概要・来歴
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「peppermints kiss cafe」の記事における「概要・来歴」の解説
シンガーソングライターのhàlとマニピュレーターのジャニオこと山岡広司、そしてギターのMicky(ミッキー、現・ヒラマミキオ)からなる、3人組の音楽ユニット。 2000年10月、hàlのレコーディングを切っ掛けに3人が出会う。2001年10月、東京都内のライブハウスにてライブ活動をスタート。 2002年のライブを最後に、公式には何のアナウンスもなく自然消滅した。しかし以降もhàlのライブにMickyや山岡がゲスト出演したり、普段も3人で会うこともあり、仲違いでの消滅ではない。2004年からMickyが晝海幹音として東京事変へ参加することが決まり、以降メンバーそれぞれのタイミングが合わなくなったゆえの消滅であると思われる。
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概要・来歴
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2009年に結成される。2009年12月23日にシングル「NEW MUSIC MACHINE」がリリースされ、翌12月24日に上海ロックフェスティバルに出演する。 2010年2月24日に、川本真琴のカバー曲「1/2」が着うたリリースされる。2010年4月22日に、渋谷O-nestにて日本で初となるライブ出演をする。2010年5月29日に、Hills_パン工場にて初の主催イベント「あるPANDAの世界紀行 ~北欧編~」を開催する。
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概要・来歴
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上野東急は1957年1月19日にオープン。こけら落としは『十人のならず者』(ランドルフ・スコット主演)。1966年8月1日に株式会社東急文化会館に合併、さらに同年11月1日には新日本興業株式会社(後に東急レクリエーションに改称)に吸収合併された。 1977年8月6日、『宇宙戦艦ヤマト』(舛田利雄監督)が封切。後にアニメ監督となる難波日登志は、出身地の新潟県から上野東急まで行って観賞したことを自身のツイッターで明かしている。 1981年10月18日より休館した後、1982年12月4日に地上6階建ての「上野とうきゅうビル」に建て替えられ、1階に東映系封切館の「上野東映」、3階に洋画ロードショー館の「上野東急」が入り、2スクリーン体制となる。改築後の第一作として封切られた『E.T.』(スティーヴン・スピルバーグ監督)は驚異的な大ヒットとなった。 1998年3月には上野東映を「上野東急2」に改称し、東映の封切館から松竹・東急系の洋画ロードショー館へと転向した。 しかし2003年8月31日に上野東宝劇場・上野宝塚劇場が、2006年5月14日に上野セントラルが閉館すると、番組編成のフリー化が進むようになり、東急が丸の内ルーブル・丸の内ピカデリー系を、東急2がTOHOシネマズ日劇系の作品を主に上映するようになる。さらに錦糸町や亀有などの近隣地域にあるシネマコンプレックスに客足を奪われたことも逆風となり、2012年1月30日に同年4月末での閉館を発表。同年4月30日午後8時40分終映の『バトルシップ』(ピーター・バーグ監督)を最後に55年の歴史に幕を閉じた。同じ上野とうきゅうビルの5階と6階に入っていた「ラドン&サウナ 東泉」も翌日5月1日の営業をもって閉店している。 跡地は同年10月末、東急電鉄に約13億円で売却され、解体後にマンションを建設する予定とされていたが、2016年3月1日、「アパホテル京成上野駅前」がグランドオープンし、現在に至る。また上野東急閉館後、2017年11月4日にTOHOシネマズ上野(上野フロンティアタワー内)がオープンするまでは、上野方面の映画館は成人映画館の上野オークラ劇場のみとなっていた。
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概要・来歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/14 11:51 UTC 版)
2002年に大塚竜也のプロデュースユニットとして旗揚げし、2004年より本格的に劇団として活動を開始した。小劇場を中心に、ダンスや殺陣を取り入れたエンターテインメント性の高い作品を上演していた。 2008年頃よりニコニコ動画で動画投稿を開始。 2008年1月、宣伝のためにYouTubeに動画投稿を開始した。 2009年1月13日、ニコニコチャンネルに「劇団スカッシュ」を開設。 劇団とYouTubeとバイトの両立がうまくいかず、石澤と藤原の2人が退団。現メンバーの4人体制になった時に、「4人にしかやれない演劇をやろう」と目標を立てた。 2011年「YouTube NextUp2011」の初代入賞者にMEGWINらと共に選出される。同じ年に「喜劇な家族」で「YouTube Video Awards Japan 2011」特撮・実写部門大賞を受賞した。 2011年3月下旬より、東日本大震災を受けて、被災地となった岩手県宮古市出身の前川を中心に支援活動を開始。支援物資を募り被災地に運び、前川の出身児童館でミニ公演を行った。 2013年、YouTube Space Tokyoのオープニング企画としてYouTubeにアップされた、ホラーコメディ作品「Stalking Vampire~隙間男~」がヒット。監督を劇団スカッシュ、CGをABTVNetworkが担当した。 2014年8月22日、オランダの公共放送VPROで放送された「De Donuts」(世界中のYouTuberを紹介するテレビ番組)に唯一の日本人YouTubeクリエイターとして動画作品を提供。けん玉を題材にしたユニークなショートフィルム「New Use of Kendama」が放送された。 2017年、前年の舞台公演作品『Blue』とYouTubeにて公開した前日譚『日々ココモ』を収録したDVDを発売。TSUTAYAにて全国規模でレンタル展開した。YouTuberの作品がDVDを全国でレンタル展開するのは初。 2019年6月よりALPHABOATに所属を発表。同時に、2月に前所属事務所であったBREAKERを退所していたことを明かした。 2020年、オンラインサロン「スカイギ」を立ち上げた。 2020年11月9日、所属俳優である中田大地が、体調不良を理由に休団することを発表した。 2022年1月11日、新劇団員を入れる方針を発表した。 2022年1月19日、劇団が資金難であることを明らかにした。また、ドラマ「明日ゾンビになる君と」の結果次第で劇団を解散することも視野に入れて、ドラマ制作を行っていたことを明らかにした。今後は、コント公演を演劇活動の中心とする方針である。 2022年1月21日、新劇団員として奈良岡にこが加わることが発表された。コント公演に出演する予定である。 2022年2月7日、休団中の中田大地が、Twitterおよびnoteで近況報告を行った。
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概要・来歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/10/29 19:18 UTC 版)
下北沢でバンド活動に没頭した後、アメリカのニューオーリンズに渡ったギタリストのOSAMUが、帰国後に近藤房之助から北海道出身の女性ボーカリスト・michiを紹介されたことが結成のきっかけ。ほとんどの楽曲を彼ら自身が手がけている。 2005年、インディーズアルバム『poo poo pi doo』でビーイングのインディーズレーベル“レント舎”からデビュー。 レント舎からインディーズアルバムを2枚リリースした後、2007年、ZAIN RECORDSからメジャーデビュー。アルバム『トランジスタブルース』を発表した。収録曲の「JET RAG」はiTunes Music Storeのブルース部門チャートで第1位を獲得した。 数多くのライブ活動をこなす一方で、OSAMUは“岩瀬オサム”として他アーティストの楽曲にギターや作詞・作曲で参加している。主な作品は、Ryu「遅刻」(作詞)、BON-BON BLANCO「Foxy Boy」「くちびるエモーション」(作詞・作曲)、INTER-D「Today is the day」(作詞)など。 メジャーデビュー以降、2枚のアルバムと2枚の配信限定シングルを発表し、ライブ活動も多く行っていたが、2009年11月6日4時30分に、OSAMU(本名:岩瀬理)が急逝した。死因などは明らかにされていない。このため11月16日に予定されていた四谷メビウスでのライブは中止となる旨が発表された。 その後、2010年からmichiのソロユニットとして活動を再開した。主にライブ活動をはじめ、アルバムや配信限定シングルを次々と発表する。2012年3月をもって、デビュー以来所属したビーイングを離れ、フリーランスで活動している。
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概要・来歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/10/22 00:21 UTC 版)
ニューヨーク、ビート・ジェネレーションの、トゥリ・カッファーバーグ(Tuli Kupferberg)とギリシャ哲学を修め書店「ピース・アイ」(Peace Eye)を経営するエド・サンダース(Ed Sanders)の詩人二人にテキサス州在住でアメリカ空軍勤務のケン・ウイーヴァー(Ken Weaver)が加わり1964年に結成した。 既に名を成していたカッファーバーグ、サンダースはそれぞれ現代詩や著作を発表する一方、政治批判、社会風刺を織込んだ詩でゲストにギター、ピアノが伴奏する朗読会、ポエトリーリーディングなどを合名で主催していた。ウイーヴァーはそこに文通から交流を持ちやがて空軍の除隊を決めてニューヨークへ移動合流し朗読会に参加、ここから三人の詩人は一人の朗読に留まらない表現の追求にグループを結成した。グループ名「ファッグス」はノーマン・メイラー(Norman Mailer)の小説「裸者と死者」の一節にちなむ。詩詠唱に加えて歌唱と各自が楽器を担当したが鼓笛隊(マーチングバンド)で打楽器を会得していたウイーヴァーと異なりカッファーバーグ、サンダースには器楽演奏の経験はなく、稚戯な振舞いでピアノの弦を弄る行為など楽器へ情緒的破壊行為を伴わない目的外の音色で伴奏する「楽器の侮辱」パフォーマンスを展開した。朗読会同様、フォーク・シーンのコーヒー・ハウスといった場所のステージに立ち、平和運動などの集会にゲストとして招かれ演奏しデモ行進に立つ様子が報道写真に数多く残されている。1965年に最初のアルバムを限定制作で発表したのちジャズ・レーベルのESPレコードと正式契約を結び、キル・フォー・ピース(Kill For Peace)、CIAマン(CIA Man)、モーニング・モーニング(Morning morning)といった楽曲の人気を得て1965年末には演奏強化からセッションメンバーを常駐させるようになり、契約条件改善からリプリーズ・レコードに移籍した1967年夏には、ギターのケン・パイン(Ken Pine)、ドラムスのダニー・コーチマー(Danny Kortchmar)、ベースのチャールズ・ラーキー(Charles Larkey)を正式常駐メンバーに迎え、演奏ツアーを展開し海外公演も行った。 1969年3月解散。市民運動参加や演奏ツアーなど多忙を極め疲弊しそれぞれも個人活動に費やす時間を欲していてウイーヴァーは私生活を優先出来ない不満から飲酒量が増え、各自はグループ活動にたいしては消極的になっていた。 1984年カッファーバーグ、サンダースで再結成、二人それぞれの都合で散発的な活動を続け、カッファーバーグは2010年7月12日腎不全と敗血症で死去した。
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概要・来歴
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バンド名の由来は、両者ともリッケンバッカーのギターを使用していたことから、Ricken'sにしたとのこと。 MOON CHILD、The Kaleidoscopeを手掛けていたエイベックス第4制作部統括の原田淳(現・FOGHORN代表)からライブを中心に活動するツインボーカル&ギターのユニットを作りたいという話を佐々木と石田が受けたのが結成のきっかけ。石田がThe Kaleidscope解散後の2004年に結成。 2005年、石田がシングル「Red 〜僕らの広島カープ〜」(広島新球場建設「たる募金」共同キャンペーン応援歌)にてソロデビューをする。また同年、DVDドラマ『東京フレンズ』にも人気バンドのメンバー役で出演した。 2007年2月17日のワンマンライブを最後に活動を休止したが、2008年10月に活動を再開。半年に1回(2011年までは年1回)のワンマンライブのみの活動を行っている。
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概要・来歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/27 01:22 UTC 版)
1980年代末頃に結成、活動を開始。1989年6月10日放送の『三宅裕司のいかすバンド天国』に出演、「I Love You Forever」という曲を演奏、「完奏」をする(「骨太ロック」と称され、審査員に「大物になる」の一言をもらう。ただ、受けた賞は無かった)。これをきっかけとして注目されるようになり、視聴者のはがき投票で順位を決めるイカ天内コーナー『アマチュアバンドベスト10』では、この年の7月22日から8月12日まで4週連続で1位となり、その後も7週間、同年9月30日までベスト3以内に入っていた。 1990年4月21日、日本コロムビアからシングル「DAYLIGHTS」をリリースし、メジャーデビュー。以後シングル5枚、アルバム3枚を発売し、3枚目のアルバム『NAZARIS』(1991年11月1日)を発売した後に解散。解散後も、各メンバーはそれぞれのバンド、ユニット、サポートミュージシャンとして活動している(メンバーの節にて後述)。
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概要・来歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/28 22:37 UTC 版)
「bye-bye circus」の記事における「概要・来歴」の解説
2011年5月、元Jet Lily Starのメンバーであった真田と薮内に、ベースの佐藤が加わり結成。東京を拠点として活動を始める。 2011年5月24日、渋谷O-Crestにて初ライブ。 2012年12月20日、代官山LOOPにて初ワンマンライブ「カルナバル」。 2013年6月、サポートドラムとして活動を共にしていた柴田がメンバーとして正式加入。
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概要・来歴
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「functioncode」の記事における「概要・来歴」の解説
プロデューサーで現メンバーのH.L.EUROが、「日本にもGARBAGEのようなバンドを」という構想のもと、ボーカルを探していた。 月蝕歌劇団の舞台でLIKAを見たのがきっかけとなり、結成。H.L.EUROがLIKAをスカウトした時、カラオケでケイト・ブッシュの「嵐が丘」をリクエストした。(H.L.EUROにとってはオーディションのつもりだった)その時の歌声を認められ、ボーカルに本採用された。 LIKAの旧公式ブログ「...Rika's Blog...」では、マイ・ケミカル・ロマンス(My Chemical Romance)、ドレスデン・ドールズ(The Dresden Dolls) などがフェイバリットとしてあげられていた。ドレスデン・ドールズについては、2007年1月28日のワンマンライヴにて、バンドロゴの入ったタンクトップを衣装に使用した程。 ROCK WAVE(テレ玉)毎月2週目水曜日のコーナー「GIRLS WAVE」では、LIKAがMCを担当している。2007年9月12日スタート。洋楽女性アーティストのPVを紹介している。 寺山修司〜J・A・シーザー直系の、歌と音楽と舞踏が一体となったシアトリカルな表現が特徴。ワンマンライヴではパフォーマーやダンサーを従え、アングラ趣味の大がかりなパフォーマンスを繰り広げている。 歌詞のほとんどはLIKAによるもので、H.L.EUROと連名の場合もある。作曲は、H.L.EUROとMATSUOKA、TADAOMIの3人が担当している。TADAOMIは、アルバム(HeroinE);より作曲に参加している。 ホームページ、CDのアートワークやフライヤーなどにおけるデザイン、フォトレタッチなどはLIKAが担当している。 第二形態のfunction code(under);、第三形態のfunction code(mono);等の形態がある。イベント「TOKYO DARK CASTLE」には、function code(under);で出演している。 前身バンドにて過去にただ一度だけ、みっくすJUICEの「カンパイ!旅立ちの日」をカバーしたことがある。(2004年クリスマスイベントにて)
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概要・来歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/29 17:35 UTC 版)
1969年にサウンズ・オブ・ヤング・ハワイのメンバーとして来日した際にスカウトされ、デビュー。青山音楽事務所に所属していた。 デビュー当初は日本語で歌っていたが、後には「子供たちよ」「夕暮れのふたり」といった英語詞の曲も発売した。 かつて日本ブリタニカの英語教材『Second steps in English』における『バラエティブック』で、歌のコーナー"Let's sing a song."を担当していた。
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概要・来歴
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「bloodthirsty butchers」の記事における「概要・来歴」の解説
ブッチャーズ結成前、北海道留萌工業高等学校の同級生である吉村秀樹と射守矢雄、北海道留萌高等学校出身の上原子友康、1期下の佐野紀代己は北海道留萌市で「畜生」というバンドを組んで活動していた。その時に「留萌にすげえバンドがいる」と聞かされた増子直純によって札幌に招待され、増子との親交が生まれる(後に増子と上原子は怒髪天を結成する)。 1年ほどの空白期間の後、1986年に吉村が「もう1回やろうよ」と言ったことがきっかけで、吉村・射守矢・佐野の3人でブッチャーズが結成される。バンド名はアンディ・ミリガン監督のカルト映画「血に飢えた断髪魔(原題:Bloodthirsty Butchers)」に由来している。結成から半年ほどが経った同年11月14日に札幌市のライブハウス「キャンパス21」で初ライブ。初ライブ時点で7曲のオリジナル曲を持っていた。当該ライブには射守矢が別に活動していたバンド「チェリーブラッド」も出演していたが、ブッチャーズの始動と共にチェリーブラッドは活動を停止し、射守矢はブッチャーズに専念することになった。なお、留萌出身のメンバーで結成されたバンドだが、吉村の意向もありブッチャーズとして留萌でライブを行うことは一度も無かった。 活動初期はドラマーが安定せず、佐野の脱退後は何人ものドラマーが入れ替わっていた。結成から3年後の1989年、リハーサルを行っていたスタジオのオーナーに紹介され、当時のドラマーと入れ替わる形で同郷の小松が加入。札幌時代はライブハウス「ベッシーホール」を拠点に活動していた。 1990年、初アルバムとなる「BLOODTHIRSTY BUTCHERS」発売。結成から札幌市を拠点にたびたび上京してライブ活動を行なっていたが、1991年11月のFugazi初来日での共演を機に東京に拠点を移す。 1993年、アルバム「I'm standing nowhere」発売。 1994年、トイズファクトリーより初メジャーアルバム「LUKEWARM WIND」発売。 上京後には1993年と1994年にアメリカツアーを敢行、アメリカ北西部のインディーロックの中心の一つであるオリンピア・YoYoレコード主催のインディーフェスYoYo a Go Goに二回(1994,1997)参加するなどした。 1996年、キングレコードよりアルバム「kocorono」が発売。プロデューサーは吉村秀樹と共にコーパス・グラインダーズでも活動している名越由貴夫。 1999年、ミニアルバム「「△」SANKAKU」発売。同年、MCAビクターよりアルバム「未完成」が発売。 2001年、東芝EMIよりアルバム「yamane」発売。 2003年、アルバム「荒野ニオケルbloodthirsty butchers」が発売。三人編成としては最後のアルバムとなるその年、ツアーを共にした田渕ひさ子(toddle・元ナンバーガール)が加入し、四人編成となる。 2004年、日本コロムビアより田渕ひさ子加入後初となるアルバム「birdy」発売。 2005年、アルバム「banging the drum」発売。 2007年、自主レーベル「391tone」よりアルバム「ギタリストを殺さないで」発売。 2010年、再びキングレコードよりアルバム「NO ALBUM 無題」と、12ヶ月をコンプリートした「kocorono完全盤」を同時リリース。 2013年、アルバム制作終了後、吉村が急死。同年発売された「youth(青春)」が遺作となった。 2016年に発売20周年を記念し新たに未発表曲「kocorono」を収録、84ページ豪華ブックレット等を同梱した「kocorono最終盤」を発売。 過去共演した海外アーティストとしてFugazi(3回の来日すべて)、Rocket From The Crypt、Beck、The Flaming Lips、Rage Against the Machine、J・マスシス(Dinosaur Jr.)がいる。フジ・ロック・フェスティバル等、フェスティバルへも毎年のように参加している常連であった。 明確な解散宣言は出していないが、吉村の死後はブッチャーズ名義でのライブ出演や新作の発表は行われていない。
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概要・来歴
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2001年結成にタクシ(Vo.)、ツカサ(Ba.)、渡辺芳樹(Dr.)、エンドウ(Gt.)で結成。同じバイト先の仲間同士で結成されたとの説があるが、それは雑誌インタビューを受けた際の冗談であり事実ではない。 2003年6月自主レーベル「アカツキレコード」を設立し、1st.アルバム『アカツキ』をリリース。同年9月に2ndアルバム『AKATUKI A GO!!GO!!』を発表。2004年2月「株式会社アカツキ」を設立し、同年4月に自主制作3rdアルバム『AKATUKI ROCK SHOW』リリース後、6月にフォーライフミュージックエンターテインメントより「フルアヘッド」でメジャーデビュー。 2006年4月エンドウ脱退。2008年9月渡辺芳樹脱退。2021年11月ツカサ脱退。
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概要・来歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/22 03:47 UTC 版)
ワタナベコメディスクール10期生出身。 コンビ名は、「繁華街」という意味の和製英語から。「下町」を意味するあのコンビの名前を「意識したとか、しないとか」と話していたことがある。 かつてはトリオだったが、一人脱退してコンビになる。 結成以来フリーで活動して来たが、2010年12月にトレンド所属となる。 2016年1月からフリーとして活動。 2016年4月29日、新宿ハイジアV1スタジオにて初の単独ライブを開催。 1部・2部の2公演制で、2部は15,000円の限定10席のVIP席も。 2016年6月1日のライブをもってコンビを解散。 2018年1月11日のライブにて初漫才を行い再結成。 2019年3月1日にオフィス北野所属となる(事務所はその後、株式会社TAPに社名変更した)。 スナックのチーママ同士のコンビ(まゆは結婚後は「元チーママ」)でもある。
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概要・来歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/30 13:47 UTC 版)
1996年1月に日本オラクル主催で開催されたイベント「ORACLE OPEN WORLD 1996」のために結成された、小室哲哉・久保こーじを中心にしたスーパーグループ。 その他のメンバーはNo!Galers・普段から久保がプライベートで交流のある海外のミュージシャンを中心に組まれた。
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概要・来歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/04 02:53 UTC 版)
元々は1972年に、NHKの『おかあさんといっしょ』内のコーナー「うたのえほん」の担当スタッフであった近藤康弘から「子供(向け)の演歌があってもいいよね」と水を向けられた井出が、その当時ヒットしていたテレビドラマ『木枯し紋次郎』(フジテレビ)のストーリーと、自身が幼少時代を過ごした長野県南佐久郡小海町の松原湖の冬の風景をイメージしながら作った詞に、福田が曲をつけたものであった。なお、「寒太郎」という言葉自体は本楽曲以前から、一部の地域において寒の入り(小寒)を擬人化した言葉として存在している。 本曲を『おかあさんといっしょ』の番組中で最初に歌ったのは田中星児であった。田中が歌う音源は1973年発売のLP『NHK「うたのえほん」より うたのおにいさん 第2集』(ビクター JBX-24)などに収録されている。 1974年12月からは『みんなのうた』でも放送された。みんなのうた版では堺正章と東京放送児童合唱団が歌唱を担当。堺が『みんなのうた』の楽曲を歌うのは初めてであった。『みんなのうた』での放送後、大きな反響があった曲の一つである。 『みんなのうた』でのアニメーションは月岡貞夫が制作を担当した。なお、放映開始当初は東京都の実写風景をバックにアニメの寒太郎を合成していたが、「東京の風景が変わった」という理由で、1977年頃からは全編アニメとなり、1980年代以降は全編アニメ版のみ放送されている。全編アニメ版では、寒太郎が新潟県内の日本海沿岸から南魚沼郡湯沢町や三国峠を経由して東京へ向かうという内容になっており、途中には「越後湯沢へ」と彫られた石碑や、「高崎250km 渋川87km」と表示された道路標識、「五日市街道」と書かれた歩道橋、武蔵野市にある延命寺、東京国際空港などが登場する(ちなみに、湯沢は月岡の故郷である)。 本放送後も何度も再放送され、『みんなのうた』の楽曲としては最も再放送が多い曲となっている。1982年には映像はそのまま、音声をステレオに、歌を北島三郎とひばり児童合唱団にそれぞれ変えたリメイク版が放送された。なお、フジテレビ系列で放送された『クイズ!年の差なんて』の「歌詞穴埋めクイズ」で本曲が取り上げられた際には、北島版が放送されている。 1977年1月20日付の『朝日新聞』朝刊に掲載された「天声人語」では、本曲の歌詞が取り上げられた。 1992年以後、小学校の音楽の教科書に何度か掲載されている。 2012年には、本曲の歌碑が松原湖の水辺公園内に建立されている。 2019年1月1日放送の『Eテレ60 Eうた♪ココロの大冒険』(NHK Eテレ)では、高橋優が本曲をカバーした。 2021年3月7日にNHK Eテレで放送された、『みんなのうた』放送開始60周年記念番組『そしてみんなのうたは生まれた』で、本曲の誕生秘話が放送、なお放送された映像は堺版の全編アニメ版で、実写合成版は1シーンも放送せず、また制作者・月岡貞夫へのインタビューでも「実写合成版」の事は触れなかった。
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概要・来歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/10 15:17 UTC 版)
2002年3月24日、渋谷club asiaにてライブ活動スタート。約2か月に1回のペースで渋谷を中心にライブ活動をしている。
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概要・来歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/04/09 13:49 UTC 版)
1968年に、デニス(ボーカル)とカルロス·コラーレス(ギター)を中心に、何度かのセッションを経てウィリ・カバダ(ドラムス)リカード・ブリオネス(ベース)の顔ぶれになった。 1969年はサンティアゴ市内やアルゼンチンの野外音楽フェスティバルやブエノスアイレスで演奏し翌年RCA系列のアレーナ・レコードから1stアルバムを出す。ジャケットにはメンバー裸体写真が用いられカトリック教徒の多いチリでは、秩序良俗から販売拒絶が相次いだ。引き続きアルバムを制作し発売前に1971年11月デニスとカルロス·コラーレスが渡米、長期滞在で活動休止する。その間の1972年にアルバム「ボリューム2(volumen 2)」発売 。サルバドール・ダリ の十字架の聖ヨハネのキリスト(十字架のヨハネ作とされるキリスト十字架の図が素)をモチーフにしたジャケットデザイン「十字架のデニス」は前作同様問題視された。 帰国後活動再開するが1974年3月コーポリカン、アンデス両劇場の公演で活動停止し、デニス、カルロスは新たなバンドパナル(Panal)を経てソロやセッション・ワークに転じ、2008年頃アグアトゥルビアを、デニース、カルロス·コラーレス、ウィリ・カバダとホセ・デラカスで再開したがウィリ・カバダが2013年10月1日亡くなった。
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概要・来歴
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「SUNNY CAR WASH」の記事における「概要・来歴」の解説
2015年1月28日 - 「Sugar?」として結成。 2016年10月 - 当時のギターであった高嶋の脱退を機に、柴原、岩崎、羽根田のスリーピースとなり「SUNNY CAR WASH」に改名。同時に「1st Demo CD」を発売した。 12月11日 - 宇都宮の若手6バンドで共同企画「OUR YOUTH」を宇都宮HELLO DOLLYで開催した。参加バンドは、SUNNY CAR WASH、Hey SideMe、GLORY Hz、UNDER SOCKS、.Wannabies、Lucie,Too 2017年5月 - 柴原が脱退し、畝狹が加入した。 5月7日 - BASEMENT-TIMESにて「まだ誰も聴いてない天才たち 邦楽インディーズバンド再生数10,000以下よりオススメ4選」として特集された。 5月26日 - 「2nd demo CD」を発売した。 7月29日 - 未確認フェスティバルライブ審査が行われ、これを通過した。 8月27日 - 未確認フェスティバル最終審査にて審査員特別賞となった。 10月21日 - HMV SHINJUKU ALTA 1st Anniversary『FORELSKET』7inch series発売。 11月8日 - 1stミニアルバム「週末を待ちくたびれて」を初の全国流通盤として発売。 11月11日~12日 - 自主企画ライブ「故郷には緑を」を、宇都宮HELLO DOLLYと下北沢BASEMENT BARで開催した。 2018年1月6日 - 日本テレビ バズリズム 02にて「コレはバズるぞ2018」29位にランクイン。 7月11日 - 1stシングル「ティーンエイジブルース」を1997枚限定で発売。 7月13日 - 初のワンマンライブ「コンバンワンマン」を下北沢BASEMENT BARで開催した。 8月22日 - 2ndシングル「ムーンスキップ」を1997枚限定で発売。 2019年3月8日 - 岩崎の体調不良により、活動休止を発表。 9月3日 - ドラムの畝狹怜汰が脱退を発表、以後畝狹は元Shout it Outのボーカルである山内彰馬のバンドmothersで活動することとなった。 2020年1月24日 - Twitter上で3月13日よりギターのユージタナカを加えた新体制での活動再開を発表。また下北沢Club Queでの自主企画ライブ「ラララ」を発表した。 2021年10月22日 - 12月28日にZepp DiverCityで行われるワンマンライブをもって解散することを発表。 12月28日 - 東京・Zepp DiverCity(TOKYO)で行われた『さよなラストLIVE 2021~はじめてのラストライブ~』にて解散。 2022年2月23日(予定) - 1stアルバム『ハネダ!ハネダ!ハネダ!』が発売。メジャーデビューアルバムとなった。
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概要・来歴
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2002年にワーナー・ブラザース・レコードからアルバム『グルーヴィン』でデビュー。オールド・スクールなつくりとなっている[要出典]。また、リッキー・ピーターソンがプロデューサーを担当している。
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概要・来歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/22 13:48 UTC 版)
柏原譲は1990年代以降の日本のロック、ポップに多大な影響を与えてきたFishmans、Polarisに在籍。ピアニスト・作曲家の丸山康太郎と共に、2007年夏に “OTOUTA--オトータ / 音詩--”を結成。ほとんど共通点のない異なる背景の2人が、音と詩を巡って新しい音楽を作り出す。 バンドとしての作品第1弾として、フェデリコ・フェリーニ監督のイタリア映画『甘い生活』を始めとするニーノ・ロータ作曲の映画音楽のカバー・アルバムを2008年2月にリリース。 また、音楽活動と並行し、ファッションブランドのアダム エ ロペとのコラボレーションなども行っている。 最近ではサポートメンバーに、大野恭子 Kyoko Ono (Vocal, chorus, etc./From waffles)、泉水政輝 Masateru Sensui (Vocal, rap, guitar/From WEEKEND)、脇山広介 Kousuke Wakiyama (Drums, Sampler/From tobaccojuice)を迎え、ライブ活動を行う。
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概要・来歴
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「UNDER THE COUNTER」の記事における「概要・来歴」の解説
2002年、メンバーが明治学院大学在学中に結成。下北沢などのライブハウスを中心に活動。 2005年1月、ハイラインレコーズより1stアルバム『POOL OF CIDER』を発売。同年2月にタワーレコードのNMNLレコーズから異例の早さで再リリースされる。また同年7月には、2ndアルバム『WORLD AND MARBLES』を発売。 同年11月に、メジャー1stシングル『HIGH WAY, MY WAY』を日本クラウンより発売し、メジャーデビュー。 同年12月にはASIAN KUNG-FU GENERATION全国ツアーのオープニングアクトとして出演、2007年3月にはthe pillowsツアーに参加。 2008年7月、ユニバーサルから亀田誠治プロデュースによるシングル『出せない手紙』を発表。 2010年1月12日、ベースの大隈知宇とドラムの山脇祐湖が脱退。 2012年7月、新しくベースの朱雀佑輝とドラムの宮澤純一郎を正式メンバーに迎え、通信販売・ライブ会場限定でミニアルバム『paper moon』をリリース。 2013年3月10日、公式ホームページにて解散する事を発表。同年5月18日のライブをもって、正式に解散した。 2014年、関谷謙太郎(ex.UNDER THE COUNTER)、朱雀佑輝(ex.UNDER THE COUNTER、NANANINE)、矢野智明(ex.nontroppo)で3ピースバンド「talking lights」を結成。2019年に1stアルバム『9 Horses Go Go』をリリースした。
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概要・来歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/01 06:24 UTC 版)
中学生のとき、体が小さいことを利用し競馬のジョッキーになろうと受験をするが不合格。ふてくされている毎日の中、JUDY AND MARYのTAKUYAに憧れギターを始める。ギターを買いたくてもお金がなく祖母を騙してギターを買ってもらう。 高校卒業と同時に名古屋市内の音楽専門学校に通う。そこで後のバンド『ももいろハニー』のメンバーと出会い、半ば強引にバンドを組む。当初はギタリスト。あるときのライブで突然ボーカリストが当日逃げるというハプニングがあり、ここも半ば強引にボーカリストとなる。 バンド『ももいろハニー』の名前の由来は当時付き合っていた彼女がピンクが好きだったという理由でつけた。メンバーや周りからはひんしゅくを買ったがそのままの名前でインディーズで活動をする。名古屋を拠点にライブハウスを中心に活動。インディーズ時代には名古屋大須 ell.FITS ALLにてワンマンライブ4回、5枚のマキシシングル、1枚のミニ・アルバム、1枚のフル・アルバム、1枚のDVDを発売。声質とキャラクターが中性的であり、ギターとキーボードの知的なアレンジコンビネーションを得意とし、インディーズながら人気を手にした。 2007年1月24日、テイチクよりアルバム『涙ハ五線ニ描カレタ』でメジャー・デビュー。2007年1月27日公開の日韓合作映画『あなたを忘れない』にて『君ヲ呼ブ詩』が挿入歌になる。2007年1月12日、この作品のプレミアムビッグコンサートが日本武道館にて行われ出演。その際、槇原敬之、HIGH and MIGHTY COLORら10組の日韓アーティストと共演。 2008年、レコーディング中のキーボードメンバーの突然の脱退により、ももいろハニーが実質上の活動休止状態に。それと同時にアコースティック・ギターによるセットでのソロ活動を開始する。同時に楽曲提供も開始し、地元名古屋のテレビ番組への楽曲提供や新人アーティストへの楽曲提供、プロデュース活動も勢力的に行う。 2009年、2月から残ったメンバーでのレコーディングを予定していたがベースのメンバーも体調不良により脱退。同時に所属していた事務所が倒産。実質的に活動が困難であると判断し、2009年12月30日をもってももいろハニーを解散する。 解散を決定した2009年2月に上京。下北沢・名古屋を中心にソロ名義でのライブ活動を開始する。 1998年 TAKUYA(元JUDY AND MARY)に憧れギターを始める。 2001年 バンドももいろハニー結成。名古屋を中心に活動。当初はギタリスト。 2002年 ボーカリストの脱退を期にボーカリストに転向。 2006年 TAKUYA(元JUDY AND MARY)のローディー、スタッフをやり音楽を学ぶ。インディーズ時代(ell.FITS ALLにてワンマンライブ4回、5枚のマキシシングル、1枚のミニ・アルバム、1枚のフル・アルバム、1枚のDVDを発売) 2007年 テイチクよりメジャー・デビュー(1枚のフル・アルバム発売)。日本武道館にて槇原敬之と共演。日韓合作映画「あなたを忘れない」にて「君ヲ呼ブ詩」が挿入歌に。 2008年 弾き語りにてソロ活動、音楽制作を開始。テレビ番組のBGM等を制作、新人アーティストに楽曲提供も始める。 2009年 上京。バンドももいろハニーを12月30日をもって解散。 2010年 本格的に下北沢・名古屋を中心にバンドサウンドでソロ活動を開始。8月・9月に自主イベント『ひねくれポップは僕のもの』を下北沢・名古屋で開催。定期的に『NEW FACE POP SHOW』を川崎市のライブハウスで主催。 2011年 3月26日に下北沢 CLUB251にてワンマンライブ『下北ポップも僕のもの』を開催。東日本大震災へのチャリティーライブとした。 2011年 ガールズバンドHAPPYBIRTHDAY 「しゃかいのごみのうた」 「SHIT!」のレコーディングに参加 ライブでのサポートギターも行う。 2012年 ボイストレーナー佐藤涼子に師事 今までに菅田将暉 Flow Back フィロソフィーのダンス the peggies 斉藤秀翼 キタニタツヤ 前田留美等の担当 2013年 桑名正博、アンルイス、美勇士親子コラボ企画「ONE」にアコースティックギター、アレンジで参加 2018年 Cö shu Nieのメジャー以降の作品のレコーディングディレクターを担当 2018年 田原俊彦「Escort to my world」にコーラス、コーラスアレンジで参加 2021年 山下智久「Tomohisa Yamashita First Online Live “Beautiful World”」ギタリスト、マニピュレーターで参加
