池田勇人
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エピソード
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池田の筆による神奈川税務署員殉職事件の殉職税務官顕彰碑の碑文
- 旧制五高在学当時、酒代があまりかかるので、趣味と実益を兼ねてそば屋と一杯飲み屋の屋台「池田屋」を開業した。しかし友人たちにツケで飲ませ、自身も一緒に飲むといった放漫経営で、わずか3日でつぶれた[477]。のちに自らの派閥「宏池会」を率いる親分肌が表れたエピソードである[302]。
- 津島寿一が課長時代、一事務官だった池田と酒を飲んだ席で財政論で喧嘩になり、池田が大勢のいる前で津島に組み付いて捻じ伏せたが、津島は柔道の大家で逆に押さえつけられた。それでも池田は「体は俺の方が下に捻じ伏せられているが、財政論では俺の方が上だ」とわめき散らした[415]。
- とにかく家の中は人で溢れていた。朝は6時に郷里広島の人たちが夜行列車で東京に着くとそのまま池田邸に訪ねて来るので、やかん酒とスルメを出して長旅を労った。夕食後には大蔵省や通産省などの官僚と勉強会。入れ替わりに番記者と夜中1時頃まで懇談が続く。毎日何十人と人が来るので魚屋では間に合わず、娘の紀子が長靴を履いて築地市場に通い箱ごと魚を買って帰り家で捌いて客に出した[478]。
- 池田が主税局長に就任したのは1945年2月17日であるが、この頃は既に敗戦色濃く、主税局や税務署は本来の徴税の仕事は不可能で[418]、主税局は当時、国有財産管理の仕事を主に行っていた[418]。林房雄著『随筆 池田勇人』のみ、主税局長就任の1ヵ月後の「3月16日に軍需省参与・大東亜省交易局参与に任じられた」と記述されているが、具体的にどんな仕事をしていたのかは書かれていない[479]。鬼塚英昭は、池田はその後国有財産の管理をやっていたのだろうと推察している[418]。1945年2月からGHQが日本を支配することを想定し、皇室財産担当のウィリアム・マーカット少将を局長とするGHQ経済科学局 (ESS) は、皇室財産目録の作成にかかり、宮内大臣になっていた石渡荘太郎が宮中内に天皇財産管理室を作り、宮内庁の役人にできる仕事でないため、迫水久常からの進言を受け、津島寿一大蔵大臣が数字に強い池田を皇室の財産管理人として指名、この財産の中の処分しきれない金塊、プラチナ・ダイヤモンドなどを池田が外部に移した、またこれとは別に敗戦2年前に東条英機首相が国民から供出を訴えて集まった金、銀、ダイヤモンドなどのうち、工業用には使えないものを集め「日本金銀運営会」を立ち上げ大蔵省の管理下に置いた、この運営は迫水と三浦義一が行ったとする文献が多いが、三浦は一役員で、実際は迫水と池田が共同運営した、戦後贅沢三昧で遺産を食い潰し金を持っていなかった吉田茂に迫水と池田が「金銀運営会」から金を引き出して渡し、吉田は首相になったのであろうと推察している[418]。
- 池田は占領下の日本において、ESSのマーカットやジャパン・ロビーのドッジやドレイパーらと親しくなっていき、CIAからも見返り資金(通称:キャンデイ)を一番貰い、彼らの要求にも応えた。池田は戦後のどさくさ紛れの隠し金、「天皇マネー」、「日本金銀運営会」(大蔵省外郭団体)、「隠退蔵物資」の管理者との指摘もあり[418]、隠退蔵物資事件では世耕弘一から国会で追及を受けている[480]。その他、豊富な献金ルートを持っていてアメリカの要求に応えることが出来た。
- もちろん応えられる実力もあった。アメリカの要求とは、短期的にはドッジによる銀行集団が戦前に日本に投資した金の回収と再投資で、これには数字のエキスパートである池田が必要だった[481]。また長期的にいえば、日本をアメリカ好みにコントロールすること、その基礎は親米であり[482]、権力欲の強い池田とは利害が一致した。鬼塚は、戦後の日本の政治家で最も力を持っていたのは「天皇マネー」を握った迫水と池田、特に他にも豊富な資金源を持った池田だったと推察している[413]。
