生涯・人物
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愛媛県喜多郡肱川村の牧師の家に生まれた。広陵中学中退後、神戸神学校に入学する。その後、大阪神学院に転校したが、キリスト教に懐疑を抱き中退する。 さらに、東京神学社で学び校長高倉徳太郎の神学に傾倒し、回心を経験する。卒業後、日本基督教会佐渡伝道所に赴任する。 高倉の要請で『福音と現代』の編集のために上京する。1931年(昭和6年)中原伝道所を開き、翌1932年に上原教会(現:日本基督教団代々木上原教会)を設立する。按手礼を受け終生上原教会を牧会する。 雑誌『言』・『指』を発行。戦前はカール・バルトに傾倒する。戦後は、戦争中にキリスト教会がとった態度を深く反省して、社会実践の必要を感じるようになった。最初は社会党に期待を寄せたが、失望して共産党に傾倒していった。 1949年(昭和24年)1月の総選挙で日本共産党の風早八十二を応援して、理論的にも実践的にもキリスト教と共産主義とが両立しうると主張して、日本基督教団の牧師のままで共産党入党宣言を行う。その結果、日本基督教団内外に論議を巻き起こした。これは赤岩栄問題といわれる。教団の幹部たちは、キリスト教と共産主義は両立し得ないとして、入党を断念するように働きかけた。その結果赤岩は入党を控えて、外部から共産党に協力することになった。 こうした赤岩の行動に対して、教団の指導者たちは、特別委員会を設けてこの問題の解決に当たらせた。教団は「信仰はキリスト教、実践は共産主義」という赤岩の主張は容認できないという結論になり、キリスト新聞にその声明を発表した。その後、赤岩の立場を支持する勢力と、支持しない勢力に分裂した。椎名麟三は支持しない側に回った。 また晩年には、バルト神学を捨てて、ルドルフ・ブルトマンの非神話化論の神学に影響されて、人間イエスを探求し、イエスを自ら実践する方法を探った。1966年に『キリスト教脱出記』を出版し、正統的キリスト教信仰を廃して、内部からの鋭い問題提起とキリスト教批判とを行った。 社会的活動としては、全国生活と健康を守る会連合会(全生連)第3代会長などを務めた。
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生涯・人物
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「ウィリアム・ヒアド・キルパトリック」の記事における「生涯・人物」の解説
ジョージア州ホワイト・ブレインズに生まれる。彼の父親はバプティスト派の牧師。父親の影響で、バプティスト派のカレッジ、後のマーサー大学に学び、ここを卒業。その後一年半、ジョンズ・ホプキンス大学の大学院に学び、高等学校の数学の教師になった。その後、マーサー大学で教鞭をとる。 1898年、シカゴ大学での教師のためのサマーセミナーにて初めてジョン・デューイに出会う。 1907年、コロンビア大学の教育学部に再入学、デューイに再会。教育哲学を志す決心を固め、デューイの下で学ぶことになる。以来1952年のデューイの死に至るまで両者の緊密な共同研究が始まる。 1919年、デューイとキルパトリックは、プロジェクト・メソッドというアイディアを提唱。共同でプロジェクト・メソッド(英語版)の構想とその基礎理論と実践方法を次々と発表、世界的に反響を生む。 1965年2月13日、ニューヨークで死去。93歳没
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「オーギュスト・デュメリル」の記事における「生涯・人物」の解説
パリに生まれた。父親のアンドレ・デュメリルも動物学者である。パリ大学で学び1844年に比較生理学の助教授になった。1857年からパリ自然史博物館の爬虫類、両生類、魚類の部門の教授になった。1869年にフランス科学アカデミーの会員になった。 1851年に父親とともに、『爬虫類標本の体系的一覧』("Catalogue méthodique de la collection des Reptiles")を出版した。1864年から1866年の間、マリー・フィルマン・ボクールのメキシコおよび中米の博物学的探検の報告の作成に参加し、爬虫類、両生類の項目を執筆したが、デュメリルは普仏戦争時のパリ包囲戦中に没し、執筆はボクールやレオン・ヴァイヤンらによって続けられた。1865年と1870年に『野生魚の自然史と一般魚類学』("Histoire naturelle des poissons, ou Ichtyologie générale")が出版された。
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生涯・人物
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「マイルズ・バーニェト」の記事における「生涯・人物」の解説
1939年、海運業者の父のもとロンドンに生まれる。第二次世界大戦のためハートフォードシャーに疎開して幼少期を過ごす。ブライアンストン・スクール(英語版)卒業後、1957年から1959年までイギリス海軍で兵役(英語版)に就き、ロシア語通訳の訓練を受ける。 1959年から1963年、ケンブリッジ大学キングス・カレッジで古典学と哲学を専攻した後、1963年から1964年、ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン (UCL) 大学院でバーナード・ウィリアムズに師事する。 1964年からUCLに務めた後、1978年、ケンブリッジ大学講師となりロビンソン・カレッジ(英語版)フェローを兼任する。1984年、G・E・L・オーエンの後任としてケンブリッジのローレンス記念古代哲学教授(英語版)となる。1996年、ケンブリッジを離れオックスフォード大学オール・ソウルズ・カレッジのシニアリサーチフェローとなり、2006年に退職する。以上の他、ハーバード大学、カリフォルニア大学バークレー校、カリフォルニア大学ロサンゼルス校、コーネル大学、シカゴ大学、レニングラード大学、パリ大学、エコール・ノルマル・シュペリウール、エトヴェシュ・ロラーンド大学、ベルリン大学などでも講義した。 ロシア語通訳の訓練を受けた頃からロシア文化を愛好しており、ソ連崩壊前後に数回訪問している。 20世紀中から日本を訪れており、日本人の知り合いも多くいた。2010年に慶應義塾大学で国際プラトン学会大会が開催された際も来日している。 生涯を通じて複数の女性と結婚している。1972年にユング心理学者の Jane Elizabeth Buckley と結婚し二児をもうけたが1982年に離婚、1984年に文学者のルース・パデル(英語版)と結婚し一児をもうけたが2000年に離婚、2002年に同業者の Heda Segvic と結婚したが2003年に先立たれた。晩年は音楽学者のマーガレット・ベント(英語版)と交際した。 晩年は認知障害の兆候があったが、ベントらのケアもあって穏やかに過ごした。2019年、逝去。 教えを受けた人物に、アンジー・ホッブス(英語版)、神崎繁、納富信留がいる。
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生涯・人物
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粟谷益二郎の次男として東京府で生まれる。両親とも広島の出身であった。名付け親は喜多実。兄に粟谷新太郎。弟に粟谷辰三・粟谷幸雄。息子に粟谷明生。歌手のペギー葉山は従妹にあたる。 父および喜多流十五世喜多実、十四世喜多六平太能心に師事。喜多実の厳正重厚さと六平太の絢爛自在さをあわせもつといわれ、『羽衣』『安宅』『景清』など幅広い演目を得意とした。謡の表現力があり、シテを引退した後も地頭として活躍。大阪大学に能楽研究会を設立し死去まで30年以上指導を続けるなど能楽の普及にも力を注いだ。芸術祭奨励賞・芸術祭優秀賞・観世寿夫記念法政大学能楽賞・日本芸術院賞受賞。1996年人間国宝、2003年日本芸術院会員。2006年10月11日に心不全のため死去、83歳。叙・正五位、授・旭日中綬章。
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生涯・人物
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フランスの植民地であった西インド諸島マルティニークのフォール・ド・フランスの出身。ファノンの父は黒人奴隷の子孫、母は混血の私生児で白人方の祖先はストラスブール出身であった。マルティニークではましな方ではあったが、中流にはほど遠い家庭に育ち、名門シェルシェール高等中学校に進学、エメ・セゼールに学ぶ。 第二次世界大戦でフランスがナチス・ドイツに倒されると、マルティニークはヴィシー政権の海軍に封鎖された。島に残されたフランス兵は「典型的な人種差別主義者」となった。多くの厭がらせと性的不品行が起こされた。フランス軍によるマルティニーク人への侵害は、ファノンに植民地の人種差別の現実のなかでの疎外感と嫌気を増強させるという重大な影響を与えた。18歳でファノンは「反対者」(フランス領西インド諸島でのド・ゴール主義者を指す)として島を逃れ、イギリス領ドミニカに渡り、自由フランス軍に加わった。後にフランス本土に移り、アルザスの戦いに従軍している。1944年にコルマールで負傷し、軍功章を受けた。ナチスが敗れ、連合軍が写真記者とともにライン川を渡りドイツへ入るとファノンの連隊は全て白人に「漂白」され、ファノンら非白人兵はトゥーロンに送られた。 1945年、ファノンは短期間マルティニークに戻り、ファノンの師であり友であるエメ・セゼールの手伝いをした。セゼールは、フランス第四共和政においてフランス共産党から議員に立候補していた。ファノンはバカロレアを得るとフランスに渡り、医学と精神医学(精神分析など)を学んだ。リヨン大学で文学や演劇、哲学等も学び、モーリス・メルロー=ポンティの講義を受けることもあった。またジャン=ポール・サルトルの他者論と反差別論に強い影響を受けた(サルトルは『地に呪われたる者』の序文を書くことになる)。1951年に精神科医の資格を得ると、カタラン人医師フランソワ・トスケルの元で研修医となった。これはファノンが文化を精神病理学的に見ることに影響を与えた。ファノンはフランスで臨床医を続ける傍ら、1952年研究論文として『黒い皮膚・白い仮面』を発表する。1953年にアルジェリアに渡りブリダ=ジョアンヴィル精神病院で医療主任となり1956年まで続けた。 ファノンは任地のアルジェリアでアルジェリア人独立運動家の捕虜を診療する内にフランスの植民地支配へ反対を始め、アルジェリア民族解放戦線(FLN)に参加、アルジェリア戦争を戦い、FLNのスポークスマンとして脱植民地化(ポストコロニアル)時代のアフリカ植民地を周り、アフリカの独立指導者達からアルジェリア独立への支持を取り付けた。1961年には、白血病に冒されつつも『地に呪われたる者』をわずか10週間で執筆。だが、1962年のアルジェリア独立を目前にした1961年、ファノンは白血病によりアメリカのワシントンD.C.近郊で帰らぬ人となった。 1962年に発表した詩の中で、カテブ・ヤシーンはファノンを追悼した。しかし、現在のアルジェリアではファノンの名は殆ど忘れ去られた存在となっている。
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「スティーグ・ラーソン」の記事における「生涯・人物」の解説
スウェーデン北部のシェレフテオ(Skellefteå)出身。母方の祖父母の下で育てられ、スペイン内戦に国際旅団の一員として参加した共産主義者の祖父の影響を受ける。トロツキー主義ジャーナル(Fjärde internationalen)やSFファンだったことからSF雑誌Sfären, Fijagh!の編集を手掛けた。また、1978年から1979年までスウェーデンのSFファンクラブ(Skandinavisk Förening för Science Fiction (SFSF))の理事を務めた。 1981年にスウェーデンの通信社(Tidningarnas Telegrambyrå)でグラフィック・デザイナーとしてキャリアをスタートさせる。同会社で20年働き、イギリスの反ファシズム雑誌サーチライト(Searchlight)の編集にも携わった。1995年に政治雑誌エキスポ(Expo)を創刊し、編集長も務めた。 2002年からパートナーの女性と『ミレニアム』シリーズの執筆を始める。2004年に出版社と契約したが、同年に心臓発作により他界。 2005年に『ミレニアム1 ドラゴン・タトゥーの女』が出版。スウェーデンを始めとする全世界で800万部のベストセラーとなり、様々な賞を受賞した。テレビドラマ化や映画化された。
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「マルティヌス4世 (ローマ教皇)」の記事における「生涯・人物」の解説
ボローニャ大学で学び、1238年に司教座聖堂参事会員に任命され、1248年にルーアンの助祭枢機卿、1259年から1261年までフランス王ルイ9世の秘書を務めた。1261年にウルバヌス4世に司祭枢機卿に任命、1264年ではクレメンス4世から教皇使節に任命され、1269年まで務めたが、グレゴリウス10世によって1274年に再任、1279年まで教皇使節として活動した。 1280年8月22日のニコラウス3世の没後コンクラーヴェが開かれたが、1281年2月に半年経っても次期教皇が決まらない事に苛立ったローマ市民が乱入、枢機卿を連れ去る騒ぎに発展したが、シチリア王シャルル・ダンジューが鎮圧、22日にシモンが教皇に選ばれ、マルティヌス4世を名乗った。 在任中はシャルルに依存しきっており、彼をローマ元老院議員に任命、東ローマ帝国皇帝ミカエル8世を破門、シャルルの東ローマ帝国遠征を支持、第2リヨン公会議で宣言された東西教会の合同も取り消してしまった。1282年、シチリアの晩祷事件が発生し、シャルルはシチリアを失い、島の住民から教皇の直接統治を懇願された。マルティヌス4世はこれを拒否し、逆に全島民、および代わってシチリア王に即位したアラゴン王ペドロ3世を破門にしたが、結局シャルルはシチリアを奪還できず、甥のフランス王フィリップ3世共々敗北を重ねた。 1285年、ペルージャで死去。シャルル、フィリップ3世、ペドロ3世も同年に死亡した。 ダンテ・アリギエーリの『神曲』ではボルセーナ湖産鰻のヴェルナッチャワイン漬の炙り焼きを過食し、死後煉獄で贖罪の日々をおくっている。
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「ハドリアヌス5世 (ローマ教皇)」の記事における「生涯・人物」の解説
叔父によって助祭枢機卿に任命され、1265年にクレメンス4世と交代してイングランドの教皇使節に就任、インノケンティウス5世亡き後の教皇に選出された。グレゴリウス10世が定めたコンクラーヴェの制度を一時破棄したが、ヴィテルボに移ってそこで死去。在位は1ヶ月に過ぎなかった。その後、ヨハネス21世が選出された。 ダンテ・アリギエーリの『神曲』では貪欲の為に煉獄で罪を償うハドリアヌス5世が書かれている。 表 話 編 歴 ローマ教皇(第186代: 1276年)古代ペトロ33?-67? / リヌス66?-78? / アナクレトゥス79?-91? / クレメンス1世91-101 / エウァリストゥス101-108 / アレクサンデル1世109-116 / シクストゥス1世116-125 / テレスフォルス125-136 / ヒギヌス136-142 / ピウス1世142-155 / アニケトゥス155-167 / ソテル167-174 / エレウテルス175-189 / ウィクトル1世189-199 / ゼフィリヌス199-217 / カリストゥス1世217-222 / ウルバヌス1世222-230 / ポンティアヌス230-235 / アンテルス235-236 / ファビアヌス236-250 / コルネリウス251-253 / ルキウス253-254 / ステファヌス1世254-257 / シクストゥス2世257-258 / ディオニュシウス259-268 / フェリクス1世269-274 / エウティキアヌス275-283 / カイウス283-296 / マルケリヌス296-304 / マルケルス1世306-309 / エウセビウス310 / ミルティアデス311-314 / シルウェステル1世314-335 / マルクス336 / ユリウス1世337-352 / リベリウス352-366 / ダマスス1世366-384 / シリキウス384-399 / アナスタシウス1世399-401 / インノケンティウス1世401-417 / ゾシムス417-418 / ボニファティウス1世418-422 / ケレスティヌス1世422-432 / シクストゥス3世432-440 / レオ1世440-461 / ヒラルス461-468 / シンプリキウス468-483 中世フェリクス3世483-492 / ゲラシウス1世492-496 / アナスタシウス2世496-498 / シンマクス498-514 / ホルミスダス514-523 / ヨハネス1世523-526 / フェリクス4世526-530 / ボニファティウス2世530-532 / ヨハネス2世533-535 / アガペトゥス1世535-536 / シルウェリウス536-537 / ウィギリウス537-555 / ペラギウス1世556-551 / ヨハネス3世561-574 / ベネディクトゥス1世575-579 / ペラギウス2世579-590 / グレゴリウス1世590-604 / サビニアヌス604-606 / ボニファティウス3世607 / ボニファティウス4世608-615 / アデオダトゥス1世615-618 / ボニファティウス5世619-625 / ホノリウス1世625-638 / セウェリヌス640 / ヨハネス4世640-642 / テオドルス1世642-649 / マルティヌス1世649-653 / エウゲニウス1世654-657 / ウィタリアヌス657-672 / アデオダトゥス2世672-676 / ドヌス676-678 / アガト678-681 / レオ2世682-683 / ベネディクトゥス2世684-685 / ヨハネス5世685-686 / コノン686-687 / セルギウス1世687-701 / ヨハネス6世701-705 / ヨハネス7世705-707 / シシニウス708 / コンスタンティヌス708-715 / グレゴリウス2世715-731 / グレゴリウス3世731-741 / ザカリアス741-752 / ステファヌス2世752 / ステファヌス3世752-757 / パウルス1世757-767 / ステファヌス4世768-772 / ハドリアヌス1世772-795 / レオ3世795-816 / ステファヌス5世816-817 / パスカリス1世817-824 / エウゲニウス2世824-827 / ウァレンティヌス827 / グレゴリウス4世827-844 / セルギウス2世844-847 / レオ4世847-855 / ベネディクトゥス3世855-858 / ニコラウス1世858-867 / 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生涯・人物
