かん‐そう〔クワンサウ〕【観相】
観相
★1.人相を見て、将来、地位と権力を得るであろうことを見抜く。
『大鏡』「道長伝」 飯室の権僧正の伴僧に観相者がいた。彼は「道隆には天下を取る相があり、道兼には大臣の相があり、伊周には一時的に権勢を得る相がある」と占ったが、結局、「道長こそ、『虎の子が奥山の峰を渡る』という最高の相があり、誰よりもすぐれ、際限なく栄える」と結論した。
『江談抄』第2-25 一条左大臣源雅信がまだ年少の時、平時望が占って「必ず従一位左大臣に至るでしょう。その時、もし縁あらば、我が子孫を挙げ用いて下さい」と言った。雅信は大臣になってからもその言葉を忘れず、時望の孫惟仲に特別の好意を示した。
『江談抄』第2-26 平珍材は、息子惟仲の相を見て「大納言になる相だが、貪りの心のため妨げられるだろうから慎むべし」と占った。後、惟仲は中納言に至り、太宰帥となったが、職務上の失敗により解任された。
『江談抄』第3-23 藤原道明(後に大納言)が妻と同車して市に行った。1人の老女が妻を見て、「貴女は必ず大納言の妻になる」と予言し、次に道明を見て「それはこの人の力によるものだろうか」と言った。
*自らの出世の相を見る→〔水鏡〕3aの『古今著聞集』巻7「術道」第9・通巻297話。
『源氏物語』「桐壺」 光源氏が7歳を過ぎた頃、高麗からすぐれた相人が来朝した。父・桐壺帝は、光源氏が帝の子であることを隠し、右大弁の子のように仕立てて相人の所へ連れて行く。相人は光源氏を見て驚き、「帝王の相があるが、そうなると国が乱れるかもしれぬ。だからといって、摂政関白のような臣下の相とも異なる」と、不思議がった〔*光源氏は、帝王とも臣下とも異なる、准太政天皇という位についた〕。
『古今著聞集』巻7「術道」第9・通巻299話 野宮の左大臣藤原公継が幼少の頃、その身分を隠して、母が播磨の相人の所へ連れて行った。相人は、「この子は一の上(左大臣)にいたる人です」と占った。母が「これは、侍程度の身分の者の子です」と言ってあざむくと、相人は「大臣の相おわしますものを」と、不思議がった〔*占いどおり、公継は左大臣従一位になった〕。
『大鏡』「昔物語」 高麗の相人が、若き日の夏山繁樹夫妻を見て、「2人長命」と占う。また、藤原時平・仲平を「日本国には過ぎた人」、忠平を「日本国のかため。末長く子孫が繁栄するのは、この殿」と判ずる。さらに、若き日の小野宮実頼が、わざと卑しい恰好をして身分低い者たちの中にいるのを、相人は遠くから見て指さし、「貴臣である」と看破した。
『三宝絵詞』中-1 百済から日羅が来朝した。少年聖徳太子が身をやつして童たちにまじって見ていると、日羅は太子を指さして怪しみ、ひざまづき合掌して「敬礼救世観世音」と唱えた〔*『今昔物語集』巻11-1などに類話〕。
『マホメット伝』(イブン・イスハーク) おじに連れられて来た少年マホメットを見て、占い師が「その子だ」と叫ぶ。おじがマホメットを隠すと、占い師は「あの子にはたしかに何かがある」と言った。
『思い出す事など』(夏目漱石)28 「余(夏目漱石)」は学校を出た当時、小石川の寺に下宿しており、和尚に人相を見てもらったことがあった。和尚は「余」の顔をじっとながめて、「貴方は親の死にめにはあえませんね」と言い、「西へ西へと行く相がある」とも言った。1年もせぬうちに、「余」は松山へ行った。それから熊本に移り、ロンドンへ向かった。西へ西へとおもむいたのである。母は「余」の少年時に死に、父は「余」の熊本時代に死んだが、どちらも死にめにあえなかった。
『大鏡』「道長伝」 藤原道長の息子・顕信は、寛弘9年(1012)正月19日、19歳で出家した。右衛門督実成は、早くから「顕信には出家の相がある」と言い、顕信が実成の娘に求婚した時も、これを許さなかった(*顕信の母も、彼の出家を予知する夢を見た→〔夢解き〕2)。
『今昔物語集』巻15-22 相人が、足切りの刑に処せられる盗人を見て「往生すべき相のある者だ」と言い、検非違使は盗人を放免する。盗人は出家し、日夜念仏を唱えて極楽往生した。
『入鹿』(幸若舞) 天津児屋根の命の36代の御末・御食子(みけこ)の卿は常陸国へ流され、農夫となった。常陸で誕生した息子・鎌足は、16歳の時、庭の夫(にはのぶ。内裏の庭の掃除をする役)に指名されて京へ上る。行事の弁が彼を見て、「この童(わっぱ)は、やつれ果てているが、大臣の相がある。宮中で帝を守護し申せ」と言う。鎌足は右京の大夫になり、帝から、悪臣入鹿誅殺を命ぜられる。
『信田(しだ)』(幸若舞) 信田の小太郎は、奥陸奥(おくむつ)外の浜の塩商人にその身を買われて、浜で塩を焼いていた。浦の領主・塩路の庄司が、信田の高貴な姿を見て驚き、「身分ある人が拐(かど)わかされて来たのだろう」と思い、養子にする。都から国司が下って来た時、信田は自らの系図(葛原親王6代の後胤、将門の孫、信田の小太郎何某)を見せ、やがて上洛して、帝から坂東八ヶ国をたまわった。
★5.死相を見る。
『近世畸人伝』(伴蒿蹊)巻之3「相者龍袋」 中村龍袋はすぐれた観相家で、門人たちの血色を見てその将来を言い当て、外れることがなかった。彼は57歳の時、「私には餓死の相がある」と言い、門戸を閉じて絶食し、数日後に死去した〔*このタイプの物語を極端な形にしたのが、→〔予言〕1cの『百喩経』〕。
*→〔手相〕2の『誰がために鐘は鳴る』(ヘミングウェイ)第2章。
*→〔予言〕3の『現代の英雄』(レールモントフ)第2部「運命論者」。
*面にあらわれた死相→〔面〕6の『修禅寺物語』(岡本綺堂)。
★6.女難の相。
『男はつらいよ』(山田洋次)第22作「噂の寅次郎」 橋の上ですれ違った雲水(演ずるのは大滝秀治)が寅次郎を呼び止めて、「あなたのお顔に女難の相が出ております。お気をつけなさるように」と忠告する。寅次郎は神妙な顔をして、「わかっております。物心ついてこのかた、そのことで苦しみぬいております」と言う。2人は礼を交わして、右と左へ別れて行く。
★7.貧賤の相。
『広異記』44「象牙の中の龍」 則天武后が、貴重な象牙を献上した男(*→〔象〕3)を引見して、「その方は貧賤の相をしている。多くの財物を受けることはできまい」と言い、毎年、銭50貫ずつを支給することにした。男は、もらった銭がなくなると、また支給してもらい、死ぬまでこれを繰り返した。
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