みん‐わ【民話】
民話
民話
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「豆畑のこびと」 リンテルンの近くに住むある農民は素晴らしい豆畑を持っていました。ところが、ある収穫の時、どの莢も空っぽでした。農民は泥棒を捕まえようと、こっそり豆畑を見張りました。すると確かにガサガサと音はするのですが、そこには誰もいません。 そこで農民は、これは豆のこびとに違いないと思いました。彼は下男と一緒に畑に来ました。紐の端を下男に握らせ、反対端を自分で持ちました。そして畑を端から端まで走りました。すると隠れ蓑を着たこびとが紐に引っ掛かりました。 こうしてこびとは捕まりました。こびとは隠れ蓑を返してもらうために農民にたくさんの豆を支払わなければなりませんでした。そして彼はそそくさと姿を消すと、二度と戻ってきませんでした。
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民話
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/21 07:36 UTC 版)
伝承に基づく民話にはいくつかのヴァリアントがあるものの物語の筋はおおむね決まっている。以下に2つの例を挙げる。 雨を降らせた竜 昔、印旛沼のそばに、人柄の良い人々が住む村があった。印旛沼の主である龍は、人間の姿になってしばしば村を訪ねては村人達と楽しく過ごしていた。ある年、印旛沼付近はひどい旱魃に見舞われた。雨乞いは功を奏さず、水田は干からびて、村人達は餓死を覚悟した。そのとき龍が村に来て、村人達から親切にしてもらった恩返しとして雨を降らせること、しかし大龍王が降雨を止めているため雨を降らせれば自分は体を裂かれて地上に落とされるだろうことを話し、姿を消した。間もなく空が雲に覆われて雨が降り出した。喜んでいた村人達は、龍が天に昇って雲の中に消え、直後に雷鳴と共に閃いた稲妻の光の中で龍の体が三つに裂かれるのを見た。村人達は龍の事を思って嘆き、翌日、皆で龍の体を探し出した。龍の頭は安食で、腹は本埜で、尾は大寺で見つかった。村人達はそれぞれの場所に寺を建てて龍の体を納めた。それが龍角寺、龍腹寺、龍尾寺である。 三つざきにされた龍神 昔、温かな夜には印旛沼からはしばしば赤い火の玉が現れて北へ向かった。近隣の人々は、龍神が安食村の龍閣寺に明かりを灯しに行くのだと話し合った。ある年、旱魃のため龍神に雨乞いを行ったが効果はなかった。3日目の夜が明けたとき、一帯の旱魃に見かねた龍が老人の姿となって印旛沼から現れ、高齢のため雨を降らせなくなったが雷神に頼んで降らせてもらう、と話して姿を消した。たちまち空が曇って稲妻を伴う豪雨となり、枯れていた作物が蘇った。人々は喜んだが、間もなく、龍閣寺に2本の角の生えた龍の頭が落ちているとの知らせが届いた。その後、印西の地蔵堂で龍の腹部が、ずっと離れた大寺村で龍の尾が見つかった。人々は、雨を降らせるために龍神がその体を雷神によって3つに分断されたのだと悟り、龍閣寺を龍角寺と改め、龍腹寺と龍尾寺を建てて、龍神の事を忘れまいとした。その後も印旛沼からは赤い火の玉が現れ、3つに分かれてこの3つの寺の方へ向かった。人々は、龍神の魂が自身の体を納めた寺に龍灯を灯しに行くのだと話し合ったという。 この龍神の物語は下総地方で語りつがれてきた伝説の代表的なものの一つだとも言われている。
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民話
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2015/12/29 09:12 UTC 版)
かつて八丈島の山奥には、防災のための山小屋があったが、夜になるとここにテンジが現れ、小屋の番人の耳や足をつねるなどのいたずらをしていた。番人が驚いてテンジを怒鳴りつけても、テンジは「ヒャッ、ヒャッ」と笑いながら逃げて行くだけだった。 ある晩、美しい少女が村の名主の娘を名乗り、ぼたもちの差し入れといって重箱を届けに来た。山番は、こんな夜に娘が1人で山を訪れるわけがない、テンジに違いないと考えた。重箱を受け取ると見せかけ、娘を小屋に引き入れようと手をつかむと、その手は竹で出来ていた。山番がナタで竹の手を斬り落とすと、テンジは悲鳴を上げて逃げていった。残された重箱にはぼたもちではなく、牛の糞が入っていた。 翌晩、テンジが自分の手を求めて小屋へやってきたので、山番は小屋に残されていた竹の手を投げ付けてやった。テンジは手を受け取り、いつもの笑い声を上げて山へ帰って行った。 その年、八丈島を大飢饉が襲った。山番の番人も飢えに耐えかね、小屋で死を待つばかりだった。ある夜、小屋に何かが投げ入れられたような音がした。よく見るとそこには、山芋や木の実がどっさりとあった。 番人はテンジがくれた物と確信して礼を言うと、いつものようなテンジの笑い声と、山の方へ駆けて行く足音が聞こえた。番人はその食料の差し入れのおかけで、飢饉を乗り越えて生き延びたという。
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民話
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/03 15:43 UTC 版)
7つの国を7回越えたその向こうに王と王妃と王女がいた。王妃が若くして亡くなると、王はもう結婚しないと誓ったため、王女は嫁がずに父王の元に留まることを決めた。ある日王女が王宮の美しい庭園を散歩していると、強い風に捕らえられ、庭園の真ん中にある高い木のてっぺんに連れて行かれた。それを知らない王は、軍隊に探させるなどあらゆる手立てを尽くしたが王女は見つからない。ある夜、王は夢を見た。王女が竜巻に連れ去られ、今は高い木の上に住む24の頭をもつ竜の宮殿に住んでいるという内容で、王はこれは正夢と考えた。王女を取り戻す勇者を募集したが、応じた者達は誰も木を登りきることさえできなかった。そんな中、王の元に豚の飼育係の少年ヤーノシュが訪ねてきた。天までとどく木の攻略法を子豚から教えられていたヤーノシュは、木に登ることの条件として、野牛の皮で7足のサンダルと7着の服を作ることを王に頼んだ。用意された服を着たヤーノシュは、斧を幹に打ち込みながら木を登っていき、細い枝では毛虫のように這って行き、葉に飛び乗った。その先には20階建ての建物がいくつもある街があったが無人だった。突然ある建物の2階から、王女がヤーノシュに呼びかけてきた。王女は、ヤーノシュを2階に上げて洗い桶の下に隠し、夫となった24の頭の竜が帰ってくると、ヤーノシュが奉公のために来たと話して紹介した。