でいいたいことを言って、吉田はそれをまたニコニコ笑って聞いているというような間柄だった。一方で佐藤栄作は酒を飲んでも池田のように談論風発という形はなく、徹底的に吉田に師事するという、本当に教えを乞うという態度を最後まで崩さなかったという[411]。
- 吉田の選挙の費用は全て池田が面倒をみていて、選挙が異常な金喰い選挙になっていき、迷惑がかけられないと吉田は政界を引退したといわれる[411]。吉田は1960年の衆議院総選挙で最下位だったこともあって、池田が1964年春に復活を予定していた生存者叙勲で、最高位の大勲位菊花大綬章の贈与が予想されたため、落選でもすると最後が傷つくと、1963年の総選挙限りで池田が引導を渡した[412]。
- 一般に吉田と池田は師弟コンビとして語られるが、鬼塚英昭は経済オンチで経済政策を池田に丸投げした吉田を池田が尊敬するはずがなく、吉田は出世の階段を昇っていく手段としての師で、本当の意味での師は石橋湛山だったと推察している[413]。
石橋湛山
- 石橋湛山は1946年の第1次吉田内閣で大蔵大臣に就任した際[414]、推薦した小汀利得に「君の推薦で大蔵大臣になったが、大蔵省の小役人どものことは一向俺には分からない。だから君は俺の推薦の責任者として誰か次官を選んでくれ。但し俺が頭がいいから、俺の次官はなるべくぼんくらがいい。そして不可欠の要素は、俺と酒を飲んで見劣りのしないようなやつを選んでくれ」と注文を付けた。小汀は「ぼんくらで酒飲みなら大蔵省を見渡しても池田しかいない」と池田を推薦、石橋は即座に池田を大蔵次官に抜擢した[415]。石橋と池田は毎晩のように酒を食らったという。
- 石橋は大蔵省時代の上司と部下の関係から、戦後に共に政治家となると関係が悪化した。石橋は池田の不信任案に2度賛成し、池田は石橋を2度党から除名した[416]。石橋は池田の政策に何度も異議を唱え、池田は窮地に陥ったこともあるため、これらは出来レースではなく実際に仲が悪かったものと考えられる。しかし石橋が首相になったとき復縁した。石橋は金を持っておらず、池田の資金無くして総裁選を戦えなかった。この取り持ちは松永安左エ門と考えられる[416]。首相になった石橋は組閣人事で「他のポストは全て譲ってもいいから」と池田蔵相にこだわった[205][417]。石橋・池田コンビは「1000億円施策、1000億円減税」という積極政策を打ち出すが、同内閣は2か月の短命に終わった。石橋が3年ぐらい首相をやってその後池田と考えられたので[418]、そうなれば「国民所得倍増計画」に近いものが少し早く実現したかもしれないが、この1957年から1958年の段階では、石橋も池田も理論的にはまだ不十分で[419]、このコンビが続いたとしても経済成長政策がどのような形になったかは不明である。
佐藤栄作
- 旧制一高受験の際、名古屋の下宿で偶然に佐藤栄作と同じ宿に泊まり合わせた。池田は忠海中学校の同級生2人と、佐藤は山口中学校の同級生と、計5人で試験場に行き、入試が終わった日、5人で酒を飲み、大騒ぎして別れた[420]。ただしこの時点ではあくまで同宿人であって、友人として急速に接近するのは、互いに政界入りしてからである。
- 吉田学校の双璧といわれた池田と佐藤は、盟友でもあり最大のライバルでもあった[398][421][422]。両者は親友といわれることもあるが、五高で池田の1年先輩だった細川隆元は「表は兄弟のように親しく見えても、性格の相違とはおかしなもので、両方ともお互いにあまり好きでなかった」と述べている[423]。池田は佐藤より2歳年上だが2浪したため五高で佐藤と同級になり、さらに池田は病気で1年落第したため、佐藤が先に五高を卒業して東大に入った。佐藤は高文の成績が悪く東大卒業後に大蔵省には入れず、定員に満たない鉄道省に入ったが、池田は東大に落ちて京大に行った後、大蔵省に入った[424]。
- 1964年、池田の後を継いだ佐藤は、総理大臣として7年8か月の連続在任を記録したが、そのエネルギーは池田への激しい対抗意識があったといわれる[425][426]。佐藤は池田の3選阻止のため、1964年夏に自民党総裁選挙に立候補した際、記者団に「ソ連には南千島の返還を、アメリカには沖縄の返還を積極的に要求する。領土問題が片付かないと"戦後は終わった"とか、日米パートナーシップの確立とか、ソ連との平和外交の推進とかはいえない。池田内閣が沖縄の返還を正式にアメリカに要求したのは聞いたことがないが、私がもし政権を取れば、いずれアメリカに出かけてジョンソン大統領に対して正面からこの問題を持ち出すつもりだ」と話した。佐藤が総理大臣として後世に名を残すほどの業績を挙げようとする場合、その選択肢はおのずと限られるという事情があった。内政、特に経済面でいえば、「所得倍増計画」をひっさげて登場した池田に比べてどうしても影が薄い[427][345][428]。池田の後を引き継いで池田以上の経済成長はしたが、そもそも経済優先路線を批判して政権に就いたのであった。本来佐藤は経済は全くの素人で[429][430]、蔵相になって経済の勉強を始めたようなもので、「経済政策は基本的には池田路線の踏襲」[314]、「新しいものは何もない」[15]、「池田の成長戦略から漏れ出た部分をフォローするような政治」などと評された[431]。池田に比べて国民的人気も低く、池田の向こうを張って、どうすれば国民的人気を得られるかに腐心した[432]。外交面でも残る戦後処理案件は、日ソについては、領土問題が絡んで難しく、また反共主義者の佐藤が、中国や北朝鮮の国交正常化に本腰を入れる予測は皆無で、すると残りは沖縄返還しかなかった[426][433]。これが佐藤が政治生命を賭けて沖縄の施政権返還に取り組むに至った事情である。
- 池田と佐藤は、吉田茂門下という保守本流の基盤の上に長い交遊関係を続けていた[434]。池田ら5人が立候補した1960年の総裁選挙でも、吉田の説得もあり、結局兄の岸と共に同じ官僚出身の池田を支持し、党人派連合を破り、池田内閣をつくり上げた。佐藤には「池田内閣は、おれが作ってやった」という自負があった[426]。池田は1960年7月からの第1次池田内閣では、佐藤の要請を聞いて河野派を締め出し、大野伴睦の副総裁帰り咲きも見送りにさせたが、1962年7月からの第2次池田内閣 (第2次改造) では、池田は佐藤の要請を無視し、佐藤とは犬猿の仲の河野一郎を入閣させ、同じく佐藤と犬猿の仲の大野を副総裁に復帰させた。かつては"喧嘩河野"といわれ、敵が多かった河野であったが、入閣すると人が変わったように池田に尽くし、元々一本気な性格が似たところがあって池田も情が移り、佐藤を無視して河野とばかり相談するようになった[424]。これに佐藤は嫉妬し一悶着あり、池田と佐藤は急速に仲が悪くなった[424]。当時、政界では、池田に近い友人(佐藤)から遠い他人(河野)へ馬を乗り替えたというたとえ話が流行った[435]。佐藤からすれば、池田との間に「次は佐藤」という言外の信頼関係があるという思いがあり、池田再選(1962年7月)のときも、回りから「出馬すべし」の声が強かったが立候補しなかった[434]。ところが4年も経った池田3選のときには、さすがに池田に「俺に譲れ」と迫った。しかし池田が「まだやる」と佐藤の訴えを却下した。吉田を調停役に三者の会談が行われたが池田は譲らない。池田は吉田に会うのも避けるようになった。これで池田と吉田に完全に溝ができた[434]。佐藤はこれを「恩を仇で返す」離反とみなし、こうした両者の激しい対立関係が池田へのアンチテーゼとして佐藤の沖縄問題への傾斜を一層促すことになった。佐藤の時代に日本経済の高度成長期はピークを迎えるが、一般には佐藤独自の政策の効果というよりは、やはり池田からの延長線上の景気拡大と受け止められていた。佐藤は政権担当の前後から、自らの名誉獲得すべてを沖縄の施政権返還に託したのである。それは沖縄問題に突き進む以外の選択肢は見当たらなかったともいえる[426]。
宮澤喜一
- 池田をからかった「ディスインテリ」「非インテリ」などの渾名、「池田は書籍は読まない。読むのは書類だけだ」というジョークは宮澤喜一の作といわれている[436]。
- 池田は宮澤が大蔵省に入った時の身元保証人だったが、後年宮澤は「池田勇人なんて、当時(昭和16年)誰も将来、出世するとも思っていなくて、どうしてこの人に保証人になってもらったのかと聞かれたことがある」と話していた[437]。
福田赳夫
- 第2次池田内閣で高度経済成長政策を批判した政調会長福田赳夫をくびにし、福田や同調者を池田内閣の続いている間、完全に干し上げた[438][439][440]。安定成長論者である福田とは相容れなかった[441][275]。池田は派閥強化を助長し、派閥による党内抗争は池田内閣になってその弊害が増幅し、これが力の政治になり、力を得るための金権政治を増長させることになる[442]。福田は池田との対立を機に派閥解消などを掲げた「党風刷新連盟」を結成した[22]。これが後に福田派(清和政策研究会)に発展する[443][439]。
