評価/分析
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「変更管理 (ITシステム)」の記事における「評価/分析」の解説
次の重要な段階は影響とリスクの評価である。実行されたとき、提案された計画がうまく動かない場合があるかを評価する。この段階では、細部を考慮する必要がある。その後、提案されたそれぞれの変更にリスク評価 (高、中、低) を割り当てる。高リスクの変更には、管理者の承認や利害関係者への通知など、多くの追加手順が必要であるが、低リスクの変更には、プロジェクトマネージャの承認と最小限のドキュメントのみで済む場合がある 。 計画/範囲で対処されていない場合、特に重大な最悪のシナリオがあるリスクの高い変更については、変更取消作業の計画を考えておく必要がある。
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評価・分析
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青山正明 - 僕の頭の中では、山野一氏と根本敬氏は、ゲス漫画家の双璧である。この世の、永遠になくなることなき悲劇に照準を合わせ、日本の現実を踏まえたうえで徹底的にえぐっていく。短編も好きだが、願わくば、もっとむごい大部の長編作を描いてもらいたいものである。 高市俊皓 - ジョン・ウォーターズや山野一の素晴らしいところは、山田花子の言う「常識の嘘」を徹底的に暴き出し木っ端微塵に粉砕してしまうところだ。見ていて爽快な気分になる。 吉永嘉明 - 当時の山野一さんの作品は、貧乏人や愚かでどうしようもない人たちの業が渦巻く、ベタベタにリアルに描き込んだ世紀末の煩悩漫画だった。「人とは、なんとどうしようもない存在なのだろう」ということを、これでもかと描き、諦めたような不条理な作風は、良識派からは評価されにくいタイプのもので、カルトな人気の高い作家だった。そんな彼の漫画は、僕のような少数派を自認し、ルサンチマンを抱えた者には、独特の「癒し効果」のようなものがあった。「ああ、やっぱりそうだよな……」山野一さんの漫画を読むと、いつもそうつぶやくのだった。 唐沢俊一 - だれもが知っている、しかし言葉にしたがらない本質、その上に描き出される残虐性と、運命のどうしようもない救われなさ。人間が、同じ人間の姿で最も見たくないと思っているような下劣な部分をこの作者は容赦なく、描きあばく。描いていて自分もイヤにならないだろうか。どういう精神構造をしているのだろうか。よほど、人間の悪趣味な部分に興味があるのだろう。見るのがイヤだイヤだと思いながらも、しかしページをめくらざるを得ないという、マゾヒスティックな感覚を味わわせてくれる。 永山薫 - イヤハヤ言語道断なマンガ家が出現したものだ。その作品たるや気の弱い婦女子ならば一読三嘆、三日三晩はウナされること確実の、衛生博覧会と因果物の見世物とトッド・ブラウニングの『フリークス』とジョン・カーペンターの『遊星からの物体X』の濃縮混合エキスの如き代物である。このキモチワルサは、只単にフリークスやワケのわからない蛆虫、ミミズ、廻虫の類がワンサと画面にあふれているからだけではない。キモチワルイ絵なら絵心さえあればサルだって描ける。山野のキモチワルサは、そのキモチワルサが常に人間の肉体から発していると云う極めて生理的なキモチワルサなのだ。彼の本領、即ち生理的肉体に対するこだわり。つまり人間の肉体そのものの内在する気色悪さ、訳の判らなさ。つまり、外見はさほどではなくとも皮一枚下に、ドロドログニャグニャのハラワタ、ミミズの如き血管、神経、さらにはサナダ虫、廻虫、ぎょう虫、包虫等々と云った考えるだにオゾケ立つキモチワルイモノを秘匿している肉体を持って生きるコトのキモチワルサ。とにかくとんでもない想像力の持ち主の登場に拍手を贈ろうではないか。 大塚恭司 - レトリックのうまさだけが評価され氾濫する世の中で、山野氏の作品はいかに最短距離で本質に到達するかという事に賭けている。そして「自分が面白い」と思う感覚に忠実である事に微塵の揺らぎも無い。処女短編集『夢の島で逢いましょう』では混沌としていた作風が、第二作『四丁目の夕日』で確立され、第三作『ヒヤパカ』では「最短距離で本質に到達する」という抽象性における特質が見事に開花し、それは驚異的な完成度を持つ作品集に仕上がっている。最新作『混沌大陸パンゲア』は、その名の通りもう一度混沌とした世界に立ち返っている様にも見受けられ、それは山野氏が作家として螺旋状に進化していく一過程の様で興味深い。異色の作品を創り出す氏だが、作家としての進化は、非常にシンプルで正統な道を歩んでいるのかも知れない。或る作風で驚異的完成度の域に到達した作家が、その後抽象性においてどんなひろがりを見せていくのか? 『パンゲア』は、その可能性を暗示する過渡期の作品集であり、それ自体の作品としての面白さと同時に、作家山野一の今後をゾクゾクする程期待させる物になっている。ブラフばかりで構築された世界。そしてブラフばかりで構築された人々の世界観。自分の世界観があまりに下らないことに気づいた時こそ山野作品を読むのにふさわしい時である。山野作品は、その唾棄すべき世界観を一気にクラッシュしてくれる。
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評価・分析