竜はヤーノシュを奉公人として試用したが、彼が熱心に仕事をするので、次第にヤーノシュを信頼していった。あるとき、ヤーノシュが厩舎でたくさんの馬の世話をしていると、やせた小馬が、王女を奪還するための方法をヤーノシュに話した。その言葉に従い、ヤーノシュが頼んで王女に竜の力の根源を聞き出させる。それは「森にいる熊の頭の中に猪がおり、猪の頭の中に兎がおり、兎の頭の中に箱があり、その箱の中にいる9匹の雀蜂」だという。ヤーノシュは厩舎に戻ると、それまで竜が禁じていた、小馬が欲しがる物を与えた。それは大量の薪の灰だったが、灰をなめ尽くした小馬は5本脚の駿馬となった。ヤーノシュは小馬を厩舎から出すと、剣を携えて森に向かった。そしてちょうど小川に出てきた熊を倒し、小馬の協力を得つつ、最終的に雀蜂を箱ごと全滅させることができた。竜の元へ戻ると、竜は力を全部失っており助命を懇願してきたが、ヤーノシュは竜の24の頭すべてに剣を突き刺して退治した。小馬から「この国で王になりたいか」と尋ねられ、ヤーノシュは「王女を連れて帰りたい」と願った。すると馬は2人を乗せ、呪文を唱えて宮廷の庭に着いた。ヤーノシュ達が王宮に入ると、王は悲しみのあまり衰弱しておりすでに死の床にいた。しかし王女が戻ってきたのを喜び、ヤーノシュに自分の国と娘を与え、祝福した後、間もなく亡くなった。こうして少年ヤーノシュは王となったのである。 この民話は、AT分類では467と302/Aの混合とされている。ハンガリーの民話研究者デーグ・リンダ(英語版)による『Kakashi népmesék』(1955年)や、デーグおよび同じくハンガリーの民俗学者オルトゥタイ・ジュラ(英語版)らによる『ハンガリーの民話』(1960年)などに収録されている。
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民話
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/11 06:38 UTC 版)
19世紀末、ジェレマイア・カーティン(英語版)がアイルランド中西部でゲール語の話し手から採取した民話集 "Myths and Folk Tales of Ireland" の中に、コンラを取り扱ったものも収録されている。 フィン・マックールの下に身を寄せていた、呪われた王女ギル・アン・オーグ (Gil an Og) を援助する者として、彼の部下の中から予言に半ば指名される格好でクー・フーリンが選ばれた。紆余曲折の冒険の後彼は成功を収め、ギル・アン・オーグを妻としてアイルランドへと凱旋した。これで収まらないのがアイルランドに残されていたクー・フーリンの妻、アルバのヴィラーゴ (Virago) である。父の顔を知らないまま18歳となったコンラは、嫉妬に狂った母親ヴィラーゴに命じられ父親の殺害を試みる事になる。ヴィラーゴは同時に「いかなる相手にも敗北してはならない」「相手を倒さない限り自らの名前を名乗ってはならない」とコンラに厳命したため、クー・フーリンはコンラが息子であると知ることなく彼と決闘を行うこととなった。事情を知らず挑戦者を容赦なく攻め立てるクー・フーリンに対し、コンラは父親への手加減を続けたまま三日三晩渡り合うほどの武芸者として描かれる。しかし四日目の朝、フィン・マックールの部下の一人でありトラブルメーカーのコナン・マウルが、まだコンラを倒せないクー・フーリンを煽り立てた事によって潮流は変わった。コナンの発言に集中力を乱されたコンラに生じた隙を見逃さず、クー・フーリンは槍で彼の頭を貫き決闘の幕を下ろした。今わの際のコンラからの告白により、息子を手にかけた事を知ったクー・フーリンは狂乱状態に陥る。親指の予言の力により今のクー・フーリンと対面すれば自分たちが一人残らず虐殺されてしまう事を悟ったフィン・マックールは、クー・フーリンをバーラ (Bale) の岸へと追放した。七昼夜狂乱し波と格闘したクー・フーリンは空腹と衰弱によりついに倒れ、その体を波が覆い隠した。
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民話
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/01/25 19:39 UTC 版)
権兵衛は当地の武士の家に生まれたが、父の上村兵部の死後は武士の身分を捨て、父の望みであった農家となり荒地の開墾をはじめた。しかし、もともと武士であった権兵衛には何もかもが初めてのこと。慣れない手つきで見よう見まねの農作業は、種をまくそばからカラスに食べられてしまうほどで、近隣の農家の笑いものになっていた。それでもあきらめず懸命に農業を続けた権兵衛は、やがて村一番の農家になっていたという。 権兵衛は狩猟の腕にも秀でており、その評判は紀州藩主・徳川宗直の耳に届くほど。宗直の前で見事3発の弾を標的に命中。宗直が褒美に田を与えようとしたところ、権兵衛はこれを辞退し、代わりに村人の年貢を免じてもらって村人から喜ばれた。狩猟の腕に自信の権兵衛、馬越峠(まごせとうげ)に大蛇が出ると聞くと、大蛇を退治するべく猟銃を持って山に入った。見事大蛇を仕留めたものの、彼自身も大蛇の毒液を浴びてしまい、村人の介抱もむなしく1737年(元文元年)12月26日に死去した。
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民話
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/27 18:45 UTC 版)
関敬吾(『日本昔話集成』、『日本昔話大成』)では同類の昔話群を「 237B 文福茶釜」に分類している。構成内容は次のようなものである: ある男が狐(狸)と助けた代償として、あるいは狐(狸)を騙して茶釜になりすまさせ、これを売却して金銭を得る。(売り先はたいがい和尚で、磨かれると茶釜は「痛い」といい、火にかけられると「熱い」といって踊りだす、と英文版では付け加えられている)。のち、茶釜は逃亡するか、もとの男の元に帰り、あるいは踊りの芸で金儲けをさせる。 このうち、小波版のおとぎ話のように、芸で金儲けをさせるモチーフがみられるのはきわめて少数派である。
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民話
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/30 02:27 UTC 版)