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概要・来歴
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「Rhymescientist」の記事における「概要・来歴」の解説
自らの音楽性をHIPBOP(ヒップホップ+ジャズ+ファンク)という単語で表現しているが、ロックやエレクトロニカといったジャンルも吸収している。幅広い音楽層からの支持を集める。 2007年6月にベースのMIYA、ギターのUNOが、2007年12月にドラムスの仁がそれぞれ脱退。新たにギターにNARI、ドラムスにSHIGEを迎える。また、ベースにはセッションミュージシャンのHISASHIがサポートとして加入。その後も精力的に活動を続ける。2008年、ベースのKOUTAが加入。
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概要・来歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/16 00:31 UTC 版)
2017年2月1日、ダンス、音楽、ファッションをアイコンに結成。メンバー全員がダンスとボーカルをともに担当する。 結成当日にオリジナル楽曲「DAYBREAK」のダンスミュージックビデオを公開し、不定期で原宿・竹下通りでのチラシ配布や、渋谷での路上ライブ活動を行っていた。 2018年2月3日にGRiTの結成1周年を記念した初のワンマンライブ「GRiT 1st ANNIVERSARY LIVE -DAYBREAK-」を開催した。
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概要・来歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/09 15:38 UTC 版)
北海道出身。12歳まで闘病生活を送っており、入院中、知人にLOUDNESSを紹介された事がきっかけで音楽に目覚める。 1985年、13歳の時、コピーバンドにドラマーとして加入し、音楽活動を始める。その後、16歳(1988年)の頃より、オリジナル曲のバンドを結成し、主にスラッシュメタル、パワーメタルの分野で活動。2008年夏にSABER TIGERに加入するが、同年12月、肝細胞癌で他界した樋口宗孝の後任として、高崎晃よりLOUDNESSへの参加要請を受ける(正式加入は翌年、2009年11月29日)。それに合わせて、SABER TIGERを脱退。 樋口の後任として加入したことは、鈴木にとって憧れのバンドに入れた喜びと同時に、大きなプレッシャーでもあった。ブログでは、樋口に対する敬意と共に、どうしても比較されてしまう辛さや、LOUDNESSという既に実績のあるベテランバンドでの活動について、自身の苦悩を綴っている。 2018年2月8日、体調の異変に気付き病院で診察を受けた結果、脳梗塞を発症している事が判明。幸い、症状は軽度のものであったが、リハビリや各種検査が必要と判断されたため、そのまま入院となる。これにより、LOUDNESSとしての活動を一時的に休止。暫くは療養生活に入っていたが、同年8月11日更新の自身のブログにて、病状が快方に向かい、9月24日のZepp ダイバーシティ東京でのライブから戦列に復帰する事が報告された。 好物は牛乳とオレンジジュース。
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概要・来歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/16 21:38 UTC 版)
「MOGA THE \5」の記事における「概要・来歴」の解説
最終のメンバーはエスカルゴ、サカグチ、ニシタニ、キングの4人。キング以外の3人は結成当時のオリジナルメンバーである。楽曲は主に、エスカルゴが作詞、サカグチが作曲を担当するという制作手順が初期から解散まで一貫されていた。詳細は後述のメンバーの節を参照のこと。 1995年に前述の3人で結成し活動を開始する。12月にリリースされたオムニバス盤『SANTA VA』にて初めて媒体として音源を発表。1996年に自主レーベルを立ち上げる。以降の数年間は自主レーベルより自主制作盤を幾つか発表し、そのほとんどを完売させる。 2000年8月、自主レーベルにて発売したアルバム『ハ・ル・カ・カ・ナ・タ・』をPIZZA OF DEATH RECORDSより再発表。以来、同レーベルの所属バンドとなり、以降の作品の発売元はすべて「PIZZA OF DEATH」名義となり、自主制作レーベルにて発表した過去のアルバムの幾つかを、同レーベルにて再発表した。 同月23日から25日に渋谷CLUB QUATTROにて行われたeastern youth主催のオムニバスライブイベント『極東最前線30 〜国民爆音大会2000〜』の最終日25日に出演。2001年8月にはライジング・サン・ロックフェスティバルにも出演した。2002年11月には、以前から親交の深かったバンド、NAHTとのスプリット盤『A Strange Stroke of Fate』を発表。 2004年3月に発表されたアルバム『居待月夜の話』の際に行われたツアーを切っ掛けに、ユッケがリードギター担当としてメンバーに加入。それまでスリーピースとして活動していたが、今回加入したことにより4人編成バンドとなる。 2008年12月にギターのユッケが脱退。 2009年1月にギターのキングが加入。 2011年2月にエスカルゴのバンド脱退に伴い、解散が発表される。
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概要・来歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/16 21:03 UTC 版)
「jamzvillage」の記事における「概要・来歴」の解説
2003年にバンドを結成、早くもメジャーデビューを果たす。2006年に解散した。
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概要・来歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/17 14:53 UTC 版)
1977年、大阪府で当時高校生だった町田町蔵を中心に結成されたバンド「腐れおめこ」が前身で、ローリング・ストーンズやチャック・ベリーなどのオーソドックスなロックンロールをレパートリーとしていた。1979年にINUへ改名し、セックス・ピストルズに触発されつつ、リチャード・ヘル&ヴォイドイズやパブリック・イメージ・リミテッドなどの影響も受けたポストパンクへと転向した(ただし当時の町田はフリクションを除く東京ロッカーズやストラングラーズ、同じ関西のウルトラビデを好ましく思っていなかった)。 1981年3月1日に1stアルバム『メシ喰うな!』でメジャーデビュー。結成時のメンバーはボーカルの町田、ギターの林直人、ベースの田中 "オショウ" 敬介、ドラムスの西森武史。町田以外のメンバーは一定せず、『メシ喰うな!』発売時は、ギターは北田昌宏、ベースは西川成子、ドラムは東浦真一というメンバーだった。なお代表曲「メシ喰うな!」は腐れおめこ時代からのレパートリーである。 デビュー後、間もなくINUは解散してしまい、町田は「FUNA」「人民オリンピックショウ」「絶望一直線」「至福団」「愛慾バンド」「天井天国」「淫如上人&ミラクルヤング」「北澤組」「町田町蔵バンド」など新たにバンドを組んでは解散を繰り返しつつ、音楽活動を続けた。INU解散後しばらく経った1984年10月25日、1979年3月25日のINUのライブ音源を収録した2ndアルバム『牛若丸なめとったらどついたるぞ!』が発売された。 1979年のINU結成から40年目にあたる2019年、ロックフェスティバル「夏の魔物2019 in SAITAMA」(9月29日、埼玉・東武動物公園)で町田はINU SPECIAL SETLISTとして「フェイド・アウト」「つるつるの壺」「メシ喰うな!」「インロウタキン」「おっさんとおばはん」「気い狂いて」を歌った。
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概要・来歴
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「コトリ with ステッチバード」の記事における「概要・来歴」の解説
コトリ(重本ことり)、ユリア(石川友里愛)、ユカ(小原由香)の3人により結成された新ユニット。 ユニット名のステッチバードは「『つぎはぎの鳥』という意味で、三人の個性が合わさって、いいカタチで融合して、大空に向かって飛んでいってほしい」とレベルファイブ 日野晃博社長が命名した。 アニメ『妖怪ウォッチ』のセカンドシーズンが始まるにあたり新たな音楽性、方向性のアーティストを展開する為に結成された。 2015年7月から2016年6月まで、アニメ『妖怪ウォッチ』のエンディングテーマを担当していた。
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概要・来歴
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「modern grey」の記事における「概要・来歴」の解説
1989年結成。1990年都内ライブハウスを中心に活動を始める。1994年、キーボード田中が加入、五人編成となる。1994年9月21日、ミニアルバム「楽園」でメジャーデビュー。1996年3月、音楽的方向性の違いにより、キーボード田中が脱退、四人編成に戻る。マキシシングル「speed」から、バンド名を「modern-grey」表記に変更。1998年11月30日、modern times vol.14にて活動停止を発表。
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概要・来歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/09 09:53 UTC 版)
1993年 - 結成。 1996年 - 「東京スカパラダイスオーケストラ」新宿リキッドルームにてコーセーVISEジョイントメンバーオーディション本選に出演。 1997年 - 日清パワーステーションフロントアクトに出演アンコールに「ラッキー7」の合同セッション。 2000年 - 名門クラブイエローにて「DJドラゴン」オーガナイズ「LOVE LOVE NIGHIT」のレギュラーを08年迄の8年間、同クラブの閉鎖まで務める。 2008年 - 伝説のロックバー「レッドシューズ」にて自主定期イベントを開催中。タイトルの「東京赤い街」はSHOW-SKA初のオリジナル楽曲(鶴田作曲)の名称。 2009年 - ジェネオンエンターテイメントから「横SKA愚連隊東へ」でメジャー・デビュー。 2010年 - 以前からコラボレートをしていたNOB(CURIO)がボーカル、アルトサックスとして正式参加。 2011年 - 日テレ系「おはよん!」ウェザーテーマとしてオリジナル曲が2013年までの4クールで採用。 2014年 - ボーカルNOBがCURIO再始動で脱退後、フィーチャリングボーカルに下山 広史(THE COLTS初代ボーカル)を迎える。 2016年 - レッドシューズin名田庄にて、フィーチャリングボーカルに中村獅童を迎える。 2018年 - SHOW-SKA 25thAVイベントにて仲野茂、冷牟田竜之、矢沢洋子など多数のアーティストがゲスト参加。
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概要・来歴
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「ライト・セッド・フレッド」の記事における「概要・来歴」の解説
1991年にリリースされたデビューシングル「I'm Too Sexy」がイギリスで大ヒットとなった。ブライアン・アダムスの「(Everything I Do) I Do It for You」(映画『ロビン・フッド』の主題歌)に阻まれ、全英チャート(Official Chart Company)では2位止まりであったが、アメリカのBillboard Hot 100では翌1992年に3週連続で1位となった。 2枚目のシングル「Don't Talk Just Kiss」も全英3位、3枚目の「Deeply Dippy」は全英1位、フジテレビ系の深夜に放送されていた洋楽番組『BEAT UK』でもシングルチャート1位を獲得するなど立て続けにヒットを放ち、これらの楽曲が収録されたアルバム『UP』(1992年3月リリース、日本盤タイトルは『アイム・トゥー・セクシー』)もイギリス、オーストラリアでナンバーワンを獲得するなど大ヒットを記録した。 結成から30年以上が経過した現在もフェアブラス兄弟を中心に活動を続けており、2021年9月に「I’m Too Sexy」をサンプリングしたドレイクの「Way 2 Sexy」がBillboard Hot 100で1位を記録したことから再び脚光を浴びることとなった。
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概要・来歴
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「ビル・ネルソン (ミュージシャン)」の記事における「概要・来歴」の解説
いくつかの地元のバンドに参加した後、1971年にソロ・アルバム『ノーザン・ドリーム (Northern Dream)』を、自己のレーベル・スマイルから発表する。このアルバムをBBCラジオのDJ、ジョン・ピールがさかんにオンエアしたことにより、イギリスの音楽通の間で知られるようになり、レコード会社数社からプロ契約の話が持ち上がった。1974年にビー・バップ・デラックスというバンドとしてEMIからデビューした(EMIは当初、ビルとはソロでの契約を望んでいた)。 初期作品においてはビルは主にジミ・ヘンドリックスやグラム・ロック等に影響を受けたギターロック的サウンドを展開するものの、アルバムを重ねるごとにコンセプチュアルなアルバム構成やシンセサイザーを用いたシンセポップ的傾向を強めていく。ちなみにビルはギターとボーカルを担当し、全ての曲を彼の手で作曲している。ビー・バップ・デラックスはバンドという形式をとっていたとはいえ、彼の持っていた様々なサウンドコンセプトを実現するためのワンマングループであったと言える。 詳細は「ビー・バップ・デラックス」を参照 1978年、音楽性の変化によりビー・バップ・デラックスを解散させ、レッド・ノイズを結成する。後にXTC等を成功させたプロデューサーであるジョン・レッキーを迎えて、当時まだ一般的に知られていなかったテクノ・ポップ的な作風でアルバム『触れないで! 僕はエレクトリック (Sound On Sound)』を1979年に発表するものの、グループとしてのアルバムはその一枚のみとなった。それ以降は自らの音楽レーベル「コクトー・レーベル」を立ち上げつつ、ソロ活動やセッション活動を多数行う。主なセッション相手のミュージシャンとしてYMO、高橋幸宏、デヴィッド・シルヴィアン等が存在する。また、ケイト・セント・ジョン、ロジャー・イーノ、ララージとともに「チャンネル・ライト・ヴェッセル」を結成し、2枚のアルバムを残している。 1970年代から1980年代初頭にかけてニュー・ウェイヴが勃興したときにすでにそれを見越していたかのような先取り的な作品を常に発表してきたが、近年はSF的なシンセサウンド、アンビエント風作風、多重録音を取り入れたポップ的傾向が強い。近年の創作活動はいわゆる「宅録」であり、すべての楽器のパートを一人で多重録音するスタイルをとり、リリースされる曲数も多い。 また、希代のギターコレクターでもあり、そのギターコレクションはDVD『At Metropolis Studios』で披露されている。
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概要・来歴
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1952年6月にシャブロルは最初の結婚をした。その後、妻アニエスの祖母の巨額の遺産(夫婦で総額6万4,000ドル)を相続し、この潤沢な資金で1956年に設立したのが同社である。AJYMとは、シャブロルの妻の名「アニエス Agnès」、息子たちの名「ジャン=イヴ Jean-Yves」と「マチュー Mathieu」の頭文字を並べたものである。 同社の記念すべき第一回作品は、ジャック・リヴェットの短編監督作『王手飛車取り』。ヴィルジニー・ヴィトリ、ジャック・ドニオル=ヴァルクローズとジャン=クロード・ブリアリが主演し、シャブロルがリヴェットと共同で脚本を書いてプロデュースもし、ジャン=マリー・ストローブが助監督、そしてシャブロル、リヴェット、ジャン=リュック・ゴダール、フランソワ・トリュフォーが出演もしている作品である。ラッシュを観たプロデューサーのピエール・ブロンベルジェが編集・ダビング等のポストプロダクション費用の負担を約束した。35ミリフィルムで撮られた本作はヌーヴェルヴァーグの作家たちにとって、従来の16ミリでの短編とは違い、初めてのプロフェッショナルな作品と呼べるものであった。 次にシャブロルは、2本の劇映画をつくる決断をする。脚本を書き、より低予算で仕上がる方を先に製作することにした。それが自らの監督デビュー作『美しきセルジュ』であった。1957年12月 - 1958年2月に撮られたこの作品は、製作予算をややオーヴァーしてしまったが、同年のカンヌ国際映画祭のコンペ外で上映され、プリセールスで収入を得た。その資金で2作目『いとこ同志』を製作した。『美しきセルジュ』は、トリュフォーの義父が経営するコシノールの配給で、1959年1月10日封切られ、13週間のファーストランで好成績をあげたが、つづく同年3月11日公開の『いとこ同志』は、もっと大規模な劇場チェーンで封切られ、14週間のファーストランで前作の4倍の興行収入をあげる大ヒットとなった。とくに、二作目は、第9回ベルリン国際映画祭で金熊賞をも受賞し、主演したブリアリとジェラール・ブランを新しいスター俳優に変えた。 このヒットの資金は、エリック・ロメールの処女長編『獅子座』の製作費に当てられ、1959年夏のパリで撮影されることになる。ちなみにシャブロルの遺産のエピソードが本作のストーリーには盛り込まれている。 1960年、トリュフォーの会社レ・フィルム・デュ・キャロッスとの共同製作で、リヴェットの処女長編『パリはわれらのもの』を製作・公開。本作にはシャブロルもリヴェットもゴダールもジャック・ドゥミまでもが出演し、トリュフォーは『突然炎のごとく』の劇中でジャンヌ・モローにこの作品のタイトルを叫ばせている。当時のヌーヴェルヴァーグの熱狂のなかにシャブロルはいた。 続いて、同社は、シャブロルのデビュー作からの、そしてトリュフォーの『大人は判ってくれない』の助監督であったフィリップ・ド・ブロカを監督デビューさせた。
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概要・来歴
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「チェリーレッド・レコード」の記事における「概要・来歴」の解説
『チェリー・レッド』というレーベル名の由来は、イギリスのブルースバンド、グラウンドホッグス(The Groundhogs)による楽曲名をそのまま拝借したもの。 1971年にイアン・マクナイ(Iain McNay)やリチャード・ジョーンズ(Richard Jones)らによってロンドンにて創立。なお、同レーベルに所属した最初のバンドは、1978年に加入したタイツ(The Tights)である。
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概要・来歴
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「WILL (バンド)」の記事における「概要・来歴」の解説
メンバーはDJ KOO(TRFのメンバー)と山田の2人。サポートメンバーとして、元ZYYGのメンバーである後藤康二が参加している。 2004年から楽曲配信サイトMUMIXでの音源発表を開始。2010年にゲストヴォーカリストに宇都宮隆を迎え新譜をリリース。
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概要・来歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/06 04:08 UTC 版)
鴨宮がピチカート・ファイヴを1987年に脱退後、梶原をボーカルに迎え結成したユニットである。1991年「ムッシュ・ダンダン」でデビュー。 その後4枚のシングルと3枚のアルバムを発表したが、最後のアルバム「TEENAGE SYMPHONY」は鴨宮によるインストルメンタルとなっている。 2006年8月にアップルストア渋谷にて復活ライブを開いている。
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概要・来歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/06 05:04 UTC 版)
2005年9月、遠藤仁平、前川和磨、朝比昴、濱本洋平によって結成。月1回程度のライブを重ね、12月に1stアルバム『死んだはずの僕の旅行』をリリース。 2007年8月、自主企画であるロック・フェスティバル『第1回右脳夏祭り』を渋谷屋根裏で開催し、1stシングル「夢の中の散歩」をライブ会場限定で発売。9月、本田裕也が新メンバーとして加入し、5人編成となった。 2008年11月、2ndアルバム『パーフェクトワールド』をリリース。メディアへの露出がないにも関わらず、タワーレコードのJ-Indies ウィークリーチャートで1位を記録。同月、その発売記念公演が原宿クエストホールで行われ、SION with Bun Matsudaがゲストとして出演した。 2010年1月、メンバーの前川が逮捕され予定されていたライブは中止、そのまま解散することが発表された。その為、実質的ラストライブは2009年11月14日の水戸LIGHT HOUSE(共演:SION with Bun Matsuda、怒髪天)となる。 しかし、2010年8月15日に高円寺Highにて黒虫芸術presents「餞唄~ハナムケウタ~」が開催され、公表では遠藤仁平の出演であったが、サプライズとして無限マイナスで登場した。だが、そこに前川の姿はなく、サポートを迎えての演奏となった。イベント内では前川の訃報が知らされた。 2013年9月、新メンバーに小島功を加え、ライブを皮切りに活動を再開させる。
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概要・来歴
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「THE RYDERS」の記事における「概要・来歴」の解説
1987年にOHNOとKOJIを中心に結成。 1988年にVAPより『THE RYDERS』にてメジャーデビュー。その後も活動を続けて行くが、1997年よりライブ活動を休止し充電期間に入る。 1998年にメンバーチェンジを行い、ドラムスにTAKASHIが加入。2000年4月にShibuya O-EASTで行われた「JAPAN PUNK ROCK FESTIVAL」でステージに復帰。 2001年にはセルフカバーアルバムをリリース。 2005年には初のライブアルバム『LIVE AT KLUB COUNTER ACTION〜不良少年の夜〜』をリリースと積極的に活動を続けるが、2006年ドラムスのTAKASHIが脱退。活動休止期間に入る。活動休止と共にギターのBELLEYが脱退。 活動休止期間中、OHNOとKOJIはラモーンズのトリビュートバンド「DUMB」を結成。ライブ活動、CDリリースとライダーズとは一線を画した路線の音楽活動を行う。 2008年11月13日新宿LOFTにてKen BandのメンバーG,MINAMI Dr.Matsuuraをサポートに迎え復活。2009年から現メンバーのG,TATSUYA (IN-HI), Dr,MOH (MISSILES,ex KENZI&THE TRIPS)が加入し、都内のライブハウスを中心に活動を続ける。 THEE MICHELLE GUN ELEPHANT、Kemuri、POTSHOT等のバンドに影響を与えており、2002年にこれらの若手バンドが参加したRYDERSのトリビュートアルバム『LET'S GET TOGETHER』がリリースされた。 結成25周年を迎えた2013年、10年ぶりとなるフルアルバム『ONE FOR ALL』をリリース。
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概要・来歴
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明治学院大学時代の友人であった岡野ハジメと吉田仁により結成。その後、岡野はスペース・サーカス、ショコラータ、東京ブラボー、PINKに参加し、吉田はSALON MUSICを結成していたが、その間も二人での録音を続けていた。1988年、アルバム「HEAT ME」でメジャー・デビュー、2枚目のアルバムである「BLOOD AND SNOW」を最後に楽曲の発表はしていないが、1992年にはスターリンのプロデュースをしている。
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概要・来歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/08 15:51 UTC 版)
2001年 Vo.渡辺大介、Gt.新藤健一、Gt.平沢直樹、Ba.赤羽一成、Dr.西村邦彦の5人でバンド活動開始。2002年6月Gt新藤が一身上の都合により脱退する。2005年 6月Upside-Down labelより1st Album「fighter」リリース(現在入手不可) 2006年 3月Gt:平沢脱退。後任に赤羽友成を加え活動開始。 2011年 東日本大震災を受け、復興支援プロジェクト「Love Ripple Communication」を立ち上げる。中心となり活動。 6月1日 2nd Album「The Chess」 リリース。 2012年 音楽で東北を応援する活動「歌をおくろう」を立ち上げ、東北各地でチャリティオムニバスCDを無料配布する。 2015年 アースデイ東京2015に出演する。Dr.西村が脱退。3rd Album「太陽を追いかけて」リリース。
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概要・来歴
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「Blueberry & Yogurt」の記事における「概要・来歴」の解説
作曲家の内山利彦、声優のRita(理多)、高松アンドの3人によって2004年に結成。翌年に高松が脱退し、現在は内山と理多の二人によって活動を継続している。 2006年に内山はStudio CLEFというレコーディングスタジオを立ち上げ、自身の楽曲制作、収録のほか、ゲームの台詞収録を中心に、ボーカルやナレーション、ギター等の楽器収録を行っている。 2015年にパワー・ライズにStudio CLEFを売却、Studio CLEFはパワー・ライズ傘下の株式会社スタジオクレフとなる。これに伴い、主な楽曲制作は内山利彦の自宅スタジオ、及び自宅内簡易防音ブースへと移行する。
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概要・来歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/09 15:02 UTC 版)
メンバーは有馬純寿、前林明次、ヲノサトルの3人。1992年に同メンバーによって結成され、Macintosh SE/30などの小型コンピュータをステージ上で即興演奏するパフォーマンスを行った。1998年以降は活動を停止していたが、2006年に再結成し、現在はtryoutと呼ばれる "打ち合わせなしの完全即興セッション" ライブを不定期で行っている。
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概要・来歴
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「アメリカンショートヘア (バンド)」の記事における「概要・来歴」の解説
河本、太田、水戸を中心として結成。活動開始当初は水戸がドラムスを担当していた。2009年松浦が、2012年高橋が加入する。活動の本格始動は2003年。以後、定期的なライブ活動とCDのリリースを経て現在に至る。
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概要・来歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/16 00:12 UTC 版)
ドラムスをビデオコントローラとして利用し、MADムービーをコントロールしつつドラム演奏するという「ドラびでお」と名付けたパフォーマンス(一種のメディアアート)を行い各地にて活動。 2005年には ARS Electronica(オーストリア)にて、Digital Musics & Sound Art 部門の Honorary Mention賞 (入選) を受賞。また同年、ラフォーレ原宿『夏のラフォーレグランバザール』のテレビコマーシャルに起用された。2007年6月世界芸術界の最高峰ベネチアビエンナーレに招待され2008年8月にはスペイン「サラゴサ万国博覧会」に日本代表として招待され2009年には人気テレビ番組『SMAP×SMAP』にも出演している。 ドラマーとしては大友良英・Sachiko MとのI.S.O、山本精一の想い出波止場、Acid Mothers Temple &the melting paraiso U.F.O.、灰野敬二の静寂などのライブおよびレコーディングに参加している。 2012年1月28日、持病の腰痛の悪化を理由にドラマーを引退することを自らのブログにて表明しているが、2014年にギタリストに転向、ミュージシャンとしての活動は継続している。また、tkrworks社と長年開発を進めて来た映像と音楽をリアルタイムにリミックス出来る自作楽器「DORAnome」により活動を再開。既製の楽器ありきの音楽では無く楽器自体から自分自身の音楽専用に一から作り上げるというコンセプトにより圧倒的な個性と唯一無似な世界観を出している。この「ドラびでお」は世界中のロックフェス、ジャズフェス、メディアアートフェス、映画祭、芸術祭でも好評をはくし2013年にも大規模なワールドツアーが企画されている。現在はVestaxs社より技術提供CACIO社より機材提供を受けより完成度の高い「DORAnome3」が制作されている。
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概要・来歴
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元スペクトラムのリーダーである新田一郎により設立。 社名発表は、当時放送されていたFM系ラジオ番組爆裂スーパーファンタジー内で行われた。 パーソナリティだった嘉門達夫は「藤山レコードにしたい」と語っていた(同じく爆裂スーパーファンタジー内で)。 ビクターエンタテインメント(現:JVCケンウッド・ビクターエンタテインメント)と提携していた。 親会社ともども2009年10月14日破産手続開始決定。2010年7月23日付で費用不足のため破産廃止となり、完全消滅した。
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概要・来歴
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1977年に金沢美術工芸大学産業美術学科(工業デザイン専攻)を卒業後、そのままソニー株式会社に入社。これまでに工業製品などのデザインをいくつも手がけており、内閣総理大臣賞やグッドデザイン賞などの受賞歴がある。 1994年〜2006年にかけては、ソニー・コンピュータエンタテインメント(SCE)が発売した家庭用ゲーム機「PlayStation」シリーズ(初代PS〜PS3までの据置型機)の本体および周辺機器(コントローラなど)のデザインを手がけている。また、ソニーのパソコンブランドとして1996年に「VAIO」のネーミングおよびロゴデザインを手がけ、さらに翌1997年には「VAIO Note 505」(PCG-505)の本体および周辺機器のデザインも手がけている。なお、VAIOの“VA”は正弦波(アナログ)を、“IO”は2進法の 1 と 0 (デジタル)を表現しており、「アナログとデジタルの融合」がコンセプトとなっている。 2009年、ソニーを退社後に独立し個人デザイン事務所「株式会社テイユウゴトウ」を設立、以降同社の代表取締役社長を務めている。
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概要・来歴
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ユニット名は、sorachoco公式サイトの前身である「空とちょこと泉」(花村が好きな「空」、稲村が好きな「チョコレート」、湧いてくるイメージの「泉」をつなげた)を、そのままでは長いので「そらちょこ(空ちょこ)」という略称で呼んでいたことが由来であると両名が語っている。 公式サイトや関連グッズに描かれているキャラクターには「ほわる」という名前があり、イラストが得意な稲村がデザインした。「天使とクリオネを足したようなキャラクター」と稲村は説明している。
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概要・来歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/22 05:41 UTC 版)
「ラスカルズ (イングランドのバンド)」の記事における「概要・来歴」の解説
ボーカル・ギターのマイルズ・ケインはアークティック・モンキーズのアレックス・ターナーとラスト・シャドウ・パペッツを結成し、全英アルバムチャート1位を記録した。
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概要・来歴
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「LOVE,PEACE&TRANCE」の記事における「概要・来歴」の解説
1994年にマキシシングル「HASU KRIYA」を、翌1995年にアルバム『LOVE, PEACE & TRANCE』を発売し、同年末に東京都港区西麻布のクラブ「Yellow」にてライブを行った。それ以降は活動を行っていない。 作品の歌詞カードには、遊佐の写真の上にLOVE、甲田の上にPEACE、小川の上にTRANCEと記載されており、また歌詞カード中でも甲田は遊佐と小川のことをLOVE、TRANCEと称している。
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概要・来歴
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1984年6月にノイズミュージシャンであるJOJO広重が、元INUのメンバーであった林直人の協力を受け大阪府に設立した。本社は大阪市中央区西心斎橋アメリカ村に位置する。取締役社長はJOJO広重。林直人は専務に就任していたが2003年に他界している。リリース作品は社長のJOJO広重がリーダーをとるバンド非常階段のアルバムをはじめ、ノイズ全般、パンク、サイケデリックなど幅広いジャンルをフォローしている。CDが中心だが、ビデオ、DVD、DVDR作品などのリリースもある。 現在は自社流通の他、メジャーのレコード会社を含む他社へのライセンス貸与でのリリースも積極的に行っている。 AMS(アルケミー・ミュージック・ストアの略)というレーベル直営のCDショップが存在し、自社レーベルの作品を含むインディーズ作品や日本国内外を問わない各種ジャンルの音源などを販売していたが、実店舗は2008年に閉店した。現在は自社商品、関連商品のみの通信販売を本社直販の形で行っている。
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概要・来歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/01/14 22:07 UTC 版)
バンド名は霹靂という単語から拝借したものであるとされる。元くるりの森信行がサポートドラムとして参加している。 2007年4月~7月「青天のパォ~ンTOUR'07」で全47都道府県TOURを日産PAOで周り達成!翌年08年9月~12月に「ストックホルムシンドロームTOUR'08」で2度目の全国制覇!ツアー途中でドラムが脱退するも、数々のミュージシャンやライブハウスの助けもあり、無事ファイナルを迎える。 一般応募による出演オーディション「出れんの!?サマソニ!?」総勢2106組出演の審査に通り、岩崎慧 賞(セカイイチ)&磯貝サイモン 賞を受賞し、サマーソニック2009に出演。2009年〜3年連続で信州松本にて開催されている、りんご音楽祭に出演。 2010年 名門ベルウッドレコードとマネージメント&レーベル契約し、セカイイチ岩崎慧プロデュース ミニアルバム『ステーション』をリリース。 vo.g umiQは写真を趣味としており、ロモグラフィーにて写真を掲載されたり、ロモグラフィーの日本唯一の旗艦店 Lomography Gallery Store Tokyoオープニングパーティーに umiQがソロで出演したりしている。http://www.lomography.jp/magazine/lomoamigos/2011/03/29/umiqlomo-lc-a-plus myspaceではフレンド数1万人超。名前聴いた事あるね率200%のバンド。
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概要・来歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/04/20 05:28 UTC 版)
