観光開発
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1960年(昭和35年)6月、観光都市を目指した長野市は、五か年計画による観光開発案を策定した。これは、善光寺を観光の中心にし、その周辺の大峰山・地附山・飯綱高原一帯を観光地に開発しようとするものだった。 地元資金によって設立された長野国際観光株式会社は、地附山を中心に観光開発に取り組み、1961年(昭和36年)春の善光寺御開帳と長野産業文化博覧会に合わせ、雲上殿近くから地附山頂まで善光寺ロープウェイが設置され、3月に運転を開始した。当時ゴンドラは県下では初めてで、雲上台駅の駅舎は鉄筋で食堂もあり、その規模も全国一と言われた。 山頂には、食堂・遊園地・動物園・スキー場・観光リフトがあり、雲上台駅東側には6ホールをもつゴルフ場の開発、市街地を見下ろす大展望浴場をもつ善光寺ヘルスセンターが開館し、当時はとても賑わっていた。 しかし、1964年(昭和39年)8月に有料道路の戸隠バードライン(戸隠有料道路)が完成、地附山側に上松料金所が設置された。これにより地附山が通過点となってしまい、地附山観光は低迷していった。1971年(昭和46年)に長野国際観光株式会社は閉鎖し、ロープウェイは市開発公社に移譲されたが、1974年(昭和49年)4月に運休、1975年(昭和50年)10月に廃止となる。
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観光開発
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1931年2月3日の東京日日新聞社主催の座談会において、「八戸小唄のようなものを作って八戸市を紹介したい」と重雄が発言したのがきっかけとなり、「八戸小唄」が誕生した。八戸小唄の製作は八戸の観光開発の一つとして位置付けられた。 また、1937年に種差海岸を名勝地として指定した。
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観光開発
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白樺湖の観光開発は、蓼科高原(北山湯川財産区)などのように資本力を持つ外部の観光デベロッパーの手に委ねず、観光施設やスキー場、別荘などを建設する企業や個人などに対し、北山柏原財産区が直接区有地(柏原農協所有地を含む)を貸し付けたり、財産区の自己資本で開発する方式で行われてきたことが特徴で、区有の林野や土地の売却は一切行われていない。土地貸し付け収入は柏原財産区の主要財源となっており、収益は財産区を構成する在来の柏原区民に分配されている。柏原区民がつくる池の平土地改良区事業部は、白樺湖観光センターの運営、貸しボート営業などの直営観光事業を営む。 1949年2月に諏訪自動車が茅野駅 - 東白樺湖間に1日1往復の路線バス運行を開始したことを受けて、同年から柏原区内農家による貸馬組合が発足し、夏季の作業がない農耕用馬の有効活用として観光貸馬業が開始。区民によるバンガロー経営も始まった。1950年11月20日に宿泊施設や飲食店、土産物店などでつくる白樺湖地区観光協会(白樺湖観光協会)が、1952年に白樺湖旅館組合がそれぞれ発足した。1951年には区に代わって漏水補強の費用を負担した代行組合が池の平耕地整理組合から湖上の管理運営権を得て貸しボート営業を始め、1954年に池の平土地改良区事業部へ営業が引き継がれた。 北山郵便局が電電公社から受託して北山村内の交換と加入の取り扱いを行っていた電話は、白樺湖地籍で1954年に設置が許可され、11戸に電話が置かれた。同年に国鉄バスが上田丸子電鉄丸子町駅 - 東白樺湖間で路線バスの運行を開始し、茅野駅 - 東白樺湖間の諏訪バス路線との連絡運輸を始めた。のちに千曲バス、松本電鉄も白樺湖まで乗り入れ、白樺湖は高原観光交通の要衝となった。1957年1月に池の平土地改良区直営の白樺湖スケート場が開業した。1962年7月に県営白樺湖ユースホステルが完成した。徐々に伸びていた入り込み客数は1963年から激増し、冬季はスケート合宿が盛んに行われ、湖畔に約250棟のバンガローが建設された。 これらバンガロー経営などの収益金を元に、柏原区民の手で湖畔に旅館やホテルなどの宿泊施設が整備された。1964年5月10日に蓼科有料道路白樺線(蓼科 - 白樺湖)が開通したことを受け、1965年から白樺湖と蓼科の間で諏訪バス、千曲バス、国鉄バスによる3社共同運行の路線バスが運行を開始した。同年に白樺湖・八子ヶ峰スキー場(現・白樺湖ロイヤルヒルスキー場)が開設され、個人別荘や企業・学校の寮も次々と建設された。高度成長期のレジャーブームに乗って県内を代表する観光地となり、観光施設数は1957年の宿泊施設11施設、個人別荘6棟から、1985年に宿泊施設約45施設、個人別荘約500棟、企業・学校寮約40施設を数えるまでになった。 一方、観光開発の影響で、ホテルや旅館から流入する汚水によって湖水の汚濁が急速に進んだ。化学的酸素要求量 (COD)、大腸菌群数が共に環境基準値を超える状態となり、1969年ごろからはアオコの発生が確認された。このため柏原区と関係事業者、茅野市および立科町が白樺湖浄化対策協議会を設立した。1975年に開始された国の「特定環境保全公共下水道整備事業」の第1号として事業認可を受け、両市町による白樺湖下水道組合が発足した。汚水が白樺湖に流れ込まないよう湖周に4本の汚水幹線を敷設し、各施設の下水を一括して処理する「白樺湖下水道浄化センター」を白樺湖直下の大門街道沿いに開設して、1981年から運用を開始した。
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