象徴的解釈
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本作に対するもっとも有名な批評は、発表当初にウィリアム・フォークナーによって書かれたものである。フォークナーはそれまで、ヘミングウェイに対して「文学的な冒険をしない臆病な作家」と批判していた。 彼(ヘミングウェイ)の最高傑作。われわれ、つまり彼や私の同時代人の著したどの作品にも優る作品であることを、いずれ時の経過が示すかもしれない。この作品で、彼は神を、創造主を発見した。 — ワシントン・アンド・リー大学文芸誌『シェナンドア』1952年秋号に寄せたウィリアム・フォークナーの『老人と海』評より。 アメリカの代表的なヘミングウェイ研究者であるカーロス・ベイカーは、『老人と海』についてフォークナーが「神、創造主」と抽象的に述べたことを具体的に表現した。すなわち、サンチャゴ老人は福音書のキリストの人格と人間性を連想させる心と精神の持ち主である。老人は、大魚さらにはサメとの壮絶な闘いを繰り広げるうちに、十字架に磔にされたキリストと同様の姿になり、物語が進むにつれて十字架のイメージは次第に強まっていくとする。このようにしてベイカーによって打ち出されたクリスチャン・シンボリズムは、この作品に対する批評に方向性を与えるものとなった。 以降、『老人と海』にクリスチャン・シンボリズムを見出した批評家には、エドウィン・モーズリー(1962年)、ロバート・ルイス(1965年)、ビッグフォード・シルヴェスター(1966年)、ジョーゼフ・フローラ(1973年)らがいる。日本では、松坂仁伺が『老人と海』について、釣りの物語と宗教的なメッセージの二重構造であるとし、新約聖書のヨハネによる福音書第21章との関連を指摘しつつ、和解がこの作品のテーマだとする。また、江頭理江と桑野健太郎は、キューバに伝わる「コブレの聖母」伝説と『老人と海』の関連を指摘している。 このように、『老人と海』の批評は、ニュー・クリティシズムの中のクリスチャン・シンボリズムの観点から読む批評が主流となった。1980年代以降にはニーチェ哲学やフランス印象派絵画との類似性に注目する批評が現れてくるが、これらもクリスチャン・シンボリズムからの派生とみなすことができる。いずれにせよ、これらアメリカの批評に顕著に見られるのは宗教的で審美的な傾向であり、この作品からキューバの現実や社会性を見ようとしない姿勢である。このことは、1940年の『誰がために鐘は鳴る』に見られたような社会性が、『老人と海』では失われたと受け止められたことを示唆している。 また、老人の夢の中に繰り返し現れて、この作品の最後を締めくくるライオンは、一般には勇気と希望を培う象徴的イメージと見なされている。これについて、松坂によれば、ライオン(lion)はマノーリン(Manolin)の名前の後半部分のアナグラムであり、つまりライオンと少年は実質的に同じものだとしている。さらに江頭と桑野によれば、サンチャゴとマノーリンとライオンは「コブレの聖母」伝説に登場する3人の漁師ということになる。 これに対して、ヘミングウェイ自身は美術史家バーナード・ベレンソンへの手紙に「海は海であり、老人は老人であり、少年は少年であり、マカジキはマカジキであり、サメはサメであり、シンボルは何もない」として「世間でいうシンボリズムなどはゴミ」と述べている一方で、「リアルな老人、リアルな少年、リアルな海、リアルな魚、リアルなサメを、私は描こうと試みた。しかし、もしそれに成功し、十分リアルに描けていれば、それらは多くのことを意味しうる……。ひとつの物事をきちんと誠意をもって描けば描くほど、のちに別の多くのことを意味するのだ……。」とも述べている。
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