2004年Vo.葛西と元Bass大久保によって結成。スタジオで別の部屋から鍵盤を持って出てきた元Piano松尾を勧誘。 その後松尾の紹介でDrums尾曲が加入して初期【雨ふらしカルテット】誕生。 2005年Guiter塚越がたまたまLIVEを見て衝撃を受け、葛西に話掛けた事をきっかけにスタジオセッションに参加。 2006年1月塚越正式加入。“カルテット”ではなく5人編成での活動がスタート。 2007年1月、自主制作シングル「1ページ」をライブ会場にて限定販売(※現在入手不可能) 5月・6月、ニッポン放送のゴールデンタイムにてジングルに採用され、オールナイトニッポンの1コーナー「有楽町音楽室」準レギュラー出演。 7月、インディーズレーベルに所属しアルバム制作に入る。 9月発売に先駆けてニッポン放送内イマジンスタジオにてフリーワンマンLive敢行。満員御礼。 10月5日、1st.ミニアルバム「夢で逢えたら」全国流通にて発売開始。 2008年所属レーベルが潰れ、7月Bass大久保・Guiter塚越が立て続けに脱退。サポートを入れつつ活動後、10月現Bass野月加入。 2009年11月、マキシシングル「電線と電車」発売。 2010年1月、元メンバー塚越が飛び入りでLiveに参加。その後サポートSax松崎と一緒に定禅寺ジャズフェスティバルに6人編成で出演。 2011年11月、塚越が正式復帰。渋谷芸術祭ハチ公前特設ステージに出演。6人編成の活動を続ける。 2012年2月、Piano松尾脱退。 4月、Chunky6のPianoサーカス田中蟹蔵がサポート加入。基本は4人体制のLiveパフォーマンスをしつつ、また6人編成で活動をするようになる。 その後一旦サポートの2人が抜け4人体制にて9月、3年連続定禅寺ジャズフェスティバル出演。 10月、バンドは沈黙を迎え、活動を一旦休止。 2013年春頃、徐々にスタジオに入りセッションを開始。 5月1日、雨ふらしカルテット企画イベント「KOZO’S WALTZ vol.2」にて4人体制にて活動再開。 今後Live活動と平行にUst.雨乞いちゃんねる月一第二月曜定期配信。 秋頃フルアルバム2枚発売予定。
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概要・来歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/12 22:53 UTC 版)
デビュー後は朝日放送「ビーバップ!ハイヒール」のエンディングや、全国ネットのラジオドラマの主題歌などに選ばれた。韓国俳優、キム・ジェウォンやABCラジオのパーソナリティーの妹尾和夫に楽曲提供を行っている。
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概要・来歴
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2008年 中学時代からの音楽仲間だった下川リヲ(Vo, G)・ゴッド・カルマ・真・大稲荷(G)・吉田拓磨(Dr)を中心に「全人類への復讐」を目的に熊本で活動を開始。 2009年 「閃光ライオット2009」決勝大会に進出し、同大会のキャンペーンガール・夏未エレナの選出する夏未エレナ賞を受賞。 2010年 下川、吉田が高校卒業を機に上京するのと同時にアベマコト(B)が加入。以来都内ライブハウスに出演する。 2011年 ズボンズとイベント「月巻ズボン人間」を共催し、OKAMOTO'Sのアルバム「欲望」に下川が口琴で参加するなど、他アーティストとのコラボレーションも積極的に展開。この年、ゴッド・カルマ・真・大稲荷が脱退。 2012年 山口慎太朗(G)が加入。 2013年 4月に山口が脱退。6月19日に1stフルアルバム「苺苺苺苺苺」をリリース。同月のレコ発ワンマンライブより夏目創太(G)が加入。 2014年 吉田が脱退。オリジナルメンバーが下川のみになる。MOOSIC LAB2014にて挫・人間×坂本悠花里監督の「おばけ」がミュージシャン賞を受賞し、3月25日ライブシーン撮影の為に行われたイベントにてポッポ(Dr)が加入する。 2015年 NHK Eテレのテレビドラマ「念力家族」のテーマソングとして「念力が欲しい!!!~念力家族のテーマ」を提供。5月にポッポが脱退。サポートドラマーに爆弾ジョニーのタイチを迎え活動を継続する。2ndフルアルバム「テレポート・ミュージック」をリリース。 2016年 メインのサポートドラムとして元ドレスコーズの菅大智を迎える。1stミニアルバム「非現実派宣言」をリリース。 2017年 1月メインボーカルにセクシー女優の南梨央奈を迎えて配信限定シングル『☆君☆と☆メ☆タ☆モ☆る☆feat. みなりお(南 梨央奈)』をリリース。ライブDVD「りりぱ❤︎わんまん"ちょおじつりょくはせんげん"ひとりぢめ」をリリース。ひめキュンフルーツ缶に「ハヤオ」を提供。ライブ会場限定シングル『緊急チンポジウム』をリリース。3rdアルバム『もょもと』をリリース。配信限定シングル「可愛い転校生に告白されて付き合おうと思ったら彼女はなんと狐娘だったので人間のぼくが幸せについて本気出して考えてみた feat.常盤ゆう」リリース。 2018年 初の全国流通盤シングル「品がねえ 萎え」リリース。初の名古屋含むインストアライブ5箇所、東名阪ワンマンツアー敢行。TOKYO FM「RADIO DRAGON-NEXT-」内にて1ヶ月レギュラーコーナー担当。下川リヲがフリーペーパー「Skream!」とSkream!ウェブサイトにてコラム連載開始。TOKYO FM「RADIO DRAGON-NEXT-」内にて2ヶ月レギュラーコーナー担当。4thアルバム「OSジャンクション」リリース。 2019年 2018年11月から続いたリリースツアーが終了。インストアライブ5箇所、全国ツアー16箇所(うちワンマンライブ8箇所)。 サポートドラム菅 大智が離脱。脱退ライブでは史上初、ワンマン3回転を行う(男子限定・女子限定・男女混合)。翌週からナカジ(ゴールデンローファーズ)、キモツ(知らないオッサン)を迎え精力的にライブを行う。憧れの "神聖かまってちゃん” と初共演(郡山#9)。中野ブロードウエイにオープンした、まんだらけ系列のイベントスペース「mandaray」のオープニングイベントに下川が参加(共演:松永天馬)。12月キモツが加入して初ワンマン(新代田FEVER)。 2020年 3月5thアルバム「ブラクラ」リリース。 新型コロナウイルス感染症の影響で東名阪計4本のインストアイベントが中止。アベマコトが脱退を表明。アルバムリリースツアー「挫・人間 TOUR 2020 〜さような来世!風と共に去りヌンティウス〜」の初日、夏目の地元・安城RADIO CLUB公演以降、新型コロナウイルス感染症の影響で日程の延期が続く。6月新宿red clothにて、無観客生配信でライブ再開(共演:爆弾ジョニー)。7月ソーシャル・ディスタンスを確保するため会場を変更しつつツアー再開。8月単独生配信トークイベント開始(新宿red cloth17周年初日)。10月札幌Bessie Hallをもって、1stアルバムから10年間メンバーだったアベマコトが脱退。11月5日、渋谷ラママ(共演:POLYSICS)にて、一般公募オーディションにより、ベースに札幌のHIP HOPチーム"中華一番"からマジル声児、ドラムに"ベッド・インwithパートタイムラバーズ"からスローセックス石島が正式加入。2014年以来の4人組となる。11月27日、2曲入りデジタルシングル「マンガよみたい/誰かを救える歌」をリリース。 2021年 4月1日 石島脱退。再び3人になる。
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概要・来歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/24 09:13 UTC 版)
現在のメンバーは長谷川裕倫、大國正人、小町裕、伊藤健一の四人。メンバーチェンジや一時期の活動休止を含むものの、結成から現在まで三十年にわたり活動を続けている。ただしメンバー全員が一般職との兼業であるため、その活動は不定期かつマイペースである。 バンド名は、バンドを結成したころに長谷川がアルバイトをしていたゲームセンターの店長が、怒ると脂ぎって蛸の様になることからつけられた。 1981年頃、長谷川がギター、和泉明夫がボーカルをそれぞれ担当していた「変態クラブ」というバンドが前身である。俗にADK時代と呼ばれる最初期のあぶらだこは、レーベルの性格上ハードコア・パンクバンドシーンの代表的存在として認知されていた。しかし、ADK時代の1stアルバムから独特のユーモア感覚や構築性は既にあらわれており、イズミのノイジーかつフラッシーなギターやマルのパワフルでストレートなドラミングと、ヒロシのメロディアスなベースやヒロトモの声色・間などにおいて独特なヴォーカルは対照的な性格を有していた。『ADK盤』の発売後はマルの脱退によってハードコア色は一層希薄化し、当時都内のアンダーグラウンドで活動していた吉田達也がヘルプ参加してからは、現在にまでつながる性急な展開と執拗なリズム変化を基調とした音楽性を確立。伊藤加入以降も徐々にサウンドは変化し、それらのジャンルでは括りきれない独自の音楽性を保持するに至った。 その音楽性は長谷川の奇妙なヴォーカルと現代詩を髣髴とさせる難解な歌詞、それにぴったりと呼応するアンサンブルによって形成される。歌詞の自由詩的リズムに同期したアンサンブルは、楽曲としての体裁を危うくしかねないほど過剰な変拍子やポリリズムが盛り込まれ、短い時間に性急な展開を持たせているのが特徴である。近年では初期の比較的ストレートな攻撃性は薄れ、プログレッシヴ・ロック、スカム、雅楽、(非テクノ的な)アンビエント・環境音楽、現代音楽など、様々な音楽性を内包したものになっていると同時に、奏者たち独特の「間」を持たせたリズム解釈がより顕著となっている。一般的な観点からすると、一聴して取っ付きにくい音楽性である。 2009年2月7日開催の「あぶらだこ 二十六周年 ワンマン」以降ライブを行っておらず、実質的に活動休止状態である。
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概要・来歴
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「grooveline」の記事における「概要・来歴」の解説
1999年にバークリー音楽院に留学していた仲間同志で、現地ボストンで組まれた強力無比なファンク・ジャズ・バンド。 ボストンでクラブ・サーキットを回り、人気を博した後、帰国。その圧倒的な演奏力とパフォーマンスが話題となり、ファンク、ジャズ、ロックなどあらゆる音楽を吸収したオリジナル・サウンドは「次世代を間違いなく担うインストルメンタル・バンド」として注目を浴びる。 2002年帰国。活動拠点を東京に移す。2004年にビクターエンタテインメントよりメジャーデビュー。 2010年9月、活動休止を発表。
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概要・来歴
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「TAMATE BOX」の記事における「概要・来歴」の解説
2004年 、東芝EMI よりラバーキャロッツとしてメジャーデビュー。アーティスト名はTAMAc(タマチャン)。 2007年 、EMIミュージック・ジャパン より玉手ゆういちとしてソロデビュー。 2012年 、avex よりUNISTとしてメジャーデビュー。アーティスト名はTAMA(タマ)。
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概要・来歴
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「ヤンキース (バンド)」の記事における「概要・来歴」の解説
1980年代初頭、東京都福生市を本拠に、大竹幸尚(ボーカル、作詞作曲)が結成していたバンドに、クラウン・レコードのディレクターが「ヤンキース」と命名。 当時、福生市にあった3つのライブハウスを拠点に、吉祥寺マンダラ、新宿ルイード等への出演へ活動範囲を広げていった。この第一期メンバーには植野和敏(ギター)などが在籍した。 たび重なるメンバー変更を経て、1985年にヤマハ EastWestコンテスト、および新星堂ロックインコンテストでグランプリを獲得。この第二期メンバーには湯沢直美(ドラム)などが在籍した。 1988年、にっかつ映画「ころがし涼太 激突!モンスターバス」の音楽を担当するも、メンバー編成は第二期から一新していた。この第三期メンバーには杉山篤(ギター)などが在籍した。 1990年のニューイヤーロックフェスティバル出演を機に大竹幸尚(ボーカル)以外のメンバーすべてが入れ替わり、バンド名を「ムラマサ」と変更した。この第四期メンバーとなった大郷良知(サックス)、大日方力也(ギター)、武田正治(ドラム)は、大竹幸尚(ボーカル)が作詞作曲した楽曲の演奏やサウンド・アレンジを担い、他アーティストおよびTVアニメ劇盤作品等の提供活動を行った。特に、大郷良知のサックス・フレーズ、大日方力也のギター・フレーズが映画などの映像系作品で採用されることが多かった。同時に、武田正治(ドラム)はピアノやキーボード類鍵盤楽器の演奏者でもあり、大竹幸尚との共同作業によるアイドルらへの提供作品が存在する。 また、任天堂 SFC ソフト「海腹川背(1994年12月23日発売)テーマソング」「史上最強リーグ セリエ A エースストライカー(1995年3月31日発売)テーマソング」を、菊池琢己(ギター・サウンドアレンジ)と共作。大竹幸尚は、ペンネーム「ゆいはやと」として参加。 他にも中野正博(ギター)、安芸出(キーボード)、星牧人(ピアノ)らがサウンド・アレンジャーとして参加した提供作品もある。
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概要・来歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/01 02:26 UTC 版)
父は、サックス奏者の松浦ヤスノブ。梅花女子大学中退後の1987年に福永恵規のアルバム『SAMBO』に収録されている「ラベンダー物語」で、作曲家としてデビューを果たす。多数の歌手に楽曲提供をするなかで、1990年にシングル「たいくつをたべるバク」で、自らも歌手デビューを果たす。数多くのアニメ作品や声優にも積極的に楽曲提供をしている中で、アニメシンガーソングライターでは珍しく、大半の曲について一人で作詞・作曲・編曲の全てをこなしている。 1996年にアレンジャーの吉田潔とのユニット「Liaison(リエゾン)」を結成している。2003年以降は倉田雅世とのユニット「ユキクラ」を結成して、ライブやCD発売などの活動を積極的にこなしている。
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概要・来歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/04 06:04 UTC 版)
1999年に愛媛県伊予郡松前町で、松山大学のバンドサークルのメンバーだった鹿島公行を中心に結成。鹿島は大学生ではなかったため知り合いがおらず、大学生だったにも関わらずサークル内に同じく知り合いがおらずポツンとしている城戸をバンドに誘ったことがはじまり。インディーズ時代から四国地方で人気を博し、「四国地方最強のロックバンド」とも呼ばれた[誰によって?]。インディーズ時代から地元・松山でのライブは、ワンマンをするたびに200人を超える観客を動員していた。 一度も拠点を東京に移すことなく、松山で活動し続けている。 2004年1月21日に、シングル「哀愁交差点」でトイズファクトリーからメジャーデビュー。その後も松山市を拠点におき、CDやDVD等をリリースし、年間100本程のライブ活動を行っていた。メジャーデビューアルバムはオリコン10位を記録しヒット。また、2004年には日本ゴールドディスク大賞で『ニューアーティストオブ・ザ・イヤー』を受賞した。 ライブでは、「その時・その場所・その感情(スリーS)」をテーマに掲げている。 2007年6月13日、年内での解散をホームページにて発表。解散後の個々人の細かい活動は未公開。活動情報は随時ホームページで発表予定とのこと。 2015年10月14日、再結成を発表。
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概要・来歴
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「ヤングブラッズ (1960年代のバンド)」の記事における「概要・来歴」の解説
1965年結成、フォーク・ロックの代表的なバンドの一つでラヴィン・スプーンフルとともにニューヨークのグリニッジ・ヴィレッジを中心に活躍、1969年カリフォルニア州内に活動拠点を移し1972年解散した。 ニューヨーク州出身のジェシ・コリン・ヤング(Jesse Colin Young、本名Perry Miller)は会計士を営む父にヴァイオリニストの母のもと、幼少からクラシック音楽に親しみ遊学からボストンのフィリップス・アカデミーに進学したがフォークリバイバル運動の「洗礼」から熱心な音楽活動に入り学校をドロップアウト後、ニューヨークに戻りフォーク・クラブやコーヒーハウスで活動し1964年4月キャピトル・レコードからボビー・スコット(Bobby Scott)プロデュースによるソロ・アルバム「ザ・ソウル・オブ・ア・シティ・ボーイ(The Soul of a City Boy)」を発表した。グリニッジ・ヴィレッジの雑多な交流のなかセッションや即席のフォークグループがステージに立ち、デヴィッド・グリスマン(David Grisman・英語版)の呼びかけたブルーグラスのジャグ・バンドには様々なミュージシャンが参加し演奏を繰り広げ、ヤングとジェリー・コービット(Jerry Corbitt本名Jerry Byron Corbitt)はこの前後に知り合った。意気投合した二人はカナダのフォーククラブなどを回る遠征を計画しこの演奏旅行からバンドスタイルを思い立ち、帰国後ヤングは2作目ソロアルバムの制作をマーキュリー・レコード(Mercury Records・英語版)とのもとで契約、この契約付帯項目にはスタジオをソロアルバム録音とは別枠で、バンドセッションのリハーサルとデモ・テープ制作に使う時間枠確保が記載され、全てのプロデュースをジェリー・ロス(Jerry Ross)に依頼した。デモ・テープ・セッションにはのちラヴィン・スプーンフルに加わるジョン・セバスチャンがハーモニカでゲスト参加し、約4人の候補メンバーの選考からコービットとはジャグ・バンド仲間でボストンのセミ・プロバンドを辞め将来の模索にニューヨークへ移住しジャズバンドの臨時雇いだったバナナ(Banana本名はLowell Levinger III)とその友人で社交ダンスホール専属の無名ジャズバンドにいたジョー・バウアー(Joe Bauer)のそれぞれ細々と糊口を凌いでいた二人に定まった。。1964年2月グリニッジ・ヴィレッジで開店したカフェアゴーゴー(Cafe au Go Go)クラブに出演し評判から専属契約を勝ち取り、1965年3月ヤングのソロ2作目アルバム「ヤング・ブラッド(Young Blood)」を発表する。マーキュリーレコードからは、次作を要請されたが態度を保留し、デモ・テープから2枚のシングルはプロモーション・サンプルで終わり発売に至らなかった。マーキュリー・レコードとの交渉が膠着するなか、RCAビクターのスカウトを受け入れ同年11月シングル「グリズリー・ベア(Grizzely Bear)/ティアーズ・アー・フォーリン(Tears Are Falling)」でデビューする。RCAビクターと結んだ契約は、実績のない新人バンドにたいして異例なもので、破格なスタジオ使用条件とプロデューサー任命権が含まれていた。再度のマーキュリーレコードとの交渉は、大きな点ではレーベルが斡旋する名義だけで無能なプロデューサー・チームとその経費や印税割を排除し、不慣れなバンド体制による録音時間を少しでも長く確保したいというもので、RCAビクターが代わりに聞き入れて承諾したものだった。グリニッジ・ヴィレッジの親しい音楽仲間友人で恣意にしていたビジネスマン、フェリックス・パパラルディがチーフ・プロデューサーとして招聘され、これに基づいて契約を結んだ。パパラルディは改めて新人バンドのプロデューサー人事権など画期的事項を定めるこの書類内容に目を通すと愕然としたが歓喜し、ヤングらの手腕に呆れたと云う。パパラルディはアメリカではジョン・サイモンら計算立てのアレンジが出来る先進者の一人で、ニューヨーク出身ミシガン大学でクラシック音楽を修めたキャリアから若手ながら高い評価と実績を持ちその名声からイギリスで前評判高く期待されたバンドクリームのスタッフに起用されている。交渉を拗らせ契約を逸したマーキュリー・レコードとの音源はその後1970年に編集盤「トゥ・トリップス(Two Trips Jesse Colin Young With The Youngbloods)」に収録、発表されている。契約条項で異例のスタジオ使用条件とは、作品制作の締切り期限まで会社が使用しない空き時間に限り、バンドが自由に使用するスタジオの占有権に、録音経費では時間制貸切のスタジオ使用料金にはあらかじめ上限額が設定され、RCAは貸切時間超過の使用料について追加の精算を求めない、というものだった(要約)。この条項を盾に無理強いして施錠を解いた深夜早朝のスタジオを自由に使い、スタジオ使用明細書の束とともに完成したアルバムは1967年1月に「ザ・ヤングブラッズ(The Youngbloods)」として発表、5月の「アース・ミュージック(Earth Music・英語版)」が続いた。最初のアルバムはボブ・ディラン、ビートルズやバーズなど影響にサイケデリック・ロック風のリード・ギター、他のバンドがこぞって取り上げたブルースロック調で最先端のロックミュージックが中心で、6月にシングル・カットされた「ゲット・トゥゲザー(Get Together)」はディノ・バレンティ(Dino Valenti/Chet Powers・英語版)が書き下ろし1964年6月にキングストン・トリオが取り上げ発表後フォーク/フォークロックのグループやミュージシャンが多数取り上げていた。ヤングブラッズのカバーヴァージョンは全米ホットチャートのマイナー部門シングル盤ランキング最高62位と健闘し、その後ニューヨークのラジオ放送局WABC-AMでユダヤ・キリスト教系公益法人のNCCJ(英語版)とICCJ(英語版)のCMに起用され1969年には全国ヒットとなった。「ゲット・トゥゲザー」のヒットとは対称的にアルバムのセールスは振るわなかった。2枚目「アース・ミュージック」は、ステージで演奏していたフォーク・ロック、リズム・アンド・ブルースなどで幾つかはメンバーがアレンジを手がけた。パパラルディが担当した楽曲は、RCAでは同時期ジェファーソン・エアプレインのアルバムやシングル盤とは異にした時代に左右されない普遍的なものとし一過的な流行のアレンジが無い仕上がりとなったが、パパラルディは一方で出身地元ニューヨークでビート・ジェネレーション余波のフォークミュージシャンとの関係も深く、ティム・ローズ(Tim Rose・英語版)リッチー・ヘブンスの作品などベース・ギターで演奏参加やアレンジで関わり、ヤングブラッズの特徴を注いだこのアルバムはニューヨークのローカルカラーが濃い作品とも云え、全国的なヒット・チューンの流行傾向との乖離は否めず全米トップ200チャート圏外、地元と音楽マニアの支持に留まった。2作のアルバム販売不振はメンバー間の軋轢や主導権争いに発展しアルバム第3作はRCAの催促に関わらず足踏み状態で「クイックサンド(Quicksand)」など数曲を収録して中断、1968年終末にコービットはソロ活動転向を理由に脱退した。コービットが抜けた穴はバナナがオルガン以外にギター、ベースやマンドリンなどを兼任するマルチ・ミュージシャンで、普段はベース担当ヤングが受け持つギターパートと楽曲ごとのアレンジを大幅に変更対処で演奏活動は三人体制で続行を決めた。解散の懸念解消からRCAはアルバムの録音再開にハリウッドの自社スタジオで収録することを持ちかけ、バンドはこの提案を受け入れマリン郡などに滞在し1969年4月チャーリー・ダニエルズのプロデュースで「エレファント・マウンテン」として発表した。ビルボードチャート最高118位、ヒット作とは云えない成果だったが評論家からの高い評価と多くの音楽マニアに受け入れられてロングセラーになり、シングル・カットされた「闇(Darkness, Darkness)」は複数のミュージシャンがカヴァーしている。 バンドが根城にしていたカフェアゴーゴーは10月に閉店することが決まり、RCAとの契約は3作のアルバム制作で満了するため「エレファント・マウンテン」の録音再開前には既に幾社かと接触し交渉を進めていた。1967年に西海岸で演奏旅行を行い9月以降はニューヨークとカリフォルニアを往復し、再レコード契約ではカリフォルニア州に本社があるワーナー・ブラザース・レコードから作品裁量権と不干渉範囲、経費負担、責任債務割合などを提示された。この好条件をほぼ受け入れて、契約内容からバンドは自主レーベル、ラクーン(Raccoon)をワーナー・ブラザース傘下で開設を行い、東西を往復した生活に区切りを付けた。サンフランシスコを中心に公演を続け国内各地やカナダを訪れこの模様と音源で1970年10月『ロック・フェスティヴァル (Rock Festival)』を発売。プロデュースはゼーガーとエバンズ(Zager and Evans、ワンヒットワンダーで楽曲「西暦2525年」が有名。)、ビルボードチャートは最高80位に。翌年7月の『ライド・ザ・ウィンド(Ride the Wind・イタリア語 )』では新曲を含むライヴ盤で発表した(同チャート最高157位、プロデュースはチャーリー・ダニエルズ。)。1971年『グッド・アンド・ダスティ(Good And Dusty・イタリア語)』に収録する楽曲を巡る各自の配分に対立が生じ、以後ヤングはバンドの出演や演奏参加の一部に条件を立てて拒絶し、ラクーンから発表したバウアーの71年ソロ作品には一切関与しなかった。バナナとバウアーは補助メンバーにマイケル・ケイン(Michael Kane)を雇った。1972年ヤングはソロ・アルバム『トゥギャザー(Together)』をバナナとバウアーの手を借りず完成させ、招聘したミュージシャンには脱退したコービットもいた。同年春のヤングブラッズ『ハイ・オン・ザ・リッジ・トップ (High on a Ridge Top・イタリア語)』録音を前にヤングは脱退を表明しバンドの解散が決定した。マイケル・ケインを昇格させ有名無実と化したヤングブラッズの最終作はヤング作の一曲を除いてカバー曲が占めヤングとスタジオ・ミュージシャンを務めるバナナ、バウアーとケインで収録し決定していたステージスケジュールを9月まで消化して活動停止解散、11月にラストアルバム「ハイ・オン・ザ・リッジ・トップ」が発売された。
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概要・来歴
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「YOSHI (歌手)」の記事における「概要・来歴」の解説
小学校高学年の頃に趣味でミニ四駆をやっており、ミニ四駆繋がりで出来た大人の友達が着用していたヨウジヤマモトやリック・オウエンスに惹かれてファッションに興味を持ち、池袋のライトオンにてMA-1を母親にねだるものの「その年齢で高いジャケットを着るなんてありえない」と一蹴され、3時間に及ぶプレゼンテーションの結果、購入の許可が下りる。また、同時に素材やアートにも興味が沸き「服がどのように作られるのか」「ファッションや音楽は時代とともにどう移り変わったのか」なども知りたいと思うようになる。 2016年、13歳のとき、Off-Whiteのベルトを腰ではなく首に巻いて『Off-White南青山』のグランドオープンパーティに訪れた際、Off-Whiteを起業したファッションデザイナーのヴァージル・アブローに出会う。「そのベルトの使い方は面白い」とヴァージルのInstagramにYOSHIの写真を投稿してもらい、一夜明けたらYOSHIのInstagramのフォロワーが約1万5千人に増えていたという。 その後、数多くの芸能事務所から契約の打診があるものの、「芝居なら芝居、音楽なら音楽に専念しませんか?」と言われたが、法律があるわけでないのに縛ることに意味を見出せず「それじゃ意味がない」と自ら首を縦に振らなかった。それと同時にYOSHI曰く「1人の男として成長したい」と思い、毎日企画書を書いて先方にメールを送ってプレゼンし、モデルのマネージャーをしたり友達のファッションショーを手伝うといった裏方の仕事で、3年間事務所に所属せずフリーランスで活動していた。なお、現在の所属事務所であるSTARBASEは、「出来ることはすべて100%で進めましょう」と言ってくれたので契約したという。
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概要・来歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/10 04:49 UTC 版)
2002年に結成、東京都を中心に活動。主に男性観を中心とした主張を行い、ファン層も男性が多い。 音楽にこだわらない事にこだわるという癖のあるテーゼを得意とし、ひねくれ者達から高い支持を得ている。 従来のバンド形態と異なり、十数名のメンバーからライブ毎にスターティングメンバーを選出する「2軍制度」を考案採用。 20代前半から30代後半が所属。 スターティングメンバー決定権は主に創設メンバーの決裁。 ライブより打ち上げのほうが動員数が多い。 さくら水産の公認曲「マグロのアラ煮は80円」は、メンバーが通い詰めていたことから勝手に曲を作り、それがさくら水産を運営する「株式会社テラケン」の寺田謙二会長の耳に届き公認となる。 ライブMCに演説取り入れる。 音源帯コメントが著名人物名で記載されるが(1st:角川春樹・2nd:小沢一郎)実在する著名人物と同姓同名のメンバー友人の寄稿。 元格闘家朝日昇選手と交友が深く、同氏がTシャツデザインを寄贈。 iTunes世界ランキングで最高6位を記録。 ほら貝、和太鼓、演説、タンゴダンサー、プロレスラーというパートが存在する。 2009年頃より、活動を音楽に限らず、バンド名義でBBQや、宴会を度々開催。 スタッフに食品衛生管理者資格を取らせ、安心安全を信条としたBBQを展開。 2011年より、任意団体として音楽以外の活動を重視すると発表。最終的に株式法人を目指すと公言。 世界初の居酒屋専門BtoBtoB戦略を採用したインディーズバンドを公言。 TSUTAYAを運営するカルチュアコンビニエンスクラブ(CCC)グループ子会社から、インディーズバンドでは異例の公式グッズ運営事例掲載。 2014年より、バンドをクラウド化する「世界初、夏フェス主催者向けサービス」を開始。 2014年4月、インディーズバンドとして史上初の日経MJ(日本経済新聞社)裏1面掲載。 2014年6月 CDデビュー前の聖飢魔IIドラマーだった「ジャギ古川」が加入。 2014年7月 プロレス興行団体覆面マニアで活動中のプロレスラー、闘神アルゴスが加入。 2014年12月 『ファイナルファンタジーXII』や『グラディウスV』の音楽を手掛けた崎元仁が、リアルタイムストラテジー「リトルノア」楽曲にて、オリンポス16闘神のホラ貝を起用。 2015年3月 現絵描きにして第3代修斗ライト級王者の元プロ総合格闘技選手、朝日昇が加入。 2016年3月 ギターの長山衛が、SIT社およびLiveLine社とエンドース契約を締結。 2016年7月 アクション映画「VEGETABLE」に長山衛がラスボス役、朝日昇がラスボス側近役、廣瀬陽太がレフリー役として出演 2016年10月 AbemaTV「Abema Wave サタデーナイト」に提供楽曲「小松菜伐採」の作曲経緯や方針が取り上げられました(2016年10月8日放映) 2016年10月 TBS「新・情報7daysニュースキャスター」に提供楽曲「小松菜伐採」の作曲経緯や方針が取り上げられました(2016年10月15日放映) 2016年11月 フジテレビ「直撃LIVEグッディ!」に提供楽曲「小松菜伐採」の作曲経緯や方針が取り上げられました(2016年11月4日放映) 2016年11月 J-WAVE「ふかわりょうとニッポンの社長」に生出演。提供楽曲「小松菜伐採」の作曲経緯や方針が取り上げられました(2016年11月5日放映) 2017年2月 東洋経済オンライン「社歌ブーム再燃 現代の事情」に掲載。提供楽曲「小松菜伐採」の作曲経緯や方針が取り上げられました(2017年2月5日掲載) 2017年2月 エキサイトニュース「EC企業のメタル社歌」に掲載。提供楽曲「ECメタル」の作曲経緯や方針が取り上げられました(2017年2月5日掲載) 2017年2月 フジテレビ「とくダネ」に出演。提供楽曲「小松菜伐採」の作曲経緯や方針が取り上げられました(2017年2月7日放映) 2017年3月 日本テレビ「ニュースエブリィ」に出演。提供楽曲「小松菜伐採」の作曲経緯や方針が取り上げられました(2017年3月1日放映) 2017年3月 言論プラットフォーム「アゴラ」にて紹介。提供楽曲「小松菜伐採」の作曲経緯が取り上げられました(2017年3月3日配信) 2017年3月 テレビ東京「ほぼほぼ」に出演。提供楽曲「小松菜伐採」の作曲経緯が取り上げられました(2017年3月22日放映) 2017年4月 NHK「天才てれびくん」に出演。提供楽曲「小松菜伐採」を巡り子供相手に本気出して対決。(2017年4月19日放映) 2017年7月 日本テレビ「スクール革命」に出演。提供楽曲「小松菜伐採」の作曲経緯が取り上げられました(2017年7月2日放映) 2017年7月 メタル限定の社歌制作を開始。 2017年10月 NHK「おはよう日本」に出演。提供楽曲「小松菜伐採」の作曲経緯を愚論と共に展開。(2017年10月25日放映) 2017年11月 中京テレビ「キャッチ!」に出演。提供楽曲「小松菜伐採」と「売却不動産」の作曲経緯が取り上げられる(2017年11月23日放映) 2017年11月 NHK名古屋「トレンド探偵」に出演。提供楽曲「小松菜伐採」の作曲経緯が取り上げられる。(2017年11月25日放映) 2018年3月 日テレ「スッキリ!!」に出演。提供楽曲「小松菜伐採」の作曲経緯が取り上げられる。(2018年3月1日放映) 2018年3月 電通PR著、翔泳社刊「PR思考」に変な社歌を作るバンドとして提供楽曲「小松菜伐採」の作曲経緯が取り上げられる。(2018年3月8日発刊) 2018年4月 日本経済新聞社「日経MJ」に2回目の掲載。提供楽曲「小松菜伐採」の作曲経緯が取り上げられる。(2018年4月6日発刊) 2018年4月 経営者向け雑誌「ニューリーダー」に掲載。オリンポスの活動が取り上げられる。(2018年4月27日発刊) 2018年5月 茅ヶ崎活性を目的とした楽曲「HAMAORI」をリリース。(2018年5月13日リリース) 2018年5月 人材紹介会社に「殻を破る歌」をリリース。(2018年5月18日リリース) 2018年6月 日本農業新聞の1面に掲載。提供楽曲「小松菜伐採」の作曲経緯が取り上げられる。(2018年6月28日発刊) 2018年8月 セクシー女優、佐倉絆のデビュー4周年ソングを提供。(2018年8月8日) 2018年10月 ANA全線の機内放映に出演。ヒロセの勤務先が自社PRとして情熱大陸的に彼を密着取材した映像に出演(2018年9月1日放映開始) 2018年10月 オルターブース株式会社にサービステーマソングを提供。(2018年10月18日) 2018年10月 顧問弁護士、尋木浩司氏を新メンバーとして招聘。(2018年10月31日) 2019年2月 にっぽんのマーケターにて取材記事連載。(2019年2月6日開始) 2019年3月 変なバンドとして取り上げられた電通PR著「PR思考」が、繁体字版に翻訳されて台湾・香港・マカオにて発売されました。(2019年3月5日発刊) 2019年3月 名古屋テレビ「メ~テレ」で楽曲放映。提供楽曲「売却不動産」が取り上げられる(2019年3月13日放映) 2019年3月 古河機械金属株式会社に応援歌提供(2019年3月20日) 2019年4月 世界初となるバンドネーミングライツを施行。古河機械金属株式会社に命名権を譲渡。同日より2か月間「古河気合筋肉16闘神」として活動する。(2019年4月1日) 2019年7月 3rdアルバム「闘神道」発売(2019年7月2日) 2019年7月 新メンバーに広告代理店取締役、高沢祐次を招聘。(2019年7月5日) 2020年6月 ビジネス誌「@DIME」に楽曲掲載。(2020年6月16日) 2020年7月 「アドタイ by 宣伝会議」に、古河機械金属株式会社に提供した楽曲経緯が掲載される。(2020年7月30日) 2020年8月 BSテレ東「シャカリズム」で、小松菜伐採他、メタル社歌の制作経緯が放映される。(2020年8月10日) 2021年7月 テレ朝「スーパーJチャンネル」で、小松菜伐採他、メタル社歌の制作経緯が放映される。(2021年7月13日) 2021年7月 ニュースサイト「しらべぇ」に、小松菜伐採他、メタル社歌の制作経緯が放映される。(2021年7月15日) 2022年2月 東京FM「ニュースサピエンス」にて、メタルが及ぼす雇用創出と経済効果を解説。(2022年2月15日) 2022年3月 NHK「NHKだめ自慢」にて、メタルとベジタブルの関係性について出演(2022年3月28日) 2022年4月 財務投資金融担当兼、永田町担当として鈴木丈章氏を招聘(2022年4月25日) 2022年4月 NFT展開開始(2022年4月28日)
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概要・来歴
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結成時のメンバーはジム・リンドバーグ、フレッチャー・ドラッグ、ジェイソン・サースク、バイロン・マクマキンの4人。1996年にジェイソンが脱退し、ランディ・ブラッドベリーがメンバーに加入。詳細は後述のメンバーの節を参照のこと。 2007年、約10年間在籍していたエピタフ・レコードからMySpace Recordsに移籍。移籍前と変わらず、現在もエピタフ・レコードとの親交は深い。 2009年8月21日、ジム・リンドバーグがペニーワイズからの脱退を表明。 2010年2月16日、Igniteのボーカリストであるゾリ・テグラスが新しくボーカルとして加入。 2012年10月29日、ゾリ・テグラスが怪我の治療のため、長期離脱。ジム・リンドバーグの復帰を発表。
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概要・来歴
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「キング・クリームソーダ」の記事における「概要・来歴」の解説
ゲームソフト・テレビアニメ『妖怪ウォッチ』主題歌のために結成された企画ユニット。「ゲラゲラポーのうた」で、2014年4月30日にデビュー。この楽曲はゲーム・アニメのヒットと共に売り上げを伸ばし、オリコン最高位4位にランクインする。 テレビ東京系列の『おはスタ』をはじめ子供向け番組・イベント出演のほかにも、当時の『妖怪ウォッチ』ブームを受け、他局の音楽・バラエティ番組(テレビ朝日系列『ミュージックステーション』2014年6月13日放送回、フジテレビ系列(関西テレビ・フジテレビ共同制作)『SMAP×SMAP』同年10月27日放送回など)にゲスト出演していた。NHKにて2014年12月31日放送の『第65回NHK紅白歌合戦』では企画コーナーにゲスト出演し、嵐をはじめとする他の出演者と「ゲラゲラポーのうた」を披露した。また翌2015年12月31日放送の『第66回NHK紅白歌合戦』でも企画コーナー「アニメ紅白」にゲスト出演し、2年連続出場を果たした。 2017年12月に、マイコが卒業すると共に小室清佳(現・小室さやか)が2代目女性ボーカルになり、これと同時にユニット名も「キング・クリームソーダ.」と、最後にドットが付く表記になった。 2018年の『妖怪ウォッチ シャドウサイド』エンディング曲「お休み賛歌」を最後にしばらく『妖怪ウォッチ』シリーズ主題歌からは外れていたが、2021年よりマイコが再加入した上で『妖怪学園Y 〜Nとの遭遇〜』エンディング曲「YSP!」を担当することが決定し、ユニット名も「キング・クリームソーダ」に戻した。2021年4月9日より放送の『妖怪ウォッチ♪』オープニング曲に「ゲラゲラポーの唄」と表記改題・新録した上で再起用される。 2019年にゲラッパーことmotsuが初期の中咽頭がんを患い、手術を経て寛解した事より、2022年2月15日に小児がんの子どもや家族を支援する音楽チャリティーイベント『LIVE EMPOWER CHILDREN 2022』に参加。グループとしては4年ぶりのステージ出演となった。
