発見と種
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アヴィミムスの化石はロシアの古生物学者により発見され、1981年にセルゲイ・クルザーノフ博士によって正式に記載された。化石は当初、クルザーノフによりジャトクタ層(英語版)で発見されたと記載されたが、2006年に渡部真人らはクルザーノフは化石の由来を誤った可能性があり、より新しい時代のネメグト層(英語版)のものである可能性が高いとしている。タイプ種はA. portentosusである。最初の標本には尾が見つからなかったため、クルザーノフはアヴィミムスには尾がなかったと結論した。しかし、後続の標本では尾椎が発見されており、尾があったことが確証されている。ほぼ完全な第二の標本は1996年に発見され、2000年に渡部らにより記載された。加えて渡部らはおなじ領域で多数のアヴィミムスのものとみられる小型獣脚類の足跡を同定している。 アヴィミムスのものとされる孤立した様々な化石が発見されているが、A. portentosusとは異なっており1種以上の別の種がする可能性があり、これらは現在Avimimus sp.と呼称されている。 2008年にフィリップ・カリー率いるカナダ、アメリカ、モンゴルの古生物学者チームはAvimimus sp.の化石の広大なボーンベッドを発見したと報告した。このボーンベッドはゴビ砂漠のバルンゴヨト層(英語版)の10.5 m上にあるネメグト層にあった。チームは少なくとも10個体のアヴィミムスの化石があったと報告したが、この場所にはもっと存在している可能性がある。全ての個体が成体もしくは亜成体のものであったが、成体では大きさに差があまりなく、有限成長であったことが示唆される。成体では足根中足骨(英語版)と脛足根骨(英語版)の癒合度合いが高く、 筋肉の痕が目立った。複数の個体が一緒に発見されたことから群れで生活していたことが示唆される。
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発見と種
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1925年にウィリアム・パークスによって記載された。 アリノケラトプスは部分的に破損し、わずかに変形した頭骨から知られる。それは下顎骨を欠いている。その化石は1923年にトロント大学による探検で、アルバータ州レッドディア川沿岸のニールズランチサイト Neill's Ranch site から発見された。 パークスは模式種をアリノケラトプス・ブラキオプス Arrhinoceratops brachyops と命名した。属名は古代ギリシャ語で「~のない」 を意味する α~、「鼻」を意味するίς(rhis)、「角」を意味する κέραςk(ceras)、「顔」を意味する ὤψ(ops) の組み合わせで「鼻角のない顔」の意味で、当時鼻角をもっていないと考えられた為、そのように命名された。種小名は古代ギリシャ語で「短い顔」を意味する。βραχύ(brachys)が「短い」という意味である。 ホロタイプは、ROM 796 (以前は ROM 5135)。ホースシューキャニオン累層のカンパニアン後期あるいはマーストリヒチアン前期からの発見である。 最初に見つかった頭骨で成る。 他の標本は1930年にユタ州で発見され、 Arrhinoceratops? utahensisとチャールズ・ギルモアによって1946年に記載された。これはホロタイプ USNM 15583に基づく。疑問符はギルモア自身につけられたもので、彼は自分の同定に疑問を抱いていた。1976年、 ダグラス・ローソンはその種をトロサウルス属に移した。 ホロタイプの頭骨以外の標本も、アリノケラトプス・ブラキオプスのものとされていたものは僅かに見つかっている。1981年、ヘレン・タイソンはROM 1439を暫定的に本種に分類した。しかし2007年にアンドリュー・ファルケがトロサウルスとして再記載した。
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タイプ種の最初の化石は1978年にワイト島南西部の海岸にあるウェセックス層(英語版)の様々な植物を含む粘土岩と泥灰岩の層から発見された。ずっと後の1989年になってこの標本の他の骨が発見された。Steve Hutt博士によって発掘され、Huttのチームは今までに骨格の70%を発掘している。 1996年にSteve Hutt、MartillおよびBarkerにより記載された当時、ネオヴェナトルはヨーロッパから唯一知られているアロサウルス科の属と考えられた。しかし、その後の研究ではアロサウルス類の進歩的な分類群であるカルカロドントサウルス科とより共通点があり、Benson、CarranoおよびBrusatteによる2010年の研究などではカルカロドントサウルス科と実際に近縁である(両者でカルカロドントサウルス類(Carcharodontosauria)と呼ばれる分類群を形成する)ことが示されているが、実際にはさらにメガラプトル類(megaraptora)により近縁で、ともにネオヴェナトル科(Neovenatoridae)を形成する。
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キアリンゴサウルスは1957年に四川省、渠県で地質学者の關により収集された。化石は発見当時、非常に不完全で、幼体のものであったものの、1959年に古生物学者楊鍾健により命名された。1969年にRodney Steelはキアリンゴサウルスが他の剣竜類の初期の祖先である可能性があるとしているが、判断は難しい。Chialingosaurus kuaniのタイプ標本は現在知られている唯一の部分標本で、1978年に重慶市博物館の趙喜進(中国語版)により最初の標本の補足が行われている。
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ティラノティタン・クブテンシス Tyrannotitan chubutensis は2005年に Fernando E. Novas、Silvina de Valais、Pat Vickers-Rich、そして Tom Rich によって記載された。化石はアルゼンチン・チュブ県から北に28kmのフアニタ牧場で発見され、その地層はセロバルチーノ累層 (アプト階、11220万~11210万年前)のものと信じられている。 ホロタイプは MPEF-PV 1156 と記載され、部分的な歯骨、歯、胴椎(第3~8、第11~14)、尾椎の最前端、肋骨、血道弓、断片的な肩甲烏口骨、上腕骨、尺骨、部分的な腸骨、大腿骨、脛骨、2つの中足骨で構成される。 追加の標本(MPEF-PV 1157)は頬骨、右の歯骨、歯、第一頸椎、頸椎、9個の胴椎(?)第7, 第10, 第13、癒合した5つの仙椎、骨盤遠位の寄せ集め、肋骨、右大腿骨、断片的な左の中足骨2つ、そして趾骨(2-1, 2-2, 3-3)で構成される。 全長は11.4~12.2m以上と推定される。2010年にグレゴリー・ポールは13mと見積もった。体重は4.9~7tの間と見積もられた。
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2008年、ユタ州ケイン郡のグランド・ステアーケース・エスカランテ国立記念公園で一体のアンキロサウルス類の骨格が、この地域で初めて発見された。見つけたのはスコット・リチャードソンである。2009年、アーミスらの探検隊による発掘が完了した。頭骨は定年した化学者のランディー・ジョンソンが4年かけて無償でクリーニングを行った。その頭骨はCATスキャンで解析された。 2018年、模式種アカイナケファルス・ジョンソニが古生物学者のダッチ、ワイアスマ、アーミスらによって記載・命名された。属名はトゲの生えた頭にちなみ、古代ギリシャ語で「トゲ」を意味するἄκαινα と「頭」を意味する κεφαλή の組み合わせである。種小名はプレパレーターのランディ・ジョンソンへの献名である。 ホロタイプ UMNH VP 20202は、カイパロウィッツ層(カンパニアン後期、7597万年前)で発見された。ホロタイプは頭骨と下顎骨を含む部分骨格から成り、前歯骨、4つの胴椎、8つの仙椎、 8つの連結していない尾椎、11の棒状に連結した尾椎、テールクラブ、肋骨、両方の肩甲骨、左の烏口骨、右の上腕骨、右の尺骨、左の腸骨、左の大腿骨、左の脛骨、左の中足骨、左の趾骨、左の末節骨、2つの頸椎ハーフリング、および14の背中や腰のオステオダームで構成される。これらは全身骨格の45%を占める。ユタ州立自然史博物館のコレクションの一部である。
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最初の標本は中国北央部、甘粛省の馬宗山地区の公婆泉盆地、新民堡層群で発見された。2019年には完全な骨格を含む80以上の個体が発見された。 種小名「ルゴスス」 (rugosus) はラテン語で「粗い」を意味する。これは頭骨表面の複数の箇所にある粗面、特にこの動物に特有の涙骨の表面の皺の広がりに由来する。アウロラケラトプスはアーケオケラトプスに次ぐ馬宗山地区で2番目の新角竜類である。 模式標本 IG-2004-VD-001は、亜成体の吻骨を欠くほぼ完全な頭骨と頭頂骨で構成される。
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プレノケラトプスは2004年にブレンダ・チネリー(Brenda J. Chinnery)によって初めて記載された。ボーンベッドで発見された唯一の基盤的新角竜類ということで変わっている。プレノケラトプスには模式種プレノケラトプス・ピエガネンシス(P. pieganensis )が内包される。
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1855年、ドイツはハールのビュッケブルク近郊の砂岩採石場で小型恐竜の化石が発見された。ほとんどの骨は保存状態が悪く、プレパレーションの際に除去され、プレートとカウンタープレートに2組の中空の印象を残していた。 二つのプレートは完全には重なっていない。この空洞は天然のモールドとしての役割を果たしており、標本の研究を容易にするために石膏とラテックスでいくつかの鋳型を作るために使用されてきた。 元々はビュッケブルクの Gymnasium Adolfinum に保存されている Max Ballerstedt のコレクションの一部であったが、1976年にゲオルグ・アウグスト大学(Georg-August-Universität Göttingen)に移され、現在はGeowissenschaftliches Zentrum der Universität Göttingen に収蔵されている。 1857年、この化石に基づきクリスチャン・アーリッヒ・ヘルマン・フォン・マイヤー(Christian Erich Hermann von Meyer)が模式種ステノペリクス・ヴァルデンシス(Stenopelix valdensis)を記載した。この属名は古代ギリシア語で「狭い骨盤」を意味する。種小名はヴァルタン層に因む。ホロタイプGZG 741/2 (元 GPI 741-1, 2)はオベールニッヒェン・ザントスタイン層で発見され、頭骨と頸椎を欠くほぼ完全な骨格の印象を含んでいる。
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1948年と49年、北京の輔仁大学に勤めていたエドガー・エーラー神父は、雲南省大地村近郊で化石を発掘した。それは植物食恐竜の顎の骨であった。1965年、デヴィッド・ジェイ・シモンズは模式種タティサウルス・オエレリ Tatisaurus oehleri を記載した。属名は大地村(Da Di、または Ta Ti)に因んでおり、種小名はエーラーへの献名である。ホロタイプ、 FMNH CUP 2088は、歯を含む部分的な下顎骨である。その下顎骨は先端が欠けていて、6cmである。歯は侵食されていた。本種はその標本のみで知られている。 シモンズはタティサウルスをヒプシロフォドン科に分類した。シモンズはヒプシロフォドン科が原始的な鳥脚類で、それぞれの鳥盤類の祖先にあたるクレードであると考えており、本属がスケリドサウルス、または曲竜類の祖先であると思っていた。後の1990年、董枝明により標本が再調査され、彼はファヤンゴサウルスとの類似点を指摘して同じファヤンゴサウルス亜科である(すなわちこの動物は剣竜類である)とした。 更にその後の1996年、スペンサー・ルーカスは生物年代に用いるため本種をスケリドサウルス・オエレリとしてスケリドサウルス属に再分類した 。この事は2007年にデヴィッド・ノーマンらによって根拠がないと見なされた。その代わりに、彼らはタティサウルスが歯骨の近心端が腹側に曲がっているという装盾類の共有派生形質を持つ基盤的装盾類の疑問名であるとした。それにより、タティサウルスは既知の中で最古の装盾類と見なされるようになった。
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1990年代、エル・ロサリオの石灰岩採掘場の従業員ホセ・マルティネス・バスケス José Martínez Vásquez は、翼竜の骨を発見した。これは採石場の職員の手に渡り、事務所の壁面に装飾として埋め込まれた。2002年にその科学的価値が認められた後、標本はメキシコ国立自治大学が入手した。その後、カールスルーエ大学と砂漠博物館の共同チームによって研究され、2004年に科学的に報告された。 2006年、模式種ムズキゾプテリクス・コアフイレンシス( Muzquizopteryx coahuilensis )がエベラルド・フレイ、マリーセリーネ・ブッチー、ヴォルフガンク・シュティネスベック、アルトゥロ・ゴンザレス=ゴンザレスによって記載された。属名はムスキス自治区( Múzquiz Municipality)と古代ギリシャ語の πτέρυξ, pteryx(翼)の組み合わせである。種小名はコアウイラ州に由来する。 ムズキゾプテリクスはコニアス階下層のエルロサリオ層で見つかったホロタイプ UNAM IGM 8621に基づく。標本はほとんど完全に近い関節のつながった骨格からなり、両方の下腕部に沿った長い腱など軟組織も保存されている。その標本は成体であると考えられる。 2012年に第二の標本、MUDE CPC-494 が報告された。またも採掘場の従業員による同じサイトでの発見だった。そして個人のコレクターに売却された。それは後に砂漠博物館が獲得した。亜成体の右上方の翼で、ホロタイプの81%の長さである。その産出は、おそらくホロタイプよりわずかに古い後期チューロニアンの地層からで標本が乏しいため、それはとりあえず "Muzquizopteryx" sp. とされた。