- 福田が池田と仲が悪くなったのは、1948年の昭和電工事件で福田が連座された際に、福田が大蔵省の同僚ということから池田のところへ、「自分の立場を理解して欲しい」と頼みに行ったら、池田が「よし、何とかしてやる」と言ったのに何もしてやらなかったのが切っ掛けと松野頼三は話している[444]。池田の後の大蔵次官は福田で当然と省内では言われていたから、池田は「あんな有能な人を、あったかなかったか分からん汚職で失うのは大蔵省の損失だ」と、せっせと裁判所に足を運び福田の弁護を買って出たと書かれた文献もあるので[13]、本当のところはよく分からないが、池田が大雑把で大酒飲みに対して、福田は秀才で酒を嗜まず、心から許して付き合う間柄ではなかったという[13]。池田と福田の確執は、福田と旧制一高の同期だった前尾繁三郎との対立が、池田、福田の抗争にズレ込んだ形跡が強く[13]、昭電汚職で出遅れた福田が無所属で政界入りして自由党に一旦入党したものの、そこは池田の勢威が行き渡って福田の入り込む余地がなく、すぐ岸の新党運動に走った。福田は1952年の抜き打ち解散に伴う総選挙で初当選し、池田に唯一自身から挨拶に行ったら、カネを出すから自由党に入れ、のようなニュアンスのことを言われた[445]。当時国会には参議院を含めて24人の大蔵省出身者がいたが、うち23人が池田の子分になっていた[445]。福田は池田の誘いをキッパリ断り、自らこれを「栄えある一議席」と呼んだ[445]。このスタート時点の違いに、すでに陽の池田、陰の福田の政治的位置付けの始まりがあった[13]。岸が何故福田を重用し続け、岸派が空中分解した際も福田派に身を寄せたかといえば、岸はずっと大蔵省との関係に腐心し、大蔵省傍流組である池田派が力をつけていく中、大蔵省本流組である福田を取り込みたいと考えていたからである[446]。
田中角栄
- 田中角栄は政治家デビューして間もない1948年頃の29歳のとき、不当財産取引調査特別委員会委員として大蔵省官僚だった池田と知り合った。池田は当時48歳で、数字を並べてぽんぽん財政の話を繰り出され「大蔵省というところには、大変な人がいるものだな」と圧倒された[447]。池田の財政通ぶりに感心していたため、池田が1949年に政治家としてデビューして大蔵大臣に抜擢された際も、いち早く賛成に回った[448][447]。1955年の保守合同の際には、池田は自由党幹事長として岸信介と石橋湛山の自由党からの除名を決めたが、このとき筆頭副幹事長だったのが田中で、総務会で恩人・石橋の書類にサインをするとき池田が震えて躊躇していると、傍らにいた池田の腕を取ってサインさせた[188]。この幹事長・副幹事長コンビを組んだころから、田中は池田邸にしょっちゅう出入りするようになった。ざっくばらんに話をする田中を池田は可愛がった[449]。
- 池田も田中も同じ吉田門下であったが、吉田の寵臣として栄華を極める池田を見て田中は、池田につながって出世したいと策を巡らせ、田中の妻はなの連れ子・静子と池田の甥との結婚を仕組んだ[450]。田中は池田と縁戚まで結んで池田に付いていくつもりであったが変心した[199][450]。1956年12月に鳩山一郎首相の退陣に伴う総裁選があり、旧吉田派(当時は丙申会と呼んだ)[199][451]のうち、池田が石橋湛山を推し、佐藤が実兄岸を推したため、田中は佐藤に付いて行った。結婚式は1956年12月5日にあり、その日の夜に丙申会の派として誰を推すのか最終的に決める総会が開かれる予定だった。結婚式が終わり外へ出たところで、池田は田中に「お前、どうしても佐藤の方に行くのか」と言うと田中は顔が上げられず、ようやく顔を上げて「池田さんにはお世話になりました。しかしその一歩前から、佐藤さんにお世話になった義理があるのです」と言った。この義理とはかつて佐藤に長岡鉄道の顧問になってもらったことを指すが、それは本当の理由ではなく、総裁選では岸が勝つ、とすれば日の当たる場所に躍り出るのは佐藤であり、従って佐藤に付く方が自身の出世に有利であるとしたたかに計算したのである。また池田周辺には官僚上がりの有能な側近が取り囲んでいて、自身が入っても外様で次の次になる可能性が高く、その点佐藤の側近は有能な家来がおらず、佐藤派に付けばすぐに代貸しになれる、また池田派には大平がおり、盟友とは別の派に属する方がパイプ役として情報交換が出来るし得策という考えがあった[452]。池田は田中の肝の中を見透かし「お前はきついやつだなあ」と言った。田中は策を巡らせ、皮肉にも策が実って親戚になった日に、一度は盟主と仰いだ相手を裏切ったのである[450]。ところが政権を取ったのは佐藤より池田が先だった。
- 1961年池田内閣での田中の自民党政調会長就任、1962年第2次池田内閣での大蔵大臣就任は、先の1960年総裁選での池田の票集めに奔走したことを池田に認められ、池田から抜擢されたもので[453]、田中の成長は佐藤派の参謀でありながら池田の側近でもあったからといわれる[441][454]。特に第2次池田内閣における尋常高等小学校卒、44歳の田中の蔵相抜擢は、1890年日本の帝国議会開設以来、後にも先にも例がない[441]。田中蔵相と書かれた閣僚名簿を見た池田は「アレは車夫馬丁のたぐいだ。どこの馬の骨かわからん」と一蹴した[441]。「高度経済政策」を推進していくにあたって最も重要なポストである蔵相に、いくら池田と親戚関係になっているとはいえ、国家財政に一度も携わったことのない素人をあてることはできない[455]。ところが大平が「あの男ならやれます」と熱心に説得、党内の反発を押し切って池田はこれを了承した[441][455]。田中と大平の関係が密になるのはここからである[456]。田中の蔵相抜擢を聞いた佐藤は「あいつはおれを売って池田の子分になった」と激怒したといわれる[455]。田中の抜擢は、時として反旗を翻すことのある大蔵省へ池田が打ち込んだ"楔"という見方や[446]、金融や財政に素人の田中を据えて、事実上の実権を裏で池田自身が掌握する、総理と蔵相を自身で兼ねて自ら陣頭指揮を執り、田中を傀儡蔵相に仕立てた池田の策略という説もある[457]。池田と田中には長い因縁があった。野田卯一は「池田に対して田中を強引に蔵相に推薦したのは佐藤」と述べている[458]。岸、池田時代にまさか田中が総理になると思う者は党内にいなかった[458]。田中は石橋の死後一周忌で「池田さんは大蔵次官のとき、石橋さんに拾い上げられて、それからトントン拍子で政界をのしていかれた。うらやましいと思い、私は池田さんにそのように自分を引き立てて欲しいと頼み、そうしてもらいました」と話している[459]。田中は池田内閣で2年4か月大蔵大臣を務めるが、「所得倍増計画」に代表される池田の経済主義路線は、開発政治の旗手である田中に絶好の機会を与えた[460]。田中はこの大蔵大臣就任期間の間に、得意の人心収攬術と政治力で誇り高い大蔵官僚を押さえ込んだといわれる[461]。田中は池田が進めた利益誘導政治の形成・展開に便乗したばらまき財政により政治基盤を固めていった[462][463]。
その他政界関係者
- 五高で池田と佐藤栄作の1年先輩だった細川隆元は、その後生涯にわたり親交があった。しかし細川がホストを務めたTBSの『時事放談』で細川が「所得倍増計画」を何度もしつこく批判した[464]。小汀利得は池田びいきで「俺はそうは思わぬ」と反論したが、池田に会ったとき「君は最近おれの政策をいろいろと批評しているようだが、やめてくれ。君は財政、経済の知識はゼロだ。おれの財政経済の知識は日本一だ。一度ぼくが君に経済の講義をして聞かせるから家に来い」と言われた[415]。すると細川は「総理大臣ともあろうものが、講義とは何だい。講義抜きで国民が納得するような経済行動をとるのが政治家というものだ」と言い返したため、「これからは君と会う必要はない」「以後絶対に君とは口を利かない」などと喧嘩別れして、そのまま池田が他界するまで絶交状態が続いた。腹が立った細川は『時事放談』で「池田は、人づくり、人づくりといって委員会を作ったが、川口松太郎を入れたのはどういう意味か。彼は本妻のみならず、二号、三号にいろいろ子供を持っているのは周知の事実だ。池田の言う人づくりとは、妾に人をつくらせるという意味か」と批判した[415]。細川は「池田君と言うのは、鼻柱が強く、一度いい出したらテコでも動かぬ自信満々の荒々しい人間であった」と述べている[464]。
- 池田が最も心を許したのは、同じ明治32年の亥年生まれで集まる亥の「二黒会」のメンバー、小林中、水野成夫、小池厚之助、堀田庄三、東畑精一で、池田が総理になってからも「おまえ」「おれ」と呼び合う仲であったが、この中でも池田が一番の酒豪であったという[465]。池田が亡くなると急に淋しくなり、話が上手な水野が亡くなると集まることがなくなったという[362]。
- 蔵相時代の池田の秘書官を務めていた頃の大平正芳は、陽明学者の安岡正篤に歴史上一番偉い秘書官は誰かと質問したところ、安岡は織田信長の草履とりを務めていた間に信長の欠点を知り尽くした豊臣秀吉であると答え、以後、大平は池田の欠点を知り尽くして政治家になるための経験を積んだという[466]。