- 太平洋戦争に敗れた3日後の8月18日、内務省の橋本政実・警保局長が各府県の長官(県知事)に、占領軍のためのサービスガールを集めたいと全国で慰安婦を募集、当時大蔵省主税局長だった池田の「いくら必要か」という質問に、野本特殊慰安施設協会副理事長が「1億円くらい」と答えると、池田は「1億円で(日本女性の)純潔が守られるのなら安い」と答え、特殊慰安施設協会が8月27日に東京大森で開業し、1360名の慰安婦がそろったとされる[483]。
- 「ドッジ・ライン」開始直後、池田とドッジの話し合いにより、円相場を1ドル=360円に切り下げる合意がなされ、1949年4月25日より適用された[484]。その後経済が安定し、日本側からレート変更の要望が出されないままブレトン・ウッズ体制による固定相場制が固まったため、360円レートは永らく維持された[57]。
- 1949年8月27日に出された1回目の『シャウプ勧告』の報告書にあった「net worth tax」を「富裕税」と日本語に訳したのは池田だという[485]。内容からいけば"財産税"であるが、1946年に導入された「財産税」が封鎖預金の騒ぎを起こしたため、池田がこれを避けて、辞書で代わりになる言葉を調べ、最初「富有税」としたが、柿の名前のようなので"有"にあたる字を調べると"裕"を見つけ「富裕税」とした[485]。
- 蔵相時代、いずれも後の総理になる大平正芳、宮澤喜一を秘書官に配し、対外折衝の要衝財務官に渡辺武、ブレーンの官房調査スタッフに石野信一、下村治らを擁して、磐石の政策決定構造を持った[400][486]。池田は人の使い方が非常に上手く、彼らとともに戦後不況を乗り切った[56][400]。
- 根津嘉一郎が死去した際、故人の遺志で遺産は寄付されることになっていたが、まず相続してから寄付せよとの税務署の意向に、東京国税局長として故人の遺志を尊重させ、それが甲州系の実業家を動かし吉田内閣への蔵相入閣につながった。小林中は根津美術館建設の税対策担当者として国税課長時代の池田と知り合った[487]。
- 1951年、日本医師会の田宮猛雄会長、武見太郎副会長が健保の診療報酬の大幅引き上げを迫って来た[488]。厚生大臣の橋本龍伍、池田、田宮の三者会談が連日のように開かれた。税制のプロ・池田は一点単価18円40銭などとても呑めないと一歩も譲らず、両者の主張には大きな開きがあったが、吉田が「医療は大事な問題だから何とかしてやれ」と池田を説得にかかり、最終局面で池田が決断を下し「わかった。差額は税で措置する。まかせて欲しい」と胸をたたき、日本医師会の要求と池田の主張との間にあった5円90銭分72%、診療報酬の72%までを必要経費として認めたものが「医師優遇税制」として1954年に導入された[65][489]。抵抗の気配を見せた大蔵省の事務当局を池田が抑えたといわれる[490]。その後「医師税制」を抜本的に見直すような力量を持った大蔵大臣は出ず[65]、不公平税制の代表のようにいわれ続け、1974年の第2次田中角栄内閣 (第1次改造) から、改正に向けて議論が本格化したが、日本医師会の強力な抵抗があって先送りが続き[490]、1979年に収入金額に応じて異なる率を導入する形での改善がなされるまでこの税制が続いた[490]。しかし、72%までを必要経費として認めるという60年以上前に池田が決めた基本制度は、今日まで残っている。なお、武見太郎は著書で上記の交渉を大磯の吉田茂邸で、武見と池田の2人で酒を飲みながら決めたと書いているが[66][490]、当時、厚生政務次官として折衝の一部始終を見たという松野頼三の証言を優先した[65]。
- 出光興産が商業者から製造業へ転換するきっかけとなった出光興産徳山製油所(1957年竣工)建設のための敷地払い下げは、当初、地元の大勢は、石油精製に実績のある昭和石油に傾いていたが、出光佐三の要請を受けた池田や石橋湛山通産大臣、松永安左エ門らの援助により、出光興産が逆転獲得した[491][492]。また1959年、池田が通産大臣のとき、ソ連との長期貿易協定を結び、出光にソ連からの原油輸入を手引きした[492]。