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概要・来歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/23 04:49 UTC 版)
ピアニストだった叔母の影響で、幼稚園よりピアノを始めた。小学校に進学すると、水泳、書道、英会話、クラシックバレエを習い、一日も休みがないという多忙な生活を卒業まで続ける。中学、高校は陸上部に入部し、100Mハードルで全国大会に出場する活躍をみせる。このころより、得意のダンスを生かし、ダンス公演やオペレッタのダンサーなどで舞台に出演しはじめる。大学に進学すると禅を専攻、かつ作詞、作曲をしながらピアノの弾き語りのアルバイトをする。 その後、アクション・スタントを主に活動する芸能プロダクションである「倉田アクションクラブ」(TAC)に入ってトレーニングを積み、漠然とアジアで仕事をしたいという夢を持つようになる。その夢を叶えるべく、意を決して 1999年に香港に向かう。現地で日本語教師、通訳などをしながら広東語を学び、二年後上海へ渡る。上海では大学に通いながら北京語を学び、2004年に日本へ帰国。俳協ボイスアクターズスタジオに第28期生として入所し、東京俳優生活協同組合への正式所属を果たした。 通訳レベルの英語・北京語と、日常会話レベルの広東語という特技を活かして、海外ドラマの吹き替えやナレーション活動を積み重ね、情報番組のナレーションなどでレギュラー出演している。声の仕事以外にも、 劇団アニマル王子 をはじめとした数々の劇団にさまざまな作品で客演している。過去には、吉祥寺にあるライブハウス「曼荼羅」にて、朗読ライブの演目で不定期に出演していた。
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概要・来歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/26 06:19 UTC 版)
男女3人によって構成される。ソウルやR&B等を主軸とした楽曲を制作し、「DEE JAM Production」名義での楽曲提供なども行う(松橋未樹のtime stands still等)。名前の由来は4 Dimensions(四次元)とJAMセッションからの作曲スタイルだったので、2つを合わせて「4D-JAM」とした。 1996年シオジリと中尾の二人で結成。 1998年Styling Recordsよりアナログシングル「Finger」をリリース。 全国8局ネット情報音楽番組「HIP POP」のオーディションイベントにてふるかわ♥魔法を発掘。その後加入。 1999年Garage Indies Zapping Associationよりインディーズシングル「[太陽ノナイ朝 月ノナイ夜」をリリース。 4月21日にシングル「COCORO」でGIZA studioよりメジャー・デビュー。 E:mju加入。 1stアルバム「CITY OF TRACKS」を発売。 ZARDの30thシングル「痛いくらい君があふれているよ」にシオジリ、中尾、ふるかわが参加。 2000年4thシングル「Wonderin' Hands」を発売。 E:mju脱退。 2ndアルバム「COME JAM SPACE」を発売。 2001年6thシングル「Big Good Lovin'」を発売。 2002年10月活動休止。 2013年3月、活動再開。但し、以前所属していたビーイングではなく、ディージャムクリエイト内のCon4Tunesというレコード会社に所属している。 2014年7thシングル「MUSIC」を配信。 3rdアルバム「S・S・S〜Soul Searchin’ System」を発売。
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概要・来歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/27 10:08 UTC 版)
2006年旗揚げ。あらゆる視点から歌舞伎にアプローチするため、主宰の木ノ下裕一が指針を示し、さまざまな演出家による作品を上演するスタイルで活動する。 2021年6月現在、メンバーは5名。2006年5月の旗揚げ公演『yotsuya-kaidan』から、2017年5月『東海道四谷怪談―通し上演―』(再演)まで、演出家・舞台美術家の杉原邦生が所属し、メンバーとして多くの作品に携わった。これまで参加した演出家は、杉原のほか、きたまり、白神ももこ、多田淳之介、糸井幸之介(登場順)。 2013年、急な坂スタジオプロデュース『黒塚』(演出:杉原邦生)でCorich 舞台芸術まつり!2013春 グランプリを受賞。同年、『三番叟』(演出:杉原邦生)『娘道成寺』(演出:きたまり)チリ公演で初の海外公演を実施したほか、京都国際舞台芸術祭〈KYOTO EXPERIMENT〉2013にて『木ノ下歌舞伎ミュージアム“SAMBASO”~バババっとわかる三番叟~』(総合演出:杉原邦生)を、フェスティバル/トーキョー13にて『東海道四谷怪談―通し上演―』(演出:杉原邦生)を上演した。 2014年、京都国際舞台芸術祭〈KYOTO EXPERIMENT〉2014にて『三人吉三』(演出:杉原邦生)を上演。翌2015年の再演では読売演劇大賞上半期作品賞にノミネートされた。 2016年、『黒塚』のフランス・パリ公演を実施。同年、京都国際舞台芸術祭〈KYOTO EXPERIMENT〉2016および、信州・まつもと大歌舞伎関連事業にて『勧進帳』(演出:杉原邦生)を上演した。 2018年、信州・まつもと大歌舞伎関連事業として『三番叟』『娘道成寺』を上演。同年、パリ・ポンピドゥー・センターにて、ジャポニスム2018「現代演劇シリーズ」として『勧進帳』を上演した。 2019年、ロームシアター京都にて、「レパートリーの創造」として『糸井版 摂州合邦辻』(演出:糸井幸之介)を上演。同作は2020年に再演された。 2021年、信州・まつもと大歌舞伎関連事業として『義経千本桜―渡海屋・大物浦―』(演出:多田淳之介)を上演。 そのほか、主な作品に『夏祭浪花鑑』(演出:白神ももこ)、『義経千本桜』(総合演出:多田淳之介/演出:多田淳之介、白神ももこ、杉原邦生)、『心中天の網島』(演出:糸井幸之介)など。
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概要・来歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/03 03:19 UTC 版)
1997年に北海道にて結成。1999年6月19日にシングル「やさしい花びら/暖かい場所」にて徳間ジャパンコミュニケーションズよりメジャー・デビュー。その後も作品発表を続けるが、2006年2月22日に2枚組ベストアルバム『best best beret!!』の発表を以て解散した。
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概要・来歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/03 08:28 UTC 版)
O.P.KINGというバンド名は、「OKUDA(奥田)・PILLOWSおよびPEES(ピーズ)・YO-KING」から構想されたもの。 2003年3月に行われたライブイベントへの出演のために結成。当初は一夜限りの予定であったが、反響がメンバーの想像を超越するものであったため、年内の夏限定で本格的な活動を行うこととなった。 2003年7月にミニアルバム『O.P.KING』をリリース。それを引っ提げ、ROCK IN JAPAN FESTIVALなどのロック・フェスティバルに幾つか出演。経て、同年9月22日には最初で最後のワンマンライブを敢行、同時に活動を停止させた。また、このライブでの模様はDVD『END OF SUMMER』にて鑑賞することが可能である。 再結成はアナウンスされていないが、2008年の日本テレビ開局55年のキャンペーン「日テレ55」にてチャック・ベリーの「ジョニー・B.グッド」の替え歌を披露している。
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概要・来歴
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愛知県三河地方の高等学校にて、幼なじみ同士により結成される。2005年には本格的なライブ活動を開始。 バンド名はリーダーの竹内サティフォの実家が営む会社の屋号「竹内電気工業」に由来する。 当初斉藤はドラムを担当していたが、下手すぎるためクビになり、苅谷が加入した。斉藤は何らかの形で竹内電気に関わりたいとのことでダンサーとしてバンドに属していた経験がある。 2006年10月からは日本マクドナルドのラジオCMを書き下ろし、全国のJFL系FM局でクールにわたってオンエアされた。11月22日には東海地区のタワーレコード9店舗限定でのシングルリリースを実現。2007年2月7日にはcolla discにより1stアルバムを発売。2008年3月5日にはBabeStar Labelよりフルアルバム『OK!!』がリリースされた。 2013年5月9日、10日に東京・新代田FEVERで開催するライブ「竹内電気SUPER LIVE!!~魅惑の2days~」をもって解散。 解散後は、竹内、斉藤により音楽ユニット「ONIGAWARA」が結成され、アイドルでもバンドでもなく「SUPER J-POP UNIT」として活躍している。 2019年11月に、脱退した斉藤、山下を含む5人のメンバーで「竹内電気スーパー同窓会ツアー」が開催された。
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概要・来歴
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「pool bit boys」の記事における「概要・来歴」の解説
テレビ東京系列のバラエティ番組『ASAYAN』の企画「男性ヴォーカリストオーディション」から誕生。音楽プロデューサーの浅倉大介のもと、1997年12月3日にシングル「SPIRAL」にてavex tuneよりメジャー・デビュー。当時の所属事務所はスタッツ。その後DRIVE MUSICへ移籍した。 2001年12月31日解散。ボーカリストの伊藤欣司はタイで2005年まで音楽活動を行っていたが、ニューヨークへ活動拠点を移したのち米国の大学に進学。翻訳学の博士号を取得し、米国で大学教員として日本語を教えている。ギタリストのDANは2006年からハワイアンフォークシンガーとして音楽活動を継続している。
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概要・来歴
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「つるの剛士&Seacandles」の記事における「概要・来歴」の解説
2012年4月に神奈川県藤沢市に在住、「ふじさわ観光親善大使」の「つるの剛士」を中心に結成され、活動開始。 2013年4月29日に開催された「江の島サムエル・コッキング苑&シーキャンドル10周年」イベント会場にてミニアルバム「Seasons〜E.NO.SHI.MA〜」を自主制作で販売。その後、同年4月30日、江の島を中心とした一部の店舗で発売。 2013年8月17日、「2013夏フェス!つるの剛士とシーキャンドルズ・スペシャルLIVE」にて、シングル「湘南じゃじゃんか音頭/愛しのあの娘」を販売。
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概要・来歴
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「THE PRISONER」の記事における「概要・来歴」の解説
2004年にTHE AVOIDED(ジ・アヴォイデッド)が変名する形で誕生。 THE PRISONER誕生時の編成は当時のTHE AVOIDEDのメンバーにNANA GNAR GNARを加えた5人編成。「方向性」「音楽性」の違いからメンバーは決裂、JUNICHILOW(ヴォーカル)が脱退を申し出たところ「それなら解散しよう」という話になったが「解散するなら一人残ってTHE PRISONERを続ける」とのJUNICHILOWの申し出をメンバーは承諾。THE PRISONERは一瞬だがJUNICHILOW一人となる。JUNICHILOWはメンバーだったNANA GNAR GNAR(ヴォーカル)とKOUJI(ギター)を再度メンバーとして招き入れてベースとドラム、鍵盤奏者を探した。これがTHE PRISONERの原型であり真実。JUNICHILOWはパンクの模倣に終始するのではなく、共に自分自身の表現を追求していけるメンバーを自身が働いている日雇い労働の仲間達から探し出す必要があった。それは社会の底辺である日雇い労働者達による真のレベル・ミュージック、究極のパンク・ロックを目指す為だった。 大阪から上京し、日雇い労働者として建築現場で共に働いていたベースのTAKASHI、同じく日雇い労働者でレゲエが好きではないが長いドレッド・ヘアを振り乱しながら荷物を運んでいた鍵盤のMICHIAKI、高校生の頃に日本で吹き荒れたポゴ・パンク・ムーヴメントの洗礼を受けて地元である三重でリリースを重ねていたDAIGOが満を持して三重から上京してきてバンドに参加、そのタイミングでTHE PRISONERは本格的に始動する。JUNICHILOWが上京してからこの3人と出会うまでに10年の歳月が流れていた。とJUNICHILOW自身が雑誌のインタビュー記事にて述べている。 当時のギタリストのKOUJIがファーストアルバム録音時に一身上の都合により脱退、同郷で幼馴染、親友であるOSAMUがギタリストとして加入。 2011年、タワーレコード主催のシリーズ・イベントだった"MAVERICK KITCHEN"(開催場は恵比寿リキッドルーム)へ出演。 2013年、NANA GNAR GNARがTHE CASUAL CONNOISSEUR(WEBサイト)、シックスティーズマガジン(ファッション誌)、セクシーダイナマイトロンドン(ファッション・ショウ)でモデルを務める。 2014年、音楽情報雑誌3誌(Punk Rock Issue "Bollocks" No.013、Indies Issue vol.70、Follow Up vol.136)にてJUNICHILOW(景山潤一郎)が表紙を飾る。indies issue vol.70では景山潤一郎のロングインタビューと特集が掲載された。 2014年、パンク・ロック・ファッション・ブランドとして認知されている"666"のvol.31カタログではNANA GNAR GNAR、DAIGO(元ドラム)、OSAMU、JUNICHILOWがモデルを務めた。 2014年8月号、Guiter MagazinのCOMBAT GUITARSの広告にOSAMUが掲載された。 2015年2月、漫画家 宇仁田ゆみが描く倒錯青春ラブコメディ『スキマスキ』(監督・脚本:吉田浩太、出演:町田啓太、佐々木心音、中村映里子、八木将康、久住翠希ほか)のエンディングテーマ及び挿入歌に、4thアルバム「RATS AND CROWS」収録曲「LETTER」が採用された。 2015年7月、公式ファンクラブ「WAKES」が発足。 ヴォーカルでありソングライティング担当の景山潤一郎は音楽ライター/執筆家としても活動している。主にシンコー・ミュージック・エンターテイメントから出版されている音楽雑誌"Bollocks"の長編連載、海外バンドのインタヴューやレヴュー、日本盤ライナーノーツを執筆。 景山潤一郎は、他のアーティストのアルバムにコーラスとしても多数参加している。ヴォーカリストとしてゲストで招かれ客演する事もある。 2017年に年間2枚のアルバムをリリース。そのうちの1枚は自らが主催するレーベル、VILLAINY PRISON RECORDSから2017年2月8日にリリースされたカヴァー曲を集めた「GREATEST HITS -COVERS-」であり、2017年2月16日のディスクユニオン新宿パンクマーケットのTwitterでは「各地で売切れ店舗も出るほどの大反響」と評しており、ディスクユニオンの2017年2月15日付けの週間パンクチャートで1位を獲得した。 2010年からNANA GNAR GNARはソロ名義でコンスタントに作品をリリースしている。ソロ名義でのライブは滅多に開催されない。 ギタリストのOSAMUは2017年12月9日にソロ・アルバム「GUITAR EMOTION」をVILLAINY PRISON RECORDSからリリースした。 2018年5月にドラムのDAIGOが脱退。 2018年6月、ドラムとしてYATCHINGが加入。 毎年全国ツアーを実施、毎年約50カ所を周っている。2015年~2018年のツアーファイナルは新宿ロフト、代官山ユニット、渋谷TSUTAYA O-WESTで開催された。 2019年からOSAMUはハンドメイドのギター・エフェクター・ブランド「C7」を立ち上げた。 2020年5月にギターのTOMONORI脱退。 2020年6月にドラムのYATCHINGが脱退。 2020年8月、ドラムとしてFUMIYAが加入。 2021年3月、景山潤一郎が今まで手掛けてきたフライアやグッズのデザインに文章を添えて掲載したデザイン本 "JUNICHILOW DESIGN WORKS"が出版される。
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概要・来歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/16 07:38 UTC 版)
2000年11月、当時、東京都昭島市に存在したライブハウスを拠点に結成された。ボーカル大竹幸尚が作詞・作曲を担当し、ピアノ堀越昌司が編曲、サウンド・プロデュースを担う。ライブ等コンサート出演は、ミニマム編成では大竹幸尚のボーカルと堀越昌司のピアノでの演奏。大型系コンサート会場では、コンボ編成、ビッグバンド編成とメンバー編成と変化させている。少数編成では、紅一点、女性トランペット、女性サックスを起用することが多くみられる。
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概要・来歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/12 08:42 UTC 版)
「THE CHEWINGGUM WEEKEND」の記事における「概要・来歴」の解説
メジャーデビュー時のメンバーは橋本孝志、岩田晃次、鈴木淳、夏秋文尚の4人。 1991年、北海道札幌市にて橋本孝志と岩田晃次(ex.コインロッカー・ベイビーズ)を中心に、GO-GO-TIMESというバンド名で結成。その後THE CHEWINGGUM WEEKENDに改名された。1992年に上京し、いくつかのメンバー・チェンジを経て、1996年にシングル「あの娘をつかまえて」でソニーレコーズよりメジャーデビュー。 活動中の音楽番組への露出はあまり行われていなかったが、1996年のミュージックステーションでは、PUFFYが「これが私の生きる道」を披露した際のバックバンドとして、バンド名のクレジット入りでの出演を果たしている。 2000年にインディーズレーベルであるUKプロジェクトに移籍。2001年にギター・岩田晃次の脱退により解散した。解散後もメンバーはそれぞれソロやグループなどで音楽活動を継続中。
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概要・来歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/25 18:50 UTC 版)
フガジは1987年にワシントンの自主レーベルディスコード・レコードのオーナーの一人であるイアン・マッケイが中心となって結成された。名前の由来は、"Fucked Up, Got Ambushed, Zipped In"から。ベトナム帰還兵の証言を集めたマーク・ベーカー編『NAM 禁じられた戦場の記憶』(原書初版1981年)から取られたベトナム戦争時の隠語である。 フガジ結成期の活動については、ワシントンのハードコアパンク20年史ドキュメント Dance of Days (Mark Andersen & Mark Jenkins, 2001)に詳しい。 1983年にマイナー・スレットが解散したあと、規模が大きくなり暴力沙汰も日常茶飯事となったワシントンのハードコアシーンにおいて、ディスコード周辺のパンク・コミュニティーが「シーンの中のシーン」という方向性を見出して開始した運動が1985年の「革命の夏」である。人種隔離政策をとる南アフリカの大使館に向けての抗議行動を皮切りに、DIYの手法によるさまざまなメッセージ発信が試みられた。中心となったのは、ライツ・オブ・スプリングやビーフイーターといった、従来のハードコアパンクの枠を超えた音楽性を志向するバンドと、高校生のデイヴ・グロール(のちにニルヴァーナ、フーファイターズで活躍する)も在籍していたミッション・インポシブルなど若い世代である。イアン・マッケイも、弟アレックが在籍していたフェイスの元メンバーと共にエンブレイスを結成してこれに加わるが、フェイス時代から続くメンバー間の確執は、1986年春、マッケイがジェフ・ネルソンと提携先の英サザン・レコードを訪問している間に修復不能なまでに悪化していた。サザン・レコードのスタジオで音作りを試した録音(後にEgg Huntとしてリリース)の出来が気に入ったマッケイとネルソンは、再びバンドを組むことも検討するが、バンドの不仲に懲りたマッケイは一人でじっくり人選することにし、ビーフイーターから紹介されたローディーのジョー・ラリーと共に、はじめて担当するギター・ヴォーカルの練習を続ける。 ドラムは当初コリン・シアーズ(ダグ・ナスティー)が練習に加わっていたが、ダグ・ナスティーが活動を再開したため、ライツ・オブ・スプリングからベースのメンバーチェンジを繰り返してワン・ラスト・ウィッシュ、ハッピー・ゴー・リッキーとサウンドを変えたバンド活動を続けていたキャンティが呼ばれ、1987年9月3日の初ライブはこの3人での演奏となった。ハッピー・ゴー・リッキーはニューヨークに引越したベーシストがワシントンに戻ったときのみ活動するという状態で、ピチョトーも10月のライブで飛び入り参加したのを皮切りに、ローディーとして同行し、ステージでのコーラスとダンスを担当するようになった。 1988年1月の初レコーディングは、In Defense of HumansのみがPositive Force DC企画のState of the Unionコンピレーションに採用されたが、このデモテープのコピーはバンド公認で流出した。バークリーのギルマン・ストリート・プロジェクトからの出演依頼を機に4月から初の全米ツアー、ワシントンに戻ってすぐ7 songs EPを録音、9月からのヨーロッパツアーの後、英サザン・レコードで12月にMargin Walker EPを録音と、レコードのリリースに先行してライブを中心とする活動を開始している。ハッピー・ゴー・リッキーの解散で正式にメンバーとなったピチョトーはこのツアーの後、ギターにも参加するようになる。 最初のツアーから物品販売無し、歌詞カードを配布し、モッシュ行為を諌め、ダブ風のリズムセクションに合わせて体を動かすことを勧めるというスタイルが取られ、モッシュするものだけをフロアに残し他の客を全員ステージにあげる(1988年5月スポケーン)など、さまざまな伝説的ライブで知られる。ライブ会場の選択も、公共スペースや美術館などいわゆるライブハウス以外の場所を選び、入場料もできる限り低く抑えるという反商業主義の方針を貫いた。
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概要・来歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/13 04:08 UTC 版)
3歳のときにオルガンを習い、音楽と出会う。6歳からはピアノのレッスンを受ける。1982年、社会人バンドからの誘いを受けキーボーディストとして参加。短期大学に進学し、在学中にユニコーンに加入。そのまま短期大学を中退する。 1988年2月15日、ユニコーン脱退。理由は「健康上」とされる。 1989年、ユニコーンのメンバー、堀内一史と結婚。結婚後は、作詞作曲やボーカルレッスンの講師などしていた。 1998年、離婚。 2002年から音楽業界を離れ建設会社の広報として勤めていたが、会社倒産に伴い現在はフリーでPCの各種データ作成の仕事を行っている。 2013年に、制作チーム「morca」を結成(メンバーは向井森生、向井香那)。音楽制作・編集・イラストデザインなど。
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概要・来歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 21:08 UTC 版)
「小川コータ&とまそん」の記事における「概要・来歴」の解説
2010年に当時由比ヶ浜に住んでいた作曲家の「小川コータ」と材木座在住ベーシスト「とまそん」が、大町 (鎌倉市)のダイニングバーで出会い、意気投合して神奈川県鎌倉市を中心に活動開始 2011年、東日本大震災後、鎌倉のミュージシャン仲間とチャリティーソング「ONE HEART」を制作 2011年12月1日、1stアルバム「海の見える町」をリリース 2014年7月13日、2ndアルバム「海街電車」をリリース 2015年6月14日、3rdアルバム「波街GLORY」をリリース 2016年4月27日、4thアルバム「海街電車2」をリリース 2016年5月4日、浄智寺、円覚寺 佛日庵、北鎌倉ツドイを会場に行うライブイベント「きたかまフェス2016」を主催 2016年7月、江ノ電(小田急電鉄)の江の鎌ナビ内キャンペーン広告「江ノ電で、会いにゆく。」に楽曲提供。同プロモーション映像にも出演 2016年7月2日、鎌倉芸術館でワンマンライブを開催 2016年7月14日、夏季限定の浜辺のお祭り「音霊 OTODAMA SEA STUDIO」に出演 2016年9月18日、「湘南・横浜ミュージックフェス2016@横浜スカイビル」に出演 2016年9月24日、「ランドマーク音祭り2016 FMヨコハマ スペシャルライブ@ランドマークタワー」に出演 2016年10月1-2日、「鎌倉オクトーバーフェスト」に出演 2016年10月10日、「江ノフェス 江ノ島フェスティバル 2016」に出演 2016年10月10日、岩手県復興支援産業祭り「大船 to 大船渡」に出演 2016年10月16日、鎌人いち場にブース「コタトまサウンドマーケット」出展およびジャムプラザ出演 2016年10月23日、鎌倉児童ホームで満月キャラバン開催 2016年11月15日、鎌倉芸術館にて、鎌倉学園芸術鑑賞教室でライブを行う 2017年1月28日、鎌倉生涯学習センターホールきららで昼夜2公演のワンマンライブを開催 2017年5月6日、5thアルバム「宵街SUNSET」をリリース 2018年11月28日、6thアルバム「鎌倉BEST」をリリース 2019年2月17日、「湘南モノレール」の車内でライブを開催 2019年8月4日、7thアルバム「cafe by the sea」をリリース
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概要・来歴
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「Michelle143」の記事における「概要・来歴」の解説
2002年メジャーデビュー。2004年にSME Recordsから、インディーズレーベルで活動をしている。 2016年9月: スズキLAPINのCMソングに小沢健二のラブリーのカヴァー曲が採用。
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概要・来歴
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メンバーはブライアン・セッツァー、リー・ロッカー、スリム・ジム・ファントムの3人。 サウンドの特徴として、シンプルなビートのブルース、ビバップやカントリー・ミュージックなどの要素を取り入れたギター、アップライトのベース、またセッツァーによる卓越したギタープレイなどが主に挙げられる。セッツァー自身が敬愛するロックンロール草創期のスター、エディ・コクランが使用していたギター、グレッチ(6120)を愛用し、ロックンロールに必要不可欠なある種の『とろみ』を残すギタープレイはセッツァーの代名詞になっている。 前身バンドはトムキャッツ。さらにその前はブラッドレスファラオスでアマチュア活動していた。1980年11月21日にアリスタ・レコードからデビュー。当時はマネージャー殴打事件やジニー・ジニー・ジニー裁判等、問題を次々と引き起こしていた(結局歌詞の一部を替えるという結末で和解)。1984年に活動停止。1986年に再結成するが、1993年に再び活動停止。2004年に再びツアーを周り現在に至る。
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概要・来歴
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「Tops (バンド)」の記事における「概要・来歴」の解説
1980年に三井雅弘を中心に京都で結成されたファンクバンドITACHI!!(イタチ)が前身で、京阪神のライブハウスを中心に活躍。人気を集めて憂歌団の所属事務所のユニオンシャッフルに所属しながら、嘉門達夫のバックバンドを務めていた。 前事務所退社直後に上京。女性ボーカル2名を加え、元スペクトラムの新田一郎のプロデュースにより10名体制のTOPSとして1986年にデビューした。 京都時代の『汗臭くて泥臭くて男臭いファンク』と正反対の『近未来を意識し過ぎた』コンセプトはプロデューサーで後に所属事務所の社長となった新田一郎がかつて在籍していたスペクトラムを彷彿とする物であった。 尚、デビューアルバムの全曲の作詞を主要メンバーと同世代の作詞家でテクノバンドハルメンズのボーカリストでもあった佐伯健三が手がけていて、汗臭さは影をひそめてうかがえなくなった。 翌1987年のシングル「黒い炎」(チェイスの山口のばら日本語詞によるカヴァー)がスマッシュ・ヒットし多くの音楽番組に出演、全国区にその名が知られるようになる。 また同曲発表時からリードボーカルが三井雅弘から山際祥子に交代し、同時に洋楽のカヴァーも数多く取り入れるようになった。 1989年には大幅なメンバーチェンジが行われ、正式名称も『THE TOPS』となっている。 このTOPSという名称は『東京・大阪・パーでんねんスペシャル』の略で付けられたと言われる。 なお、OVAザ・超女のサントラ版には『山際祥子 with TOPS』と言う名で参加している。 1991年解散後、三井と和佐田はITACHI!!の名を回復し「一夜限り」など限定期間で1993年3月、2006年11月、2012年に公演、「MOTTO〜イヤなものはイヤといえ」などその一部を動画サイトユーチューブに三井によって公開している。山際祥子は現在(2016年)歌手・音楽活動と東京自由が丘で整体治療院を営む。
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概要・来歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/13 02:04 UTC 版)
元リンドンの田中信昭をリーダーに、前身バンドのTHE RAINが1978年に福岡で結成。 1980年に上京、フジテレビの音楽番組「Hot TV」に出演、3週連続で勝ち抜き、田中信昭はグランドチャンピオン大会で最優秀ボーカリスト賞を受賞。 1982年、バンド名をTHE BADGEに改名。6月16日、THE JAMの来日公演でサポーティングアクトをつとめる。7月25日、テイチクレコードよりシングル「ふたりのフォトグラフ」でデビュー。 1983年、新興のリバスターレコードから、初のアルバム「TOUCH」をリリース。 1984年、所属事務所をカレイドスコープ(ホリプロダクション系)に移籍。レコード会社もキングレコードに変わり、積極的な全国ツアーを行うとともに、複数のレコードをリリース。 1986年、9月22日に渋谷Egg-manで行われたライブを最後に解散。
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概要・来歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/13 03:55 UTC 版)
2人ともワタナベコメディスクール21期出身で、2015年10月1日結成。漫才、コント共に行う。 お互い大学生時代に養成所へ入った。 ファンや配信視聴者のことを「絆」と呼んでいる。 「Aマッソのゲラニチョビ」ではノディより先にノディの母が出演している。 2019年の第3回女芸人No.1決定戦 THE Wでは準決勝まで進出。 2022年(第7回)ワタナベお笑いNo.1決定戦で準決勝進出。
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概要・来歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/14 08:32 UTC 版)
この番組のルーツは、1992年にスタートした『浅草橋ヤング洋品店』(以下『浅ヤン』)であり、それが1995年10月1日に『ASAYAN』にリニューアルされた。 当初は2部構成であり、前半は浅草キッドがメインMCの『浅ヤン』、後半はナインティナイン司会の小室哲哉プロデュースオーディションコーナー『コムロギャルソン』という流れだった。 1996年3月に総合演出のテリー伊藤が降板し、制作会社のロコモーションが撤退。同時に『浅ヤン』が終了した。翌4月にこれまでの構成から「コムロギャルソン」を拡大させ、ナインティナイン司会の「夢のオーディションバラエティー」へと変貌していった。独特なカット割りとテロップに句読点を多用するタカハタ秀太が総合演出を担当し、電通のプロデューサーが製作現場に常駐するなど、テレビ東京の番組でも大きなタイアップを採れることになった。 番組からは小室哲哉プロデュースで西野妙子やKABA.ちゃんもメンバーとして在籍していたdos、泣き虫デザイナーとして人気を得たごあきうえなどを生み出した。 そして、1998年につんく♂がプロデュースしたモーニング娘。が大いに話題を呼び、その後の「ハロー!プロジェクト」のプラットフォーム(基礎)を作った。また、アイドルだけでなく本格派ボーカリストも輩出しようとし、結果的にCHEMISTRYをブレイクさせることにも成功した。 松澤由美やmove(→m.o.v.e)のヴォーカル・yuri、清木場俊介、EXILEのATSUSHIとNESMITHなど、この番組でのオーディションで落選した参加者が、プロダクションやレコード会社などの制作者側に才能を認められて、別口でデビューした例は多い。また、モー娘。追加メンバーオーディションを倖田來未が受けていたといったエピソードもある。あるいは、FBIとしてデビューした大泉めぐみがのちにshelaとして再デビューしたり、route0のチェ・スヨンがのちに少女時代のメンバーになったというケースもある。 一時期、2000年12月の1か月間はBSジャパンでも遅れネットで放送されていたが、日本音楽事業者協会や音楽制作者連盟と著作権・肖像権問題で折り合いが付かず、打ち切りとなった。 2001年4月にタカハタが総合演出を降板したことにより、番組のタイトルロゴ・セット・ナレーターのすべてが一新され、ワイズビジョンが制作協力に加わった。 翌2002年3月24日に最終回を迎え、「浅草橋ヤング洋品店」時代を含めた10年間の放送に幕を閉じた。最終回では岡村隆史が「浅ヤン」時代の実験を思い出す場面もあった。番組終了はナインティナインの同意、説明もなく突然通達され、ぞんざいな扱いに岡村は激怒し「テレ東にはもう二度と出ない」と矢部に漏らしていたが、一方で『ちょこっとイイコト』への出演を何事もなく許諾し、矢部浩之を引かせていた。 余談だが、『ASAYAN』終了から20年を目前とした2021年10月24日に、令和版『ASAYAN』となる『〜夢のオーディションバラエティー〜Dreamer Z』が放送を開始している。但し、『Dreamer Z』には吉本興業が制作に加わっておらず、代わりに競合社のLDH JAPANが企画協力に加わっている。
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概要・来歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/17 02:20 UTC 版)
高校卒業後に、映画制作の道に進みたいと考え京都造形芸術大学に進学。そこで映画予告のナレーションに感銘を受ける。大学卒業後はナレーションスクールなどを経て、オフィスキイワードに所属する。 声種はバリトン。 2018年より現在までオリックス・バファローズのボイス・ナビゲーターという名称で、ブルーウェーブ時代から数えて球団5代目の場内アナウンサー(スタジアムDJ)を京セラドーム大阪、ほっともっとフィールド神戸で務めている。
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概要・来歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 16:18 UTC 版)
1995年6月16日、D'ERLANGERの二代目ヴォーカリストで元STRAWBERRY FIELDSの福井祥史と、元黒夢のギタリスト鈴木新によって、VINYLを結成。 黒夢脱退後、鈴木はソロ活動を模索していたが、デモを録り終えた直後にディレクターからヴォーカリストを探すことを勧められ、STRAWBERRY FIELDSを解散したばかりの福井に声を掛ける。そのことを当時の所属事務所HEADWAX社長のhideに話したところ「すぐ一緒にやれ」と言われ、VINYL結成に至ったという。 1996年9月、千葉マリンスタジアムで行われた「LEMONed presents hide Indian Summer Special」に出演。 1997年9月、日清パワーステーションにて初ワンマンライブを成功させ、11月に1stシングル「とまらない鼓動」でメジャーデビュー。『進め!電波少年』と『進ぬ!電波少年』エンディングテーマに起用されたシングル2曲を含む、12月発売の1stアルバム『Go to VINYL』は、ムーンライダーズの白井良明がプロデュースを担当した。 1999年12月31日、VINYLの活動を停止。シングル3枚、オリジナルアルバム1枚を残す。 2012年5月4日、福井が病気を克服した旧友の呼びかけに応え、活動停止後初めて鈴木新とのLIVEを行い、一日限りの復活が実現した。
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概要・来歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/30 05:07 UTC 版)
アダム・アントをリーダーとして1977年に結成し1978年にデビュー。本格的にデビューする前のマネージャーはマルコム・マクラーレンだったが裏切られ、バンドメンバーをすべて引き抜かれる。バンドメンバーは、後にバウ・ワウ・ワウを結成してデビュー。 1979年に新メンバーでデビューアルバム『ダーク・ウェアズ・ホワイト・ソックス』を発表し話題となる。1980年に発表されたアルバム『アダムの王国』が全英10週連続1位となる。ヴィヴィアン・ウエストウッドの手掛ける「海賊ファッション」で顔にはメイクを施し、ヴィジュアル的にも大ブレイク。コンサート会場は衣装やメイクを真似たファンであふれた。1981年の秋に発表されたアルバム『プリンス・チャーミング』も成功したが、1982年に入り、間もなく解散した。1982年にはアダムがソロデビュー、デビュー・アルバム『Friend Or Foe(邦題:敵か味方か)』で成功を収め、1989年までは高い人気を誇ったが、その後活発な活動を行わなくなる。たまに俳優としてアメリカの映画やドラマに出演することもある。 『Frend Or Foe』に収録されている「Goody Two Shoes」は、90年代後半に小沢健二によって彼のシングル曲『ダイスを転がせ』に引用されたほか、2012年にはSMAP出演によるソフトバンクモバイルのCM、『Smap GALA編』でCMソングとしても起用された。