- 安岡とともに歴代内閣にパイプを持っていた人物に四元義隆がいる[467]。黒幕などと取り上げられる人物であるが、四元が一言「四元です」と電話をかけたら、秘書も側近も用件を聞かずに取り次ぎ、歴代総理が即座に電話に出たといわれる。四元はかつて吉田茂の義父である牧野伸顕を狙ったこともあったが、吉田が何故かかわいがったため、戦後の内閣に影響力を持つようになり、池田が総理のときも、池田邸の人目につかない早朝吉田の内密の手紙を持って来たりした。鬼塚英昭は、四元は迫水久常から派遣された人物と推察している[468]。四元は唯一の事業が田中清玄が設立した神中組という土建会社で、その後三幸建設という社名に変更したが、この会社が経営不振に陥ったとき四元が譲り受け、池田が応援し再建した。四元が池田を揶揄するような記述も見られるが、池田からすれば吉田が四元の話を1時間でも2時間でも熱心に聞くので、我慢して拝聴していただけで「あの人の話は退屈でたまらん」とこぼしていたという[469]。
- 三木武夫とは、旧野村銀行の人脈で親しく付き合うようになった[232][注釈 11]。池田が自由党政調会長時代には改進党の三木とよく政策調整をやり、1955年の保守合同で同じ自民党になると「おれは自由党の本流、きみは改進党の本流、ともに提携して新しい政治をしよう」とよく秘密に会っていた[195]。その後も、池田内閣時代も三木は閣僚・党三役として池田を支えた[232]。第2次池田内閣 (第1次改造) のとき、党近代化を進める党組織調査会の会長に三木を抜擢した。池田が三選なった1964年7月10日の自民党総裁選では、三木政調会長の功績があったことから7月18日に発足した第3次池田内閣 (改造) で、三木を幹事長に抜擢した[470]。他派幹事長のはじめである[470]。
- 1961年4月に東南アジアに視察に出かけ行方不明になった辻政信は、池田と懇意であったことから「池田特使説」がある。池田がケネディに会うことになったので、辻が東南アジアの新しい情報収集を池田に頼まれていたというものである[471]。辻は岸が安保騒動で倒れ、池田が首相につくと、俄然生気を取り戻し「岸とは性格的に合わないが、池田さんはわしの気持ちを分かってくれる男だ」と誉めていたという。池田の秘書・伊藤昌哉は辻の出発の10日ほど前に辻に呼び出され「旅費と現地大使館の便宜を図って欲しい、その代わりに東南アジアの情報をおみやげに持ってこよう」と言われ、池田に報告したら「善意の押し付けだ」と言ったが、せっかくなので辻の申し出を承諾した、しかし池田から頼んだことではないと述べている[471]。
- 1960年代にインドネシアのスカルノ大統領と池田をつなぐ仲介役を務めたのは、夫人のデヴィであったという。デヴィは池田と家族ぐるみの付き合いがあったといい「日本外務省にはこき使われました」と話している[472]。
- 西武グループの創業者で衆議院議員でもあった堤康次郎は池田と親しく[473]、1964年、池田が死去する少し前に死去したが、後援会は父の秘書を務めたことのある息子の堤清二に地盤を受け継ぎ政治に出てくれと頼んだ。池田が清二に親父の後を継がないのか」と尋ねると「自分は政治家に向かないと思います。しかし地盤は残っているので、総理から誰か推薦いただければ」と言うので、池田が大蔵省の青山俊を推薦し、清二に「口説いてくれ」と頼んだ。しかし青山も清二と同様に政治が嫌いでやはり断わり、青山が山下元利を推薦し、池田も大蔵省時代の部下だった山下を知っていて「山下ならいい」となり、山下が堤康次郎の地盤を継ぐことになった[474][475]。しかしほとんど面識のない山下に地元から不平不満が爆発し、池田も没したため、清二は佐藤栄作総理から田中角栄幹事長を紹介され、田中が滋賀県議10人を前に料亭の畳に額をこすりつけ、「山下元利を男にしてやってくれ」と頼み込み話がまとまった。田中と山下の師弟コンビはここに始まる[475]。また先の堤康次郎の死に際して清二が跡を継がないと表明したため、弟の堤義明がコクド・西武鉄道グループを引き継いだが、康次郎は生前、相続税に疑問を持っていて、その対策により相続税が0円になるようにしていた。西武という巨大企業の創業者の遺族が相続税0では世間で通らないと、清二は税の専門家である池田に相談し、池田のアドバイス通り1億円以上の相続税を支払った。しかし40年後、義明が西武鉄道株を他人名義にしていたことが発覚し、西武グループの総帥として君臨していた座から転落した。清二は「あのとき池田さんに名義株のことをきちんと話していれば、西武鉄道グループが、今のような憂き目を見ることもなかった。それが残念でなりません」と話していた[475]。
- 前述した大平正芳と、宮澤喜一、黒金泰美は、池田勇人側近の「三羽ガラス」と言われ、このうち大平正芳と黒金泰美は池田内閣で官房長官になった。またこの3人とは別に、池田内閣で3番目の官房長官を務めた鈴木善幸も、保守合同後は池田勇人に可愛がられ、池田勇人の側近として活躍した。
その他の人物
- 旧制忠海中学校時代の1年先輩にニッカウヰスキー創業者の竹鶴政孝がおり、池田は寮で竹鶴のふとんの上げ下ろしなどもした。池田と竹鶴の親交は池田が亡くなるまで続き、池田が首相になっても「日本にも美味しいウイスキーがある」と言って、外国の高官に竹鶴のウイスキーを薦めるほど、生涯変わらない友人だった[476][注釈 12]。
注釈
- ^ 五高同期に佐藤栄作、仲小路彰、濱口巌根らがいる。
- ^ 会議録で池田を「元議員」としているがこれは誤り。
- ^ 約3か月半後に第4次吉田内閣は反主流派の採決欠席により内閣不信任決議を受け、バカヤロー解散に至っている。
- ^ 下村治は「石橋さんは理論的には不十分な展開だったと思う」と述べている(『聞書 池田勇人』、252頁)。
- ^ 佐藤は田中角栄・松野頼三・保利茂・愛知揆一・橋本登美三郎・二階堂進らと周山会を結成する。
- ^ 佐藤を「指名」したと言われていることについて、渡邉恒雄(当時、読売新聞社記者)は自伝『天人天職』のインタビューの中で「抗がん剤の副作用で意識が朦朧としていた池田さんを田中角栄と大平正芳が丸め込んだのではないか」と回想している。ただし、池田は、この際に放射線照射による治療を受けているが、抗がん剤の投与は受けておらず、かつ、佐藤への後継指名は、池田が副総裁川島正次郎と幹事長三木武夫に自民党内の意向を調整するよう指示した上で行われており、この話の信憑性は薄い。細川隆元は著書で、細川の五高の1年後輩で、池田と佐藤の同級でもある朝日新聞の佐藤弥(わたる)が池田と面会し、池田から「川島副総裁にも三木幹事長にも言っていないが、佐藤に伝えて欲しい。(1)自分の政策をそのまま踏襲するという声明を出す、(2)来年(1965年7月の参院選)まで大臣を一人も変えない、(3)おれが河野と手を組んだように、これから河野と手を組んでやってもらいたい、この三つの条件を飲むなら佐藤に譲る。飲まないなら河野に渡す」と言われ、すぐに佐藤に伝えるとやはり(3)に難色を示したものの、結局この条件を佐藤が飲み、池田が佐藤を後継に決めたと書いている(細川隆元『男でござる 暴れん坊一代記 龍の巻』、山手書房、194−200頁)。
- ^ ただし石橋内閣は病気で倒れた首相が岸信介を内閣総理大臣臨時代理に任命した後に総辞職し、岸は内閣首班指名を受けて第1次岸内閣を発足させた後に自民党総裁に選出されており、実質的には石橋が岸を後継指名している。池田以後には、中曽根裁定、竹下裁定がある。
- ^ この第29回総選挙の際に、自民党は5本のテレビCMを制作しており、その中の1本が「私はウソは-」のCMである。なお2019年現在、「私はウソは-」のCM以外の4本が現存している[370]。
- ^ 浅沼稲次郎『私の履歴書』によると、田所輝明。田所輝明『無産党十字街』では、「ある同志」の歌としている。
- ^ 1960年10月18日の衆議院本会議の議事録 を閲覧。この演説は、池田の「場内がシーンとなる演説を」という注文によって、首席秘書官の伊藤昌哉が書いた。「あの演説は五億円か十億円の値打ちがあった」と池田は述懐している(若宮啓文「忘れられない国会論戦」中公新書 1206 中央公論社 1994年 ISBN 4-12-101206-2 C1231)。
- ^ 三木の妻・睦子の兄の岳父は旧野村銀行頭取・野村元五郎で[232]、戦後の財閥解体で名前を変えなければならなくなった時に、池田の友人である奥村綱雄の努力で野村の名前が残り、野村の関係者は奥村に敬意を表していた[232]。
- ^ 竹鶴が「私の履歴書」に記したところでは、池田は当時寮長だった竹鶴に対して「こわい」という印象を抱いていたという(『マッサン』より10倍豪快な竹鶴政孝の「ウイスキー人生」)。
出典
- ^ 伊藤, p. 2.
- ^ a b c d e 人間昭和史, pp. 71–82.
- ^ a b c 堺屋, pp. 152–153.
- ^ 池上, pp. 表紙, 2–9, 12–23.