- 1959年7月、この年キューバ革命を成功させたチェ・ゲバラが特使として来日、第2次岸改造内閣の通産大臣を務めていた池田が会談した。ゲバラは「日本にもっと砂糖を買って欲しい」と申し入れたが「現在の両国貿易は日本側の入超になっている。キューバこそ日本商品をもっと多く買い付けるべきだ」と断った[493]。ゲバラは池田と会見した後、予定になかった広島へ訪問に向かったといわれる[494]。
- 池田が将来の総理という意識を始めた頃、最もライバル視したのは人脈も豊富で、政治家としては池田より格上だった緒方竹虎だったが、緒方はそこへ手が届く直前に突然亡くなった[495][496]。
- 総裁選への出馬に際して、池田は同郷の先輩政治家肥田琢司に協力要請をした。岩淵辰雄は「池田勇人氏を再び岸内閣に迎え、安保条約の成立では、池田氏が身を挺してこれを支持したことであったが、それも肥田さんの努力の賜物であったし、岸内閣のあとに池田内閣が成立したのも肥田さんの力に負うものが大部分であった」と述べており[497]、池田から協力を懇願されていた肥田は人脈を生かした工作に加え、資金面でも大きく貢献した[498]。
- 総理就任の際、3人の娘に喪服を用意したという[499][500]。
- 1960年、広島県人が皇太子に拝謁した際、同年8月6日の広島平和記念式典への出席を要請し皇太子が承諾した。皇族はそれまで一度も同式典に出席したことがなかったため、アメリカが難色を示して大変深刻な問題となった。この年7月19日に池田政権が発足し、官房長官となった大平にも圧力がかかった。外務省も頭を痛めたため、大平が池田首相に「やめにしたら」と言うと、池田は断固として「アメリカに気兼ねはいらん。皇太子が約束された以上、皇太子は行かねばならん」と言ったという[256]。
- 1960年、第1次池田内閣の発足で、日本初の女性閣僚として中山マサを厚生大臣に起用したが、1961年4月からの「国民皆保険」導入にあたり、日本医師会の武見太郎会長が制限診療の撤廃など、素人には難しい要望書を提出してきた。厚生省の大臣室で武見と面会した中山は役人のメモを読みながら回答していたため、武見は立腹してメモを受け取り、中山や官僚の制止を振り切ってそのまま池田の元へ行き、「あんなばかなやつを厚生大臣にするなんてどうしたわけですか」と言うと、池田は「こんど総選挙をするから女の票が欲しい。女性議員でまともなのはいないかと聞いたら、あれが一番良いというから起用したんだ。そんなに怒んなよ」という回答であった[501]。中山の退任後に近藤鶴代が科学技術庁長官兼原子力委員長として入閣するが、その後の女性閣僚は中曽根内閣の石本茂まで約20年空いた[502]。
- 「政治は結論だ。経過は役人だ」と政治家は結論だけ打ち出して、その経過は役人に任せりゃいいという自論を持つなど[503]、役人上がりながら大胆不敵であった。演説も上手く、一千億円減税を打ち出す際、実際は3年でやるのを「所得倍増!」「一千億円減税!」とバーンとぶち上げた後、小声で「3年で」と言っていたという[503]。また、「みなさんが着ているワイシャツは870円くらいでしょう。これが社会主義国のソ連だと4300円もします。日本の五倍ですよ」「いま日本の国民所得はアメリカの八分の一に過ぎません。西ドイツの三分の一です。せめて西ドイツぐらいにはなりたい。それが出来るんです。日本の経済には、それだけの力がついているのです」「今後10年で実質所得は二倍になる。月給が二倍になるのです。そのときこそイギリスの大思想家ベンタムが唱えた、最大多数の最大幸福、という政治理想が実現すると私は信じるものであります」などと、分かりやすい数字を挙げ、身近な日常品から、経済、景気、政策へ入っていく。池田の街頭演説は大いにうけた[504]。