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/27 04:09 UTC 版)
イギリスのサマセット州イルチェスター生まれ。生家はもともと裕福だったが、ヘンリー3世時代の政争に巻き込まれて資産を没収され、家族は追放の憂き目にあった。 ベーコンはオックスフォード大学で学び、アリストテレスの著作について講義するようになった。やがて、フランシスコ会に入会し、オックスフォード大学の教授となった。1233年ごろ、当時のヨーロッパの最高学府であったパリ大学へ赴いて学んだ。当時、フランシスコ会とドミニコ会は新進修道会であったが、学問の世界で華々しい活躍を見せて注目されていた。フランシスコ会の雄はヘイルズのアレクサンデル(英語版)であり、一方のドミニコ会はアルベルトゥス・マグヌス、トマス・アクィナスという師弟コンビがその名を馳せていた。このような華やかな学問の世界においてベーコンの優秀さは注目され、マリスコのアダムやリンカン司教ロバート・グロステストといった当代の有名学者たちと親交を深めた。ベーコンの授業では、実験や観察をおこなうことに特徴があった。 ベーコンの学問はイスラム圏の科学者たちの著作(いわゆるイスラム科学)に由来するものが多かった。このことがベーコンに当時のヨーロッパの学問における問題点を気づかせることになった。当時、アリストテレスは決してすばらしいとはいいがたいわずかな翻訳でしか知られておらず、学者たちはギリシア語を学ぶという発想がなかった。これは聖書の研究に関しても同じであった。物理の研究はアリストテレス的な手法でなく、イスラム圏の科学者であるイブン・アル・ハイサム的な経験にもとづいた手法によって行われていた。ベーコンが師と仰いだのはマハルクリア・ピカルドゥスのペトルスなる人物であった。おそらくこれは『磁気書簡(デー・マグネーテー)』という著作で知られる数学者ペトルス・ペレグリヌスのことであると考えられている。ベーコンは他の学者たちのようになかなか名声を得られないことにいらだち、著書『小著作』『第三著作』においてヘイルズのアレクサンデルらを攻撃している。 やがてベーコンは肥満卿ギー・フールク(もしくはフーコア、フーコー)なる枢機卿と知り合い、その学識に興味を抱いた枢機卿から著作をまとめるよう求められた。だが、ベーコンはフランシスコ会の中で許可なく著述活動をすることが禁止されていたため、はじめは乗り気でなかった。しかしこの枢機卿が教皇クレメンス4世になり、ベーコンに対し禁令を無視してでも秘密裏に著述をするよう求めた。ベーコンはこれを受けて著作をまとめ、1267年に教皇に送った。これが『大著作(英語版)』である。次に『大著作』をまとめた『小著作』が続けて書かれた。1268年には早くも続く著書『第三著作』が教皇に送られたが、教皇は同年死去した。教皇の保護を失ったベーコンは1278年にフランシスコ会の内部で断罪され、アラブ思想を広めた疑いで投獄された。幽閉は10年におよんだが、同郷のイギリス貴族たちがベーコンの解放を求めたため、釈放された。
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生涯・人物
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/27 23:04 UTC 版)
「ジャラール・アーレ・アフマド」の記事における「生涯・人物」の解説
1923年テヘランのシーア派聖職者の家庭に生まれた。祖父はテヘラン州のターレカーンの出身である。父親は法務省による聖職者の登録・管理に抵抗して公証人を辞している。父親と対立して聖職に就かず、独自に教師・作家の道を歩むことになったジャラールにも幼年時代の宗教的環境は深い精神的影響を投げかけており、権力に対する姿勢は父親譲りだといっても過言ではない。 小学校卒業後、進学を許されずバーザールの徒弟となる。皮売り、電工見習い、時計修理と言った傍に、密かに専門学校の夜学に通った。1年間働いた金で中学校を修了した。1943年であった。その後電工夫になったが、当時は第二次世界大戦期であったために、社会的混乱に巻き込まれていった。 1944年にトゥーデ党員になり、1946年に高等師範学校を修了し、その翌年に教職に就いた。アフマド・キャスラヴィーやムハンマド・マスウードの著作に触れ、登機関誌『世界』を読む。この頃のジャラールは反宗教的意識が強く、アラビア語から「不法なる服喪」を翻訳した。それは二日で全て売り切れたが、その実宗教的なバーザール商人に買い占められ、焚書処分にされたというエピソードがある。党関係の編集活動に携わる一方で、作家サーデク・ヘダーヤトの影響下にあって当時左翼的傾向を持っていた文学誌「ソハン」等に短編をまとめ、1946年に処女作「相互の訪問」を発表した。この頃詩人ニーマー・ユーシジを知った。 1947年にトゥーデ党が分裂すると、ジャラールは党内右派ハリール・マレキーのグループに参加した。この頃は政治的沈黙期と言われる。この間にジャラールは、アンドレ・ジッド、カミュ、サルトル、ドストエフスキーの著作の翻訳を行う傍ら、1947年に「我らの苦しみ」、1948年に「セタール」といった小説を発表した。1950年にスィーミーン・ダーネシュヴァルと結婚した。 モサッデグ時代に入ると、再び政治世界に入った。国民戦線の一柱である「第三勢力」のメンバーとなり、『第三勢力』紙、『知識人と人生』誌等の編集に着手した。しかし1953年に同志の除名問題で第三勢力から離脱した。1952年には『余計な女』、1954年には『蜜蜂の巣物語』を上梓した。 1953年以後はジャラールの作家としての内省・成熟期といえる。国民戦線の敗北と強いられた政治的沈黙が彼らの新たな文学的再出発を促した。1958年に発表した小説『校長』は、彼の代表的作品となった。その後も勢力的に国内を調査旅行した。地誌的モノグラフ、文学・社会評論、旅行記を相次いで発表した。この時期にテヘラン大学社会学研究所編集主査をつとめた。1960年代から、1960年にルポルタージュ「ペルシア湾の無比の意味:ハールグ島」、1962年に評論『西洋かぶれ』といった彼の第三世界論、民族的伝統文化再認識の論調が前面に現れた。これと並行するように1961年には小説『Nとペン』、1966年に「メッカ巡礼記」といった、宗教的ルーツ探求の姿勢も強まってきた。特に1963年の白色革命の進展に伴い、文学、評論を問わずこの作家の著作にいよいとシニシズムと苛立ちが目立ち始め、最後の『地の呪い』は、1950年代の『校長』に、『西洋かぶれ』のイデオロギーを盛ったともいえるような作品であり、強権による一方的な近代化政策に対するアンチテーゼの様相も呈している。 しかし1969年ギーラン州アラーサムの山小屋で急死した。享年46歳であった。
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生涯・人物
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/27 18:11 UTC 版)
1867年(慶応3年)、尾張藩士の息子として江戸大久保(現在の東京都新宿区)の尾張藩下屋敷で生まれる。名は「かずとし」と読むのが正式であるが、本人は「まんねん」という読みも採用しておりローマ字の Mannen というサインも残されている。 東京府第一中学変則科(現・都立日比谷)の同期には、澤柳政太郎、狩野亨吉、岡田良平、幸田露伴、尾崎紅葉らがいた。またこの頃、教育令改正のため、のちに第一中学から新制 大学予備門へ繰上げ入学した。その後、1888年(明治21年)帝国大学和文科(のちの東京帝国大学文科大学)卒業。在学中はバジル・ホール・チェンバレンに師事し博言学(「博言学」はPhilologyの訳で、「言語学の当時の呼び方」とするのは少しずれる)の講義を受けた。卒業後大学院に進み、1890年(明治23年)国費でドイツに留学。ライプツィヒやベルリンで学び、さらにパリにも立ち寄って1894年(明治27年)に帰国する。留学中、東洋語学者のフォン・デル・ガーベレンツに出会い薫陶をうけた。またユンググラマティケル(青年文法学派)の中心人物、カール・ブルークマンやエドゥアルド・ジーフェルスの授業を聞いた。サンスクリット語の講義も受けている。 帰国後、東京帝国大学文科大学博語学講座教授に就任、比較言語学、音声学などの新しい分野を講じ、当時古文研究にかたよりがちであった日本の国語学界に、近代語の研究、科学的方法という新風をふきこんだ。 1899年(明治32年)文学博士号取得。東京帝国大学文学部長等を経て、1919年(大正8年)から1926年(大正15年/昭和元年)まで神宮皇學館(現・皇學館大学)館長兼務、1926年(大正15年/昭和元年)から1932年(昭和7年)まで貴族院帝国学士院会員議員。1927年(昭和2年)東京帝国大学(東京大学)を定年退官し、1929年(昭和4年)まで國學院大學学長を務めた。1937年(昭和12年)、直腸癌のため死去。 明治期に日本語そのものが大きく動揺していた中で、西洋の言語学を積極的にとりいれ、また日本の国学の伝統を批判的に継承して、標準語や仮名遣いの統一化に尽力した功績は大きい。 文部省著作の「尋常小学唱歌」の歌詞校閲担当者の一人であり、今日著名な高野辰之よりも権限が大きい立場での校閲者であった。東京(江戸)生まれでドイツ留学という点で、「尋常小学唱歌」作曲主任であった東京音楽学校の島崎赤太郎教授とは標準語のアクセント重視という点で気脈を通じていたと考えられる[誰?]。 上田萬年が行った言語研究の中での最大の功績は、1901年にドイツで行われた正書法を日本の言語政策に応用しようとした点である。旧仮名遣いの混乱を正すために、「言文一致」への移行が必要なことは明治維新以来から明らかだった。1901年、上田萬年は言語学会などを立ち上げながら、明治期にできる最新の方法で「言文一致」の表記を勘案した。長音記号の「−」の採用、また1903年発行『仮名遣教科書』に見える新仮名遣い(これを「発音式」と呼ぶ)などがこれである。この仮名遣いは、文部省内においても、初等教育での教科書にほとんど採用の予定であったが、岡田良平、森鷗外など旧仮名遣いの使用を主張する人々による運動の末、1907年に貴族院が発音式から歴史的仮名遣いに改正すべき建義案を文部大臣に提出したほか、1908年臨時仮名遣調査委員会第四回委員会での森鷗外による「仮名遣意見」によって完全に消滅する。 上田萬年が日本の言語学及び国語学において果たした役割は大きい。それは多くの研究者を幅広い分野において育てたこと、また明治以降の実践的日本語教育を行う際の発音式仮名遣いへの争点を明らかにしたことである。 長田俊樹は、言語学外部からの言語学批判における言語学への理解不足と実証性の欠如を批判するなかで、上田をとりあげている。上田は、「学者的政治家であり、また政治家的学者」(保科孝一)であり、言語学研究には不熱心で、実質上ほとんど貢献はなかったと長田は指摘している。
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生涯・人物
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/31 09:43 UTC 版)
1869年(明治2年)徳川家と共に静岡へ移るも窮状を極め、1877年(明治10年)東京へ戻り、しばらくは湯島天神下の知り合いの元に身を寄せる。この10歳前後の時期、生活の困窮から宮内省で給仕として働いている。 1888年(明治21年)22歳で宗家継承、若年に付き観世紅雪が後見に立つ。能楽復興の気運にも恵まれ、順調な演能活動を展開する。1901年(明治24年)観世能楽堂を大曲(現在の新宿区新小川町)に建設。1898年(明治31年)には代表作『素桜』を書き上げる。 美声の持ち主であり、同世代で名人と謳われた梅若万三郎から好敵手と見なされるなど才気ある役者だったが、一面稽古にはあまり熱心でなかった。ややズボラなところもあったというが、若き日の金剛右京を自宅に同居させその活動を支援するなど、義侠心ある兄貴分的な人柄であった。また1895年(明治27年)、喜多六平太とともに初めて能楽堂の照明に電灯を設置するなど新しい試みを数々行っている。1905年(明治38年)5月には京城で初めての海外演能を実現した。 1907年(明治40年)頃から体調を崩して病の床につき、1911年(明治44年)、45歳で逝去。 妻は久子(あるいは国子とも)。実子はなく、養子に観世元滋(清廉の弟である七世片山九郎右衛門(観世元義)の長男)を迎える。
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生涯・人物
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 09:43 UTC 版)
1856年(安政3年)、土佐藩士川田小一郎(後の日本銀行総裁、男爵)、妻・美津の長男として、土佐郡杓田村(現・高知市元町)に生まれた。英米系医学を教える慶應義塾医学所(後の慶應義塾大学医学部)に入塾するが一年たらずで中退。1877年(明治10年)から7年間、英国スコットランドに留学、グラスゴー大学で船舶機械技術を学ぶ。造船業の盛んな同地で実地修行すると共に、イギリス式の農業にも触れる。 帰国後、三菱製鉄所、日本郵船を経て1893年(明治26年)横浜船渠会社取締役となり、1897年(明治30年)社長に就任する。その前年、父急死のため男爵を継いでいる。1903年(明治36年)社長退任。 この間の1902年(明治35年)、父が明治10年代に開墾した長野県軽井沢町の離山東麓から旧軽井沢にかけての約160万坪の牧場を受け継ぎ、経営を行った。 また同じく横浜船渠在勤当時の1902年(明治35年)、横浜の貿易商会がアメリカから輸入したロコモービル社製蒸気自動車「スタンレー・スチーマー」を購入、自ら通勤などの際に運転した。このことから、龍吉は日本最初のオーナードライバーであるといわれている。この蒸気自動車はその後北海道にも持ち込んで使用した。没後は手つかずのままとなっていたが、1970年代後半に復元修理が行われ、復活走行も行っている(1979年にNHK特集『いも男爵と蒸気自動車と』で龍吉を取り上げた際にも、その中のドラマパートで龍吉を演じた愛川欽也が乗車して走行した)。現在は男爵資料館(後述)で保存展示されており、国内に現存する最古の自動車とされる。 1906年(明治39年)、函館船渠会社専務取締役として北海道へ渡る。1908年(明治41年)、欧米からアイリッシュ・コブラーという品種の馬鈴薯を自営の農場に導入し普及を図る。この品種は後に、川田の爵位にちなみ男爵いもの名で知られるようになった。 1911年(明治44年)、函館船渠を退社。余生を北海道農業近代化のためにささげることを決意する。渡島当別(現・北海道北斗市)に山林農地の払い下げを受け農場を建設、最新式の農機具を多数輸入し機械化による農業を試みた。1915年(大正4年)、父から受け継いだ軽井沢の牧場を実業家・野澤源次郎に譲った(牧場はその後野澤により高級別荘地として新たに開発され、現在に至る)。 1951年(昭和26年)、老衰により渡島当別の自宅にて生涯をとじる。享年95。 1978年(昭和58年)、渡島当別の川田農場の跡地に事績や関連資料を展示紹介した男爵資料館を開設。なお同館は建物の老朽化などを理由に、2014年3月より無期限の「休業」となった。 2017年9月16日、川田の功績を讃える七飯男爵太鼓創作会の有志でつくる音楽隊「和聲(わせい)アンサンブル・リオ」による初公演が函館市内で開かれる。
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生涯・人物
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/13 00:56 UTC 版)
“ベイビー”・ドッズはクラリネット奏者、ジョニー・ドッズの弟である。“ベイビー”・ドッズは初期のジャズ・ドラマーとして重要な存在とされ、ビッグ・バンド登場以前の最上のジャズ・ドラマーのひとりに数えられた。 ドッズは、ニューオーリンズで最高の若手ドラマーとしての名声を得て、まもなく若かりしルイ・アームストロングとミシシッピー川の蒸気船バンドでともに演奏をするようになった。ドッズはキング・オリヴァーと演奏をするため、1921年にオリヴァーのいるカリフォルニア州へ移り、オリヴァーについてシカゴへ移り、そこがドッズの仕事の本拠地となることとなった。 ドッズは、ルイ・アームストロング、ジェリー・ロール・モートン、アート・ホーディス en:Art Hodes、それに兄のジョニー・ドッズらと録音をした。1940年代の後期には、ドッズはニューヨーク市でジミー・ライアン Jimmy Ryanのバンドで演奏をした。ドッズがニューオーリンズへ帰郷した時は、バンク・ジョンソン en:Bunk Johnson と録音することもあった。1959年、ドッズはシカゴで死去した。60歳没。 ドッズは、録音中に即興演奏を行う最初のドラマーのひとりであり、アクセントや華麗な身振りでドラム・パターンに変化を添えた。また、どの曲も毎回コーラスごとに何かしら違った演奏をすることを信条としていた。また、フロア・バスや「キック・ドラム」を追加することにより、ドラム・キットに大きな変革をもたらした。
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生涯・人物