- ^ 沢木, pp. 27–44, 114–117.
- ^ “没後50年池田勇人展-日本を変えた男”. 竹原市 2016年2月8日閲覧。
- ^ a b 沢木, pp. 52–56.
- ^ a b 強いものほど姿勢を低く…-高峰武論説主幹の「想」 くまにちコム
- ^ 池田勇人元総理大臣の写真が本学の五高記念館に! - 熊本大学
- ^ a b c d e f g 藤井, pp. 7–17.
- ^ a b 『大蔵省人名録:明治・大正・昭和』大蔵財務協会、1973年1月発行、13頁
- ^ 黒田晁生「高度経済成長期における日本銀行の金融政策」『政経論叢』第78巻第5号、明治大学政治経済研究所、2010年3月、477-518頁、hdl:10291/10979、ISSN 03873285、NAID 120002926999。
- ^ a b c d e f 塩口, pp. 7–20.
- ^ (財務省の王)はこうして伝説になった...
- ^ a b c d e f GC昭和史, pp. 46–49.
- ^ 堺屋, p. 154.
- ^ 政界往来 政治家と病「池田勇人」 - 新政界往来
- ^ a b 土生, pp. 51–53.
- ^ 五 大島の島四国 データベース『えひめの記憶』|生涯学習情報提供システム 愛媛県史 地誌II(東予西部)、第5番札所 寿気庵 伊予大島准四国霊場会、第64番札所 五光庵 伊予大島准四国霊場会。
- ^ a b c 文藝春秋, pp. 214–220.
- ^ 上前, pp. 21–24.
- ^ a b c d “造幣局長に左遷、政界出馬を決意 「池田首相を支えた男」前尾繁三郎 (1)”. 日本経済新聞 (日本経済新聞社). (2011年11月13日) 2016年2月4日閲覧。“池田内閣で幹事長を3期3年 「池田首相を支えた男」前尾繁三郎 (3)”. 日本経済新聞 (日本経済新聞社). (2011年11月27日) 2016年2月8日閲覧。
- ^ 伊藤, pp. 75–76.
- ^ a b c 藤井, pp. 18–38.
- ^ a b 堺屋, pp. 153–158.
- ^ 賀屋, pp. 281–283.
- ^ 上前, pp. 27–31.
- ^ 証言下, pp. 106–115.
- ^ 小林, pp. 73–75.
- ^ 上前, pp. 23–27.
- ^ 沢木, pp. 18–19.
- ^ a b 上前, pp. 11–13.
- ^ a b 鬼塚, pp. 126–137.
- ^ 明治人下, p. 22.
- ^ a b 藤井, pp. 38–45.
- ^ a b 塩田 2015, pp. 63–72.
- ^ 樋渡, pp. 228–231.
- ^ 第2回国会 衆議院 不当財産取引調査特別委員会 第23号 昭和23年5月21日
- ^ 鬼塚, pp. 138–139.
- ^ a b 藤井, pp. 47–49.
- ^ 塩田 2007, p. 54.
- ^ 土生, pp. 94–98.
- ^ a b 細川 & 伊藤, pp. 38–43.
- ^ 東京新聞, pp. 38–43.
- ^ a b 御厨 & 中村, pp. 92–111.
- ^ 安倍総理が“第三の矢"を放てば「経済宰相」への道が開ける 塩田潮さん (1/3ページ)
- ^ a b c d コーエン & 大前, pp. 314–331.
- ^ 証言上, pp. 52–60.
- ^ 三鬼陽之助『財界首脳部 日本経済を動かすもの』文藝春秋新社、1962年、7-59頁。
- ^ 細川 & 伊藤 1985, pp. 38–43.
- ^ 林, pp. 222–225.
- ^ 桜田 & 鹿内, pp. 33–39.
- ^ 大野, pp. 130–135.
- ^ 新幹線の車内で英字紙を読む宮澤喜一
- ^ a b c 藤井, pp. 173–176.
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 鬼塚, pp. 169–193.
- ^ a b 文藝春秋, pp. 112–118.
- ^ 渡辺 1996, pp. 191–211.
- ^ a b c d 塩田 1995a, pp. 359–369, 376–383.
- ^ 吉村克己著『池田政権・一五七五日』「前書き・宮澤喜一『池田さんの歩んだ道』」。
- ^ 昭和毎日:ドッジ・ライン - 毎日jp(毎日新聞)
- ^ a b c d 歴史に残るプッツン劇場 池田勇人「貧乏人は麦を食え ...
- ^ ■ 寺島実郎の発言 問いかけとしての戦後日本-(その3) 宮沢喜一と戦後日本
- ^ a b c d 吉村, pp. 88–92.
- ^ a b c d e f g h 松野, pp. 122–127, 131–133.
- ^ a b 三輪, pp. 151–153.
- ^ a b c d 加藤龍蘭、「戦後型公企業制度の誕生 --政府系金融機関の名称と制度設計--」紀要論文 『国際基督教大学学報. II-B, 社会科学ジャーナル』 2008年 65号 p.27-52, 国際基督教大学。
- ^ a b c d e f g h i 中川, pp. 122–129.
- ^ a b c d 塩口, pp. 111–112.
- ^ 第7回国会(常会)における財政演説 - 東京大学東洋文化研究所
- ^ 桜田 & 鹿内, p. 48.
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r ジョンソン, pp. 221–233.
- ^ 幸田 2016a, pp. 230–231.
- ^ “経済でも冷戦を戦った日本 講和発効まで (14)”. 日本経済新聞 (日本経済新聞社). (2013年4月27日) 2016年3月16日閲覧。
- ^ a b c 樋渡, pp. 12–26.
- ^ 塩口, pp. 34–38.
- ^ 第52回 財務省政策評価懇談会(10月9日開催)議事録 : 財務省
- ^ 土生, pp. 12–13.
- ^ 藤井, pp. 65–75.
- ^ a b c 藤井, pp. 89–116.
- ^ a b c d e フィン, pp. 154–162.
- ^ 文藝春秋, pp. 118–120.
- ^ 東京新聞, pp. 52–71.
- ^ a b 宮澤, pp. 40–61.
- ^ a b 鬼塚, pp. 208–211.
- ^ a b c d e f g h 御厨 & 中村, pp. 120–154.
- ^ a b c 土生, pp. 118–129.
- ^ 内田, pp. 22–23.
- ^ a b 後藤, 内田 & 石川, pp. 56–62.
- ^ a b 渡辺 1983, p. 699.
- ^ 東京新聞, pp. 157–161.
- ^ 田原総一朗の「タハラ・インタラクティブ」: アーカイブ 《追悼・宮澤喜一氏》宮澤元首相の最終講義 in 早稲田大学 (1)
- ^ a b 「総特集 白洲次郎:生後100年」『文藝別冊(KAWADE夢ムック)』、河出書房新社、2002年、62-65頁。
- ^ 林, pp. 7–8.
- ^ a b 渡辺 1999, pp. 300–307, 326–330.
- ^ 宮澤, pp. 147–153.
- ^ a b c 塩口, pp. 59–69.
- ^ ヨシツ, pp. 63–70.
- ^ 高坂, pp. 55–56.
- ^ 樋渡, pp. 26–50.
- ^ a b 藤井, pp. 89–93, 107–116.
- ^ 御厨 & 中村, pp. 128–129.
- ^ 安藤, pp. 400–407.
- ^ a b c d e 渡辺 1999, pp. 286–289.
- ^ 萩原, pp. 75–83.
- ^ 塩口, pp. 51–64.
- ^ 小林, pp. 89–90.
- ^ 上前, pp. 187–190.
- ^ “池田蔵相、箱根で訪米準備の猛勉強 サンフランシスコヘ (33)”. 日本経済新聞 (日本経済新聞社). (2012年3月31日) 2016年2月1日閲覧。“ドッジ登場に驚く日本全権団 サンフランシスコへ (54)”. 日本経済新聞 (日本経済新聞社). (2012年3月10日) 2016年2月1日閲覧。“池田勇人、一万田尚登が散らす火花 講和発効まで (8)”. 日本経済新聞 (日本経済新聞社). (2013年3月16日) 2016年2月1日閲覧。
- ^ a b c やまぬ「民業圧迫」 - 朝日新聞GLOBE
- ^ a b 参議院会議録情報 第010回国会 予算委員会 第34号
- ^ 中村 1993, p. 458.
- ^ 渡辺 1966, pp. 300–307.
- ^ a b 上前, p. 256.
- ^ 渡辺 1966, pp. 300–307, 326–330.
- ^ 渡辺 1999, pp. 300–307.
- ^ 会社概要・沿革|IR情報|日本政策投資銀行 (DBJ)
- ^ a b データベース『世界と日本』 東京大学東洋文化研究所 第10回衆議院(常会)財政演説 1951年1月26日
- ^ 第10回国会衆議院本会議第5号(1951/01/26、24期)
- ^ グレン・デイビス、ジョン・G・ ロバーツ 著、森山尚美 訳『軍隊なき占領 - ウォール街が「戦後」を演出した』新潮社、1996年、76-78頁。ISBN 978-4-10-534301-9。
- ^ R-Cube: 拓銀の経営破綻とコーポレート・ガバナンス 服部泰彦 立命館大学経営学会-3頁、蔭山克秀『やりなおす戦後史』211-214頁(今知っておきたい、90年代のバブル崩壊物語 第4回 株価暴落から山一・拓銀・長銀の破綻まで)。
- ^ a b c 佐高, pp. 21–25.