下栗大塚古墳の頂上にある丸山稲荷大明神には、次のような民話が残されている。 「 昔々、大塚の周辺で凶作が続き、村人らは五穀豊穣を願って大塚の上にお稲荷様を建てることにした。建立の許可を得るため、村人の代表3人が京の都に赴くが、「古墳はお上のものであり、何も建ててはならぬ」と拒否されてしまった。そこで3人のうちの1人が「古墳と言うからダメなんだ」と知恵を働かせ、地元の呼び名である「大塚」にお稲荷様を祀りたいと願い出ると許可を得ることができた。しかしお上は10万両を出せと要求し、3人は諦めかけるが、「これ以上は出せない」と有り金の10両を差し出して懇願した。当時、お上もお金に困っていたと見え、10両で承諾したばかりか、「正一位稲荷大明神」という立派な名前も授けた。これには村人代表たちも大喜びで、伏見稲荷にお参りしてから帰路に就いた。村に戻ると大塚のてっぺんに「正一位稲荷大明神」を祀り、以後豊作が続いた。 」
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民話
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/31 22:50 UTC 版)
「コールズ郡 (イリノイ州)」の記事における「民話」の解説
コールズ郡には幾つか良く知られた伝説や民話がある。マットンのマッド・ガッサーやペンバートン・ホールのメアリー・ホーキンスの幽霊の話などである。マイケル・クリーンはその著作『コールズ郡の物語』に、セントオマー墓地の「魔女の墓」や「縫いぐるみの墓地」などこれら伝承の多くを収めた。「縫いぐるみの墓地」は独立系映画『縫いぐるみ』の原作となり、2010年にマットゥーンとその周辺で撮影された。さらに、作家L・W・スティーブンソンの小説『取り憑かれた家族』は、1980年代にコールズ郡に住んでいた家族が経験したポルターガイストを題材にした。アシュモア邸宅は長く地元伝承の舞台になってきた。当初はコールズ郡プア農場の救貧院だったが、現在は超常現象を追い求める人々の興味を惹き付ける場所となっている。
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民話
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/09 05:40 UTC 版)
人はなんで生きるか (1881) 最初の民話。話が比較的長い(『イワンのばか』に次ぐ)が、人は愛によって生きるという結論は単純。 愛のあるところに神あり(英語版) (1885) 『靴屋のマルチン』の題でも知られる。原作はルーベン・サイアン(英語版)の『マルチンおじさん』。人を助ける行為に神がある。 火を粗末にすると - 消せなくなる(英語版) (1885) 2軒の家族の不和の経過を描く。憎しみからは何も生まれない。 二老人(英語版) (1885) 一人の老人は念願の聖地巡礼をした。もう一人は途中で飢え死にしかけた家族を見つけ、彼らのために旅費を使ってしまい、巡礼をあきらめた。 小娘は老人たちより賢い(英語版) (1885) 子供のいさかいが大人のけんかになった。先に仲直りしたのは子供だった。幼児のようになれ。 ろうそく (1886) 強欲な農場管理人を暗殺しようと農民らは考える。農民ピョートルはそれに反対する。 二人の兄弟と金貨(英語版) (1886) 金は世の中の害だ。世の中には金でなく、労働で貢献すべきだ。 悪魔の業は美しく神の業は固い(英語版) (1886) 悪魔につかれた奴隷が、主人を怒らせようとしたが、主人は怒らない。 イリヤス(英語版) (1886) 財産は少ないほうが幸福だと、使用人イリヤスが語る。 三人の隠者(英語版) (1886) 三人の隠者はお祈りを覚えられない。それでもりっぱな宗教者だ。 イワンのばかとそのふたりの兄弟 (1886) ばかのイワンが王様になった国では、肉体労働と自給自足を貴ぶ。金は無用。 悔い改むる罪人(英語版) (1886) 罪人が死後、ペテロとダビデとヨハネに願い、天国に入れてもらえた。 人にはどれほどの土地がいるか(英語版) (1886) 人間の限りない欲望を描き、人に必要なものは何かを論じる。 鶏の卵ほどの穀物(英語版) (1886) 昔は穀物が大きく人も健康だったと、自分で働かない現代人を批判する。 小さい悪魔がパンきれのつぐないをした話(英語版) (1886) 余剰の収穫がある時、それで酒を作る事を悪魔が教え、人を害する。 洗礼の子(英語版) (1886) その子は禁断の扉をあけて泥棒を殺した。その罪を償う冒険小説。 作男エメリヤンと空太鼓(英語版) (1886年作, 1891年スイスで発表) 無理を言う王様をこらしめる。教訓的な内容は少ない。
※この「民話」の解説は、「トルストイの民話」の解説の一部です。
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民話
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/14 15:06 UTC 版)
泉区の民話として、時代は不明だが、安藤の殿様が領内を通過していた巡礼者を「切り捨て御免」で試し切りしたという言い伝えが残されている。現在では巡礼坂という名称で残っている。
※この「民話」の解説は、「阿久和安藤家」の解説の一部です。
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民話
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/04 00:50 UTC 版)
「ラーガルフリョゥトルムリン」の記事における「民話」の解説
ヨウン・アウルトナソンが採集した民話「ラーガルフリョゥトの蛇」によると、それは元々は小さな「荒野(ヒース)の蛇」(アイスランド語: lyngormur)であった。しかしこれはカタツムリの一種(brekkusnigill)の別名と解説されており、正確にはコウラクロナメクジ(英語版)にあたる。 ある少女が、母親からもらった黄金の指輪をこのヒースの蛇(ナメクジ)の下に置き、バスケットの中で飼っていた。そうすれば黄金が増やせると教わったからである。だが、蛇はそのうち容器がはち切れんばかりに育ち、少女は怖くなって指輪と蛇を放棄し湖に投げ入れた。蛇は成長しつづけ、毒を吐き人々や動物を殺し、田園地帯の脅威となった。退治に呼ばれた2人のフィンランド人は、なんとか頭と尾を湖底に縛りつけて人的被害は出ぬようにしたが、より厄介な怪物がもう一匹下にいたために殺すことも黄金の回収も諦めざるをえなかった。その後も、このヒースの蛇が目撃されれば悪季節の到来や、牧草が育たない害の予兆だとされた。
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民話
