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ケルン 1 [cairn]

山頂登山路に石を積みあげて、記念道標とするもの。

ケルン [Köln]



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ケルン

山中見られる石塚ガスに巻かれると道を見失う危険性のある広い稜線などに、道しるべとして積まれたもの。


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ケルン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2011/11/21 02:05 UTC 版)

ケルン
Köln
ケルン大聖堂ホーエンツォレルン橋


紋章
ケルンの位置
ケルン
座標: 北緯50度57分0秒 東経6度58分0秒 / 北緯50.95度 東経6.96667度 / 50.95; 6.96667
ドイツの旗 ドイツ
ノルトライン=ヴェストファーレン州
行政管区 ケルン行政管区
地域連合 ラインラント地域連合
郡独立市
行政
 - 市長 フリッツ・シュラマ (CDU)
面積
 - 計 405.16km2 (156.4mi2)
最高部 118.4m (388ft)
最低部 37.5m (123ft)
人口 (2010年12月31日)[1]
 - 計 1,007,119人
 - 人口密度 2,486人/km² (6,438.7人/mi²)
郵便番号 50441 – 51149(旧:5000)
市外局番 0221、02203、02232、02233、02234、02236
ナンバープレート K
市コード 05 3 15 000
ウェブサイト stadt-koeln.de
第二次世界大戦による荒廃
ケルン市の姉妹都市である京都市に寄贈された大聖堂飾り破風、京都市左京区岡崎公園

ケルン (ドイツ語: Köln、1900年から1919年まではCölnと表記されていた[2]) は、ドイツ連邦共和国ノルトライン=ヴェストファーレン州の都市。

目次

概要

ローマ帝国によってローマ植民市として建設されたライン川中流の古市であり、ケルンの名はラテン語で植民市を意味する Colonia に由来する。現在でもイタリア語スペイン語ではこの名前が使われており、フランス語英語の Cologne も同源である。因みに、香水の一種であるオーデコロン (eau de Cologne) は、フランス語で「ケルンの」の意。

古来からケルン大司教選帝侯(選挙侯)のひとりであり、ケルンは古代から現代に渡って交易と地域政治の中心として栄えてきた。

現在では国際的な見本市や展示会が行われる産業都市の側面も持つ。ユネスコ世界遺産に登録されているケルン大聖堂が町のシンボルであり、ドイツ最大のカーニバルが開催されることでも知られる。

地勢

ライン川の河畔に位置しており、陸上、水上交通の要所である。重工業が発展する一方で、オーデコロンの生産地でもある。近隣の都市としては、約25キロ南にボン、10キロ北にレバークーゼン、35キロ北にデュッセルドルフが位置する。空港はケルン・ボン空港西ドイツ首都だったボンと共用している。

歴史

古代

紀元前39年、ローマとの合意に基づき、親ローマのゲルマニア人部族ウビイイ族がライン川の西岸に入植した。その入植地オッピドゥム・ウビオールム(ウビイイ人の町)は、ローマ軍宿営地となり、ゲルマニア州におけるローマの拠点となった。

紀元50年、皇帝クラウディウスの妻アグリッピナは、自分の出生地オッピドゥム・ウビオールムをローマ植民地に格上げするよう、要望した。こうしてコローニア・クラウディア・アラ・アグリッピネンシスまたはコローニア・アグリッピナがおかれた。後にこの地名はアグリッピナの部分は省略されるようになりコロニアと呼ばれ現名の語源となった。

アウグスタと呼ばれたトリアーに次ぎ、ローマ帝国のゲルマニア支配の拠点として重要な地位を占めたケルンには、多くのローマ遺跡が見られる。80年には水道橋が建設された。1世紀末には、アグリッピナは属州下ゲルマニアの首都となった。この当時の人口は4万5千人ほどであった。

355年から、サリ族に属するフランク族が10年の間ケルンを包囲した。455年フランク族は最終的にケルンを落とし、これを首都とした。

中世

ローマからはキリスト教も早くから伝播した。ケルンには4世紀に司教座がおかれ、のち8世紀末には大司教座が置かれることとなる。

ケルンの初代主教はマテルヌスといい、ケルンに最初の大聖堂を建てたといわれる。794年に最初の大司教が任命された。ケルン大司教はサクソンやフランクの宮廷で王の助言者となった。


大司教座の置かれたケルン一帯は、ケルン大司教に帰属する宗教領邦となった。大司教座附属学校がおかれたケルンは、政治のみならず文化の中心となる。特にドミニコ会がおいたケルン大司教管区の神学大学ではアルベルトゥス・マグヌスマイスター・エックハルトなど中世の重要な思想家が講義した。マイスター・エックハルトによってケルンはドイツ神秘主義思想の発展に大きくかかわることとなる。

13世紀に入ると、都市の市民と、ケルン大司教の間でたびたび緊張が生じるようになった。1288年にケルンが自由都市の資格を得ると、ケルン大司教はケルンからボンへ住居を移し、1821年までケルンに帰ってこなかった。

近世

三十年戦争後、一時期衰微をみたケルンであったが、その後次第に復興し、19世紀にはケルン大聖堂の増築と完成を見るに到る。ケルン大聖堂の完成の大きな要因はヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテにより招来されたゴシック様式の見直し、いわゆるゴシック・リヴァイヴァルである。しかしこの動きは必ずしも宗教的権力の強化を意味しない。フランス革命後の世俗化傾向は、選帝侯制度の廃止のみならず、宗教領邦としてのケルン大司教座領の廃止に帰着する。以後ケルンは、ライン川流域の一世俗都市として、商業の中心地として繁栄していく。

近代

現代

第二次世界大戦に際しては、激しい空爆を受けてケルン市内の9割の建造物が破壊された。1945年3月からは市内に立て篭もって抵抗を続けるドイツ軍とアメリカ軍との間で激しい市街戦となり、3月5日陥落した。しかし、ケルン大聖堂だけは奇跡的にも完全には崩壊せず、絶望の淵に陥っていた市民に希望を持たせた。その後ケルンは復興を果たし、今日へと至る。




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