- ^ 幸田 2016a, pp. 258–259.
- ^ 柴垣, pp. 67–68.
- ^ 参議院会議録情報 第013回国会 大蔵委員会 第52号
- ^ 沿革・年史|企業概要|千葉銀行の歴史 70年史 第1章 千葉銀行創立と戦後の再建整備-18頁。
- ^ a b 投信知識, p. 128.
- ^ a b 草野, pp. 48–58, 299–303.
- ^ a b 『投資信託50年史 [概況編]』投資信託協会、2002年、34−36頁。インベストライフ Vol.155 I-OWAマンスリー・セミナー 日本証券市場のあゆみ 日本証券市場のあゆみ ~終戦から高度成長期まで(2)~ 岡本和久
- ^ 樋渡由美 1990, pp. 12–26.
- ^ 北國新聞, pp. 93–94.
- ^ 樋渡, pp. 1–4.
- ^ 倉山 2012, pp. 138–150.
- ^ a b 安倍総理が“第三の矢"を放てば「経済宰相」への道が開ける 塩田潮さん (2/3ページ)
- ^ a b c d e 八幡和郎 - 「日本の選択 宰相ライバル史 岸信介と池田勇人(政治大国か経済大国か) 夕刊フジ連載、2015年6月。
- ^ a b “幸田真音 刊行記念インタビュー「1964年の東京オリンピック誘致に奔走する男たちを描く大作」” (2016年). 2016年6月13日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年6月20日閲覧。“あの頃の日本は熱気にあふれていた─ 1964年東京オリンピックの壮大な準備譚” (2016年5月6日). 2016年6月14日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年6月20日閲覧。
- ^ 渡辺 1999, pp. 1–4.
- ^ 渡辺 1983, pp. 216–219.
- ^ 佐野眞一『巨怪伝 正力松太郎と影武者たちの一世紀』文藝春秋、1994年、446-447頁。ISBN 978-4-16-349460-9。
- ^ ベンジャミン・フルフォード『ステルス・ウォー 日本の闇を侵蝕する5つの戦争』講談社、2010年、241頁。ISBN 978-4-06-216124-4。
- ^ 有馬哲夫『日本テレビとCIA -発掘された『正力ファイル』』新潮社、2006年、248頁。ISBN 4-10-302231-0。
- ^ a b c d 証言上, pp. 61–70.
- ^ 占領下日本の再軍備反対論と傷痍軍人問題-左派政党機関紙に見る白衣の傷痍軍人 植野真澄
- ^ a b c d 土生, pp. 159–169.
- ^ 堀越, pp. 13–14.
- ^ a b 細川 1978, pp. 139–162.
- ^ 大野, pp. 199–204.
- ^ 賀屋, pp. 275–276.
- ^ 鬼塚, pp. 230–235.
- ^ a b 宮澤 1956, pp. 147–153.
- ^ Development Japan shared IMF ・世銀総会準備事務局
- ^ 樋渡, pp. 64–65.
- ^ a b 土生, p. 169.
- ^ 鬼塚 & 松野, p. 22.
- ^ 松野, p. 22.
- ^ a b 三鬼 1974, pp. 174–175.
- ^ 評論選集, pp. 174–175.
- ^ a b 山岡淳一郎『気骨: 経営者 土光敏夫の闘い』平凡社、2013年、98-100頁。ISBN 978-4-582-82466-7。
- ^ 九州電力 「電力の鬼」と呼ばれた不屈の事業家
- ^ 橘川 武郎氏 - 近代日本史料研究会
- ^ 本間先生思い出集 - 東京大学 海岸・沿岸環境研究室 53-53頁。
- ^ a b 山下一仁『「亡国農政」の終焉』KKベストセラーズ〈ベスト新書257〉、2009年、122-124頁。ISBN 978-4-584-12257-0。山下一仁『日本の農業を破壊したのは誰か 「農業立国」に舵を切れ』講談社、2013年、26-32頁。ISBN 978-4-06-218585-1。農業立国への道(中) 農地集約・規模拡大を阻む農地法を廃止せよ、農業立国への道(中) page=2
- ^ 池田信夫 blog : 農地改革と資本家の不在
- ^ a b c d e f “「寛容と忍耐」で経済成長路線を打ち出した池田勇人 |文春写真館 あのとき、この一枚” (2013年1月21日). 2013年2月8日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年2月8日閲覧。
- ^ a b 「岸信介、池田勇人、中曽根康弘 3人の宰相が権力誇示した館」『週刊ポスト』2012年9月21・28日号、NEWSポストセブン、2012年9月11日、2016年2月8日閲覧。
- ^ さらば船橋オート…65年の歴史に幕 有終V永井男泣き「幸せです」
- ^ a b 上前, pp. 183–187.
- ^ 東京新聞, pp. 88–96.
- ^ 鬼塚, p. 272.
- ^ a b 藤井, pp. 153–162.
- ^ a b c d 栗原, pp. 124–129.
- ^ 季武 & 武田, pp. 223–234.
- ^ a b c 内田, pp. 110–116.
- ^ a b c 防衛白書 2007年度版 1 防衛省・自衛隊の歩み
- ^ 石井晋, 「MSA協定と日本 : 戦後型経済システムの形成(2)」『学習院大学経済論集』 40巻 4号 p.295-313 2004年, 学習院大学, ISSN 00163953, NAID 110000982329, hdl:10959/570。
- ^ a b 小林, pp. 92–95.
- ^ 宮澤 1956, pp. 200–275.
- ^ 昭和毎日:池田・ロバートソン会談 - 毎日jp(毎日新聞)、「特集」外交文書/1 軍備強化か、経済か――池田・ロバーソン会談、防衛庁・自衛隊発足の経緯といわゆる「戦力」論争、やりなおす戦後史【第3回】 蔭山克秀 戦後の政治もまた改憲をめぐる攻防から始まった.. 自国の防衛軍「自衛隊」の誕生、憲法9条の半世紀 - 報道STATION -特集-、荒谷卓 -緊急座談会「戦慄!何も守れない、無防備日本の現実」
- ^ 室生, p. 15.
- ^ 鈴木猛夫, pp. 13–42.
- ^ 柴垣, pp. 48–51.
- ^ 佐々木亨「人材開発政策の法制措置のあしどり : 中等教育を中心に」『教育評論』第140号、日本教職員組合情宣部、1963年5月、36-39頁、hdl:2237/17256、ISSN 00235997、NAID 40000720412。
- ^ 教基法改悪反対 党演説会/志位委員長の講演(詳報)、日刊ベリタ : 特集 : 「労働・教育運動に生きて80年」槙枝元文自伝 (36) 米国の対日政策転換が「偏向教育狩り」を鼓舞、キーワードで読む戦後教育史 (2) 池田・ロバートソン会談&教育二法 杉山宏 神奈川県高等学校教育会館、この人に聞きたい|マガジン9、婦人民主クラブ|婦民新聞|過去の記事|第1205号、東大大学院教授の高橋哲哉さん 国民の監視で軍事化防げ、【野口裕之の安全保障読本】半世紀前…池田勇人氏の「予言」的中"(アーカイブ〈ウェブ魚拓〉)産経新聞(2016年5月9日閲覧)
- ^ a b c d e 藤井, pp. 151–153.
- ^ 昭和毎日:造船疑獄で指揮権発動 - 毎日jp(毎日新聞)、田原総一朗×郷原信郎【第1回】「特捜部は正義の味方」の原点となった「造船疑獄事件の指揮権発動」は検察側の策略だった!p3
- ^ 堺屋, pp. 157–158.
- ^ “吉田内閣打倒で三木武吉と連携 「日中関係に賭けた情熱」松村謙三 (6)”. 日本経済新聞 (日本経済新聞社). (2012年4月8日) 2016年2月17日閲覧。
- ^ a b 塩口, pp. 140–148.
- ^ 樋渡, pp. 83–108.
- ^ 樋渡, pp. 140–150.
- ^ 伊藤, p. 37.
- ^ a b 松野, pp. 39–40.
- ^ “無罪確定、幻の「芦田議長」 悲運の宰相・芦田均 (10)”. 日本経済新聞 (日本経済新聞社). (2011年5月15日) 2016年3月16日閲覧。
- ^ 小林, pp. 112–114.
- ^ a b 塩口, pp. 149–159.
- ^ a b 樋渡, p. 132.
- ^ 藤山, pp. 51–55.
- ^ 内田, pp. 96–97.
- ^ a b c 福永, pp. 74–76.
- ^ a b c d 李炯喆「池田勇人の対外認識とアジア政策」『県立長崎シーボルト大学国際情報学部紀要』第3号、県立長崎シーボルト大学、2002年12月、hdl:10561/395、ISSN 1346-6372、NAID 120005474965。
- ^ a b 土生, pp. 227–241.
- ^ 宇治, pp. 123–141.
- ^ 上前, pp. 302–304.
- ^ 塩田 2007, pp. 57–58.
- ^ a b JAIRO | 高度成長期の経済政策構想--システム選択としての所得倍増計画 藤井信幸
- ^ 連載/石橋湛山を語る 香西泰- 東洋経済オンライン-p2
- ^ 細川 1978, pp. 231–248.
- ^ 証言上, pp. 10–31.
- ^ a b 北國新聞, pp. 154–157.
- ^ a b c d 塩田 2015, pp. 73–83.
- ^ 塩田潮 2015, pp. 73–83.