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概要・来歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/14 15:54 UTC 版)
1981年にメジャーデビューし同年解散したパンク・ロックバンドINUの中心人物である町田康(町田町蔵)が、2010年発表の『犬とチャーハンのすきま』以来、約10年ぶりに音楽活動を再開し2016年6月9日に結成したバンド。 2011年頃から2015年にかけて、町田は知人が熱海で営むカフェで不定期にライブを開催し、自身の過去作品を中心に演奏していたが、2016年に中村敬治がライブのメンバーに加入したことでバンド活動が本格的なものとなった。 作曲は主に中村が、次いで大古富士子が多く担当しており、先に作られた楽曲に町田が後から歌詞をつけるスタイルで作品が作られている。 演奏で主に使用される楽器は、ギター、ベース、サックス、フルート、グランドピアノ、トイピアノ、キーボード、ドラムス。 ファーストアルバム『つらい思いを抱きしめて』を2018年9月26日に発表したのち、9か月後の2019年6月26日にセカンドアルバム『もはや慈悲なし』を発表した。2019年7月3日発行のロックジェット誌で、すでに50曲以上が演奏可能な状態であると中村は述べており、結成から3年という期間に相当速いペースで新曲が生まれていることになる。2020年11月11日、3枚目のアルバム『汝我が民に非ず』を発表。 ライブは東京都内を中心に月に約一回のペースで開催されている。 ファーストアルバム『つらい思いを抱きしめて』発売記念ライブの告知ツイートでの「四十年間考え続け、漸く答えらしきを見つけました。」とのコメントからうかがえるように、町田はこのバンドでの活動に強い手ごたえを感じていると思われる。
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概要・来歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/19 06:28 UTC 版)
2010年に結成され、2012年から下北沢や渋谷を中心に本格的なライブを展開。 2014年3月、イベント「RINGOOO A GO-GO ゴーゴーアワード」でグランプリ獲得。[要出典] 2015年2月1日のライブをもち、サカイが脱退。 同年10月6日、サポートメンバーだったナオハイダが、正式加入したことを発表。
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概要・来歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/24 23:43 UTC 版)
「GREAT ADVENTURE」の記事における「概要・来歴」の解説
カサビアン、ザ・ミュージックの日本公演オープニングアクトをつとめたことがある。 MCでは片言の日本語を使う。 カサビアンのオープニングを務めた時は、カサビアンの情報が少なく、最初に登場したgreatadventureも全くMCをせず、歌詞も英語な為、ずっとgreatadventureのことをカサビアンだと思って聞いていた観客が多かった。
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概要・来歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/25 22:50 UTC 版)
「VOLA & THE ORIENTAL MACHINE」の記事における「概要・来歴」の解説
名前の由来はアヒトが好きな魚である鯔とナンバーガール時代に結成したサッカーチームVOLA FCからVOLA、ORIENTAL MACHINEは彼の好きなプロのサッカー選手(奥寺康彦)の愛称から来ている。POLYSICSと交流が深い。 2005年にNUMBER GIRL / ZAZEN BOYS を経た アヒト・イナザワが、それまで のドラマーからヴォーカル / ギター / マニピュレート等を駆使し、フロントに立つという 大胆なパート・チェンジを行い、自分の意志で活動出来るバンドとして『VOLA & THE ORIENTAL MACHINE』を結成。現在のメンバーは、有江嘉典 (Bass) / 中畑大樹 (Drums) / 楢原英介 (Guitar & Synth, Violin) を有する編成。2008年5月UK で行われた「Great Escape Festival」に招聘され海外評価も高まる。2009年フィジカル型ロックサウンドから、大胆なエレクトロニックサウンドを導入し、現在のスタイル「人力ハード・フロア・ビート」を確立。2010年3rdアルバム「PRINCIPLE」をリリース。2014年10月ミニアルバム「Regalecus russelii」を4年ぶりにリリース。2015年結成10周年を記念して行われた下北沢シェルター公演はsold out。日本におけるエレクトロロックサウンドの先駆者として、躍進を続けている。
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概要・来歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/26 03:34 UTC 版)
バンド「竹内電気」の元メンバー2人による、音楽ユニット。アイドルでもバンドでもなく「SUPER J-POP UNIT」。 2013年8月31日、「竹内サティフォpresents〜サティフォは夏と名古屋が好きダカラー!!〜」というイベントにて、「ONIGAWARA」の活動本格化を発表。初の配信限定楽曲「ピーマン」を配信開始。以後、自主制作の配信限定シングルを続々と配信。 2014年7月、ファースト作品集「ONI・GAWARA」を会場限定で発売。 2014年12月24日、セカンド作品集「ポップミュージックは僕のもの」を発売。自主制作であるが、一部のタワーレコードにて販売された。 2015年5月29日、期間限定店舗である「タワーレコード下北沢店」の1日店長に就任。 2015年9月16日、全国流通盤1st Album 「エビバディOK?」を発売し、全国デビュー。タワーレコード9月度タワレコメンに選ばれる。 2015年10月、チームラボ制作のローソン「新 黄金チキン」のPVで、HALCALIのYUCALIとともにボーカルで参加。 2015年12月17日、LINE公式アカウントとLINE BLOGを開始。 2016年3月16日、1st mini album「欲望」を発売。「ヴィレッジヴァンガード×ONIGAWARA バレンタイン・キャンペーン」として、ヴィレッジヴァンガードでチョコレート購入者に「欲望」の お試しダイジェストCDRをプレゼントするキャンペーンも行った。 2016年6月29日、音楽業界初となる1stペンライトシングル「タンクトップは似合わない」を発売。黄色のペンライトにシリアルナンバーと楽曲DLコードがついている。一部のヴィレッジヴァンガードで限定数発売。 2016年8月23日、Google Play MusicのCMに「タンクトップは似合わない」が使用され、初全国CMとなる。 2016年8月28日、RUSH BALL 2016に出演。初の夏フェス出演となる。 2016年9月5日、12月に発売予定の“1st写真集シングル”のリリースに向けて写真集発売に賛同する共犯者(パートナー)を募る「ONIGAWARA写真集出版応援プロジェクト」をクラウドファンディングサイト「muevo」にてスタート。開始1週間にして目標金額達成。 2016年9月28日、インスタントカメラ・シングル「シャッターチャンス’93」を発売。はじめの1枚にすでに何かが撮影されたインスタントカメラに楽曲DLコードがついている。一部のヴィレッジヴァンガードで限定数発売。 2016年10月11日、東海ラジオで初のレギュラー番組「TOKAIRADIO×TSUTAYA LIFESTYLE MUSIC 929」が放送開始。 2016年10月14日、1stインスタントカメラ・シングル「シャッターチャンス’93」リリース記念 ワンマンGIG&インスタントカメラ撮影会を渋谷TAKE OFF 7にて行うが、チケットが即完だったため同じ日に追加公演が行われ1日で2公演開催された。 2016年12月4日、写真集発売に賛同する共犯者(パートナー)を募る「ONIGAWARA写真集出版応援プロジェクト」を246%の達成率で締め切る。 2016年12月7日、1st写真集シングル『GATTEN承知之助〜We can do it!!〜』を店舗限定で発売。 2017年1月5日、完成間近の新曲のデモ2曲(のちの「ヒットチャートをねらえ!」「ダバダバ」)を期間限定でSoundCloudに公開。16日にJ-WAVE「SONAR MUSIC」内にてTwitter投票を使いどちらのMVを制作するか決める企画を行う。 2017年3月11日、iTunes Storeにて1st Full Album「ヒットチャートをねらえ!」を先行配信。ランキングのJ-Pop部門にて1位を獲得。総合では4位となる。 2017年3月22日、1st Full Album「ヒットチャートをねらえ!」を発売。 2017年8月1日、1st チケット・シングル「ホップステップLOVE」発売。 2017年8月5日、ROCK IN JAPAN FESTIVAL 2017に初出演。 2017年8月22日、冬にリリースするCDとともにBEAMS DESIGNがプロデュースするブランド「ONIGAWARA CASUAL by BEAMS DESIGN」の立ち上げを発表。 2017年9月15日、通販・ライブ会場限定CD「東京SUKI・SUKIストリート」、「ONIGAWARA CASUAL by BEAMS DESIGN」ファーストコレクションの受注開始。 2018年2月23日、デジタル配信シングル「ナンバーワンちゃん」配信開始。 2018年6月13日、1stオニアルバム「GAWARA!」発売。 2018年6月23日、恵比寿リキッドルームにてワンマンGIG 「恵比寿にガワラー大集合!第一回オニリンピック」開催。 2019年よりフリーランスとして活動している。
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概要・来歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/06 15:19 UTC 版)
「Chilli Beans.」の記事における「概要・来歴」の解説
2019年に音楽塾ヴォイスの生徒だったMoto、Maika、Lilyの3名が、先生からの勧めでバンド活動を開始する。バンド名の由来は、「Chilliはレッドホットチリペッパーズからとり、Beansはまだバンドとしてヒヨッコでこれから成長していく意味を込めた事と、単純に可愛いなって思ったから。。最後はドットで締める(笑)」とインタビューにLilyが答えている。 2021年8月25日、1st デジタルEP『d a n c i n g a l o n e』をリリース。 2021年11月24日、配信シングル「アンドロン」を配信リリース。 2022年3月2日、2ndデジタルEP『Daydream』をリリース。 2022年3月5日・12日、初の自主企画ライブ『Dancing Room 001』を東京・Shibuya WWW X(対バンゲスト:リュックと添い寝ごはん)、大阪・Music Club JANUS(対バンゲスト:DENIMS)にて開催。 2022年4月13日、配信シングル「マイボーイ」をリリース。 2022年6月19日、自主企画ライブ『Dancing Room 002』の東京公演(ゲスト:Klang Ruler)を東京・渋谷WWW Xにて開催。また同月24日には、Moto(ボーカル)の新型コロナウィルス感染が判明したため、翌25日に大阪・梅田Shangri-Laにて開催が予定されていた大阪公演(ゲスト:ego apartment)の開催見合わせが急遽発表され、28日に改めて同年9月25日に振替公演を行うことを発表した。 2022年7月13日、1stフルアルバム『Chilli Beans.』を発売。
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概要・来歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/11 16:50 UTC 版)
2014年5月18日、KENTO、KAZUKI、RIKITO、LIN、YUKIの5人で前身ユニットとなるJ-BOYS-5を結成。2014年7月20日より現MADKIDに改名し、活動をスタートした。メンバーのRIKITOが2015年5月に、CASEYが2016年1月に、とメンバーの脱退と加入を繰り返し、2017年2月1日にSHINが加入し現在に至る。音楽性は、ダンスとロックの要素を取り入れ、YOU-TA、KAZUKI、SHINの3ボーカルと、LIN、YUKIの2ラッパーが表現する。2017年9月22日、代官山UNITで開催したライブ『MADKID 3rd ワンマンライブ「NO LIMIT2」』で日本コロムビアよりメジャーデビューを発表。2018年1月31日に、メジャーデビューシングル「Never going back」をリリースした。 2019年、TVアニメ「盾の勇者の成り上がり」のオープニングテーマに選ばれ、そのタイアップ曲である『RISE』と『FAITH』が海外を中心にヒットする。この出来事が、MADKIDの音楽性である「ダンスロック」を形作るきっかけになった。2020年に以前の所属事務所を独立し、メンバーのYOU-TAを代表とする自身のマネジメント会社「Future Notes」を設立。また、一度所属を離れていた日本コロムビアと再契約を果たす。
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概要・来歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/28 06:32 UTC 版)
「逆に、ゆうちゃんバンド」の記事における「概要・来歴」の解説
2018年にヴォーカルの井水優菜のバースデーイベントに、自身の呼びかけでメンバーが集まる。 この際は井水優菜のソロプロジェクトに対して、他メンバーはバックバンドという立ち位置であったが同年9月に紆余曲折を経て正式に結成する。 名古屋市 大須に自社の運営する劇場があり、そこを拠点に活動していたが、2019年2月に店舗乗っ取りに遭い拠点を失ってしまう。 その後は名古屋市内のライブハウス、路上で地道に活動を重ね、現在は全国各地で活動している。
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概要・来歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/29 03:21 UTC 版)
「オメでたい頭でなにより」の記事における「概要・来歴」の解説
「日本一オメでたくて汗だくで騒げる」という“オメでたいコア”略して「オメコア」を武器に活動するバンドである。近年は「日本一オメでたい人情ラウドロックバンド」と称して、全国のライブハウスや音楽フェスなどで活動している。 ファンのことは「単幸暴(たんさいぼう)」や「オメっ子」と呼ぶ。 2015年よりこのメンバー5名で「赤飯バンド」として活動していたが、2016年8月29日の「幸暴分裂ツアーファイナル@新宿ReNY」でバンド名を発表。2016年8月14日にコミックマーケット90では1st EP「オメでたい頭でなによりです!」を発売していた。 結成3ヶ月にして骸骨祭りへの出演をかけたオーディションROADto骸骨祭りにて優勝し、骸骨祭り2016in幕張メッセに出演した。 2018年4月4日にポニーキャニオンからメジャーデビュー。
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概要・来歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/13 23:54 UTC 版)
視聴者には、「おは朝」または「おはよう朝日」(土曜版ではおは土)の通称 で知られている。 1979年4月2日に、平日の7:15 - 8:30で放送を開始(前座番組『ANNニュースセブン』が終了した1987年9月25日まで、以下JST)。1982年1月9日から、土曜日の7:00 - 8:30にも『おはよう朝日土曜日です』(当初は『おはよう朝日です・土曜日です』)として放送している。本項では便宜上、月曜日から金曜日までの放送を「平日版」、土曜日の放送を「土曜版」と表現する。 平日版の放送時間は、1996年9月30日から6:45 - 8:00。前枠番組『おはようコールABC』の放送終了後、ステーションブレイク(SB)なしで本編に入る。1987年9月28日から1996年9月27日までは、7:00 - 8:30の時間帯に放送されていた。これはそれまで7:00から放送されていた『ANNニュースセブン』が『ANNニュースフレッシュ』へ改題されて30分前倒しになったのと、6:45 - 7:00には『おはよう!CNN』が新規に設置されたためである。詳しい理由は不明だが、番組開始以来テレビ朝日での同時間帯の情報番組のネットはネットワークセールス枠以外のすべてを頑なに拒絶しており、年末年始や『全米オープンゴルフ』などでローカルワイドを編成する他地域が情報番組を臨時編成しても、朝日放送テレビは基本的にテレビ朝日からネットせず、本番組を優先的に編成するか別番組でつないでいる(後述)。ただし、災害など緊急事態が発生した際には、『グッド!モーニング』を当番組に内包する形で部分的にネットする場合がある。 土曜版については、1981年10月から12月まで、パイロット版として西野義和(当時朝日放送アナウンサー)司会の『てれび&てれび』(8:00 - 8:30)を放送。こちらもスカイスタジオからの生放送で平日同様にエレクトーンによる時刻アナウンスがあった。当番組へ移行後、1997年3月まで7:00 - 8:30、同年4月から1998年3月まで7:00 - 8:00、同年4月から2006年3月までは平日版と同じ6:45 - 8:00で放送。2006年4月1日からは、前枠番組『ANNニュース』の時間帯変更を機に、放送開始時間を15分繰り上げている。2013年10月5日より『おかずのクッキング』が、日曜 4:55 - 5:20枠から土曜 6:00 - 6:25枠に移動するため、開始時間を5分繰り上げて放送していた。2017年10月7日より『題名のない音楽会』を土曜6:00 - 6:30枠に移動(制作局のテレビ朝日より4時間先行ネット)するため、2013年9月以前と同じく開始時間を5分繰り下げて放送している。 平日版の放送開始から1994年9月までは、当時の朝日放送本社社屋(大阪市北区大淀南、以下「ABCセンター」)の南隣にあった大阪タワーの展望室2階(地上102m)をスタジオ(スカイスタジオ)に流用(ただし、サブ〈副調整室〉はCサブを使用していた)。 放送当初の正式タイトルは『ABC SKY STUDIO おはよう朝日です』であったが、台風が上陸している場合や、台風の接近が見込まれる場合には、ABCセンターのCスタジオから放送していた。当時、地上の社屋とスカイスタジオを行き来するには、大阪タワーのエレベーターを利用する必要があったことによる。このエレベーターには安全装置(最大瞬間風速が15m以上に達した場合に自動で停止させる装置)が付けられていたため、大阪タワーでエレベーターの操作や安全装置の解除が可能な職員が出勤する前に、当番組の出演者が安全装置の作動によってエレベーター内に閉じ込められることがあった。朝日放送のアナウンサーとして『おはようコール』(当時はスカイスタジオからの生放送)と当番組(当時はCスタジオからの生放送)のニュースキャスターを兼務していた阿部成寿は、スカイスタジオからCスタジオへの移動でエレベーターを使用中に安全装置が作動したため、当番組のニュースコーナーへ出演できないまま2時間にわたって閉じ込められている。 1994年10月から2008年6月20日までは、ABCセンターのBスタジオを使用。スカイスタジオ時代の歌のコーナーや1990年からの正木明(気象予報士)などが出演する天気予報のみ、ABCセンター敷地内のイベントスペース(ABCポケットパーク)や社屋・ホテルプラザの屋上から放送していた。また2004年頃から音声モードが長年のモノラルからステレオに変更。同時期から既に行われていた時刻表示のカスタムテロップに秒数ごとに「分」の青色が下から上に向かってエメラルドグリーンに変わる仕掛けを導入。のちにこのギミックはテレビ朝日・メ〜テレとの共同制作番組『サンデーLIVE!!』では開始から1年間のみ、後述のエレクトーンによるタイムコールともども導入されたほか、同じテレビ朝日の『グッド!モーニング』や『羽鳥慎一モーニングショー』でも導入されている。 2008年6月23日に大阪市福島区へ社屋を移転してからは、本社内のCスタジオから生放送。6時台の天気予報は、本社社屋10階の空中庭園(ABCスカイテラス)から伝えている。 本番組では、番組本として、過去に3冊のムックを刊行。2009年11月27日には、番組放送30周年記念本『「おはよう朝日です」の本』が、京阪神エルマガジン社から関西圏を中心に発売された。また、同年12月1日から2010年1月30日まで、本番組とPascoのコラボレーション企画による放送30周年記念商品(食パンと2種類のクリームパン)、同年2月1日からは、木曜日コメンテーターの板東英二が大好きな「ゆで卵」を使った「たまごぱん」(たまごサラダ入りのパン)が関西地区限定で販売された。 また平日版では、1990年4月から宮根誠司が司会を担当してきた(2004年3月まで朝日放送アナウンサー、以後はフリーアナウンサーとして出演)。しかし、出演20周年を迎えたのを機に、2010年3月26日(金曜日)の放送を最後に番組を降板した。同年3月29日(月曜日)の放送からは、浦川泰幸(朝日放送アナウンサー)が、宮根の後任で司会を務める。土曜版でも、司会を務めてきた高野純一と武田和歌子(ともに朝日放送アナウンサー)が2010年3月27日の放送を最後に卒業。上田剛彦と八塚彩美(ともに朝日放送アナウンサー) が後任の司会を務める。 2010年3月29日から、平日版の地上デジタル放送では、お天気コーナー内で双方向による電子投票(後述)を実施。これを機に、番組連動データ放送を開始した。また、2012年1月から、毎週金曜日のみ終了時間を繰り下げたうえで次枠番組『モーニングバード!』(テレビ朝日制作)にステブレレスで接続。2012年10月以降は、月 - 木曜日でも同様の措置を講じている。 2012年7月18日の放送(土曜版)で、平日版・土曜版通じての放送回数が1万回に到達。同年11月10日(土曜日)には、1万回記念の特別番組『おはよう朝日 1万回です』を14:00 - 16:25に放送した(後述)。この特別番組には、宮根が総合司会からの卒業以来2年7ヶ月振りに、(関連番組を含めた)当番組へ出演している。 2013年4月1日の放送からは、朝日放送本社社屋の移転後初めてスタジオセットを一新。出演者の一部を入れ替えるとともに、6時台および7時台前半のコーナー企画・構成を大きく変えている。また、同年11月12日から25日までは、近畿地区のローソンとの共同企画として「今日も1日元気になろーソン おは朝みんなのこだわりプロジェクト」を展開。平日版のレギュラー代表を2チームに分けたうえで、各チーム5種類・全10種類のプロデュース食品を発売している。 2015年3月30日(月曜日)放送分からは、ニュースキャスター代理として当番組へ出演した経験を持つ岩本計介(朝日放送アナウンサー)を、平日版の司会に起用。浦川は同日から、『キャスト』(朝日放送テレビ平日夕方の報道・情報番組)のメインキャスターへ異動。主にスポーツアナウンサーとして活動してきた岩本が、帯番組の司会を務めるのは、テレビ・ラジオを通じて初めてである。 2016年7月7日(木曜日)放送分で、ビデオリサーチ調べによる視聴率が13.1%を記録。7月4日 - 10日調査分では関西地区ランキング20位(関西地区では『日立 世界・ふしぎ発見!』と『笑ってコラえて!SP』と同率)に入った。その一方で、2005年4月から平日版司会のアシスタント(サブキャスター)を務めてきた喜多ゆかり(朝日放送アナウンサー)が、第1子の懐妊に伴う産前産後休暇を前に2016年9月30日(金曜日)放送分で降板。10月3日(月曜日)放送分からは、同局への入社3年目のアナウンサー・川添佳穂が、喜多の後任を務めている。 2018年の4月改編からは、土曜版司会の上田が『キャスト』のメインキャスターへ異動する一方で、金曜日のコーナーキャスターで土曜版へのレギュラー出演も経験している北村真平が上田の後任を務めている。 2020年の10月改編からは、『おはようコールABC』を終了させたうえで、平日版を2部構成化。『おはようコールABC』の放送枠(5:00 - 6:45)を組み込みながら、5:00 - 6:30の時間帯を「第1部(前半)」、6:30 - 8:00を「第2部(後半)」として、全体の放送時間を3時間に拡大した(第1部途中の5:50 - 6:00には『おはようコール』に続いて「ANNニュース」<テレビ朝日発の全国ニュース>を編成)。放送枠の拡大は「(当番組のメインキャラクターである)おき太巨大化計画」の一環と位置付けられているが、この計画の下で、他にも数々のリニューアルを実施。8月には、視聴者からの投票によって新しいタイトルロゴを決定したほか、「OHA-1グランプリ」(新しいテーマソングを決めるオーディション)を開催した。さらに、9月には「朝おき太」「(おき太の妹に当たる)朝めざめ」に次ぐ第3の番組キャラクターを視聴者から募集した。 なお、平日版では上記の改編を機に「バトンリレーシステム」(2部構成番組内の第1部と第2部で出演者を入れ替えるシステム)を初めて導入したが、岩本は第2部で引き続き司会を担当。川添は、当番組の放送開始42年目で初めての女性レギュラー司会者として、第1部にのみ出演する。さらに、改編前まで7時台の前半に放送されていたコーナー(「人気mono サキヨミEnter!」→「アナの目ピックアップ」)のキャスター経験者から、小西陸斗を第1部、澤田有也佳を第2部のアシスタントに起用。その一方で、改編前まで『おはようコールABC』のメインキャスターの1人だった斎藤真美(いずれも朝日放送テレビのアナウンサー)が、先輩アナウンサーの八塚彩美に代わって土曜版の司会に加わったほか、平日版の第1部でも同番組から一部の出演者とコーナーを引き継いでいる。 もっとも、川添はMCへの就任後に体調を崩したため、2020年12月7日(月曜日)放送分から休養。自宅療養で体調は回復しているものの、出演の再開に至らないまま、自身の希望によって2021年1月31日付で朝日放送テレビを退社した。退社後は、2021年の初回放送(1月4日)から第1部のMCを代行している小西が、2月1日(月曜日)放送分からMCへ正式に就任している。 2021年4月5日(月曜日)から、番組全体の放送枠を維持したまま、第1部と第2部の区分を6:00に変更。第1部の放送時間を30分短縮、第2部の放送時間を30分拡大したことに伴って、「朝おき太」は6:00から登場するようになった。また、4日前(4月1日)に朝日放送テレビへ入社したばかりの鷲尾千尋アナウンサーを、第1部のアシスタントに抜擢。第1部のMCを引き続き担当する小西と揃って第2部のコーナーの一部にも出演するほか、第2部の最後(7:50頃)を除く時間帯の天気予報を正木と共に担当している。朝日放送テレビに新卒扱いで採用されたアナウンサーが、入社の直後(新人研修の期間中)から同局制作の番組にレギュラーで出演する事例は、朝日放送時代を含めても初めてである。
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概要・来歴
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「LILY HEADS REUNION」の記事における「概要・来歴」の解説
メンバーはLUCY、YUKI、KEI、HIBARI、の4人。 2007年大阪でLILY HEADS REUNIONで結成。 2009年大阪で解散。各メンバーはそれぞれの道を歩んでいる。
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概要・来歴
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「ecosystem (バンド)」の記事における「概要・来歴」の解説
2007年1月 - 壺坂(ボーカル・ギター)、後藤(ベース)、空岡(ドラム)、松浦(キーボードの女性)の4人が大阪で結成。 2010年 - インディーズレーベル・ネギヤキから、アルバム「Jean」をリリース。 2010年6月10日 - 自身のブログにて、松浦が脱退を表明。その後、荒井がサポートメンバーとして加わり、4人で活動することになる。 2011年 - サポートメンバーだった荒井がメンバーとして正式に加入。4人組となる。 2011年11月30日 - SME Recordsからメジャーデビューシングル「ジレンマ」をリリース。表題曲「ジレンマ」はテレビ東京系アニメ『銀魂』の2011年10月以降のオープニングテーマ曲である。 2012年12月1日 - OFFICIAL WEB SITEにて、ドラムの空岡が脱退。 2013年8月7日-SME Recordsからメジャー1stアルバム「うしろの正面、ジレンマ」をリリース。 2014年8月31日-体調不良によりベースの後藤が休養に入る。 2014年10月1日-後藤の復帰が困難となり、解散を発表。 2014年12月10日-解散ライブを開催。
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概要・来歴
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ギタリストとして活躍する傍ら、現在は内海利勝(元キャロル)、新井武士(元ダウン・タウン・ブギウギ・バンド)、佐藤秀光(クールス)など1970年代の日本のロックシーンを代表する面々と、ロックバンド『THE BIG BAD』を結成し、ギターとボーカルを担当している。 サングラスとオールドスタイルのリーゼントヘアで人気を博している。
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概要・来歴
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「フェルナンド・カブサッキ」の記事における「概要・来歴」の解説
1965年、アルゼンチン・ロサリオ生まれ。5歳の時に手にした2弦ギターをきっかけにギターを始める。 10代でパンクと出会い、バンドを結成。 1988年に渡英し、キング・クリムゾンのロバート・フリップ創設のワークショップへの参加。リーグ・オブ・クラフティ・ギタリスツ(LCG)の一員としてフリップの世界ツアーにも度々帯同した。 1991年より、ブエノスアイレスのフィルム・アーカイヴと共同で、無声映画のサウンドトラックを即興演奏する不定形のプロジェクト、ナショナル・フィルム・チェンバー・オーケストラを立ち上げる。 1992年、LCGの主要メンバーのエルナン・ヌニェスとスティーヴ・ボールとともに、ベルリンでロス・ガウチョス・アレマネス(以下LGA)を結成。断続的に活動を継続している。LGA以外でも活発に活動。 1995年からフォルクローレ・シンガー、リリアナ・エレーロのバンドでギタリストを務める。 1998年には初のソロ・アルバム『Houses I』を発表。この頃からアレハンドロ・フラノフ、ファナ・モリーナ、モノ・フォンタナらと頻繁に共演を重ね、お互いの作品に参加するようになる。 2002年には、ファナ・モリーナのサポート・ギターとして初来日も果たした。関連作品も次々に紹介され、「アルゼンチン音響派」の最重要人物として一躍注目を集める。これをきっかけに日本の様々なアーティストとの交流を深め、山本精一や勝井祐二をはじめ、大友良英、原田郁子、バッファロー・ドーター、UAらと積極的にコラボレーション、共演を行なっている。 1998年から2011年の『LUCK』まで、多数のソロ・アルバム、コラボレーション・アルバムを発表。また、長短編映画やアニメーションのための作曲も多数行っている。
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概要・来歴
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野門プロダクション01期生出身。 芸名の由来は「本名」の言葉を選んで付けられたという。 。。 結成以来エキストラ事務所で活動して来たが、2010年4月に、野門プロダクション所属となる。
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概要・来歴
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「SHORT CIRCUIT III」の記事における「概要・来歴」の解説
キャッチコピーは「電波(デジ)革命戦士 みたび参上!!!」。ショートサーキットシリーズとしては前作以来3年ぶりのリリースとなる。今回も販売ルートが「CD流通ルート」ではなく「PC流通ルート」での販売になったので、全国のパソコンソフト販売店での発売。ただし、一部音楽CD販売店舗でも手に入る。KOTOKO・詩月カオリの楽曲は勿論、桐島愛里・朝見凛・舞崎なみによる新ユニット・Larval Stage Planningの楽曲とKOTOKO to 詩月カオリの楽曲が新曲として収録されており、どちらも作詞はKOTOKOが担当している。 2010年5月27日 - 全国のパソコンソフト販売店舗で「SHORT CIRCUIT III」の予約が開始。同時に特設サイト開設。 2010年5月30日 - 新曲を除いた全ての楽曲の視聴開始。 2010年5月31日 - イベントチケット抽選会開催を発表。 2010年6月1日 - SHORT CIRCUIT III Premium Show 先行予約チケット申込み開始。 2010年6月17日 - ラッピングバスのTwitter開始。 2010年6月25日 - 「SHORT CIRCUIT III」発売。 2010年7月18日 - 東京・SHIBUYA-AXにて「SHORT CIRCUIT III Premium Show IN TOKYO〜前夜祭〜」開催。 2010年7月19日 - 同じく東京・SHIBUYA-AXにて「SHORT CIRCUIT III Premium Show IN TOKYO 2010」開催。 2010年7月23日 - 大阪・BIG CATにて「SHORT CIRCUIT III Premium Show IN OSAKA 2010」開催。
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概要・来歴
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「alguel jerist」の記事における「概要・来歴」の解説
2005年結成、当初は舞踏家を含めた3人で主に渋谷西武前、新宿駅前の路上で活動。黎明期は完全なアコースティックで演奏していた模様。その後、徐々にエレキ化が進み現在の演奏形態へ変化していった。 奇抜なサウンド構成は、弦楽器が主に担当し、エフェクター、サンプラーなどを用いて独特の世界観を作り出している。ライブハウスのPAを使用せず、自分達で構成した音響機器を用いてフロアで演奏するのも特徴である。
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概要・来歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/25 16:04 UTC 版)
1987年、ブルー・トニックのキーボーディストとしてテイチク・ノン・スタンダードよりデビューし、1989年の解散まで参加。 1990年、オリジナル・ラヴのメジャー・デビューに際し同バンドに加入。デビュー・アルバムでは、キーボード以外に作詞作曲やコーラス、一部歌唱なども担当。メンバーとして5枚のアルバム制作に関わる。 1995年8月17日をもってオリジナル・ラヴを離籍。以後、名義を“キハラ龍太郎”に変更。楽曲提供や音楽プロデューサーとしての活動を主とする。 2014年ブルー・トニック一夜限りの再結成を果たし、2015年本格的に活動開始。
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概要・来歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2011/10/12 12:52 UTC 版)
「function code();」の記事における「概要・来歴」の解説
プロデューサーで現メンバーのH.L.EUROが、「日本にもGARBAGEのようなバンドを」という構想のもと、ボーカルを探していた。 月蝕歌劇団の舞台でLIKAを見たのがきっかけとなり、結成。H.L.EUROがLIKAをスカウトした時、カラオケでケイト・ブッシュの「嵐が丘」をリクエストした。(H.L.EUROにとってはオーディションのつもりだった)その時の歌声を認められ、ボーカルに本採用された。 LIKAの旧公式ブログ「...Rika's Blog...」では、マイ・ケミカル・ロマンス(My Chemical Romance)、ドレスデン・ドールズ(The Dresden Dolls) などがフェイバリットとしてあげられていた。ドレスデン・ドールズについては、2007年1月28日のワンマンライヴにて、バンドロゴの入ったタンクトップを衣装に使用した程。 ROCK WAVE(テレ玉)毎月2週目水曜日のコーナー「GIRLS WAVE」では、LIKAがMCを担当している。2007年9月12日スタート。洋楽女性アーティストのPVを紹介している。 寺山修司〜J・A・シーザー直系の、歌と音楽と舞踏が一体となったシアトリカルな表現が特徴。ワンマンライヴではパフォーマーやダンサーを従え、アングラ趣味の大がかりなパフォーマンスを繰り広げている。 歌詞のほとんどはLIKAによるもので、H.L.EUROと連名の場合もある。作曲は、H.L.EUROとMATSUOKA、TADAOMIの3人が担当している。TADAOMIは、アルバム(HeroinE);より作曲に参加している。 ホームページ、CDのアートワークやフライヤーなどにおけるデザイン、フォトレタッチなどはLIKAが担当している。 第二形態のfunction code(under);、第三形態のfunction code(mono);等の形態がある。イベント「TOKYO DARK CASTLE」には、function code(under);で出演している。 前身バンドにて過去にただ一度だけ、みっくすJUICEの「カンパイ!旅立ちの日」をカバーしたことがある。(2004年クリスマスイベントにて)
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概要・来歴
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「Blisters On My Fingers」の記事における「概要・来歴」の解説
2012年、丹羽・中川・井田・土山の4人で結成。バンド名はThe Beatlesの「Helter Skleter」のフレーズ"I've got blisters on my fingers"より引用。
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概要・来歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2012/02/19 20:04 UTC 版)
メンバーはSTIFFEEN RECORDSやカクバリズムの代表の角張渉を始めとして、日本のパンクロック、ハードコアに深く関わる人物ばかりである。 暫く活動を休止していたが、2007年8月のライブにて復活する予定。
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概要・来歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2012/02/19 12:13 UTC 版)