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本件は国会でも問題視され、審議されることとなった。事件発覚から2か月後の4月6日には、衆議院の厚生委員会で厚生事務次官・木村忠二郎が民主社会党所属の堤ツルヨ議員からの質疑に対し、新聞紙面で騒がれているほどの実情はなかったと否定的な答弁を行っている。その上で、公的施設にも拘らず設備に大きな問題を抱えていた点を認めている。つまり、収容定員を超過していることが最大の問題だとの認識を示した。 翌週の4月14日、参議院議員の山下義信は厚生委員会の審議で、設備ではなく人の問題を指摘している。岡田更生館の職員の過半数が「巡査」の職責にあるにもかかわらず、「誠に低級な者」だと評価した上で、公益性の高い社会事業の運営者には相当にしっかりした人物を抜擢しなければならないと見解を示している。人選にあたっては資格なり適格審査基準のようなものを設けるべきではないかとも指摘している。このような観点は、4月9日の衆議院厚生委員会でも岡山県出身の日本共産党所属議員・苅田アサノからも言及されている。N館長が戦前に満州で長らく巡査を務めていた経歴に着目し、「こういう民主的な新しい社会施設を自分が主宰しでやるには不適当な人だと思う」(原文ママ)と発言している。 同年4月には参議院議員の姫井伊介が現地視察を行っており、その様子は1949年5月10日に開催された参議院厚生委員会の審議で詳細報告されている。姫井の報告によると、事件発覚によって岡田更生館からの逃亡者は幾分増加して1日平均1人、また死亡者は8日に1人の割合であった。これにより岡山駅には浮浪者が増加したとして、地元からは不満の声が上がっている。収容室の拡張や設備の改造修理も行われているが、辺鄙な立地であることから収容者の働き口も少なく、別の地に移転するのが賢明ではないか、との見解を述べている。 事件後、岡田更生館は改組名称変更し岡山県吉備寮となるも、1955年(昭和30年)に廃止。1956年(昭和31年)には更生施設から救護施設に改組されたが1957年(昭和32年)に廃止された。その後、跡地には民間の病院が一時期開設されたが閉鎖され、その後は住宅地となっている。 岡山市内で浮浪者の収容に当たっていた県職員・荻野半麓は事件後、職を辞した。荻野は著書『浮浪児とともに』(1949年)の中で、収容者への暴力について「(統治手段として)この程度なら仕方がない」と考えていたと述懐、「良識の鈍っていた当時の自分をただ恥じる」と心情を吐露している。 地元の郷土史を記した書籍では、県が主管する社会福祉施設で、人権はもとより人命までもが全く軽んじられた運営が行われ、結果として非常に多数の死者が出た本件を、県の福祉行政の面でも前例のない汚点を残したと批判されている。
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評価・分析
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『不思議の国のアリス』とその続編『鏡の国のアリス』は、それまでの旧弊な教訓物語から脱し、児童文学の新しい地平を切り開いた作品として評価されている。ピューリタン的な伝統の強いイギリスでは、子供のための本はあってもそれは子供に知識を得させるため、信仰心や道徳心を植えつけるためのものであり、当時、そうした子供に対する「教訓」を内に含まない本は稀であった。児童作家の文章も型にはまったものが多く、しばしば不必要に飾り立てられ、また単音節の語を多用することによって単調になりがちになった。彼らにとって子供はあくまで教化の対象であり、未完成な、知力も感受性もない存在と見なされ、物語の中では子供はしばしば無知や病苦、貧困とセットにして描かれていた。 そうした中にあって、教訓をいっさい含まず、純粋に子供を愉しませるために書かれた『アリス』の登場は画期的なものであった。キャロルは読み手である子供をあくまで自分と対等な存在として扱い、その文章もそれまでの児童書の約束事からはずれ、長い多音節の単語や子供には難しい概念を、分かりやすい冒険物語の流れに組み込むことによって躊躇なく使用した。作中で多用される言葉遊び、パロディ、ナンセンスの要素もまた、旧来の児童文学の伝統を打ち壊すのに大きな役割を担っている。こうした言葉遊びは純粋に言葉によって子供を愉しませる一方で、当時よく知られていた教訓詩が地口や意味のずらしによって馬鹿馬鹿しい詩に変えられ、児童教育にはびこる教訓主義はどんなことに対しても教訓を見つけ出してみせる公爵夫人の登場によって茶化され、初等教育の詰め込み主義は代用ウミガメの語る学校の思い出によって風刺される。こうした要素はまた、キャロル自身が子供時代に受けた苦痛の反映でもあるが、キャロルのナンセンスは風刺の域を突き抜けて、ときに人間存在の暗い部分にまで届く。 二つのアリスの物語は児童文学の流れを語る上で欠くことのできない古典として確固とした位置をしめており、児童文学作品としては他に類を見ないほど多種類の批評研究の対象とされてきた。作品の時代背景とともに作者の実人生が詳細に調べられて作品と関連付けられ、キャロルだけでなくアリス・リデルの伝記も書かれている。こうした歴史的・伝記的解釈の一方で、アリスの物語はさかんにフロイト流の精神分析の対象にもされた。こうした解釈においては、しばしば物語がヴィクトリア朝社会の性道徳に抑圧された作者の性的欲求の反映と見なされ、例えば初期の分析では、アリスが落ちていく長い穴や廊下、そこで見つける鍵と扉、そこにかかっているカーテンはいずれも女性の身体や服の象徴であり、長く伸びる首は男性器の象徴と見なされた。あるいはその長い穴が子宮であるとすれば、涙の池は羊水を表し、そして大きくなって胎児のように部屋に閉じ込められるアリスは「誕生のトラウマ」の主題を繰り返しているのかもしれない(ウィリアム・エンプソン)。 しかしこうした分析は、作品の精神的な背景の一面を示すことはあるものの、必ずしも常に作品の本質につながりうるものではないし、また必ずしも作品の全体的な理解につながるわけでもない。『アリス』の注釈者マーティン・ガードナーは、アリスの物語は(「あらゆる偉大な空想物語と同様に」)どんな象徴的解釈の類型にでも容易に当てはめることができるとして、こうした比喩的・象徴的な解釈を自身の注釈から排除している。
