ミュージシャンとしての活動とは? わかりやすく解説

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ミュージシャンとしての活動

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/08 08:22 UTC 版)

スクリーミング・ロード・サッチ」の記事における「ミュージシャンとしての活動」の解説

1950年代後半アメリカロックンロール影響受けて音楽活動開始し1960年頃にはスクリーミング・ロード・サッチ&ザ・サヴェイジズを結成した。自らの芸名アメリカR&B歌手スクリーミング・ジェイ・ホーキンスを基にしている。なお、ロードイギリス伯爵呼び名であるが、普段シルクハットトレードマークにしていたことから、同じくシルクハット被っていた当時コミック雑誌キャラクターLORD SNOOKY」をイメージして用いたといわれている。「LORD SUTCH THE 5TH EARL OF HARROWサッチ卿・第5代ハーロウ伯爵ハーロウロンドン近隣地名)」と名乗ることもあった(文献によっては「3RD EARL」と名乗ったという記録もある)。 背中にかかる長髪なびかせながら、ステージでは豹の毛皮着て頭に2本の大きな角をつけた「ボルネオ獣人」や、シルクハット黒マントをはおり医療カバンナイフ持ちながら唄うジャック・ザ・リッパー」または「吸血鬼」の扮装棺桶から登場するという、ホラー演出評判呼んだ1961年EMIより「ティル・ザ・フォローイング・ナイト」でレコードデビュー(2本の角のあるモンスター主人公のホラーロック)。プロデューサーはジョー・ミークが務めた。続く2枚目のシングルとして「ジャック・ザ・リッパー」(19世紀実在したイギリス正体不明殺人鬼テーマ)を発表。レコードプロモーションとしてコイン入れてレコード映画フィルム見られる「ビデオジュークボックス」が用いられた(フィルムジャック・ザ・リッパー扮しサッチ若い女性を襲うホラー映画のような内容であった)。 その後も「ドラキュラズ・ドーター」、「パープル・ピープル・イーター」(アメリカでヒットした曲(邦題ロックを踊る宇宙人」)のカバー)、「モンスター・イン・ブラック・タイツ」(ヨーロッパでヒットしたヴィーナス・イン・ブルージーンズ」のパロディ)など、ホラータッチのノヴェルティソングとでもいうべきシングルいずれも題名おどろおどろしい軽快ロックンロール調の曲)を発表レコードはさほどヒットしなかったものの、ビートルズ・デビュー前の時点で、イギリスで最も稼いでいたライブ・バンドとされている。オリジナル曲以外はロックンロールR&Bスタンダード演奏し、「アイム・ア・ホッグ・フォー・ユー」(リーバー&ストーラー作品)、「ハニー・ハッシュ」(ジョー・ターナーヒット曲)、「トレイン・ケプト・ローリング」(ジョニー・バーネットの曲で後に同時期のヤードバーズカバー曲として有名)などのシングル発表したサッチは自らをロックンロール唄うヴォードビリアン芸人)として位置づけており、ブリティッシュ・ビートからブルースロックへとイギリスロック変化する中でも、相変わらずロックンロールのみを演奏し続けるなど音楽的な評価は低いものであった。しかし、ステージ重視観点から、バンドメンバーを選ぶ能力には優れており、著名なところではリッチー・ブラックモアディープ・パープル)、ジミー・ペイジレッド・ツェッペリン)、ジェフ・ベックヤードバーズ)、マシュー・フィッシャープロコル・ハルム)、ノエル・レディングエクスペリエンス)、ニッキー・ホプキンスなどがサヴェイジズのメンバーとしてステージ立っている。特にリッチー・ブラックモアサッチからこの時にステージングプロ意識叩き込まれたといわれている。1960年代にはレコードセールスは振るわなかったものの、有名になった元メンバー集めて1970年アルバム『ロード・サッチ・アンド・ヘヴィ・フレンズ』を発表ハードロック的な演奏に、サッチボーカルマッチしているとはいえず、収録曲ロックンロール改作や、過去デモテープ使ったものであったが、レッド・ツェッペリン結成直前ジミー・ペイジジョン・ボーナム参加や、ジェフ・ベックギターを弾く曲が収録されたことで、スーパーセッション的なアルバムとして捉えられイギリスアメリカでスマッシュ・ヒットとなった。この時のアルバム・ジャケットでは、ユニオンジャックペイントされたロールス・ロイスとともに派手な貴族衣装着たサッチ写真使われた。このアルバムジャケットイメージにより、アメリカ日本ではサッチ本物貴族階級出身者であるとの誤解生むこととなったイギリスでは当初よりジョーク認識されていたと思われる)。 このアルバムヒット受けて1971年には同名義でライブ・アルバム『ハンズ・オブ・ジャック・ザ・リッパー』を発表今回リッチー・ブラックモアノエル・レディングキース・ムーンザ・フー)が参加サッチ本来の持ち味であるロックンロールカバー中心で、オリジナル曲改作した演劇的な長尺の「ハンズ・オブ・ジャック・ザ・リッパー」を収録している。1972年にはイギリスウェンブリー・スタジアム開催されたロックンロール・リバイバル・ショウに、1960年代初期人気シンガーハインツ(元トーネイドスのベーシストとともにイギリス代表として出演したアメリカからはビル・ヘイリーチャック・ベリーボ・ディドリーリトル・リチャードジェリー・リー・ルイスという伝説的なロックンローラー出演)。前宣伝として、サッチは髪を緑色染め下着姿の女性陣とともにロンドンパレード行い警察沙汰となっている。ショウでは、同じく下着姿の女性担がれた白い入り葬送行進曲乗って登場し背丈ほどもある銀色シルクハット被りデビュー曲の「ティル・ザ・フォローイング・ナイト」と「ハンズ・オブ・ジャック・ザ・リッパー」を披露したサッチ当時アメリカロック・スターであるアリス・クーパーを、スタイル真似たとして訴えていたが、スタジアムでの「ハンズ・オブ・ジャック・ザ・リッパー」演奏時にロサンジェルスから招いたという「アリス・クーパーと言う名前のストリッパー登場させ、舞台でストリップショウ演じさせている(記録映画「ロンドン・ロックンロール・ショウ」で見ることができる)。 1980年代から1990年代かけてもロック&ホラー』『マーダー・イン・ザ・グレイブ・ヤード』『ライブ・マニフェスト』などのアルバムや「ルーニー・ロック」「ロンドン・ロッカー」「ミッドナイト・マン」「ナンバー・テン・オア・バスト」などのシングル発表。また1960年代シングル曲集めたコンピレーション・アルバム1990年代イギリスEMIより発売されている。ライブ活動継続していた(セックス・ピストルズのデビュー・ライブはサッチ前座としてである)。