「nothing ever lasts」の記事における「概要・来歴」の解説
2008年、YouTubeを通じネルソン・バビンコイの存在を知った本田耕が、彼をボーカルにバンド結成を懇願。猛烈アタックの結果、ベースとドラムを加え4人編成で結成が実現した。東京都内のライブハウスを中心に多くのライブに出演 。『永遠なるものはない』という意味のバンド名nothing ever lastsには、永遠なるものなどないのからこそ「今」を大切にし、今しかできない音楽を追求していきたいという想いが込められている。ライブ活動だけにこだわらず、YouTubeやUstreamなどを通してもリアルタイムに楽曲を公開している。旧メンバーのドラムが脱退後、サポートを経た後、2011年6月に儀間が加入。 2009年7月 NHK主催「ロックの学園 サマー スクール」のメインステージにて初ワンマンライブを果たす。2010年7月 ap bank fes '10 koti market live (アコースティックステージ)に出演。2011年2月 飛澤正人(Dragon Ash、Gackt、HY等のエンジニア)プロデュースによる2ndミニアルバムが発売される。
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概要・来歴
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メンバー全員大分県別府市出身。小学校6年生のときに原型となるバンドを結成。 2007年よりバンド名をスタンリー・キューブリック監督の映画『時計じかけのオレンジ』よりDroogに命名。 大分県内のライブハウスを中心に活動を始め、2008年幼稚園からの幼なじみである、カタヤマヒロキ、荒金祐太朗、多田拓斗、右田智弘の現メンバーで初ライブを行なう。当時はTHE MAD CAPSULE MARKETSの曲などをカバーしていた。 その後大分のバンドコンテスト「ロックンロール・ハイスクール Vol.1」で優勝。既に大分のライヴハウス界隈ではその名を知らない人間はいない存在となる。 2010年2月10日、1st Mini Album『Droog』をリリース。地元タワーレコード大分店では倖田來未、木村カエラのベストアルバムを押さえてまさかの週間総合チャート1位を記録。 2010年10月6日、2nd Mini Album「Violence」をリリース。 2011年8月3日、3rd Mini Album『LOVE SONGS』でメジャーデビュー。 2012年5月23日、1st Full Album『End of teenage』をリリース。 2013年5月15日、2nd Full Album『ぶっとびぱなし』をリリース。 2014年5月14日、1st Single「In A Ghost World」をリリース。 2016年8月3日、3rd Full Album『命題』をリリース。 2016年12月21日、4th Mini Album『Monochrome』で再メジャーデビュー。 音楽評論家大貫憲章が「日本のロックの未来を担う」と絶賛。 2018年5月5日、無期限で活動休止することを発表。
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概要・来歴
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「HYBRID HUMAN IDEOLOGY」の記事における「概要・来歴」の解説
メンバーは坂本真二郎、koto鎌倉、高橋裕仁、鷹取洋。 2011年初頭、末永く音楽活動を続けていきたいという思いからメンバー全員が介護士、会社員といった職を持ちながら活動をスタートさせる。2012年よりバンドを一新し4人編成で再スタート。ちなみにメンバー全員がニライカナイ(後期)→ヒビキメロヲ→現バンドと同じ顔ぶれである。 元々、バンド名は漫画家の友人である清水栄一、下口智裕の作品の為に書き下ろした曲名から命名された。ROCKを母体としPOP、METAL、PUNK、ELECTRICな要素、更には時折「三味線」まで入る独自のスタイルつまりなんでもアリなサウンドを目指す。愛と希望を歌うバンド(オフィシャルサイトのBIOより抜粋) 2012年5月、iTunes、Amazon、music.jp、レコ直など世界全51カ国に「MY VIRTUAL CHAOS」の楽曲配信が決定。尚、CDは流通を通さず、ライブ会場と Amazon のみの販売としている。同年6月、初の海外公演。韓国ソウル、平沢の野外ステージにて2DAYSライブを行う。同年7月、墨絵イラストレーター茂本ヒデキチ氏のライブペイント用BGMを制作。スポーツブランドミズノロンドンオリンピック日本代表応援プロジェクト公式YouTubeの紹介動画BGMにも起用される。 2013年7月、音霊OTODAMA SEA STUDIOでのステージを最後にライブを含む活動を休止する旨をブログにて発表。同時に個人の活動を中心にすることも発表された。
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概要・来歴
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「オブジェクティフ49」の記事における「概要・来歴」の解説
1948年、設立。会長はジャン・コクトー。 主な設立メンバーは、ジャーナリストからは『レクラン・フランセ』誌に執筆していたアンドレ・バザンとアレクサンドル・アストリュック、『ラ・ルヴュ・デュ・シネマ』誌主宰のジャン=ジョルジュ・オリオールとジャック・ドニオル=ヴァルクローズ、『シネ・ディジェスト』誌主宰のジャン=シャルル・タケラ、映画作家からロベール・ブレッソンとルネ・クレマン、作家からはクロード・モーリアック、そしてシネマテーク・フランセーズからジャン・グレミヨンの協力者となったピエール・カスト。のちにフランソワ・トリュフォーはバザンに紹介されて加入、ジャン=リュック・ゴダール、シュザンヌ・シフマン、ジャン=マリー・ストローブらの10代20代の若者も加入。 当時、エリック・ロメールが主宰していた「シネクラブ・デュ・カルチェ・ラタン」との交流があり、オブジェクティフ49のメンバーも毎週木曜日の上映会に参加していた。同シネクラブは、1950年5月、『ラ・ガゼット・デュ・シネマ』を創刊するが、11月には廃刊して『カイエ・デュ・シネマ』創刊に合流する。 1949年7月29日 - 8月5日、初めての「作家の映画」の祭典である「呪われた映画祭」を組織し、ビアリッツで開催した。29歳のロメール、18歳のゴダール、17歳のトリュフォーもこれに参加。 1950年4月2日、オリオールが交通事故で死去。彼の死とともに『ラ・ルヴュ・デュ・シネマ』廃刊、ブレッソンがオブジェクティフ49脱退。 1950年、オリオールを失ったまま第二回呪われた映画祭を開催後、オブジェクティフ49は空中分解。 1951年4月、バザン、ヴァルクローズ、ジョゼフ=マリー・ロ・デュカ(ジュゼッペ・マリア・ロ・デュカ)らによって『カイエ・デュ・シネマ』創刊。
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概要・来歴
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「NINE MILES」の記事における「概要・来歴」の解説
ソロプロジェクト始動の切っ掛けは、the pillowsのリーダーである山中さわおにソロ名義における作品の製作、発表を依頼されたことによる。始動当初は、山中が代表を務めるレーベルであるDELICIOUS LABELから作品を発表していたが、3rdアルバム『REVOLUTION IS MY NAME』から販売元をavex traxに移行させた。 the pillowsではオルタナティブ・ロックを演奏しているので、ソロでは別のジャンルを題材にしたいと考え、かねてからの趣味であるレゲエを主軸とした楽曲を製作することを決定させる。結果、the pillowsとは完全に別ジャンルの音楽となった。また、始動が決定した際、洋楽のレゲエの歌詞を理解する為に旧約聖書を読破。一日一章ずつ読んでも3年半かかるものを、2年間で2回廻したと語っている。 非常に緩やかではあるが、現在においてもthe pillowsでの活動と平行させて、ソロでの活動を継続している。
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概要・来歴
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現JIGHEADの小河原良太が中心となり現the pillowsの佐藤シンイチロウと共に、1985年に結成(結成ライブの対バンはTHE BLUE HEARTS)。新宿LOFT・渋谷屋根裏を中心にライブを行う。1986年6月、ドラムスを塚本純にチェンジ。同年9月に出したEP「ラジカルゲーム」を発売後即完売させたことで業界から注目される。発売後、純の実弟である塚本研がベースで加入、人気も相乗効果で高まる。 1987年にはインディレコード最大手キャプテン・レコードと契約。ミニアルバム『HYSTERIC GENERATION』を発表しロングセラーのヒットとなる。翌1988年にはさらに2枚のミニアルバムを発売(『FUNKY ROCK'N ROLL』『Please Please Please』)。いずれもインディーズチャート初登場1位となり、特に現MOSQUITO SPIRALの春日弘(ex.DISSARAY、THE IDIOT IDOLATERS)加入後の『Please Please Please』はインディでありながらオリコンチャートの94位に上り詰め、1988年8月に行われた『ワンダーランドロックフェス』で当時メジャーで人気を博していたTHE BLUE HEARTSより観客が沸くというステージを目の当たりにした(出典『宝島』)メジャーレコードレーベル各社は急いで争奪戦を開始した。 1989年、徳間ジャパンとメジャー契約。N.Y. レコーディングを敢行。デビュー・シングルのレコーディングエンジニアにはラモーンズを手掛けたグレン・コロトキンが起用された。1stアルバム『THE POGO』は約25万枚を超えるヒットを記録。2nd『1990』(プロデューサーに鳥井賀句を起用)ではパンクロックの枠にとらわれないサウンドの成長を遂げ、音楽雑誌(『宝島』『Pachi-Pachi』等)から絶賛を受けた。1992年『THE WORST OF POGO』を発表後、自らのプロデュースに戻り、スリリングなパンクサウンドを標榜。だが、バンドのピークともいえる傑作『COCK AND BULL TUNES』を発表後、突如解散した。ビデオ『HISTORY OF POGO』での小河原良太の言葉によると「これがPOGOの完璧なサウンドだと分かったから、解散した」とある。 2006年9月8日、新宿LOFT30周年を記念し1夜限りの再結成を果たした(参加メンバーは小河原・春日のみ)。 2008年11月8日、トリヴュートアルバム『Search Out The Jams 〜THE POGO tribute album〜』の発売を記念したイベントで、オリジナルメンバーでのライブが実現。またその流れで、2008年11月27日に下北沢シェルターでオリジナルメンバーでのワンマンライブが行われた(チケットは即完売:オークションで1万5000円のプレミアムがついた)。 2010年徳間ジャパンで発売された全てのアルバムがデジパック紙ジャケット/24bitデジタルリマスターにて再発。それに伴い、過去発売されたビデオもDVD化され再発された。
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概要・来歴
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「SHORT CIRCUIT II」の記事における「概要・来歴」の解説
キャッチコピーは「電波(デジ)革命音戦士 第II章!!!」。今回も販売ルートが「CD流通ルート」ではなく「PC流通ルート」での販売になったので、全国のパソコンソフト販売店での発売。ただし、一部音楽CD販売店舗でも手に入る。 2007年5月11日 - 全国のパソコンソフト販売店舗で「SHORT CIRCUIT II」の予約が開始。 2007年6月11日 - I'veのオフィシャルホームページでは収録曲の「ねぇ、…しようよっ!」「Princess Bride!」「アナタだけのAngle☆」「Double HarmoniZe Shock!」「↑青春ロケット↑ -SHORT CIRCUIT II EDIT-」の試聴が可能になった。現在は終了。 2007年6月22日 - 「SHORT CIRCUIT II」発売。 2007年6月27日 - 「SHORT CIRCUIT II 発売記念トーク&握手会」の参加の応募が終了。 2007年7月2日付けオリコンアルバム週間ランキング初登場25位を記録。 2007年7月14日-2007年7月16日 - 「SHORT CIRCUIT II」発売記念トーク&握手会が大阪・名古屋・東京で開催。 2007年7月21日 - 限定ライブ「SHORT CIRCUIT II Premium Show IN TOKYO」を開催。(後述) 2007年12月29日-2007年12月31日 - 「SHORT CIRCUIT II Premium Show IN TOKYO」のライブを収めたDVDがコミックマーケット73のビジュアルアーツブース内にて発売。 2008年7月19日 - 限定ライブ「SHORT CIRCUIT II Premium Show IN TAIWAN」を開催。
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概要・来歴
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「Thee Out Mods」の記事における「概要・来歴」の解説
2008年、ファーストアルバム* "Rock'n'roll Pirates"(US盤)を7 Samurai Recordsからリリースし初回版は間もなくソールドアウトとなる。 2009年 帰国。活動拠点を日本に移す。 2013年 新規メンバーを迎え、活動再開。
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概要・来歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/08 05:33 UTC 版)
2000年代型ギターロックから1980年代ジャパニーズテクノポップ、そしてザ・ビートルズまでをも飲み込んだような奇妙奇天烈なサウンドと、イビツな恋愛観を歌うメロディが緻密に絡み合う音楽性が特徴。 2003年結成当初はボーカルギター、ベース、ドラムのオーソドックスなスリーピースバンドであったがドラマーが突然の脱退。仕方なく打ち込み機材を使ってライブを行ったのを機に打ち込みバンドへ。青木ヨーマ(プログラミング)の加入で打ち込み色を強め現在のスタイルになる。 2004年にはNHK「熱唱オンエアバトル」に二度出演、二度とも落選するも後にNHK-FMの番組内でこの時の音源を聴いた大槻ケンヂが絶賛。2006年にはCSの番組内でオーケン賞を受賞している。 2011年、自主レーベルzousan recordsを設立。YA!YA!YA!RECORDSよりミニアルバム『ピタリ!』、BadNewsRecordsよりフルアルバム『ヒダリのしっぽ』『ワインとチョコレート』、zousan recordsより『ヒダリのラブレター』を全国流通販売。 2014年、達川ユキヒロが脱退。その後、無期限の活動休止。 Perfume、キセル[要曖昧さ回避]、ワタナベイビー、TOMOVSKY、毛皮のマリーズ、MASS OF THE FERMENTING DREGS、モーモールルギャバンなどとの共演経験を持つ。 また、「少女B」が映画「アルファがベータをイプシロン」(ヨーロッパ企画)の主題歌に。「夜空の下の地球の上」が映画「くらげとあの娘」の劇中歌に採用されている。
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概要・来歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/08 17:18 UTC 版)
メンバーの天狗自らが主催するインディーズレーベル、P-PYTHON Recordsで活動後、2006年3月29日にアルバム『化け物横丁』でavex traxよりメジャー・デビュー。エイベックス第4制作部が主催するライブDEPT.4や、a-nation2006とa-nation2007のパワーステージなどに参加。また、第12回(2007年)と第13回(2008年)世界妖怪会議に参加し、2008年名古屋ドームで行われた妖怪フェスティバルにも参加している。
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概要・来歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/26 03:20 UTC 版)
木村は最初、エレキギターを弾き、ザ・ブルービーツでリードギターを担当。その後、木村好夫とザ・ビィアーズを結成し、主に演歌のLPレコードなどを数多く発表した。また、テナーサックス奏者の松浦ヤスノブとの共演も多く、コロムビア、ビクター、キングなどで数々のアルバムを発売した。また、作曲家としても活動し、五木ひろしの「おまえとふたり」「倖せさがして」石原裕次郎の「雪なさけ」天童よしみのデビュー曲「風が吹く」などを作曲した。木村は1994年ころから体調を崩し、一度倒れた後、「俺はもうギターが弾けない!」と妻に嘆いたという。最後のステージは森進一のコンサートでのギター伴奏であった。以後入退院を繰り返し、1996年に肝不全のため62歳という若さで死去した。逝去後も、木村好夫のギター演奏の評価は高く、今も多くの愛好者がいる。
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概要・来歴
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「M (ミュージシャン)」の記事における「概要・来歴」の解説
楽曲「ポップ・ミューヂック (Pop Muzik)」のヒットで知られる。また、ヒットはしなかったが、「金は天下のまわりもの (That's the way the money goes)」は「金がすべての世の中」の風潮を皮肉った楽曲である。 1979年にデビュー。同年4月に「ポップ・ミューヂック」がイギリスでヒット、11月にはアメリカでも1位を記録。1970年代末に誕生したテクノポップの楽曲としては初めての大々的なヒット曲となった。以降、3枚のアルバムを発表したが、他にヒットはなく、一発屋として認識されている。 また、マーク・キング、ウォーリー・バダルー、フィル・グールド、マーク・オーチン、ブリジット・ノヴィックといったレベル42などのメンバーが一時期、Mに在籍していた。
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概要・来歴
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「face to ace」の記事における「概要・来歴」の解説
メンバーはACEと本田海月の二人。2トップと呼ばれる二人に加え、ライブでの演奏にはサポートメンバーが参加することが多い。 音楽ジャンルはAORとされ、落ち着いた大人のロック・ポップスを聞かせる。結成時から主に作詞・作曲はACE、編曲を本田が担当してきたが、アルバム『FIESTA』では、10曲中4曲が本田の作曲とバランスが変化している。 2004年にインディーズに移行、自主レーベルより作品を発表している。 ACEのソロアルバム(エース清水名義)『TIME AXIS』は、ACEのラブコールによりサウンドプロデューサーに本田(当時は本田恭之)を招き、ACEはギターとボーカルを担当。これがface to ace結成へと繋がる。よってこのアルバムは、face to aceの原点と言うことができるであろう。
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概要・来歴
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「シネクラブ・デュ・カルティエ・ラタン」の記事における「概要・来歴」の解説
当時20代のリセ教師であったロメールの教え子が当初組織したシネクラブで、1948年、毎週木曜日にパリ・セーヌ左岸カルティエ・ラタンのダントン街で開かれた定例上映会の解説役をロメールが引き受けることになる。1930年代のアメリカ映画を中心にさまざまなフィルムを上映した。アンドレ・バザンやジャン=ジョルジュ・オリオールらが1948年に組織しジャン・コクトーを会長に戴いた、錚々たる面々によるもうひとつのシネクラブ「オブジェクティフ49」の人々も、若い世代が催した意欲的なこの上映会に参加していた。 1950年5月、ロメールが編集長となり、それまでの機関誌を『ラ・ガゼット・デュ・シネマ』として新創刊。ゴダールやリヴェットが現代の映画について論じた。同年11月を最後に5号で廃刊、バザンやジャック・ドニオル=ヴァルクローズらの翌1951年4月の『カイエ・デュ・シネマ』誌創刊の動きに合流した。 ソルボンヌ大学とIDHEC(フランス高等映画学院、現Fémis)とに留学していたエルネスト・ド・スーザも同シネクラブのメンバーで、彼はその後、ポルトガル・リスボンに戻ってシネクラブ運動を組織し、イタリアのネオレアリズモやフランスのヌーヴェルヴァーグの影響色濃いシネマ・ノーヴォ運動の映画作家となった。
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概要・来歴
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「ミュージック・マニア」の記事における「概要・来歴」の解説
最新の音楽を届けるほかに、ライブチケット先行予約などの音楽情報が早い。広島出身アーティストとは何かと縁のある番組で、19、Gackt、CHEMISTRYが天気予報のコーナーを務めたこともあった。 2000年4月スタート。当時の放送時間は16:00-20:00の4時間番組だった。 2001年4月11日より紙屋町地下街シャレオiスタジオからの公開生放送となる。この日はシャレオがオープンした日だった。 2002年4月より放送時間が16:00-18:55へ短縮。 2003年10月、番組を大幅にリニューアル。広島の音楽によりこだわることをコンセプトにした。これまでヘッドラインニュースはDJが読んでいたが、10月からはHFMのスタジオから、HFMのニュース担当者が読んでいる。スポーツニュースは一時期までは継続してDJが読んでいたが、後にヘッドラインニュースと同じようになった(木村のニュース読みが棒読みだった説もあり)。 2004年4月、番組改編で放送時間が17:00-20:00となり、2年ぶりに19時台の枠に復活。 2004年12月30日の放送をもって浜平恭子が卒業。エンディングでもらった花束は河村隆一から贈られてきたものらしく、感激していた。なお、2005年1月からは月〜木曜日すべて木村が担当した。浜平は韓国の特番を担当したり、2005年2月より「資生堂モアビューティー」を6月の番組終了まで担当した。 トラフィックインフォメーション、ヘッドラインニュース、スポーツインフォメーションでは必ず、コーナー名の前に番組名がつく。また、トラフィックインフォメーションでは「HFM 広島FM・ミュージックマニアトラフィックインフォメーション」と言い回しがやや長い。 公開生放送のため、大物ゲストが登場した場合はiスタジオ前の中央広場は人で一杯になることがある。一方で登場するゲストや、シャレオ側の都合によって、HFMのスタジオからの放送となる場合もある(ポルノグラフィティ、松浦亜弥、BUMP OF CHICKEN、矢沢永吉がゲストの時は、シャレオからの放送ではなかった)。 SETSTOCK'04の宣伝のために中国放送アナウンサーの青山高治がゲスト出演したことがある。木村ミチタは青山が担当している番組「壺」の構成を担当している。 2005年9月29日をもって放送終了。5年半の歴史にピリオードを打つ。後番組は「キムラミチタのVibe ON! MUSIC」(2007年4月より冨永晃道が担当)となるが、タイトル通り木村は続投し、引き続き紙屋町地下街シャレオiスタジオからの公開生放送を行った。 最終回には初代DJの清野茂樹が2年ぶりに登場した。この番組のタイトルを名づけたのは清野だった。清野の番組「GOOD MORNING」もこの日が最終回で、両番組含めワイド番組の登場はこの日が最後となった(2005年12月31日で清野が広島エフエム放送を退社したため)。
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概要・来歴
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「LAUGHIN' NOSE」の記事における「概要・来歴」の解説
日本に確たるハードコアパンクシーンが形成される以前から、その中心的バンドとして活動していた。メジャーデビュー前である1980年代前半から、THE WILLARD、有頂天と並び、「インディーズ御三家」といわれる程の人気を博した。この「インディーズ御三家」という名称こそが、現在日本語として「インディーズ」という単語が浸透するきっかけとなっている。バンド名の名付け親は初代ギタリストのアカベー。自分達でレーベル(レコード会社)「AAレコード」を設立し、音源を発売していた。また、インディーズシーンで活躍する他のバンドの音源のリリースも積極的に行った。 インディーズでの人気を得た後、1980年代にはメジャーデビューし活動。当時の「バンドブーム」の先駆けとなる。1991年に一旦解散するが、1995年から(バンドの意思により)再びインディーズシーンでの活動を再開。 日本を代表する「パンクロックバンド」の1つとして、増子直純(怒髪天)、難波章浩(Hi-STANDARD)、大槻ケンジ(筋肉少女帯、特撮)、森若香織(ex.GO-BANG'S)、ATSUSHI(NEW ROTE'KA)、桑原康伸(ガガガSP)、峯田和伸(銀杏BOYZ)、JOE ALCOHOL(ex.THE HONG KONG KNIFE)、セイジ(ギターウルフ)、石坂マサヨ(ロリータ18号)、千秋(タレント)、吉田豪(プロインタビュアー)、など多くのミュージシャン他からもリスペクトを受けている。 2011年には結成30周年を迎えた。 現在も新曲の発売、ライブツアー、イベント参加、グッズ販売等、ライブハウスを中心に活動を続けている。
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概要・来歴
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「アメリカン・ブリード」の記事における「概要・来歴」の解説
1962年に結成したゲリー&ザ・ナイト・ライツ(en)はシカゴのリーガル・ショウ・クラブなどに出演し、地元レーベルから6枚のシングルを発売、1966年ドット・レコード(en)との契約に際しアメリカン・ブリードと改名、傘下レーベルアクタ・レコード(en)から再デビューした。最初のシングル、「ステップ・アウト・オブ・ユア・マインド(Step Out of Your Mind)」が全米シングルチャート24位、「ベンド・ミー、シェイプ・ミー(Bend Me, Shape Me)」などが大ヒットした。1967年にはCM曲を手掛けアメリカ海軍、アメリカン航空(en)の「フライ・ジ・アメリカン・ウェイ(Fly the American Way)」、ベル・テレフォン(en)、コカ・コーラなどを担当している。1969年にはジャン=ポール・ベルモンド主演映画「大頭脳」のテーマ曲 (The Brain /Das Superhirn)に起用された。 1968年末、ケヴィン・マーフィーが参加、徐々にゲリー・ロライゾと他メンバーとの溝が深まるにつれ、1969年には他4人は平行して別行動を取り、1971年以降リー・グラジアーノに代わってアンドレ・フィッシャーが参加した。ロライゾ主導のアメリカン・ブリードは活動が途絶える一方、離脱メンバーによる新バンドはブリード(Breed)、サーカス(Circus)、スモーク(Smoke)、アスク・ルーファス(Ask Rufas)と名前やメンバー変更を経て1972年にエピック・レコードからルーファス(en)としてデビューした。 ゲリー・ロライゾ(en)はアメリカン・ブリードの活動終焉前後1970年頃からイリノイ州オーランド・パーク(en)で独自に録音スタジオの建設に取り組み「パンプキン・スタジオ(Pumpkin Studios)」として落成後はここでスタジオ・エンジニアやプロデューサーとしてスティクスとソロのデニス・デ・ヤング (en)、REOスピードワゴン、サバイバーや2005年ワールドシリーズを制覇したシカゴ・ホワイトソックス の祝勝記念CDに収められた曲「Rock with the Sox」に携わった。 1986年、アメリカン・ブリード結成20周年からテレビ局の出演依頼などへオリジナル4名で再結成し再録音の「ベンド・ミー、シェイプ・ミー'86(Bend Me Shape Me '86)」を含むミニアルバム「ワンス・アゲイン(Once Again)」を発表。これ以降出演依頼に応じて時々集結し地元シカゴ周辺でテレビ番組やイヴェントに参加していた。 スティクスの全国ツアーで2015年9月5日イリノイ州ティンレイ・パーク(en)、ハリウッド・カジノ・アンフィシアター(Hollywood Casino Amphitheatre ・en)の公演ではゲストにゲリー・ロライゾが招かれ「ベンド・ミー、シェイプ・ミー」を披露、この模様はスティクスのトッド・ズッカーマン(Todd Sucherman en)が、YouTubeに「Gary Loizzo with STYX- Bend Me Shape Me- Tinley Park 9/5/15 」としてアップしている。ゲリー・ロライゾは2016年1月16日膵癌で死去した。トッド・ズッカーマンが自身のFacebookでで訃報と約2年半に渡った闘病生活を伝えた。
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概要・来歴
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桂木東声は東京の人物ではじめ浅草の活動弁士(師匠筋・芸名未詳)、トーキー後二代目(俗に初代)桂小文治門下で落語(こちらも芸名未詳)、講釈師(こちらも師匠筋・芸名未詳)を経て漫談か漫才を迷った末に漫才に転向。最初の相方は千葉出身の日本橋の芸者を春風小柳(初代)と名乗らせコンビを組む。東声の黒紋付き・袴姿で刀を持ち小柳の三味線に合わせて剣舞や得意の弁士・落語・講釈の話術・軽演劇を織り込んだ漫才をやった。主なネタに「忠臣蔵」、「宮本武蔵」などがあった。後に上方に移ったが小柳がヒロポンの中毒で廃業、新たに三遊亭柳枝門下の三遊亭小柳(二代目)を相方にした、戦時中は新興キネマ演芸部所属であった。また東声は司会や漫談でも活躍。 戦後上方の漫才は空襲などで壊滅状態で引退同然であったがしばらくして復帰、最初の相方の春風小柳はヒロポンからも快方していたが地元千葉で名物芸者になっていたので復帰の意思がなく妻の京乃春風を相方とした、戦後は芸風もすっかり変わり東声が洋服でヴァイオリンを持ち、京乃春風は着物を着ていた芸風はのんき節・歌謡曲などをうなる音曲漫才であった。当時の芸風について上岡龍太郎(漫画トリオ)は「なかなかシャレたフランス小噺みたいなものをやってました」と回顧している。昭和30年代まで活動。ともに没年未詳。
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概要・来歴
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「MARS EURYTHMICS」の記事における「概要・来歴」の解説
バンド名の英語での正確な発音は「マーズユーリズミックス」であり、「マーズリトミック」はフランス語読みである。MARSには特に意味は無く、EURYTHMICSは「子供のための音楽教育」という意味である。リトミックも参照。 2005年のHUSKING BEE解散後、CORNERというソロプロジェクトで活動を継続させていた同バンドのメンバー磯部正文によって2006年5月に結成。12月、DEVILOCK10周年イベントに出演。同年のCOUNTDOWN JAPANにも出演した。 2007年6月には、主催イベント「City Connection」開催。ゲストとしてtoe、LOW IQ & THE BEAT BREAKERらが参加。また、8月にはROCK IN JAPAN FESTIVALにも出演。10月発表のミニアルバム『The blend of a canabon』では、従来のエモーショナル・ハードコアの要素に加え、ファンク色も導入。11月には初の全国ツアー『THE BLEND OF A CABANON tour』を開催した。 2008年11月にBa河辺真が脱退し、元HUSKING BEEの工藤哲也(テッキン)が加入した。 2009年5月にGt伊藤悦士が脱退し、Gt辻剛が加入するも9月に体調不良のため脱退。 2010年2月、公式サイトにおいて、3月4日に高円寺HIGHにて行われるライブを持って活動を休止する旨の告知がなされた。「現メンバーでの話し合いの上」と発表されており、休止の理由は明らかになっていない。そして3月4日、公式ブログにて磯辺により3月4日のライブ終了報告・及び活動休止に際する関係者への感謝の弁が投稿され、MARS EURYTHMICSは活動を休止した。今後はメンバー各自の活動へ移行するとのことである。
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概要・来歴
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レーベルの名称はiceberg(氷山)という英単語から抽出したもの。表面に出ているのは一部であり、水面下に限りない可能性を秘め、未知数の時代の音楽がここから誕生するという意味をもって命名された[要出典]。 同レーベルより発表された楽曲の原盤権はビーイングが保有しているが、同レーベルより発売された作品の音楽配信は、B'zのアルバム『B'z The "Mixture"』を除き現在どのサイトに於いても配信されていない状況である。 レーベル第一弾はDEENの16thシングル「手ごたえのない愛」で、2000年までは七緒香・大葉るか・B'zの作品が発売されていたが、2001年以降は実質DEENの専門レーベルという形となり存続していた。 2001年から2003年にかけて本レーベルから発表されたDEENのシングル・アルバムは、ビーイングが台湾に設立したレコード会社新光美音より正規盤として日台同時発売されたが、BERGレーベルは用いられていない。ライセンシーはB-Gram RECORDSの楽曲管理会社GRAM MUSICとなっている。 B'zの『B'z The "Mixture"』は香港・台湾でも発売された。併せて日本からの輸入盤仕様で1998年発表のベストアルバム『B'z The Best "Pleasure"』と『B'z The Best "Treasure"』がBMGより正規発売されており、パッケージに中国語表記と併せてBERGレーベルが用いられている。 2003年にDEENがビーイングから離脱し、事実上レーベルの運営が終了となる。
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概要・来歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/08/03 07:17 UTC 版)
江戸時代のはじめ、土師村は村の中央を可愛川(江の川)が流れていたため、それを有効活用すれば、灌漑用水に不自由しなくて済むのに、土地の方が川よりも高く、土木技術の未熟な時代であって、上土師(かみはじ)と中土師では、水路を引くことが困難だったため、他村に比べて農民は困窮していた。 1662年 (寛文2年)の秋、村の窮状を見るにしのびなかった忠左衛門は、上流の矢櫃(やびつ)に井堰を築き、水路を開削するよう村の農民たちに呼びかけた。しかし、途中の岩盤を掘り抜くなどの難工事のため工事ははかどらず、測量技術も幼稚だったために水は一向に通じなかった。そのうち初め協力的だった村の農民達も工事を投げ出してしまった。私財を注ぎ込み忠左衛門が1人で工事を続けていると、狂人扱いまでされて訴えられるようになり、庄屋から「農民をまどわす者」という理由で、作業ができないように手枷、足枷、首枷をつけられてしまった。それでも、完成を信じる忠左衛門は、手枷、足枷を許されると、首枷をしたままで工事を続け、汗と飛び散る石の粉で首に傷を作り、とうとう咽がつぶれて声がかすれたので、人々は咽声忠左衛門と呼び始めた。それでも屈することなく1人で作業を続けた。この彼の義挙を耳にし、力添えしてくれる人物が現れた。隣村、山県郡南方村(現・北広島町)の庄屋・五郎右衛門であった。彼は、忠左衛門の行動に感激し工事費用と人員を提供してくれた。このため、工事は急にはかどるようになった。 1665年 (寛文5年)に延べ7.6㎞に及ぶ用水溝は完成した。その当時用水を受けた水田は8町5反7畝27歩(約8.5ヘクタール)であった。村人は今までの忠左衛門への仕打ちを恥じ、あらためて恩人として忠左衛門を尊敬し、その功績を讃えて石碑をつくった。忠左衛門は義農として後世に名を残すことになる。
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概要・来歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/12/14 16:28 UTC 版)
2006年2月、テルミンとモーグ・シンセサイザーの演奏による楽曲を収録したアルバム『DenshiOn』を発表。冨田勲、中村八大などの作品をカバーしている。
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概要・来歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/10/06 03:13 UTC 版)
元THE POGOの小河原良太が中心となり、RYOTA BANDを経て1995年に結成、同年『JIG HEAD』をリリース。1996年、ベースレスのスリーピースバンドとなりその体制での初の音源である『Get a Monster』をカセットテープで発売し即完売。その後も自身のレーベルであるLUNKER KILLER RECORDSから音源を発表し、数年でライブハウスでの人気を不動のものとする。1998年7月14日、thee michelle gun elephantの推薦でリキッドルーム記念イベントに出演。1998年9月にはタイガーホールレーベルから『thee michelle gun elephant vs JIGHEAD』7"EPを発売し、即完売。1999年にはP-VINE RECORDSからアルバムデビュー。1999年10月17日、赤坂ブリッツでボブログ三世・ゆらゆら帝国らと共演、圧巻のステージで洋楽ファンにまでその名を知らしめた。翌2000年、thee michelle gun elephantの強い要望からTRIPPIN' ELEPHANT RECORDS(販売:日本コロムビア/ユニバーサル・ミュージック)に移籍し、同レコード会社からアルバムを3枚発表。2003年07月18日新宿LOFTにてJIGHEADイベント「PSYCHO JUSTICE」が行われ、thee michelle gun elephant、KENZI&THE TRIPSの盟友に加え、初ライブとなった東京事変がシークレットゲストとして出演、2012年には桃井はること共演するなどミュージシャンからの人気も高いことが証明されている。 前述以外にもBRAHMANのTOSHI-LOW(友人の結婚披露宴でTHE POGOの「プラネタリウム」を歌ったことも有名)やThe ピーズの大木温之、元BOØWYの高橋まこと、KENZIなど彼らを絶賛するミュージシャン(LOFT発行『Rooftop』参照)は多く、音楽雑誌ライター(行川和彦『CDジャーナル』など)からはミュージシャンズ・ミュージシャンと称されている。 2013年新作『JIGHEAD PLUS』を発表。ベーシストをゲストに迎え、彼らにしてみれば特殊な音源に仕上がっている。
