近代化政策
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正式に日本の領土とされた沖縄県であるが、その実情は、明治維新後に近代化を急いだ日本本土に比べても更に法整備が遅れ、琉球時代旧来の体制が長く残存することとなった。先島諸島の人頭税廃止を求める住民が宮古島で運動を起こしたことをきっかけに、沖縄県各地で旧制度廃止・改善をめぐる運動が起こった。運動は1890年代に県庁農業技師の謝花昇を中心に高揚し、県政の改善や参政権を要求した。この運動の成果かはわからないが、徴兵制、地租改正、市町村制、府県制、衆議院議員選挙法などが、概ね本土から10年から25年遅れて施行された。 一方で明治政府による沖縄県の日本化は、時局とともに強まっていった。1890年1月、天皇への崇敬心を養うことを目的に、琉球八社の中心であった波上宮を官幣小社に列した。これらの動きと並んで、沖縄各所にあった御獄(うたき)、拝所は村社として整理・統合され、拝殿や鳥居を設置し、神道の布教が実施された。これらの政策の一環として、1898年1月には徴兵令が施行された。 政府は1885年 - 1900年までに大東諸島の領有を宣言、沖縄県に編入した。南北大東島には実業家の玉置半右衛門らが入植し、ここは製糖事業などのために半ば植民地支配のような状況下に置かれた。1912年には沖大東島にリン鉱石鉱山(ラサ島鉱業所)が開山。 1920年(大正9年)に、南洋諸島が日本の委任統治になると、新天地を求めた住民が環境の似たこの地へこぞって移住した。また同時期に、ハワイやブラジルなどの中南米諸国へも多数が移民した。大正末期から昭和初期にかけて、以前から多発していた干魃による農産物の不作や、第一次世界大戦後の戦後恐慌から昭和恐慌までの日本本土の経済状況を受けた大不況により重度の貧困と食糧不足に見舞われ、貧家ではソテツの実や幹を毒抜きして食べたりもしたが、毒抜きが不十分で死んでしまうこともあり、「ソテツ地獄」又は「ナリ地獄」と呼ばれる状況となった。この貧窮は、さらに出稼ぎを目的とした本土(特に大阪市大正区には、沖縄からの出稼ぎ労働者が多く移住してきたため、現在でもその一部とその子孫らが暮らしている)や南洋諸島、中南米への移民を促進することとなった。 詳細は「沖縄県の鉄道」を参照 戦前の沖縄本島には軌道系交通機関が存在した。明治時代末期に沖縄電気軌道が沖縄初の運輸営業を行う鉄道が開通したのを皮切りに、大正時代には沖縄本島に鉄道会社が4社にまで増加、営業路線も北は嘉手納、南は糸満、東は与那原まで拡大し、絶頂期を迎えた。しかし、昭和時代に入ると道路整備の発達により、新たにバス会社が参入すると、鉄道の輸送人員は減少し、1930年代後半に次々と廃業、さらに追い打ちをかけるように、沖縄戦により線路などの鉄道の全施設が破壊された。そして、戦後になっても2003年に沖縄都市モノレールが開通するまで復旧することなく消滅した。
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近代化政策
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「モハンマド・レザー・パフラヴィー」の記事における「近代化政策」の解説
皇帝は、1951年より石油国有化を進めるとともにソ連に接近したモハンマド・モサッデク首相と対立したが、1953年にCIAとMI6の支援を受けた皇帝派のファズロラ・ザーヘディー(en:Fazlollah Zahedi)将軍らによるクーデター(アジャックス作戦)が起きてモサッデク首相は失脚し、権力を回復した。 1960年代より、秘密警察サヴァク(SAVAK)(英語版)を動かして左右の反体制運動を取り締まるなど権威主義体制を敷く一方、上からの改革を図って経済成長を目指すという、いわゆる開発独裁体制を確立した。
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