東京神学社
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東京神学社(とうきょうしんがくしゃ、英語: Tokyo School of Theology)は日本基督教会の指導者植村正久が明治37年(1904年)に市ヶ谷教会で始めた神学校である。正式名称は東京神学社神学専門学校である。
概要
植村正久は明治学院の教授であったが、南長老ミッション宣教師のサミュエル・フルトンと教科書問題のことで対立したことをきっかけに、明治36年に明治学院を辞任した。辞任の1年前より、植村の自宅で神学学習会を開いていた。そこには、植村の一番町教会の補助者であった外村義郎をはじめ数人の者が参加していた。20-30人くらいの出席者になったので、独立の神学校の設立を相談した。そこで、市谷薬王寺前町の市ヶ谷教会の会堂を借りて授業を始めた。その後、日本基督教会から承認された。
この神学校は「神学科」「婦人科」「神学倶楽部」という三つの部門に分かれていた。「神学科」は牧師養成のためのもので、「婦人科」は女性伝道師を養成するためのもの、「神学倶楽部」は教師伝道者、平素神学に従事する者らの研究の場であった。
講義の課目は、宗教哲学、基督伝、耶蘇の時代、聖書釈義、旧約聖書緒論、「婦人科」は系統神学(組織神学)を加えた。教師は、宗教学、聖書釈義が植村正久で、耶蘇の時代が毛利官治、新約聖書総論が白井胤録であり、キリスト伝の大谷慮に千屋和、小倉鋭喜であった。その後、アメリカ留学から帰った柏井園が明治学院を辞して、東京神学社に転じた。
1907年に、クリスチャン実業家渡辺荘の寄付により、独自の校舎が建設された。1925年植村正久が急逝すると、高倉徳太郎が後継者になる。
1930年に明治学院神学部と合併して日本神学校となり、1937年東北学院神学部も加わったが、1941年4月の日本基督教団結成を受けて日本神学校も東日本各地の神学校(青山学院神学部・日本バプテスト神学校・日本ルーテル神学専門学校・聖公会神学院・東亜神学校[1]・日本一致神学校[2]・東光学院とともに日本東部神学校への合流を余儀なくされて廃校となった(1943年)[3]。
脚注
参考文献
関連項目
外部リンク
東京神学社
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1903年藤村操の自殺に対して「生きるとも何の甲斐あらんや」を『福音新報』に発表する。第15回夏期学校で『ブラウニングの宗教』と題して講演を行う。 1903年(明治36年)に明治学院の保守派の南長老宣教師(サミュエル・フルトンら)がクラークの『基督教神学概論』の使用に反対した。このためフルトンと袂を分かつことになり、植村は明治学院を辞職する。そして、甲府伝道を開始する。 1904年(明治37年)、甲府、静岡、豊橋、岡崎、名古屋、大垣、京都、福山の各地の伝道を行う。さらに、東京郊外の各地の伝道も行う。渡辺荘らの資金的協力により、海外ミッションから完全に独立した、東京神学社神学専門学校を設立した。自給独立案を大会に提出するが否決される。 1905年(明治38年)ジョン・ノックス400年記念会を神田青年会で開催し、『改革者及び神学者たるノックス』と題して講演を行う。再び、日本基督教会大会に提出した「独立自給案」が可決される。 東京神学社主催の宗教文学講演会で『ロベルト・ブラウニングの今世と来世』と題する講演を行う。第17回夏期学校で『勢力の宗教』と題して講演を行う。 1906年(明治39年)に一番町教会の会堂を富士見町に建築する。そして、富士見町教会を改称する。東京神学社宗教文学講演会を神田青年会で開催し、ケーベル、波多野精一と共に講演会を開く。そこで、『ワーズワース詩中の自然』と題する説教を行う。 1907年甲府、静岡、岡山で伝道を行う。万国基督教青年大会が東京都開催され、『学生伝道が高調せらるべき理想たる基督に似たる生涯』と題する講演を行う。そして、千葉、高知伝道を行う。この年、東京神学社が第一回卒業生を出す。 1908年東京市大挙伝道に尽力する。仙台、大阪、甲府、舞鶴で伝道をする。更に、京都、津山、岡山、千葉の伝道を応援する。
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