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若い頃のことは詳しくわかっていないが1548年にアントン・ステヴィンの私生児としてブルッヘに生まれ、少年時代を母親の手ひとつで育てられていること、1577年時点で、生まれ故郷ブルッヘの財務局に勤めていることなどが知られている。その以前はアントワープで簿記会計の仕事についていたとされたり、1571年ごろから10年ものあいだポーランドやプロシア、ノルウェーと各地を旅していたともされる。この説によって、アルバ公による宗教迫害が放浪の契機となったと考えられている。 ステヴィンが北オランダに住むようになってから以降の動向は記録により比較的はっきりしている。1581年にライデンに移住しており、地元のライデン大学に在籍。このころ工学分野に関する研究を精力的に行う。1584年には浚渫と排水システムについての考察を実証するべく、デルフト市の当局と交渉をおこない、オランダ議会からその考察に対する特許を与えられている。その後同地では数学の家庭教師をしていた。 オランダ総督のマウリッツと親しくなり、1592年に運河や水門に関する工事を監督して認められて後に軍に勤務した(後述)。1594年には要塞建設に関する本を出版、これによって要塞技術における第一人者としての地位を確立する。その後は財政監督官に任ぜられることになるが、以降は頻繁に防衛と航海に関する調査を委ねられた委員会に加わる。 1600年にはライデン大学工学部創設のための委員長となる。その技術学校ネーデルダウツェ・マティマティーク(Nederduytsche Mathematique)の組織化をはかる一方、教育ではラテン語ではなくフランドル語で講義を行う規定をつくった。 1603年には、マウリッツの推薦により、オランダ陸軍主計総監となり、1620年に亡くなるまでその職に就いた。 1616年に結婚、四子をもうけ、ハーグに居を構えた。1649年に息子のヘンドリックによって編纂された民生問題についての本は、軍事と行政の問題に関する8つの論考のうち、都市構造についてと住宅とその付随部分の構造にする論については父シモンが生前出版に漕ぎ着けなられなかった文の一部である。
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生涯・人物
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カトリック教徒の家庭に生まれた。次兄の馬建勛は曽国荃に抜擢されて李鴻章の幕僚となり、淮軍糧台を務めた。四兄の馬相伯は教育家で震旦大学や復旦大学の創設者である。 馬建忠は幼い頃から科挙を目指して四書五経を学んでいたが、咸豊3年(1853年)に太平天国軍が南京に入ると一家は上海に避難した。馬建忠と兄弟たちはイエズス会の設立した徐匯公学に入学し、フランス語やラテン語を学んだ。アロー戦争で西洋の学問を学ぶ必要性を痛感し、ラテン語・フランス語・英語・ギリシア語の勉強を継続した。 同治9年(1870年)、次兄の馬建勛の引き立てで李鴻章の幕僚となって、文化の知識と語学力を認められた。光緒4年(1878年)、郎中の資格で李鴻章によって国際法を学ぶためにフランスに派遣された。同時に駐仏公使郭嵩燾の通訳となっている。パリでは中国人として初めてバカロレアをとり、パリ政治学院で法学の学位を得た。 光緒6年(1880年)、天津に戻り李鴻章のもとで洋務運動を推進する。翌7年(1881年)にはアヘン専売と税収問題の解決のためイギリス領インド帝国に派遣された。光緒8年(1882年)には李鴻章により朝鮮に派遣され、朝鮮とイギリス・アメリカ・ドイツとの通商条約締結を推進した(米朝修好通商条約など)。壬午事変が発生すると興宣大院君の連行にかかわった。 光緒10年(1884年)、唐廷枢が管理する輪船商招局に入り、光緒16年(1890年)には対外貿易の発展と民間産業の振興を説いた「富民説」を著して李鴻章に提出した。程無くして李鴻章から上海機器職布局総裁に任命されるも経営難から辞職、故郷へ引退したが、光緒21年(1895年)に李鴻章に北京に呼ばれ、日清戦争の講和条約を結ぶために日本に赴く李鴻章を補佐した。光緒22年(1896年)、上海で『時務報』主筆の梁啓超を知り、『適可斎記言記行』を著した。 光緒26年(1898年)、中国語の文法書である『文通(馬氏文通)』を著し出版した。光緒28年(1900年)、再度李鴻章から呼び戻されたが、同年に死去した。
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生涯・人物
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現バイエルン州のケーニヒスベルク(ドイツ語版)に生まれた。ラテン名レギオモンタヌスは「王の山」の意味で故郷の名ケーニヒスベルクをラテン語訳したものであるとされるが異説もある。ラテン名はJoannes de Regio monteとも称した。 11歳の時ライプツィヒの大学に入った。3年後オーストリアのAlma Mater Rudolfina(ウィーン大学)に学び、ゲオルク・プールバッハの弟子となった。1457年に"magister artium" (Master of Arts) の学位をえて、光学と古典文学の講師となった。ハンガリー国王マーチャーシュ1世と枢機卿ヨハンネス・ベッサリオンのためにアストロラーベを製作し、1465年教皇パウルス2世のために日時計を製作した。プールバッハとの研究は太陽中心説の見方をもつニコラウス・クザーヌスの著作にも関心を抱かせたが、プトレマイオスの天動説支持者として留まった。プールバッハの没後、プールバッハが始めた『アルマゲスト』のギリシャ語からラテン語への翻訳を受け継いだ。1461年から1465年までローマのベッサリオンの邸でベッサリオンが集めたギリシャの文献の研究をおこなった。1464年に 三角法の著書De Triangulis omnimodus と 『プトレマイオスの天文学大全の抜粋』Epytoma in almagesti Ptolemeiを著した。 1471年にニュルンベルクに移り商人ベルンハルト・ヴァルターの援助を受けて1472年にプールバッハの著書『惑星の新理論』 Theoricae novae Planetarum を出版した。 1475年にローマ教皇シクストゥス4世の改暦の仕事のためにローマに招かれた。途中ベニスで『位置推算暦』Ephemerisを出版した。これは後にクリストファー・コロンブスがジャマイカで月食を利用して現地人をだまして危機を脱したエピソードに登場する天文表である。教皇からレーゲンスブルク大僧正としての待遇を受けたが、改暦の約束を果たせないまま、1476年に40歳を越えたばかりでローマで急死した。
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生涯・人物
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父は大仏流の北条宣時。元服時に得宗家当主・北条貞時より偏諱を受けて貞房と名乗る。 当初は、引付衆や評定衆を歴任した。官位も、正応2年(1289年)12月29日には式部大丞、同3年(1290年)3月7日には従五位下(同年8月23日に引付衆)、永仁3年(1295年)12月29日には刑部少輔、嘉元4年(1306年、のち徳治に改元)7月19日には越前守、(徳治2年(1307年)12月13日に評定衆、)徳治3年(1308年)2月7日には従五位上となり、昇進を重ねた。 その後、延慶元年(1308年)11月20日から六波羅探題南方として上洛・赴任している。延慶2年(1309年)12月2日、京都にて38歳で死去。 歌人として優れ、『玉葉和歌集』や『続千載和歌集』には多数の作品が修められている。
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生涯・人物
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筑前国(現在の福岡県)福岡藩士、黒田藩の祐筆であった貝原寛斎の五男として生まれる。名は篤信、字は子誠、号は柔斎、損軒(晩年に益軒)、通称は久兵衛。 1648年(慶安元年)、18歳で福岡藩に仕えたが、1650年(慶安3年)、2代藩主黒田忠之の怒りに触れ、7年間の浪人生活を送ることとなる。1656年(明暦2年)27歳、3代藩主光之に許され、藩医として帰藩。翌年、藩費による京都留学で本草学や朱子学等を学ぶ。このころ木下順庵、山崎闇斎、松永尺五、向井元升、黒川道祐らと交友を深める。また、同藩の宮崎安貞が来訪した。7年間の留学の後、1664年35歳の時、帰藩し、150石の知行を得、藩内での朱子学の講義や、朝鮮通信使への対応を任され、また佐賀藩との境界問題の解決に奔走するなど重責を担った。40歳のとき4代藩主黒田綱政から荒津東浜(現在の荒戸1丁目)に屋敷を与えられ、生涯の住まいとした。 藩命により『黒田家譜』を編纂。また、益軒の上申から黒田藩が1688年(元禄元年)に『筑前国続風土記』の編纂を認めている。 1699年、70歳で役を退き著述業に専念。著書は1712年(正徳2年)に上梓した『養生訓』を始め、生涯に60部270余巻に及ぶ。退役後も藩内を隈なく巡検して『筑前国続風土記』の編纂を続け、1703年(元禄16年)に藩主に献上している。 1714年(正徳4年)に没するに臨み、辞世の漢詩2首と和歌「越し方は一夜(ひとよ)ばかりの心地して 八十(やそじ)あまりの夢をみしかな」を残している。 1911年(明治44年)6月1日、贈正四位。
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生涯・人物
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下野国那須郡佐久山の医師村上松園の長子として生まれる。文政7年(1824年)に父とともに江戸に移り、宇田川榕菴に蘭学を学ぶ。天保12年(1841年)信濃国松代藩主真田幸民に藩医として仕官し、佐久間象山の下でベルセリウスの『化学提要』フランス語版を和訳し、安政5年(1857年)には蕃書調所で日仏間の条約を翻訳し、多くの弟子にフランス語を教授した。また幕命により『三語便覧』『五方通語』『仏蘭西詞林』などの辞書を編纂し、元治元年(1864年)には日本初の本格的な仏和辞典『仏語明要』を編纂し、慶応3年(1867年)には戦術書『仏蘭西答古知機』を和訳した。明治元年(1869年)、仏語塾「達理堂」を開いた。また化学にも造詣が深く、薬用ヨードの製造やメッキ法、爆薬製造法などの研究にも従事した。1882年、東京学士会院(現・日本学士院)会員に選出された。1885年レジオンドヌール勲章受勲。明治23年没。墓所は青山霊園。
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生涯・人物
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3世紀の始めごろに北アフリカで生まれる。著名な修辞学者だったが、246年頃にクリスチャンとなり、その後わずか数年も経たない249年に司教(主教)となった。司教就任時には既に聖書とテルトゥリアヌスの著作について深く理解していた。 デキウス帝による迫害時には身を隠したが、手紙によって教会の指導にあたった。この迫害の時に棄教したクリスチャンたちの教会への復帰問題が起きたが、最初キプリアヌスは厳しい態度でこれに臨んだものの、その態度をのちに軟化させ、適当な改悛ののちに教会に復帰することを許した(251年)。このことでノヴァティアヌスやローマ教皇ステファヌス1世と論争する。この論争はヴァレリアヌス帝の迫害によってキプリアヌスが逮捕され間もなく殉教したことで中断された。
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生涯・人物
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浙江省杭州府仁和県の人。1598年に進士となり南京六部の工部に勤めた。1604年、大運河の工事を監督したが、誹謗によって左遷されたのを機に帰郷した。1612年、南京太僕寺少卿となった。1621年から1623年の間、光禄寺少卿となり、後金軍への防備のため北京で西洋式大砲の製造に携わった。 学者として多くのイエズス会士と交流し、とくにマテオ・リッチが1610年5月に没するまでの約10年間を共に過ごした。1602年には、リッチが作成した『坤輿万国全図』を公刊して世に広めた。リッチによれば、李之藻は宴会や棋戯に耽る軽薄な人間だったという。しかし1610年初頭、北京で重病に倒れた際、リッチに看病されて深く感動し、同年洗礼を受けた。なお、それまで洗礼を受けなかった一因に妾の存在があったが、これをどう解決したかは不明である。 晩年は、徐光啓が主宰する『崇禎暦書』の編纂に参加したが、完成前に没した。
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生涯・人物
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/03 09:38 UTC 版)
1865年8月17日にアメリカのサウスカロライナ州で生まれた。コロンビア神学校、ユニオン神学校で神学を学び、博士号を取得した。 1888年(明治31年)に、南長老ミッションから派遣されて来日する。1901年(明治34年)から明治学院の神学教師になるが、組織神学の講義に自由主義神学の教科書を用いた植村正久と神学的に対立する。このことがきっかけになり、南長老ミッションは独自の神学校を設立する。植村は東京神学社を設立する。 1907年(明治40年)、神戸神学校の校長に就任した。1927年、神戸神学校と大阪神学院が合併して生まれた中央神学校で初代校長になり、組織神学や新約学を教えた。1938年9月15日に静養先の長野県軽井沢町で死去した。 1942年に中央神学校は閉鎖されるが、岡田稔が後を引き継ぎ、神戸改革派神学校になる。
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生涯・人物
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茨城県東茨城郡常磐村(現水戸市)生。茨城県立水戸中学校(現水戸第一高等学校)を経て第一高等学校に進むが中退。大杉栄や石川三四郎の著作を通じてエドワード・カーペンター、クロポトキンなどのアナキズムに影響を受けている。アンリ・ベルグソン、特に「エランビタル」に強い影響を受けた他、トルストイ、白樺派、柳宗悦、康有為などからも影響を受ける。 郷里で農業に従事する傍ら、講演活動を行い、1929年(昭和4年)11月に愛郷会を結成。茨城県那珂、久慈、東茨城、鹿島、行方各郡に支部が形成された。農本主義にもとづく青少年教育を目指し、1931年(昭和6年)4月15日、水戸市外に勤労学校愛郷塾を設立。設立に当たり風見章と知己となり、資金援助を受けた。井上日召とも知己となり、1932年(昭和7年)の五・一五事件では塾生7人を率いて東京の変電所を襲撃。爆発物取締罰則違反と殺人及び殺人未遂により無期懲役の判決を受けた。1940年(昭和15年)、恩赦により出獄。 第二次世界大戦後は公職追放を経て、郷里で執筆活動に専念。追放解除後の1959年(昭和34年)に全日本愛国者団体会議の顧問に就任した。
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生涯・人物
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/06 19:35 UTC 版)
江戸小石川に徒目付・柴田良通の長男として生まれる。10歳のときに父が急逝し天保4年(1833年)小普請となる。同年、素読出精により褒美を得ている。天保13年(1842年)に徒目付となる。天保14年(1843年)武術及び学問吟味で褒美を受ける。弘化元年(1844年)本丸普請にあたり、褒美を受ける。弘化3年(1846年)学問吟味の結果、褒美を受ける。嘉永元年(1848年)若年寄武術見分の結果、褒美を受ける。嘉永2年(1849年)増上寺御裏方御霊屋ならびに崇徳院、天英院の御廟修復にあたり褒美を受ける。その他褒美を数々受け、嘉永6年(1853年)に評定所配属となり、安政元年(1854年)に留役助、翌年には留役になった。安政5年(1858年)8月に外国奉行支配組頭となり100俵を給され、神奈川開港問題の交渉にあたって、横浜開港を実現させた。その後も外国人殺傷問題や通貨問題などで欧米外交団との交渉の窓口となり、文久元年(1861年)には100俵の加増を受ける。慶応3年12月7日(1868年1月1日)神戸港を開港。実弟は永持亨次郎(長崎奉行所在勤中の勘定格徒目付)甥の永持五郎次明徳は文久の遣欧使節で柴田の従者。
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生涯・人物
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 15:36 UTC 版)
「ブロニスワフ・ピウスツキ」の記事における「生涯・人物」の解説
