興宣大院君
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/25 03:44 UTC 版)
興宣大院君(こうせんたいいんくん、フンソンテウォングン、흥선대원군、大院王〈たいいんおう、テウォンワン〉、嘉慶25年12月21日〈1821年1月24日〉 - 光武2年2月2日〈1898年2月22日〉)は、李氏朝鮮末期の王族、政治家。字は「時伯」。号は「石坡」、「海東居士」。日本では、単に「大院君」と称される。本名は李 昰応(り かおう、イ・ハウン、이하응)。南延君の四男。母は郡夫人驪興閔氏。高宗の実父。
- ^ 朝鮮人物事典148頁
- ^ 洋夷侵犯非戦則和主和売国戒我萬年子孫 丙寅作 辛未立
- ^ 黄文雄『もしもの近現代史』扶桑社、2013年8月31日、71頁。ISBN 978-4594068738。
- ^ a b 京郷新聞1973年10月4日の記事7面
- ^ 『高宗実録』 高宗 3年10月20日30日、高宗4年1月16日、『蔚山邑誌』 宦蹟(『嶺南邑誌』)「蔚山府設砲射節目」等
- ^ 従来常民からだけ徴収してきた軍布(兵役の代用として布を納める)を両班からも徴収する戸布法
- ^ 犯人として大院君の自宅に住む使用人が逮捕される
- ^ 承政院日記高宗 19年 9月 22日前後にはその後の上訴等が記載
- ^ 花房公使ヨリ条約締結並清人馬建忠大院君ヲ諭シテ支那軍艦ニ搭シ天津ニ発航スルノ電報到達 アジア歴史資料センター Ref.A03023641400
- ^ 梅泉野録及び『大院君邸内火薬爆発ノ件』アジア歴史資料センター Ref.A04010006500
- ^ ウエベル またはヴェベールと記す。Karl Ivanovich Weber
- ^ a b アジア歴史資料センター Ref.B03050001800
- ^ 『高宗実録 乙未(三十二)年八月二十日』
- ^ 『高宗実録 乙未(三十二)年八月二十二日』
- 1 興宣大院君とは
- 2 興宣大院君の概要
- 3 略歴と年表
- 4 家系
- 5 最近の話題
興宣大院君
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 08:41 UTC 版)
哲宗の5人の男子がいたがいずれも夭折しており、仁祖以降の王家の嫡流は断絶が確定的だったので、仁祖の7代下るという遠く隔たった傍系ですでに王族の地位を失っていた李球を南延君として王族に復帰させた。このように傍系の子孫から王を出すことになったが、誰を王にするかは安東金氏など外戚の意向にかかっていた。南延君の四男の李昰応が国王候補から外されたのは安東金氏の思惑であった。しかし哲宗が没すると李昰応は神貞王后趙氏と豊壌趙氏と連携して次男の命福が高宗として王位に即位させることに成功した。まだ新国王は幼かったので李昰応は興宣大院君として摂政を務めたが、このときに安東金氏など勢道勢力は一掃された。しかし興宣大院君自身による独裁が行われたため「王の信任を得た人物、集団が政治を独占的に担う」という政治形態は李氏朝鮮滅亡まで続くことになる。
※この「興宣大院君」の解説は、「勢道政治」の解説の一部です。
「興宣大院君」を含む「勢道政治」の記事については、「勢道政治」の概要を参照ください。
固有名詞の分類
- 興宣大院君のページへのリンク