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発見と種
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/23 04:17 UTC 版)
1898年、カナダ地質学調査所のローレンス・ラムは、ベリークリークでカスモサウルスの第一標本となる頭頂骨、ホロタイプNMC 491 を発見した 。またラムはこの動物が、より小さいフリルをもつ角竜の属モノクロニウスの新種であると考えた。 彼は新種モノクロニウス・ベリ (Monoclonius belli) として標本を記載した。その種小名は採集家のウォルター・ベルへの献名である。 その後の1913年、チャールズ・ヘイゼリアス・スタンバーグとその息子たちがカナダ・アルバータ州州立恐竜公園でモノクロニウス・ベリのいくつかの完全な頭骨を発見した。これらの発見に基づき、ランベはプロトロサウルス(Protorosaurus「原初のトロサウルス」の意味)を設立した。しかしプロトロサウルスの名はペルム紀の爬虫類に先取されていたので、1914年にカスモサウルスと改名された。カスモサウルスの名は古代ギリシア語で「裂けた」あるいは「開いた」を意味する χάσμα, khasma という単語に由来する物で、非常に大きな頭頂骨窓に因んでいる。ランベは1913年にスタンバーグが発見した、皮膚印象の保存された概して完全な骨格 NMC 2245 をパラタイプとして記載した。 その頃から、頭骨を含む更なる化石が発見されカスモサウルスと同定された。そしていくつかの種がこの属に追加された。今日、それらのうちいくつかはカスモサウルス・ベリの頭骨の形態変異のバリエーションに過ぎないと考えられている。 その他はカスモサウルスの有効種または独自の属であると思われる。1933年、バーナム・ブラウンはAMNH 5401に基づきカスモサウルス・カイセニ (Chasmosaurus kaiseni) を命名、カスモサウルス・ベリから独立させた。種小名はピーター・ケイセン (Peter Kaisen) への献名である。これは1990年にトーマス・レーマンに命名されたカスモサウルス・カナデンシス (Chasmosaurus canadensis) と関連があると思われる。カスモサウルス・カナデンシスはもともと1902年にランベによってモノクロニウス・カナデンシス (Monoclonius canadensis) として記載されていたが、1915年にランベによってエオケラトプス・カナデンシス (Eoceratops canadensis) として再記載された種である。エオケラトプスと角の長いカスモサウルス・カイセニはニコラス・ロングリッチによってモジョケラトプスの典型例であると考えられていた。また、モジョケラトプスはカスモサウルス・ルッセリ (Chasmosaurus russelli) のシノニムであることを発見した研究チームがあるが、キャンベルらも2016年にカスモサウルスの標本を分析し、エオケラトプスとカスモサウルス・カイセニがルッセリ種のシノニムであることを発見した。キャンベルらは2016年に行われたカスモサウルス標本の分析の中で、エオケラトプスとカイセニ種は、双方のホロタイプにおいて頭頂骨を欠いている事により、種不明のカスモサウルス (Chasmosaurus sp.) としてのみ参照することが可能であると述べた。1933年、リチャード・スワン・ルルは1926年に採集された異常に口吻が短い標本、ROM 839(旧ROM 5436)をカスモサウルス・ブレヴィロストリス (Chasmosaurus brevirostris) として記載した。種小名は「短い鼻先」を意味する。これはベリ種のジュニアシノニムであると思われる。チャールズ・モートラム・スタンバーグは1940年に、アルバータ州南部のダイナソーパーク累層下部で発見された標本NMC 8800に基づいてカスモサウルス・ルッセリ (Chasmosaurus russelli) を追加した。種小名はローリス・シャノ・ラッセル (Loris Shano Russell) への献名である。トマス・レーマンは、1989年にテキサス州産のカスモサウルス・マリスカレンシス (Chasmosaurus mariscalensis) を記載した。これは現在アグジャケラトプスと改名されている。最近記載された種は2001年に命名されたカスモサウルス・イルヴィネンシス (Chasmosaurus irvinensis) である。これはダイナソーパーク累層最上部から知られる。本種は2010年に一度ヴァガケラトプスという独自の属を与えられたが、2019年のキャンベルの研究でカスモサウルスに帰還された。 1987年、グレゴリー・ポールはペンタケラトプス・ステルンベルギィ (Pentaceratops sternbergii) をカスモサウルス・ステルンベルギ (Chasmosaurus sternbergi) に改名したが、これは合意が得られておらずペンタケラトプス・ステルンベルギのジュニアシノニムと見なされている。2000年、ジョージ・オルシェフスキーはモノクロニウス・レクルヴィコルニス (Monoclonius recurvicornis Cope 1889) を、よりカスモサウルス亜科に近似であるとして、カスモサウルス・レクルヴィコルニス (Chasmosaurus recurvicornis) と改めた。これは疑問名である。 今日、ベリ種とルッセリ種、ただ2つのみの種が有効とされている。これらにはわずかな形態的差異と層序的差異がある。ルッセリはダイナソーパーク累層(カンパニアン期)のより古い(下部の)地層から見つかり、ベリ種はダイナソーパーク累層中部から見つかる。共に7650万〜7550万年前の期間に生息したホロタイプとパラタイプのほかにもいくつかの標本が知られている。これらの標本にはAMNH 5422、ROM 843(旧ROM 5499)、NHMUK R4948などがあり、いずれも頭骨を含む部分骨格の標本である。ルッセリ種のホロタイプ以外に、パラタイプのCMN 8803(フリル)、CMN 41933(フリル後部)、RTMP 81.19.175(右側頭骨)、CMN 2280(1914年にスタンバーグ家によって発見された頭骨付き部分骨格)が知られている。 YPM 2016の頭骨とAMNH 5402の頭骨と骨格は、キャンベルら (2016)によって他のベリ種に言及された標本とは異なり、より多くのホーンレット・パーツを持つことが指摘されたが、著者はそれらを個体変異と解釈しており、キャンベルら(2019)はこれらの標本をヴァガケラトプスに近い不確定のカスモケラトプス種と解釈している。
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「セレンディパケラトプス」の記事における「発見と種」の解説
セレンディパケラトプスの最初に知られた骨は尺骨で、1993年にオーストラリアのヴィクトリア州の東海岸のキルカンダ(Kilcunda)で発見された。この化石は「ダイナソー・コーヴ・プロジェクト」で発見されたもので、海岸線の崖の基部から出土したものである。2003年には、模式種がセレンディパケラトプス・アーサーシークラーケイ(アルトゥルククラルケイ)(Serendipaceratops arthurcclarkei)がリッチ夫妻によって命名・記載された。発見者たちは当初、この化石がオーストラリアが角竜類のものである可能性は全く考慮していなかった。なぜなら角竜類は恐竜類の新参のグループであり、オーストラリアで見つかるとは期待されていなかった為である。その代わりに、彼らはそれが獣脚類の骨だと信じ込もうとしていた。しかし数ヶ月後、カナダのアルバータ州にあるロイヤル・ティレル古生物学博物館を訪問した際、同僚のデイル・ラッセルがレプトケラトプスの尺骨とその骨が著しく酷似していることを指摘した。それゆえに「セレンディピティ(予想外の発見)の角竜」を意味する属名が与えられた。種小名はSF作家のアーサー・C・クラークへの献名である。クラークはリッチ夫婦の個人的な友人であり、2001年宇宙の旅や宇宙のランデヴーなどの著者でもあり、子供の頃に恐竜に魅せられて科学に興味を持つようになった人物である。またおそらく偶然ではあるが「セレンディップ」はクラークが移り住んだスリランカの旧名でもある。 セレンディパケラトプスはホロタイプ NMV P186385のみで知られる。ウォンタッジ層で見つかった単一の左尺骨である。地質年代はアプチアン期(1億1500万年前)とされる。
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発見と種
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パキリノサウルス・カナデンシスは1950年にチャールズ・モートラム・スタンバーグにより、ホロタイプである頭骨標本 NMC 8867 とフリルを含む不完全な頭骨のパラタイプ NMC 8866 に基づいて記載された。パラタイプはフリルを保存しているが、右の下顎の骨と嘴の骨を欠いていた。これらの頭骨はアルバータ州のホースシューキャニオン累層で1945年と1946年に採集された。数年後、レスブリッジ近くのセントマリーリバー累層に属するスキャビービュートで別の標本が発見された。7,400~6,600万年前の地層と思われる。 そこは1880年、アルバータ州で最初に化石が発見された地層である。 1955年、スキャビービュートで別のパキリノサウルスの頭骨が発見され、ワン・ラングストン・ジュニア率いる小さな探検隊によって追加の標本も発掘された。カルガリー大学は学生のためのフィールド実習でその重要なサイトを使うことを計画した。スキャビービュートで発掘された複数の標本(NMC 21863, NMC 21864, NMC 10669)が1975年にラングストンによって記載された。 1980年代後半にアルバータ州北部のビーバーロッジの南のワピチリバーで別のパキリノサウルスのボーンベッドが見つかり、ロイヤル・ティレル古生物学博物館によって短期間の発掘作業が行われた。カルガリー大学はそこで2006年から毎年夏に2週間の発掘を実施している。標本はパキリノサウルス・カナデンシスであるとされる。1974年、グランドプレーリー(英語版)の理科教師アル・ラクスタがパイプストーンクリークで巨大なボーンベッドを発見した。ロイヤル・ティレル古生物学博物館のスタッフとボランティアによって1986年と1989年の間にそのエリアは発掘が終えられた。100平方メートルの範囲内で14点の頭骨と3500点以上もの骨からなる膨大な量の化石が収集された。これはおそらく洪水中に川を渡る試みが失敗した、大量死の場所であったと思われる。化石は亜成体から老齢の個体に至るまでの、4つの異なる年齢層のものが混在しており、この恐竜が若い世代の世話をしていたことが示唆されている。成体の頭骨にはでこぼこした瘤があり、頭頂骨の後部には一本の角がある。凹型の様相は風化に関連し、雌雄差は関係ない可能性がある。 2008年、フィリップ・カリー、ワン・ラングストン・ジュニア、ダレン・タンケにより、パイプストーンクリークのパキリノサウルスの詳細な論文が発表され、新種P. ラクスタイが設立された。種小名はアル・ラクスタへの献名。 2013年、フィオリッロらによって不完全な鼻骨に基づき更なる新種パキリノサウルス・ペロトルムが記載された。アラスカ北部のクリーク(Kikaku-Tegoseaku)から採集されたものである。ホロタイプは DMNH 21460。 未成熟の個体のものと思われる。この発見は特定の部位から本属の年齢に関する詳細を調べる方法についての知見を深めた。 この標本は鼻骨の後部に装飾を有しており、成長の中間段階を示す。注目すべきは、鼻骨の後部の表面が既知の他のパキリノサウルスの種では確認されないほど複雑であることで、本種の独自性の証拠とされる。またその部分は分厚く角張った鞘状の表皮構造の基底部であることがわかった。その形状が角状であったのか、単に瘤を覆う程度のものだったかは今のところ意見の一致をみていない。
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発見と種
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もともとオーウェンは模式標本をイクチオサウルス・トリゴヌスとして記載した。他のどんな断片的な化石さえも模式標本に指定されなかったため、分類の歴史は安定しなかった。リチャード・オーウェンが用いたイクチオサウルス・トリゴヌスの本来の模式標本は1889年に失われたと考えられ、Lydekker がバラバラに離れた椎骨を本種の模式標本とした。なお、この時代に新基準標本の概念は存在しなかった。 Lydekker が選んだ椎骨が出土した層は不明であり、オーウェンが命名・記載した本来の標本との関連が確実でなかったため、ここで問題が生じた。オーウェンが用いた標本が後に再発見されたためさらに問題は複雑化し、新基準標本の指定は不要となった。Lydekker の記載した標本を新基準標本として扱わないことと、模式標本の再発見により指定が覆る必要性がないことを、1993年に動物命名法国際審議会がと発表し事態は正式に確定された。同時に動物命名法国際審議会は属名と種小名のリストにマクロプテリギウスとマクロプテリギウス・トリゴヌスを加え、両方とも保留名とした。本来の模式標本は標本番号 ANSP 10124 としてカタログ化され、フィラデルフィア自然科学アカデミーに所蔵されている。 Bardet と Fernández は2000年の論文でマクロプテリギウス・トリゴヌスの模式標本がオフタルモサウルス科以上に詳しくは同定できないとし、この属種は疑問名とされた。
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発見と種