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評価・分析
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/13 02:23 UTC 版)
高野慎三 - 初めの構想と出来上がった作品は様相を一変させており、その一件でも私は、つげの力量に驚嘆せざるを得ない。 樋口和彦(宗教心理学者) - 「ちくしょう目医者ばかりではないか」と言いつつ医者を探すときに、目医者の看板が6つも向いているが、この目は対人恐怖症の世界をよく現している。この人は描くために絵を描くのではなく、自分の癒しのために絵を描いたのだろう。だから寡作なのだ。どの絵もその人の心と直接に接触していると思える。この作品は、夢を元に描かれたと言われるが、夢というのはそのデタラメさが本領であり、そのデタラメさの故にそれに束縛され迫力があるのだ。 福島章(精神科医) - 『ねじ式』は、締め切りに追われ、夢をそのままやけくそで描いたと作者は回想するが、『ねじ式』の夢と『夢日記』などの夢を比較すれば、額面通りには受け取れない。着想が夢であったとしても、その夢の内容をひとつの作品に構成する意志の存在が、この夢物語を「作品」にまで引き上げているのだから。 澁澤龍彦 - 『ねじ式』が出たとき、大喜びして「これはいいんだー」と大騒ぎした。 押井守(映画監督) - 『ねじ式』は、元々が「引用」の寄せ集め。だから引用しやすい。代表作とは必ずしも質的な最高傑作ではなく、どれだけ引用され語られたか、その数で決まるとも言える。『ねじ式』は、解釈欲をそそる「解釈したくなる作品」。でも、深い意味があるよう思わせる傑作。作者は「伏線を張り裏読みを仕掛けた」のでなく、これは所謂「無意識の力」。この作品は、絵と言葉が無意識のもと見事に合体した稀有な例。 池上遼一 - 背景も見開きの汽車の絵も水木プロダクションにいた時の経験が生きているし、路地から汽車が出てくるシーンも何となく水木しげるのタッチだ。発想はつげ独自だが、絵のスタイルは水木の影響がある。椎名麟三の『深夜の酒宴』につげ作品に似た雰囲気がある。だから小説でもストーリー性の強いものにはもう既にあまり興味はなかったんじゃないか。 赤塚不二夫(旧友) - 完全なナンセンスとして成立していて、突出していた。だからって、この作品が、世に問うといった問題作でもないし、社会的な現象をとり入れてかかれたものでもなかった。むしろ、そういったものから完璧に孤立してるんだね。その孤立ぶりに衝撃を受けたといっていいだろう。これは結論的な作品だぜ。これをかいてしまったなら、あとがない。ぼくだったら、机の中にしまっておき、適度なナンセンス作品でお茶をにごしておくよ。
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評価・分析
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 06:08 UTC 版)
行方昭夫は本作の長所は女主人公であるジュリアに集約されると指摘している。行方によるとジュリアは「モームの想像した忘れがたい女性像」のひとりであり、「内的独白」を用いてジュリアの考えが生き生きと描写されており、「『劇場』の面白さはその大半を彼女の魅力ある性格に依存している」ものである。モームは通常あまり難解なレトリックを使用しないため、この内的独白の多用について、龍口直太郎は「この種の実験的小説技巧に対してはいつも批判的立場に立ってきたモームとしては、ちょっと人を驚かすものがある」と述べている。一方、ジュリアについては非常に魅力的かつ丁寧に描写されているが、息子のロジャーなどのキャラクターはあまりよく描きこまれていないと評されている。 本作は演劇を主題としているだけあって演劇的な作品であると考えられており、「モームがこの物語を十年か二十年前に書いたら、劇の形をとってあらわれただろう」とも言われている。ジュリアは「自分の演技の創造性で開放感を味わう」人物であり、本作は「役者を通して芸術家気質を描く」ことを目指した作品と考えられる。 ドリーはレズビアンで、ジュリアに対して恋心を抱いていると解釈される。
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評価・分析
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「コインロッカー・ベイビーズ」の記事における「評価・分析」の解説