- 当時日本経済新聞の記者で同郷でもあった中川順は、著書に池田との思い出にページを割き多くのエピソードを書いているが、唯一残念なことは日経の「私の履歴書」が日の目を見なかったことと話している。池田が大蔵大臣就任以来、赫々の"武勲"よろしく男の階段を登り始めて以来、中川は履歴書執筆をねばり強く交渉し続けたが、「総理にでもなればね」と断り続けられ、総理になると繁忙で駄目になり、そのまま世を去ってしまった。総理経験者で「私の履歴書」に登場しなかったのは、吉田茂と三木武夫らわずかで、池田は中でも惜しまれる人物であった、と中川は話している[400]。
- 総理時代の池田が「財界四天王」の小林中、桜田武、永野重雄、水野成夫と会うのは、極秘中の極秘。もう一人小間使いとして同席したのが鹿内信隆であった。池田は総理在任中、約束通り待合には行かなかったが「栄家」と「福田家」だけは利用した[505]。
- 1961年6月の訪米で、ジョン・F・ケネディ大統領と会談する際、夫人がジャクリーン・ケネディなので、こちらも夫人同伴がいいのではないかという話になり、池田の妻・満枝が同行した[506]。首相夫人が外遊などに同行する先駆けとなった[136][506][507]。
- 日本の核武装について積極的であった。1962年11月の訪欧時、ロンドンで英首相ハロルド・マクミランと会談した後、「日本に軍事力があったらなあ、俺の発言権はおそらく今日のそれに10倍したろう」と慨嘆し、各国首脳との接触を重ねるうちに、経済力の裏付けしかなく軍事力の後ろ盾を欠く外交の弱さを思い知らされていたという[200][508][509]。酒が進むと核武装について話しはじめるのが毎度のことで、「被爆地広島を選挙区に持つ政治家の発言することではない」と周囲が諫めても聴きいれなかった。三木が池田の発言を漏らして大事になったこともある[510]。また1961年6月、米国でケネディと会談した際、ケネディに対し、米国が核実験再開に追い込まれた場合、米側の立場を「了解する」と明言したとされ[511]、池田は米国からの日本国内への核兵器持ち込みを知っていたとされるが(日米核持ち込み問題)[512]、1963年3月の参議院予算委員会で「核弾頭を持った潜水艦は、私は日本に寄港を認めない」と答弁した[512][513]。この発言にライシャワー駐日アメリカ合衆国大使が慌てて1963年4月4日、大平外相を密かに呼び、大平が核密約(日本国内の基地への核兵器の持ち込み)の内容を確認し、日本国内への核兵器持ち込み(イントロデュース)を了承したとされる[512][514][515]。
- 第2次池田内閣時代の1963年5月14日に「全国戦没者追悼式実施要項」が閣議決定し、同年から8月15日に政府主催で全国戦没者追悼式が行われるようになり、8月15日が終戦記念日と法的に定められた[516][517]。この1963年8月15日は靖国神社で行われ、天皇、皇后臨席の下に池田以下全閣僚、衆参両院議長が列席した[412][518]。それまでにも民間で追悼行事は行われていたが、国家が主体となって8月15日に追悼行事をやることが、この時に初めて打ち出された[516][519]。これが今日まで問題になっている8月15日の首相、閣僚の靖国神社参拝は合憲か違憲かという論争の発端であるが、このときはさして問題にはならなかった[412]。前年は日比谷公会堂で行われたが、日本遺族会から強い要請があり、自民党内の支持も強く、総裁三選の絡みもあって会場をこの年靖国神社に移した。この件に関して池田は積極的だったという[412]。池田は「戦後わが国の文化と経済の著しい発展は、その底に祖国の栄光を確信して散った多くの人々の願いあったことを忘れてはならない」と式辞を述べた[519]。以後、毎年8月の追悼式の首相式辞において、「わが国の平和と繁栄は戦没者の尊い犠牲の上に築かれている」という文言が定着していった[519]。