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ナストケラトプスはホロタイプ、UMNH VP 16800 から知られる。これは部分的に関節した頭骨、後頭顆、頸椎、三つの部分的な前方胴椎、肩甲骨、関節していない左前肢、右前肢の一部、および皮膚印象である。他に2つの標本も参照されている。UMNH VP 19466 は、関節していない成体の頭骨で不完全な前上顎骨、上顎骨および鼻骨で構成される。UMNH VP 19469 は、亜成体の癒合した鱗状骨である。ホロタイプは2006年にユタ大学が指揮したカイパロウィッツ・プロジェクトの期間中に発見・採集された。その化石はグランド・ステアーケース・エスカランテ国立公園のカイパロウィッツ累層上部中層の砂岩に覆われていた。その堆積物は後期白亜紀カンパニアン後期(約7500万年前)のものと推定される。 その標本は2010年にナストゥケラトプス・ティトゥシ Nasutuceratops titusi としてエリック・カール・ランドEric Karl Lund によって記載された。しかしこれは nomen ex dissertatione(学位論文上での命名)であり、記載を伴う出版ではないため無効名である。スコット・サンプソン、ランド、マーク・ローウェン、アンドリュー・ファルケ、およびキャサリン・クレイトンは2013年にナストケラトプスを正式に記載した。模式種はナストケラトプス・ティトゥシ Nasutoceratops titusiである。属名はラテン語で「大きな鼻」を意味する nasutus と古代ギリシア語で「角のある顔」を意味する ceratopsの合成である。種小名はGSENMで化石を剖出したアラン・L・タイタス Alan L. Titus への献名である。
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発見と種
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タイプ種であるWuerhosaurus homheniは中国西部、新疆ウイグル自治区トゥグル層群(en)で発見され、1973年、董枝明により記載された。属名はウルホ区に由来している。 化石は頭骨の無い断片的な骨格であるホロタイプIVPP V.4006と第2の個体の3つの尾椎であるパラタイプIVPP V4007により構成されている 。 内モンゴル自治区、オルドス盆地のエジンホロ累層(en)で発見されたより小型の種W. ordosensisが1993年、同じく董により記載されている。この種は1988年に発見された頭骨の無い部分骨格IVPP V6877に基づいている。 2008年、Susannah Maidmentらはウエルホサウルスをステゴサウルスのシノニムとみなし、タイプ種W. homheniをStegosaurus homheni 、第2の種W. ordosensisは疑問名(nomen dubium)であるとしている。しかし、この意見には議論がある。
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発見と種
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バガケラトプスの最初の化石は1970年代のモンゴルとポーランドの科学者の共同調査隊によりゴビ砂漠で発見され、科学者率いる2度の探検により記載された;en:Teresa Maryanska and en:Halszka Osmólska (1975))。これらバガケラトプスの標本のいくつかは現在ワルシャワのポーランド古生物学研究所(Poland's Paleobiological Institute)に収蔵されている。 幼体の化石は、初めは暫定的にProtoceratops kozlowskiiと名づけられ、1990年にKurzanovによりBreviceratops kozlowskiiと改名されたが現在ではバガケラトプスの幼体とされるようになった。Sereno (2000)ではこれはの幼体のブレヴィケラトプスが成熟したバガケラトプスへと成長したのだろうと外挿して説明した。タイプ種であり唯一の種であるB. rozhdestvenskyiはロシアの古生物学者A. K. Rozhdestvenskyに献名された。
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発見と種
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ダトウサウルスは董枝明およびTangにより1984年に命名された。今までに、たった2個の部分的な骨格しか発見されていない。この属由来の頭骨が発見されているが、どちらも関節した頭骨を持っていなかった。 D. bashanensis は唯一の確かなダトウサウルスの種である。
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「シャントゥンゴサウルス」の記事における「発見と種」の解説
シャントゥンゴサウルスは1973年に初めて記載され、5つ以上の不完全な骨格が知られている。中国の古生物学者徐星らは山東省で発見された新たな標本に基づきシャントゥンゴサウルスはエドモントサウルスによく似ており、多くの固有の特徴を共有し、エドモントサウルス-シャントゥンゴサウルス-クレードのアジアのノードを形成しているとしている。山東省で発見されたいくつかの個体の標本には頭骨、肢の骨、椎骨が含まれている。これらの標本は2007年に新属新種Zhuchengosaurus maximus に分類された 。しかし、その後の研究によりZhuchengosaurus を特徴付ける独自の特徴は単に成長段階の違いによるものであることが判った。
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タイプ種(そして知られている唯一の種)であるBellusaurus suiは1987年に趙喜進(Chao Xijin)により正式に記載された。17の個体が同じ発掘場から発見されており、群れが鉄砲水で一度に殺されたことを示唆する。またいくつかの特徴からすべて幼体の可能性が示唆される。
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タイプ標本はシンタイプのSAM 3449とSAM 3450であり、1924年にSidney Henry Haughtonによって命名、記載された。これらの標本は南アフリカ、トランスカイのThaba 'Nyama (Black Mountain)の北の斜面にある三畳紀後期ノリアンen期の地層であるLower Elliot Formationで収集された。メラノロサウルスの初の完全な頭骨は2007年に記載された。2種知られており1種はタイプ種のM. readi、もう一種は1993年に François-Xavier Gauffreによって名づけられたM. thabanensis であり、こちらはジュラ紀のUpper Elliot Formationから見つかった大腿骨であるホロタイプMNHN LES-16に基づいている。
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発見と種
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「ケティオサウリスクス」の記事における「発見と種」の解説
ケティオサウリスクスは初め、1927年にドイツの古生物学者フリードリヒ・フォン・ヒューネによりCetiosauriscus leedsi種の属名として命名された。1887年、ジョン・ハルク(en)はリーズコレクションの一連の化石標本BMNH R.1984-1988に基づき、オルニトプシス属の種Ornithopsis leedsiiを命名、記載した。ハリー・シーリー(en)の指摘を受けて、1905年にアーサー・スミス・ウッドワード(en)はこの種をケティオサウルス属の種Cetiosaurus leedsi と改名した。さらにウッドワードはリーズコレクションから第2の標本BMNH R.3078を発見している。1929年、フォン・ヒューネにより両標本はCetiosauriscus leedsi とされた。フォン・ヒューネはまた、1929年にスイスで発見された種Cetiosaurus greppiniをCetiosauriscus greppiniへと改名した。 1980年、アラン・ジャック・チャーリッグenはBMNH R.3078にはBMNH R.1984-1988と比較できる骨が無く、同じ種とすることは出来ないと結論し、新種Cetiosauriscus stewartiを作った。種小名は化石に発見地である粘土採掘場の所有者、ロンドンブリックカンパニーの社長であったロナルド・スチュアート卿に献名されたものである。チャーリッグはさらにC. leedsiおよびC. greppiniを疑問名(nomen dubium)としている。 1990年、ジョン・スタントン・マッキントッシュ(en)は2種のケティオサウルス属の種を各々Cetiosauriscus longus およびCetiosauriscus glymptonensisへと改名した。1993年チャーリッグによりC. leedsiに代えてC. stewartiをタイプ種とする申請を動物命名法国際審議会に対し行った際、C. longus、C. glymptonensisは両種とも疑問名とされた。1995年、既にC. stewarti種のタイプ標本とされていたBMNH R.3078がケティオサウリスクス属のタイプ標本に指定された。 標本BMNH R.3078はケンブリッジシャー州ピーターバラのオックスフォード・クレイ累層(en)で発見された。化石は下半身の一連の椎骨で構成される。この標本の他にC. stewartiものとされる前肢を含む標本がある。体高6 m、体長15 m、体重約9 tと推定されている。 同じ地層から発見されるメガロサウルスやエウストレプトスポンディルスに捕食されていた可能性がある。
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発見と種
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ブリスベンのクイーンズランド博物館にて独学した(後のディレクターとなった)古生物学者であるハーバー・ロングマンは1924年、中央クイーンズランドのローマ近くのダーラムダウンズステーション(en)で巨大な化石爬虫類の骨格が露出しているのを知る。ステーション(豪州の表現で大牧場(en))の支配人アーサー・ブラウンはロングマンに骨の断片を送り、そのためこの恐竜の種小名はブラウンに献名されbrowneiとなった。最初の収集物は、16の間接した骨を含む22個の尾椎骨、および後肢の部分的な破片だった。ロングマンは新しい発見を発表した直後、ステーションを訪れ、クイーンズランド博物館に送るために同じ骨格のより多くの資料をまとめた。追加の標本は胸椎、肋骨の小片、さらには尾椎と大腿骨と骨盤、頸椎も含まれていた。更なる資料がメアリー・ウェイドとアラン・バーソロメイにより1975年に収集され、Drs. Tom Rich, Anne Warren, Zhao Xijin, and Ralph Molnarによっても収集されている。これらの追加の資料には肋骨、他に頚部、右後肢の大部分が含まれ、これらは現在研究中である。今日至るまで尾の先端および頭骨は発見されていない。ロエトサウルスはオーストラリアのみならずジュラ紀のゴンドワナ大陸で発見された竜脚類のなかで最もよく知られている。
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発見と種
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アキロバトルの化石は最初、モンゴルとロシアの共同野外調査により発見され、1989年にBurkhantで収集されたが、1999年にモンゴルの古生物学者アルタンゲレル・ペルレ、アメリカの古生物学者マーク・ノエル(英語版)およびJim Clarkによって行われるまで記載、命名が行われなかった。ここでも標本は十分記載されず、後者2人の知識なしで発表されている。 アキロバトルのタイプ標本 FR.MNUFR 15はまとまって発見されたが、ほとんど関節状態ではなく、歯のついた上顎骨、2つの頸椎、2つの胴椎、断片的な肋骨、7つの尾椎、肩甲骨、烏口骨、右の腸骨、恥骨、坐骨を含む骨盤、橈骨、不完全な手、左の大腿骨と脛骨、不完全な足の骨で構成されている。 Smith at al. (2012)では脛骨の長さが490ミリメートルであることからこの恐竜が2番目に大きなドロマエオサウルス類であることを特筆している。大腿骨は505ミリメートルで脛骨より3%長く、ドロマエオサウルス類では珍しい特徴である。推定では体重は350キログラムである。歯には鋸歯があり、カーブしていて、後方の鋸歯は前側より大きい。
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発見と種
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アニマンタルクスの標本は現在までのところ1つだけ収集されている。この標本には下顎、頭骨の後半部、頸椎、胴椎、様々な四肢の要素が含まれている。頭部後方のドーム、後眼窩骨(英語版)と方形頬骨の上にある小さな角、下顎骨の半分ほどの長さを覆う装甲(英語版)などの独自の特徴を持つ。 これらの化石はアメリカユタ州東部にあるシーダーマウンテン累層(en )のMussentuchit部層で発見された。この地層は白亜紀後期アルブ期からセノマン期(1億600万年前-9700万年前)のものと考えられている。Mussentuchitでは十分に命名されていないものの、魚類、カエル、トカゲ、ヘビ、ワニ、恐竜、鳥類など少なくとも80種類の脊椎動物が発見されている。肉食の獣脚類や違うタイプの草食恐竜であるイグアノドン類のエオランビアなど多くの恐竜のグループがこの地から知られている。魚類やカエルなどの水生生物の化石や泥岩が存在することからこの累層は氾濫原のような環境だったと示唆される。 シーダーマウンテン累層のより古い地層から他のノドサウルス類が知られている。最も古いイエローキャット部層からはガストニアが、中間のポイズンストリップ部層、ルビーランチ部層からはサウロペルタが発見されている。シーダーマウンテン累層で最も新しい時代の地層であるMussentuchitではアニマンタルクスのみが発見されている。シーダーマウンテン累層ではまだ十分に探査されていない場所が多くあるものの、ノドサウルス類の種の分布は他の恐竜のグループのものに一致し、この累層に3つの分かれた動物相が存在したと仮定することが出来る。 Mussentuchitの動物相にはアジアに起源を持つ可能性がある分類群が多く含まれ、この時代にアジアから北アメリカへの分散(英語版) が起こったことを示唆する。 この地域で発見される化石はわずかに放射性を帯びていることがよくあり、実際にアニマンタルクスの化石はRamal Jonesがこの地域での放射線探査の最中に高レベルの放射能を検地した場所で発見された。この場所での後続の発掘では表面には何の化石も露出していなかったもののアニマンタルクスの化石が掘り起こされた。
