アロー‐せんそう〔‐センサウ〕【アロー戦争】
アロー戦争
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アロー戦争(アローせんそう、中: 第二次鴉片戰爭、英: Arrow War)は、1856年から1860年にかけて、清とイギリス・フランス連合軍との間で起こった戦争である[1][2]。戦争の理由の一つであった、中国人による多くのイギリス人との衝突のうち、もっとも象徴的な出来事がアロー号事件であったため、日本ではアロー戦争と呼称される場合が多い。また、アヘン戦争に続きアヘンの密貿易に関連して起きた二度目の戦争であることから第二次アヘン戦争(Second Opium War)とも呼ばれる[1]。この戦争で清は再び敗北し、不平等条約である天津条約や北京条約を締結させられ、アヘン輸入の合法化を強いられることになった。
注釈
出典
- 1 アロー戦争とは
- 2 アロー戦争の概要
- 3 背景
- 4 アロー号拿捕事件
- 5 北京条約
- 6 脚注
アロー戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/11 15:10 UTC 版)
「ヘンリー・ジョン・テンプル (第3代パーマストン子爵)」の記事における「アロー戦争」の解説
阿片戦争で清に自由貿易を拡大させたはよかったが、イギリスの主要輸出品木綿の清への輸出量はその後もあまり増えておらず、マンチェスター綿産業を中心に清に更なる市場開放を迫るべしという声が強くなっていった。 また清国内では依然として阿片は禁制品であったが、イギリス人は先の阿片戦争で締結した南京条約を盾に阿片の流入をやめようとはせず、清政府や中国人の間には反英感情が高まっていた。広東では、中国半植民地化に反発する民衆が排外暴動を起こすようになり、イギリス人が広東市内に入れなくなった。イギリス香港総督がこれについて抗議したが、両広総督・欽差大臣耆英は応じなかった。また「夷狄の首府侵入」を許すことによって権威が低下することを恐れていた清政府は、イギリス外交官と北京政府の直接交渉を認めず、外交窓口を広東に派遣する欽差大臣に限定し続けていた。これらはイギリス側に介入のきっかけを与えることとなった。 パーマストン子爵は清の姿勢を不誠実、いい加減、無法だとしていらついていた。上海領事サー・ラザフォード・オールコックが再度武力行使して条約改正を清政府に迫るべしと進言したのを機にパーマストン子爵もその決意を固めた。 1856年10月、香港総督は、清国官憲がイギリス(香港)籍船舶アロー号に入ってきて中国人12名を海賊容疑で逮捕した事件を口実にして、香港駐屯イギリス海軍に広東への攻撃を開始させた。その報告を受けたパーマストン子爵は直ちに香港総督の武力行使に追認を与え、自分が全責任を負うと通達した。 だが庶民院では野党が人道的観点からこの戦争を批判した。1857年3月には急進派のリチャード・コブデン議員提出のパーマストン子爵批判動議が保守党、ピール派、急進派の議員たちの賛成で可決された。これに対してパーマストン子爵は4月に解散総選挙(英語版)に踏み切った。広東の清の高官を「無礼な野蛮人」と呼ぶなどのパーマストン子爵の攻撃的なパフォーマンスは、英国民の愛国心を刺激して共感を呼び、選挙は党派を超えてパーマストン子爵を支持する議員たちが大勝し、強硬な戦争反対派議員はほぼ全員落選した。 フランス皇帝ナポレオン3世も広西省でフランス人神父が殺害された事件を口実にアロー戦争に参戦した。英仏連合軍は広東を占領して北上し、1858年5月に大沽砲台を占領して北京を窺い、6月には清に天津条約を締結させた。だが清政府にとってこの条約は北京陥落を防ぐための便宜的手段であり、条約を守る姿勢を見せなかったため、一度撤収した英仏軍は再び北進を開始し、1860年8月に大沽砲台を再度陥落させ、今度こそ北京を占領した。これにより清は天津条約以上に厳しい条件の北京条約を締結する羽目になった。清は巨額の賠償金、天津など11港の開港を認めることとなった。 またこの戦争中の1858年8月、天津条約締結で一時暇になっていた英国艦隊を日本に派遣し、「応じないなら50隻の軍艦で攻めよせる」と江戸幕府を脅迫して不平等条約日英修好通商条約を締結させることにも成功している。
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