リトアニア首都ヴィリニュスから北東へ60km離れたシュヴェンチョニース(Švenčionys, ポーランド語: Święciany, ベラルーシ語: Свянцяны, ロシア語: Свенчаны)郡のズウフ(Zalavas, ポーランド語: Zułów, ベラルーシ語: Вёска Зулаў, Зулава, ロシア語: Зулов)(当時ロシア帝国に属していた)で没落したポーランド貴族の家に生まれる。ヴィリニュスで高等学校を中退。 1886年、ペテルブルク大学の法学部に入学。1887年、アレクサンドル3世暗殺計画に連座して懲役15年の判決を受け、サハリン(樺太)へ流刑となる。(この時の処刑者には首謀者にしてウラジーミル・レーニンの兄アレクサンドル・ウリヤーノフがいた。) サハリンへ着くと、初めは大工として働き始めたが、その後、原住民の子供たちの「識字学校」を作ってロシア語や算術・算盤教育を始める。「識字学校」の教師の中には、日本と樺太アイヌの間に生まれた千徳太郎治がいた。その後警察の事務局員となり、ニヴフ(ギリヤーク)との交流が増えるようになる。 1891年、同じく流刑されていた民族学者のレフ・シュテンベルクと知り合う。その後、ニヴフ文化研究及びニヴフ語辞書作成に没頭。 1896年5月14日、アレクサンドル3世の死後に行われた大赦により、懲役刑が15年から10年に減刑される。この年になるとアイヌとも接触するようになり、資料収集を行う。12月6日にはアレクサンドロフスキー岬で開館された博物館に資料を提供。翌1897年に刑期満了。 1899年にはウラジオストクへ渡り、翌1900年のパリ万国博覧会用の資料を提供する。1902年にアイヌとウィルタ(オロッコ)の調査のため樺太へ戻り、写真機と蝋管蓄音機を携えて資料収集を行う。同年農民身分となる。年末には、樺太南部にある集落・アイ(日本名:栄浜村相浜)で村長バフンケの姪チュフサンマと結婚し、一男女をもうける。二人の子どもは第二次世界大戦後、北海道に移住した。彼らの子孫が現在も日本で生活しており、長男木村助造(1903年-1971年)の子孫はピウスツキ家唯一の男系子孫である。チュフサンマは晩年失明し、1936年1月に樺太で死去した。 その後もロシア語などをアイヌに教える一方でアイヌ、ウィルタ、ツングース族などの資料収集を行っていたが、日露戦争勃発後の1905年、バフンケに反対されたため家族を止む無く残して日本へ渡る。 1905年4月12日、「樺太アイヌ統治規定草案」(沿海地方国家歴史図書館蔵)を作成。 日本では亡命ロシア人による反皇帝組織を支援したり、二葉亭四迷、横山源之助、上田将、大隈重信、鳥居龍蔵、坪井正五郎、宮崎民蔵、片山潜らと交流。同年にアメリカ経由でポーランドへ戻る。帰国後は、ヨーロッパ各地を転々としながら弟ユゼフらと文通を行い、亡命ポーランド人らと交流してポーランドの独立運動に携わる。その一方でロンドンの日英博覧会に出展された沙流アイヌから50話を採話するなど、アイヌ研究を続けた。 1918年、第一次世界大戦終結を前にしてパリでセーヌ川に身を投げて自殺。遺書は無かったために動機は不明である。
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生涯・人物
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 15:35 UTC 版)
熊本県に生まれる。旧制玉名中学校(現・熊本県立玉名高等学校・附属中学校)から第一高等学校を経て東京帝国大学に進む。旧制中学校時代に読んだ三上於菟吉の小説『春は蘇れり(地獄の彼方の天国)』に影響を受け、火薬に興味を持つ。東京帝国大学工学部卒業後、海軍技術士官となる。 海軍では、平塚にあった火薬廠の研究部でロケットの開発に従事する。1934年には辻堂の海岸で固体燃料ロケットの発射実験をおこなう。その後、ロケット用の大型火薬を圧縮成形する機械を開発した。また、戦艦大和の砲弾に使用する火薬の研究にも携わったという。ドイツの火薬専門誌に1940年頃に掲載されたアメリカの論文を翻訳して海軍内に配布したが、その中に「ウラン235の核に中性子を衝突させて核分裂反応を起こせば莫大なエネルギーが発生する」という内容があり、海軍が原子爆弾に着目する契機になったとされる(詳しくは日本の原子爆弾開発#F研究を参照)。 終戦後の1945年、愛知県武豊町の日本油脂に入社。1954年2月、ロケット開発に乗り出した糸川英夫に依頼された戸田康明(富士精密工業)の訪問を受け、実験用ロケットの推進剤としてロケット弾用の火薬を提供した。糸川の実験ロケットはペンシルロケットとして実現することとなる。 1967年、日本油脂の社長に就任。
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生涯・人物
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 15:33 UTC 版)
因幡国(今の鳥取県)で生まれる。幼い頃から読書家であり、書道も良く嗜んだ。7歳の時、父小三次が43歳で病没し、家の柱石を失った景樹の家は一家離散の憂き目に会う。景樹は親類である奥村定賢に預けられ、実子のいなかった定賢の養子として養育される。この時純徳、真十郎と名を改める。清水貞固に師事して学問を学び、15歳で百人一首の註釈を手掛ける。また堀南湖(堀杏庵曽孫)の元で儒学にも打ち込んだ。 共に清水貞固の元で学んだ学友に林宣義がおり、また荒尾礼就とも交流があった。宣義、礼就はそれぞれ武士として要職に就いたが、景樹は生来蒲柳の質で武士としての素養に恵まれなかった。景樹は学者として立身することを志すようになり、26歳の時、妻の包子を随伴させて郷土を離れ上洛、大坂を経由して着京する。なお、宣義とはその後も終生交流があり、2人は同じ年に生まれ、同じ年に没している。 京都では、最初鷹司家に出仕したが、家令と軋轢を生じて出奔した。次に西洞院時名に仕え、時名が没するとその子信庸の斡旋で清水谷実業の流れをくむ二条派の歌人梅月堂香川景柄の養子となり、名を純徳から景徳、そして景樹へと改め、徳大寺家に出仕するようになる。養父景柄を通じて岩国の香川本家とも交流があり、香川景欽の誕生や香川正恒の百回忌などに祝歌や追悼歌を送った。 香川梅月堂に入った景樹は公家の歌会にたびたび列席し、本居宣長とも邂逅し、その門人植松有信と歌の贈答をしている。また養父景柄と親交の深かった小沢蘆庵の感化を強く受け、蘆庵に私淑して歌の指導を受けた。蘆庵との交流は後の景樹の人生、歌人としての姿勢に深く影響することとなる。 蘆庵の思想に感化された景樹は、「調の説」という独自の歌論を提唱、展開するようになった。調の説を鼓吹するようになった時期については、熊谷直好は景樹が40から50の頃(1807年から1817年の間)、児山紀成は1801年、景樹が34歳の時であったと述懐している。 斬新な歌論を展開した景樹だが、そのために保守派からの排撃を受ける。江戸派の加藤千蔭、村田春海は「筆のさが」という論考を書き上げ、その中で景樹の歌論を痛罵し、京都の旧派からも排斥を受け、「大天狗」「切支丹」「気違い」と罵倒された。「大天狗」という渾名は、景樹の自信家で尊大な姿勢と、長身、面長で鼻梁の高い風貌が天狗を彷彿とさせたことから定着したものであった。四方からの非難に、景樹は一時弱気になったこともあったが、逆に旧派を「未熟」「弊風がある」と指摘して反撥した。 歌界に新風を吹き込んだ景樹だったが、それゆえ伝統を尊重する香川梅月堂とも齟齬をきたすようになり、経済的な理由もあって、香川家とは1808年(文化元年)に離縁しているが、その後も香川の姓を名乗ることは許され、養父景柄との関係も決して悪いものではなかった。 小説家志茂田景樹のペンネームは香川景樹にちなむ。 法号は実参院悟阿在焉居士。 1907年(明治40年)、正五位を追贈された。
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生涯・人物
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文政3年(1820年)、長崎に生まれる。家は代々オランダ通詞を務めていた。英語が話せたことから、嘉永元年(1848年)、偽装漂着のアメリカ捕鯨船船員のラナルド・マクドナルドの取り調べに当たり、英語の母語話者であるマクドナルドから本格的に英語を学び、蘭・英2カ国語を使いこなせる通詞として活躍する。嘉永3年(1850年)には「エゲレス語和解」の編集に従事し、嘉永6年(1853年)のプチャーチン来航の際は川路聖謨の通詞として活躍する。また、オランダの地図に樺太の日露国境が北緯50度線となっていることを発見する。これが、日本の対露国境の根拠となる。 嘉永7年(1854年)のマシュー・ペリー来航の際も通訳を務め、その後江戸小石川に英語塾を開く。文久2年(1862年)には開港延期問題で渡欧した竹内保徳遣欧使節団の通訳としてオールコックと同船でイギリスに赴き、使節一行とロンドンで合流する。その後、各国を巡り帰国。帰国後は通弁役頭取、外国奉行支配調役などを歴任すると共に、万延元年(1860年)の大統領への英文書の作成にも活躍する。しかし、維新後は新政府に仕えることはなかった。 なお、彼の英語塾の門下生には津田仙、福地源一郎、沼間守一、須藤時一郎、富永冬樹などがいる。また福澤諭吉も短期間ではあったが学んでいる。墓所は東京都豊島区巣鴨五丁目の本妙寺。
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生涯・人物
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福岡市で出生し、弟がいる。ドライブと映画鑑賞が趣味で、幼少時はCAを志望していた。視力は2.0で平衡感覚の良さが自慢と語っている。 幼少時に父親の仕事の関係で千葉県に移住する。中学生時代はバレーボール部で活動する。少女時代は歌うことが大好きで、高校生時代は歌手志望だった。千葉県立木更津東高等学校在学中の1978年に、資生堂CMモデルのオーディションに応募して出場し、落選するも(この時合格したのは小野みゆき)、スカウトの目に留まり誘われる。両親は娘の芸能界入りに反対していたが「大学に行く分だと思って下さい。その間に演技の勉強をします」などと説得し、許しを得た。高校卒業後の1979年に東映俳優センターに入所して同年にテレビドラマ『燃えろアタック』でデビューし、女優として活動する。 本人は、元々はどうしても役者をやりたいと思っていたわけではなく、役者の他にもスタイリストやルポライターなど色々なことをやりたいと思っていたという。「ただOLとして机で事務をするのだけは嫌だな」と考えていたと話している。 1985年に、かねてより「日本初の女性ヘリDJを育ててみたい」と思っていたFM横浜「湘南ミュージックスカイウェイ」のディレクターと出会い、当番組のDJを約1年間務めた。役作りのために石田をTBSラジオのレポートドライバー「954ガール」に就かせてレポートの訓練に励みながら、合間を見てヘリコプターに乗せて実地訓練を積ませた。このヘリDJになることにも母親は大反対していたが、説得のために母親を石田と同乗させ、「常に新しいことにチャレンジしたい」と口癖のように言っていた娘に最後は根負けしたという。しかし石田はこの仕事に就く以前はヘリコプターに乗ったことは全くなかった。ディレクターは「彼女は時々怖がって目をつぶることがあるが、そんな時でも平気な顔をしていた。ヘリDJになるために生まれてきたようなもので、彼女の天性のものだと思う」と語っている。1987年8月2日、同番組最後の放送中に乗っていたヘリコプターが茅ヶ崎沖で墜落し死亡した。 『燃えろアタック』の監督であった奥中惇夫は、撮影当時はおとなしく「女優に向いていないのでは」と心配したが作品制作終了後も毎年欠かさず年賀状を送るなど律儀な印象もあり、石田の葬儀で両親の姿を見た際に涙ぐんだ。
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生涯・人物
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「カルキスのイアンブリコス」の記事における「生涯・人物」の解説
イアンブリコスはシリアで最も代表的なネオプラトニストであり、彼の影響は古代世界の広範な範囲に広がった。彼の生涯に起こったことや彼の宗教的な信念は完全には知られてはいないが、彼の信じた主要な教義は彼の現存する著作から浮かび上がってくる。スーダ辞典や、彼の伝記を書いたエウナピオスによれば、彼はシリアのカルキスの生まれである。彼は裕福で名の知れた家に生まれ、エメサ王家の祭司王の子孫と言われていた。彼は最初ラオディケアのアナトリオス(英語版)の下に学び、続いて、ネオプラトニズムの創始者プロティノスの弟子であるテュロスのポルピュリオスの下に学んだ。カルキスのイアンブリコスはポルピュリオスにテウルギア(神働術)の実践を反対されたことで知られる。その批判に対してイアンブリコスは自身の著作「エジプト人の秘儀について」 (De Mysteriis Aegyptiorum) で応答している。 304年ごろに、イアンブリコスは故郷シリアに戻り、アンティオキア周辺に当時存在し、ネオプラトニズム哲学者を輩出したことで知られる町アパメアに自身の学校を創立した。そこで彼はプラトンおよびアリストテレスを研究するためのカリキュラムを立て、プラトンやアリストテレスに関する総括的な注釈を執筆した。ただしその注釈は今日では断片としてしか残っていない。プラトンやアリストテレスに加えて、ピュタゴラスもイアンブリコスにとって至上の権威であった。イアンブリコスは「ピュタゴラスの教義のコレクション」を書いたことで知られるが、本書は10巻からなり、何人かの古代の哲学者の抜粋を含んでいる。第1-4巻と、第5巻の断片が残っている。 イアンブリコスは卓越した文化と学識を備えた人であったと言われた。彼はその寛容さと自制心でも名声を博した。多くの学徒が彼を慕って集まり、イアンブリコスは彼らとともに和気藹々と過ごした。ヨハン・アルベルト・ファブリキウス(英語版)によれば、イアンブリコスはコンスタンティヌス1世の治世、おそらく333年以前に死去した。 イアンブリコスの著作は断片が残っているにすぎない。私たちは彼の哲学体系に関する知識をストバイオス(英語版)その他の著述家が残した断片に部分的に負っている。彼の5冊の現存する著書や彼のピュタゴラス哲学研究の断片と同様に、イアンブリコスの後継者たち、とくにプロクロスの言及もまた、イアンブリコスの体系を明らかにしてくれる。これらを除けば、プロクロスは有名な論文「テウルギア」、つまり『エジプト人の秘儀について』をイアンブリコスに帰している。しかしながら、この著作とイアンブリコスの他の作品との間には教義の要点でいくつかの流儀の違いがみられるので、イアンブリコスは本当にこれの著者なのかと問う人もいた。しかし、この論文は確かにこの学派に由来するものであり、当時の多神教の教派の営みを思索的に正当化しようと周到に試みるうえで、この論文はイアンブリコスが立っていた歴史上の分水嶺となっている。 思弁的な理論として、ネオプラトニズムは始祖プロティノス以来最高の発展を経験した。イアンブリコスが導入したネオプラトニズムの修正は、周到にして綿密な形式的区分、ピタゴラスの数象徴主義のより体系的な応用、そして東洋的な体系の影響の下での、ネオプラトニズムに含まれる概念的だと考えられていたものの徹底して神秘的な解釈といったものであった。イアンブリコスは、魂が物質において具現化しているという思想を紹介し、物質は宇宙のそれ以外の部分と同じだけ神聖であると信じた。これは、彼独自の思想と物質が不完全なものだと信じていた先達たちの思想との間を分かつ最も根本的な出発点である。 このためにイアンブリコスは途方もない尊敬を持って見られたようだ。 イアンブリコスは門弟たちから強く尊敬された。彼は同時代人から奇跡の力を有しているとみなされた。フラウィウス・クラウディウス・ユリアヌス帝は、エウナピオスによる自分はイアンブリコスに流儀においてのみ劣っているという控えめな称賛に満足せず、イアンブリコスをプラトンの再来以上の存在として扱い、イアンブリコスのある書簡のためにリュディアの金を捧げると宣言した。15世紀・16世紀に彼の哲学に対する関心が復活したころ、イアンブリコスの名は「神聖な」、「最も神聖な」といった形容辞をつけずに言及されることはほとんどなかった。
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生涯・人物
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「ウィリアム・ホルフォード」の記事における「生涯・人物」の解説
南アフリカ・ヨハネスブルグのベリアで生まれる。ホルフォード家は英国の炭鉱都市ランカスターの出であり、祖父は教会の牧師としてアフリカに移住し、父親は鉱山技術者であったが、ウィリアムが20歳の時に亡くなっている。母方の祖父筋は、海軍士官の家柄であった。南アフリカのイートン校とみなされる名門学校で教育を受ける。地元ケープタウンの大学を経てリヴァプール大学に入学し、建築・都市計画学を専攻。 1930年、首席で卒業する。建築・都市計画学のローマ・スカラーシップ制度を得てイタリアに赴く。3年間イタリア語を取得する傍ら、壁画の研究で同じく奨学生としてイタリアに滞在していた夫人と出会う。 1933年、母校の講師となる。1936年、29歳で、教授に就任。1937年には、パトリック・アバークロンビーの後任として、リヴァプール大学シビックデザイン学科の第3代「レバー教授」に就任。1939年、政府から英国中部テーム・バレーにある国所管の産業・工業団地のコンサルタントを依頼される。進出工場の配置利用や将来における敷地拡張、地形起伏の考慮などに配慮し計画されている。 1939年から1945年にかけて、軍需工場団地や住宅供給の建築家グループの支援指導、1943年からは、新設された都市・地域計画局の顧問を委嘱される。戦後は戦災復興計画のほか、1946年に制定されたニュータウン法による新都市建設のための基本指針の策定に尽力するほか、スティブネイジなどのニュータウン発足に協力する。また1947年には都市・国土計画条例制定に関与する。1948年に、再びアバクロンビーの後任として、ロンドン大学に移籍。同校の都市計画学の教授をつとめた。 1950年代に入ってから、2つの首都に関して関与する。ひとつはオーストラリア政府から、進展しない首都キャンベラの計画と開発に関しての報告を委嘱。また、1957年ブラジリア都市計画コンペティションで審査委員を務め、ルシオ・コスタのプランを選出した。1961年にはパタノスター・スクエアの再開発のために、セントポール寺院周辺の都市計画を依頼され、セントポール墓地とニュー・ゲート・ストリートの間の開発計画を立案し、1962年には、ピカデリー・サーカス周辺再開発を委嘱している。これらのうち、キャンベラとピカデリーは報告した提案は採用されず、セントポールのプランは竣工されたが、後に改めて観光開発されるにいたっている。 1963年、長年の都市に対する貢献により、RIBAゴールドメダルを受賞。1953年にナイト爵を授与されていたが、1965年にウィルソン政府の推薦で都市計画家としては初めて一代貴族爵位「カウンティ・オブ・サセックスにおけるケープタウンのホルフォード男爵」(Baron Holford, of Kemp Town in the County of Sussex)に叙され、貴族院議員に列する 建築作品には、テムズをへだてウエストミンスター寺院対岸にあるセントトーマス病院がある。ウエストミンスター寺院にある自身の記念碑には、建築家と記録されている。 パタノスター・スクエアやピカデリーサーカスの再開発など、英国での都市計画でつとに有名である。生まれ故郷南アフリカに関する都市計画は、プレトリア、ピーターマリツバーグ、ケープタウン、ヨハネスブルグなどの計画に携わったが、実施はなされなかった。 1975年、死去。