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発見と種
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もともとワグナーが1853年の論文でイクチオサウルスの種として記載したアエギロサウルス・レプトスポンディルスは、歴史の中で分類が変化してきた。イクチオサウルス・ポツムスとして記載され、後に疑問名であるマクロプテリギウスに再分類された。ブラキプテリギウス・エクストレムスと同定されることも時折あった。 唯一記載された標本が第二次世界大戦で破壊されたため、2000年に Bardet と Fernández はイクチオサウルス・レプトスポンディルスの新基準標本として私的なコレクション中から完全な骨格を選んだ。後に、新たな属としてアエギロサウルス属を設置し新基準標本をそこに配置するべきであると2名は結論付け、アエギロサウルス・レプトスポンディルスが独立することとなった。学名は「細い脊椎を持つアエギル(ゲルマン民族の海の神)のトカゲ」という意味を持つ。
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発見と種
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1866年にドリプトサウルスが発見される以前は、新大陸での獣脚類は1856年にジョセフ・ライディがモンタナ州で発見した単離した歯のみが知られていた。ドリプトサウルスが発見されたことにより、北アメリカの古生物学者は不完全ながら関節した獣脚類の骨格を観察する機会を得た。19世紀後半においてティラノサウルス上科は個別の大型獣脚類のグループとみなされていなかったため、ドリプトサウルスは北アメリカから産出した孤立した獣脚類を含めたゴミ箱分類群とされ、後に再分類するためだけに数多くの獣脚類が(ラエラプスとして)割り当てられた。 ドリプトサウルスの属名は「引き裂くトカゲ」を意味し、ギリシャ語で「引き裂く」を意味する "dryptō" (δρύπτω) と「トカゲ」を意味する "sauros" (σαυρος) からなる。種小名のアクイルングルスはラテン語で「鷲のような鉤爪を持つ」を意味し、3本の指に生えた鉤爪を反映する。1866年にエドワード・ドリンカー・コープは発見から1週間以内に標本について論文を発表し、フィラデルフィア自然科学アカデミーでの会議でラエラプス・アクイルングルスと命名した。ラエラプスはギリシャ語で「ハリケーン」や「烈風」を意味し、獲物を決して逃がさない神話上の猟犬ライラプスの名前でもある。ラエラプスは詩的で刺激的な名前として人気を博し、ハドロサウルスやトラコドンに続いて北アメリカから記載された恐竜となった。後に、ラエラプスという属名はダニの属に既に使用されていることが判明し、コープの好敵手であるオスニエル・チャールズ・マーシュが1877年にラエラプスをドリプトサウルスに改名した。模式種はドリプトサウルス・アクイルングルスである。 2011年にブルサッテは、模式標本の大部分を占める歴史的なキャスト ANSP 9995/AMNH FARB 2438 がロンドン自然史博物館(NHM OR50100)のコレクションに所蔵されていると記載している。キャストでは、深刻な黄鉄鉱病の影響を受けた元の標本では最早保存されていないような、詳細な部分まで確認できる。
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MaischとMatzkeが執筆した2000年の論文では、バプタノドンはオフタルモサウルスのジュニアシノニムと考えられており、オフタルモサウルス・ナタンスという学名を与えられていた。しかし、2010年代に発表された分岐学解析ではオフタルモサウルスの模式種 Ophthalmosaurus icenicus よりも他のオフタルモサウルス亜科に近縁であることが判明している。 バプタノドンの化石はジュラ紀後期オックスフォーディアン期のアメリカ合衆国ワイオミング州サンダンス層で発見されており、この層からはクリプトクリドゥス科の首長竜タンテネクテスやパントサウルス、およびプリオサウルス科のメガルネウサウルスの化石が産出している。
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発見と種
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1858年11月、化学者Philip Thomas TysonはJohn D. Latchfordより二つの恐竜の歯の化石を受け取った。この化石はLatchfordがメリーランド州、プリンスジョージズ郡のMuirkirk, Maryland近郊のSwampoodleにあるアランデル累層の自身が開発した鉄鉱石採掘場で発見したものである。Tysonは歯科医でBaltimore Dental Collegeの教授であるChristopher Johnstonにこの化石の研究を依頼した。Johnstonは化石を切断し、星型の断面で特徴付けられることを発見し、1859年にアストロドンと命名した。しかし、Johnstonは種小名をつけなかったため、1865年にジョゼフ・ライディがホロタイプYPM 798とともにタイプ種Astrodon johnstoniとして種小名を付記して再命名した。もしJohnstonが種小名を付記していたなら、アメリカで二番目に種のレベルで認識された恐竜となっていた。Johnstonは不正確にも発見地をブレイデンズバーグ(英語版)近郊の鉄鉱山であると記載した。 1888年にO.C.マーシュはメリーランド州、Muirkirk近郊のアランデル累層で発見されたいくつかの化石に基づいてプレウロコエルス・ナヌス Pleurocoelus nanusとP. altusを命名した。しかし、1903年にジョン・ベル・ハッチャーはAstrodon johnstoniとアランデル累層で発見されたPleurocoelus nanusの類似性を考慮し、両者は同種でありアストロドンに優先権があると主張した。1921年にチャールズ・W・ギルモアはプレウロコエルスはアストロドンのジュニア・シノニムであるもののP. nanusとP. altusはA. johnstoniとは別種であると主張した。Astrodon valdensisなど他にもかつてアストロドン属に分類された種がある and Astrodon pussilus.。1962年に R.F. Kinghamはブラキオサウルス属をアストロドンの亜属として全ての種をアストロドンに分類した。この恐竜についての最初の詳細な記載となるカーペンターr&Tidwell (2005)ではハッチャーの説を受けてアランデル累層の竜脚類は1種のみであるとし、Astrodon johnstoniが Pleurocoelus nanusおよび P. altusのシニア・シノニムであるとした。興味深いことに、アストロドンの化石の大多数は幼体のものであり、カーペンターおよびTidwellはマーシュの2種P. nanusと P. altusはA. johnstoniの異なる成長段階のものでるあると考えた。 しかし、他の研究者はアストロドンとプレウロコエルスの同義化に有利な説得力のある議論はないとしている。Peter Rose (2007)に拠れば、Astrodon johnstoniの歯やプレウロコエルスのものとされる化石にはいずれも「ティタノサウルス形類内で形態的に識別する」証拠く、 つまり歯では他の属との識別には限界があるとしている。いかなる比較もプレウロコエルスのものとされている標本と行わなければならないがPleurocoelus nanusとP. altusのタイプ標本(各々4つの椎骨と2つの後肢の骨)はどちらもアストロドンの歯と直接比較することが出来ない。しかし、これらのアランデル累層の孤立した化石は全て、「発見地の近さと大きさに」基づいてプレウロコエルスに属するものとされた。Roseはアストロドンは識別可能な標本に基づいたものではなく、「新たに発見されたものをこの属とするべきではない」、また「アストロドンとプレウロコエルスを同義化する議論は根拠が無い」と結論した。またRoseはプレウロコエルスのタイプ標本にも分類群を識別する特徴がないとしている。 同様の主張はMichael D. D’Emic (2012)でもなされている。D’EmicはAstrodon johnstoni、 Pleurocoelus nanusおよび P. altusのタイプ標本には識別可能な特徴が見られず、こられの3つの分類群は疑問名(nomina dubia)であると考えた。D’Emicによればアランデル累層で発見されたどの竜脚類の化石もこれらの分類群のものでるとすることのできる直接的な証拠がない。またD’EmicはPleurocoelus nanusのタイプ標本は正確な発見場所が不確かであり、「これらの化石は複数の個体もしくは異なる分類群のキメラ(英語版)である可能性が高い」としている。またカーペンターとTidwellによるAstrodon johnstoniを識別する特徴の提案(タイプ標本の歯だけでなく、全てのアランデル累層で発見される竜脚類の化石は基づいている)にも批判していて、仮定されたこの分類群の固有派生形質のほとんどがカマラサウルスなどの他の竜脚類と識別可能なものではないか、もしくは標本が幼体のものであることによる性質であると主張した。
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ゴニオフォリスのタイプ種 G. crassidens は、イングランドのベリアシアン階から、属しうる種 G simus はドイツのノルトライン=ヴェストファーレン州のベリアシアン階から知られている。両者は同種である可能性もある。ゴニオフォリス属に属しうる他の種にはイングランドのベリアシアン階から報告されている G. kiplingi とポルトガルのキンメリッジアン階から報告されている G. baryglyphaeus がいる。後者はゴニオフォリス属で最古の種である。G. kiplingi の種小名はラドヤード・キップリングへの献名である。 ポルトガルの上部ジュラ系からはゴニオフォリスのものとされる卵化石が発見されている。
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アトラサウルスは1999年にMonbaron、デイル・ラッセル、フィリップ・タケ(英語版)により記載された。属名は発見地であるモロッコのアトラス山脈(ティーターンのアトラスが天を支えてるとされた場所)の高アトラス(英語版)地域と、この動物が巨大であること(体長約15 m)にちなんだものである。頭骨を含む完全に近い骨格が、モロッコのタドラ=アジラル地方、アジラル州(英語版)にあるTiougguit累層のジュラ紀中期(バトン期-カロヴォ期)の地層から発見されている。 タイプ種はAtlasaurus imelakeiで、種小名はアラビア語のImelakeという巨人の名前に由来していて、北アフリカに生息していた巨大な動物であることにちなんでいる。
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発見と種
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アパトドントサウルス属、アンカナムニア属、バプタノドン属、モレサウルス属、パラオフタルモサウルス属、ウンドロサウルス属、ヤシコヴィア属は2000年の Maisch と Matzke の論文ではオフタルモサウルス属のジュニアシノニムと考えられていたが、後の分岐学的解析によりモレサウルス属はオフタルモサウルス科の有効な属であることが判明した。オフタルモサウルス・ナタンスはオフタルモサウルスの模式種よりも他のオフタルモサウルス亜科に近縁であることが分かり、唯一利用可能な学名であるバプタノドン属の復活が必要とされている。ウンドロサウルス属の有効性は数多くの論文著者が認めており、ジュニアシノニムとした Maisch までも有効性を受け入れている。さらにロシアの分類群2つも有効な属である可能性がある Ophthalmosaurus chrisorum(Russell, 1993)は2010年にマクスウェルにより独自の属であるアースロプテリギウス属に移された。パラオフタルモサウルスとヤシコヴィアについてはオフタルモサウルスとは異なり明らかに有効な属である。
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発見と種