- 1963年、国鉄総裁の起用に財界人の抜擢に執念を燃やし十河信二を辞任させた上で、綾部健太郎運輸大臣に後任総裁の人選を指示した[520][521][522]。池田が財界人の起用にこだわったのは、当時池田の対中接近などで政敵になっていた佐藤の国鉄への影響力を絶ち、公共企業体としての明朗な国鉄カラーを取り戻し、国鉄経営に民営色を強め、思い切った経営合理化を実施しようと考えたからであった[521][522][523]。それが分かるだけに財界人はよけい尻込みした[522]。松下幸之助や中島慶次にも断られ、結局池田から人選を頼まれた石坂泰三(経団連会長)が、親友石田礼助に頼み、石田が後任総裁に決まった[521][522]。
- 1963年に旧友の坂口芳久日本相互銀行社長が急逝した時、池田が日本長期信用銀行副頭取に天下りしていた河野一之を後任社長に送り込むにあたり、合転法を成立させ普通銀行に移行させるなどの便宜を図った[122]。1973年には合併により太陽神戸銀行となって以降も、大蔵省と近い関係を維持していた[122]。
- 1963年11月、暗殺されたケネディ大統領の葬儀参列のため渡米し、11月25日のセント・マシューズ教会での葬儀とアーリントン国立墓地での埋葬式に参列。同行した秘書官の伊藤昌哉に池田はぽつりと「伊藤君、これが政治家の死というものだ。オレもできたら短刀を突き刺され、弾丸のひとつも撃ち込まれて死にたいと思っている」と言ったという[524]。
- そのケネディ暗殺の2週間前に当たる1963年11月5日には、衆議院選挙のため訪れた福島県郡山市で、池田自身が暴漢に襲われそうになっている。演説終了後に記念撮影をしようとしていたところ、聴衆の一人が25cmの短刀を抜いて体当たりしようとしたため、ただちに警察官に取り押さえられたもの[525]。なお、翌6日に「何か近づいてくるような気がしたので、もしそばへきたらけとばしてやろうと思っていた。こんなことを気にしていたら、大衆に接する政治家はつとまらない」と語っている[526]。
- 1964年の総裁選で3選後、外国人記者に「池田内閣は来年(1965年)7月で終了し、次期(首相)は佐藤に間違いない」と言われると「オレは長年続けて首相を務める。アデナウアーのように、だ」と答えた[527]。
- 数字に強いのが売りだったため、城山三郎が「数字の使い方が違う」と新聞に書くと、池田の秘書から電話がかかってきて池田の自宅に呼びつけられた。城山が「この数字はおかしい」と言うと、新しい資料を持って来て「これでどうか」と応じた。「やっぱり僕の考え方と合わない」と言うと「あなた、大学で教えているそうだけど、大学での資格は何だ?」と聞かれ、専任講師と答えると「僕を教えられるのは、講師でなく教授だよ」と言われたという[528]。
- 1964年、病気退陣の直前、戦後初めて日銀総裁に民間人として宇佐美洵を据えるよう佐藤に申し送った[529][530]。これはそれまで歩調を合わせていた大蔵省の同期・山際正道が次第に政策面で折り合わなくなっていたための交代である[531]。宇佐美は三菱銀行(現:三菱UFJ銀行)頭取のときに、桜田武の斡旋で、岩佐凱実富士銀行頭取、中山素平日本興業銀行頭取の金融トリオとして池田に接近したことに付き合いが始めるが[532]、岩佐、中山が自主調整論の信奉者であったのに対して、宇佐美は自由経済を尊重し、その基盤に立つ成長のバイタリティーを評価する点で、3人の中では池田に近く最も密接な関係があったといわれる[529]。
- 児玉誉士夫が吉田内閣のとき、反吉田運動のテコにしようと池田のスキャンダルを握って暴き立てようとしたところ、池田の某側近がやってきて「勘弁してくれ、そいつを暴かれると池田の政治生命が断たれてしまうから」と手をついて頼んできた。しかし児玉が「いや許すわけにはいかん」と居丈高に断ると側近が「いや、実は他にもこれがある、これがある」とみんなペラペラ洗いざらい喋った。児玉の方がびっくりして「これは保守政治全体が危ない」と思案し、暴くのを止めたという[533]。
