ランゴバルド王国
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ランゴバルド王国(ランゴバルドおうこく、ラテン語: Regnum Langobardorum、イタリア語: Regno longobardo、ドイツ語: Langbardland、英語: Kingdom of the Lombards)は、中世イタリアに568年あるいは569年に建国されたゲルマン系のランゴバルド族による王国である。イタリア語からの音訳でロンゴバルド王国ともいう。首都はパヴィアに置かれ、774年にカール大帝によって実質的に滅ぼされた。
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- 1 ランゴバルド王国とは
- 2 ランゴバルド王国の概要
- 3 歴史
- 4 国王
- 5 ロンバルディアの鉄王冠
ランゴバルド王国
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詳細は「ランゴバルド王国」を参照 イタリアに侵入したランゴバルド人とその連合諸部族の総数は約300,000人、その内、武装した兵力は40,000人から50,000人であったと推定されている。諸部族の寄せ集めであったランゴバルド王国は、建国直後から内紛にさらされ、572年には恐らく東ローマ帝国と共謀した族内有力者によってアルボインが暗殺された。跡を継いだクレフ(クレーフィ)の時代も内紛は絶えず、573年には同行してきたザクセン人たちが「かれら自身の法の下に留まること」を許可されなかったため、ランゴバルド軍から離脱して故地のシュヴァーベンへと去っていった。574年にはクレフも暗殺され、その後10年に渡る空位の間に族内有力者たちが、それぞれ独立した領地を実力で確保していった。東ローマ軍の反撃が始まると、各地のランゴバルド系支配者たちはひとまずアウタリを王に選出し、パヴィアを首都とする王国の体裁を整えた。しかし、南部のベネヴェント公やスポレート公の独立性は強く、北部でも首都から離れたフリウーリ公やトレント公は同様であった。このため、ランゴバルド王国は「一つの国家であるよりも寧ろ諸国家のモザイクであった(リシェ)」と評される。こうして高度に分権的な王国としてのランゴバルド王国の性格が形作られた。 ランゴバルド王国はイタリア半島の北部および中部の大部分を支配する王国としてその後2世紀にわたり存続した。773年にフランク王国のカール1世(大帝)によって征服された後、カール1世がフランク王と兼ねてランゴバルド王に即位し、「フランク人とランゴバルド人の王」となった。彼は781年には、息子のピピンをイタリア王国の王とした。このイタリア王国はランゴバルド王国とスポレート公領から成り、ベネヴェント公領は独立した公国となった。
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ランゴバルド王国
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6世紀、ランゴバルド人がイタリアに侵入する。これはこの町にとって大きな出来事であった。ランゴバルド王国の統治下、アウタリ王 (Authari) の王妃テオデリンダ (Theodelinda) は、ランブロ川のほとりに小さな教会の建設を行っている。この教会の場所は、現在モンツァ大聖堂 (Duomo of Monza) の一部となっている。 伝承によれば、王妃の夢枕に鳩が現れてランブロ川のほとりを示し、「ここ」(ラテン語: modo)に教会を建てるように告げ、王妃は「はい」(etiam)と答えた。中世この地が Modoetia と呼ばれるのはそれに由来するのだという。
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ランゴバルド王国
