服部一三
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服部 一三(はっとり いちぞう、1851年3月13日(嘉永4年2月11日) - 1929年(昭和4年)1月25日)は明治時代の日本の文部・内務官僚。族籍は山口県士族[2]。
註釈
- ^ 郷校憲章館では同門に同郷出身の内海忠勝がおり、後年の知事時代にも手紙のやり取りをするなど二人の付き合いは長期に亘った[3]。
- ^ 一三は辞表に「病気や一身上の理由ではなく後進に道を譲る気持ちから職を辞する」と記述している[3]。
出典
- ^ a b Catalogue of the officers and alumni of Rutgers College (originally Queen's College) in New Brundswick, N. J. 1766 to 1916. State Gazette Publishing Co., Printers, 1916. p. 166.
- ^ a b 『人事興信録 第8版』ハ50頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2021年3月3日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o 伏谷。
- ^ 『東京大学百年史 通史』 Ⅰ、東京大学、1984年1月、561頁。"同年〔明治十四年〕七月十四日、東京大学法理文三学部総理補兼東京大学予備門主幹服部一三(十三年四月、濱尾新が文部省書記官へ転任したあと服部が同職に再任)が東京大学法学部長兼東京大学予備門長に就任した。"。
- ^ 知事服部一三とその史料
- ^ 伏谷聡「知事服部一三とその史料――兵庫県公館県政資料館所蔵の服部一三知事関係資料について」『新兵庫県の歴史』第1号、兵庫県公館県政資料館 歴史資料部門、2009年3月31日、55-67頁、 オリジナルの2023年4月4日時点におけるアーカイブ“表1 服部一三履歴”を参照。
- ^ 『官報』第6011号、明治36年7月16日。
- ^ 『官報』第1165号、大正5年6月20日。
- ^ 『官報』第8091号「叙任及辞令」1910年6月13日。
- ^ 『官報』第1932号「叙任及辞令」1889年12月5日。
- ^ 『官報』第2703号「叙任及辞令」1892年7月2日。
- ^ 『官報』号外「叙任及辞令」1907年3月31日。
- ^ 『官報』第7578号・付録「辞令」1908年9月28日。
- ^ 『官報』第1310号附録、1916年12月13日、2頁。
- ^ 『官報』第623号「叙任及辞令」1929年1月29日。
- ^ 『官報』第5778号「叙任及辞令」1902年10月6日。
- ^ 『官報』第7437号、1908年4月15日、310頁。
服部一三
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ニューオーリンズの博覧会に政府から派遣され、偶然からハーンと出会う。ホテルの中でも畳を敷き、日本式の生活を持ち込んでいた。6年後にハーンが来日した時には、文部省で普通学務局長を務め、松江中学への就職を世話した。ドラマではナレーターの役も務めている。
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