秋山駿は、「この小説は、コインロッカーに赤ん坊の死体発見の相次ぐ頃、思いつかれたものであろう。私はそこがいいと思う。こういう現代的生存の特徴的な急所を(しばしば犯罪の形が先行するもの)、真なる一つの想像力の発案として、小説世界に挑むということ。それが現代文学の前衛の場所のはずだが、そんなことを本当に試みている作家は寡い」と評した。 住吉雅子は、コインロッカーに捨てられた「ベイビー」を、「倫理観などを差し置いた経済最優先の社会に生じた歪の象徴」とし、「二人は自分が何者なのかを希求した先に都市への復讐を果たすことで「コインロッカー・ベイビーズ」という主体を獲得したのである」と分析している。 吉本隆明は、ハシやキクのような胎児や嬰児を純粋理念上に存在させるとすれば「こういう胎児または嬰児は、やがて同性愛的な傾斜をもつようになるだろう」「何らかのきっかけさえあれば、被害妄想、追跡妄想をこうじさせて、フロイトが古典時代にパラフレニーと名づけたものの病像をたどるだろう」とし、「この作品に捨て難い魅力があるとすれば、作品の主人公たちの織りなす物語が、胎児あるいは嬰児の時期に母性的なものとの接触を決定的に障害された人間がたどる純粋理念的な必然を、いわばありあまるほど豊饒で狂暴なイメージの情欲として展開しているからだとおもえる」と評した。
※この「評価・分析」の解説は、「コインロッカー・ベイビーズ」の解説の一部です。
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評価・分析
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/21 07:24 UTC 版)
配信後の2016年6月下旬には、多数のユーザーがゲーム内で受信した「こえ」のスクリーンショットを「#ひとりぼっち惑星」というハッシュタグをつけてTwitterに投稿したことで話題となり、サーバーがユーザー数の増加による負荷に耐え切れず6月26日の夕方から1日半に渡りメッセージ送受信機能などの機能を停止する措置が取られた。2016年6月27日にはApp Storeの無料ゲームランキングで総合1位を獲得した。 2016年12月1日にGoogleが発表したGoogle Play「ベストオブ 2016」日本版ではベストインディーゲーム部門にノミネートされた。 ヒットの要因について、どのようなメッセージが届くかわからないドキドキ感やワクワク感と、受信したメッセージに作りこまれたものが多く、多岐にわたることに加え、作品世界中で「ひとりぼっち」のプレイヤーにそのメッセージが届くことが「誰かに共有したい」という想いを掻き立てたことが挙げられている。2017年1月31日にTBSで放送された「マツコの知らない世界」では一人暮らしのお助けアプリや独り身の孤独を癒してくれるアプリ「おひとりさまアプリ」の1つとして本作が紹介された。メッセージに関する点以外にも、シンプルで美しいグラフィックや寂しげなBGM、そして独特の儚い世界観が評価されている。
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評価・分析
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/21 20:37 UTC 版)
ライターの怪しい隣人は2018年3月25日にねとらぼで公開された記事において、本作について「ストレスなく遊べる、ベーシックなリズムゲーム」と評している。本作の特徴として「オートプレイ」と「15人全員が踊るメロディアスライブ」を挙げており、前者によってリズムゲームにおける「周回が大変である」という問題が解消されており、後者については今までのリズムゲームでは見られなかった多人数がステージで踊る姿が見ものであり、他社作品をよく研究して作られているアプリであると述べている。また、「マニア向けに濃い要素がどっさりと盛られている」点が本作の面白いところであると指摘しており、例として更新データのダウンロード中にバブルシステムの起動時に流れる曲が流れることや、伊澄いずみがコナミコマンドを口にしたり、イベントで『ラグランジュポイント』をプレイしていたりすることなどを挙げている。 CNET Japanの佐藤和也は2018年9月15日に公開された記事において、リズムゲームとしての本作について、「昨今のスマホゲームとしてオーソドックスなシステムとなっており、遊びやすくとっつきやすいものとなっている」と評している。軽快さを感じられる曲が揃っており、リズムゲームとして親しみやすく、ステージの表現もアイドルたちのダンスに加え、カメラワークにかなり動きがあり見ごたえのあるものになっていると述べている。おまかせライブの存在も遊びやすさのポイントであり、ただのオートプレイではなく自身のプレイの結果によっておまかせライブの結果が変わるようになっているところがリズムゲームのスキル要素をうまく落とし込んでいると評している。またリズムゲーム以外の部分について、学生寮でアイドル達が談笑している姿を見ることができたり、衣装やアクセサリのカスタマイズができたり、VRモードによって様々な距離からアイドルと接することが可能な点を挙げ、「眺めて楽しむ」要素が多数盛り込まれており、手軽にアイドルたちを身近に感じられる内容になっていると述べている。そして、「少し高めの年齢層を突く、ときめきメモリアルならびに往年のコナミゲームタイトルに関連したネタがあらゆるところにちりばめられている」点が他のアイドルをテーマとしたゲームコンテンツとの差別点になっていると述べ、初代作のエンディングテーマ「二人の時」やツインビーPARADISEのオープニングテーマ「Twin memories」などのアレンジ楽曲が実装されている点、オフボーカルの特別楽曲として『グラディウス』や『がんばれゴエモン』のBGMのアレンジ楽曲が実装されている点を挙げている。