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生涯・人物
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ストラボンの出自や生涯は『地理誌』の記述の中で若干触れられている(記載の地域縁の人物に自らの故郷や恩師が登場すると、その人物と自身との関係が記載される)。小アジア北部にあったポントゥスのアマセイア(現トルコ領:アマスィヤ)の裕福な家庭に生まれる。当時はポントゥス王国が滅亡しローマの属州となったばかりであった。家系はポントス王国の有力者に連なり、母方の先祖はミトリダテス6世の乳兄弟であった。最初は小アジアのニュサに学び、後にローマにて哲学と地理学を学んだ。 哲学の立場としては、アリストテレス派、後にストア派になり、政治的には、ローマ帝国を支持していた。 ストラボンの生涯は旅に特徴付けられる。その範囲は西はイタリア半島西岸のトスカナ、南はエチオピアに及ぶ。地中海沿岸諸都市のみならずエジプト、クシュなど内陸にも旅し、その見聞を元に17巻からなる『地理誌』(Geographica)を示した。(多くは現存している)この著の完成時期は不明であるが、記載内容からティベリウスの治世の時に多くは書かれたものと推測されている。この著作は、地中海沿岸の都市の詳細な叙述で知られ、地域の記載のみならず歴史やその都市の伝説にまで触れて、当時の歴史・地理を知る上で重要な書物である。23年頃にアマセイアにて没している。没年は紀元21年という説もある。
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生涯・人物
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寛政11年(1799年)、遠江国掛川宿の医師・戸塚隆珀の三男として生まれる。長崎の鳴滝塾で、シーボルトよりオランダ医学を学ぶ。シーボルト事件に連座。安政5年(1858年)、大槻俊斎・伊東玄朴らと図り、お玉が池種痘所設立。同年7月3日、将軍・徳川家定の急病に際し薩摩藩医より幕府医師に登用。同年11月23日、法眼に叙せらる。 文久2年(1862年)12月16日、竹内玄同とともに法印に昇叙、静春院と号す。将軍・徳川家茂の没後、和宮が静寛院宮と称したため、「静」の字を避けて杏春院と改名。明治9年(1876年)に没。谷中霊園に葬る。養子・戸塚文海は海軍軍医総監。 伊東玄朴・坪井信道とともに、江戸の三大蘭方医と呼ばれた。 典拠管理 NDL: 00272342 VIAF: 259301575 WorldCat Identities: viaf-259301575
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生涯・人物
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「リュートプランド (クレモナ司教)」の記事における「生涯・人物」の解説
リュートプランドの一族は、代々ランゴバルド王国のパヴィア宮廷に仕えた名家であり、東ローマ帝国とランゴバルド王国間の外交を担当していた。そのため、リュートプランドもまた外交官となるべく東ローマ風の教育を受け、949年には私費でコンスタンティノープルに留学したという。この留学は非常に快適であったらしい。帰国する際には、東ローマの名産品であった緋の絹布を大量に輸入して大いに利益をあげたという。その後、オットー1世に仕えたリュートプランドはクレモナの司教に任命される。 953年、オットー1世がアブド・アッラフマーン3世に対する親書をゴーズのジャン(フランス語版、英語版)(仏: Jean de Gorze)に持たせてコルドバへ向かわせた。この親書はオットー1世がイスラームやカリフについて無知であったためにジャンの命さえ奪われかねない内容であったという。ジャンからこれを見せられたアブド・アッラフマーン3世やハカム2世に仕えたキリスト教の司教レセムンド(スペイン語版、英語版)(西: Recemundo)はジャンをコルドバに滞在させ、オットー1世の元へ赴き新しい親書を956年に持ち帰った。この間、『コルドバ歳時記(スペイン語版)(阿: تقويم قرطبة)』作者の文人としても知られるレセムンドと友好を結んだリュートプランドは勧められて『第一回コンスタンティノープル紀行』(コンスタンティノープル使節記(ラテン語版)(羅: Relatio de legatione Constantinopolitana))を書きレセムンドに捧げた(レセムンドは後年、コンスタンティノープルやエルサレムに巡礼を行う)。 オットーが皇帝となった後にはその子オットー2世の妻にテオファヌを迎えるため967年に大帝使節としてマケドニア朝のニケフォロス2世と交渉した。しかし東ローマ帝国では神聖ローマ帝国(この時代は単にローマ帝国と名乗っていた)皇帝となったオットー1世を簒奪者とみなしており、宮廷内の反応は冷ややかなものであった。さらに、以前の留学時と同じく緋の絹布を持ち帰ろうとしたところ空文となっていた遠い昔の規則を語る税官吏に押収されてしまったため、皇帝の名を引き合いに出し抗弁したところ、「緋の絹布は、知恵にも富にも他に抜きん出た民族だけが使うものだ」と侮辱され、「イタリアでは最下等の街娼や辻占いでさえこの色を着るのだ」と捨て台詞を残し帰国した。 こうしたことから激情家だったリュートプランドは以前の公平さを失い、オットー1世宛に送った手紙で書いた「彼らはイタリア人、ザクセン人、フランク人、バイエルン人、シュヴァーベン人、いや他のどの民族も、この着物を着るに値しないというのです。この意気地なしの女々しい、長袖の、飾り立てた、お仕着せをつけた嘘つきども、宦官ども、怠け者共が緋の衣を着るというのに、戦に鍛えられ、信仰と慈悲の心あつく、あらゆる徳性をそなえた神の僕である私どもの英雄達がそうしてならないというのは、侮辱も甚だしい。これが侮辱でなくて、何が侮辱でしょう。」というような、東ローマ宮廷に対する罵詈雑言であったり、事実を曲解したり、作為した記録を数多く残した。 『コンスタンティノープル使節記』以外の著作に、『報復の書(ラテン語版、フランス語版)』、『オットー史(ラテン語版)』が知られる。 堀米庸三は、彼に匹敵するギリシア通が後世に現れなかったため、彼の東ローマに対する偏見が後世まで影響を及ぼしたと述べている。
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生涯・人物
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1946年6月24日、ハワイ州ハワイ島コナで、コーヒー農園を営む父・正光と母・光江との間の4人姉弟の3番目(長男)として生まれる。両親はともに日系二世で、父は福岡県うきは市、母は広島県にルーツを持つ。 第二次世界大戦で戦った第442連隊戦闘団の話を幼少期より聞き覚え、生涯を通じて意識する。小学生から高校生までボーイスカウトで野球部や新聞部員として活動し、最高位のイーグルを授かる。小学生時代、ユーリ・ガガーリンの宇宙飛行を見て宇宙に憧れ、ロケット実験と称した花火でのいたずらをしたが、母は驚くものの、叱りはしなかったという。 1964年、ハワイ島で地元のコナワエナ高校を卒業後すぐコロラド大学へ入学、航空宇宙工学を専攻し、奨学金を得てアメリカ空軍予備役将校訓練課程を受ける。在学中の1968年2月20日、父の死去に際し、母を心配して大学を辞めハワイへ戻る決心をするも、勉学の継続を母が促す。 1969年、大学卒業時に空軍少尉に任官。卒業翌日、大学時代からの日系人の恋人と結婚して、後に2人の娘をもうける。空軍エンジニアを務めながら、アポロ11号月面着陸のテレビ中継に影響されて宇宙飛行士を目指す。 1978年、スペースシャトル計画第一期飛行士候補へ応募し、8079人の志願者から同期35人と共に選出される。スペースシャトル・チャレンジャー号乗組員として選抜されるが、度々打ち上げ延期になる。 1983年6月に来日、6月13日、自身のルーツを探したい旨の記事が西日本新聞に掲載されると200件超の情報が寄せられ、祖父母の墓を見出して血縁親族の所在も判明する。6月23日には同年日本で開催された『大スペースシャトル展』の東京会場(東京都中央区紅葉川広場(日本橋高島屋前)開会式にて同展の目玉展示であったスペースシャトル・パスファインダーの前で記念スピーチを行っている。翌6月24日には家族と共に父方故郷の福岡県浮羽郡浮羽町(現・うきは市)に墓参し、同町の浮羽中学校で記念講演を行った。 1985年1月24日、STS-51-Cミッションでディスカバリーの搭乗運用技術者として搭乗する。同乗のローレン・ジェームズ・シュライバー(英語版)アメリカ空軍大佐曰く、箸で日本料理を食べ、日の丸の鉢巻や旗、ハワイのマカダミアナッツやコナ・コーヒーを持ち込み、ハワイアン音楽をかけていたという。 1986年1月28日、STS-51-Lミッションでチャレンジャーの搭乗運用技術者として搭乗し、チャレンジャー号爆発事故により39歳で殉職する。殉職時の階級は中佐、後に大佐に特進。 本人を称え、ハワイ島マウナ・ケア山の「マウナケア展望台ビジターインフォメーションステーション」が「オニヅカセンター」と名付けられ、コナ国際空港が、エリソン・オニヅカ・コナ国際空港に改名された。同空港にある「オニヅカ・スペースセンター」に宇宙服などが展示されていた(2016年3月に閉鎖)。現在[いつ?]はホノルルのハワイ日本文化センターに展示されている。 またカリフォルニア州にはオニヅカ空軍駐屯地(英語版)(2010年に閉鎖)が所在した。
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「エドワード・ウィンパー」の記事における「生涯・人物」の解説
ロンドンに生まれる。11人兄弟姉妹の次男で、父が画家だったので家業を引き継いだ。1860年に「英国山岳会 アルパイン・クラブ」からの依頼によりアルプス山脈に赴き、それ以来登攀を続け、とりわけ1865年に7度目の挑戦でマッターホルンを初登頂したが、下山中に仲間4名が遭難死し、大きな非難を浴びた。(それらに対する回答と弁明を兼ね)1871年に出版された『アルプス登攀記』は多大な反響を呼び、間もなくフランス語やドイツ語に訳された。1867年と1872年にはグリーンランドに探検調査している。 1879年冬から80年夏にかけエクアドルに遠征探検し、赤道地域のアンデス山脈にあるチンボラソなど8つの高峰を登頂した、1891年に『アンデス登攀記』を出版している。生態系の調査、地理測量も精密に行っており、画家なので彼の著書には多数の図版が用いられ、描写の迫真性ゆえに著作が登山探検記の古典になる一助ともなった。1892年に王立地理学会から金メダル(パトロンズ・メダル)を授与された。ヘンリー・ウォルター・ベイツの著書の挿絵を製作し、共同研究もしている。 画家としての仕事は、20世紀に入る辺りに写真技術の普及に伴いたたんでいる。1899年に講演旅行のためアメリカ合衆国に、1900年代初頭にはロッキー山脈登山旅行(探検紀行ではない)のため、カナダに3度赴いた。1911年登山旅行中に、フランス・モンブランにあるシャモニー=モン=ブランの旅館で急逝した。
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生涯・人物
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「ベーダ・ヴェネラビリス」の記事における「生涯・人物」の解説
ベーダは北イングランドの方ノーサンブリアのウェア河口に生まれ、生涯タイン川河口の町ジャローから出ることはなかった。イングランド教会史を齢59歳で書き終えていると自ら書いており、また校了は731年頃とされる事から彼の生年は672年ないし673年頃と思われる。彼が高貴な生まれであったかは分かってはいないが、7歳でウェアマス(Wearmouth)と修道院に入り、17歳で輔祭に、30歳で司祭となった。没年は735年5月26日、修道院に埋葬されたが、後にダラム大聖堂に移された。 682年からジャロー修道院で過ごし、ノーサンブリア貴族出身の修道士ベネディクト・ビスコップと彼の後継者チェオフリドにギリシア語とラテン語、詩作、ローマの主唱を学ぶ。古いアイルランド出身の先師たちが築いた伝統により、聖書解釈に進んだ。在世時のベーダの名声も、主として聖書解釈の方面にあった。 ベーダは多くの著作を残した。その記述は多岐にわたる。ギリシャ・ローマの古典はベーダによって初めてイングランドで再生し、スコラ学の先駆者となった。ギリシア・ローマの古典を引用し、天文・気象・物理・音楽・哲学・文法・修辞・数学・医学に関してその時イギリスで集められるかぎりの文献を渉猟した。ベーダが引用した文献はプラトーンやアリストテレス、小セネカ、キケロ、ルクレティウスやオウィディウス、ウェルギリウスなどである。その絶大な勤勉さによって、弟子たちにとっては、ベーダ自身が百科事典の役割を果たしたように思われる。
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生涯・人物
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「フリードリヒ・フライシュマン」の記事における「生涯・人物」の解説
フライシュマンはマルクトハイデンフェルトに生まれた。父は地元で教師をしていたヨハン・フリードリヒ・ミハエル・フライシュマン(-Michael-)、母はエファ・マリア(Eva Maria)であった。父は作曲家としても活躍しており、これに刺激されたフライシュマンは8歳にしてピアニストとして公開演奏を行い、また幼少期から作曲を始めていた。父から教えを受けた他に、マルクトハイデンフェルトの作曲家や音楽家に混ざって活動していたフライシュマンであったが、11歳の時にマンハイムの学校へと移ってイグナーツ・ホルツバウアーとゲオルク・ヨーゼフ・フォーグラーに師事した。 フライシュマンは1782年からはヴュルツブルク大学で学び、1783年に博士号を取得すると続いて法学を学んだ。その後、1786年と1787年にレーゲンスブルクの首長の私設秘書と家庭教師を務めた。この期間に彼は何度も南ドイツに旅行に訪れている。1787年から1788年にかけてはオクゼンフルトのホプファーシュタット(ドイツ語版)に居住していたが、この町では彼の兄弟であるボニファティウス・フライシュマン(Bonifatius-)が1786年から牧師をしており、同年には彼の両親も移り住んできていた。その後フライシュマンはザクセン=マイニンゲン公国のゲオルク1世(英語版)の元で官房長官として働いた。彼は公爵の求めに応じて名前をヨハンに改めている。また、仕える身として公爵の宗教への改宗を行った。 フライシュマンは1792年に文書保管人、歴史家のヨハン・アドルフ・フォン・シュルテス(ドイツ語版)の娘であるテマー・ヨハンナ・クリスティアーネ・ルイス・フォン・シュルテス(Themar Johanna Christiane Louise von Schultes 1771年-1856年)と結婚した。2人は3人の娘(ファニ、カロリーナ、ヴィルヘルミーネ)と1人の息子(ヴィルヘルム・ツレヒト)に恵まれた。 フライシュマンは管弦楽曲や室内楽曲、歌曲、ジングシュピールを作曲した。主だった作品はシェイクスピアの『テンペスト』に基づくジングシュピール『Die Geisterinsel』である。 ゴレツキとクリッケンベルクによると、しばしばモーツァルトもしくはベルンハルト・フリース(英語版)の作とされる歌曲『Schlafe mein Prinzchen Schlaf ein』 K.350(『ねむれよい子よ庭や牧場に』)は、フライシュマンの作品であるという。
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生涯・人物
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文化3年(1806年)、陸奥国桃生郡赤井村(現・宮城県東松島市)に生まれる。安政5年(1858年)、伊東玄朴・戸塚静海らと図り、お玉が池種痘所設立。同所の長となる。万延元年(1860年)9月1日、将軍徳川家茂に拝謁し、お目見え医師となる。同年10月27日、陸奥国仙台藩医より幕府医師に登用される。お玉が池種痘所が公営(幕府営)となったのちも、そのまま頭取を勤めた。 文久2年(1862年)に死去。墓碑は巣鴨総禅寺に存在する。子の大槻玄俊はのちに俊斎の名を継いでいる。 お玉が池種痘所は西洋医学所、医学所等と改称・発展し、東京大学医学部の前身とされるため、俊斎は東大医学部初代総長と見なされている。なお、漫画家の手塚治虫の曽祖父である手塚良仙は妻の兄にあたり、妹は良仙の弟・鮭延良節の妻である。また、同じ仙台藩の出身で蘭学者の家系でもある大槻玄沢の家系とは、血縁的なつながりは無い。
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生涯・人物
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「ウイリアム・ウォラストン」の記事における「生涯・人物」の解説
ノーフォークのイーストドレアムに聖職者の息子として生まれた。イギリスのケンブリッジ大学ゴンヴィル・アンド・キーズ・カレッジで薬学をまなび、一時開業医となるが、1800年からは開発したプラチナの精製法による器具の販売の収入で、科学の研究に専念した。 プラチナの鉱石を酸で処理し、不純物を除去した後、粉末冶金法に似た方法で展性のあるプラチナ金属を精製した。プラチナ鉱石からパラジウムとロジウムを分離した。パラジウムは、1802年に発見された小惑星パラスから命名された。ロジウムはロジウムのつくる塩がばら(ローズ)色であることから命名された。 1809年、タンタルとニオブを同じ元素と見なし、統合したが、後に誤りと判明した。 太陽スペクトルの研究、木星の観測などの天文学的活動のほか、光学装置ではカメラ・ルシダを発明し、ウォラストン・プリズムにも名前を残している。晩年は電気モータの研究も行っている。 1793年から王立協会の会員となり、同協会から1802年以後数回にわたりベーカリアン・メダルを受賞し、それぞれ記念講演を行った。また1802年にコプリ・メダル、1809年クルーニアン・メダル、1828年ロイヤル・メダルを受賞、また1820年には会長に選ばれた。 生前には地質学との関わりはほとんどなかったが、遺言によって優れた業績をあげた地質学者を顕彰する「ウォラストン・メダル」が創設されている。 チリ最南部のウォラストン諸島は、彼の名に因んでつけられた。