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/01 14:46 UTC 版)
本館城を攻め落とした百姓一揆の主謀者の一人、畑谷の須原兵助は、後藤家一族の頭であった。佐竹藩が役人を差し向けると、畑谷の後藤家は匿まったが、結局捕えられた。兵助は集落民と鏡餅を食べて別れを惜しみ、唐丸かごに乗せられて秋田市の八橋地区で死刑となり晒首となった。 今一人の主謀者は竹生の永井あるいは岡部かと苗字ははっきりしないが通称“鬼”は勘解由左衛門といわれ、豪の者だった。畑谷の兵助が捕えられたと聞き、樫の棒をかかえて助けようと目倉鼻まで行ったが、方向がかわからず家に帰った。勘解由左衞門はもと奈良あるいは京都からの落人で竹生の菅原神社の御神体を持参して祀った人であった。 役人達は相撲大会を開催して堤の近くの土俵で勘解由が裸になったところをとりおさえた。兵助と同様死刑となり、晒首になったといわれる。竹生の勘解由左衛門の墓は竹生の墓地より近年にはいってから菅原神社に移して部落民に祀られている。
※この「民話」の解説は、「本館城 (出羽国)」の解説の一部です。
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民話
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/06 16:06 UTC 版)
町内の民話に「御堂坂のたぬき」「犬塚の芯無し椿」「蓮池」の3話がある。
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民話
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/15 04:54 UTC 版)
「千丈寺山の天狗」という民話があり、昔六甲山に大天狗が住んでおり、唐櫃や有馬の愛宕山、天狗岩、山口の丸山(西宮市山口町)、乙原(おちばら)の千丈寺山を休み場にしていた。ある日、乙原村の吾作という親孝行の若者が屋根葺きの手伝い中突然いなくなり、いくら捜しても見つからないので、死んだものと諦め、お寺で戒名をもらい供養していた。しかし、数十年後白髪白髭、顔中毛だらけの老人が吾作の家に現れ仏壇にお参りしていて家人に見つかった。そして急に千丈寺山の方へ姿を消した。村人達は「この千丈寺山に来る、あの天狗の弟子入りをして修行しているのでは」「それで我が家が恋しくなって帰ってきたのだろう」「そういえば、吾作の若い頃の面影が何処かにあった」などと話し、この白髪の老人のことを「吾作は天狗の力で仙人になったのでは」と噂されるようになったという。
※この「民話」の解説は、「千丈寺山」の解説の一部です。
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民話
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 09:53 UTC 版)
山梨県西八代郡の富士山麓の「おもいの魔物」や相州(神奈川県)の「山鬼」をはじめ、東北地方、中部地方、中国地方、九州地方など日本各地に、サルのような姿の怪物、または山男、天狗、タヌキなどが人間の心を読む妖怪の民話が伝承されており、これら一連が「サトリのワッパ」として分類されている。 多くの民話では、山中で人間の近くに現れ、相手の心を読み「お前は恐いと思ったな」などと次々に考えを言い当て、隙を見て取って食おうとするが、木片や焚き木などが偶然跳ねて覚にぶつかると、思わぬことが起きたことに驚き、逃げ去って行ったとされている。同様の伝承は南北朝時代の『荊楚歳時記』でも紹介されていて、こちらには漢代の『神異経』・『西荒経』に記載がある西方の山奥に住む人間の姿をした一本足の怪物山魈が登場する。この山魈は人の心は読まないものの遭遇すると高熱を発して死に至る妖怪であり春節の時期には人里に下りてくるとして非常に恐れられていたが、杣人が暖を取ろうと燃やしていた伐採した竹が爆ぜるのに驚いて逃げかえっていき、春節に爆竹を鳴らす由来となっている。古典でこうした話を綴った文献としては、妖怪をテーマとした江戸時代の狂歌本『狂歌百物語』に「来(く)べきぞと気取りて杣(そま)が火を焚けば さとりは早く当たりにぞ寄る」「人の知恵さとり難しと恐れけり ぽんと撥ね火の竹の不思議を」などの狂歌がある。 前述のように民話の類型としての名は「サトリのワッパ」だが、「ワッパ」は童子を指すことから、本来は人の心を読み取る童子の話の意味で「サトリのワッパ」として伝承されていたとの指摘がある。また、童子を山神の化身と見なし、「覚」は山神の化身である童子が零落して妖怪化した姿との解釈もある。
※この「民話」の解説は、「覚」の解説の一部です。
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民話
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/16 02:14 UTC 版)
藤琴村の水無の沢には水が無くて、下部の平地でも田を作ることができなかった。平衛之は水田開拓の為に水無地区に一人で大石や土を運び沼を造った。(一夜のうちに作り上げたとする伝説もあり、菅江真澄もこれを記録している)これが、現在の水無沼である。しかし、このために久保田藩の佐竹の殿様の御直山であった杉の巨木が何百本も水に沈み、枯れてしまう。平衛之は役人に引き立てられ、久保田城まで連れて行かれる。村民は平衛之がはりつけになるものだと思っていたが、平衛之は殿様に堂々と「沼を造ったことで広い田を開墾することができた。殿様の杉の木が枯れても、村人や殿様の儲けが大きくなるから、只一人で沼を造ったのです」と弁明した。平衛之はこの堂々とした弁明で、その行為を許された。村人は平衛之の偉さと、殿様の心の広さをたたえたと言われている。 平衛之が金沢で働き、その後酔って帰宅する時、平衛之の娘が迎えに来た。娘の背に平衛之が乗ると、娘の手は丸くて毛が生えていた。平衛之は娘が実は化け物であるとして、背から降り道ばたの大石にぶつけて殺してしまった。家に帰ると娘がいたが、大石の近くに戻ると同じ娘がいる。どちらの娘が本物か迷っているうちに朝になり、朝日がさすと殺された娘は古タヌキの正体を現した。 当時の農家は朝早くから起きて、ワラを打ち縄を作った。ところが、平衛之の家だけは朝からワラ打ちの音がしなかった。これを疑問に思った近所の人が平衛之に「オレは1丸(70mの12倍)作ったが、お前はいくら作った?」と聞くと、平衛之は「7丸は作った」と答えた。平衛之の家に行き確かめると、7丸の以上の縄があった。平衛之は力が強いので、ワラを打たないで縄を作ることができるという。