また楽曲以外についても下校イベント中に呼び名を変更できたり、レッスンイベントにおける演出も過去作を踏襲したものになっていること、さらにはキャラクターのセリフについても過去作のキャラクターのセリフを意識したものがあり、衣装やユニット名にもコナミタイトルに関係する名称がそれぞれ付けられており、「細かいところにまでシリーズやコナミタイトルのネタが使われている」と指摘している。キャラクターについては、15人それぞれが個性的でお気に入りのメンバーを見つけて楽しむのも1つの楽しみ方であると評しており、伊澄いずみ、片桐奈々菜と草壁野々香を紹介している。 一方で、運営サービス終了後の2019年1月22日に公開された記事において怪しい隣人は、運営サービス終了に至った理由について宣伝不足を挙げており、『コンプティーク』誌での取り上げはあったものの、それ以外に目立ったものがなく、出演声優によるライブイベントである「トキメキチャレンジ」を開催していたものの広報が稚拙で、公式twitterアカウントでのつぶやきも少なく「『声優ファン向けのアピール』『ゲーム外での活動アピール』が不足していた」と評しており、その結果往年のファンを顧客の中心に据えざるをえなくなったが、それでは採算が取れなかったのではないかと分析している。また、2018年5月末に開催されたゲーム内イベント「協力フェス」の出来が悪く、「余計な要素を入れて失敗した」と評しており、そのイベント向けの特攻ガチャが実装されたことで「突然締め付けが厳しくなってきた」という印象を感じ、その後8月末に開催されたゲーム内イベントである「アイドル対抗フェス」はまっとうな内容であったものの、その時点ですでにモチベーションが減衰していたと述べている。「キャラクターを魅力的に見せようという努力も感じられないゲーム」であったとも評しており、キャラクターとの交流コミュやストーリーの内容の薄さを挙げ、「15人の魅力的なアイドルとの交流を楽しむゲームではなく、一部の懐かしコンテンツ系アイドルだけが目立つ」結果になってしまっており、アピールが足りていなかったと指摘している。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/05 21:48 UTC 版)
特殊歌人の枡野浩一は「読むと心が傷つくように感動する素晴らしい漫画だと思います」という推薦文を扶桑社文庫版二版以降の帯に寄稿しており、特殊漫画家の根本敬も本書の「解説」で山野の描き出す不幸のどん底を「逆に大乗仏教的ですらある」と評価している。 元『ガロ』編集者の浅川満寛は「この作品が描かれた80年代後半は、日本全体が実態のないバブル景気に浮かれ、拝金主義が蔓延した時期である」と時代背景に触れ、「そんな時代の中でひたすら社会の底辺…というよりも、自己の精神の深淵をとことん覗き込み、創作に向かった結果、山野のもとに降り立ったのが本作ではないだろうか。底無しの淵を覗き込む、いや、自ら進んで落ちてみるような創作態度を持った作家を筆者は他に知らない」と評している。また鬼畜系といわれるサブカルチャーの元祖的存在であった青山正明は本作について「飽食の時代に於ける異端としての貧困。そう、エンターテインメントとしての徹底した悲惨追及なのである」との書評を寄せており、これについてライターのばるぼらは「90年代に流行する“悪趣味”の本質をズバリ言ってしまっている」と述べている。
※この「評価・分析」の解説は、「四丁目の夕日」の解説の一部です。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/05 02:28 UTC 版)
「ヤスジのポルノラマ やっちまえ!!」の記事における「評価・分析」の解説
谷岡ヤスジ へぇ、奇想天外に動きますねぇ。僕自身が作品を描いているときは随分画面の飛躍と動きを意識しているつもりですけど、映画になってみると予想外の効果が出てくる。それに映画になると一段とエロですねぇ。この映画、黒澤明の『用心棒』を凌ぐ出来です。 田山力哉 面白いこと無類。出し惜しみなくセックス描写をどしどし見せてくれる。たっぷり楽しませる大人の大娯楽アニメ。また、主婦連のPTAというどうしようもない連中が、定りきった文句で柳眉を逆立てるであろう光景が目に浮かぶよ。かまわないから、やっちまえ。 佐藤重臣 柄の悪さで日本一、バンカラポルノで世界一。と、フレコミ以上に凄い。ナマの裸のオンナがあえぐよりもポルノ度がずっと凄い気がする。とにかく、さすがの私もビックラした。少しぐらいの毒っ気なら、チートも驚かないと思っていた私が、ヤスジのポルノラマ『やっちまえ』を見て、唖然としてしまった。まさにポルノの壁を、この映画は完全にぶち破っているのである。これをPTAや主婦連のおシャモジばあさんに見せたら、半年ぐらいは月のモノがなくなってしまうのじゃないか、と想像したくなるものだ。(中略)普通のお客さんには、とてもこの映画は笑いきれないだろう。自分たちが、どうしようもないくらいにセックスに対して飢餓感に陥っている、という現実が、そのままぶつけられるからだ。なにしろ“キンタマ”なんて言葉が出てくるのは映画史上始めてのことじゃないかネ。(中略)このヤスジのポルノラマは、映画のコードが週刊誌のコードと同じレベルになった、ということを指し示すのじゃないか。相当に問題になる映画だと思うけど、ポルノ・ユートピアを蹴っとばすようなパワーに、私は恐れ入っていたのである。(中略)そして、ポルノラマが、なによりいいのは、飢餓感、ウンザリ感、排泄感、全部をセックスに結びつけていることだ。 内田栄一 主人公は「やっちまえ!」と突進する。限界を感じ、向こうの果てまで攻撃しつくせないのを知りながら、当面、噴き出す鼻血を止めるためにも目の前やら手近にいる女と“やる”ことの実現に集中する。