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生涯・人物
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「ヴィルヘルム・ヴント」の記事における「生涯・人物」の解説
バーデン地方およびプファルツ地方に近接するドイツ中南部のマンハイムのネッカラウに牧師の子として生まれる。12歳の時、テュービンゲン大学に入学。高校時代に落第して転校したくらい高校時代まで学校嫌い・勉強が嫌いであったが、ハイデルベルク大学医学部に入学してからは猛勉強をする。1857年に同大学を卒業。1858年から5年間、ヘルムホルツの助手をつとめる。1862年から私講師として「自然科学から見た心理学」「生理学的心理学」といったタイトルの講義を担当する。1873年『生理学的心理学綱要』の前半を出版する。翌1874年、スイスのチューリッヒ大学の哲学の正教授となる。さらに翌1875年ライプツィヒ大学の哲学教授として招かれ、その地に腰をすえる。 それまでの哲学的な心理学とは異なる実証的な心理学を構想し、実験心理学最初の書である「感覚知覚説貢献」(1858-1862)を著し、ライプツィヒ大学の哲学教授を務めていた1879年には、世界でももっとも初期の実験心理学の研究室を運用したと言われており、心理学史の多くではこの時をもって、" 新しい学問分野として心理学が成立 " したとされている。その実験室にはヨーロッパ、アメリカ、日本から多くの研究者が集まることになった。1881年には『哲学研究』という名の冊子を発刊し、これは後に『心理学研究』と改称され継続。ヴントの心理学研究室での成果を中心とした諸論文を掲載し、心理学の発展に寄与した。 ヴントは実験室のあるライプツィヒ以外の地に移住することはなく、その地にて88歳で死去した。生涯に書いた著作のページ数の総計は5万ページ以上だと言われている。
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生涯・人物
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17歳の時にケンブリッジ大学・トリニティ・カレッジに入学する。期限付きの研究職に就いたために他の仕事を選ぶことになり法曹を目指す。 25歳の時にロンドンのリンカン法曹学院に入り譲渡契約を専門とした。ただし数学を捨てず、司法試験の受験生だったにも関わらず、ハミルトンの四元数の講義を聴くためにダブリンへ行くなどしている。その後に弁護士になり、活動中の14年間に約250の数学論文を書いた。 1863年、42歳でケンブリッジ大学でサドレア教授職(英語版)に就く。後には更に約650の論文を書き上げた。ただし書籍は、1876年に出版された楕円関数についての1冊しか執筆していない。そして1895年、74歳で死を迎えた。なおケイリーは語学にも優れ、ドイツ語、ギリシャ語、フランス語、イタリア語などにも堪能であった。
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生涯・人物
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「モニエル・モニエル=ウィリアムズ」の記事における「生涯・人物」の解説
モニエル=ウィリアムズは、イギリス東インド会社のボンベイ州(英語)の測量主任であったモニエル・ウィリアムズの三男としてボンベイに生まれた。本来の姓はウィリアムズだったが、のちインド帝国勲章の叙勲の際にモニエルを加えた。 1822年にイギリスに引越し、1837年にオックスフォード大学ベリオール・カレッジに入学を許されたが、1839年にインドで文官として働くことになったため、いったんオックスフォードを去って東インド会社カレッジに入り、翌年卒業した。ところが当時第一次アフガン戦争で弟が戦死し、母がモニエルのインド行きに反対したため、オックスフォードに復学した。ベリオール・カレッジが定員に達していたため、ユニバーシティ・カレッジに入った。そこでオックスフォードの初代サンスクリット教授(Boden Professor of Sanskrit)のウィルソンにサンスクリットを学んだ。 1844年にオックスフォードを卒業して、東インド会社カレッジでサンスクリット・ペルシア語・ヒンドゥスターニー語を教えた。1858年にインドの統治がイギリス国王の手に移って東インド会社カレッジが閉校になるとチェルトナム大学に移った。 1860年にウィルソンが没すると、後任の座をフリードリヒ・マックス・ミュラーと争って勝ち、オックスフォードの第2代サンスクリット教授に就任した。その後はオックスフォードのインド研究所設立に尽力し、1883年に設立された。 1886年にインド帝国勲章のナイト、1889年にはナイト・コマンダー(K.C.I.E.)に叙勲された。 健康を害して1887年に大学の仕事から離れ、その後は冬を南フランスで過ごした。1899年にカンヌで没した。
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生涯・人物
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新潟県新潟市出身。新潟県立新潟高等学校を経て1970年(昭和45年)に東京大学理学部数学科を卒業。理数系から人文系に転身し、1976年(昭和51年)に同大学院美学芸術学博士課程を修了。同年からイランに留学、イラン革命が起こった1979年(昭和54年)までイラン王立哲学アカデミー研究員を務めた。1986年より死去まで助教授として筑波大学に勤務する。 1990年(平成2年)にサルマン・ラシュディの小説『悪魔の詩』を邦訳した。同書は内容がムハンマドを侮辱しているなどとして、イランの最高指導者ルーホッラー・ホメイニーにより作者や関係者への死刑宣告がなされており、在日イスラム関係団体から出版見送りの要請がなされたり、出版記者会見の席上でパキスタン人が乱入して暴行を働くなど、その翻訳は大きな問題となった。五十嵐自身は「ホメイニー師の死刑宣告は勇み足であった」、「イスラームこそ元来は、もっともっと大きくて健康的な宗教ではなかったか」と述べている。 1991年(平成3年)7月11日、筑波大学筑波キャンパスの構内で何者かにより刺殺された(悪魔の詩訳者殺人事件)。上記の事由により、バングラデシュ人学生による犯行であるとする推測がなされたものの、犯人が逮捕されることなく公訴時効となった。 警察の捜査中、学内にある五十嵐の机の引き出しから、殺害前数週間以内に書いたと思われるメモが発見された。これには壇ノ浦の戦いに関する四行詩が日本語とフランス語で書かれていたが、4行目の「壇ノ浦で殺される」という日本語の節に対し、フランス語で「階段の裏で殺される」と書かれていた。このため、五十嵐は身の危険が迫っていた事を察知していたのではないかとする憶測が生まれた。 五十嵐は執筆や演劇活動を通じて持論を積極的に発信していく行動派として知られ、その講義は常時300人近い学生が詰めかけるほどの人気を集めていた。 事件から27年たった2018年には教え子らが、事件の風化を防ぐ目的で、五十嵐と親交のあった人物の証言などを集めた追悼集を作成し、同年7月に開催された「回想五十嵐一氏の会」で出席者に配布した。
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生涯・人物
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1902年(明治35年)、岡山県の農村で生まれる。 戦前より、子どもの健全育成活動を始める。 子どもに幸福をやさしく説く方法を探し続ける中で、5つの幸福の原点は「智(知恵)、仁(仁徳)、勇(勇気)、健康(人的資源)、富(物的資源)である」と考え、「智は知能が発達している猿、仁は思いやりの心のある犬、勇は勇敢で行動力のある雉、健康は桃太郎、富はきびだんご」と捉えることができる桃太郎の話が最適であることにたどり着いた。 1991年(平成3年)、東京都江東区・清澄白河に日本桃太郎の会を設立。自宅に桃太郎資料館を開設し、一般公開していた。 2006年(平成18年)、死去。104歳没。
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生涯・人物
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幼少より学問を好み、水足屏山に師事して儒学を学ぶ。享保8年(1723年)、藩主細川宣紀に中小姓として出仕、翌年、宣紀に随従して江戸に上る。江戸では昌平坂学問所に入り、林鳳岡に朱子学を学んだ。林門で古注と新注を併用する方法を体得するとともに徂徠学も体得する。研鑚を積むこと十年、鳳岡に代わり教鞭を取るほどの学者になった。 享保17年(1732年)に帰藩し、学問指南役に就任。熊本で教鞭を取る玉山の下に、多くの門人が蝟集した。宣紀の後、宗孝、重賢にも引き続き仕えた。特に重賢は玉山を重用し、相応の自由を与えた。これによって、服部南郭、服部仲英、高野蘭亭、滝鶴台、細井広沢らと誼を通じ、詩文を交した。高松藩、宇土藩、日出藩らの藩主に招かれ、講釈したこともあった。 宝暦5年(1755年)藩校時習館設立を建白、「時習館学規」を制定して徂徠学と朱子学を折衷した学風を興した。「時習館学規」は時習館創立の翌年に作られ、「十三則」と「十七則」がある[要出典]。基本的には同じであるが、なかに体罰禁止思想が明文化されている[要出典]。時習館の創立時期からみて、その影響も大きかった。宝暦13年(1763年)12月11日、熊本の自宅で没した。弟子には、古屋愛日、古屋昔陽、片山兼山、千葉芸閣などがいる。 著作に『玉山先生詩集』『玉山先生遺稿』「時習館学規」がある。詩人としては古文辞派に属し、五言絶句を得意とした。玉山は林大学の下で長年学問を学んだが、その学識、思想は偏頗なく、包容的であった[要出典]。 大正5年(1916年)、正五位を追贈された。
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生涯・人物
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/15 03:22 UTC 版)
父は白井秀順。三河国吉田に生まれ、植田義方に学んで学問に目覚め、和文や地誌の修行を積む。その後、岡崎や名古屋に遊学して、川村秀根・丹羽嘉言を師として、国学・本草学・写生などを学んだ。1783年(天明8年)郷里を旅立ち、信濃を経て出羽・陸奥・蝦夷といった日本の北辺を旅した。信濃では『伊那の中路』を初めとする紀行や随筆、陸奥・出羽では『霞む駒形』『率土が浜つはひ』『秋田の仮寝』『小野のふるさと』といった紀行や素描本を綴り、蝦夷ではアイヌの人々の生活を『えぞのてぶり』に写した。 蝦夷地から一旦下北半島を漫遊し、津軽藩では採薬を手伝いながら紀行し、久保田藩では1801年(享和元年)那珂通博・高階貞房・鳥屋長秋などの知遇を得る。小説家の司馬遼太郎は、真澄が久保田藩に留まったことが、彼の著作が散逸することを防いだと指摘している。その後も数多くの紀行や図絵集、随筆や地誌などを編むが、1829年(文政12年)仙北郡角館で客死し、親交のあった古四王神社社家鎌田正家の墓所の隣に葬られた。真澄の死については、神代村梅沢(現在の仙北市田沢湖梅沢)で病の床について亡くなり、遺骸を角館の神明社に移した後に死を公表して、その後秋田に運んだとする説 もある。 秋田市寺内にある菅江真澄翁墓は1962年(昭和37年)に秋田市史跡第一号に指定されている。墓碑正面中央には「菅江真澄翁」と陰刻され、その周囲に真澄と親交が深かった国学者の鳥屋長秋による万葉調の挽歌が彫られている。右側面には「文政十二己丑七月七月十九日卒年七十六七」と没年月日や年齢が刻まれている。墓石は、最初は南向きであったが、隣接する墓所を通って参拝することになるので、1909年(明治42年)に西向きに変えられた。2014年3月25日には、秋田県指定史跡に指定されている。
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生涯・人物
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文政3年(1820年)、石見国津和野藩医池田淳作の長男として生まれる。安政5年(1858年)、大槻俊斎・伊東玄朴らと図り、お玉が池種痘所設立。文久2年(1862年)閏8月7日、津和野藩医より幕府医師に登用され、寄合医師となる。元治元年(1864年)8月15日、奥詰医師に進む。慶応4年(1868年)6月27日、寄合医師に移り、翌年12月25日隠居。明治5年(1872年)没。谷中霊園に葬る。養子、池田謙斎は初代東京帝国大学医学部綜理、明治天皇侍医、男爵。 伊東玄朴の高弟で、のちに玄仲と改名している。お玉が池種痘所留守居として住み込み、同所(西洋医学所、のち医学所と改称)の長が、大槻俊斎・緒方洪庵・松本良順と変遷する間、つねにナンバー2として頭取を補佐、実務・経営にあたる。鳥羽・伏見の戦いでは幕府医師を指揮して、戦傷病者の治療・後送にあたったという。
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生涯・人物
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「アースキン・コールドウェル」の記事における「生涯・人物」の解説
コールドウェルはジョージア州モアランド郊外の森の中の家で生まれた。父親は改革長老派教会アソシエーション(英Associate Reformed Presbyterian Church)の聖職者。アースキン・カレッジに入学したが、卒業はしていない。体育会系の人物で、フットボールを行い、身長は6フィートあった。 コールドウェルは非常に温和な顔立ちをしている、と形容した出版者がいる。また、"天使のような外見"と形容した人もいる。 ブルーカラーの人々、労働者たちに共感し、若い頃は次から次へと職を渡り歩き、普通の労働者達と過ごした経験をもとに、自身よりも運のない人々の質素な生活を賞賛する物語を書いた。後半生においては、アメリカ南部に住む低収入の小作人向けのセミナーを開いている。 代表作として、小説『タバコ・ロード』と『神の小さな土地(英語版)』が挙げられる。 コールドウェルは、1939年から1942年まで、写真家のマーガレット・バーク=ホワイトと結婚しており、二人で写真集『You Have Seen Their Faces』(1937年)を共同制作している。
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「アルフレッド・セイヤー・マハン」の記事における「生涯・人物」の解説
マハンはニューヨーク州ウェストポイントで、陸軍士官学校の教授であったデニス・ハート・マハンとメアリー・ヘレナ・マハン夫妻の間に生まれる。親の希望に反してコロンビア大学で2年間学び、その後海軍兵学校に進んだ。 1859年に卒業後、1861年に少尉に任官し、南北戦争ではフリゲートのコングレス (USS Congress)、外輪船のポカホンタス (USS Pocahontas)、ジェームズ・アジャー (USS James Adger) に乗艦した。この勤務中に1865年には海軍少佐、1872年に海軍中佐と昇進している。イロコイ号(英語版) の副長として幕末・明治維新の日本を実見した。 1885年には論文『メキシコ湾と内海』が評価されたため、海軍大佐に昇進して海軍大学校の初代教官を務め、海戦術の教育を担当した。1890年に『海上権力史論』が発表され、1892年から翌年まで海軍大学校の第二代校長として務める。 1893年に巡洋艦シカゴの艦長としてイギリスを訪問する。 1896年に退役してからは、アメリカ歴史学会会長およびハーグ平和会議のアメリカ代表団顧問を務めた他は研究に専念しており、『ネルソン伝』『米西戦争の教訓』『フランス革命とナポレオン帝国におけるシーパワーの影響』『海軍戦略』を発表した後の1914年にワシントンD.C.で死去した。
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「ヴィルヘルム・ライン」の記事における「生涯・人物」の解説
ラインは、イェーナ大学でまず神学を学び、それと平行してカール・フォルクマー・シュトイ(ドイツ語版)の下で教育学を学んだ。その後、ライプツィヒ大学のトゥイスコン・ツィラーの下に移った。1871年、バルメン(ドイツ語版、英語版)の実科学校の教師となり、フリードリヒ・ヴィルヘルム・デルプフェルト(ドイツ語版)から強く感化を受ける。1872年にはヴァイマルの神学校の上級教師になり、1876年にはアイゼナハの神学校校長となる。1886年、彼はイェーナ大学の名誉教授となり、1912年正教授に任じられる。 彼は、シュトイによって、その礎を置かれた教育学ゼミナールを立ち上げ、その傍らイェーナ大学の実験学校を世界的な名声を博すまでに育て上げた。彼は長期休暇の期間に実施される教育養成プログラムを新設し、市民大学運動を推進した。彼は、ヨハン・フリードリヒ・ヘルバルト、トゥイスコン・ツィラーの五段階教授法(独: Formalstufe)を、準備 (独: Vorbereitung)、提示 (独: Darbietung)、結合 (独: Verknüpfung)、連関 (独: Zusammenhang)、応用 (独: Anwendung) と改めた。 彼の教え子の1人、ヘルマン・リーツは、田園教育塾(ドイツ語版)の創始者の一人である。
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「ドミトリ・ベリャーエフ」の記事における「生涯・人物」の解説
