漂着物
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漂着物(ひょうちゃくぶつ)とは、海流・潮流・風・波などによって、漂流物が海辺に打ち上げられ漂着した物の総称である。
- ^ “漂着:山形の離島に照明弾 ハングルの記載”. 毎日新聞. 2022年10月19日閲覧。
- ^ “Phosphor ähnelt Bernstein und verbrennt Mann am Strand” (ドイツ語). Der Spiegel (2014年1月15日). 2022年10月19日閲覧。
- ^ 八代, 正彦、勝山, 碧、中前, 琢磨、肥後, 恵理、宮本, 真智子、福元, 明子、林, 敬人「漂着死体における溺死診断のための検査法について」、漂着物学会、2021年12月25日、doi:10.57279/driftological.19.0_1。
- ^ 海岸漂着危険物対応ガイドライン - 国土交通省
- ^ “海岸漂着物処理推進法関係”. 環境省. 2022年10月23日閲覧。
漂着
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/12/30 18:01 UTC 版)
2月28日、強い雨が降り続いていたが、乗り組みの一人が人気のない海岸線を見つけた。 それと同時に6艘の中国の舟に囲まれたが、これらの舟に乗っている者たちは翌日まで崔溥の舟に乗り移ってこようとはしなかった。 崔溥は中国語を話せなかったので、筆談を試みた。 崔溥は中国の舟に乗っている者たちに、最も近い街道までの道のりを尋ねた。 彼らが台州までの道のりをまちまちに答えたので、崔溥は騙されているのではないかと訝しんだが、Brook (1998)によると彼らは騙そうとしたのではなく、単に内陸を旅したことがなくて無知だっただけであろう。 いずれにせよ、6艘の中国船の船乗りたちは崔溥らを倭寇だと信じ、船の中にあったものを奪い取った。 折から激しい雨が降り始め、辺り一帯を水浸しにし始めた。中国人の船乗りたちは自分たちの舟へ引き上げ、これを好機と見た崔溥の一行は、岸辺へと雨の中、一目散に逃げた。 上陸して最寄りの街道を探して数日経ったのち、明兵に発見されて台州の衛所へと連れて行かれた。 明の兵に見つかったとき、海上で船乗りたちに遭遇したときや岸辺沿いの村人たちに出会ったときと同じくやはり、彼らに殺されかけるが、崔溥が機転を利かせて誤解を解き、また、教養ある士大夫であることを示したので助かった。 3月6日、台州衛所の司令官は部下に命じて地方司令部のある紹興まで護衛させることにした。 紹興から杭州の役所まで、さらに、最終的には、大明帝国の首都北京まで移送してもらえることになった。 台州府衛所は、輿を用意してくれた。崔溥と一部の部下はそれに乗ることができたが、道が荒れている場所では輿から下りて、他の者と同様に歩かなければならなかった。
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漂着
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/07 13:55 UTC 版)
宝暦14年(1764年)元旦、乗組員たちは2ヶ月半ぶりに陸地を発見する。孫太郎たちは当初、その陸地が薩摩か琉球であると思っていたが、海岸にマングローブの林があることや聞いたことのない鳥の声がすることから、日本から遠く離れた地であることがわかった。それでも一行は上陸すべく、伝馬船(ボート)に荷物を移し、人家を探して南に15里ほど移動し、浜辺で休憩をとった。 一行が浜辺で休憩をとっていると、頭が赤く、変わった笠を着て、腰に毛布をまとい、槍や鉄砲で武装した先住民300名 がやってきた。先住民たちは孫太郎たちの所持品をすべて掠奪したが、孫太郎たちがジェスチャーで空腹を訴えると芋の中に唐米を炊いて混ぜたものを与えた。先住民たちは孫太郎たちをそのままカラガンという近隣の村に連行し、酋長と面会させたが、面会後20人は村はずれの家に罪人扱いとして監禁された。 一行は故郷の事を思い出して、成すすべなく日々を泣いて過ごしていた。監禁から2週間程で新七を含む4人は病死し、仁兵衛、甚次郎、彦五郎の3人はどこかに連れて行かれてそのまま帰ってこなかった。それから数日で船頭の十右衛門が病死し、さらに数日後には藤蔵がどこかへ連れて行かれ、藤蔵の失踪からの10日間でさらに5人が病死した。孫太郎はこの監禁生活のことを、 「生洲(いけす)に圍(かこ)ふ魚のごとく、料理に成かと恐しし。殘る面々けふ死すか、あすはいづくに連て行かと、死出の知死期(ちしご)をまち居ける」 【現代語訳=まるで生簀に入れられた魚のようで、料理にされるのではないかと恐ろしかった。残った面々も今日死ぬのではないか、明日どこかへ連れて行かれるのではないかと、いつ死ぬのか待っていた。】 — 『華夷九年録』 と後に述べている。 このカラガン村があった島について、『漂流天竺物語』や『華夷九年録』では「南天竺の内ボロネヲ」と記され、現在のボルネオ島であると記されているが、『南海紀聞』では「マキンダラヲ」、『漂夫譚』では「マギンタロウ」と記され、『南海紀聞』の編者である青木興勝は漂着場所をフィリピン南部のミンダナオ島であるとしている。現在では『南海紀聞』の説の方が正しいとされ、伊勢丸はミンダナオ島南岸に漂着したとするのが定説となっている。 3月頃、残された7人は家から出されて船に乗せられた。7人は日本に帰れるかもしれないと淡い期待を抱くが、カラガンを出た船は西に向かい、20日ほどでソウロクという場所に着いた。ソウロクは現在のスールー諸島の事であり、7人は奴隷商人の家でしばらく暮らしたが、4月末に金兵衛、市三郎、貞五郎、弥吉、長太の5人は海賊の頭のもとに連行されることになり、孫太郎と幸五郎の2人だけが残されることになった。 2人は6月中旬に別の島に連れて行かれ、ゴロウという海賊の持ち物となった。ここで2人は、結婚式の宴席で太鼓を持たされ日本の歌を披露させられたりしたが、その後も他の者に転売され続け、2人はスールー諸島中を連れまわされることになった。やがて2人はボルネオ島南部のバンジャルマシンに連れて行かれることになったが、この航海中に孫太郎が兄と慕っていた幸五郎が病死した。幸五郎の亡骸は海に捨てられそうになったが、孫太郎はせめて海岸に土葬させてくれと懇願し、幸五郎の亡骸は孫太郎の手によって海岸近くの小高い丘に埋葬された。
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