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568年、イタリアに侵入したランゴバルド人のために、東ローマ帝国のイタリア半島支配は長く続かなかった。ランゴバルド人たちを率いるアルボイン(アルボイーノ)王は、のちにランゴバルド人最初のイタリア王となった。アルボインは多くの領土を手に入れたが、569年、その成功は要塞化された都市パヴィーアによって妨げられた。その百年以上後に書かれたパウルス・ディアコヌスの『ランゴバルド史』 (History of the Lombards) は、この時代の状況を伝える貴重な史料のひとつである。「このときティキヌム(パヴィーア)の街は勇敢に抗戦し、ランゴバルドの軍勢が西側から迫る中で3年に及ぶ攻囲に耐えた。アルボインはトスカーナでも兵士を追い出し財産を手を収めたが、ローマやラヴェンナ、そして海岸沿いにある要塞化した場所のいくつかは例外であった」。ティキヌム攻略戦 (Siege of Pavia (569–72)) は、572年にランゴバルドがパヴィーアを陥落させて終了した。その戦略的な立地と東ゴートが残した宮殿群の存在によって、パヴィーアには620年代までにはランゴバルド王国の主要な首都が置かれるようになり、あるいはランゴバルド人の支配者たちの居所となった。クレーフィ王(在位: 572年 - 574年)死後の「公たちの時代」 (Rule of the Dukes) (574年 - 584年)と呼ばれる諸侯割拠の時代には、フリウリ公ザバン (Zaban) がパヴィーアを治めた。 ランゴバルド人の統治下、パヴィーアには多くの修道院、尼僧院、教会が、敬虔なランゴバルド人支配者たちによって建設された。初期のランゴバルド王たちはアリウス派のキリスト教徒であったが、パウルス・ディアコヌスなどの同時代の史料ではアリウス派支配者もカトリック教会の信仰に寛容であったと記されており、690年頃までカトリックとアリウス派が共存していた。ランゴバルドの王族や貴族たちは、彼らの信仰心とともに豊かさを示すものとして、修道院、尼僧院、教会を建てた。多くの施設は装飾され、また多くの場合教会内に個人の墓が作られた。たとえば、パヴィーアのサンブロージオ教会を建設したGrimoaldは、その教会内に埋葬されている。ベルタリード王 (Perctarit) (在位: 661年 - 662年、672年 - 688年)およびその子のクニペルト王 (Cunipert) (在位: 679年 - 700年)は、その治世においてパヴィーアに尼僧院と教会を建てた。ランゴバルドの教会はしばしばその設立にかかわった人物の名がつけられた。たとえば、サン・マリア・テオドラ聖堂などである。パヴィーアにあるSan Michele alla Pusterla修道院は、ランゴバルド王の王立修道院であった。 ランゴバルド王がパヴィーアに建設した教会で最も著名なもののひとつが、サン・ピエトロ・イン・チェル・ドーロ教会 (San Pietro in Ciel d'Oro) である。この教会はリウトプランド王 (Liutprand) (在位: 712年 - 744年)によって建築が命じられ、リウトプランド王の墓所となり、また2人の著名なキリスト教徒の墓が移された。サン・ピエトロ・イン・チェル・ドーロ教会の建築においては、リウトプランド王の足の長さが単位として用いられた。サン・ピエトロ・イン・チェル・ドーロ教会に移葬された最初のキリスト教徒著名人はボエティウスで、聖堂のクリプトに埋葬されている。もう一人の著名人で、教会内に最も大きな墓が作られているのが、聖アウグスティヌスのものである。アウグスティヌスは5世紀前半に活動した北アフリカ出身の著述家で、キリスト教の聖書解釈に大きな影響を及ぼし、教父とみなされるひとりである。アウグスティヌスの墓は1695年10月1日、サン・ピエトロ・イン・チェル・ドーロ教会の床の敷石の一部を取り替える作業を行っていた職人たちによって再発見された。リウトプランド王は敬虔なキリスト教徒であり、他のランゴバルドの王たちと同様、聖人たちの聖遺物の収集に情熱を傾けていた。もともとアウグスティヌスはサルデーニャ島のカリャリに埋葬されていたが、イスラム教徒(サラセン人)の手に届かない安全な場所に移すため、リウトプランド王は多大な労力を払ってパヴィーアまで移送したのである。743年に奉献された、リウトプランド王が築いたサン・ピエトロ・イン・チェル・ドーロ教会が、当時のままの姿をとどめるのはごく一部である。後陣の屋根にはもともとモザイクで装飾されていたが、これはランゴバルドの教会をモザイクが装飾した最初の例である。今日では近代的な教会となっており、創建当時の姿を見ることが出来るのは後陣周辺のみである。ランゴバルド人たちは典型的なロマネスク様式で教会を築いたが、パヴィーアにおいて当時の姿をもっともよく残しているのは、サン・ミケーレのバシリカ (San Michele Maggiore, Pavia) である。 