ベリャーエフは、田舎の牧師コンスタンチン·ベリャーエフと彼の妻イェヴストリア·アレクサンドロヴナの4人の子供の末子として生まれた。 年上の兄弟たちは、高等学校を卒業し、兄のパーヴェルは後に農学の教師になった。2年間村の学校に通ったのち、1925年彼の両親はベリャーエフをモスクワに送った。 そこで彼は兄のニコライの家族と一緒に住み、フヴォストフスカヤ高等学校に通った。 彼の兄弟(遺伝学者、のちにスターリンによって投獄され死亡)の仕事と環境がベリャーエフに影響を与えた。1934年、彼はイヴァノヴォ農業大学に入学、1939年に卒業した。彼の教師は、動物遺伝学者のボリス・ヴァーシンとアレクサンドル・パーニン。そののち、かれは毛皮動物の繁殖の方法と遺伝学に取り組んだ。 1941年から1945年まで、彼は第二次世界大戦に将校としてソ連軍に従軍し、2回負傷した。 戦後、彼は再びモスクワの毛皮を作る動物の飼育のための研究室で彼の仕事を再開した。1950年代のはじめ、かれは野生動物の家畜化で最も重要な因子はおとなしさの選択的繁殖であるという仮説をたてた。1953年と1954年の間に、彼はロシア科学アカデミーシベリア分院のノヴォシビルスクの細胞学遺伝学研究所で、キツネの飼育実験を始め、1958年に彼はモスクワからノヴォシビルスクへ移った。 ドミトリー・ベリャーエフはロシア科学アカデミーのシベリア分院の副総裁、シベリア連邦科学評議会生物科学部の議長(主にMAラヴレンチイェフと共同)、1959年から1985年までロシア科学アカデミーの細胞学遺伝学研究所、 1960年代にはソ連唯一の主要な遺伝学研究所の総裁を務めた。この間、彼は研究所の評判を高め、ソ連での科学としての遺伝学の発展に尽した。 彼は長年、ソ連科学評議会遺伝育種学科学アカデミーを主宰し、NI ヴァヴィロフ遺伝育種学会の副総裁を務め、ソ連と海外のいくつかの雑誌の編集に関わった。彼は多くの国の大学の名誉学位を受け、1978年から1983年の国際遺伝学連合の総裁を務めた。 研究と教育に加えて、ベリャーエフは社会的な役割を演じた。彼は何度もノヴォシビルスク地域からソ連人民代議員に選ばれ、また彼は第二次世界大戦退役軍人の地区評議会の議長を務めた。 仕事や貢献のためにベリャーエフはヴァヴィロフ賞、2つのレーニン賞、10月革命勲章、赤い星勲章、大祖国戦争一等と二等勲章などを受けた。
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長野県育ち。長野県立諏訪中学校(現・長野県諏訪清陵高等学校)卒、東京帝国大学卒。1935年、山形高等学校教授。弁証法的唯物論を研究。戦後、民主主義科学者協会に参加、主体性論争で梅本克己を批判した。 1949年、神戸経済大学予科教授から、新制神戸大学文理学部教授へ切り替わる見込みであった小松は、日本共産党の党員や同調者を強権的に排除するレッドパージの対象となり、小松の新制大学教授への切り替えを認めないことを決し、さらに免官とした大学評議会など上層部と、文科教授会などとの間に対立が起こった。この事件は、「小松問題」、「神戸大学レッド・パーシ事件」と称され、大学におけるレッドパージの代表的事例として知られることとなった。 1962年、東海大学短期大学部教授。 父は教育者の小松武平、数学者の小松醇郎は弟。
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生涯・人物
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「サムエル・C・オグレスビー」の記事における「生涯・人物」の解説
1911年10月25日、バージニア州にて生まれた。1933年(昭和8年)にメリーランド大学博士課程を卒業。1942年(昭和17年)にアメリカ合衆国陸軍に従軍し、第二次世界大戦にも参戦した。この間、1945年(昭和20年)には陸軍将校として初めて沖縄に来ている。終戦後は、イェール大学のファーイースタン・シビル・アフェア・スクールで極東問題と日本語の研鑽を積んだ。 1950年(昭和25年)に、琉球列島米国民政府経済局次長として沖縄に赴任。当時の沖縄の経済は、戦前より製糖産業以外の産業がまともに存在しておらず、戦争で焼け野原になった事もあって、ほぼ何もない状態であった。オグレスビーは赴任早々に、製糖産業とパイナップル産業の発展に着手し、この2つの産業を「沖縄二大産業」と呼ばれるくらいまで成長させた。1953年(昭和28年)に琉球工業連合会(現・社団法人沖縄県工業連合会)が設立されると、会のアドバイザーとなり、産業界への融資や新しい機械の導入を進めて、沖縄の経済特に工業の振興に献身的に尽くした。彼が携わった産業には、製糖,味噌醤油,製油,ビール,セメント,鉄筋,合板,菓子類など数多くあり、沖縄の製造業の90%はオグレスビーの支援や指導によるものと言われている。1965年(昭和40年)10月1日より琉球開発金融公社の3代目理事長に就任し、翌1966年(昭和41年)4月まで務めた。 1966年12月20日、宜野湾市にて死去。55歳没。「自分が死んだら沖縄に埋葬してほしい」と遺言していた事もあって、那覇市泊にある国際墓地にて妻と一緒に葬られている。 没後も「沖縄産業の恩人」「沖縄人以上に沖縄を愛した人」と評価は高く、「敵国の住民に対してどうしてこんなに優しい気持ちを持って真剣になれるのだろうかと、アメリカという大国の国民性か、あるいはこの人だけのパーソナリティなのかと、不思議な感じすらした。妙なものだが、実際、日本人が敵国の住民をこのように慈しむことができるだろうか、さえ感じたものである」(稲嶺一郎〔元沖縄県知事稲嶺惠一の父〕)、「彼は自分がいったんこうだと思ったことは、上司が難色を示そうと、粘り強く説得して自分の主張を通す、そういう信念と勇気の持ち主であった。」(具志堅宗精〔オリオンビール創業者〕)、「氏は、自分がアメリカで仕事をしても虫眼鏡で見る程のこともできない、日本の諺にもある通り、「牛の尾たるより、鶏頭たれ」とある。沖縄のために全力を尽くしたいといつも言っておられた。」(宮城仁四郎〔元琉球煙草会長〕)など、彼を慕う経営者・政治家は多い。
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生涯・人物
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字は士魚、名は竜。蘭畝、蘭圃(甫)と号す。筑前国(福岡県)の微賤の生まれだが、福岡藩士安部忠内の養子となり、のち士籍に列せられた。 青木興勝(おきかつ)、次いで長崎の志筑忠雄に蘭学を学び、志筑の口述訳『二国会盟録』(ネルチンスク条約締結の記録)を筆記、補述した。 文政2年(1819年)に直礼城代組となり、のち藩主黒田斉清の蘭学指南役を務めた。 編著に斉清とシーボルトの本草学上の問答録『下問雑載』(1828年)、斉清の海防論を増補した『海寇窃策』、蘭書による南北アメリカ地誌『新宇小識』がある。 訳述態度は批判的で、シーボルトの日本人種論に対し「我日本人ハ神孫タルコト外夷ノ人ノ知ルベキニアラズ」と反発するなど、強気な性格もうかがえる。
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生涯・人物
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「ジョージ・キューカー」の記事における「生涯・人物」の解説
ニューヨークでハンガリー系ユダヤ人の家庭に生まれる。子供の頃から舞台や映画に興味を持ち、高校を卒業後、シカゴの演劇界で舞台助監督として働く。21歳の時にはブロードウェイで舞台俳優兼監督として活躍し、エセル・バリモアやエミール・ヤニングス主演の舞台を手掛ける。 しかしトーキー時代に入り、役者の台詞の喋り方を指導しなければならなくなり、ブロードウェイの若手演出家として注目を浴びていたキューカーに白羽の矢が立ち、1929年にハリウッドへ招かれ、1930年の『西部戦線異状なし』をはじめ、パラマウント映画のトーキー映画のダイアローグ監督を務めて実力を認められる。翌1931年には『雷親父』の共同監督を務め、翌1932年の『心を汚されし女』で映画監督として本格的にデビューした。 その後、大物製作者のデヴィッド・O・セルズニックと出会ったことがきっかけで、1931年にパラマウントからRKO社に移ったセルズニックと共に、キューカーも移籍する。まずキューカーはブロードウェイの人気女優だったキャサリン・ヘプバーンをハリウッドに呼び寄せて、彼女のハリウッド・デビュー作『愛の嗚咽』をはじめ、『若草物語』、『男装』などをヘプバーン主演映画を次々と手掛ける。 1933年、セルズニックがMGMに移るとキューカーもMGMに移籍し、グランドホテル形式映画『晩餐八時』、チャールズ・ディケンズ原作の『孤児ダビド物語』、ノーマ・シアラー主演『ロミオとジュリエット』、グレタ・ガルボ主演『椿姫』など話題作を手掛け、1938年にはコロムビア映画に貸し出されてヘプバーンとケーリー・グラントを起用した『素晴らしき休日』を監督した。 個性的な演出スタイルを持たなかったが、媚のない誠実な姿勢で格調の高い作品を世に送り出し、また舞台出身者だけに俳優の魅力を最大限に引き出す演技指導の名人として手腕は長けており、特に女優の魅力を引き出すことに関しては右に出るものがおらず、出演者のヘプバーンやガルボをはじめとする多くのスター女優たちに支持されていただけではなく、スタジオ上層部も女性映画ならキューカーに任せろとまでいわれるようになった。 1939年の『オズの魔法使』にリチャード・ソープの後を引き継いで監督として指導にあたる。しかし、超大作『風と共に去りぬ』でセルズニックに監督として引き抜かれてしまう。その間でも彼はジュディ・ガーランドに適切なアドバイス(例:赤毛のカツラをつけること)を行ったという。 また『風と共に去りぬ』でもセルズニックと監督方針や脚本面で折り合いが付かず、特に出演女優のヴィヴィアン・リーやオリヴィア・デ・ハヴィランドばかりに気を使っていたキューカーにクラーク・ゲーブルが不満を漏らしたのがきっかけとなり、1ヶ月ほどで別の作品に移ってしまうが、女優の指導は密かに彼が行ったという。結局『オズの魔法使』でも『風と共に去りぬ』でも、監督としてクレジットされたのはヴィクター・フレミングであった。 1940年代に入っても女性を主役に据えたドラマやコメディを作り続け、ガルボの引退作となった『奥様は顔が二つ』、ノーマ・シアラーとジョーン・クロフォード主演の『女性たち』、ヘプバーン、グラント、ジェームズ・ステュアート主演の『フィラデルフィア物語』、イングリッド・バーグマン主演のサスペンス『ガス燈』、ヘプバーンとスペンサー・トレイシー共演の『アダム氏とマダム』など発表、女性映画の巨匠として確固たる地位を築く。 1947年のグリア・ガーソン主演の『Desire Me』では、作品の出来に満足できず、クレジットから名前を外すようスタジオに要求し、映画は監督クレジットなしの公開となった。1950年にスクリューボール・コメディ『ボーン・イエスタデイ』、1954年にウィリアム・A・ウェルマン監督作品のリメイク『スタア誕生』で当時落ち目だったジュディ・ガーランドに再び脚光を浴びさせる。 60代になってもその才能は衰えを知らず、1960年にマリリン・モンローとイヴ・モンタン共演の『恋をしましょう』、そして1964年にはブロードウェイのヒット・ミュージカル『マイ・フェア・レディ』を映画化、主演にオードリー・ヘプバーンを起用して大ヒット、そしてキューカー自身も唯一のアカデミー監督賞を獲得する。 1975年には米・ソ初の合作映画『青い鳥』をエヴァ・ガードナーとエリザベス・テイラーの共演で手掛け、1981年にはジャクリーン・ビセットの依頼で女性映画の佳作『ベストフレンズ』を演出、82歳という老齢にもかかわらず往年の優雅な手腕を披露して話題を集めた。 またキューカーは、アルフレッド・ヒッチコック、ジョン・フォード、ルイス・ブニュエル、ジョージ・スティーヴンスなどの名匠の映画製作を陰ながら支えていたといわれる。 俳優の持ち味を最大限に引き出す監督として有名である。彼の作品で高い評価を得た俳優としてキャサリン・ヘプバーン(10本のキューカー作品に出演)、ジェームズ・ステュアート(『フィラデルフィア物語』でアカデミー賞受賞)、ロナルド・コールマン(『二重生活』でオスカー受賞)、イングリッド・バーグマン(『ガス燈』でオスカー受賞)、ジュディ・ホリデイ(『ボーン・イエスタディ』でオスカー受賞)、ジュディ・ガーランド、オードリー・ヘプバーンなどがいる。監督作で俳優がアカデミー賞にノミネートされたのは21名に及ぶ。 キューカー本人は『若草物語』、『フィラデルフィア物語』、『二重生活』、『ボーン・イエスタデイ』、『マイ・フェア・レディ』で5回ノミネートされ、最後のノミネート作でついにアカデミー監督賞を受賞。 彼がゲイであったのは公然の秘密だった。このことは、『ゴッド・アンド・モンスター』(1998年)でも触れられていた。
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生涯・人物
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「オノレ・ド・バルザック」の記事における「生涯・人物」の解説
トゥールで生まれた。父親はトゥールの要職にある実務家、母親はパリ育ちで夫より30歳あまり年下だった。幼少時代からあまり母親に愛されず、生後すぐにトゥール近郊に住む乳母に預けられた。その後、寄宿学校に入れられて1807年から1813年まで孤独な少年時代を送る。その6年間に母親が面会に訪れたのは2度だけだった。母親からの愛の欠乏と、その後の彼の人生における女性遍歴の多さは、関連づけて言及されることが多い。 母親アンヌ=シャルロット=ロールは神経質な人物であり、宗教家サン=マルタンやエマヌエル・スヴェーデンボリらの神秘思想やフランツ・アントン・メスメルの動物磁気に傾倒する神秘主義者でもあった。そのことがバルザックに多大な影響を与え、「セラフィタ」などの怪奇・幻想的なバルザック作品にも受け継がれた。なお、バルザックは自分の母親について「おれを滅茶苦茶にしたのはお袋の奴だ」と終始主張していたという。[要出典] 1814年、父の仕事がきっかけで一家はパリへ引っ越す。バルザックはソルボンヌ大学に聴講生として通い、法科大学の入学試験に合格。父の退官によりパリ郊外へ引っ越すことになったとき、1人でパリに残り創作活動を始める。両親は息子が公証人になることを希望したが、バルザックはそれを拒んだ。1825にはマレ街に印刷所を起こして破産も経験した。当初は屋根裏部屋で生活し、その生活の様子は『麤皮(あら皮)』などの初期の小説に反映されてもいる。1829年以降、『ふくろう党』、『結婚の生理学』、『私生活情景』を発表し、1831年の『麤皮』で成功する。 バルザックの小説執筆スタイルは以下のようなものであった。まずコーヒーを牛飲し、主として夜間に長時間にわたって、何回も推敲を繰り返しながら執筆した。執筆が終わると、疲れをおしてすぐに社交界に顔を出した。 小説を書いている以外の時間は、社交界でご馳走をたらふく食べるか、知人と楽しく過ごすかのいずれかに費やされた。もはや伝説になっているバルザックの大食いは、(糖尿病が原因と思われる)晩年の失明や、死因となった腹膜炎を引き起こしたと思われる。借金も豪放、食事も豪胆であった。事業の失敗や贅沢な生活のためにバルザックがつくった莫大な借金は、ついに彼自身によって清算されることはなく、晩年に結婚したポーランド貴族の未亡人ハンスカ伯爵夫人の巨額の財産がその損失補填にあてられた。 かかりつけの仕立て屋はビュイソン(Buisson)だったが、勘定は支払わず、代わりに作品の中で名前を出して宣伝をした。
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生涯・人物
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「ウォルター・ラッセル・ランバス」の記事における「生涯・人物」の解説
1854年に宣教師で教育者のジェームス・ウィリアム・ランバスと妻メアリー・イザベラ・ランバス(英語: Mary Isabella Lambuth)の長男として清国上海に生まれる。1875年5月、名門エモリー大学卒業。ヴァンダービルト大学大学院で神学博士と医学博士の学位を取得。アメリカ南メソヂスト監督教会(MECS)のジャパン・ミッションとして、父とともに1886年(明治19年)に上海経由で来日。 1886年11月24日、MECSジャパン・ミッションの総理として神戸に着任し、南美以神戸教会(現在の日本基督教団神戸栄光教会)初代牧師に就任する。着任2日後の11月27日に、その居館である神戸外国人居留地四十七番館の2階に読書館を設け、英語学校(後のパルモア学院)を開く。1888年に、関西学院創立に着手。1889年(明治22年)に兵庫県菟原郡原田村、いわゆる「原田の森」(現在の神戸市灘区王子町)に、パルモア学院を母体として、West Japan College、すなわち関西学院を創立し、初代院長となる。 1897年に広島美以教会(現在の日本基督教団広島流川教会)2代目牧師に就任。その頃、父ジェームスは神戸に、ウォルターは広島に居住。ともに瀬戸内海沿岸の広域伝道に着手。 1889年(明治22年)に大分美以教会(日本基督教団大分教会)を訪れて、除夜祈祷会で祈っていると激しく聖霊を体験して、信仰復興運動が起きた。 詳細は「大分リバイバル」を参照 1890年12月16日、妻の病のため、離日。1910年(明治43年)に最高職の監督 (bishop) に就任、以後ブラジル、アフリカ大陸、ロシア・シベリア、中国の伝道にたずさわる。1921年(大正10年)に、軽井沢で宣教師会開催のため再来日するが、発病により、入院先の横浜にて死去。神戸市立外国人墓地に葬られた。 テネシー州ジャクソンに2011年まで所在したランバス大学(英語版)は、ウォルター・R・ランバスの名誉を称えて改名されたものであった。
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生涯・人物