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概要・来歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/31 21:53 UTC 版)
「BBQ CHICKENS」の記事における「概要・来歴」の解説
2001年8月にPIZZA OF DEATH RECORDSより1stアルバム『INDIE ROCK STRIKES BACK』をリリース。 2009年、HATANOが脱退し、FUCK YOU HEROESのAndrewが加入。 2011年、初の全国ツアー『Crossover And Over Tour』を行った。 2013年、アルバム『Broken Bubbles』を引っさげて、2年ぶりとなる全国ツアー『Broken Bubbles Tour』を開催。
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概要・来歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/10/17 07:13 UTC 版)
1999年に結成。メンバーが何度も変わり自主レーベルとして革命レコードを立ち上げ、2002年発売の1stシングル「革命」がオリコンインディーズチャート14位を記録。2003年にはパンク・ロックとスカの要素を融合させたミニアルバム『ヒマワリ』を発売。一万枚以上を売り上げ、オリコンインディーズチャート14位、フジテレビ系列のテレビ番組『ELVIS』によるチャートでは4位を記録。その後に行われた全国ツアーの敢行終了後、メンバー脱退→全く集まらず活動を突如停止する。 2004年9月、シングル「試験音源発射中」を発表して活動再開。また、埼玉県入間市に所在するカフェ&バー『世界初の文化祭カフェバー 〜青少年健全育成飲食広場〜秘密基地〜』の経営も開始させた。
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概要・来歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/11/13 05:55 UTC 版)
結成時のメンバーはスティーヴン・ロナルド・"スティーボ"・ジェンセン(Vo)、ジャン・ニールス・アッカーマン(Gt)、スティーブ・"ヒューマン"・ポウター(Ba)、ジョー・エスカランテ(Dr)。 1986年にスティーボが脱退し、デイブ・クァッケンブッシュがメンバーに加入。 ベーシストはポウターが脱退後、ジョー・エスカランテがドラムよりパートチェンジし、ドラマーにダッグ・マキノンが加入。 1989年にアッカーマンとマキノンが脱退。 その後、ギタリストにウォーレン・フィッツジェラルド、ドラマーに当時ディズニーランドでドラムを叩いていたジョシュ・フリースが加入し、現在のラインナップとなる。
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概要・来歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/02 00:35 UTC 版)
バンド名に意味は無く、音楽性が変わっても問題が生じないように意味の無い名前をつけたという。 2003年に福島県福島市にて結成。結成当初から、地元東北地方を中心に数々のイベントに出演。磯谷がかねてからファンであったthe pillowsの山中さわおにデモCDを渡した事がきっかけとなり、2005年よりDELICIOUS LABELに所属。2011年2月26日、オフィシャルホームページにて無期限の活動休止を告知。
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概要・来歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/01/02 04:34 UTC 版)
2006年まで参戦していたMF1レーシングを、オランダの高級スポーツカー専門メーカーであるスパイカー・カーズが買収し、F1に参戦した。 チームの国籍登録はオランダであるが、施設のほとんどは2005年までエディ・ジョーダンが過去に所有していたジョーダンチームを前身とし、これを先述のMF1レーシングが引き継いでさらに継承したものである為、チーム本拠地はイギリスにあった。マシンカラーはオランダのナショナルカラーであるオレンジを基調としたカラーリングとした。
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概要・来歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/11 09:24 UTC 版)
「wooderd chiarie」の記事における「概要・来歴」の解説
2001年 - 結成。東京都内を中心に活動。 2013年05月29日に活動休止。
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概要・来歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/01/25 07:50 UTC 版)
「leap youth theatre」の記事における「概要・来歴」の解説
1994年に東北大学の軽音楽サークル「アステロイズ」にて結成。バンド名は、当時ロンドンに実在した劇場名に由来している。 1995年にオリジナルメンバーの石山啓太郎が脱退、替わって林岳彦が加入。1996年に石川太朗が脱退、替わって山下哲が加入する。宮城県仙台市内及び東京都内でライブ活動を行う。1995年よりバンド自身がプロデュースするクラブイベント『シュガーボウル』を仙台市内で定期的に開催し、ライブ+DJのスタイルで活動を行う。自主制作で4本のデモテープを作成後、1999年ノッカーズレコードより2枚のマキシCDをリリース。2000年より活動休止。2018年より始動準備に入り、2019年より活動再開。
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概要・来歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/01/28 06:01 UTC 版)
「NEIGHBOURHOOD」の記事における「概要・来歴」の解説
2000年7月結成。これまでに4枚のマキシシングル、1枚のアナログEPを制作。 iPhone/Android ゲームアプリへの楽曲提供や、サウンドトラックの配信なども行う。 現在は、ライブ・レコーディング・ミュージックビデオまでの全工程を、完全セルフプロデュースで制作する体制を構築。 枠にとらわれない自由度の高い活動スタイルを確立している。
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概要・来歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/08 23:17 UTC 版)
「BOO BEE BENZ」の記事における「概要・来歴」の解説
2002年に竹内雄彦、山下亮、新田正伸、平岡正也の4人で結成。ロードオブメジャーやザ・ルーズドッグスがインディーズのころ、レーベルメイトとして一緒にツアーで全国各地を周った過去がある。 2004年にライブハウスツアーに参加し、自主制作盤『to me』をリリース。 2005年にシングル「東京の空」をtearbridge recordsからリリース。同作収録曲の「to me」「君という花」は大塚愛主演のドラマ『東京フレンズ』の主題歌に起用された。 2010年12月23日に開催されたライブで山下と新田が脱退。以後2人組バンドとして活動。 2012年、4月25日に配信開始されたシングル「Eyes on」と5月6日に開催された「BOO BEE BENZ LAST LIVE『you』」を以て活動終了。
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概要・来歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/10 00:28 UTC 版)
花岡優平・花岡茂兄弟と久保豊の3名で結成、1978年にデビュー。花岡優平と久保は同級生。シングル「愛の終わりに」を最後に久保は脱退し、根岸一博が加入する。1986年8月に解散。その後は、花岡優平は作詞家・作曲家として活動、花岡茂は音楽事務所を経営、2009年3月に優平・茂兄弟で「花岡ブラザーズ」を結成する。2010年7月のコンサートでは、根岸一博を迎え1夜限りの復活をした。
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概要・来歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/31 20:26 UTC 版)
1966年にウェスト・ミッドランズ・コヴェントリーで結成。ソフトロックバンドとして1968年にデビュー。当初はかなり野性的なイメージ戦略をとっていたが、やがて音楽性はポップな方向へと傾く。しかしセールスは芳しくなく、西ドイツのBASFレーベルなどマイナーやインディーズのレーベルへ移籍。この期間に発表したLPレコードはイギリスでは1990年代希少価値から中古盤は高値で取引されていた。 再移籍直後の1975年、ジミー・ウォング主演の香港・オーストラリア合作アクション映画「スカイ・ハイ(英語版)(原題:The Man From Hong Kong)」の主題曲として制作した「スカイ・ハイ」をリリース、全米3位の大ヒットになった。当初レコード会社は大して売れるはずもなかろうと数百枚しかプレスしなかったという。印象的なイントロで始まるドラマチックな構成のこの曲は日本でもオリコン週間総合2位と大ヒットした。プロレスラーのミル・マスカラスの入場曲や、元北海道日本ハムファイターズの二岡智宏、元阪神タイガースの八木裕の登場曲、ガイナーレ鳥取の試合出場選手紹介時のBGMとして使われたほか、CM音楽などでも多用されている。 1981年にバンドは解散。「スカイ・ハイ」以外にこれといったヒット曲がないことから、一発屋の扱いを受けているが、「スカイ・ハイ」の他にも「愛の想い出」(原題「I've Seen The Film, I've Read The Book」)をはじめ、多くのシングルをリリースしている。ほか、日本のソングライター 林哲司が提供した「If I Have To Go Away」 (1977年)という楽曲も存在する。 その後、メンバーのデズ・ダイヤーは1990年代初頭、J-POPの楽曲を英語でカバーしたソロアルバムを日本で発売している。
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概要・来歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2015/04/30 15:53 UTC 版)
2005年、元flow-warの及位"CANDY"平(及崎森平)と安保"Suginho"一生(杉元一生)を中心に結成。 2005年7月28日、下北沢ERAにて初ライブを開催。 2006年10月28日、1stシングル「Fatman」、1stDVD「CANDYMAN the movie -Season 1- 『LIVE LIVE LIVE』」をリリース。 2007年6月18日、2ndシングル「Mt.Needle」をリリース。 2007年10月1日、2nd DVD「CANDYMAN the movie -Season 2- 『2nd Single レコ発&ほぼ2周年 TOUR』」をリリース。 2008年6月22日、1stアルバム「Laughingstock」をリリース。 2009年3月28日、新宿MARZでの「LAST LIVE」で解散。
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概要・来歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/01 05:32 UTC 版)
2001年11月、竹尾が中心となり前身となるバンドを結成。友人の紹介で渡會が加入。2002年4月に越川、2003年9月に菅野がそれぞれ加入。4人編成となる。 2002年にバンド名を現在の名前に改名、その後渋谷や下北沢を中心に精力的なライブ活動を展開する。インディーズでリリースしたミニアルバムが好セールスを記録し、2007年5月にメジャー・デビュー。 2008年7月度の『CDTV』EDに『茶の花』が採用された。 2010年9月8日のライブをもって越川が脱退。以降はサポートドラマーに武並“J.J.”俊明を迎え、制作・ライブ活動を行っている。 2011年、インディーズレーベルに移籍。同年、業界初のオーダーメイドアルバムを発表する。 2013年、結成10周年を迎える。 2014年5月、所属事務所をロウティックに移籍。 2015年3月、次回作の制作に向け、一時活動休止。 2019年12月8日、渡會将士JAPAN?TOUR 東京公演にて、一夜限り?の復活(Dr.吉澤響)
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概要・来歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/27 04:09 UTC 版)
学生時代からお笑いが好きで、週末になるとフェリーなどでよく関西の劇場に足を運んでいた。同郷の桑原和男を頼り(桑原の兄の紹介による)、大阪に移る。桑原の勧めで第1次Wヤングの平川幸雄(現在の平川幸男)門下となり、漫才コンビ「Wパンチ」を結成。1980年2月の京都花月下席でデビュー。 同年、同期の島田紳助らと「SHINSUKE-BAND」を結成。ギターおよび作曲を担当した。 1983年のコンビ解散後よりピンで活動。 ABCテレビ「クイズ!紳助くん」に出演し、司会の紳助よりも2つ年上にもかかわらず「なにわ突撃隊」の一員として、若手に混じって体を張った。同番組では、旅先で俳句を詠んだり弾き語りを披露したりする「山頭火シリーズ」にも参加していた。
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概要・来歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/28 06:34 UTC 版)
SAL結成前、DJ COUNTRYとして活動していたYOHEYが、映画「GLOWING GROWING」の音楽監修を務めるにあたって、ケツメイシのシングル「手紙 過去〜」にゲストMCとして参加するなど純日本語によるリアルなメッセージをポエトリーリーディングスタイルで表現するD-THE 369と出会い、後にシングルとしてリリースされる「Where is freedom?」の原曲が完成する。その後、2002年にボーカルの有輝を加えSALが結成され、YOHEYが、DREAMS COME TRUEのライブやイベント、楽曲などにも携わった関係から、DREAMS COME TRUEがエグゼクティブプロデューサーを務めるインディーズレーベルDCT recordsの第1弾アーティストとしてデビューし、同年に DREAMS COME TRUEのツアー「2002:monkey girl odyssey arena-mix」のオープニングアクトを務めた。 HIP-HOPやJAZZやROCKなどのテイストを盛り込んだカテゴライズする事が難しい「NAKED POP」サウンドを追求した。出身地も育ってきた環境もライフスタイルも違う3人は、焦燥感やコンプレックス、自分の内面に存在するあらゆる感情をイメージさせるオーガニックでドメスティックなリリックやサウンドを構築していった。 2002年7月にアルバム『SPECTRO』でデビュー以降、様々なライブやイベントに出演し、2003年にはSOUL'd OUTのDiggy-MO'をフィーチャーしたシングル「Where is freedom?~swinging and listening~」をリリースしたが、それ以降、グループとしての活動を停止し、各々がソロとして活躍の場を広げている。
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概要・来歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/29 00:58 UTC 版)
「SLAP STICKS」の記事における「概要・来歴」の解説
メンバーは小林正俊、多田紀彦、雨奥崇訓、立井幹也、奥迫博俊の5人。作詞作曲は楽曲によってそれぞれ異なる。詳細は後述のメンバーの項を参照のこと。 NHKの番組BSヤングバトルで受賞し1995年、ワーナーミュージック・ジャパン傘下のレーベルであるWEA Japanよりメジャーデビュー。同年に発表された2ndシングル「もう止まらない」が、テレビアニメ『魔法陣グルグル』の主題歌に起用されヒット。3枚のアルバムを発表後一時作品発表が途絶えたが、1998年にDAIPRO-Xに移籍し活動再開。以降活動を継続させたが、2000年7月2日に広島ネオポリスにて行われたライブをもって解散。以降もそれぞれのバンドで音楽活動を継続中。 デビュー以降から解散までに、合計シングル7枚、アルバム4枚をメジャーレーベルから発表した。詳細は後述の作品の節を参照のこと。
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概要・来歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/30 09:44 UTC 版)
初期チーム名称はアルフ・ライラ・ワ・ライラで、初めてその名が登場したのは1988年3月25日発売のアルバム『カプコン・ゲーム・ミュージック VOL.2』から(1986年発売の『カプコン・ゲーム・ミュージック』には記載されておらず、VOL.2が事実上のデビューアルバムとなる)。名前の由来は『千夜一夜物語』で、初期のバンドロゴはアラビア文字がそのまま使われていた。1991年に男性メンバーが加入し、名称をALFH LYRAに変更、顔のようなロゴマークを制定。1994年にソニーレコードへの移籍後も名称は継続していたが、ロゴマークは使われなくなった。 サウンドチームとしてだけではなく、1980年代末からのビデオゲームメーカー内のバンドブームに合わせ、ガールズバンドとして「ゲームミュージックフェスティバル」等のイベントでライブ活動も行っていた。1993年からバンド活動はAlph-Lylaという別名義になり、メンバーを女性に固定。カプコンのゲーム曲のアレンジや演奏だけにとどまらず『キャプテンコマンドー』の1ステージをボーカルアレンジした「CRIME JUNGLE」、『ストリートファイターII MOVIE』においては挿入歌として「Break!!」、「傷つきながら熱くなれ」といったガールズロックバンドとしてのボーカル曲も披露した。 1990年代半ばになるとゲームサウンドチームのバンドブームも去り、バンドの主要メンバーであった女性スタッフの退職や移籍が重なったこともあってバンドとしての活動も少なくなったためガールズバンド色も薄れるとともに「ALPH LYRA」の名称も使われることが少なくなっていった。 主に『ストリートファイターII』のゲームミュージックなどで知られるが、同様にFM音源を使用したカプコンCPシステムのほぼ全てのゲームミュージックを担当している。初期CPシステムの同時発音数の少ない音源を最大限に駆使し、エジプト面やパイプオルガンの荘厳なBGMで世界観の構築に貢献した『ロストワールド』、『ストライダー飛竜』、また後に音源が強化され映画音楽的で活劇を盛り上げた『天地を喰らうII 赤壁の戦い』に至るまで、音源の進化にもいち早く対応している。
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概要・来歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/31 08:17 UTC 版)
2010年、 共通の知人を通して知り合う。この時「津軽タント節」、「会津磐梯山」が制作されている。2012年2月、 2年ほど時を経て再会し、本格的に始動。4月より活動開始。2013年3月、屋外ライブ用にポータブルエレクトリックドラムを導入。全国各地のイベント出演など活動範囲を広げる。2014年3月、2015年2月に文化庁/財団法人日本民謡協会主催の「民謡SONIC」に出演。2015年7月、フランス・パリにて開催された「第16回 Japan Expo」に出演。2015年12月、世界展開の音楽オンラインコンテスト『Global Rockstar 2015』において日本国内予選の首位を獲得。2016年2月、台湾・台北にて開催された「Explore REAL JAPAN」に出演。2016年7月、フランス・パリにて開催された「第17回 Japan Expo」に出演。2016年8月、キングレコードよりメジャーデビュー。
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概要・来歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/31 18:44 UTC 版)
東京藝術大学在学中に作曲したオーケストラによる楽曲「瘴烟(しょうえん)」が、1980年度日本音楽コンクールの作曲部門に入選。同大学院修了後、藤島昌壽や北村昭、南弘明、黛敏郎に師事。 パーカッショングループのファルサと、1999年から長期にわたり交流がある。
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概要・来歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/02/18 01:32 UTC 版)
メンバーはリチャード・ヘル、トム・ヴァーレイン、ビリー・フィッカの3人。詳細は後述のメンバーの節を参照のこと。 高校の同級生だったリチャード、トム、ビリーの3人によって1972年に結成。ライブでの活動を展開した後、1973年に解散した。その後、ネオン・ボーイズの3人にリチャード・ロイドを加えてテレヴィジョンを結成し活動を継続。 活動期間中、作品を発表することはなかったが、解散後の1980年、ネオン・ボーイズの楽曲が2曲収録されたEPがシェイク・レコーズより発表された。詳細は後述の作品の節を参照のこと。
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概要・来歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/03/03 17:13 UTC 版)
ポストパンクの旗手アダム&ジ・アンツからマネージャーのマルコム・マクラーレンがリーダーアダム・アントを除くメンバーをすべて引き抜いてロンドンで結成。ボーカルはクリーニング屋で働きながら歌を口ずさんでいるところをスカウトされた14歳のビルマ系女性アナベラ・ルーウィン。 1980年にシングル「C·30 C·60 C·90 Go」とミニアルバム『Your Cassette Pet』でデビュー。レコードを作らずカセットテープのみで発表された。レコードはもう古い、電車の中でも街を歩きながらでも車でも聴けるカセットの時代が来ると主張したが、後にレコードでも発表された(アメリカではカセットがレコードの市場を圧倒していた)。 1981年にアルバム『ジャングルでファン・ファン・ファン』をリリース。ジャケット(エドゥアール・マネの絵画「草上の昼食」のパロディー)のアナベラ(当時15歳)の裸写真を見た彼女の母親が問題として提訴、発売延期にまで至った。凄腕のテクニックでジャングル・ビートと呼ばれる斬新な音楽スタイルでイギリスのみならず、日本でも人気が出て、資生堂のCMにも登場した。 1982年には来日しマッドネスとジョイントコンサート・ツアーを行った。1983年に一旦、解散している。
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概要・来歴
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「THE King ALL STARS」の記事における「概要・来歴」の解説
THE King ALL STARSは、2013年に開催された仙台の野外フェス「ARABAKI ROCK FEST.13」をきっかけに結成されたスーパーバンド。「東北を元気に!」を掲げて歌う若大将こと加山雄三のもとにロックフェス常連のメンバーが集結。加山は高野勲(Key)、山本健太(Key)、佐藤タイジ(G)、名越由貴夫(G)、ウエノコウジ(B)、武藤昭平(Dr)からなる「加山雄三 & ARABAKI YOUNG KING BAND」のリードボーカル&リードギターとして出演。20代から70代までという幅広い年齢のミュージシャンたちによる圧倒的なロック・サウンドは話題を集め、翌2014年にそのバンドを発展させる形で結成された。 バンド名は、加山が尊敬するエルヴィス・プレスリーが「THE KING」と呼ばれていたこと、加山(=K)が喜寿にして現在進行形で進化し続ける現役(=ing)であること、そしてスターミュージシャン13名(=KING)が集まったことにちなんで命名。そして「THE King & ALL STARS」ではなく「THE King ALL STARS」なのは、加山だけでなくメンバー全員がキングということを意味する。 2014年4月にデビューシングル「未来の水平線」をタワーレコード限定でリリースし、7月には1stアルバム『ROCK FEST.』を発表。また同年、『ARABAKI ROCK FEST.14』、『GREENROOM FESTIVAL '14』、『FUJI ROCK FESTIVAL '14』などのロックフェスに出演する。 2015年7月、ミニアルバム『I Simple Say』でドリーミュージックからメジャー・デビューを果たす。
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概要・来歴
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1987年、ディセンデンツからボーカルのマイロ・オーカーマンが脱退。残されたメンバーはボーカルにデイヴ・スモーリーを迎え、オールとして活動を開始する。
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概要・来歴
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「ブリンズリー・シュウォーツ」の記事における「概要・来歴」の解説
1970年9月にはオーディションによりイアン・ゴム(ギター)が参加し5人となる。1970年に1stアルバム『ブリンズリー・シュウォーツ』をユナイテッド・アーティスツから発表し、本国からプレス関係者を招いてニューヨークのフィルモア・イーストでヴァン・モリソンの前座としてギグを行ったが、飛行機到着時間の遅れによるリハーサル不足等により大失敗に終わり、大きな負債を残すことになる(フィルモア・ハイプ)。1970年に『ディスパイト・イット・オール』、1972年には『シルヴァー・ピストル』、『ナーヴァス・オン・ザ・ロード』といったアルバムを発表し、ニック・ロウ作の優れた楽曲とパブを中心としたライブで、徐々にライブバンドとしての人気を獲得していく。 1974年6月のシングル「ピース、ラヴ・アンド・アンダースタンディング」が代表作として知られる。 1975年、解散。以降、ニック・ロウはソロ活動のほか、エルヴィス・コステロのプロデュースで名を知られる。また、ブリンズリー・シュウォーツとボブ・アンドリュースは、1970年代後半はグラハム・パーカーのバック・バンド、ルーモアのメンバーとして活動していた。
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概要・来歴
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「ストロボ (バンド)」の記事における「概要・来歴」の解説
ex-Waiveの田澤と、ex-day after tomorrowの北野とで2006年に結成。 2006年5月24日に『ボクのところへ/Good Morning! Mr.freak』でavex traxよりメジャーデビュー。 2006年6月9日にShibuya O-Westにて、初ライブを行う。
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概要・来歴
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メンバーは篠原ともえ、松本英子の二人。 2004年に結成。直後にシングル「明日に続く空」(マルサンアイ豆乳CM曲)をリリース。二人のコーラスが特徴的なミディアムテンポの明るめのポップ・ミュージックに構成されている。CDを買いづらい若年層でも買えるよう制作費を抑え、300円での発売を実現。卒業に合わせて小学生がクラス単位で購入することもあったとされる。 2006年に楽曲「恋につづく街」「フワフワな午後」を制作し、ライブ会場限定でCD販売され後にダウンロード販売された。その曲でも二人のハーモニーを主軸とした楽曲に仕上がっている。また、2007年夏に公開された映画『コーラスたい』の主題歌に同ユニットの楽曲が起用された。
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概要・来歴
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主に4コマ漫画を執筆しているが、近年はストーリー漫画やライトノベルの挿画も手がけている。 2006年から2010年まで「萌えよ! アキバ人ブログ(現:moeyo.com)」で『フィーたん4コマ』を連載していたが、自身が多忙になったこともあり降板。『フィーたん4コマ』は休載期間や作画担当者の交代を経て2013年まで続いた。 「bb」は子供の頃のニックネームが「ビッグバード」であったため、その頭文字を取ったことに由来している。 『Aチャンネル』のアニメ化が縁で、その主要担当声優だった福原香織と内山夕実と仲が良いという。
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概要・来歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/17 08:59 UTC 版)
14才の時に友人の勧めでアドリブの歌詞とメロディーを作り、カセットテープに録音したことがきっかけで音楽に目覚める。当初はコミックソングを中心に楽曲制作を行っていたが、イエロー・マジック・オーケストラのアルバム『BGM』に衝撃を受け、自らもテクノ・ミュージックを作ることを決意。友人から借りたシンセサイザーYAMAHA CS01とダブルカセットデッキを使い、多重録音を行うようになる。 高校生になり念願のシンセサイザーROLAND JUNO-106を購入すると、同時期に聴いていたエレクトロポップユニット「JULLAN」の影響もあり、自らの音楽性をエレクトロ・ポップへとチェンジしていく。新聞配達のバイトで得た収入をシーケンサーやリズムマシン等の機材につぎ込むと、英詩によるエレクトロ・ポップの楽曲を多数制作するようになり、持ち味であるメロディーメイクの基礎を築いていくこととなる。 やがてメジャーデビューを目指すようになるが、その過程で様々な方向性を模索。日本語歌詞や自身のボーカルによるユニット、さらにはミクスチャーロック・バンドなど、これまでとは異なるジャンル・スタイルを試みるようになる。1999年には、サウンド・プログラム:イイヅカ、ヴォーカル:ナオミ、リリック:イーノによるユニット「Perfect Summer Cooler」でギターポップ系コンピレーション・アルバム『Space Scientist Umbrella』に2曲提供するも、最終的に活動終了となる。 2000年、原点であるテクノに立ち返るため、ソロユニット「HAAP」を始動する。「HAAP」という名前は、知人から勧められたオーロラを調査する「HAARP(ハープ)」というプログラムの名称に由来しており、その名称から「R」を抜いた「HAAP」という綴りがドイツ語的な語感とテクノらしさを感じさせるというのが採用の理由となっている。当初は純粋なテクノミュージックを目指していたこともありテクノ色の強いサウンドであったが、mp3.com上に公開した『Elektra Paranoia』が海外で注目を得たことがきっかけとなり、作品の方向性を次第にエレクトロへとシフトチェンジしていく。2002年12月1日に自主制作アルバム『NEW ELECTRO PARADISCO』を発表。その後もマキシシングル『PLASTIC LOVE』、ライブアルバム『LIVE112202』など継続的に作品を発表していくと、その活動がテクノユニット・Cyborg'80sの小林"ZUNBA"和博の目に留まり、交流を深めていくこととなる。2005年8月1日、ZUNBA小林がディレクター、ドラゴンスピリットやリッジレーサーなど数々のゲーム音楽で知られる細江慎治がプロデューサーを務めるレーベルTechno4Pop RECORDSから発売されたコンピレーションアルバム『テクノ4ポップ Vol.1』に『Plastic Love』を提供。2005年の夏にはZUNBA小林から単独リリースの打診を受け、2007年3月22日に1stアルバム『DISCONATION』をリリースする。こうしたHAAPの楽曲はメディアにも注目され、2001年に放送されたTBS系列「ジャングルTV 〜タモリの法則〜」では『ELEKTRA PARANOIA (Prototype)』がナインティナイン岡村隆史、ダチョウ倶楽部上島竜兵、内山信二による即席ダンスユニットのダンス用BGMとして、また『ELEKTRA PARANOIA』『DISCONATION』をミックス編集した楽曲がNHK-BS「COOL JAPAN〜発掘!かっこいいニッポン〜」のオープニングジングルとして長期間使用されることとなる。その後も2008年にイエロー・マジック・オーケストラのレコーディング・エンジニアとして知られる寺田康彦主催のレーベル・THINK SYNC RECORDSのコンピレーションアルバム「CASUAL MEETINGS」に『Lonely Lonely』を提供するなど順調に活動を続けていたが、細部に強くこだわる制作スタイルが制作ペースに影響を与え、その後のアルバムを発表するまで長い年月を要することとなる。 2016年3月22日、9年の歳月をかけた2ndアルバム『HARDBOILED』を自身のレーベルから発表すると、オリジナルの楽曲制作のみならず、リミックスワークやライブなどアーティストとしての活動を再開。2017年8月16日、Nekon Recordsより『Back to the Shanghai Disco』をリリースしソールドアウトさせると、2018年11月14日には再びNekon RecordsからLove The Candy'sとのスプリットシングル『HUB Extra Bundle』にて『Strange Girl』を発表。2019年4月24日には3rdアルバム『TIMELESS』を発売し、メディアにも取り上げられることとなる。『TIMELESS』発表後は、リリースパーティーを含めたライブ活動も行なうほか、CutemenのPicorinをゲストボーカルに迎えた『Life Without You』やレーベルメイトLove The Candy'sのlovelesとのコラボレーション『おねがいテレパシー』など、様々なスタイルの楽曲を発表している。
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概要・来歴
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「ハヌマーン (バンド)」の記事における「概要・来歴」の解説
2004年7月7日 山田亮一(ヴォーカル、ギター)、大久保恵理(ベース)、鼻兄(ドラム)の3人で結成。 2006年2月28日 鼻兄脱退。平尾正和加入。 2007年2月23日 1stミニアルバム「デッセンクルー」をリリース。 2008年8月14日 平尾がSIBERIAN NEWSPAPERの活動に専念する為、脱退。 2008年8月21日 サポートドラマーとして青木繁之を迎えライヴ活動を開始。翌月9月1日正式加入。 2009年7月8日 1stフルアルバム「World's System Kitchen」をリリース。 2009年12月11日 ASIAN KUNG-FU GENERATIONのツアー札幌公ゲストアクトとして出演。 2010年6月9日 2ndミニアルバム「RE DISTORTION」をリリース。 2010年12月30日 COUNTDOWN JAPAN 10/11に出演。 2011年3月27日 同日付けをもって無期限活動休止することを発表。 2012年8月3日 解散。 2020年6月9日 ロックの日になぞらえ発表している全ての楽曲をサブスクで配信。
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概要・来歴
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2016年1月15日、デビュー。 2020年、全国デビュー。 2021年10月5~9日、ロマンス&バカンス5周年記念5daysを池袋Admで行う。 キャッチコピーは「お耳のリゾート」 ホームのライブハウスは池袋Adm
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概要・来歴
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BLANKEY JET CITYのメンバーソロ活動期の1996年に、全ての音を中村一人で作り上げるというコンセプトで「LOVE SHOP LOSALIOS」として始動。1999年には浅井健一、照井利幸、森岡賢、東京スカパラダイスオーケストラなど多彩なゲストを迎えた1stアルバム『世界地図は血の跡』を「LOSALIOS」名義でリリース。BLANKEY JET CITY解散後も精力的に活動を行う。 その後、TOKIE(ベース)や加藤隆志(ギター/東京スカパラダイスオーケストラ)、武田真治(サクソフォーン)との4人バンド編成でライブやアルバム制作を展開。2001年には田中邦和(サクソフォーン)で、2003年の『オーロラが舞い狂う夜』ツアーでは一部公演にて、土屋昌巳(ギター)、金子飛鳥(ヴァイオリン)が参加した。 2005年から武田に替わって會田茂一(ギター/EL-MALO等)が加入。 2006年には、下記メンバーにてLove Shop Losaliosという名義で活動する事があり、LOSALIOSの楽曲が演奏された。 7月2日(日)京都 P-hour '06 中村達也(ds)、加藤隆志(g)、曾田茂一(g)、tatsu(b) 9月23日(土) 六本木Super Deluxe 中村達也(ds)、tatsu (b)、カトウタカシ(g)、タブゾンビ(ts) 2008年8月16日に北海道で行われたRISING SUN ROCK FESTIVAL 2008 in EZOでは、ゲストに勝井祐二(ヴァイオリン)、タブゾンビ(トランペット)、浅井健一(ヴォーカル&ギター)を迎えた。浅井健一とのセッションの際は、LOSALIOSの楽曲に加え、BLANKEY JET CITYの楽曲を演奏、浅井と中村がBLANKEY JET CITY時代の楽曲で共演する事は、バンド解散以来約8年振りであった。 2009年9月21日に恵比寿LIQUIDROOMで行われた松田優作20周忌記念プロジェクト「SOUL RED」では、従来のメンバーに加え、約6年振りのセッションとなる武田真治、東京スカパラダイスオーケストラの谷中敦、NATSUMENの蔦谷好位置、さらには竹中直人が参加。ライブをバックアップするDJに渋川清彦(KEE)、ライブフォトカメラマンとして永瀬正敏を迎えたスペシャルセッションとなった。また、「SOUL RED」プロデューサー・松田美由紀のアンコールで、losaliosのレギュラーナンバー「anaconda」を全参加者でセッションした(前座を務めたSPEEDER-Xのベーシスト・KenKen(RIZE)もパフォーマーとして参加) 2013年9月26日の恵比寿LIQUIDROOMで行われた単独公演をもって活動を休止する。同公演には、ゲストにGOMA(ディジュリドゥ)を迎えた。 2021年11月、再始動を発表。中村以外の参加メンバーは加藤隆志(ギター、東京スカパラダイスオーケストラ)、TOKIE(ベース、AJICO / ACE OF SPADES)、堀江博久(キーボード、ギター)。また、2022年1月20日には、再始動初となるライブを渋谷CLUB QUATTROにて開催することも合わせて発表された。