- ^ 東京新聞, pp. 73–83.
- ^ a b c 藤井, pp. 163–173.
- ^ 日経 2014, pp. 57–60.
- ^ a b “(経済史を歩く)(22) 国民所得倍増計画(1960年)本物の成長戦略 「豊かな日本」誰もが確信”. 日本経済新聞社 (2012年10月14日). 2013年5月20日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年3月21日閲覧。
- ^ 「保守本流」宏池会は「保守中枢」になれるか? - 牧原出
- ^ a b c d e f “吉田茂/池田勇人”. 昭和偉人伝. BS朝日 (2015年2月11日). 2015年3月20日閲覧。
- ^ a b 上前, pp. 316–318.
- ^ a b 中川, pp. 62–81.
- ^ 歴史街道, pp. 42–46.
- ^ 平成17年度 年次報告書 - 人事院 第1編 人事行政 官僚達のネットワーク 御厨貴
- ^ 評伝 宮崎勇元経企庁長官|佐賀新聞LiVE
- ^ 小林, pp. 136–150.
- ^ a b 沢木, pp. 50–54.
- ^ 宇治, pp. 141–151.
- ^ 安倍首相は所得倍増の池田勇人になれるか : アゴラ - ライブドア
- ^ 歴史街道, pp. 50–53.
- ^ 塩田 1995b, pp. 226–227.
- ^ 伊藤, pp. 76–79.
- ^ a b 伊藤, pp. 64–66.
- ^ a b 三鬼金づる, pp. 174–175.
- ^ a b c d e 岩見, pp. 39–42.
- ^ a b 三鬼評論選集, pp. 174–175.
- ^ KAKEN - 経済復興政策と経済団体(05204210)、ワンマンシリーズ (6) 三和の法皇・渡辺忠雄〈3〉|経済界奥村宏『日本の六大企業集団』ダイヤモンド社〈ダイヤモンド現代選書〉、1976年、75-78頁。
- ^ 桜田 & 鹿内, pp. 93–105.
- ^ 吉村, pp. 93–105.
- ^ 桜田 & 鹿内, pp. 42–44.
- ^ 柴垣, pp. 286–291.
- ^ 【フレー フレー ヨシノブ】池井優さん、政治家なら佐藤栄作&池田勇人タイプ
- ^ 田中秀征:私が見た宮沢喜一さんと保守本流政治 (3)
- ^ 藤井, pp. 178–179.
- ^ a b c 伊藤, pp. 52–56.
- ^ 沢木, pp. 171–174.
- ^ “周首相と会談、LT貿易に道筋 「日中関係に賭けた情熱」松村謙三 (7)”. 日本経済新聞 (日本経済新聞社). (2012年4月15日) 2016年2月1日閲覧。
- ^ a b “文相6期、日教組の勤評闘争と対決 「群雀中の一鶴」灘尾弘吉 (3)”. 日本経済新聞 (日本経済新聞社). (2012年1月22日) 2016年2月5日閲覧。
- ^ 伊藤, pp. 67–73.
- ^ “誤解だらけの「日米地位協定」/山本章子”. SYNODOS (2020年5月19日). 2022年6月15日閲覧。
- ^ 松野, p. 100、110.
- ^ 沢木, pp. 40–44.
- ^ a b 「所得倍増」の故事-自民党内で真摯な政策論争を-岡崎哲二| キヤノンコラム・論文 | キヤノングローバル戦略研究所(CIGS)
- ^ a b 第162回国会 国土交通委員会 第18号(平成17年5月18日)
- ^ 渡邉 1999, pp. 148–153.
- ^ 三鬼金づる, pp. 94–106.
- ^ 堀越, pp. 80–81.
- ^ 鬼塚, pp. 280–282.
- ^ a b 伝記, pp. 66-76、99.
- ^ 原, pp. 203–212.
- ^ 読売新聞社 2012, pp. 225–234.
- ^ 【安保改定の真実 (8) 完】 岸信介の退陣 佐藤栄作との兄弟酒「ここで二人で死のう」
- ^ 北國新聞, pp. 18–19.
- ^ 彰, 池上 (2021年10月22日). “「『新しい資本主義』とは?」|池上彰”. 週刊文春 電子版. 2022年6月15日閲覧。
- ^ 『戦後政治史 第四版』岩波新書、2021年3月、96頁。なお短期の総理在任で、1度しか世論調査が行われていない石橋内閣を除く
- ^ 読売新聞社 1985, pp. 119–132.
- ^ 五輪が終わると退陣する日本の首相 | ニュースのフリマ“池田政権の幕引きを仕切る 「池田首相を支えた男」前尾繁三郎 (4)”. 日本経済新聞 (日本経済新聞社). (2011年12月4日) 2016年2月8日閲覧。
- ^ “池田政権の幕引きを仕切る”. 日本経済新聞 (2011年12月4日). 2022年4月30日閲覧。
- ^ “異例国葬、党内に配慮 全額国費、首相は正当性強調:朝日新聞デジタル”. 朝日新聞. (2022年7月15日)
- ^ a b 「池田元首相は未来見通す政策持ち実行」 自民・岸田氏 朝日新聞デジタル
- ^ a b c d e f g h i j k 藤井, pp. 229–234.
- ^ a b c 沢木, pp. 19–20.
- ^ 天川, 御厨 & 牧原 2007, pp. 117–121, 144–146.
- ^ a b c d e f g h i j k 天川, 御厨 & 牧原, pp. 117–121, 144–146.
- ^ a b 蔭山克秀『やりなおす戦後史』107-116頁 (今、戦後史から知っておきたい日本を「経済の国」へと変えた男 ダイヤモンド・オンライン、page=2、page=3)
- ^ a b 後藤, 内田 & 石川, pp. 187–188.
- ^ 歴代宰相と徹底比較 安倍晋三「総理の器」大検証 vol.1 - デジタル大衆
- ^ a b c 塩田 2015, pp. 84–97.
- ^ a b 池上, pp. 6–9.
- ^ a b c d 朝日新聞社, p. 116.
- ^ a b c d e f g 俵, pp. 30–42.
- ^ a b 萩原, pp. 83–95.
- ^ 御厨, p. 136.
- ^ “【浪速風】 同じ「倍増」でも支持は得られない”. 産経新聞 (MSN産経ニュース). (2012年3月31日). オリジナルの2012年9月5日時点におけるアーカイブ。 2016年4月1日閲覧。
- ^ a b c 東京新聞, p. 58.
- ^ 武田, p. 8.
- ^ 沢木, p. 26.
- ^ 20世紀の記憶, p. 17.
- ^ a b c 田辺宏太郎、「池田・ケネディ会談の意義: 国内経済体制の再編と経済外交」 『同志社アメリカ研究』 2002年 38号 p.75-86, doi:10.14988/pa.2017.0000001427, 同志社大学アメリカ研究所
- ^ a b c 21世紀の日本と国際社会 浅井基文のページ 「中国的民主」についての所感
- ^ a b c 石川, pp. 98–99.
- ^ 「〔一億人の戦後史〕「日本初の総合週刊誌」だから書ける 終戦70年特別企画 昭和30年代編(2)」『サンデー毎日』、毎日新聞出版、2015年2月8日、17-18頁。
- ^ 安倍晋三首相は、「危機突破」政策で、どんな国づくりをするのか、「国家ビジョン」が定かでない
- ^ a b c 読売新聞社 2012, pp. 235–243.
- ^ 橋本, pp. 257–258.
- ^ TKO木本、御厨先生に「自民党の正体」を学ぶ - 東洋経済オンライン page=2
- ^ 芹沢 et al., pp. 63–65.
- ^ 「池上彰と学ぶ日本の総理第3号 池田勇人」池上彰 p15
- ^ 高畠通敏『討論・戦後日本の政治思想』三一書房、1977年、80-81頁。
- ^ 戦後 グランドビジョン持っていた総理は池田勇人と田中角栄、「骨のない記者、政治家に喝!」花田紀凱編集長×飯島勲 60分対談 - PRESIDENT Online
- ^ a b 伊藤, p. 145.
- ^ 鈴木, pp. 9–16.
- ^ 内田, p. 173.
- ^ a b c 八幡, pp. 276–279.
- ^ a b 池上, p. 5,30,33.
- ^ “平成25年5月17日 安倍総理「成長戦略第2弾スピーチ」(日本アカデメイア)”. 首相官邸. 2013年5月20日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年2月29日閲覧。
- ^ 菅首相は「トランジスタラジオのセールスマン」池田勇人の気概を持て | 現代ビジネス
- ^ 伊藤, pp. 184–195.
- ^ 保阪, pp. 109–110.
- ^ 伊藤, p. 187.
- ^ a b なぜ「高度成長」の考察が重要なのか iRONNA
- ^ 萩原, pp. 114–122.
- ^ a b 苅谷, pp. 21–46.
- ^ a b 鈴木, pp. 202–203.
- ^ a b 後藤, 内田 & 石川, pp. 196、200-203.
- ^ a b c d 藤井, pp. 277–282.
- ^ a b 花村仁八郎『政財界パイプ役半生記 -経団連外史-』東京新聞出版局、1990年、163-166頁。ISBN 4-8083-0378-7。
- ^ "引退"直前の政治評論家・三宅久之氏がニコ生に初出演 「国会の野次はユーモアのかけらもない」 全文書き起こし<前編>
- ^ “第4代 池田 勇人 歴代総裁 党のあゆみ 自民党について”. 自由民主党. 2014年1月27日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年2月8日閲覧。
- ^ a b 鈴木, pp. 2–8.
