つぼい‐しょうごろう〔つぼゐシヤウゴラウ〕【坪井正五郎】
坪井正五郎
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坪井 正五郎(つぼい しょうごろう、文久3年1月5日(1863年2月22日) - 大正2年(1913年)5月26日[1])は、日本の自然人類学者。日本初の人類学者として、日本における考古学・人類学の普及と確立に尽力した。坪井信道の孫で、坪井信良の子。
- ^ 『官報』第251号、大正2年6月2日、p.51.「官庁事項」
- ^ 坪井正五郎 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」コトバンク 2018年7月29日閲覧。
- ^ 東京帝国大学 編『東京帝国大学卒業生氏名録』東京帝国大学、1926年、(296)頁 。
- ^ 東京人類学会(読み)とうきょうじんるいがっかい世界大百科事典
- ^ a b 東京大学大学院情報学環・学際情報学府 文化資源統合アーカイブ 坪井正五郎資料
- ^ 山口昌男『内田魯庵山脈(上)』岩波現代文庫、2010年、137頁。
- ^ 大日本博士録編輯部 編『学位大系博士氏名録 昭和7年版』発展社出版部、1931年、2頁 。
- ^ ニッポン探景 古代人眠る漆黒の闇 吉見百穴『読売新聞』2020年(令和2年)10月25日日曜版1面
- ^ 服部敏良『事典有名人の死亡診断 近代編』(吉川弘文館、2010年)182頁
- ^ 清水晴風著『東京名物百人一首』明治40年8月「人類学者、考古学者の坪井正五郎」国立国会図書館蔵書、2018年2月19日閲覧
- ^ 『官報』第4989号「叙任及辞令」1900年2月21日。
- ^ 『官報』第5839号「叙任及辞令」1902年12月18日。
- ^ 『官報』第7394号「叙任及辞令」1908年2月22日。
- ^ 『官報』第6450号「叙任及辞令」1904年12月28日。
- 1 坪井正五郎とは
- 2 坪井正五郎の概要
- 3 栄典
坪井正五郎(つぼい しょうごろう)
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「松岡國男妖怪退治」の記事における「坪井正五郎(つぼい しょうごろう)」の解説
東京帝国大学で人類学を教えている男性講師。写真の重ね取りで特定の人間に共通する人相を抽出する「観相法」を提唱している。日本の先住民族が山人がコロポックルかで、よく松岡と議論している。「アレ」という代名詞をやたらと使う癖がある。
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