そこで理解できるのは、やることや性の遊びやその変化のしかただけに集中するような、そしてそのことを〈文化的〉に高いところで評価してもらおうと、いわば〈上昇志向〉にあふれている俗流ポルノのもろもろとは違って、やったり遊んだりすることが谷岡ヤスジの作品においては少しも完結の目標になっていないということだろう。(中略)そしてそのような一切のリクツを抜きにしても、ワイドのスクリーンいっぱいに何度も出てきて拡がるなつかしいオマンコマーク、それを目撃することができるだけでもぼくらは感動してしまうに違いない。少なくともぼくの経験した範囲で言えば、それは地上最大のオマンコマークであり、それを見るだけでも谷岡ヤスジの作品世界との、攻撃的で破壊的な気配を持っている〈共犯関係〉が成立するような気がする。 村上賢司 リミッターなしの狂気的に発情した性描写をとことん放出し続ける精神構造は同時期開業の元祖国際秘宝館と同じであり、終映後の疲労感も同質なものであった。まさに時代がつくった怪作であり、このような映画はもう二度と生まれないだろう。 石野卓球 萌えでもエロでもなくお色気! 宇川直宏 原作からセックス&バイオレンスだけを抜き取ってコラージュして、これ見よがしに盛って、盛って、盛って、過激のメガ盛り、過激のつゆだく、過激のネギ増し、みたいに作られたアニメですよ。ただ、過激であることのみを追求し過ぎで、カオスが痙攣を起こしている。こんな映画にヘラルドが当時7000万の予算を投じたことが奇跡。日本では1週間で封印されましたがアメリカでは興行収入15億のヒット。謎を謎が呼ぶ、なぞなぞカルトがこの映画です。(中略)ヤスジさんは同じハードコアでもポルノではなくパンクの側。社会風刺時代はオリジナル・パンクで、その後「村(ソン)」を舞台にどんどんハードコア・パンクになっていくんです。『やっちまえ!!』には谷岡ヤスジのハードコア以前のノーフューチャーなニヒリズムが発酵して、お色気アニメとして、2019年の現在やっと有効になっている。石野卓球さんもそのことをコメントされていましたね。そう2004年に僕らが封印を解いた時にはまだまだ発酵が足りなかった。15年経ってお色気要素が発酵、そして熟成して、2019年、ようやく味わえる珍味となった。実はこの作品、とんでもなく歴史的価値のある作品だったのです。 大槻ケンヂ エログロナンセンス、という表現手段が全てこの1作に集約されたのではないかと思うほどの怪作。噂には聞いていたがこれほどとは。レベルが違う。下劣、醜悪、ギャグのひとつひとつがいちいちまったく笑えない。はっきり言ってゲンナリした! こんな映画体験は人生初。観たい人は観ればいいし観てしまった人は後悔なり懺悔なりそれぞれにして「とにかくコレどうかしてるよー!」と言ってまわればいい。とにかくコレは、なんなんだ? すごかった。 掟ポルシェ グシャッドピンポ~ンッッ(破壊)!!!!!! ヨル~ッとアサ~ッのあいだにーッ!!!!!! ドギツおマングワァのキョショー谷岡・F・ヤスジせんせワールドをおとなが見ル用のポルノラマにしたったら、バッキバキサイケバイオレンスでガキが見たら泡吹いてタオレルやつになったもんに!!!!!!!! ナゲーことフーインされてたけどフタタビ世にトキハナツっつーし、ドーナッテモしらんもんに!!!!!!!! 小黒祐一郎 怪作です。カルトです。とにかくインパクトがありました。僕がこの作品を知ったのは『日本アニメーション映画史』(山口且訓・渡辺泰、1977年)だった。「いつかは観たい」どころか「一生観る機会はないだろう」と思っていた作品だった。内容はかなり無茶苦茶。作り手は意図して無茶苦茶なものを制作しているはずなので、これは悪口ではない。中盤からクライマックスにかけて「ええっ!」と驚く展開がいくつもあった。この作品を自分の中でどう位置づけすればいいのかはまだ分からない。 眠田直 珍品。まさに珍品としかいいようがない。「幻の名作」ではないので、谷岡ヤスジのファン以外は無理して観る必要は無いよ。 藤本義一 絵に描いただけでも強烈なヤスジ・マンガが動き出すのだからもの凄い迫力だ! 金田益実 映画が始まって数分「おい、これで全編いくの?!」という不安と期待! 壮絶なラスト! 想像の遥か上を行く長編カルト漫画映画! 春日太一 アバンギャルドという言葉すら生ぬるい、狂気だけに貫かれた世界。よくも、この時代にソフト化できたものだ。 豊田夢太郎 これ相当なカルト作品なので半端な気持ちで観ると火傷するど。 穂積昭雪 一言でいうと70年代のサイケ文化が幼くして爆発したような怪作ではあるね。成人アニメという触れ込みではあるがエロというか演出が目に悪い。見どころは谷岡ヤスジの世界観。最初は貴重な作品ということもありストーリーを追ってしまったが演出を楽しむ映画だと途中で気づいた。この作品が歴史に残るとすれば『チキチキマシン猛レース』音響監督・高桑慎一郎さんがキレキレの演出を見せてること。ラストは三島由紀夫をイメージした(かなり生々しい)切腹シーンで締めるんだが、裏にかかってるBGMが「君が代」そっくりのアレンジソングで「うわ! 攻めてる」と思った。直前には高倉健さんイメージの『昭和残侠伝』パロディも出てきたし、ラストはむちゃくちゃ。まあなんだかんだで楽しめたけど一度見れたなら、もういいかな?…ただ心に残るものがないだけで90分は丸々楽しめる作品。 浅野潜 映像処理が一番自由に出来、かなり制限が大幅に許容されているアニメーションだと言う事があったとしても、徹底して視点を人間の肉体の一部でしか無いセックスに絞った事は、原作が僅かでも持っていた精神を見失わせる結果となり、なにか、極端にまでデフォルメされた主人公の空虚な残像だけが空しく残る結果となっている。