- ^ 田中, pp. 128–132.
- ^ 後藤, 内田 & 石川, pp. 196, 200–203.
- ^ 戦後政治における江田三郎 構造改革論争と《党近代化》(松下圭一)
- ^ 立憲デモクラシー講座・山口二郎教授「1」 - 山口二郎|WEBRONZA、立憲デモクラシー講座「2」
- ^ 大学では教えられない歴史講義 : 亡国前夜(5) ―恐怖の超権力者
- ^ 東京裁判とニュルンベルグ原則 - 日本国際法律家協会 根本孔衛
- ^ a b 小林, pp. 1–3.
- ^ 菊池, pp. 139–143.
- ^ a b c d なぜ、「政権構想」はここまで空虚になったのか - 中央公論.jp
- ^ 首相表明所得150万円増は意味なし 目標の名目成長率を示せ
- ^ 古川, pp. 22–29.
- ^ 田中浩, pp. 133–138.
- ^ 衆議院選挙の公示に寄せて:「60年安保+所得倍増計画」の一人二役の限界. 六辻彰二
- ^ “社説 - 格差社会”. 京都新聞 (京都新聞社). (2015年1月25日) 2016年4月11日閲覧。
- ^ a b c 佐藤, pp. 221–222.
- ^ a b c 渡邉 1999, pp. 183–186.
- ^ 藤井, pp. 236–241.
- ^ 「森田実「『日本独立』気概は、どこで失われたのか?」」『アメリカの日本改造計画 マスコミが書けない「日米論」』イースト・プレス〈East Press nonfiction 6〉、2006年12月、82-95頁。ISBN 978-4-87257-744-0。
- ^ 吉村, p. 前書き.
- ^ 読売新聞社 1985, pp. 95–105.
- ^ 伊藤, p. 237.
- ^ 田中六助, pp. 134–135.
- ^ a b 自民党広報, pp. 165–181.
- ^ 高坂, pp. 128–138.
- ^ 若田部, pp. 217–218.
- ^ 中村 1993, pp. 509–523.
- ^ a b 上前, pp. 487–492.
- ^ a b 沢木, pp. 13–16.
- ^ a b 林, p. 532.
- ^ 小林, pp. 238–242.
- ^ 村上, p. 272.
- ^ 証言上, p. 9.
- ^ a b 歴史街道, pp. 32–37.
- ^ a b 吉村, pp. 91–92.
- ^ a b c 塩田 2007, pp. 48–49.
- ^ 堺屋, p. 164.
- ^ 中国の若者は穏やかに、日本の若者はアグレッシブに 宮内義彦 オリックスグループ シニア・チェアマンに聞く、BSフジLIVE PRIME NEWS - BS FUJI 『歴代首相のNo.1は誰? 首相の資質を徹底検証』
- ^ 戦争、震災、そして忘却 - 戦後70年 - 47NEWS(よんななニュース)
- ^ 荻上チキ・Session-22: 2014年02月21日(金)「戦後、最高の総理は誰だ!?」(わいわい→ランキングモード)、大学では教えられない歴史講義 : 亡国前夜(1)ー「憲政の常道」を守った池田勇人 by kurayama - 憲政史研究者・倉山満の砦
- ^ いま呼び戻したい歴代首相はだれ? 宇治敏彦 - 雑誌「埴輪」、2016年1月号 | 会報 | 日本記者クラブ JapanNationalPressClub (JNPC) -6頁
- ^ 八幡和郎Twitter
- ^ a b c 池上, p. 5、30、33.
- ^ 堺屋, p. 167.
- ^ 1第9回国会 参議院 予算委員会 第9号 昭和25年12月7日 -国会会議録検索システム
- ^ a b c 塩口, pp. 267–291.
- ^ 伊藤, p. 20.
- ^ 第9号 昭和25年12月7日、国会会議録検索システム。
- ^ [「池上彰と学ぶ日本の総理第3号 池田勇人」池上彰 p30]
- ^ 読売新聞1952年11月29日朝刊
- ^ 1952年11月27日の衆議院本会議の議事録 を閲覧
- ^ 鈴木宏尚「親米日本の政治経済構造、1955-61」『名古屋大学法政論集』第260号、名古屋大学大学院法学研究科、2015年2月、253-275頁、doi:10.18999/nujlp.260.13、hdl:2237/21320、ISSN 0439-5905、NAID 110009881693。
- ^ 伊藤, p. 146.
- ^ 高野光平『発掘!歴史に埋もれたテレビCM : 見たことのない昭和30年代』光文社〈光文社新書 ; 1018〉、2019年、220-223頁。ISBN 9784334044268。
- ^ 総理と語る - NHK放送史
- ^ a b 風知草:時代を変えた演説=山田孝男 - 毎日新聞
- ^ 私の履歴書 浅沼稲次郎 - 『日本経済新聞』「私の履歴書」 浅沼稲次郎
- ^ 無産党十字街 - 田所輝明 p.69 近代デジタルライブラリー所収
- ^ a b 上前, pp. 380–382.
- ^ 小林, pp. 186–189.
- ^ 第41回国会衆議院本会議第3号(1962/08/10、29期)、第43回国会衆議院本会議第2号施政方針演説(1963/01/23)、戦後七十年を動かした「政治家の名言」 文藝春秋2015年6月号 | バックナンバー - 文藝春秋WEB、2015/02/04 古賀誠・元自民党幹事長が講演「私の政治の原点は平和」、国際協力60周年記念シンポジウム 岸田外務大臣基調講演、114. NHKで池田総理と対談 1963年(昭和38年) - 松下幸之助の生涯
- ^ a b 吉村, pp. 206–212.
- ^ 第37回国会本会議第6号 所信表明演説 (1960.12.12)(昭和の証言「池田勇人 第37特別国会所信表明演説より」(昭和35年))、第38回国会本会議第3号 (1961.1.30)、第38回国会本会議第3号 (1961.1.30)
- ^ 人づくりは、国づくり。教育再生への取組み始まる〜教育再生実行会議、 忠津玉枝、「児童・青少年政策をめぐる最近の動き」 『社會問題研究』 1964年 14巻 2号 p.41-56, doi:10.24729/00004025, 大阪社会事業短期大学社会問題研究会
- ^ a b c 細川 & 伊藤, pp. 205–209.
- ^ 伊藤, pp. 234–241.
- ^ 藤井, pp. 186–199.
- ^ 歴史街道, pp. 56–57.
- ^ 藤井, pp. 266–270.
- ^ 堺屋, pp. 170–177.
- ^ 池上, p. 15.
- ^ 保阪, pp. 144–146.
- ^ 松本金寿、「大学の自治と学生の自治 (1)」『立正大学文学部論叢』 1968年 32号 p.3-23, NAID 110000477056, hdl:11266/2995, 立正大学文学部
- ^ 林, pp. 495–505.
- ^ 歴史街道, p. 3.
- ^ a b 沢木, pp. 20–23.
- ^ 岩見, pp. 212–213.
- ^ a b 藤井, pp. 166–178.
- ^ 『週刊 ビジュアル日本の歴史 120』デアゴスティーニ・ジャパン、392頁。
- ^ a b c 塩口, pp. 39–49.
- ^ a b 小林, pp. 158–159.
- ^ a b 首相公邸で魚を干す。カツカレーだけじゃない、自民党総裁びっくり食列伝、(権力者たちのガジェット)カレーライス 「庶民派」の象徴、永田町の定番に
- ^ 福永, pp. 90–93.
- ^ a b c d 中川, p. 62.
- ^ 吉村, p. 85.
- ^ “"アベノミクス"より、はるかに大胆かつ、実効性があった"イケノミクス"。その池田首相も広島の弱さだけは……”. 週刊ベースボールオンライン (2015年1月26日(月) 10:00). 2016年10月30日 (日) 00:58 (UTC)閲覧。
- ^ a b 倉山, pp. 138–150.
- ^ 鬼塚, p. 140.
- ^ a b 鬼塚, pp. 159–164.
- ^ 鬼塚, pp. 230–231.
- ^ 藤井, pp. 203–205.
- ^ 2001年1月6日付産経新聞他
- ^ “池田政権の幕引きを仕切る”. 日本経済新聞 (2011年12月4日). 2022年4月30日閲覧。
- ^ 伊藤, p. 80.
- ^ a b 武見太郎『戦前 戦中 戦後』講談社、1982年、256-258頁。ISBN 4-06-125648-3。
- ^ a b c d 吉村, pp. 253-256、270-271.
- ^ a b 鬼塚, pp. 125–132.
- ^ 細川 1978, pp. 289–307.
- ^ a b c d 細川, pp. 289–307.
- ^ a b 鬼塚, pp. 263–269.
- ^ 樋渡, pp. 140–145.
- ^ a b c d e f 鬼塚, pp. 68–206.
- ^ 塩口, p. 252.
- ^ 山田, pp. 42–45.
- ^ 歴史劇画 大宰相(4) - 講談社BOOK倶楽部
- ^ 自民党の歴史 長期政権化とそのひずみ (2ページ目)
- ^ 細川風の巻, pp. 67–69.
- ^ a b c 細川龍の巻, pp. 213–219.
- ^ 後藤, 内田 & 石川, pp. 235, 245–248.
- ^ a b c d 西山, pp. 6–17.