- 池田は、その死の直前に「自分は国民を甘やかす政治をしてしまった」と言い残したといわれる[534]。池田は自身の公約が着々と実現されていくのを見ながら、憂鬱に囚われていたともいわれる。秘書の伊藤昌哉はこの言葉の意味を「経済を良くしたことで、賃金も労働条件も国民は要求するばかり、国家はそれを聞いてやるばかりになった。国民は国家の一員だということ、国家に対する義務や、国家が国民に期待することを果たす責任も、国民にあることを説明するのが下手だった」「戦後日本の政治は父親の政治ではなく、母親の政治をやってしまった、甘やかすことに長じていて、自分の足で立っていないような国にした」と解説している[534]。伊藤は「池田が残した思いとは、国防を自前でやることと、憲法改正だったと思う」と話している[535][534]。
注釈
- ^ 五高同期に佐藤栄作、仲小路彰、濱口巌根らがいる。
- ^ 会議録で池田を「元議員」としているがこれは誤り。
- ^ 約3か月半後に第4次吉田内閣は反主流派の採決欠席により内閣不信任決議を受け、バカヤロー解散に至っている。
- ^ 下村治は「石橋さんは理論的には不十分な展開だったと思う」と述べている(『聞書 池田勇人』、252頁)。
- ^ 佐藤は田中角栄・松野頼三・保利茂・愛知揆一・橋本登美三郎・二階堂進らと周山会を結成する。
- ^ 佐藤を「指名」したと言われていることについて、渡邉恒雄(当時、読売新聞社記者)は自伝『天人天職』のインタビューの中で「抗がん剤の副作用で意識が朦朧としていた池田さんを田中角栄と大平正芳が丸め込んだのではないか」と回想している。ただし、池田は、この際に放射線照射による治療を受けているが、抗がん剤の投与は受けておらず、かつ、佐藤への後継指名は、池田が副総裁川島正次郎と幹事長三木武夫に自民党内の意向を調整するよう指示した上で行われており、この話の信憑性は薄い。細川隆元は著書で、細川の五高の1年後輩で、池田と佐藤の同級でもある朝日新聞の佐藤弥(わたる)が池田と面会し、池田から「川島副総裁にも三木幹事長にも言っていないが、佐藤に伝えて欲しい。(1)自分の政策をそのまま踏襲するという声明を出す、(2)来年(1965年7月の参院選)まで大臣を一人も変えない、(3)おれが河野と手を組んだように、これから河野と手を組んでやってもらいたい、この三つの条件を飲むなら佐藤に譲る。飲まないなら河野に渡す」と言われ、すぐに佐藤に伝えるとやはり(3)に難色を示したものの、結局この条件を佐藤が飲み、池田が佐藤を後継に決めたと書いている(細川隆元『男でござる 暴れん坊一代記 龍の巻』、山手書房、194−200頁)。
- ^ ただし石橋内閣は病気で倒れた首相が岸信介を内閣総理大臣臨時代理に任命した後に総辞職し、岸は内閣首班指名を受けて第1次岸内閣を発足させた後に自民党総裁に選出されており、実質的には石橋が岸を後継指名している。池田以後には、中曽根裁定、竹下裁定がある。
- ^ この第29回総選挙の際に、自民党は5本のテレビCMを制作しており、その中の1本が「私はウソは-」のCMである。なお2019年現在、「私はウソは-」のCM以外の4本が現存している[370]。
- ^ 浅沼稲次郎『私の履歴書』によると、田所輝明。田所輝明『無産党十字街』では、「ある同志」の歌としている。
- ^ 1960年10月18日の衆議院本会議の議事録 を閲覧。この演説は、池田の「場内がシーンとなる演説を」という注文によって、首席秘書官の伊藤昌哉が書いた。「あの演説は五億円か十億円の値打ちがあった」と池田は述懐している(若宮啓文「忘れられない国会論戦」中公新書 1206 中央公論社 1994年 ISBN 4-12-101206-2 C1231)。
- ^ 三木の妻・睦子の兄の岳父は旧野村銀行頭取・野村元五郎で[232]、戦後の財閥解体で名前を変えなければならなくなった時に、池田の友人である奥村綱雄の努力で野村の名前が残り、野村の関係者は奥村に敬意を表していた[232]。
- ^ 竹鶴が「私の履歴書」に記したところでは、池田は当時寮長だった竹鶴に対して「こわい」という印象を抱いていたという(『マッサン』より10倍豪快な竹鶴政孝の「ウイスキー人生」)。
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