人々は皆、神業の鬼平之とばかりおどろいたという。 平衛之が10歳くらいのときに、若い女の人から子どものお守りを頼まれた。若い女は直ぐ来ると言ったが、なかなか帰って来ない。平衛之は「絶対に下に置かないぞ」と汗を流しながら我慢していた。夜明けになると平衛之は、力が何倍にもなったという。 平衛之は力が強く、十人前の仕事ができた。あるいは、子どもの頃に山で育ったから、サルでも熊でも皆、平衛之の仲間で仕事を手伝ってくれるとされた。恐ろしい山人を仲間にして、仕事を手伝わせていたという話もある。 平衛之がある夜、山に薪取りに出かけ、仕事の合間に飯を食べていると鬼が現れた。鬼は平衛之に食事をねだると平衛之はそれに応えて魚を与えた。それが7日ばかり続いた時、平衛之は鬼に事情を聞いた。鬼はこの山のかげにあるもう一つの大きな山に棲んでいるが、赤倉山から来る山猫に負けて住みかを荒らされていると言い、平衛之に助けを求めた。平衛之は自分でもどうしようもないと思ったが、常磐沢の奥の、大柄の与作またぎを思い出した。与作またぎはうでのたつマタギで、またぎの頭領と言われる万治万三郎から授かった秘伝の巻物を持っているという。平衛之は与作を訪ね、事情を説明すると与作は快諾した。与作は水垢離をして巻物を持ち、呪文を唱え平衛之と共に山に入った。山では鬼が出て来て道案内をする。そのうち山猫が現れ、鋭い爪で与作の肩をつかみ木の上に引き上げようとした。鬼も平衛之もどうしようもなく見ていると、ごう然と銃声が響き、与作が地上に降りてきたと見る間に、すさまじい叫び声と共に黒い塊が落ちてきた。山猫は皮に松ヤニを塗りつけ、さらに砂の上を転がりまた松ヤニを塗りつけていて、その皮は刀も通さなかった。(その後与作は、間違って家に巻物を忘れて、巻物を処分され、連れの犬と共に露熊山峡の岩(マタギ岩)になったとする民話もある) 水無集落を少し下った所に横倉集落があった。横倉の斎藤半之蒸も鬼半蒸と言われ、鬼平之に負けないくらいの力持ちであったとされる。あるとき、2人は物見山(853m)から太良鉱山までソリで薪を運ぶ競争をした。普通の人は、高さ150cm横150cmの1釜の薪を1往復運ぶのがやっとのところを、2人とも2釜の薪を3往復したという。その日一日では2人とも合計40釜を運び引き分けであった。2人とも呪文を書いた巻物を懐に入れていたと言われている。 斎藤半四郎の息子が半之蒸である。半之蒸は子どもの頃から力が強く鬼平之と比べられていた。半之蒸は将来を嘱望されて、相撲取りになったが、福島の半田という所で巡業中に打ち所が悪く命を落とした。半田には半之蒸の墓があると伝えられている。 ある時、平衛之は一通滝(不動の滝)から木材を流す仕事に従事していた。一通滝の下部で木材を流していたが、木材がたまりすぎ、水の流れで木材が起き上がり平衛之の方に倒れ込んできた。さすがの平衛之もこれに打たれて命を取られてしまう。500mほど下流の台地になっている所で平衛之の死体は火葬にされたが、大男なので、骨が当時の一俵もあった。この火葬にされた台地を平之岱と呼んだ。現在でも遊歩道がありこの場所を訪れることができる。
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民話
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この石碑は、地元では「松石殿」や「松石殿の碑」と言われ、墓参りの時には必ずこの石碑の前で手を合わせ、供養をおこたらなかった。また次のような民話が語り継がれている。 江戸時代の中頃、川井と八幡岱集落の田に水路を作ることになった。川井集落の源太と栄三の兄弟は人夫として、働きに出ていた。川井と八幡岱のまん中にある、目薬井戸と言われる泉の付近を工事中の時、源太はトガ(唐鍬・クワの一種)を力一杯振り回した拍子に尻餅をついてしまった。その夜、源太と栄三はふしぎな夢を見た。「私は松石だが、土に埋もれて明かりを見る事ができない。私をここから出してくれ。お礼に稲穂を実らせてあげよう」同じ夢を見た2人は翌朝、親方にこの話をして、土を掘ることにした。しばらくすると、トガが石に当たってはね返る。しかし、大勢で持ち上げてもビクリともしない。親方は石のまわりを掘るように命じ、ほどなくして「松石殿」という文字が現れた。その瞬間、動かなかった石がひとりですっくりと起き上がった。それから、松石殿を供養するために、石碑を川井の共同墓地まで運び、そこに安置した。それから数日後、田の稲が黄金色に輝いていたという。
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民話
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木の根橋はその独特の形状から、「子供の危機を救うために根が伸びた」という民話がある。
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民話
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/25 07:57 UTC 版)
昔、釈迦内村に住む男が長木村の羽保屋山へ、マダの木の皮を剥ぎに出かけた。仕事は順調に進み、家に帰る帰路、道ばたに大きな鏡餅が3つ落ちていた。男はそれを拾い、息子の太郎に食べさせようと足を速めた。ところが、男は急に激しい空腹を覚え、我慢しきれなくなって、餅の1つにかじりついた。激しい空腹のため、思わず3つの餅を食べてしまうと、男の体はぐんぐん大きくなる。家に帰り着いたが、男は家の中にも入れない。父の帰りを待っていた太郎が驚いて外に飛び出すと父は山のような大男に変わり、泣いている。 事情を説明し「オレはもう山へ行って暮らすから、お前は立派な人になってくれ」と泣きながら山の方に歩いて行った。この話は村中に広がり、村人たちは気味悪がって太郎の家に近づかなかった。幼い太郎は暗い家の中で毎日父の名を叫びながら泣き続けた。 それからまもなく、長木村のあちこちで、毎晩農作物が荒らされ、そこには大きな足跡がいくつも残っていた。「このままでは農作物が全滅してしまう」ということで、村人は何日も相談した結果、羽保屋山に祠を建てて、大男の悲しみを慰めることにした。これが、今の羽保屋大神である。それからは、農作物が荒らされることもなく、太郎も村人からの援助で立派な成人になったという。
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民話
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/25 06:47 UTC 版)
