王立地理学会
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王立地理学会(おうりつちりがっかい、英語: Royal Geographical Society RGS)は、地理学の発展のために1830年に設立されたイギリスの学会。日本語では王立地理学協会[1]、王立地学協会[2]などとも訳される。今日においては、世界の地理学の中心的位置を占める学会であり、研究、教育、巡検とフィールドワークを支援し、世界の人々、場所、環境についての一般法則化と詳細な理解を奨励している。
- ^ 吉田(2010)
- ^ 寺田貞次『世界地理行脚』古今書院。 国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ 吉田(2010):36 - 37ページ
- ^ 吉田(2010):36ページ
- ^ “Albertopolis: Royal Geographical Society” (英語). Royal Institute of British Architects. 2012年12月10日閲覧。
- ^ 木内(1969):179ページ
- ^ a b 天野(2009):118ページ
- ^ a b 野澤(1999):668ページ
- ^ 志村(2000):7ページ
- ^ “Scott centenary: An enduring scientific legacy”. Exhibition With Scott to the Pole 16 January 2012 to 30 March 2012. Royal Geographical Society. 2012年2月22日閲覧。
- ^ 王立地理学会. “People and staff” (英語). 2012年12月8日時点のオリジナルよりアーカイブ。2012年12月8日閲覧。
- ^ 秋田経済新聞"秋田と地球の裏側で〜探検家・高橋大輔さん"<ウェブ魚拓>2010年5月19日(2012年12月28日閲覧。)
- ^ Research Groups
- ^ “Medals and Awards”. About Us. Royal Geographical Society with IBG (n.d.). 2008年8月7日閲覧。
- ^ 1876年にRawatの功績はGeographical Magazineで紹介された。雑誌掲載の報はすぐに広まり、インド政府は彼の退職に際し、1つの村と1,000ルピーを贈って彼を讃えた。最高の栄誉は1876年に王立地理学会が贈った金メダルであり、受賞理由は「我々の時代において、誰よりも最も優れた量のアジアの地図に対するポジティブな知識を付け加えた」であった。 - Nagendra 1999.
- 1 王立地理学会とは
- 2 王立地理学会の概要
- 3 会員
- 4 賞と助成
- 5 参考文献
- 6 外部リンク
王立地理学会
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「ジョセフ・トムソン (探検家)」の記事における「王立地理学会」の解説
1878年に大学を卒業すると、トムソンは、王立地理学会がダルエスサラームからニアサ湖(マラウイ湖)とタンガニーカ湖へのルート探索のために組織したアレクサンダー・キース・ジョンストンが率いる探検隊に、地質学者、博物学者として加わった。この探検行の途中でジョンストンは死亡し、トムソンは一行の指揮を執ることとなった。トムソンは、14カ月に及び3,000マイルを踏破したこの遠征を成功に導き、多数の標本を持ち帰るとともに、多数の観察記録を残した。 1883年には、王立地理学会が組織した、アフリカ東岸からヴィクトリア湖北岸に至るルートを探索する探検隊に加わった。当時、イギリス帝国の商人たちは、敵対する恐れの高いマサイ族や、競合関係にあったドイツ帝国の商人たちを避けて通るルートを求めていた。この探検隊は、競合したドイツのグスタフ・A・フィッシャー(ドイツ語版)の探検隊より出発が数ヵ月遅れた。トムソンのリーダーシップは、この探検も成功させ、有効なルートを確立するとともに、数多くの重要な生物学的、地質学的、民族誌的観察記録を残したが、途上で試みたキリマンジャロへの日帰り登山には失敗した。しかし、帰路でトムソンは、アフリカスイギュウに襲われて負傷し、このためにマラリアと赤痢に罹患してしまった。 やがて回復したトムソンは、1884年11月の王立地理学会の会合で、自身の経験について語り、翌年には学会から金メダル(創立者メダル)を授与された。彼の著書『Through Masai Land』は、1885年1月に刊行されると、ベストセラーとなった。この本を真っ先に読んだ読者の一人は、まだ無名だったヘンリー・ライダー・ハガードであった。ハガードの想像力は、トムソンの探検によって点火され、程なくしてハガード『ソロモン王の洞窟 (King Solomon's Mines)』が書かれた。トムソンはこれに激怒した。トムソンは、赤道直下にありながら冠雪している山々についての最初の信憑性の高い報告をなし、マサイ族の戦士たちを相手に自分の義歯を外して見せ、自分は魔法使いだと言って恐れさせた。『ソロモン王の洞窟』の作中でも、登場人物のひとりであるグッド海軍大佐 (Captain Good) が、これと全く同じように、山に登って雪に出くわし、また、歯を外して見せてククアナ族 (the Kukuana tribe) を怯えさせていたのである。トムソンは、自分でも小説を書き『Ulu: an African Romance』として刊行したが、こちらはさっぱり売れなかった。
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