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概要・来歴
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「Chachamaru」の記事における「概要・来歴」の解説
『アイ高野とビーハイブ』、『EARTHSHAKER』の永川敏郎との『GERARD』、和製プログレッシブ・ロックの立役者によるセッションバンド『VIENNA』、二井原実との『デッド・チャップリン』等のバンドを渡り歩く。他にも、X JAPANのボーカリストTOSHIのソロアルバムにも参加している。 GACKT曰く「日本で3本の指に入るギタリスト」。 使用ギターはキャパリソンのhorusのカスタムモデルを愛用しており、同ギターの開発にも携わっている。 使用アンプはMarshallのJCMやJVMシリーズなどを愛用。
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概要・来歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/16 13:52 UTC 版)
1970年代末、立教大学の学生だった中田潤(なかだ・じゅん)は、同大学の主流派音楽サークルと趣味が合わない学生たちで反主流派の音楽サークル「Walkin' Jap」を立ち上げる。サークルメンバーには初代ギタリストのOがいた。その2人に日本獣医畜産大学(現・日本獣医生命科学大学)の学生・箕輪政博が加わり1979年、造反医学を結成。バンド名は「造反有理って文化大革命だけど、中国の医者までが「造反」して今までの生き方を捨てたら、病人、けが人が死ぬだろ」(中田)という意味。1982年後半、音楽性の変化に伴いバンド名をILL BONEに改称。韓国・朝鮮語で日本・日本人を意味する일본(イルボン)と英語で「病んだ骨」のダブルミーニング。なお、メンバーに在日韓国・朝鮮人はいない。1986 – 1987年頃のバンド消滅後、中田はフリーライターに、箕輪は鍼灸学者に、石川は音楽活動を継続、石黒は消息不明。
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概要・来歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2015/07/23 23:34 UTC 版)
「ドレスデン・ドールズ」の記事における「概要・来歴」の解説
2006年10月31日(ハロウィン)の日、アマンダ・パーマーのホームパーティに、ブライアン・ヴィグリオーネが遊びに来ていたことをきっかけに結成。 ステージでは、息の合ったシアトリカルなパフォーマンスを披露している。
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概要・来歴
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2006年に愛媛県松山市で、当時ジャパハリネットのリーダーとして活動していた鹿島公行と地元松山で弾き語りシーンの代表的な活躍をしていた白石ひでのりを中心に結成。以前から交友のあった鹿島と白石が、スタジオに入り、音楽制作にさらなる可能性や楽しみも覚え活動の幅を広げていく。結成当時はドラム中岡りょういち(exジャパハリネット)サポートギター井上卓也(NORANGE)の4人で活動していた。2009年より東京に拠点をおき活動していたが2012年に解散。解散まで事務所、レーベルに所属せず独自の活動にこだわり続けた。2枚のアルバムを全国リリースした。同バンドの楽曲をアイドルグループひめキュンフルーツ缶がカバーし、「例えばのモンスター」はオリコンインディーズシングルチャート5位、「バズワード」はオリコン総合シングルチャートで34位を記録した。 ニッポリヒト解散後、白石ひでのりと林大輔は新バンドqusco(現在はバンド名をキミトサインに変更)を結成。2014年12月白石はひめキュンフルーツ缶 メジャー2ndアルバム「電撃プリンセス」(TKCA-74169)に収録されている。「君と描いた未来」を楽曲提供。2015年1月MAD MAGAZINE RECORDSよりキミトサイン1stマキシシングル「蛍光サイレン」(BJCD-48)全国リリース。2015年9月MAD MAGAZINE RECORDSよりキミトサイン2ndマキシシングル「覚醒ミライ」(BJCD-50)全国リリース決定。ひめキュンフルーツ缶メジャー6thシングル「覚醒ミライ」はキミトサインの「覚醒ミライ」と同タイトルコラボレーション、白石の提供作品である、ひめキュンフルーツ缶の「覚醒ミライ」はオリコン総合シングルチャートで24位を記録した。鹿島公行はアニメーション制作会社ufotableにて活動(鹿島ブログ)。2013年7月劇場版『Fate/ゼロカフェ』主題歌・音楽を担当。2014年5月から旅情報番組『おへんろ。~八十八歩記~』主題歌「千と二百の物語」の作詞・作曲を手がけた。2015年4月より南海放送ラジオにてアニラジ(毎週土曜日 19:30~20:00)に出演。2015年5月からは楽曲制作再開を発表し、「希行性の残羽」は2015年全国高校野球選手権愛媛大会テーマソング(愛媛朝日テレビ)に決定。2015年10月14日、8年ぶりにジャパハリネット再結成。
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概要・来歴
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1989年にヒロ川島、井上真紀のふたりを中心に結成。 ユニット名は、伝説のジャズマン チェット・ベイカーが、最晩年に組もうとし果たせなかったバンド名「Love Notes」に由来する。 スタンダード・ジャズを中心にボサノヴァ、フォークソング、ハワイアンなど幅広いジャンルを包括するサウンドとパフォーマンスを特色とする。 1999年から2000年にかけて、自ら企画・レギュラー出演したテレビ東京の10分番組「Jazz-Love Notes」では斬新でユニークなモノクロ映像と井上真紀のボーカルが放送された。その後、BS日テレにて「Jazz-Love Notes Premium」、「Jazz-Love Notes ⅡPacific」へとシリーズ化し、2009年1月1日には新春特番「ラブ・ノーツ in ハワイ」(原題「Island Magic」)が放映された。 WEBマガジン「JAZZ PAGE」の日本人ジャズ・ミュージシャン人気投票において、2003年度と2004年度の2年連続「コンボ部門」「アルバム・オブ・ジ・イヤー部門」で1位を獲得した。 オリジナル作品「All As One」は、国際イルカ・クジラ会議の公式テーマソングに、「The Day Out of Time」はニューエイジ思想家・オカルティストのホゼ・アグエイアスが考案したドリームスペル暦、別名「13の月の暦」の"時間をはずした日"の公式テーマソングになる。ひとのこころの在りかたをテーマとする一貫した精神性が注目され、国連主催の国際地球環境会議"リンケージ"にも招聘された。 長編映画「Little Tear ~ 蟻の涙」の主題歌に「ときをこえて」を、挿入歌として「Thru The Night」を提供。 NHK教育「趣味悠々~アロハフラ」へレギュラー出演・演奏し、井上真紀がフラの講師も兼ねていた。 2013年5月、新作CD「Love & Light」リリース。日本全国でライブツアーを行う。本作品では、ハロルド・ダンコ(piano)、ピーター・アースキン(drums)、トム・ウォリントン(bass)と共演している。 WEBマガジン「JAZZ PAGE」の2013年度人気投票において、「ベストボーカルアルバム」「コンボ/グループ」「女性シンガー」「ブラス」のノミネートされた4部門全てで1位を獲得した。
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概要・来歴
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2004年4月、マリリンが以前所属していたバンド、京阪GIRLが解散したのと同時期に、ミルキーが大学進学を理由にマリリンの居住する大阪府へ転居。それが切っ掛けとなりユニット結成に至ったとされる。「出会った瞬間に運命を感じた」と本人は語っている。 楽曲制作はミルキーが作詞、マリリンが作曲を担当するというスタンスで行う。 2006年10月にはドラマ「イヌゴエ」のタイアップを獲得。 その後もさまざまなタイアップを獲得し3枚のシングルと1枚のフルアルバムを発売し精力的に活動をする。 主催イベントの「DENKI SHOCK PARTY」ではエイプリルズやEelをゲストに迎えた。 2008年11月、MINAMIWHEEL2008でのステージを最後に活動休止。ミルキーは「Milky way」としてソロ活動を開始。マリリンは少年ナイフのベーシストとして正式メンバーとなる。
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概要・来歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/04/04 13:54 UTC 版)
F.I.R.とは、もともとはメンバーの頭文字を取って組み合わせたものであるが、「Fairyland in Reality」とのダブルミーニングとしている。 2004年にデビュー。台湾のTVドラマ「鬥魚」のエンドテーマ曲に起用された「Lydia」で脚光を浴び、同曲を含むデビューアルバム『F.I.R. 飛児楽団』が台湾や香港をはじめアジア圏内でヒット。2005年にはセカンドアルバム『無限』をリリース。2006年『飛行部落』、 2007年『愛·歌姫』と立て続けにリリースし、2009年にはニューアルバム『讓我們一起微笑吧』が満を持してのリリースとなった。
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概要・来歴
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バンド名の由来はアメリカ合衆国のブルース歌手サン・ハウス(英語版)の名前から取る。 アタックというバンドで演奏していた篠山が久留米のダンスホールに出演していた時、鮎川と知合う。アタックに鮎川も参加し、しばらくホールに出演演奏をするが、アタックはメンバーの音楽に対する意見の食違いにより解散。その後鮎川が中洲の美松というソシアルダンスホールでアルバイトを始める。その時のバンマス福間より制服のスーツを作れといわれ鮎川はそれがいやで篠山に交代を頼む事に、その事で篠山がそのバンドで演奏する事になった。しかし福間は篠山の演奏が気に入らず、その時博多駅前に新しく出来るダンスホール「ハニー・ビー」に新しくバンドを組んで出演するよう篠山に仕事を斡旋する。 篠山はやりたい音楽が出来ると鮎川を誘いメンバーをさがす、ボーカルは鮎川が少し前に知合っていた柴山(後の菊)を篠山に紹介、三人は博多の喫茶店で話合い、ブルースをやるバンドをやろうと話あった。 福岡県にてホールなどで歌っていた当時大学生の菊こと柴山俊之が、バンド結成のためオーディションを開催、ブルースギターを弾く久留米市から来た大学生、鮎川誠と出会い結成。 1975年、テイチクレコード/ブラックレーベルより1stアルバム『有頂天』にてメジャーデビュー、日比谷野外音楽堂にてデビューライブを行う。その後、ゴダイゴやcharと共に全国ツアーを回る。 3rdアルバム『ドライヴ・サンハウス』の発売と同日の1978年3月25日、解散を決定させる。解散後、柴山は作詞家としてシーナ&ザ・ロケッツやルースターズ、アクシデンツ、UP-BEATなど福岡県、北九州のバンドに詞を提供。鮎川は妻シーナと共にシーナ&ザ・ロケッツ結成。奈良敏博(Ba)、後期メンバー川嶋一秀、浅田孟(元THE MODSのメンバー)を従えて活動。 1982年、12月31日、新宿ロフトでの企画ライブに出演。柴山俊之(Vo)、鮎川誠(Gu)、花田裕之(Gu)、川嶋一秀(Dr)のメンバーで、サンハウス時代のナンバーをプレイした。尚、この時の映像は、非公式ながら1990年代に『PREVIOUS LIVE/SONHOUSE』として発売された(10曲収録・VHS)。 1983年、サンハウス再結成。右記4ヶ所でライブを行う。東京(6月18日 渋谷LIVE INN、9月23日 日比谷野外音楽堂)、福岡(8月7日 福岡Super Live '83 小戸公園)、仙台(8月11日 ロックンロールオリンピック)。メンバー:柴山俊之(Vo)、鮎川誠(Gu)、奈良敏博(Ba)、浦田賢一(Dr)。日比谷野外音楽堂でのプレイは、『CRAZY DIAMONDS〜ABSOLUTELY LIVE』というタイトルで、ライブ・アルバム(LP)とカセット・テープが同年11月25日にリリースされた。しかし、カセット・テープこそ全20曲の完全版であったが、LPは12曲の収録でしかなかった。1990年8月21日にビクターエンタテインメントから同タイトルのCDがリリースされるも、尺の関係か18曲の収録に留まり(「ロックン・ロールの真最中」「ミルク飲み人形」が未収録)、長くファン泣かせの音源となっていた。2008年8月20日、紙ジャケ仕様の2枚組CDがリリースされ、ようやくカセット・テープと同じ20曲を収録した完全版となった。尚、カセット・テープ、LPでは「ステディ・ドライバー・マン」の歌詞が数カ所、断片的にテープ逆回しで処理されているが、CDではその処理は行われていない。 2010年、3度目となる再結成を果たし結成35周年を記念して全国5箇所を回るツアーを行った。 2015年9月12日、サンハウス初期のメンバー、菊、鮎川、奈良、浦田の4人で、鮎川誠主謀のライブ「マディ・ウォーターズ生誕100年祝賀祭」のために再び結集する(イベントの出演は、シーナ&ザ・ロケッツ、サンハウス、永井”ホトケ”隆)。その際のライブ音源は2016年3月に『TIGER IN YOUR TANKーマディに捧ぐ』というタイトルでライブ盤としてCD(17曲収録)で発売された。また同年シーナ&ザ・ロケッツの38回目のバースデイを記念して博多に再結集。シーナ&ザ・ロケッツ、サンハウスの2バンドで11月28日福岡ドラムロゴスにてライブを行う。このライブの為にサンハウスの全盛期のメンバーで再集したサンハウスのリハーサルテープは40周年を記念して『サンハウス / HAKATA』としてCD化された。 2016年4月7日、「シーナの日」にシーナ&ザ・ロケッツ、サンハウス(菊、鮎川、奈良、篠山、鬼平)の2バンドで2デイズにてライブを行った。二日間のセットリストは、鮎川誠の運営するロケットウェブにアーカイブとして残されている。
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概要・来歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/04/14 09:03 UTC 版)
セカンドアルバムso are millions of usが第6回CDショップ大賞(2014年)地方賞、甲信越・北陸ブロックに選出された。イベント Magical Colors Night(MCN)[MCNサイト https://noidhp.wixsite.com/mcn-]を主催。
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概要・来歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/07 10:17 UTC 版)
2002年9月より高田馬場CLUB PHASEなど東京都内を中心にライブ活動を展開中。2007年5月には中国で初の海外ライブを成功させている。 eversetはハードロック・ラウドロック・エモ・プログレ・ポップス・HIPHOP・レゲエ・ラテン等、多様な音楽性を持つロックバンドである。多彩な音楽性でありながらも楽曲はメロディアスなボーカルラインであることも特徴である。 tatsuoはゴールデンボンバー・SINCREAなどの若手ビジュアル系バンドプロデュースも行っている。 2010年3月12日のワンマンライブをもって、充電期間と称しライブ活動を休止する予定であったが、東日本大震災の影響によりライブは6月に延期となる。協議の結果、被災者の支援を目的としたライブ活動をeversetとして行っていく事になった。 2018年現在活動休止中である。
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概要・来歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/27 05:19 UTC 版)
エイケンで『サザエさん』の文芸と脚本を務めたのちフリーとなる。師匠筋にあたる脚本家には鳥海尽三、首藤剛志、星山博之の3人がいるが、このうち明確に弟子入り、という形で脚本を学んだ相手は鳥海のみである。 代表作は『今日からマ王!』や『吟遊黙示録マイネリーベ』など、主に女性向け作品などを中心に活躍している。彼女のシリーズ構成作品で最長のものは、現在の所は『今日からマ王!』。また、この作品の原作者喬林知とは、お互いもめることもなく執筆できたという作品(通常は色々ともめることが多い)であり、監督である西村純二を言いくるめたりしたこともあるという。 また『新機動戦記ガンダムW』や『機動戦士ガンダムSEED』など、女性向けの傾向が強い「ガンダムシリーズ」においては、彼女の貢献が非常に大きいという証言は多い(ただし『機動戦士ガンダムSEED』では、シリーズ構成の両澤千晶との衝突により最初の1クールのみで降板している)。 『ポケットモンスター』シリーズには、歴代唯一の女性脚本家であった松井亜弥に続いて『BW編』から参加し、『XY編』ではヒロインのセレナがメインの回を多く担当した。
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概要・来歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/28 13:53 UTC 版)
「MAJI NA DAMU」の記事における「概要・来歴」の解説
1998年、ユニット結成。ユニット名の「MAJI NA DAMU」とは、スワヒリ語で「水と血」という意味。 2000年、OUT OF TUNEレーベルよりインディーズでシングルとミニアルバムをリリース。 2001年、BMGファンハウス(現・BMG JAPAN)よりメジャーデビュー。インディーズ時代はディスコサウンドを基調として活動していたが、メジャー移籍に伴いテクノ・トランス路線へ切り替えた。 2004年、メンバーのソロ活動開始のため活動終了。
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概要・来歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/29 09:00 UTC 版)
ヴィジュアル系バンドを紹介するテレビ朝日系のテレビ番組『Break Out』出身。 1998年7月1日に1stシングル「SkY」にて、日本コロムビアよりメジャーデビュー。ジョー・リノイエ主宰の音楽レーベル、JeRRyBeanからのデビューとなる。本作はテレビ朝日系『所さんのこれアリなんじゃないの!?』エンディングテーマと ABCテレビ『デジタルネバーランド』エンディングテーマのタイアップ曲として起用。また、カップリング曲の「FOLLOW THE WIND」は、新潟テレビ21『'98 夏の高校野球中継』テーマ曲としても起用された。 同年8月25日、日本武道館にて開催の「Break Out祭 '98 in 日本武道館」に出演。 同年9月23日、2ndシングル「WILL」リリース。同楽曲はテレビ朝日系『目撃!ドキュン』エンディングテーマに起用、カップリング収録されている「Waitin' For The Rain」は新潟日産のCMソングとなっている。 同年11月25日、3rdシングル「Rebirth」リリース。 1999年2月24日、4thシングル「ALONE」リリース。同楽曲はフジテレビ系『奇跡体験!アンビリバボー』エンディングテーマとして起用されており、カップリング収録されている「だから僕らは…」は2ndシングルのカップリング曲に引き続き、新潟日産のCMソングとなっている。 同年3月24日、メジャー1stアルバム「DEPARTURES」リリース。 同年9月18日、5thシングル「Dive into shine」リリース。本作はテレビアニメ『神風怪盗ジャンヌ』オープニングテーマに起用。初のアニメタイアップ作品となった。 2000年2月23日、6thシングル「SEEDS style2000」リリース。本作はテレビアニメ『マイアミ☆ガンズ』オープニングテーマに起用された。インディーズ時代にリリースされたシングル作品「SEEDS」がリアレンジされた楽曲となっている。 同年12月20日、ミニアルバム「-R-」リリース。本作はメジャーを離れ、自主制作でのリリース作品となる。 2001年5月3日、解散。 2012年1月7日、新潟CLUB RIVERSTで開催の東日本大震災復興支援チャリティーライブ「Sailing to the NEW WORLD」にて復活。 当時のヴィジュアルシーンの中では珍しく、メロディと歌唱力が評価されデビューが決まった。ボーカル石山竜市の魅力については、『Break Out』の番組中でプロデューサーであるジョー・リノイエが熱く語っている。そしてプロデューサーが二人つくという異例のPMは当時TV番組などでも大きく取り上げられた。
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概要・来歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2015/07/23 00:51 UTC 版)
「Crescendo Time Lover」の記事における「概要・来歴」の解説
2007年 FMひらかた、K-cat主催 「Music Battle Vol.1」にて審査員特別賞を受賞。
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概要・来歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/09 15:05 UTC 版)
2011年9月5日、かつて本家アニメタルが在籍していたソニー・ミュージック・エンタテインメントより公式ウェブサイトが開設。元LOUDNESS~イングヴェイ・マルムスティーン等のバンドで活躍したマイク・ヴェセーラ、インペリテリのクリス・インペリテリ、クワイエット・ライオット、オジー・オズボーン、ホワイトスネイクなどで活躍し、3Dアニメーターでもあるルディ・サーゾ、レーサーXやジューダス・プリーストのドラマーであるスコット・トラヴィスの4人で結成したことを発表した。しかし、スコットはレコーディングに参加したものの、ジューダス・プリーストのツアーで多忙であった為に脱退し、後任は元テスタメント、スレイヤーのジョン・デッテが選ばれた。編曲にマーティ・フリードマンが参加している。 主に日本での活動が中心で、ニコニコ生放送やテレビ番組の出演2011年の初来日時には応援団長に就任した水木一郎と共演。LOUD PARK2011ではアニメタルUSAの演奏中にももいろクローバーZが飛び入り出演した事もあり、ヘヴィメタルバンドとしてはワイドショーなどのメディアで取り上げられる事が比較的多かった。 また、アニメタルUSA結成以降、マイクの日本語での表記が「マイク・ヴェッセーラ」とメディアで表記される事が多くなった。 アニメタルUSAとしての初来日時にマイクが影山ヒロノブと対談、マイク(LOUDNESS)と影山(LAZY)が高崎晃と樋口宗孝とバンド活動していた事とアニメソングの魅力を伝える活動をしていると言う共通点により意気投合。2012年4月には影山とのコラボレーションシングル「Give Lee Give Lee ロック・リー」がリリース。6月からは影山が在籍するJAM Projectと共にジョイントツアー『アニメタルUSA×JAM Project「日米ANI-SONサミット」JAPAN TOUR 2012』が行われた、。 2012年6月26日に1stアルバム『アニメタルUSA』が全米で発売、29日には北米最大のアニメイベント「アニメEXPO」に出演。 2014年、『烈車戦隊トッキュウジャー』の挿入歌「線路はつづくよどこまでも」に演奏で参加(ボーカルは鎌田章吾)。
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概要・来歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/07 00:29 UTC 版)
1998年、仙台にて東北大学の学生だった三上ちさ子(現・三上ちさこ)、高橋誠二、平塚学、佐々木康治の4人によって結成されたエモコア・バンド。 2000年5月24日、トイズファクトリーよりマキシシングル「月と砂漠」でメジャーデビュー。以後、6枚のシングルと2枚のアルバムをリリースし仙台に在住しながら精力的な活動を続けていたが、2003年に三上の結婚・出産をきっかけに活動休止となる。その後も単発的にライブを行っていたが、2005年5月14日のライブをもってバンドは解散した。その後はそれぞれのソロプロジェクトで活動している。 2010年4月24日、バンドの拠点である宮城県仙台市の輪王寺で開催されたイベント“アースディ2010”におけるキャンドルナイトコンサートに、オリジナル・ドラマーを欠いた編成のFRA+(フラプラス)としてトリで出演した。ドラムはギターの高橋がfra-foa後に活動したN.E.S.の盟友:瀬野尾達也。 バンド名は浮遊感のある語感から来たもので特に意味はない。
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概要・来歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/10 09:13 UTC 版)
「MOMO"mocha"N.」の記事における「概要・来歴」の解説
2009年より多数のアーティストに詞曲を提供する。 シンガーとして2009年12月2日iTunes music store限定で「mochA presented by electreet」をリリース 2010年4月28日アルバム「WARNING」リリース 2011年2月2日配信シングル「TAG」リリース
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概要・来歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/26 06:31 UTC 版)
ユニット名は藤井フミヤと尚之の二人が福岡県久留米市出身の実の兄弟であることから「藤井家の血」という意味を以て名付けられた。1983年から1992年までチェッカーズのメンバーとして共に活動し、グループ解散後はそれぞれソロ活動を行なっている。1995年12月27日、マリンメッセ福岡にて「F-BLOOD」と題した一夜限りの兄弟ジョイントライブを開催。1997年9月、正式にユニットとして結成。 兄の藤井フミヤが作詞、弟の藤井尚之が作曲をそれぞれ担当する。兄弟ならではのグルーブ感とハモリが特徴的である。 ソロ活動の傍らで行なっているユニットのため活動は不定期である。どちらかが死ぬまで解散はないと明言している。 2017年、結成20周年。同年3月30日と5月24日、新曲を2曲発表、同年6月21日に9年振りのオリジナル・アルバム『POP'N'ROLL』をリリース。全国ライブハウスツアーを行なった。 2020年3月30日、同年4月8日発売アルバム『Positive』に伴うライブ・ツアー「F-BLOOD LIVE TOUR 2020」の中止を発表。これは前年2019年より猛威を振るっている2019新型コロナウイルスによる感染拡大の状況を受け(「日本における2019年コロナウイルス感染症の流行状況」、「新型コロナウイルス感染症の流行 (2019年-)」、「2019年コロナウイルス感染症による社会・経済的影響」、新型インフルエンザ等対策特別措置法に基づく休業参照)、来場者の健康・安全を最優先に判断、クラスターを発生させないための決定である。同年4月10日、フミヤの公式YouTubeチャンネルにて「F-BLOOD YouTube スペシャルプログラム」と題し、アコースティックライブ&トークを配信。5月には4週に渡り「リモートライブ2020」と銘打ち、「F-BLOOD LIVE TOUR 2020」で披露される筈であったセットリストの一部を配信。同年7月3日、同年7月11日に「〜夜だ!生です F-BLOOD〜」と銘打つ有料配信ライブを行なうことを発表。
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概要・来歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/27 09:56 UTC 版)
ワタナベコメディスクール7期出身。 NSC時代から同期のインポッシブルと仲が良い。 うえだのまさゆきはディズニー好きの仲間(芸人など)と一緒に夢の国大好き芸人のトークライブ「ドリームライブ」を不定期で開催している。 ツートンカラー2人のトークライブ「ペラペーラペラペ」も2ヶ月に一度開催した。 2018年8月解散、土橋は構成作家。上田は「うえだのまさゆき(うえちゃん)」に改名しピン芸人になる。 2020年3月、上田がワタナベエンターテインメントを退所し、フリーを経てホリプロコムに移籍。 M-1グランプリ2021では川元文太(ダブルブッキング)とのユニット「タテジマフクロウ」として出場し、3回戦進出。
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概要・来歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/27 14:10 UTC 版)
「New Cinema 蜥蜴」の記事における「概要・来歴」の解説
メンバーは、舩木基有、岩井勇一郎、車谷啓介、脇田啓行、および脱退した川越英樹からなる。 1997年、大阪で舩木と岩井により活動開始、翌年に川越と車谷が加入。 1998年10月20日にインディーズEP『360°』でインディーズデビュー。1999年1月27日にインディーズ1stミニアルバム『Smashing the bad!』を発売。尚、ここに収録されている「Smashing the good! smashing the bad!」は、English Versionである。 2月10日にシングル『Smashing the good! smashing the bad!』(8cmCD・12cmCD同時リリース)でGIZA studioよりメジャーデビュー。その後10月6日にメジャー1stアルバム『Rail』発売。それに伴い11月28日には初めてとなるワンマンライブ『Rail〜線路は続くよどこまでも〜』敢行。 2000年4月、川越が音楽性の相違により正式脱退。 4月24日、初の全国ツアー(全14ヶ所)開始。 6月、新たなベーシストとして元GRASS ARC.の脇田が加入。 2002年8月、解散。 解散後、舩木はビーイング離脱後、東京でソロユニット「誇空」として、岩井と車谷は、三枝夕夏 IN dbのメンバーとして活動していたが、現在は両バンド共に活動を終了している。車谷はさらにその後Sensationで活動しているが、岩井と舩木は音楽活動自体も継続中かは不明であり、岩井はビーイングを離脱したようである。脇田は、ロックバンドELFのベーシストとして活動後、バックミュージシャンとして音楽活動を継続。既に脱退していた川越は音楽ライターとして活動。解散後は車谷を除き全員、活動しているかは不明であったが2019年から岩井がギタリストとしてGIZAでの活動を再開している。
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概要・来歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/02 22:56 UTC 版)
「Spangle call Lilli line」の記事における「概要・来歴」の解説
1998年に美術大学時代の友人だった大坪加奈と藤枝憲でバンドを結成。後に同じく大学時代の友人だった笹原清明と椛沢信之が加入し、バンド名を「Spangle call Lilli Line」とする。 大坪によると、名称は語呂を重視して長い名前で、キラキラした感じの『スパンコール〜』と考えたが、スパンコールは英語でspangleなので『コール』を続けたという。 Spangle call Lilli lineと並行して、2009年からは大坪がソロプロジェクト「NINI TOUNUMA」、笹原と藤枝は「点と線」というユニットで活動している。 「メンバー全員が、デザイナーやカメラマンの仕事を持ちながら」、音楽は「趣味とさえ言い切る」。
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概要・来歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 06:11 UTC 版)
2019年にお笑い養成所ワタナベコメディスクール(通称、WCS)の同期として出会う。 コンビ結成前に互いを相方候補とした上でご飯に行ったが、酔っ払った同席者が杉本に手を出しそうになった。この時に福島が冗談を交えて仲裁をしたことが、コンビを結成する決定打となった。 結成当初のコンビ名は「福島杉本」。正式決定までの仮名としていたが、当時の養成所ライブでの評価は優れなかった。その後、中目黒の本屋で見つけた、365日に関する豆知識の本でそれぞれの誕生日のページに書かれていた、「水星」と「バロック調」から「彗星バロック」としたことがコンビ名の由来である。 2022年6月15日に解散を発表。
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概要・来歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/19 07:23 UTC 版)
「ストレイ・ドッグ (バンド)」の記事における「概要・来歴」の解説
エマーソン・レイク・アンド・パーマーのアメリカ公演ツアーの前座を務めたことがきっかけで、グレッグ・レイクの誘いに応じて活動の場をロンドンへ移した。1973年にマンティコア・レーベルと契約し、アルバム『ストレイ・ドッグ I』をリリース、同年のエマーソン・レイク・アンド・パーマーのヨーロッパ・ツアーにも前座として同行している。ただし基本的にハード・ロックのギター・トリオで、エマーソン・レイク・アンド・パーマーとの直接的な音楽的共通点はあまり感じられない。2ndアルバム発表時にキーボードとボーカルを加え、5人編成のファンク系バンドに転身したが程なく解散している。
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概要・来歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 04:33 UTC 版)
著者は19世紀前半のドイツ人オカルティストであるフリードリヒ・ヴィルヘルム・フォン・ユンツト(Friedrich Wilhelm von Junzt, 1795年-1840年)。彼が生涯をかけて世界中を巡って見聞したオカルト研究の集大成。 ハワード設定:ハンガリーのシュトレゴイカバール村の「黒の碑」や、ホンジュラス密林の「蟇蛙の神殿」、ブラン・マク・モーン崇拝についての記述がある。 ラヴクラフト設定:ムー大陸の邪神ガタノトーアについての記述がある。 フォン・ユンツトは出版直後に旅に出て翌年帰国した直後に、密室で怪死している。製本されなかった未発表の草稿があり、友人のアレクシス・ラドーが読んだが、ラドーは即これを焼却しカミソリで喉をかき切って自殺する。 本書には三つの版が存在するとされる。 ドイツ語の初版(無削除版・黒の書):1839年にデュッセルドルフで刊行されたクォート判(四つ折り版)の本。黒革に鉄の鉄の留め金という装丁。発行部数が少なかったこと、出版後ただちに発禁処分とされたこと、著者ユンツト怪死の噂に恐怖した購入者達が軒並み破棄したことで、残存部数は非常に少ない。 第二の版:1845年にロンドンのブライドウェル社から出版された英訳の海賊版。初版と同じく、出版されてすぐに発禁処分となっている。翻訳者不明だが誤訳が多いとされ、多くのグロテスクな木版画が収められている。初版よりは多く残存している。 第三の版:1909年にニューヨークのゴールデン・ゴブリン・プレス社(金の鬼社)から出版された英訳の削除版。削除版ということで、内容が減っている。装丁だけはゴージャスな一般書籍。 初版(黒の書)の状況が何冊か判明している。『黒の碑』と『屋根の上に』の登場人物が所持し、2冊。エイモス・タトルが所持し死後寄贈された(ハスターの帰還)1冊をミスカトニック大学付属図書館が収蔵し、また同図書館は複数冊収蔵する模様。 「エイボンの書」をアブドゥル・アルハザードが読み、アルハザードが「アル・アジフ(ネクロノミコン)」を書き、「ネクロノミコン」をフォン・ユンツトが読み、フォン・ユンツトが「無名祭祀書」を書いた、らしいことが言及されている。 1839年刊行という設定は、(1920-30年代を舞台とするクトゥルフ神話の作中時を踏まえると)禁断の書物の中では100年にも満たない新しいもの。さらに1931年に刊行されたジェームズ・チャーチワードの『失われたムー大陸』よりも遥かに先駆けてムー大陸に言及していた、という設定になっている。 日本人作家の朝松健の設定では、火の邪神クトゥグアについての記述があるとされる。
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概要 来歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2015/11/06 13:34 UTC 版)
2005年、遠藤、吉田、タクローにより結成。当初は神奈川を中心にライブ活動を行っていたが新宿へと拠点を移す。ナッパの家族(2010年2月解散)などと『新宿の音楽シーンをつくる』を合言葉にライブを続ける。ボーカル遠藤の高校時代の先輩である北島康雄がボーカルを務める四星球とも交流が深く、遠藤の地元徳島での初凱旋ライブは、北島康雄企画として2007年11月に行われた。 尚、独立リーグの野球選手との交流も多く、中でも富山サンダーバーズとは縁が深い。最初に入場曲としてテンションパーマの曲を使ったのが富山サンダーバーズの生出投手。『それが人生』を2007年に使用したことに感銘を受けた遠藤がオリジナルの『日本海に咲く花』を製作。2008年~2009年に使用された。その縁で富山サンダーバーズ主催の試合前に球場ライブを務めた。2008年8月、となみチューリップスタジアム、2009年8月、アルペンスタジアム、2010年8月城光寺野球場。また、遠藤の地元徳島インディゴソックスの2選手との交流もあり、2008年8月、あなんアグリスタジアム、2009年8月、鳴門ポカリスエットスタジアムにて球場ライブ開催。 また、『日本海に咲く花』は四国放送サービス『エクスペリエンスギフト』のCM曲として2008年4月~2009年5月まで使用された。2009年5月~2011年までは、同CMに『空は青』が使用された。同CMにはボーカル遠藤も出演していた。 2010年12月31日 タクローが脱退。 2011年7月18日 國定が新メンバーとして加入。 2012年1月 吉田の家庭事情により3月10日のライブを最後に活動休止を発表。以後、遠藤の弾き語りライブは各地で行われていた。 2013年10月14日 ホームページにて解散を発表。 2014年1月26日 最後の活動として鳴門D-BOXにて遠藤と國定の二人でライブを行った。
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