仙北郡の東に馬蛭(まひる)山という山がある。峻険で岩石が屏風のようになっているところが多く、草木が屈曲して生えていて、上の方はオッコと言われる木が畳を敷いたように生えている。この山の北の方に数ヶ所の沢がある。総称は大又という。真昼岳の正面の沢をカトノ沢といい、これらの沢から流れ出る川を馬蛭川という。 1832年(天保3年)6月中旬に横堀村甚之丞という者が、若者数人と三人連れで大又沢にミヅ(ウワバミソウ)を採りに出かけた。若者は左の沢へ、甚之丞は右の沢に入り、帰りは沢の入り口で待ち合うことにした。ところが、甚之丞は若者が待っていても帰らなかったので、日が暮れて来たのでその日は一旦帰り、翌日大勢でその沢を捜索した。しかし、甚之丞の行方は分からなくまた足跡も無かった。不思議に思いながら、なお奥深くに分け入ると、岩石が高くそびえ、その上に登る方法が無いような場所に着いた。これより奥は行くことが出来ないと、他を終日廻ったものの何ら証拠がなくすごすごと帰った。ところが、沢の入り口の手前に石切小屋があって、この小屋の中で甚之丞がミヅを背負って休んでいた。皆は驚いて昨日からの事情を聞いた。甚之丞が言うところには、昨日はミヅを探したが一本も無く、次第に奥に行くと、岩が高くなって登ることができない。しばらく立っていると、どこの国か分からないが、女性の武人が来て私について来なさいと言う。彼が岩を登ることが出来ないと言うと、女は私に背負われなさいと言う。言葉に従うと、女は何の苦も無くすらすらと登って行く。上には結構な家があった。 内には山の神を始め、色々な神々、鬼のようなものが数多くいた。よくきたと食事になった。甚之丞は晩になって腹もすいたので、食おうと思い持参の焼き飯を出したところ、鬼たちは焼き飯はやめてまずこれを食えと餅を何個か出した。餅を見ると搗きたてもあったが、古い餅もある。これを食べて今宵は泊まって、皆が休んでいる明日の朝早く起きて帰ろうとしたが、鬼たちは甚之丞にまた餅を食べさせ、そなたには娘が居るかと問う。甚之丞が良く踊る娘が一人いると答えると、鬼は7月17日に娘が踊りに出たら鬼がさらうと言う。また、27日に餅をつきなるべき高い所におくべしと言う。次の日、女が甚之丞を背負い、また元の沢に飛ぶか走るかして移動した。昨日と違い沢にはミヅがたくさんあり、女とも手伝ってもらい送られて今来た所だという。女は皆と会っているが、他の人には見えない。家に帰った甚之丞は心あらずの状態であったが、薬を飲んで今は全快している。甚之丞の家では7月27日には餅をついて高い所に置いたが、何の変わりも無かったという。また、持参の焼き飯はそのまま持ち帰ったという。 馬蛭山より北に太田山(旧千畑スキー場があった黒沢大台山)という山がある。同じ年の7月18日に横沢村の者が、ミヅ取りに太田山に行ったが、相当取った後で、沢で根を洗っていたところ、ヒイヒイという音が聞こえて、気味が悪く思っていたところ、どこからか早く帰れと山に響く大音が聞こえた。彼は逃げて家に帰ったという、横沢村七之丞の噂がある。 真昼山のうち、人が登ることを禁じている沢がある。菅江真澄の『月の出羽路』にも記載がある。20年ほど前、太田町国見村の新助という人が、キノコ狩りに行っきある沢で大きなマイタケを見つけた。一つの株を全部持っていけない大きさだから、半分を取って一息とって上を見ると、大蛇がキノコが生えている木に体を、隣りの木には頭をかけていた。大変恐れおののいて逃げ帰ったが、それから3年程で果てたと国見村の者が語った。 また菅江真澄の『月の出羽路』では、真昼岳に怪しいものが住んでいて、元本堂村の男が、太い鳥足の赤い大人を見てから廃人のようになってしまったという伝説も記録している。さらに、1828年(文政11年)6月3日、万太が仲間2人と大股沢にミズ採りに行った。採り終わり、仲間の姿をした男2人が来たので帰ろうと笠を被ったところ、笠を鷲づかみにされた。仲間がようやく探し出したが、そこは真昼岳の頂近くで、大股沢からは2里も離れていた。菅笠を見ると4つの爪痕があり、山人か天狗かが戯れに投げ飛ばしたのであろうという記録もある。さらに菅笠に開いたツメの跡を真澄は絵にしている。
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民話
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/12 10:13 UTC 版)
かつて王子周辺が一面の田園地帯であった頃、路傍に一本の大きな榎の木があった。毎年大晦日の夜になると関八州(関東全域)の狐たちがこの木の下に集まり、正装を整えると、官位を求めて王子稲荷へ参殿したという。その際に見られる狐火の行列は壮観で、近在の農民はその数を数えて翌年の豊凶を占ったと伝えられている。 この榎の木は「装束榎」(しょうぞくえのき)と呼ばれ、よく知られるところとなり、歌川広重『名所江戸百景』の題材にもなった。
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民話
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/08 08:52 UTC 版)
当町内の鹿島神社に、源義経が兄頼朝に鎌倉を追われ、奥州へ下る際に匿ってもらったお礼として、青葉の笛を奉納したという伝説がある。
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民話
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/08 22:24 UTC 版)
詳細は「日本の民話」を参照 他の先進国と同様に、口頭伝承の生きた語り手を見つけることは非常に困難になっている。しかし、時代を超えて収集された民話は多く存在していく。こうした伝承が一般的な民話としてむかしばなし(「昔」または「過ぎ去った時代」の物語)という名称付けられているのは、これらは通常「むかしむかし...」という出だしで始まるためである (「昔々」はある時...に類似 )。似たものに「どっとはらい」(変異形にはどんど晴れなど)など、いくつかのセットフレーズがある。 これらの物語は地元の方言で語られており、イントネーションと発音、語彙の違いで、部外者には理解するのが難しかったかもしれない。フィールドから収集された多くの民話は、実際には標準的な日本語への「翻訳」(または、いくつかの収集されたバージョンをマージする適応のような作業)となっている。
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民話
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/04 15:11 UTC 版)