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この種の化石は1950年代に、カンザス州オタワ郡ウェルスの牧場主ウォーレン・H.コンドレイによって発見された。コンドレイはカンザス大学の学長、フランクリン・デイビッド・マーフィ(en)に指導してもらえるように、フランク・カールソン(en)上院議員に知らせた。マーフィーは化石を調査するために、カンザス大学博物館の古脊椎動物部門のプレパレーターであるラッセル・R.キャンプを派遣した。1955年7月、キャンプはコンドレイの助けを借り恐竜の骨格を発掘した。化石はキャンプとGlenn H. Marihughによりさらにクリーニングされ、1961年に同じくカンザス大学のセオドア・H.イートン・ジュニアにより新属シルヴィサウルスのタイプ種シルヴィサウルス・コンドライ(Silvisaurus condrayi)として命名、記載された。属名はラテン語で「森林」を意味するsilvaに由来し、この恐竜が密集した森の中に生息していたという考えに基づく。種小名は発見者のコンドレイに献名されている 。現在のところシルヴィサウルス属にはタイプ種のみが含まれる。 ホロタイプ標本KU 10296はカンザス州のダコタ累層(en )のテラコッタクレイメンバー(en)(アルビアン後期-セノマニアン前期)の露頭で発見され、頭骨を含む不完全な骨格から構成されている。この標本に含まれるのは下顎骨、8個の頸椎、10個の胴椎、6個の仙椎、3個の尾椎、左側の恥骨の断片、右大腿骨の下端、および後肢の末節骨である。体の装甲のプレートとスパイクが追加で発見されている。干上がった川底で晒され、牛に踏みつけられているため化石の保存状態は悪い。一部の要素は印象化石や天然のキャストとして残っているだけである。
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発見と種
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リオプレウロドンという属名は1873年に Henri Émile Sauvage により命名された。Sauvage は本属に分類した3種をそれぞれ1本の歯に基づいて命名した。その歯の1本は歯冠:133が7.5センチメートルで、ブローニュ=シュル=メール近郊に分布するカロビアン階から産出したものであり:32、この歯に基づいて Liopleurodon ferox が命名された。フランスのCharlyから産出した長さ7センチメートル、歯冠5.5センチメートルの歯は、Liopleurodon grossouvrei と命名された。3本目の歯はフランスのカーン近郊で発見され、当初は Eudes Deslongchamps により Poikilopleuron bucklandi に分類されていた。この歯はメガロサウルス類のものであった可能性もあったが、Sauvageはその根拠がないと考え、Liopleurodon bucklandi に分類した。この記載において、Sauvageは本属を特定の爬虫類のグループに分類しなかった。 リオプレウロドンの化石は主にイングランドとフランスで発見されている。ドイツでは、リオプレウロドンに関連するイングランドやフランスの化石と同時代(カロビアン - キンメリッジアン)の化石標本が知られている。 リオプレウロドン属には2種が分類されている。イングランドとフランスのカロビアン - キンメリッジアン階からは L. ferox が良く知られており、イングランドの同時期の層からはより希少な L. pachydeirus も算出する。後者はSeeley (1869)でプリオサウルスの種として記載された。L. ferox は程度の差はあれど完全な標本から知られている。Liopleurodon grossouvrei は大半の研究者から Pliosaurus andrewsi のジュニアシノニムとされているが、P. andrewsi やリオプレウロドンのタイプ種と十分に異なる別種である可能性もある。
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発見と種
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「シンジャンゴベナトル」の記事における「発見と種」の解説
化石は中国、新疆ウイグル自治区ウルホ区の連木沁累層(en)で発見され、1973年に董枝明によって記載された。ホロタイプ IVPP 4024-2は脛骨、3つの腓骨の断片、踵骨、距骨を含む関節した状態の部分的な右後肢であり、元々はファエドロサウルス(Phaedrolosaurus)の新たな標本だと考えられた 。しかし、ファエドロサウルスは識別特徴がない1本の歯に基づいており、この後肢の標本には2005年に独自の属名がオリバー・ラウフト(de)と徐星により与えられた 。タイプ種はXinjiangovenator parvusである。属名は発見された地域である新疆(Xinjiang)とラテン語で「ハンター」を意味するvenatorから派生している。種小名parvusはラテン語で「小さい」という意味である。
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発見と種
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1985年、化石ハンターパトリック・マクシェリーはワイオミング州ジョンソン郡の放牧場で剣竜類の化石を見つけた。彼は標本についていた固い石をうまく除去できなかったので、ウェスタンパレオントロジカルラボラトリー株式会社のロナルド・ミオス Ronald Mjos とジェフ・パーカー Jeff Parker に助力を乞うた。彼らはブリガムヤング大学の古生物学者ディー・ホール Dee Hall にも協力を求めた。当初、それはステゴサウルス・ステノプス Stegosaurus stenops であると考えられた。しかしクリフォード・マイルズ Clifford Miles は化石を補修した際、新種である可能性に気づいた。 模式種ヘスペロサウルス・ムジョシ Hesperosaurus mjosi は2001年にケネス・カーペンター、クリフォード・マイルズ、そしてカレン・クラウォードによって記載された。 属名はアメリカ西部で化石が見つかったことに因み西を意味する古代ギリシャ語での ἕσπερος, hesperos という単語がつけられ、「西のトカゲ」の意をなす。種小名はロナルド・ミオスへの献名である。ミオスは発掘に貢献し、デンバー自然史博物館に展示されている標本DMNH 29431 の組立骨格の作成も手がけた功績がある。 ホロタイプ、 HMNH 001 (後の HMNS 14)は、モリソン累層下部のウィンディーヒル部層で見つかった。年代は後期ジュラ紀キンメリッジ期、約1億5600万年前である。2001年にアメリカ最古の剣竜として報告された。それはほぼ完全な頭骨、多くの骨格で構成されている。頭骨の他は、下顎骨の後部、舌骨、13個の頸椎、15個の胴椎、3つの仙骨、44個の尾椎、頸肋骨、尾肋骨、血道弓、左肩甲骨、完全な骨盤、骨化した腱、そして首と背中のプレート(骨板)で成る。この骨格は部分的につながっており、骨折部位の治療痕から老成個体と見なされた。その標本は岡山県の林原自然科学博物館に展示されていたが、2016年に福井県立恐竜博物館のトゥオジャンゴサウルスの配置されていた場所に移った。 1995年より、ワイオミング州ビッグホーン郡のハウ・スティーヴンス採石場(かつてバーナム・ブラウンによって調査されたハウ放牧場と新しい所有者のスティーブンス誌に因んだ名前)にて、スイスの古生物学者 Hans Jacob Siber は剣竜の標本を発掘している。最初のものは SMA 3074-FV01(SMA M04)という標本番号でマックスとモーリッツに因み「モーリッツ」と呼ばれる部分的な骨格である。なぜマックスとモーリッツに因んだのかというと、先にその地層で発見されていた竜脚類ガレアモプスの標本がマックス[要曖昧さ回避]と呼ばれていたからである。1995年9月、標本番号SMA0018(これも間違ってSMA M03と言及されることがある)が発見され、元の「ビッグアル」が政府に押収された後に「ビッグアル2号」を発見した際の調査隊の勝利感から「ビクトリア」と名付けられた。ビクトリアには皮膚と角質の鞘の印象が保存されており、頭骨を含んだかなり完全な骨格である。第3の標本は2002年に発見され、標本番号は SMA L02で、ボランティアとして発掘を支援したニコラ・リリックとラベア・リリックの姉妹に因み「リリー」と名づけられた。リリーは、スイスのアータール恐竜博物館 (Aathal Dinosaur Museum) のコレクションの一部となっている。当初、それらは全てステゴサウルスの標本とみなされた。2001年には「モーリッツ」と「リリー」のみがcf(参考標本)ヘスペロサウルス・ムジョシとして再分類された。2010年、「ビクトリア」は Nicolai Christiansen によってヘスペロサウルス・ムジョシに帰属させられた。 カーペンターはもともと、ヘスペロサウルスはどちらかというと基盤的なステゴサウルス類であると結論づけていた。しかし、2008年のスザンナ・メイドメント Susannah Maidmentらは、ステゴサウルスおよびウエルホサウルスと非常に近縁な、より進化した形態のステゴサウルス類として、より広範な系統発生学研究を発表した。彼らはヘスペロサウルスはステゴサウルスの一種と考えるべきで、Hesperosaurus mjosi はStegosaurus mjosi となり、同時にウエルホサウルスもStegosaurus homheni と再命名すべきであると主張した。これは現在も議論の最中である。生物学において「属」という概念は定義されていない。つまり一般的には操作上の明確な定義は与えられていないので、特定の種が特定の属に属しているかどうかを経験的に判断することが許されている。そこでカーペンターは、この問題の本質は科学的なものではなく哲学的なものあると考え、2010年にヘスペロサウルスは別の属名を与えられるほど充分にステゴサウルスとは異なるという意見を表明してヘスペロサウルスがステゴサウルスのシノニムであることを否定した 。2010年、クリステンセンも同じように属の有効性を判定した 。 2015年、追加の標本が報告された。モンタナ州グラスレンジ近郊のJRDI 5ES採石場で少なくとも5個体分が集中して発見された。そしてコモブラフのメイリーン採石場では2個体分の標本も見つかっており、ヘスペロサウルスと同定されている。
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発見と種
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「ゲオステルンベルギア」の記事における「発見と種」の解説
G. ステルンベルギの最初の化石はジョージ・フライヤー・スタンバーグによって1952年に発見され、1966年にジョン・クリスチャン・ハークセンに記載された。産出はニオブララ累層下部からであり、プテラノドン・ロンギケプスより古く、ステルンベルギ種はその祖先であるとベネットらは考えた。 ほぼ完全な標本がアルバータ大学の古脊椎動物学博物館に展示されており、UALVP 24238とナンバリングされている。産地はカンザス州のニオブララ累層スモーキーヒルチョーク部層である。これは翼開長(4メートル)からして亜成体であると思われる。その骨格は頭骨と翼および足の先端だけ失われており、1974年に記載された。年代はコニアク期後期ないしサントン期前期、つまり約8600万年前頃である。 2010年、アレクサンダー・ケルナーはこの標本はゲオステルンベルギア属から分けるのに十分な固有の特徴をもっているとしダウンドラコ・カンザイ Dawndraco kanzai (属名はイロコイ文化における天空の女神"Dawn"とラテン語で竜を表す"draco"の合成、種小名はカンザスの語源ともなったアメリカ先住民のKanza族に由来する)を設立した。ケルナーは頭骨のいくつかの特徴から D. kanzai の独自性を主張した。特にメスのプテラノドン属のように口吻が強く反らない点を指摘した。これは鼻筋に沿ってクレストの稜が走っていたに違いないと考えた。しかし、エリザベス・マーティンシルバーストーンらが2017年に発表した再検討の結果では、鼻の特徴の違いは、ホロタイプのクレストがケルナーが比較に使用したゲオステルンベルギアの標本よりも長く広かったためであるとされた。マーティンシルバーストーンは、ダウンドラコは徐々に隆起する非常に長いクレストをもったオスのG.ステルンベルギに過ぎないと結論付けた。 ゲオステルンベルギアの化石は、アメリカ中部のニオブララ累層とシャロンスプリング累層から知られている。ゲオステルンベルギアはコニアシアン後期からカンパニアン前期の間の400万年以上にわたりグループとして存在していた。化石はニオブララ層下部に分布し、中部より上からは見つかっていない。2003年にケネス・カーペンターはこの地層の化石の分布と年代測定を行い、8850万年前にG. ステルンベルギがそこに生息していたことを明らかにしたが、後にG. マイセイと命名された種は8150万年前から存在していたらしい。
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発見と種
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/28 05:06 UTC 版)
ウィリナカケはいくつかの固有派生形質をもつ標本から知られている。それは幼年の個体で、アレン累層下部のサリトラルモレノ発掘地で見つかった。ホロタイプは MPCA-Pv SM 8。これは右の前上顎骨だけで構成される。二つ目の標本はマルビナスアルゼンティナスパルティード Marvinas Argentinas Partido で発見された。これらの標本を合わせて頭骨が復元された 。いくつかの化石は潜在的にパタゴニアにおけるランベオサウルス亜科の代わりとなるような恐竜として以前議論されていたものである。 ウィリナカケは2010年にバリエリ Valieriらによって命名された。模式種はウィリナカケ・サリトラレンシス Willinakaqe salitralensis。属名はマプチェ族の言葉で「南のアヒルもどき」、種小名はサリトラルモレノ発掘地に因む。 最大の個体は約9mの全長である。骨盤上部と尾の付け根に長い棘をもつことが大きな特徴である。 ウィリナカケ・サリトラレンシスと本種の化石要素の属性に関する原記載の改訂が2016年に、カバレロとロドルフォ・コーリアによって行われた。彼らは、ウィリナカケとされた化石はハドロサウルス類の複数のタクソンの組み合わせであり、元記載のすべての内容は無効であると主張し、ホロタイプ自体もあまりにも風化しており、同定の参考とするには不完全すぎるとした。したがって、ウィリナカケというタクソンは疑問名とすべきだと結論づけた。
