海運
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海運(かいうん、英語: marine transport)は、水運のうち、海上を利用した貨物輸送や旅客輸送である。
注釈
- ^ 運輸業界では、物流効率や物流量を計る尺度として「輸送トンキロ」を使用する。輸送トンキロは、1トンの貨物を1キロメートル運ぶ場合の人件費、燃料費、減価償却費など、その輸送量を表現するために使用される。まれに「輸送キロトン」とも云う。
- ^ 自動車工業会調べ
- ^ 雑学 - 現在でも日本の損害保険会社に「海上」の名を冠しているものがあるのは、ここから損害保険が発達したからである。
- ^ 日本に偏りすぎた雑学:日本の場合、愛媛県今治市の船主達は「エヒメセンシュ」として世界的に有名である。
- ^ 日本だけの話題:日本郵船が日本貨物航空を傘下に収めたほかヤマトホールディングスと提携したり、商船三井が近鉄エクスプレスと提携したことは、この流れに沿ったものである。
出典
- ^ 池田良穂監修 『船のすべてがわかる本』 ナツメ社 2009年2月9日発行 ISBN 9784816346408
- ^ 吉田準三「わが国明治期の会社制度の展開過程・(続編)」『流通經濟大學論集』第27巻第4号、1993年、1-16頁、NAID 120006218952。
- ^ 船舶の運営は大本営に一元化(昭和20年5月2日 朝日新聞)『昭和ニュース辞典第8巻 昭和17年/昭和20年』p29 毎日コミュニケーションズ刊 1994年
- ^ https://www.mlit.go.jp/hakusyo/transport/shouwa39/ind060103/001.html
- ^ フジサンケイビジネスアイ (2009年7月28日). “視界不良、海運に大波 郵船・川汽が通期赤字”. 2009年8月4日閲覧。
- ^ 国土交通省海事局 (2007年8月15日). “26.輸送機関別貨物輸送量の推移” (PDF). 2009年4月16日閲覧。
- ^ 国土交通省海事局 (2007年8月15日). “18.旅客輸送実績” (PDF). 2009年4月16日閲覧。
海運業
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1960年代にマレーシア政府は国有の海運会社創設を志向し、原糖の輸入に船をチャーターしていたKBに、海運会社創設の可能性について調査を依頼した。 1967年9月に日本とマレーシアの間で血債協定が締結された際に、マレーシアのラーマン首相は金銭賠償のかわりに特注船2隻を日本から得ることにした。 1968年11月、マ政府と諸企業の合弁会社でマレーシア国際海運公社(英語版)(MISC)が設立され、メッカ巡礼基金運営庁(英語版)(Lembaga Urusan dan Tabung Haji: LUTH)と曹氏有限公司(Frank Tsao & Co. Ltd. (Liberia))およびKBが設立当初の主要株主となり、郭はMISCの初代会長となった。
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海運業
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川之石港は天然の良港で藩政期から櫨、蝋の積み出し港として栄えた。また近隣の銅山から搬出される鉱石を運ぶ機帆船でにぎわった。
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海運業
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『時事新報』で「樽廻船系の一方の旗頭の八馬兼助は夙に酒造用米穀の売買、運送並に酒類の運送を業としたるもので最初より純然たる船主であった。明治に入って大和船より西洋形帆船、西洋形帆船より汽船と巧に産業革命の波に乗って社外船主一方の雄となったものである。」と紹介されている。 初代八馬兼介(兼翁)は、産をなした後、1878年(明治11年)に風帆船西尾丸を買い入れて海運業に進出した。1890年(明治23年)にはドイツ汽船メリタ号を購入し、「多聞丸」と命名した。メリタ号購入後も中古汽船を買い入れ多聞丸と名づけ、多聞丸は18号にまで及んだ。多聞丸以外にも久保丸、大正丸、勝立丸などがあった。 持船は、1903年(明治36年)の1隻、714総トンから、1907年(明治40年)の4隻、6739総トン、1911年(明治44年)の9隻、21103総トンと増加し、八馬家は中堅社外船主として成長を遂げた。1925年(大正14年)には「八馬汽船株式会社」を設立した。
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海運業
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穀物を海外からの輸入に依存していたこと、水産業で生計を立てていたことから、海運業が盛ん。1968年には、ノルウェーは世界の商船隊の10%、タンカーの14%を保有する世界4位の海運国であった。1970年代以降、便宜置籍船により統計上、ノルウェーの順位は2008年現在、11位になっている。 ボスニア湾、バルト海が冬季に凍結するため、スウェーデンのキルナで採れる鉄鉱石は、ナルヴィクから英仏独へと出荷される。
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海運業
