日米貿易経済合同委員会
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「池田勇人内閣の政策」の記事における「日米貿易経済合同委員会」の解説
1961年11月2日から4日まで第一回日米貿易経済合同委員会が箱根観光ホテル(現・パレスホテル箱根)で開かれ、ラスク国務長官ら、カナダとの閣僚級委員会以外では初めて半数近い米閣僚が揃って来日し日米協調を印象づけた。1962年10月のキューバ危機では、ヨーロッパ並みに迅速にアメリカ支持を表明した。
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日米貿易経済合同委員会
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「日米繊維交渉」の記事における「日米貿易経済合同委員会」の解説
1971年7月に成立した第3次佐藤改造内閣で通産大臣となった田中角栄は、就任直後にニクソンの特使として来日したデヴィッド・ケネディと会談。9月には渡米し、日米貿易経済合同委員会でジョン・コナリー財務長官と会談した。田中は同委員会に際して、事前に通産大臣秘書官の小長啓一から「関税貿易一般協定(GATT)の『被害なきところに規制なし』の大原則を守るべきだ。米国は大きな被害を受けていない。」という通産省の立場について説明を受けており、「政府による思い切った規制を」と迫るコナリー長官に対して「貿易は多国間でバランスをとる話だ。」「我々の調べでは、米国の繊維業界はこれといった被害を受けていない」と一歩も譲らなかったという。
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