ランゴバルド王国の首都であるパヴィーアは、7世紀後半にはかれら独自の貨幣を発行する中心地であった。貨幣にはランゴバルドの王の肖像が、その権力と富を象徴するように刻まれた。 都市パヴィーアは、ランゴバルド王国と、フランク王国のカール1世(カール大帝、シャルルマーニュ)の戦いで重要な役割を果たした。773年、シャルルマーニュはランゴバルドに宣戦を布告、アルプスを越えて北部イタリアに侵攻して、ランゴバルドのデシデリウス王 (Desiderius) (在位: 757年 - 774年)を打ち破った。773年秋から774年6月にかけ、シャルルマーニュはパヴィーア、ついでヴェローナを攻囲、ランゴバルドの権力中枢を下すと、ロンバルド王国北部の城塞都市の抵抗を速やかに鎮定した。パヴィーアは620年代からランゴバルド人たちの公式な首都であったが、イタリアにおけるランゴバルド王国終焉の地ともなったのである。勝利とともにパヴィーアに入城したシャルルマーニュは、かつてのパヴィーア王国の領域の王として自ら戴冠した。ランゴバルド王国とその北部領域は、以後フランク帝国を構成する領邦となった。一方、ランゴバルド王国の南部領域にあったベネヴェント公国は、比較的独立した自治領域であったために、その後数世紀存続した。 フランク王国が分裂を経て中世イタリア王国となり、神聖ローマ帝国の一部とみなされるようになったあとも、パヴィーアはイタリア王の国家の首都として認識された。神聖ローマ帝国の宗主権が失われる12世紀まで、パヴィーアではロンバルディアの鉄王冠によって「イタリア王」の戴冠式が行われていた。
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ランゴバルド王国
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「中世ヨーロッパにおける教会と国家」の記事における「ランゴバルド王国」の解説
詳細は「ランゴバルド人」および「ランゴバルド王国」を参照 ユスティニアヌス帝による再征服活動によって、イタリア半島は再びローマ皇帝の支配に服すこととなったが、その統一は長く続かなかった。ランゴバルド族が侵入し、彼らがイタリア半島に王国を築いたからである。彼らの文化水準は低く、したがってその支配による影響は文化的には大したことはなかったが、政治的には以後長く続くイタリアの分裂の端緒となった。 ランゴバルド族は1世紀までにエルベ川下流域に定住し、その後547年にビザンツ帝国によって、パンノニアとノリクムの境界地域に定住を許された。パンノニアはゴート戦争開始によって生じた防備の弱体化をついてゲピド族によって占領されており、彼らはシルミウムを首都として王国を築いた。そのため、ビザンツ帝国はゲピド族と東ゴート王国への対抗の意味で領内にランゴバルド族を招き入れたのであった。ランゴバルド族はゲピド族を抗争を繰り返し、566年になってビザンツ帝国がゲピド族と同盟を結ぶと、ランゴバルド族はその東方にいたアヴァール人と結んでこれに対抗、結果としてゲピド族は567年に滅亡した。しかし強大なアヴァール人に圧迫を受けるようになったランゴバルド族は568年になると、王アルボインに率いられてイタリア半島に侵入し、その年のうちにヴェネト地方の大半を占領した。569年にはメディオラヌムを、572年にはティーキヌムを占領し、後者を首都としてランゴバルド王国が成立した。 572年にアルボインが暗殺され、王位を継いだクレフも574年に暗殺されると、ランゴバルド王国は30人以上の諸公が支配する連合政体へと変化した。しかしその勢いは衰えず、諸公の一人ファロアルド1世(イタリア語版、英語版)はスポレートを支配下においてスポレート公国を築き、他の諸公ゾットーネ(イタリア語版、英語版)はさらに南下してベネヴェントを占領、ベネヴェント公国を打ち立てた。ランゴバルド諸公に対して、ビザンツ帝国は金銭による懐柔外交を展開するとともに、フランク王国と同盟してこれを打倒しようとした。フランク王国はすでに574年ランゴバルド王国を征討し、これを打ち負かして貢納と領土の割譲を条件に講和しており、イタリア半島情勢への介入には消極的な姿勢を保っていたのであるが、ビザンツの勧誘を受けて585年と588年にイタリアへ侵入し、クレフの子である王アウタリウスは貢納を条件に589年これと講和した。