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家督相続後の藤山は、他人の船を動かして手数料をとるのではなく、自前の船で仕事を進めることを考えた。まず小型の和船2隻を買い入れ、小樽港から奥羽、北陸、兵庫、大阪に就航させた。この藤山の先見の明は時局に合致し、海上輸送の重要性はさらに高まった。 折しも1880年(明治13年)の手宮線の開通により、小樽は流通の要となっていた。それに伴い、港湾の整備や倉庫の建築が進み、入植者や商人たちも増加し、彼らを支えるための生活用品を満載した北前船も集結するなど、商業都市としての基盤が作られ、北海道開発の玄関港として急速な成長を遂げいている時代であった。 こうした時代において藤山は、本州からの入植者がさらに増え、物資と人々を運ぶ輸送船、特に鉄道のない地域にとって生活物資を運ぶ船が重要視されると見た。そこで1887年(明治20年)、地元の漁師や商人に呼びかけて資本金を集め、小樽と稚内を結ぶ航路を開き、天塩北見運輸会社を設立した。これは小樽-稚内間の航路が開かれた最初のことである。この会社の設立は、当時の北海道の海運業がまだ未発達であり、有用な定期航路もまだ無かったことも理由にあった。 翌1888年(明治21年)、回船問屋を運送専用の回漕店に改め、小樽港から北見沿岸各港への航路を開き、定期船の運航を開始した。これにより、開拓地との間に物資の交流が盛んになり、開拓民の熱意もかき立てられることになった。海運王と呼ばれる板谷宮吉は、1893年(明治26年)に蒸気船を購入したが、それは藤山や他の海運業者に刺激を受けてのことともいわれている。 1894年(明治27年)には日清戦争が勃発したことで、日本海の海運業はさらに活発化し、小樽の海運業もさらに発展に向かった。同1894年、藤山は167トンの汽船・小樽丸の新造を手掛けた。当時、北見や天塩方面に使用された汽船は日本郵船の矯竜丸のみだったことで、藤山の実力が伺われる。 さらに1898年(明治31年)以降、保有汽船を次々に増やした。また、それまでの和船から新型の西洋汽船に切替え、南は神戸・下関から、北はロシアの樺太、ウラジオストクにまで航路を広げ、当時の日露両国間の貿易品輸送と旅客の往来に大いに活躍した。 同1898年には海運業に並行して、陸揚げ貨物を保管し、荷主の金融に便利を与えることが必要と着想したことで、小樽運河沿いに石造りの倉庫11棟を建設し、藤山倉庫を開業した。これは小樽での模範的な倉庫業とされ、後年には藤山倉庫の棟数、坪数業績の伸張に伴って倉庫の漸増が行なわれた。 後に、日本郵船が北海道内航路に進出し、しかも逓信省の命令で利尻島と礼文島の就航も始められた。日本郵船は大資本の上に政府との関係も親密であるため、地方資本である藤山らには太刀打ちできないかに見られたが、藤山は地方の一海運会社でこそ可能なこともあるとして、事態を静観する立場を守った。間もなく冬季が到来すると、日本郵船の定期便は欠航が多くなり、運賃も値上げになるなど、庶民には使い勝手が良いとは言えなくなった。このことで藤山は、北海道民のことを本当に考えているのは資本ではなく地元の人々であり、自分が道民の便宜を図らなければ真の意味での近代化には成りえないとの考えを新たにした。 しかし、今度は悪天候により藤山の持ち船が沈没するという不運に見舞われ、1897年(明治30年)、天塩漕運会社は倒産に至った。それにもめげずに藤山は、地道に船の運航を続けた。 そんな藤山に、政府の命令航路として小樽-天塩間、小樽-函館線、函館-瀬棚線を開設して運営するよう、政府から要請が下った。藤山の、北海道内でいち早く航路を開拓した先見性、持前の誠実さを政府は見逃さなかったのである。藤山は、特に利尻・礼文の両島と稚内の航路は、沿岸および島民にとって生命を維持するための唯一の交通機関であることから、政府補助金の大小に関係なく、損害を度外視してでも政府からの命令航路を死守するよう努めた。 1901年(明治34年)以降は小樽-天塩線、1910年(明治43年)以降は小樽-函館線を開設して運営した。1904年(明治37年)開戦の日露戦争中は、所有船の大半を戦時御用船として就航させた。海上封鎖のために大型船を港口に沈める旅順港閉塞作戦においては、小樽丸を旅順港に沈めるなど、船舶が閉塞作戦に用いられ、その巨額の国家補償金が、藤山にとって大きな追い風となった。 明治末期には、所有船は13隻、総トン数は9千トンに昇った。小樽-稚内航路をさらに伏木-大阪まで延長し、北海道の航路では小樽-稚内をはじめ、小樽-函館(青森寄港)、小樽-天塩、函館-瀬棚の航路を持った。 こうして藤山海運の規模は時代と共に拡大していった。当時の小樽は、1899年(明治32年)に小樽港が国際貿易港に指定され、北海道の代表的な貿易港、日本国内外の船が往来する貿易の拠点として繁栄を極めていた。小樽運河沿いに倉庫が立ち並び、移住者も相次ぎ、人口は函館に次ぐ6万人であった。その小樽の発展にとって、藤山は大きな推進力となった。
※この「海運業」の解説は、「藤山要吉」の解説の一部です。
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海運業
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/12 04:48 UTC 版)
大町桂月の伝記『伯爵後藤象二郎』によれば蓬萊社は蒸気船5隻を持っていたとのことである。北海道や九州などとの海運業に加え貿易業(ジャーディン・マセソン商会との事業)にも携わったとされるが、大町桂月の伝記以外の史料は乏しく詳細は不明である。
※この「海運業」の解説は、「蓬萊社」の解説の一部です。
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海運業
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 03:22 UTC 版)
石崎汽船 - 1862年創業。愛媛県松山市。 東海汽船 - 1889年創業。 日本郵船 - 1893年創業。
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