いとう‐げんぼく【伊東玄朴】
伊東玄朴
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伊東 玄朴(いとう げんぼく、寛政12年12月28日(1801年2月11日) - 明治4年1月2日(1871年2月20日))は、江戸時代末期(幕末)から明治にかけての蘭方医。江戸幕府奥医師まで登りつめた。名は淵。近代医学の祖で、官医界における蘭方の地位を確立した。
注釈
出典
- ^ a b c 『前科者は、ナゼ、又、行るか。』(原胤昭, 1933) p28-31
- ^ 青木歳幸「佐賀藩蘭学再考 : 医学史の視点から」『研究論文集-教育系・文系の九州地区国立大学間連携論文集-』第1巻第1号、九州地区国立大学間の連携に係る企画委員会リポジトリ部会、2008年3月、9頁、ISSN 1882-8728、NAID 120006993353。
- ^ 田尻佐 編『贈位諸賢伝 増補版 上』(近藤出版社、1975年)特旨贈位年表 p.35
- ^ 偉人を学び、地域を知る 上溝に生誕 侍医「伊東方成」 タウンニュース、2017年4月13日号
- ^ a b 伊東方成 谷中・桜木・上野公園路地裏徹底ツアー
- ^ 伊東玄朴顕彰室 神埼デジタルミュージアム「かんざき@NAVI」
- ^ 鈴木愛之助『人事興信録』第4版 [大正4(1915)年1月]
伊東玄朴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/15 01:47 UTC 版)
佐賀藩出身の蘭方医。漢方中心の江戸城で初の蘭方の奥医師となり、漢方医の多紀楽真院一派との間に軋轢を起こす。
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伊東玄朴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/13 22:30 UTC 版)
蘭方医。名誉欲が強く吝嗇。種痘所創設を井伊に直訴し許可を勝ち取り、後に奥医師、法印となる。
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伊東玄朴(いとう げんぼく)
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「JIN-仁-」の記事における「伊東玄朴(いとう げんぼく)」の解説
西洋医学所取締役。緒方同様、仁の医療技術を認めていたが、失脚する(作中では特に触れていないが、養子とした医師の経歴を捏造する問題を起こしたことが原因)。伊東失脚後の医学所内部抗争が仁を医学所から遠ざけることになる。
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