590年にもフランク族は大軍をもってランゴバルド王国を攻撃したが、これは掠奪をおこなうに止まった。フランクによる対外危機は分裂する傾向にあったランゴバルド族に結束の必要を認識させた。既述のように、574年以来ランゴバルド族は王を戴かずに諸公の合議によって統治されていたのであるが、584年になると、アウタリウスが選出されて王となった。アウタリウスの死後跡を継いだアギルルフスは591年、毎年の貢納を条件にフランク王国と和解し、ビザンツ領を侵し始め、593年にはローマを包囲してグレゴリウス1世と交渉し、598年には教皇と講和した。アウタリウスの治世に首都パヴィアを中心として王国としてのまとまりが現れ始め、次代のアギルルフスの治世下には統治制度が整備されて国家としての体裁をとるようになった。パウルス・ディアコヌスは『ランゴバルド史』の中で、このアギルルフスの治世に実現された平和を賞賛している。 616年のアギフルススの死後はアダロアルドゥスが継いだが、妃であったテオデリンダが権力を握った。テオデリンダはカトリック信仰に熱心で、教皇グレゴリウス1世とも親しく、聖コルンバヌスによる修道院設立を支援した。アギフルススがアリウス派を捨て、カトリックに改宗したのも彼女の影響である。また彼女以後歴代の国王は、三章書論争で三章書を支持して分離したミラノやアクィレイアの教会とローマ教会との調停に尽力した。しかし626年にアダロアルドゥスは義兄アリオアルドゥスによって弑され、アリオアルドゥスは王位に就いた。この簒奪の背景にはビザンツ帝国との融和政策に対するランゴバルド武人の不満があったと考えられる。アリオアルドゥスはアリウス派であった。636年にアリオアルドゥスが死ぬと、その妃グンディベルガを娶ったロターリが王に選出された。ロターリは東方でイスラーム教徒と争っているビザンツ帝国の支配のゆるみをついて領土を積極的に拡大し、リグーリア・コルシカ・ヴェネツィア周辺部などを奪取した。またロターリは643年に「ロターリ王の告示」、いわゆるロターリ法典を編纂したが、これはランゴバルド人の法慣習を採録したものである。ロターリはランゴバルド王国の最盛期を現出したが、652年のその死後、王国は急速に分裂、弱体化した。彼の息子ロドアルドゥスは短命で、653年にアギロルフィング家のアリペルトゥス1世に王位が移った。アリペルトゥス1世の死(661年)に際して2人の息子に王国が分割されたが、これが内紛を生じ、662年ベネヴェント公グリモアルドゥス1世が王位を手に入れることとなった。
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ランゴバルド王国
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/22 06:14 UTC 版)
ユスティニアヌス帝が没して間もない568年、ランゴバルド族のアルボイーノが北イタリアに侵入し南端を除くイタリア半島を征服しランゴバルド王国(ロンゴバルド王国)を建国した。ただし、ローマ帝国の総督府がおかれたラヴェンナから、教皇の居るローマにかけての南北に細長い部分は、8世紀初頭まで征服できなかった。こうして後の教皇領となる部分が出来上がった。 5世紀以降、イタリア半島はローマ帝国、ゲルマン人、アラブ人などの勢力が乱立して小さな公国、王国が乱立して相争う状態に陥った。イタリア半島の政治的な統一性は失われ、再統一されるのは19世紀を待つことになる。ゲルマン人のランゴバルド族は、北部のランゴバルド王国のほか、その属国としてスポレート公国、ベネヴェント公国を建国した。ベネヴェント公国はランゴバルド王国の滅亡後にベネヴェント侯国と称し、サレルノ侯国(イタリア語版、英語版)やカープア侯国(イタリア語版、英語版)を成立させた。南イタリアではローマ帝国からナポリ公国(イタリア語版、英語版)、アマルフィ公国、ガエータ公国(イタリア語版、英語版)などが独立した。
※この「ランゴバルド王国」の解説は、「イタリアの歴史」の解説の一部です。
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「ランゴバルド王国」の例文・使い方・用例・文例
- ランゴバルド王国という,古代の国
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