もともと谷岡のマンガはいくら爆発したところで所詮負け犬のでしかないというところに欠陥があった訳だが、そうした単細胞的動物の単純な行動の羅列では、限られたコマで見せるマンガとは違い、何十、何百、何千、何万という原画の組み合わせで見せる長編動画の場合、観客を満足させることが出来ないのは、これまた当然でもあろう。「第一章・私生活」の中でこそ、夢と現実の混合の中に、まだしも強烈な自意識を見せたプス夫が、父親と妻を殺したあげく自分の腹をかっさばいて、セックスに乗って昇天するラストに、なんとも言えない「70年代の楽観主義」が後味悪く感じられて仕方がないのもそのためである。 渡辺泰 四十六年九月二十六日〔ママ〕封切の『DO IT! ヤスジのポルノラマ・やっちまえ!!』もお粗末な作品であった。東京テレビ動画製作、日本ヘラルド映画配給の長編動画で、原作は“鼻血ブー”で売り出した谷岡ヤスジ。タイトルの“やっちまえ!!”はアメリカの黒人が体制破壌〔ママ〕の言葉としている。“DO IT!”で、主人公のプス夫が女を次々に犯し「女はやってしまうものだ」と行動で示す。映倫のクレームでタイトルバックの作り直し、十一ヶ所のカット、結婚という人生の墓場でプス夫が割腹自殺するラスト・シーンは三島事件を類推させるとのことで全面的な撮り直しとなった。興行成績も悪く二週続映が一週で打ち切られたそうだ。結局、時流に乗っただけの作品で、内容も何もない愚作に終わった。 天野ミチヒロ 不遇の作品ゆえ、いまだに40年前の酷評が独り歩きしているが、谷岡ヤスジの作品は単なるエログロバイオレンスではない。その不条理さの中には、我々凡人が考え及ばない哲学が内包されている。天才・谷岡ヤスジのキャラクターがアニメーションで動く、それだけでもアニメ史上に残る奇跡の作品だ。今こそ再評価される時が来た。初ソフト化が待たれる。 ガンジー北京 「鼻血ブー」「アサー」など数々の流行語を生んだギャグ漫画の鬼才・谷岡ヤスジ原作の劇場アニメ。スクリーンにドアップで出る女性器マーク。主人公の嫁は新婚初夜で「アサー」と叫ぶ鳥にレイプされ、その赤ん坊も母親を犯す。赤ん坊は主人公の家で育てられるが、隣家の幼女とエッチ三昧。寝たきりの父親と姦通した嫁を日本刀で殺した主人公は、動物園でメスゴリラと獣姦してから割腹自殺。よく公開できたと思うが(笑)、これでも映倫に11カ所を削除され、割腹シーンも前年の三島由紀夫自決事件を連想させると撮り直しを命じられていたというから、初号フィルムはもっと過激なのだろう。2014年、谷岡作品の版権管理をしているソニー・デジタルエンタテインメント・サービスが行方不明のネガ原盤を発見し権利を取得した。作品は2018年に東京国立近代美術館フィルムセンターで上映されたが、未だDVDは未発売だ。ちなみに作品のプロデューサー新倉雅美は、1973年に日本テレビ版『ドラえもん』を制作したが、諸事情で現在も封印されたまま。新倉は失踪後、86年に拳銃密輸で逮捕された。 新倉雅美 われわれの製作意図は、既成の歪んだエロティシズム、つまり、支配者が目論んだ性の管理統制だ。(中略)映画配給会社との契約決定もないまま、製作していた。このDo it宣言に最初の共鳴、支持をよせたのが日本ヘラルド映画であった。まず、製作期間はまる六ヶ月を要した。これに投入された延人数は二万一千六百人になる。(中略)東京テレビ動画は、常に未来にむかって前進しています。エロス革命の戦士として活躍するヤングウーマンを控えて、未来にむかってとどまることを知らない会社─は、きっと若者の真の解放を達成することでしょう。 安藤健二 勇ましい文句が並んでいるが、東京テレビ動画が、未来に向かって前進することはなかった。上映直後に活動を停止してしまったからだ。「製作期間はまる六ヶ月」という言葉から逆算すると、『男どアホウ!甲子園』が放送終了した直後に、「映画配給会社との契約決定もないまま」見切り発車で製作を開始したことになる。しかし、一週間で打ち切りという結果を見るかぎり、新倉の一世一代の賭けは失敗に出たようだ。 鈴木ヤスシ 俺はこの作品、ほぼ叫びっぱなしだから疲れちゃってね。これ、1日で録ってるから。しかも長丁場で。でも、この映画さ、何が言いたいのかさっぱりわかんないんだよね。だから、こっちはストーリーがわからないまま、1シーン1シーン自由に「○○なんだもんねー! パックンパックン!」みたいな感じで喋り続けていたわけ。今観ると(演技が)ちょっと甘ったるい気がするよ。もっと激しくやりゃ良かったな、って思いましたね。絵だって、今だとまだまだ見せられたんじゃないかと思いますものね。例えば、セックスシーンだと、肝心のところで手が出てきたりして、見えなくなるじゃない。今だったらそのカットシーンを復元できるんじゃないかな。そしたら、もっと面白くなっていたのかもしれないよね。もっとギリギリの内容にできると思ったんだけどなぁ。 mvunit(サイト「記憶のかさブタ」管理人) いろんな意味で狂った映画ではあります。谷岡ヤスジというアナーキーな原作と1970年代という時代のアナーキーが計らずも融合した結果、眩暈を覚えるような狂気の作品に。極端までデフォルメされた谷岡キャラは今の人が見ればさながら「ゆるキャラ」の如き愛らしさを感じるのかも知れませんが、それが狂気とエロスとバイオレンスの限りを尽くすというあたりがひたすらシュール&ブラックでアヴァンギャルド。ある意味今の人には新鮮すぎる作品に映るかもしれませんね。半世紀を経てようやく熟成発酵に成功した作品…なのかな?