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発見と種
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/28 04:34 UTC 版)
ホロタイプ(ZCDM V0016)は、中国山東省の九口の上部白亜系の王氏層から産出したものである。これは諸城恐竜博物館のコレクションの一部であり、完全な仙椎、数本の骨化腱、骨盤の両半分、前方の15個の尾椎、右大腿骨、脛骨、腓骨からなる不完全な部分的な関節骨格で構成されている。イスキオケラトプスは2015年にオープンアクセスないしフリージャーナルで記載された18の恐竜のタクサの一つである。 系統解析ではイスキオケラトプスはレプトケラトプス科に分類されている。モンタノケラトプスと近縁なタクソンであると考えられている。以下の系統樹は2015年のマコヴィッキー他によるトポロジーを参照したもの。 角竜下目 インロン カオヤングサウルス シュアンフアケラトプス プシッタコサウルス科 新角竜類 リャオケラトプス アクイロプス ヤマケラトプス アウロラケラトプス アーケオケラトプス科 ヘリオケラトプス アーケオケラトプス・オシマイ アーケオケラトプス・ユジンゼンシス コリアケラトプス コロノサウルス類 レプトケラトプス科 アシアケラトプス ケラシノプス モンタノケラトプス イスキオケラトプス プレノケラトプス レプトケラトプス ウダノケラトプス ズケンケラトプス グリフォケラトプス ユネスコケラトプス グラキリケラトプス プロトケラトプス科 バガケラトプス ラマケラトプス ブレヴィケラトプス マグニロストリス プロトケラトプス・ヘレニコリヌス プロトケラトプス・アンドレウシ アイカケラトプス ズニケラトプス ケラトプス科
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発見と種
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/28 10:18 UTC 版)
2005年、サウスダコタ州ハーディングの古生物学者ロバート・デパルマは多様な恐竜やその他の動物の化石が含まれた大規模なボーンベッドを発見した。そこから大型のドロマエサウルス類と推定された部分的な骨格が産出した。その後、同じ場所でさらにドロマエサウルス類の化石が出てきた。2015年、模式種ダコタラプトル・スステイ二(Dakotaraptor steini)がロバート・デパルマらによって命名・記載された。属名はサウスダコタおよびダコタ族とラテン語で「泥棒、略奪者」を意味する raptor の組み合わせである。種小名steiniは、古生物学者ウォルター・スタイン(Walter W. Stein)への献名である。ダコタラプトルは2015年にオープンアクセスまたはフリージャーナルで記載された18の恐竜のタクサのうちの一つである。 ホロタイプPBMNH.P.10.113.Tは、後期白亜紀マーストリヒチアン階のヘルクリーク層上部の砂岩から発見された。頭骨を欠いた成体の部分骨格で構成される。すなわち胴椎の一部、10個の尾椎、両方の上腕骨]、橈骨、尺骨、第1および第2中手骨、左手の三つの爪、右の大腿骨、両方の脛骨、右の距骨、左の踵骨、左の第2、第3、第4中足骨、右の第4中足骨、そして右足の第2、第3末節骨である。後に叉骨もその標本の一部として報告された。ホロタイプの骨とは別に、同地域でより華奢な形質を示すドロマエオサウルス類の骨が複数発見されたが、これらもダコタラプトルに属すると診断された。これらには、PBMNH.P.10.115.T: 右脛骨、PBMNH.P.10.118.T: 癒合した左距骨と踵骨が含まれる。KUVP 152429はダコタラプトルの叉骨と同定されていたが、現在は既知のダコタラプトルの標本群から除外されている。これらの化石はパームビーチ自然史博物館のコレクションの一部である。他には KUVP 156045:単離歯、および NCSM 13170:叉骨が報告されたが、これらも現在はダコタラプトルから除外されている。
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発見と種
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/29 02:48 UTC 版)
シノルニトサウルスは北京の中国科学院古脊椎動物・古人類研究所(IVPP)の徐星、汪筱林、および吳肖春により発見された。羽毛の印象を持つほぼ完全な化石が中国、遼寧省の義県累層(en)で発掘された。同層は化石に恵まれ、シノルニトサウルス以前にも4属の羽毛をもつ恐竜(プロターケオプテリクス、シノサウロプテリクス、カウディプテリクス、およびベイピアオサウルス)の化石が発見されている。ホロタイプ標本であるIVPP V12811は古脊椎動物・古人類研究所に所蔵されている。 標本 NGMC 91 は中国地質博物館に収蔵されている。この標本は遼寧省、凌源市の范杖子発掘地で収集された。この場所は大王杖子層、白亜紀前期アプチアン、1億2200 万年前の一部である 。足の近くには淡水魚の一種リコプテラ(英語版)の化石も保存されていた。
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発見と種
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/29 02:52 UTC 版)
1970年の夏、ナショナルジオグラフィック協会とロサンゼルス自然史博物館が古生物の合同発掘調査隊を結成し、地質学者ウィリアム・J・モリスが先導者となってバハ・カリフォルニア州の Arroyo del Rosario へ向かった。試掘の間に有志のハーレイ・ジェームズ・ガルバニが Cerro Rayado に近い Punta Baja の北側で獣脚類の骨格を発見した。ガルバニはこの地で1970年から1971年にかけて発掘を行った。 模式種ラボカニア・アノマラはラルフ・モルナーが1974年に記載・命名した。属名は「赤い三角江」と名付けられた La Bocana Roja 層にちなみ、種小名はラテン語で「変則の」という意で、独特の体躯を反映している。
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発見と種
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/12 15:17 UTC 版)
「イェフエカウケラトプス」の記事における「発見と種」の解説
イェフエカウケラトプスの標本は2007年から2011年にかけての探険で発掘された。場所はコアウイラ州オカンポのラ・サラダの町の近くのアグヤ累層の一部でテキサス州のビッグベンド国立公園から南に23.3kmの距離である。堆積岩の地質年代は白亜紀後期カンパニアン期であることは確かだが、それ以上の詳細は調べることが難しいらしい。イェフエカウケラトプスのホロタイプは砂漠博物館で古生物コレクションとして保管されている。 ホロタイプは CPC 274 とナンバリングされた。それはほぼ完全な左の鱗状骨、3つの後頭骨断片、1つの前上顎骨の断片、歯骨、 肩甲骨、脛骨、そして壊れた神経棘つきの頸椎で構成される。上腕骨の一部、尾を支える骨化した腱、そしてその他諸々の雑多な骨の断片も見つかっているがホロタイプには含まれなかった。加えてとても小さい 腸骨の断片が第二標本、 CPC 274 とされたが小さすぎて2017年の記載論文では参照されず、標本番号は CPC 1478 に変わった。 またこれら2つの標本はいずれもリベラシルバ等によって2016年に分類不明のセントロサウルス亜科として記載されていた 。それらはエクトール・エドゥアルド・リベラ=シルバ Héctor Eduardo Rivera-Sylva、エベラルド・フレイ Eberhard Frey、ヴォルフガンク・シュティネスベック Wolfgang Stinnesbeck、ホセ・ルーベン・グスマン=グティエレス José Rubén Guzmán-Gutiérrez、そしてアルトゥロ・オメロ・ゴンザレス=ゴンザレス Arturo Homero González-González によって、鱗状骨の固有派生形質に基づきイェフエカウケラトプス・ムデイとして記載された。種小名は砂漠博物館(Museo del Desierto)の略称(MUDE)に由来する。
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発見と種
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2013/06/24 16:10 UTC 版)
属名のhong、shanは官話の紅、山、saurusはギリシア語でトカゲの意味のsaurosから来ている。紅山はホンシャノサウルスの化石発見地に近い、古代紅山文化にちなんだものである。タイプ種であり唯一の種であるH. houiはこの化石の精選を行った中国科学院古脊椎動物・古人類学研究所(IVPP)の教授である侯連海(Hou Lianhai)に献名されたものである。属名、および種名はともに2003年に中国の古生物学者である尤海魯、徐星(en)、汪筱林によって命名された。 ホンシャノサウルスのタイプ標本であるIVPP V12704は幼体の頭骨であり、右側と上顎の先端を除き完全に保存されている。この頭骨の長さは5 cm弱である (You et al. 2003)。後にはるかに大きい成体の頭骨が記載され、 IVPP V12617とされたこの標本は20 cmほどである。いくつかの差異があり2属を分けているが、頭骨は近縁種であるプシッタコサウルスととてもよく似ている。ホンシャノサウルスは他のどのプシッタコサウルス科のものより低い頭骨をもっていて、眼窩は丸くなく楕円形である (You & Xu [2005]、 注:Sereno[2010]はこのプロポーションの違いはホンシャノサウルスの頭骨が圧力で壊されたためだとみなしている。) これらの頭骨は中国義縣累層から発掘されたが、ここは多くの羽毛恐竜を含む非常に保存状態のよい化石の産地として有名である。放射年代測定によるこの累層の年代は白亜紀前期アプチアン(en)初期で約1億2500万年前である。義縣では多くのプシッタコサウルスの標本が発見されており、ディスプレイのために使用されたと思われる長い剛毛の列を尾にもつものも含まれる。ホンシャノサウルスは頭骨資料しか知られていないため、このような剛毛をもっていたかどうかは不明である。
※この「発見と種」の解説は、「ホンシャノサウルス」の解説の一部です。
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発見と種
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/04/29 04:04 UTC 版)
中国地質調査所の譚は1923年、4月に山東省、将軍頂累層(カンパニアン末~マーストリヒチアン前期)の地層から最初の化石を発見した。同年10月、譚はオーストラリアの古生物学者オットー・ズダンスキーと共に、完全な上腕骨だけ追加で採集した。ホロタイプPMU R.240が発掘された地層は王氏累層。それはほぼ完全な平たい後頭部の骨で、平らで伸びている。そのほか、椎骨、肩帯、腰帯などが発見されている。タニウスとして記載された他の種は全部他の属にうつされることになった。1939年に命名されたタニウス・プリナダイ(Tanius prynadai)はバクトロサウルスに、1958年に記載されたタニウス・キンカンコウエンシス(Tanius chingkankouensis)と1976年のタニウス・ライヤンゲンシス(Tanius laiyangensis)は若いチンタオサウルスだったことがわかり、そのシノニムになった。
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発見と種
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オーストラリアの南端にある小さな Dinosaur Cove の東部 Lake Copco 採石場にて、1991年に成体と幼体合わせて計2本の大腿骨が1メートル以内の距離で発見された。トーマス・リッチと彼の妻パトリシア・ヴィッカーズ・リッチにより、模式種ティミムス・ヘルマニは1933年から1934年にかけて正式に命名・端的に記載された。属名は「ティムもどき」を意味する。これは発見者の息子ティモシー・リッチと古生物学者ティム・フラネリーに由来し、オルニトミモサウルス類との関係が推定されたことを反映するラテン語の mimus と結び付けられた。種小名は長年に渡って Dinosaur Cove プロジェクトを支えた有志のジョン・ヘルマンを称えたもの。 ホロタイプ標本 NMV P186303 は Eumeralla 層で発見され、この層は約1億600万年前の白亜紀前期アルビアンにあたる。ホロタイプ標本は成体の左大腿骨である。 1994年のトーマス・リッチ博士のコメントによると、より完全な標本をホロタイプとするのが望ましいが、この地域の露頭が限られているためティミムスの骨格が後に発見されるとは考えにくい。また、オルニトミモサウルス類の新属として同定される複数の特徴がホロタイプ標本に確認されており、ティミムスの名は古生物学の文献における資料の参照に役立ったであろう。リッチは「恐竜の名前はそれ自体が電話番号のようなものである。名前は標本と、その解析から生まれたアイデアを示すラベルである。不正確な電話帳のように混乱を招くラベルはシステムを機能不全に導くため、物に名前やラベルを付ける際には気を付ける必要がある。しかしそれは標本やそれに関連するアイデアを作り出すことではなく、単にコミュニケーションという目的に便利な手段を作ることである。」とコメントしている。 2番目の大腿骨は成長しきっていない個体のもので、パラタイプ標本 NMV P186323 に指定されている。同じ現場から出土した複数の椎骨も本種に割り当てられているほか、他の南オーストラリアから出土した骨もティミムスと同定されているものがある。