昔、北秋田郡早口村田代岳の付近の村に九州か四国から親子で旅に出たが、途中で親に死なれた13歳ばかりの孤児が来た。この少年はコウレン売りとぶつかり売物のコウレンをめちゃめちゃにしてしまった。弁償したくてもその少年にはお金が無かったため、村人達が集まり金を出して弁償してやることにした。すると少年は「割れた分だけの代金を払ってほしい」と申し出た。これを聞いていた村人の一人が、なかなか見どころがある小僧だと思い自分の家に連れて帰った。ある日のこと、この少年が囲炉裏火にあたりながら灰を掻き回していると金を発見する。少年は囲炉裏に焚く柴に金粉がついてくるのだと思い、柴山に行ってみると、金山であった。これが長慶鉱山の発見の経緯で、この少年が伊多波武助であった。
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民話(昔ばなし)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/11 20:15 UTC 版)
「長興寺 (豊田市)」の記事における「民話(昔ばなし)」の解説
長興寺には、鐘泥棒の昔ばなし「長興寺の鐘」のがある。 泥棒に盗まれた鐘が「長興寺恋しやポンワンワン、返しておくれんポンワンワン」と鳴ったと云う民話が語り継がれている。 詳しくは、外部リンクを参照。
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民話
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/11 19:55 UTC 版)
雀宮神社には次のような民話が伝わる。 「 昔々、食っては寝てを繰り返すばかりで、仕事もせず怠けている男がいた。ある日、村人は男を少し懲らしめてやろうと、針の入った饅頭を男に与えた。男が饅頭を食べると、針でお腹が痛くなった。しばらく苦しんでいると、雀がニラをついばんでいるのを見つけた。珍しがって見ていると、雀の糞から縫い針が出てきた。男は雀を真似てニラをたくさん食べると、お腹から針を出すことに成功した。これ以来、男は改心して働き始め、雀に感謝してお宮を建てた。これが雀宮の由来なのだと。 」 上記とは少し異なる、次のような民話もある。 「 昔々、ある男が浮気した妻と間男の策略で、針の入った餅を食わされた。しばらく苦しんでいると、同じように苦しんでいる雀を見つけた。するともう1羽雀がやってきて、ニラを食べさせると、雀の尻から針が出てきた。男は雀を真似てニラを食べると、お腹から針を出すことに成功した。そして、男は雀に感謝して雀大明神を祀った。これが雀宮の由来なのだと。 」
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民話
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坊沢の徳という人は強く、誰も勝った者がいなかった。きつい人のことを「坊沢(ぼんじゃ)の徳」みたいだと言った。 坊沢の徳が米を馬に2俵つけて、自分でも4俵背負って下駄で道を歩いていた。そこへ殿様がやってきた。そこで、徳は4俵を背負ったまま、馬に2俵つけたのを持ち上げて、堰の外にまたいだ。殿様は「徳、そんなに寄らなくてよいよ」と言った。 徳に「貝焼き(かやぎ、鍋物)食ってけれ」と言うと、徳は鍋ごとバリバリと食べた。そこで歯が丈夫な人を「坊沢の徳」みたいだと言った。
※この「民話」の解説は、「白川志賀右衛門」の解説の一部です。
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民話
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地元の横川地区には、次のような民話が残っている。 2匹の兄弟竜が喧嘩をしたことによって横川川が氾濫し、下流の集落が鉄砲水に襲われるところを、母子2匹の蛇が自分の身を犠牲にして救った。そのことを熊野権現が感心し、後世までもその功績を称えるために蛇石に変身させた。なお、2匹の竜は2度と喧嘩ができないように、上流にある大滝に閉じ込められたという。
※この「民話」の解説は、「横川の蛇石」の解説の一部です。
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民話
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/14 09:34 UTC 版)
鬼退治 長野県の習焼神社に伝わる伝承では、諏訪大社の祭神建御名方神と八坂刀売神の子須波若彦命が一族を引き連れて見付の鬼退治(開拓)したとされ、現在は須波若御子神社(淡海國玉神社に合祀)に祀られているという。 悉平太郎 「矢奈比売神社#霊犬悉平太郎伝説」および「光前寺#早太郎説話」も参照 見付天神社の裸祭りの由来には、「猿神退治」の類型で知られる人身御供伝承がある。見付天神社では、毎年祭りの時期になると白羽の矢が飛び娘を生贄に差し出していたが、室町時代の延慶年間に旅の僧侶が信濃国赤穂村(長野県駒ヶ根市)の光前寺から悉平太郎(しっぺいたろう)と呼ばれる霊犬を連れ怪物を退治し、裸祭りは怪物退治を歓喜した起こったのが始まりであるという。 悉平太郎は猿神退治伝承のなかで東日本で類例が多く、駒ヶ根では早太郎(はやたろう)の名で呼ばれる。光前寺は天台宗寺院であるため修験系の民間宗教社を通じて両社の間で説話の流布が行われたと考えられているが、光前寺の古記録では霊犬が怪物退治を行ったとする説話は見られるが人身供養については初見資料が近世に至るまで見られず、御霊信仰を基盤に説話化されて成立したものであると考えられている。 磐田市のキャラクター「しっぺい」は、この民話が元となっている。
※この「民話」の解説は、「磐田市」の解説の一部です。
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民話
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/08 02:16 UTC 版)
江の島の伝説にある鎌倉の湖に棲む五頭竜は、悪事を行っていたが心を入れ替えて民の守護者となる。「黒姫伝説」の黒竜は、大名の姫君に恋慕するも阻まれて逆上し、嵐を呼んで人里をのみ込もうとする。「三湖伝説」の八郎太郎は、害をなした竜でありながら調伏されない。「泉小太郎伝説」の犀竜は人間の味方となる。「印旛沼の竜伝承」では、竜は人間を守ったがゆえに竜王に罰せられて殺される。上記の三湖伝説での辰子姫のように、人間が竜になる説話もある。 蛇や鯉など鱗を持つ生き物が竜になるという伝承の他、キツネや馬等が変化するという昔話等も存在する。