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評価・分析
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/24 02:53 UTC 版)
知久寿焼 - にゃー子とにゃっ太の表情は微妙だ。猫の口もとが「ω」なのも手伝ってはいるが。そんな、キチガイのそれっていう感じの表情のまんま、身のまわりで起こる出来事に対して、情緒的なところをすこんと欠落させたみたいな単純でまっすぐな反応をする二匹──あれっ?やっぱりキチガイみたいだなぁ。そうか。そうです、ぼくは『ねこぢるうどん』の、この淡々としてキチガイなとこに感じちゃうんですよ。でも姉弟仲いいよね。 岡崎京子 - ゆかいにむじゃきに「ぶちゅう」と虫をふみしだいてゆく2匹の幼いねこ姉弟。働く職工が黒こげの丸やきになって単々と死んでゆく、「ふーん」とみつめる2匹。いやな感じ。やだなぁ。でも私はこの「やだなぁ」という感じは人間が生きてゆく上でとても大切なものだと思うし実は好きです。 唐沢俊一 - 幼児の持つ、プリミティブな残酷性をこれほど直観的に描き出した作品はないだろう。猫の姉弟の基本的に無表情なままの残酷行為は、われわれが子供のころ、親に怒られても叱られても、なぜかやめられなかった、小動物の虐待の記憶をまざまざとよみがえらせる。そして、それを一種痛快な記憶としてよみがえらせている自分に気がついてハッとさせられるのである。 速水由紀子 - 1970年代前後の懐かしい家や街、猫家族のメルヘン世界を、突如、殺戮や狂気がスパッと切り裂く唐突さ。物置の片隅にファンタジーとお化けと殺意が同居していた、子供の頃の記憶がリアルに蘇ってくる。グリム童話の無垢な残酷さにも通じるものだ。 ねこぢるy - その目を初めて見たのは、彼女が暇を持てあまして書き殴っていた画用紙だ。魅力は確かにあるのだが、その正体がよくわからない。可愛いようで怖い。単純なようでもあり計り知れなくもある。原始人のケイブアート、あの半ば記号化されたような動物や人、あるいは六芒星やハーケンクロイツといったシンボリックな図形。そういった要素が、描いた本人も無自覚なうちに備わっているのではなかろうか。 蛭子能収 - 最初はとにかく、ばっと飛ばして見てた。『ガロ』に載ってても、真面目に見たことなかったんですよ。あれはただの可愛い漫画とばかり思っていたもんですから。見るとこんな残酷で。よくあれが受け容れられたと思いますよ。だから、不思議でたまらない。 柳下毅一郎 - ねこぢるがあれほどのポピュラリティーを獲得できた理由も毒に満ち満ちた内容と、アンバランスな丸っこい描線の可愛らしい絵柄。ミスマッチとも言えそうだが、甘ったるい絵柄が毒をくるむ糖衣となったおかげで、ほど良く辛みを効かせることになったのだ。これが山野一ではそうはいかない。透明な、抽象度の高い絵で生々しさを抜いたからこそ、女子供にも愛されるねこぢるケータイストラップが作られたわけである。 村崎百郎 - ねこぢる漫画の根底にあるのは何かに対立する“反”の意識などではなく、非倫理、非道徳、非社会性ともいうべき、あらゆるものから隔絶し超然とした精神である。 青山正明 - ねこぢるの創作する世界では、凡百の残酷童話にありがちな説教めいた教訓などなく、強い動物は弱い動物にどんな暴力を振るおうが、その死肉を食らおうがお構いなしだ。ところが、その一方で、主人公たる猫一家は、奇妙なところは多々あるとはいえ、とりあえず仲むつまじい家族である。いつも手をつないで歩く、強く怖い父、分別ある母。こうした家族のあり方は、今の世にあっては、現実とは程遠いファンタジーと言えよう。 吉永嘉明 - ねこぢるは「おばさんになるぐらいなら死んだほうがいい」とよく話していた。ひょっとしたら、生きることは、死ぬよりもつらいのではないか?と考えたこともある。それでも生きていく中に、きっと、ささやかな喜びがある。年を取ることを恐れないでほしいし、残された人のつらさも考えてほしい。 根本敬 - 大抵、自殺は不幸なものだ。だが、例外もある。自殺した当人が類い稀なるキャラクターを持ち、その人らしい生き方の選択肢のひとつとして成り立つ事もタマにはあるかと思う。ねこぢるの場合がそうだ。死後、つくづく彼女は「大物」で、そして「本物」だったと実感する。そのねこぢるが「この世はもう、この辺でいい」と決断してこうなった以上、これはもう認める他ないのである。年々盛り上る、漫画家としての世間的な人気をよそに、本人は「つなみ」の様な世界で浮遊していたのではないか。俗にいう“あの世”なんてない。丹波哲郎のいう“大霊界”などあってたまるか。だが、“この世”以外の“別世界”は確実にあると思う。ねこぢるは今そこにいる。ねこぢるy名義での諸作品を制作する過程で山野さんは別世界にいる、ねこぢると交感し、精神の安定を得ていたのではなかろうか。『ねこぢるうどん』が真の評価を受けるのはまだ先の事だろう。何故ならこの作品はどこかへ向かうためのバルドっていうんですか、その途上にあるから。一体どこへ辿り着くのか? それは─山野さんの脳内で行われる─山野さんとねこぢるによる「脳内コックリさん」でコインがどの方向へスーッと動くのか、それによって決まるだろうが、どちらが主導権を握るか、それによって道筋も違って来る。が、いずれにせよ辿り着く先はひとつだろう。 山野一 - なぜ読者の方々は、ねこぢるの漫画に安堵感を覚えたのだろうか?…それは彼女の漫画がもつノスタルジックな雰囲気のせいかもしれない…。しかしそれよりも、自分との出会い…とうの昔に置き忘れてきた“自分自身”に再開した…そういう懐かしさなのではないだろうか? まだ何の分別もなく、本能のままに生きていた頃の自分…。道徳や良識や、学校教育による洗脳を受ける前の自分…。社会化される過程で、未分化なまま深層意識の奥底に幽閉されてしまった自分…。その無垢さの中には当然、暴力性や非合理性・本能的差別性も含まれる…。人間のそういう性質が、この現代社会にそぐわないことはよく解る。どんな人間であれ、その人の生まれた社会に順応することを強要され、またそうしないと生きてはいけない。しかし問題なのは、世の中の都合はどうであれ“元々人間はそのような存在ではない”ということだ。もって生まれた資質の一部を、押し殺さざるをえない個々の人間は、とても十全とはいえないし、幸福ともいえない…。ねこぢるの漫画は、そういった問題を潜在的にかかえ、またそれを自覚していない若者達に、カタルシスを与えていたのだと思う。生前彼女はチベット密教の行者レベルまでトランスできる、類いまれな才能を持っておりました。お葬式でお経を上げていただいたお坊さまにははなはだ失礼ですが、少なくとも彼の千倍はステージが高かったと思われるので大丈夫…。今頃は俗世界も私のことも何もかも忘れ、ブラフマンと同一化してることでしょう。
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