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小学5年生の時に劇団こまどり入団、子役として活動を始める。 高校は1年生の時中退した。これは、ドラマ『泣かないで!かあちゃん』に出演していたため1年のうち3ヶ月程度しか登校できず、このままでは留年だと言われたことによる。 代表作となった『おれは男だ!』出演のきっかけは、子供の頃所属していた劇団こまどりの推薦であった。当時、剣道の経験はまったく無かったが、主演の森田健作が特訓してくれたおかげで何とか形になり、最終的には初段くらいにまでなったという。 『飛び出せ!青春』撮影の休憩中に喫茶店でタバコを吸っていたところ、当時未成年だった為、警察に通報されてしまった。 著書『売れない役者 あなたの知らない芸能界サバイバル』の中で、駆け出しの若手の頃、あるドラマの撮影中、スタジオの前で何時間も待たされ、イライラが募り「俺を何時間待たせるんだ」と周りに当たりちらしていたところ、同じように出番を待っていた年配の役者に「役者は待つのも仕事の内だから」と優しく諭されたことがあると記している。スタジオ入りすると、普段は現場に顔を出さないようなテレビ局の重役や監督、現場の撮影スタッフから、その年配の役者が最上級の扱いを受けている様子を不思議に思い、帰宅後、母親に事の顛末を話し、キャストの名前が記載されたシナリオを見せたところ、そこには森雅之の名前があり、母親は不世出の名優の前でさらした息子の悪態に絶句してしまったという。 沖正夫から改名したのには、読みが似た芸名の沖雅也が売れ出して紛らわしくなったのがきっかけということもあった。森川正太という芸名は、尊敬する俳優の森川信の森川に、「正しく太く」生きていくという意味である。 バラエティ番組で共演したある若者に、仕事に対する取り組み方などを年長の立場から指導した事がある。それから数年後、売れっ子になったその若者を街中のロケ現場で見掛けた森川の娘が「森川正太の娘です。昔、父はあなたと共演した事があるんですよ」と声をかけたところ、娘はその若者に撮影現場の見学に誘われ、手厚く歓待されたという。その若者は木村拓哉で、共演した番組は『夢がMORI MORI』であった。 2005年頃から結婚式の司会や飲食店の店長を営み俳優業からは距離を置いていたが、2015年、自身の劇団「劇団ケ・セラ・セラ」を結成し舞台で俳優活動を再開した。 特技は作詞作曲。また歌手として沖正夫名義でビクターレコードから「青春は萌えるかげろう」を発売したこともある。 2020年8月、体調不良のため病院で診察を受けた際、胃がんが発見される。発見された時点ですでに末期の段階であり、肝臓などに転移がみられた。新型コロナウイルス感染症の影響で、入院した場合は面会が2時間に制限されているのを知り、都内にある自宅での在宅治療を選択。医師や看護師が連日自宅を訪れて懸命の治療を続けた。同年10月12日午前6時頃、胃がんのため家族に看取られ死去。67歳没。
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生涯・人物
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ジム・ヘンソンはジェームズ・モーリー・ヘンソン (James Maury Henson) としてミシシッピ州グリーンビルに米国農務省に勤務する農業研究者の父ポール・ランサム・ヘンソン (Paul Ransom Henson) と母エリザベス(ベティ)・マーセラ・ヘンソン (Elizabeth Marcella Henson) の次男として生まれる。兄にポール・ジュニアがいた。家族からはジミーと通称された。ジム・ヘンソンはクリスチャン・サイエンス教徒として育てられ、ミシシッピ州リーランド(英語版)で幼年期を送った後、小学校5年の時に、父の転勤でワシントンD.C.からほど近いメリーランド州ハイアッツビル(英語版)に移住、黎明期を迎えていた米国テレビ産業の魅力に取り付かれ、高校卒業後に地元のテレビ局WTOPでアルバイトとして、人形劇の仕事を始める。 メリーランド大学入学後、スタジオアートの勉強を始めるが、自作人形劇の仕事も続け、地域で徐々に名声を広める。大学入学後、後に人形操演者兼生涯の伴侶となるジェーン・ネベルと出会い、NBC系列のテレビ局、WRCのオーディションに合格(兄ポール・ジュニアの交通事故死に遭遇したのもこの時期である)。奥様向け番組の人形劇コーナーを担当し、1955年に最初の番組『サムと友達』 (Sam and Friends) を作成した。この番組は1958年にエミー賞を受賞。マリオネットとパペットの合成語である「マペット」 という語が最初に使われるとともに、カーミットの原型が最初に登場した。『サムと友達』は1961年まで放送された。 1960年にデトロイトで開催された米国人形劇コンベンションに家族で参加し、バー・ティルストラムを始めとする米国の人形操演者たちの知遇を得る。フランク・オズの両親であるイジドア&フランシス・オズノウィッツ夫妻と知り合ったのもこの時の出来事であるが、この時期、ジム・ヘンソンはジェリー・ジュール、フランク・オズ、ドン・サーリン他の後のヘンソン社の中核を成す人々と出会い、スタッフとして参加してもらうこととなる。 1962年には、マペットたちはNBCのニュースショーの常連出演者となるほどの人気を得ていたため、仕事上の必要から、ジム・ヘンソンは活動の本拠地をニューヨークに移すことを決意。バー・ティルストラムの伝手などにより、マンハッタンにオフィスを開設した。 この時期のキャラクター、犬のロルフはABCネットワークの番組『ザ・ジミー・ディーン・ショー』 (The Jimmy Dean Show) のレギュラー出演者となる。『ザ・ジミー・ディーン・ショー』は1963年から1966年にわたって放映された人気番組だが、ジム・ヘンソンはこの番組の中で、マペットの操演や人間との共演について多くのことを学び試みていった。 1968年、ジム・ヘンソンは同年発足したチルドレンズ・テレビジョン・ワークショップ(CTW、現:セサミワークショップ)の未就学児童向け教育番組プロジェクトに参加、数々のリサーチの後、1969年にパイロット版が作られ、その後世界のほとんどの国で放映されることになる『セサミストリート』が生まれた。『セサミストリート』が制作された背景には、ベトナム戦争やキング牧師、ロバート・ケネディ上院議員暗殺事件などの米国社会情勢の悪化を見ることができる。 『セサミストリート』の成功はジム・ヘンソンにとっては微妙なものであった。ヘンソン社含め、人形操演者にとっては、人形劇は大人向けという意識を持っていたにもかかわらず、『セサミストリート』では子供向け以上の表現が出来なかったからである。続くプロジェクトは完全に大人向けのウィットの利いた人形劇を志向したものとなった。これが『マペット・ショー』だが、米国で製作資金を調達できず、英国のルー・グレード卿の番組製作会社ITCとヘンソン社の共同制作となった。『マペット・ショー』はCBSネットワークで洒落た演出で評判を取り、ルドルフ・ヌレエフはじめとする著名スターも多数ゲスト出演する人気番組となり、1976年から1981年の5シーズンに渡って放映され、大成功を収めた。ミス・ピギー、ゴンゾ、フォジー等今日でも知られるマペットのスターが輩出した番組だが、ホストとして舞台を得たカーミットと著名スターを喰ってしまうほどの存在感を示したミス・ピギーの活躍は特筆すべきものがあった。 また、1977年にTV作品として放送された『マペットのクリスマス』 (Emmet Otter's Jug-Band Christmas) も、マペットの技術的進化として特筆すべきものあった。『セサミストリート』や『マペット・ショー』で使われているマペットよりも、実在の動物に近いリアルな人形を志向したものである。 これら、TVネットワークでの成功や技術の進歩を基礎にして、ジム・ヘンソンは1980年代前半から、映画においても、いくつものヒット作を生み出すことになった。ひとつは『マペット・ショー』で人気を得たカーミット、ミス・ピギーなどのキャラクターが活躍する種類の映画で、『マペットの夢みるハリウッド』 (The Muppet Movie)、『マペットの大冒険/宝石泥棒をつかまえろ!』 (Great Muppet Caper)、『マペットめざせブロードウェイ!』の3作であり、もうひとつはマペットの技術を用いて、全く独自のファンタジー世界を構築した映画、『ダーククリスタル』と『ラビリンス/魔王の迷宮』の2作である。 『ラビリンス/魔王の迷宮』からそれほど日をおかず発表された『ストーリーテラー』は、ハーバード大学で民俗学を勉強していた長女リサ・ヘンソンの研究が基礎になっている。原型に近い民話を現在のビデオ技術とマペットで映像化するのが企画の要旨だが、予算と日程の制約の中から、映像の質を落さない限度の中で製作された9話分のエピソードは、欧州、日本、豪州で好評をもって迎えられビデオリリースされたが、米国本国では中途半端な製作本数のために、セールスに制約が伴い、不遇な扱いであった。 『セサミストリート』の背景にベトナム戦争があるように、ソ連軍のアフガン侵攻やイラン・イラク戦争などの世界情勢の悪化を背景にして作られたのが『フラグルロック』である。人間の世界に隣接する地下世界に、音楽や芸術を愛するフラグルを始め複数の種族が共存していくという基本ストーリーにジム・ヘンソンが、世界情勢の好転を願った寓話の意味がみて取れる。技術的には、『ダーククリスタル』以降培われたアニマトロニクス技術が投入され、高度なマペット操演が行われた佳作である。 1990年5月16日、化膿レンサ球菌の感染症に倒れた直後、ジム・ヘンソンはニューヨーク病院で死去した。死の直前まで意識がはっきりしており、病状の深刻さを伺わせるものはなかった。5日後、ニューヨーク大聖堂で追悼式が行われた。故人の意思により、喪服の着用は無く、マーチングバンドの奏でる「聖者が街にやってくる」の流れる中、ジム・ヘンソンが創造した何百というマペットたちも加わるカラフルな追悼式であった。
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生涯・人物
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/26 05:32 UTC 版)
「アタナシウス・キルヒャー」の記事における「生涯・人物」の解説
9人兄弟の末子だったアタナシウス・キルヒャーはフルダに近いブコニアのガイザ(英語版)(現在のテューリンゲン州ヴァルトブルク郡)で生まれた。このためキルヒャーの名前には(名前に出身地をつけるという古代以来の慣習に従って)「ブコニウス」「フルデンシス」などがつくことがある。彼はフルダのイエズス会学校に4年在籍した後で神学生としてイエズス会の門をたたいた。 キルヒャーにとって幸運だったのは、学校に通いながら個人的にラビからヘブライ語を習った経験があることだった。司祭になるべくパーダーボルンで哲学と神学を学んでいたアタナシウスだったが、プロテスタント軍の侵攻によって1622年にケルンへ逃れることになった。このとき、凍ったライン川を渡るときに氷が割れて命を落としかけている(アタナシウスは何度か命の危機に瀕している。たとえばハイリゲンシュタットへの旅の途上でプロテスタント兵に捕らえられてつるし首にされかけた)。ハイリゲンシュタットでは数学だけでなくヘブライ語、シリア語を教えた。1628年に司祭に叙階され、ヴュルツブルク大学に移って倫理学と数学、ヘブライ語、シリア語を教えた。ここでアタナシウスはヒエログリフの解明に初めて取り組んでいる。 1631年、アタナシウスの最初の著作『アルス・マグネシア』(磁性研究)が世に出たが、彼自身は三十年戦争の影響でドイツを離れざるを得なくなり、当時アヴィニョンにあった教皇庁立大学へ逃れた。1633年になると、神聖ローマ皇帝によってウィーンへ招かれ、ヨハネス・ケプラーの後継者として宮廷付学者の任命を受けた。しかし、宮廷付学者の地位を狙っていたニコラ=クロード・ファブリ・ド・ペーレスクの策動によってこの任命が取り消されたため、ローマにとどまって研究を続けることになった。以後、その死までローマで暮らすことになる。彼はイエズス会の最高学府ローマ学院(現在の教皇庁立グレゴリアン大学)で1638年以降の数年間オリエントの諸語を教えた。講義から解放されると、彼はマラリアと伝染病の研究に取り組んだ。同時に古代の遺物の収集に熱中し、やがて自宅を「キルヒャー博物館(Kircherian Museum)」として公開できるほどのコレクションができた。 1661年、考古学に関心を持っていたアタナシウスはコンスタンティヌス帝が、聖エウスタキウスが幻を見た場所に立てたと伝えられていた伝説の教会堂の遺跡を発見。資金を集めてそこに記念聖堂を再建した。この聖堂には死後、彼の心臓が納められた。
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生涯・人物
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牛込出身。父が検事という厳格な家庭に育つ(のちに初期テレビドラマ『検事』の脚本も手がけている)。父の転任のたびに、長野、東京、千葉、新潟、福岡と転々とする。少年時代から学業を嫌い、文学書に親しみ、中学3年生の時には新聞『万朝報』の長編小説募集に応募、落選するもそれ以降は雑誌にの懸賞小説に毎年応募をし続けたが、当選することは一度もなかった。 日本大学芸術学部卒業後は、福岡で1年半ほど職に就けないでいたが、『九州日報』の短編小説募集で一等に入り、賞金5円を貰い、1934年に松竹蒲田撮影所にシナリオ・ライターの研究生として入社した。同期生の中では一番成績が悪かったが、最初の仕事に清水宏監督の『双心臓』を手掛ける。ただし、これはまったくの清水の口述筆記であり、本格的に創作となったのは『君にささぐ花束』『雨の夜の抱擁』などである。 他にも『おんなの暦』『男性対女性』など多数を書き、若手のホープとして撮影所長の城戸四郎にも眼をかけられる。しかしこの当時、一級監督が手掛けるのは新聞連載小説の映画化であり、オリジナルの脚本は二級監督にまわされた。脚本の出来にもかかわらず精彩を欠いた作品が多く、しかも会社側で勝手に題名なども変えてしまうなど、猪俣は大きな幻滅を抱くようになり、1942年に松竹を退社した。 その後、シナリオの独立を訴えて国民脚本社を創立する。終戦の影響で同社は解散したが、戦後もシナリオ・ライターは監督や会社に従属せず作家として強く自己主張すべきだとして、同志を集めてシナリオ文芸協会を設立した。また、雑誌『シナリオ文芸』を創刊して後進の育成に当たる。 1950年に『シナリオ文芸』が休刊すると、再びシナリオを書き、当時監督業に進出した俳優の佐分利信とコンビを組んで、1950年の『執行猶予』、1951年の『あゝ青春』『風雪二十年』を世に送り、また1952年、渋谷実監督の『現代人』のシナリオを手掛けた。『現代人』は脚本家としての代表作となった。 のちに自身も監督業に乗り出し、1958年の『荒城の月』でデビューする。1959年、スチュワーデスが殺害され、その最有力容疑者の外国人神父が国外に逃亡して迷宮入りになった現実の事件(BOACスチュワーデス殺人事件)を描いた意欲作『白か黒か』を発表するが、カトリック教会からの批判などで公開が短期に終わった。 その後はテレビドラマの脚本を多く執筆し、また母校の日本大学芸術学部の教壇に立った。映画評論家として知られた田山力哉は従弟であり、共著がある。
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生涯・人物
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「フランツ・エルンスト・ノイマン」の記事における「生涯・人物」の解説
ブランデンブルク辺境伯領のヨアヒムスタールに生れた。ベルリン大学で学んでいたが、ナポレオン戦争に参加し、1815年のリニーの戦いで負傷した。 ベルリン大学に戻り神学を学んだが、すぐに自然科学に転じた。はじめ結晶学を研究し、ケーニヒスベルク大学で教授になった。1831年に固体特に合金の分子熱がその成分元素の原子熱の和で近似できるいうノイマン=コップの法則を提出した。その後、光学を研究した。電磁気学の分野では1845年と1847年の著作で誘導電流の数学的解析を行い、ノイマンの法則をたてた。1878年には球面調和関数に関する著作を発表した。ノイマンは数理物理学の講座を設立し後進を育成した。 息子のカール・ゴットフリート・ノイマン(ドイツ語版、英語版)(独: Carl Gottfried Neumann)(1832-1925)も数学者となった。
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生涯・人物
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元は明国福建省の人物で、代々易者の家系にあった。明国にあった頃の名は黄 友賢、或いは黄 自閑であり、「江夏」の姓は祠堂を同じくする江夏黄氏に由来するものか。『上井覚兼日記』には大明 友賢とも記述され、聖護院門跡の道澄よりは「環渓先生」という号を与えられている。 薩摩国へ来た理由であるが、『本藩人物誌』には乱を避けて日本に渡り、京にて易学を以って身を立てていたが、京で戦乱が起こったために薩摩国へ下向したとある。しかし、友賢の墓の碑文では、永禄3年(1560年)に薩摩国の川内あたりの倭寇に捕えられ、薩摩国へ連れてこられて入来院に居住したとしている。その後、易学(特に占筮)に通じていたことから、島津家の目に留まり仕えることとなった。 天正10年(1582年)12月、肥後国の八代にあった島津義弘の元に肥前有馬氏からの使者として(事実上の人質)安富左兵衛尉が入っており、この頃に有馬への帰国を請うたのであるが、島津側は未だ有馬側の去就に疑いがあり、友賢に占わせると帰国させた方が良いとなり帰国させている。翌天正11年(1583年)11月には、上井覚兼が加判役(老中職)を辞去すべきかを友賢に占わせている。他にも土地の良し悪しを占う役目を担い、加治木屋敷や鶴丸城などの縄張りも占っている。 また、明国でも著名な人物であったようで、文禄・慶長の役の折に和睦の為に明国から沈惟敬が来日した際に友賢を見かけ、「行方知れずと聞いていたが、日本にいたのか」と声を掛けている。また、それを聞きつけた豊臣秀吉が友賢を召し抱えようとすると、友賢は「明国では賢臣はニ君に仕えずと承っております」と述べてこれを断っている。 慶長15年に死去。墓は加治木の実窓寺にある。
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