※この「民話」の解説は、「日本の竜」の解説の一部です。
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民話
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弓矢の発明 ある時、黄帝は石のナイフを持って狩猟に出かけた。そしたら突然、虎が下草から飛び出してきて、黄帝は桑の木に駆け上がった。虎は気長な動物であるから、木の下に座り込み、次にどうするか様子を見た。黄帝は桑の木がしなやかな事に気が付き、石のナイフで桑の枝を切り弓を作った。葡萄の蔦が木の上まで伸びていたので、石のナイフで切り弦を作った。次にまっすぐに伸びた竹を見つけ、竹を切り矢を作った。弓矢を使って、虎の目を射ぬき、虎は逃げ去り黄帝は脱出した。
※この「民話」の解説は、「黄帝」の解説の一部です。
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民話
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/14 09:01 UTC 版)
岩美町 牛ヶ峰山には宿坊があって多くの仏僧がいたが、大蛇がこれを襲って一人残らず食べてしまった。無人になった寺は荒れたが、麓の村民は大蛇を恐れて寺には近づかなかった。あるとき旅の僧が村にさしかかり、山越えの道を尋ねた。村人は山越えは大蛇がいて危険だと諭したが、僧侶は寺へ向かった。しばらくすると僧侶が山を降りてきて、何かを携えて山頂へ向かった。村人が山裾から見守っていると、山頂に僧侶の姿がみえ、読経が聞こえてきた。いずれ大蛇に襲われて読経が聞こえなくなるだろうと村人が眺めていると、落雷とともに大蛇が現れ、僧侶を丸呑みにした。ところが読経は止まなかった。実は山上の僧侶の姿はモグサを編んだ人形で、中に種火が仕込まれていたのだった。腹の中でモグサが発火すると大蛇は苦しみ、牛ヶ峰の絶壁から落下して死んだ。 新温泉町 牛ヶ峯山の山頂の寺では、山麓の村の泉へ水を汲みに行く必要があった。ところがその泉に大蛇が棲みつき、水を汲みに行った小坊主が次々と食われてしまい、大蛇を退治することになった。種火をいれたモグサで作った人形を置き、首尾よく大蛇が人形を飲み込んだところまではよかったが、苦しむ大蛇はのたうちまわり、それによって大規模な山崩れが起きた。これによって川がせき止められて湖ができ、村は水没した。湖上に小さな島があり、人々はそこへ避難して済むようになり、これが「海上村」と呼ばれるようになった。何年もそのままだったが、あるとき天然ダムが崩壊して鉄砲水となり村を押し流した。しかしこれを予言したものがいて、村民は予め避難して無事だった。
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民話
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/26 04:28 UTC 版)
「メロウ」の呼称が用いられる2編の人魚譚は、いずれも『(イエイツ編)ケルト妖精物語』(井村君江訳)に所収されるが、初出はトマス・クロフトン・クローカーによる民話集『南アイルランドの妖精物語と伝説』(第2巻、1828年)である。このうち「魂の籠」は採集民話ではなく創作だったことが判明している クローカーによるメロウの注釈は、その後の民俗学的なメロウ論の礎石となった。同書はグリム兄弟によりドイツ訳されることで注視された。そののちトマス・カイトリー、ジョン・オハンロン(英語版)牧師、イェイツなどがメロウを含む「妖精」の解説書を出しているが、その内容の多くはクローカーより流用されている。これら19世紀の作家群によるメロウ論を集約すると、概ね次の通りとなる。
※この「民話」の解説は、「メロウ (人魚)」の解説の一部です。
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民話
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2014/11/07 23:22 UTC 版)
佐那河内村の民話によれば昔、牛打ち坊に牛を次々に殺されて困り果てる村人たちのもとへ旅の僧が訪れ、牛打ち坊を懲らしめると申し出、その後のある晩に村に現れた牛打ち坊を強い剣幕で脅し、二度と村に現れないようにと言って追い払ったため、他の地で牛打ち坊の怪異が続く中、佐那河内村だけは牛打ち坊に襲われることがなかったという。この民話では牛打ち坊の姿は「変な格好の怪物」とのみ述べられており、また僧に対して「わしは牛打ち坊じゃ」などと会話を交わしたという。また、このとき牛打ち坊は「二度と佐那河内に来ない」と証文を書き、大宮八幡神社の僧が神社の裏の大宮山にその証文を埋めたため、その山は「状が丸(じょうがまる)」、後に「上が丸(じょうがまる)」と呼ばれたという。
※この「民話」の解説は、「牛打ち坊」の解説の一部です。
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民話
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/26 18:10 UTC 版)
原則、邦訳がある作品のみに絞った。ノルウェー文語(ブークモール)題名を併記するが、これは近年に出版されている題名であり、原著題名ではない。原著はデンマーク・ノルウェー語(英語版)であり概して綴りは異なる。また、近代版では題名の短縮など改変がみられる。
※この「民話」の解説は、「ノルウェー民話集」の解説の一部です。
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「民話」の例文・使い方・用例・文例
- 彼は日本の民話を教科書用に纏めた。
- 私の次の作品は東北の農村での豊富な取材に基づいた民話集になるでしょう.
- 原地性の岩と人々と民話
- チャドの民話
- フィジーの民話
- 文学や民話をベースにしたオーケストラ作品
- 10世紀から始まっているアラビア語の民話のコレクション
- 民話で人々を若返らせるとされた泉
- 民話や神話で有名な怪物
- アイルランド民話に登場する、いたずら好きな妖精
- アメリカ民話の英雄
- ドイツ民話とロバートブラウニングの詩に登場する主人公
- 民話の作家
- 同時に,彼らは地方の民話を集めている。
民話と同じ種類の言葉
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