初登頂
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/08 15:31 UTC 版)
登山において、初登頂(はつとうちょう、FA: first ascent)とは、記録に残る初めての山頂への到達のこと、すなわち、それまで未踏峰だった山頂へ到達することである。特定の登山ルートを使用して初めて登頂に成功した場合についても言う。初登(はつとう)、初登攀(はつとうはん)とも言う。
- ^ “Disputed First Winter Ascent of Aid Line Claimed on Troll Wall”. alpinist.com (2013年2月6日). 2013年6月21日閲覧。
- ^ “ExWeb series: The meaning of winter in 8000+ climbing”. mounteverest.com (2004年11月16日). 2013年6月21日閲覧。
- ^ Griffin, Lindsay. “2010: Definition of winter ascents in Tibet, China, Nepal, by L. Griffin”. americanalpineclub.org. 2013年6月21日閲覧。
- 1 初登頂とは
- 2 初登頂の概要
初登頂
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/08 15:19 UTC 版)
記録に残る初めての山頂への到達、すなわち、それまで未踏峰だった山頂へ到達すること。また、特定のルート(北壁など)を使用した場合や特定の条件(無酸素、単独、冬季など)についても言う。
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初登頂
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/07 00:55 UTC 版)
初登頂は1842年7月18日に帝政ロシアのTchihatcheffによって成し遂げられた。1842年7月、元ロシア軍将校のPlaton de Tchihatcheffはバニェール=ド=リュションからアネト山の登頂に挑み、山岳ガイドのPierre Sanio de Luz、 Luchonnais Bernard Arrazau、Pierre Redonnetが同行した。Tchihatcheff隊にはノルマン人植物学者のAlbert de Franqueville、そのガイドのJean Sorsがいた。一行はフランス宿泊所からベナスケ山道を横断し、現在は巨大な山小屋であるが当時は簡素な構造だったLa Renclusa避難小屋で夜を明かした。翌日にはアルバ道に向かって山道を超えたが、グレゲーニャ湖付近の南斜面で迷った。その日の遅くには、バリビエルナ谷付近の小屋で夜を過ごした。 翌朝に日が昇ると、一行はCoroné道に向かって歩き出した。クレバスの恐ろしさはあったものの、氷河から頂上に向かうことを決定し、「ムハンマドの橋」と呼ばれる数メートル幅しかない尾根を歩いた。この名称はAlbert de Franquevilleが名づけたものであり、楽園の入口は狭いとするムスリムの伝説に因んでいる。一行は1842年7月20日にアネト山の頂上に達した。ケルン(石を積んだ道標)を作り、一行の名前が記載されたボトルを残した。Tchihatcheffは氷河をより直接的に進むルートを開拓したいと思ったが、同行者はきっぱりとこの提案を拒否した。4日後、Tchihatcheffは別の隊とともに2度目の登頂を果たしており、その際には一度否定された目的を追求した。 アネト山はピレネー山脈の中でも人気の目的地となり、春季にバニェール=ド=リュションを訪れた観光客はアネト山登山に挑戦した。Henry Spontはアネト山での経験を基にした本『Le Néthou』を書き、その足取り、スケジュール、推奨する装備を記した。
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初登頂
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初登頂は、1984年のインドと日本の合同隊であり、マモストン氷河にベースキャンプを設け、複雑なプローチを経て北東稜線から登頂を果たした。初日の9月13日に登頂し、初登頂者となったのは、山田昇、吉田憲司、R・シャルマ (R. Sharma)、P・ダス (P. Das)、H・チョーハン (H. Chauhan) であった。続いて、15日に日本側隊長の尾形好雄、新郷信廣、岩崎洋とインド側2名、16日には、インド側の2隊員が登頂に成功し、隊員13人のうち、医師として参加したインド側のひとり以外は全員が頂上に立った。
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初登頂
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/01 04:20 UTC 版)
男体山の初登頂は782年(天応2年)に僧勝道上人によって成し遂げられた。この登山については僧空海の記した『性霊集』に詳細が述べられている。この時期の初登頂記録としては最も実証性があるものといわれる。 勝道は、「われもし山頂にいたらざれば、菩提にいたらず」、つまり山頂に達することが自分の悟りを開くと考え、前人未到の男体山への登頂を志した。また、釈迦が雪山で苦行をしたという前例から、あえて残雪期の登山を選んだ。勝道の登頂初挑戦は767年(神護景雲元年)4月上旬であったが、嵐にあって撤退を余儀なくされた。2回目は781年(天応元年)4月上旬、またしても悪天候により失敗した。そして翌年にその宿願を果たしたがまた失敗した。
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初登頂
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若狭と京の都をつなぐ峠道は古くから利用され、また明治時代には山域で陸軍陸地測量部の地理測量が行なわれていたが、初めて純粋な「登山」が行なわれたのは1918年(大正7年)とされている。京都府立第一中学校(現京都府立洛北高校・中学校)の山岳部が京都北山登山の草分け的存在であり、この山岳部には今西錦司(文化人類学者、登山家)などがいた。
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初登頂
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/13 08:56 UTC 版)
初登頂は当時としては異例とも言える少人数の隊によって達成された。当初、エベレストより高い可能性があると目されていたアムネ・マチン峰の遠征隊として12人の参加が予定されていたが、満州事変の勃発により登頂許可が得られなかったため遠征が頓挫。一部は無許可のままアムネ・マチン峰へ向かったが、リチャード・L・バードソル、テリス・ムーア、アーサー・エモンズ3世、ジャック・セオドール・ヤングの4人はミニヤコンカの測量および登路偵察、大型獣の標本採集を目的とした西康遠征隊を結成した。満州事変の混乱に加えて中華民国軍はチベット軍との戦闘も行っていたため、最寄の都市である打箭爐周辺でも人足や駄獣の大規模な徴発が行われており、資材の運搬要員の確保にも困難を極めた。結果として最終的にベースキャンプより上でも活動したハイポーターはわずか2人、ヤング隊員は第1キャンプへの荷揚げを完了すると撤収の際に必要なポーターの手配と折衝をするために下山したため、終盤の登山活動は3人で行われた。エモンズが手を負傷したため最終アタックはバードソルとムーアの2人で行われ、6,700メートル地点に設営された第4キャンプから9時間半かけて登頂に成功した。なお、登頂前に4人はより綿密な測量活動を行い、ミニヤコンカの標高は7,587メートル(24,891フィート)、測定誤差±25メートル(85フィート)と現在の計測値に非常に近い数値を算出している。この標高の登頂は1931年に登頂されたインドのカメット峰(7,756メートル)に次ぐ世界第二位の記録だった。
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初登頂
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/14 09:20 UTC 版)
日本の登山家・沼井鐡太郎が、1928年にこの山の登頂に成功した。しかし、一部では1927年に瀬古喜三郎が初登頂したといわれている。
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「初登頂」の例文・使い方・用例・文例
- 彼らはエベレストに初登頂した。
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