小学校卒業後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/31 22:57 UTC 版)
1950年、親友は中学校に進学し、つげは進学せず兄の勤め先のメッキ工場に見習い工として就職することになるが、残業、徹夜、給料遅配が続く。つげは『ガロ』1991年7月号のインタビューで「人間の屑っていうか吹き溜まりみたいな所で、非常に乱暴な世界でした。クロムっていうのを日常的に使ってるから癌とかで悲惨な死に方している人も随分いましたね」と回想している。また、手に着いたクロムの黄色い染みを落とすため、つげは塩酸や硫酸の原液で毎日手を洗っていたという。メッキ工場での経験は1973年に発表された『大場電気鍍金工業所』に実話に近い形で描かれる事になる。 1951年、14才の頃の海への憧れは、せつなさを通り越し夢中になるほどであった。海で暮らすためには船員になるしかないと思いつめ、海員養成講座を通信教育で受けたり、横浜へ出かけ停泊する船を見学したりする。転々としたメッキ工場も労働条件が厳しく、母が製縫業を始め、つげも手伝うが義父との生活が苦痛であり、また赤面恐怖症などから鬱屈した心情になり密航を企てる。父親が元気で、家族が幸せだった伊豆大島(大島町)に帰りたい望郷の念も日増しに強まった時期であった。ある日、船員になるつもりで横浜に向かい密航を実行するが、船員に見つかり警察署で一晩を明かす。翌1952年にも横浜港からニューヨーク行きの汽船(日産汽船 日啓丸 10,000トン)に一日分のコッペパンとラムネだけを持って潜入。しかし野島崎沖で発覚し、横須賀の田浦海上保安部に連行されるが、船内ではケーキや冷奴(船内には豆腐製造機もあった)の差し入れを受けたり風呂に入れてもらうなどの厚遇を受ける。日産汽船の重役を乗せた海上保安庁の巡視艇へ移され、振り返ると日啓丸の甲板には乗務員がずらりと並び手を振っていた。その瞬間、汽笛が大きく鳴らされた。 密航に失敗した後は家にいるのが気まずく、先の親友Oの中華そば屋で出前持ちとして朝9時から夜2時まで働く。時には赤線への出前もあり、赤線の女にからかわれたりする。この頃、同じそば屋に戦争で両親を失くした同い年の美しい少女が働いており、彼女に誘われ休日に一緒に映画館へ行く。映画館の中では、彼女に手を握られたがつげは決まりが悪くずっと俯いていたという。その後、少女は店に来るやくざ者に騙されて堕落してしまう。
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