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発見と種
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1891年、トリケラトプス記載の2年後、ニオブララ群ワイオミング州南部で大きなフリルを備えた1対のケラトプス類の頭骨、ジョン・ベル・ハッチャーによって発見された。ハッチャーはオスニエル・チャールズ・マーシュに雇われた古生物学者で、それらの標本の為にトロサウルスという属名を造った。 2種のトロサウルスが現在有効である。 T.ラトゥス T. latus:Latus はラテン語で「広い物」の意でフリルについて言及したもの。 T. ユタヘンシス T. utahensis: utahensis は「ユタ州産」を意味する。 その他の種は通常T.ラトゥスと同一であると見なされる。 T. グラディウスT. gladius:Gladiusはラテン語で「剣」の意で、角ではなく長く伸びた鱗状骨に因む。 T. ラトゥスはホロタイプである断片的な頭骨、YPM 1830に基づいている。T. gladius の標本 YPM 1831はより大きな頭骨である。両方の化石はマーストリヒチアンに該当するランス累層で発見された。似た標本はワイオミング州、モンタナ州、サウスダコタ州、ノースダコタ州、 コロラド州、ユタ州、そしてサスカチュワン州からも見つかり、いずれもトロサウルスであると考えられる。これらはいくつかの確かな特徴から同定が可能だった。ANSP 15192はサウスダコタ州のより小さな個体で、エドウィン・コルバートが1944年に発見した。 MPM VP6841は頭骨を含む断片的な骨格で、ミルウォーキーで見つかった。ヘルクリーク累層のSMM P97.6.1は鼻骨を欠く頭骨で、2つの頭骨断片で2002年に報告された。1998年に発見された MOR 981と MOR 1122 は2001年に報告された。部分的な標本がテキサスのビッグ・ベンド国立公園とニューメキシコのサンフアンから見つかっているが、恐らく本属ではないかと言われている。古生物学者たちはトロサウルスの化石は普通的ではなく、トリケラトプスはより多量に見つかると述べている。 トロサウルス・ユタヘンシス Torosaurus utahensis はもともとアリノケラトプスの新種、Arrhinoceratops utahensis として1946年、チャールズ・ギルモアによって記載されていたものだ。ユタ州エメリー群で見つかった USNM 15583 とナンバリングされたフリル断片に基づく。1976年、それはダグラス・ラーソンによって現在の学名に改められた。2005年、ロバート・サリヴァンら は、ユタヘンシス種はラトゥス種よりいくらか生息年代が古いと指摘した。2008年、レベッカ・ハントは本種の追加の標本について考察し、ラトゥス種がトリケラトプスの成体であると見なされる関係で、ユタヘンシス種はトロサウルスとは別属の新属であると結論づけた。
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発見と種
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後にノトロニクスはとされる化石証拠はニューメキシコ州のズニ盆地にあるヘイバック・ビュート・サイトでの古生物調査隊によって発見された。発見されたテリジノサウルス類の腸骨の一つは当初、鱗状骨と間違えられ、新たに発見された角竜類ズニケラトプスの頭部の隆起の一部とされた。しかし、詳細な調査の結果正しく同定され、すぐに他の部分の骨格も発見された。ジム・カークランドとDoug Wolfeの率いるニューメキシコの古生物調査隊は発見した化石を新属新種Nothronychus mckinleyi のタイプ標本として、2001年8月22日にJournal of Vertebrate Paleontology誌で発表した。しかし、この名はアリゾナ・リパブリック紙で2001年6月19日にラルフ・モルナー(英語版)のコラムのなかで最初に報告されている。属名はギリシャ語で「重い」もしくは「slothful」(一般的意味は「怠惰な」、ここではsloth=ナマケモノに似たものの意味で使用)という意味のνωθρός(nothros)と「鉤爪」を意味するὄνυξ(onyx)から派生したものである。種小名は発見地の農場主Bobby McKinleyに献名されたものである。ホロタイプ標本 MSM P2106 は二つの頭骨の断片、脳函(英語版)、いくつかの椎骨、肩帯の一部、前肢、骨盤、前肢で構成される。 第2のそしてより完全な標本であるUMNH VP 16420は2000年にユタ州のビッグウォーター(英語版)に在住するMerle Graffamによってユタ州南部にあるトロピックシェイル層(英語版)(チューロン期前期)の地層から発見された。ビッグウォーター周辺の地域は北アリゾナ博物館(英語版)(MNA)による調査が何度か行われており、海棲爬虫類、とくに首長竜の化石が多数発見されている。白亜紀後期には一帯には西部内陸海路と呼ばれる浅い海が広がっており、広範に渡り海生の堆積物が保存されている。Graffamの最初発見(大きな孤立した趾の骨)は首長竜ではなく明らかに陸棲の恐竜のものであったため、に多くの研究者が驚愕した。しかし、骨の発見された場所は白亜紀の海岸線から100 kmほどの場所であった。MNAの職員によるこの地域での探査でより多くの骨格が明らかになると、この化石がテリジノサウルス類のものであると判明し、アメリカで発見された最初のテリジノサウルス類となった。それまでテリジノサウルス類の化石は全て中国とモンゴルで発見されていた。これは最も完全なテリジノサウルス科の標本であるものの、頭骨は失われている。 ユタの標本はMNAで研究され、体格(より重厚)、や年代(50万年早い)が異なるもののN. mckinleyiに近縁であることが分かった。MNAの標本はアメリカ地質学会ロッキー山脈部会の54次集会で最初に報告された。後にArizona Geology でN. mckinleyi と別種であることが議論されたものの、命名はされなかった。2009年7月15日にLindsay ZannoらによりProceedings of the Royal Society B誌において新種として分類、命名がなされた。N. graffami の種小名は最初の標本の発見者であるGraffamに献名されたものである。 N. graffami の復元骨格は2007年からMNAに展示されている。
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発見と種
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化石は1932年にMr. H.B. Wadeによりマクスウェルトン(英語版)近郊のClutha Stationで発見された。Wadeはステーション(英語版)の管理者であるH. Mackillopに報告し、Mackillopの弟がクイーンズランド博物館(英語版)に化石を送った。アウストロサウルスは1933年にHeber Longmanにより記載された。 アウストロサウルスの種 A. mackillopi A. sp. ("Elliot") 1999年にクイーンズランド州中西部のウィントン(英語版)近郊の所有地で牧畜業者のDave Elliottにより竜脚類の大腿骨が発見された。この骨はこの時点で知られていた中ではオーストラリアで最大の恐竜のものだと分かり、「Elliot」という愛称で呼ばれた。ウィントンの発見では右の大腿骨といくつかの断片的な肋骨が発掘された。古生物学者メアリー・ウェイド(英語版)にちなみ「Mary」という愛称がつけられた小型の竜脚類も発掘された。初期の推測ではこれらはAustrosaurus mackillopi に近縁であり、同じ属か近縁の属であると見られた。 2007年5月3日、2004年にクイーンズランド南西部のEromangaで発掘された巨大なティタノサウルス類の化石がブリスベンのクイーンズランド博物館での展示のために移送された。この発見はABC newsで「Elliot」をしのぐオーストラリア最大の化石と報じられた。
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発見と種
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約100年前、バーナム・ブラウンはニューメキシコ州サンフアンの白亜紀後期の地層からとしては初のケラトプス類の化石を簡潔に報告した。その標本は収集されなかった深い血管溝のある薄い鱗状骨や小さく滑らかな上眼窩角を含んでいたと述べられている。この標本は、カートランド層の上部(伝統的には上部頁岩と呼ばれる)とオホアラモ層(旧オホアラモ砂岩)の両方の堆積物を含むことが知られているサイトから出土したものであるが、正確な層序は不明である。 上眼窩角の骨芯(AMNH 5798)が薄茶褐色を示していることから、この標本は層序的に上位のデナジン部層(カートランド層上部)やその上のオホアラモ層ではなく、カートランド層下部かフルーツランド層上部から産出したものであることが示唆される。ギルモアはその後、同じ地域のケラトプス類の化石を報告している。 その中には、オホアラモ層産の4種類の標本が含まれていた。1つはフリル断片、2つ目は深い放射状の血管印象を持つフリル断片、3つ目は類似した断片、4つ目は単離歯であった。リチャード・スワン・ルル は後にこれらの標本(および他の2つの標本)をスミソニアンの国立自然史博物館コレクションの未カタログ化標本として引用しているが、この未カタログ化標本はいずれも現在スミソニアンに所蔵されておらず、その所在は不明である。 これらの標本はすべてオホアラモ層の基部にある下部礫岩の上部層から発掘されたと報告されているが、3番目の標本を除いて層序的な位置が明確ではない。 その後の論文では、ギルモアがオホアラモ層のケラトプス類の断片的な化石(ダーモスープラオッシピタル)を指摘している。 彼はこれをトリケラトプス、ケラトプス、モノクロニウスと比較して、「断片的なフリルで、開口部が上記のいずれの属よりも明らかに小さい」と解釈した。 おそらくこれは未記載の属である」と論じている。 残念ながら、この標本の行方も不明である。その後50年以上にわたって、オホアラモ層からは新たなケラトプス類は採集されなかった。2010年になって、オホアラモ累層ナーショイビト部層からほぼ完全な鱗状骨、歯骨、肩甲骨などを含むケラトプスの頭骨化石がサリヴァンとルーカスによって報告され、鱗状骨SMP VP-1865をホロタイプとしてオジョケラトプス・フォウレリと命名された。属名は「オホアラモの角の顔」を意味し、種小名はデンヴァー・ファウラー Denver Fowler への献名である。オジョケラトプスの固有派生形質とされている特徴は角張った鱗状骨である。化石はいずれも断片的であるが、これまでに発見されたオジョケラトプスの標本はほぼオジョケラトプス・フォウレリに属するものと結論づけられた。オジョケラトプスのような角張った鱗状骨を有するケラトプス類は非常に珍しいが、他の地域から発見されたトリケラトプス・ホリドゥスと同定されている鱗状骨でも同様の特徴がみられるため、ロングリッチ(2014)は本種をトリケラトプス・ホリドゥスのジュニアシノニム、あるいは本属をトリケラトプスのジュニアシノニムと見做されると指摘している。他の特徴はトリケラトプスより基盤的とされているが、ホロタイプが鱗状骨のみであり、オジョケラトプスであると確定できない標本がほとんどである。ナーショイビト部層から報告されたケラトプス類の鱗状骨の中にはトロサウルス・ユタヘンシスとされたもの(NMMNH P-22884)が存在する。ルーカスらはこれもオジョケラトプスに含めたが、オジョケラトプス・フォウレリのホロタイプよりもむしろトロサウルス・ユタヘンシスに近い形質であり、ロングリッチ(2014)はオジョケラトプスのホロタイプと同形の鱗状骨を含まないものについてオジョケラトプスと同定することは困難であるとしている。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 07:11 UTC 版)
アンキケラトプスは、1912年、カナダ・アルバータ州のレッドディア川で最初の標本が発見された。ホロタイプは頭蓋骨の後ろ半分で、長いフリルを含んでいる。そして他の部分的な頭蓋骨がいくつか同時に発見された。それらは現在、米国ニューヨークにあるアメリカ自然史博物館で展示されている。1924年には一対の頭蓋骨がチャールズ・M・スタンバーグによって発見され、Anchiceratops longirostris として記載された。それから5年後の1925年、他の種がスタンバーグによって収集された。それは、頭蓋骨の一部が不足していたが、最後部の脊椎まで完全な脊柱を保存しており、それまでの角竜化石の中で最も完全な骨格である。スタンバーグの資料は、オタワにあるカナダ自然博物館(英語版)で収容されている。その後、他の資料がアルバータの1つあるいは2つのボーン・ベッドで発見されたが、アンキケラトプスについてはほとんど記述されなかった (Dodson, 1996)。 アンキケラトプス属の命名・記載は1914年にアメリカ人古生物学者バーナム・ブラウンによって行われた。この新たな化石は、その形態からモノクロニウスとトリケラトプスの両系統に近縁であり、その両者の共通の祖先であるとされ、"角のある顔に近いもの"という意味の、古代ギリシャ語に由来する属名が与えられた。 今日、唯一の明確な種、A. ornatus が知られている。これはその華麗 (ornate) なフリルに因んで命名されたものである。2つ目の種はチャールズ・M・スタンバーグによって1929年に記載された先述の A. longirostris である。しかしこの種は今日では、模式種 A. ornatus のシノニムであると広く信じられている。
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発見と種