- ^ 失われた20年インタビュー藤井裕久・元財務相「恵まれない人に目を向けるのが政治の責任」
- ^ 中島, pp. 113–114.
- ^ 堀越, pp. 131–134.
- ^ 中川, pp. 130–131.
- ^ 蔭山, pp. 118–121.
- ^ 堀越, pp. 5–6.
- ^ 宮崎, pp. 172–173.
- ^ a b c 松野, pp. 30–34, 59, 130, 160–161.
- ^ 沢木, p. 178.
- ^ 石川, p. 22.
- ^ 中川, p. 117.
- ^ “出身総理大臣 - 清和政策研究会”. 清和政策研究会. 2008年5月15日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年3月16日閲覧。
- ^ a b 浦田進『評伝シリーズ9 福田赳夫』国際商業出版、1978年、129-135頁
- ^ 古澤健一『福田赳夫と日本経済』講談社、1983年、42頁、福田赳夫『回顧九十年』岩波書店、1995年、144-145頁
- ^ a b c d e 小林, pp. 180–183.
- ^ 『福田赳夫と日本経済』50-55頁
- ^ 吉村, pp. 160–162.
- ^ 松野, pp. 172–173.
- ^ a b c 鬼塚, pp. 236–237.
- ^ a b 倉山, pp. 154–156.
- ^ a b 上前, pp. 133–135.
- ^ 鬼塚, pp. 164–166.
- ^ 岩見, pp. 246–254.
- ^ a b c 上前, pp. 300–301.
- ^ “牛の歩み、岸内閣で通産相に 「池田首相を支えた男」前尾繁三郎(2)”. 日本経済新聞 (日本経済新聞社). (2011年11月20日) 2016年4月4日閲覧。
- ^ 栗原, pp. 136–140.
- ^ 下村, p. 6.
- ^ 読売新聞2012年9月22日27面 「戦後転換期 第2部(1965〜79年) 第23回 田中角栄」。
- ^ a b c 上前, pp. 459–463.
- ^ a b 神, pp. 76–90.
- ^ 幸田 2016b, pp. 154–159.
- ^ a b 北國新聞, pp. 213–216.
- ^ 塩口, pp. 144–148.
- ^ 東京新聞, p. 301.
- ^ 東京新聞, p. 30.
- ^ 下村, pp. 205–207.
- ^ 人間昭和史, p. 102.
- ^ a b 細川龍の巻, pp. 231–234.
- ^ 『追悼 小林中』小林中追悼録編集委員会、1982年、377-385頁
- ^ 福永, pp. 59–60.
- ^ 「戦後70年」特別鼎談 児玉誉士夫 笹川良一 瀬島龍三 四元義隆ほか「黒幕たちの戦後史」を語りつくす 保阪正康×佐高信×森功、page=4
- ^ 鬼塚, pp. 145–146.
- ^ 「『小説吉田学校』が避けた歴代首相の『陰の人物』」『週刊新潮』、新潮社、1983年4月14日、120-121頁。
- ^ a b 松野, p. 29.
- ^ a b 北國新聞, pp. 216–220.
- ^ 【外交文書公開】デヴィ夫人首脳外交に一役 池田首相の伝言取り次ぐ、デヴィ夫人、首脳外交に一役/池田首相の伝言取り次ぐ、池田総理大臣の西太平洋諸国訪問の再の各国政府との共同声明
- ^ 上之郷利昭『堤義明は語る』 講談社 1989年 126、185頁 ISBN 4-06-184383-4
- ^ 辻井喬『叙情と闘争 ―辻井喬+堤清二回顧録―』 中央公論新社 2009年 113-118頁 ISBN 4-12-004033-X
- ^ a b c 松崎隆司『堤清二と昭和の大物』 光文社 2014年 ISBN 978-4-334-97801-3、107-117頁
- ^ 凛として~ウイスキーの父竹鶴政孝~ ニッカウヰスキーウェブサイト、リタとマッサン~「マッサン展」から(下) : 新おとな総研、その115 大日本果汁株式会社の誕生 - 余市町でおこったこんな話 余市町ホームページ
- ^ 自民党広報, pp. 583–595.
- ^ 『激動の90年、歴史を動かした90人』「時代を拓いた人々 池田勇人 父と麦飯 池田紀子」 文藝春秋2013年新年特別号 | バックナンバー - 文藝春秋WEB
- ^ 林, p. 110.
- ^ 第007回国会 予算委員会 第16号昭和二十五年二月十六日、第007回国会 予算委員会 第22号昭和二十五年三月六日
- ^ 鬼塚, pp. 200–202.
- ^ 鬼塚, pp. 293–294.
- ^ 孫崎, pp. 40–411.
- ^ 岩見, pp. 223–235.
- ^ a b 富裕税の創設とその終末 - 国税庁 -244頁。
- ^ 渡辺 1983, pp. 684–692.
- ^ 林, pp. 84–85.
- ^ 松野, pp. 130–131.
- ^ 889夜『誰も書かなかった日本医師会』水野肇|松岡正剛の千夜千冊
- ^ a b c d 武見太郎・有岡二郎『実録日本医師会』朝日出版社、1993年、36-40,203-217頁。
- ^ 水木, pp. 266–268.
- ^ a b 高倉秀二『評伝 出光佐三 士魂商才の軌跡』プレジデント社、1990年、494-496頁。ISBN 978-4-8334-2074-7。堀江義人『石油王 出光佐三 発想の原点』三心堂出版社、1998年、182-186頁。ISBN 4-88342-235-6。橋川武郎『出光佐三 黄金の奴隷たるなかれ』ミネルヴァ書房〈ミネルヴァ日本評伝選〉、2012年、167-169,175-177頁。ISBN 978-4-623-06369-7。
- ^ 沢木, pp. 126–127.
- ^ “ゲバラが残した「悲痛な言葉」 オバマ氏は広島で何語る”. 朝日新聞デジタル (朝日新聞社). (2016年5月24日). オリジナルの2016年5月24日時点におけるアーカイブ。 2016年7月11日閲覧。
- ^ 土生, p. 222.
- ^ 御厨 & 中村, pp. 176–179.
- ^ 浩然録 肥田琢司追遠集
- ^ 鬼塚.
- ^ 幸田 2016b, pp. 79–82.
- ^ あの頃の日本は熱気にあふれていた─ 1964年東京オリンピックの壮大な準備譚
- ^ 武見太郎・有岡二郎『実録日本医師会』朝日出版社、1993年、94-98頁。
- ^ 美人記念日(7月19日)=女性大臣誕生の日 - 朝日新聞デジタル
- ^ a b 松野, pp. 127–130.
- ^ 上前, pp. 332-334、367-370.
- ^ 伊藤, pp. 286.
- ^ a b 御厨 & 中村, pp. 203–211.
- ^ 池上, p. 32.
- ^ 池田慎太郎「池田政権のヨーロッパ外交と日米欧「三本の柱」論」『広島国際研究』第13巻、広島市立大学国際学部、2007年、13-23頁、ISSN 13413546、NAID 120005402786。
- ^ 藤井, pp. 255–263.
- ^ 塩口, pp. 194–197.
- ^ 沖縄の核Ⅰ - 原子力時代の死角 - 特別連載 - 47NEWS
- ^ a b c いわゆる「密約」問題に関する調査結果
- ^ 核兵器はなくせる 「核の傘」をたたむ日 <5> |連載・特集
- ^ 福永, pp. 103–105.
- ^ 不破・中曽根対談で浮かび上がった/日米核密約の真相密約について (内田樹の研究室)
- ^ a b 佐高信『佐高信の昭和史』角川学芸出版、2015年、159-161頁。ISBN 978-4-04-653334-0。
- ^ 8月15日が「終戦記念日」とされるのは何故か - BLOGOS
- ^ 王希亮「日本遺族会とその戦争観」 - Ne
- ^ a b c 波多野, p. 2.
- ^ あゆみ | 「人の三井」を支えた企業家たち(2)石田禮助、広報おだわら平成14年10月号 広報おだわらアーカイブ-14頁。
- ^ a b c 苅谷, pp. 65–66.
- ^ a b c d 城山 1988, pp. 9–12.
- ^ 宮城, pp. 113–118.
- ^ 小林, pp. 202–203.
- ^ 池田首相へ暴漢 襲いかかろうとしてつかまる『読売新聞』1963年11月5日付夕刊、4版、9面
- ^ 「政界メモ」首相“不心得者”にも平然『読売新聞』1963年11月6日付朝刊、14版、2面
- ^ 塩口, pp. 18–19.
- ^ 「対談」 城山三郎 vs 櫻井よしこ 「指揮官『小泉純一郎』を採点する」
- ^ a b 吉野俊彦『歴代日本銀行総裁論』毎日新聞社、1976年、316-318頁。
- ^ 草野, pp. 20–22.
- ^ 草野, pp. 126–129.
- ^ 塩口, pp. 98–99.
- ^ 後藤, 内田 & 石川, p. 90.
- ^ a b c 櫻井 2001, pp. 52–53.
- ^ 安倍晋三氏×櫻井よしこ氏 「誇りある日本人として〜今、如何に行動して、何を次世代に伝えてゆくか」
- ^ a b c d 鈴木幸夫, pp. 63–64.
- ^ a b c d e f g 神, pp. 85–86.
- ^ 神, p. 88.
- ^ a b 人事興信録42版い130
- ^ https://www.yaesu-book.co.jp/events/talk/22365/
固有名詞の分類
- 池田勇人のページへのリンク