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Magnirostris dodsoniは尤海魯(You H.-L.)と董枝明により2003年に記載されたもので、the Sino-Canadian Dinosaur Projectにより中国、内モンゴル自治区のバヤン・マンダフ累層(Bayan Mandahu Formation)で収集されたほぼ完全に近い頭骨によるものである。種小名は古生物学者のピーター・ドッドソンPeter Dodson献名されたものである。 バガケラトプスの変種に過ぎない可能性もあり、眼窩上の角はアーティファクトかもしれない。
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発見と種
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1875年5月23日、スウィンドン・ブリック・アンド・タイル・カンパニーのジェームズ・ショップランドは大英博物館のリチャード・オーウェン教授にウィルトシャー、スウィンドンのオールドスェイドンにあるスウェイドン大採石場のクレイピットで、また、化石骨格が採取されたと報告した。オーウェンは標本を保管するためにウィリアム・デイヴィスを派遣したが、化石資料は8フィートの高さの粘土質ノジュールに包まれていると分かった。全体を搬出する際、化石を含むロームの塊はいくつかの小片に砕けた。資料は箱に入れた状態で最終的に総重量3tとなってロンドンへと送られた。化石はその後オーウェンのプレパレーターである石工カレブ・バーロウにより一部が剖出された。 オーウェンは1875年にタイプ種Omosaurus armatusを命名、記載した。属名はギリシャ語のὦμος、omos="上腕" から派生し、 堅牢な上腕骨にちなんでいる。種小名armatusはラテン語で"装甲した"の意味で、オーウェンが上腕についていると仮定した大きなスパイクにちなんでいる。 ホロタイプBMNH 46013はキンメリッジ・クレイ累層(en)のキンメリッジ期後期の層から発見された。主要なノジュールの破片には以下のものが含まれていた、骨盤、一連の6個の後方の胴椎、全ての仙骨と8個の前方の尾椎、右の大腿骨といくつかのばらばらの椎骨。標本全体では13個の分離した椎骨が存在した。他のロームの塊にはほぼ完全な左後肢も含まれていた。追加の要素には踵骨のついた部分的な腓骨、部分的な脛骨、右の首のプレートと左の尾のスパイクが含まれていた。 他にいくつかの種がオモサウルス属として命名されている。ロンドン自然史博物館の収蔵品の一部である、標本BMNH 46321はウットンバセット(en)近くのグレート・ウェスタン鉄道の切通し近くでウィリアム・カニングトン(en)によりキンメリッジ・クレイ層から発見された1組のスパイクに基づいている。これらは1877年にオーウェンによりOmosaurus hastigerと命名された。種小名は"スパイクを持つもの"もしくは"槍を振るうもの"という意味で、オーウェンがこの動物の手首についていたと想定したスパイクにちなんでいる。 1887年にジョン・ウィテカー・ハルク(en)はフレットン(en)近郊で発見した標本BMNH R1989に基づいてOmosaurus durobrivensis を命名した。種小名はローマ時代の都市名Durobrivaeにちなんでいる。この種は1956年にレクソヴィサウルス属として分離された。1893年、ハリー・シーリー(en)は大腿骨の標本YM 498に基づいてOmosaurus phillipsiiを命名した。種小名は地質学者のジョン・フィリップス(John Phillips)に献名されている。シーリーは1869年に同じ種小名を持つことに起因した誤解から、自身が提唱したPriodontognathus phillipsiiと同じタクソンであるかもしれないとして、Priodontognathusを単純にオモサウルスの下に包含してしまった。しかしながら、この解釈は誤りであり両種は異なるホロタイプに基づくものであった。シーリーは1901年に別の種を命名した:ノーサンプトンシャーで発見されたプレートである標本CAMSM (SMC) J.46874に基づいたOmosaurus leedsiで、種小名はAlfred Nicholson Leedsに献名されている。1910年フリードリヒ・フォン・ヒューネはOmosaurus vetustusを命名した。これはCherwell Riverの西の堤防で発見された大腿骨である標本OUM J.14000に基づいており、種小名は"古代のもの"という意味である。1911年、フランツ・ノプシャはOmosaurus lennieriを命名した、種小名はGustave Lennierに献名されたもので、1899年にフランス、ノルマンディー地方のCap de la Hève近郊にあるキンメリッジ期の地層Argiles d'Octevilleで発見された部分骨格に基づいている。この標本は1944年のカーンの爆撃の際に破壊されてしまった。 最後の2つのオモサウルスの種が命名されたものの、オモサウルスの名はジョゼフ・ライディにより1856年に命名されたワニ類、Omosaurus perplexusにより先取された物として知られるようになった。1902年にフレデリック・オーガスタス・ルーカス(en)はこの属をダケントルルスへと改名した。この名前はギリシャ語のδα~、da~="とても" もしくは "~で満ちた"とκέντρον, kentron= "尖り",およびοὐρά, oura="尻尾"から派生している。ルーカスは新しい名前の組み合わせをタイプ種であるOmosaurus armatusのみに与えた:Decentrurus armatus、しかし1915年にエトヴィン・ヘニッヒ(en)はほとんどのオモサウルスの種をダケントルルスへと移し、結果としてDacentrurus hastiger、 Dacentrurus durobrivensis、 Dacentrurus phillipsiおよびDacentrurus lennieriとなった 。しかし、20世紀中ごろまで研究者は一般に"オモサウルス"の名を使い続けた。以前フォン・ヒューネによってOmosaurus(Dacentrurus)vetustusとして示されたD. vetustusは、1983年にLexovisaurus vetustusとしてレクソヴィサウルスに包含された。
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発見と種
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カオヤングサウルスは中国北東部、遼寧省の朝陽(チャオヤン)市で発見された。種小名は中国人古生物学者C. C. YoungことYang Zhongjian(杨钟健)への献名である。模式種はC. youngi である。
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現在モンタノケラトプスとして知られている最初の化石は1915年にバーナム・ブラウンによりモンタナ州、バッファローレイクにある セントメリーリバー累層(St Mary River Formation)で発見されたもので、ブラウンと助手のErich M. Schlaikjerにより1935年にレプトケラトプスの種Leptoceratops cerorhynchosとして発表された。しかしながら、後にC.M. Sternberg によってより多くのレプトケラトプスの資料が収集され、L. cerorhynchosは独自の属であるとしてモンタノケラトプスが作られた。 バーナム・ブラウンによって発見された最初の標本は不十分で、頭骨の大半を欠いていたが、椎骨、骨盤、後肢を含んでいた。1998年、Brends Chinneryと David Weishampel によってより多くの資料が発見され論文が発表された。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/06/16 19:19 UTC 版)
「チュンキンゴサウルス」の記事における「発見と種」の解説
チュンキンゴサウルスの化石は1977年以降に重慶近郊で発見された。タイプ種Chungkingosaurus jiangbeiensis は1983年に董枝明、周世武、張奕宏により命名、記載された。 属名は四川省の重慶(現在の一般的なローマ字表記はChongqingであるが、かつてはChongkingという表記が使用されていた)に由来するものである。種小名は江北(Jiangbei)地区に由来するものである。 ホロタイプCV 00206は重慶層群の上部沙渓廟層(英語版)で発見された。口吻、下顎の前部、10個の胴椎、仙椎と骨盤、23個の1連の尾椎、上腕骨の下端、3個の中手骨、両側の大腿骨と脛骨、5個の背中の骨のプレートで構成される部分骨格である Dong e.a. in 1983ではこの他に3種の別のチュンキンゴサウルスの種が記載されている。これらには独自の種名はなくChungkingosaurus sp. 1-3として識別されている。Chungkingosaurus sp. 1は1個の仙椎のついた骨盤である標本CV 00207に基づいている。Chungkingosaurus sp. 2は部分骨格である標本CV 00205に基づいている。Chungkingosaurus sp. 3は末端にサゴマイザー thagomizer(尾のスパイク)が関節下10個の連続した尾椎である標本CV 00208に基づいている。 2006年にSusannah Maidmenと魏光飆は化石のほとんどは場所をもはや所在が不明であるものの、チュンキンゴサウルスは正当な属であるとみなした。また彼らはCV 00207をチュンキンゴサウルスと分類しなかった。しかし、グレゴリー・ポール(英語版)は2010年にチュンキンゴサウルスはトゥオジャンゴサウルスの幼体であると示唆した。
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発見と種
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/06/29 05:02 UTC 版)
発見は1938年で、テキサス大学により3つのボーン・ベッドが発掘された。特にそのうちの一つは72%が何らかのケラトプス類で構成されており、それらには様々なボディーサイズ、年齢のものが内包されていた。また角竜の標本がウィリアム・ストレインによってビッグベンド国立公園から集められた。 1989年、ボーンベッドが20個体以上のケラトプス類から成り、いずれも未知のカスモサウルスに属する同一種であるとしたレーマンは、これらの標本をカスモサウルス・マリスカレンシス Chasmosaurus mariscalensis として記載した。 これによりカスモサウルス類の頭部形態の個体差、そして成長過程における変化についての知見が深まった。 既知の C.マリスカレンシスの頭骨要素は限られており、フリルを成す骨はいずれも部分的であった。しかしながら、フリルはかなり太く短いことが伺われ、鱗状骨には縁鱗状骨が6つしか存在しないことは明確であった。さらに歯骨も奇妙な形状であり、本種の独自性を示唆した。 また、発見された上眼窩角と鱗状骨には二つのタイプが認められた。上眼窩角は、後方に強く湾曲し、左右に大きく開いたタイプ、および湾曲が弱くより垂直に伸び左右にあまり大きく開かないタイプ。そして鱗状骨は、短いタイプと長いタイプである。レーマンはこれらが性的二形であると考えた。しかし標本の保存状態の悪さ故、今日参考にされることは稀である。 またこの時点でレーマンはペンタケラトプスとの類似性も指摘している。 その後1991年に、さらに多くの標本が、シカゴ大学のポール・セレノの率いる探検隊の努力によって集められた。頭頂骨が失われていることを除きほぼ完全な頭骨も発見されたが、その標本はテキサス記念博物館へ送られ、1993年に TMM 43098-1として記載された。その鱗状骨はとても長く、10個の縁鱗状骨が認められた。これはケラトプス類最多である。TMM 43098-1の鱗状骨も完全には癒合していなかったものの、ビッグベンド国立公園で見つかった別のどの鱗状骨よりも癒合が進んでいた。この事から、ケラトプス類の鱗状骨の形態や縁鱗状骨の個数の差異は、成長段階の違いである可能性が示唆された。またはビッグベンド国立公園の保存の悪さに起因するともみなされた。 また、TMM 43098-1の細長くまっすぐ上に伸びる上眼窩角は、別の標本に見られる太く短い上眼窩角とはかなり異なっていたが、これも同様の理由で分類には影響しないとされた。 1938年にテキサス大学とは別にオクラホマ大学に同行したラングストンによって発見され、オクラホマ自然史博物館に収蔵されていた、四肢を含む大きな骨格、OMNH 10081もアグジャケラトプスであることが確認された。 その後の系統解析で C.マリスカレンシスがカスモサウルスではなく、ペンタケラトプスを含むクレードに含まれるようになり、それに際してルーカスらによって2006年に新属アグジャケラトプスが与えられた。 一方、他の標本と形態変異が激しすぎると思われていた TMM 43098-1であるが、アグヤ累層上部頁岩部層から新たな上眼窩角(TMM 46503-1)が発掘され、これが TMM 43098-1同様に細長い形状であった。太く短い上眼窩角をもつ標本はアグヤ層の上部頁岩部層の下部からのみ、そしてTMM 43098-1とTMM 46503-1はアグヤ層の上部頁岩部層の上部からの産出であった。この発見により、2016年にアグジャケラトプスの既知の標本のうちこれまで未記載だったものがまとめて記載された。同時に TMM 43098-1をホロタイプとして、新種アグジャケラトプス・マヴェリクス Agujaceratops mavericusが記載された。 近年の研究では、成長に伴って大幅なホーンレットの増加が起こらないことが示唆されている。 メディアによってはアグジャケラトプス属共通の特徴として、まっすぐ上に伸びる上眼窩角が紹介されている場合があるが、上述のとおりその特徴はA.mavericus をA.mariscalensis と区別する形質であり、まったくの誤りである。同時にペンタケラトプスとの類縁性の説明として短いフリルが紹介されているケースもあるが、実際はその分類においてフリルは関係はなく、むしろペンタケラトプスのフリルはアグジャケラトプスのそれよりも相対的にも絶対的にも長い。
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