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ミュージシャンとしての活動

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/26 05:38 UTC 版)

バーニー・トーピン」の記事における「ミュージシャンとしての活動」の解説

ソロ作品 1971 – Taupin 1980 – He Who Rides the Tiger 1987Tribe ファーム・ドッグス 1996Last Stand in Open Country 1998Immigrant Sons 1971年、トーピンは自身の名前を冠した朗読アルバム発表した。このアルバムは、デイヴィー・ジョンストンやカレブ・クェイなど、エルトンバンドメンバーらが即興シタール多用した音楽演奏し、これをバック初期書いた詩を読み上げるというものであるA面収録の「Child」は、彼がリンカンシャー南部過ごした幼少期についての詩となっており、このうち一節The Greatest Discovery」は、兄トニー視点からトーピンの誕生描いた内容で、エルトンによる曲がつけられヴァージョンは、エルトンセカンドアルバム僕の歌は君の歌』で聴くことができる。また、幼少期住んだ2軒の家や、兄弟祖父との関係についても語られている。B面は、マリオネット自伝や、獲物犠牲となったねずみ獲りの話など多岐に及ぶ。ただし、インタビューではこのアルバムの内容満足していないと述べている。 1980年歌手としては初めてとなるアルバム『ヒー・フー・ライズ・ザ・タイガー』を発表した。このアルバムチャートインには至らず、トーピンは後のインタビューで、望んでたようなクリエイティブコントロールができなかったと述べている。1987年には、マーティン・ペイジとの共作トライブ』をリリースしたシングルとして「Citizen Jane」と「Friend of the Flag」がリリースされミュージックビデオには当時の妻の姉妹であるレネ・ルッソ出演している。 1996年には、ファーム・ドッグスというバンド結成したリリースされ2枚アルバムは、『エルトン・ジョン3』の頃の土臭いサウンドへの回帰意識しており、作詞はトーピンが担当作曲バンドメンバーとの共作となっている。ファーストアルバム『ラスト・スタンド・イン・オープン・カントリー』は、批評家からは高い評価受けたものの、ラジオ等ではほとんど流されることはなかった。表題曲は、ウィリー・ネルソンキッド・ロック2002年アルバム『ザ・グレート・ディバイド』でカバーしている。1998年には、セカンドアルバム『イミグラント・サンズ』をリリースした。このアルバム伴ってアメリカ小さなクラブをまわるツアーが行われたが、商業的に成功しなかった。

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ミュージシャンとしての活動

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/11/16 00:48 UTC 版)

THE CRAZY SKB」の記事における「ミュージシャンとしての活動」の解説

1982年中学時代最初バンド恐悪狂人団結成する当初ベース担当だった。1983年殺害塩化ビニール前身となるインディーズレーベル「人つ目レーベル」を設立し社長に就任する1994年メジャーデビュー寸前解散したバンドハイテクノロジー・スーサイドの主要メンバーQP-CRAZY結成するライブハウス爆竹炸裂させる、客席向けて火を放つステージ上で爆竹ボードの上背中から受け身を取るなどの過激なパフォーマンスを行う。

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ミュージシャンとしての活動

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 08:32 UTC 版)

小錦八十吉 (6代)」の記事における「ミュージシャンとしての活動」の解説

2000年3月デビューアルバムの『KMS』を発表。このタイトルは「King Master of Sumo」から名づけられている。このアルバムではR&Bヒップホップスタイル則っており、歌詞全曲英語である。アメリカクリーヴランド本拠地とするラップグループ、ボーン・サグズン・ハーモニーen:Bone Thugs n Harmony)のメンバー、レイジー・ボーン(Layzie Bone)を迎えた楽曲「リビン・ライク・キングス」、下町兄弟による楽曲Sumo Gangsta」ではラップ披露している。 2002年3月公開され映画『ドラえもん のび太とロボット王国』エンディングテーマいっしょに歩こうWalking Into Sunshine〜」と挿入歌ひとりじゃないI'll Be There〜」(こちらは「KONISHIKI with 新山千春名義)を担当した2002年7月サザンオールスターズベーシスト関口和之と共に関口和之 featuring KONISHIKI名義マキシシングル私の青空MY BLUE HEAVEN〜』を発売スタンダード・ナンバーカヴァーで、関口ウクレレを、KONISHIKIヴォーカル担当また、2003年のアニメ『星のカービィ』後期エンディングテーマに「カービィステップ!」が起用された。 2010年5月26日小錦八十吉名義で『ドスコイ・ダンシング』を発売。曲自体1985年頃の現役力士時代作ったものであったが、相撲専念するためお蔵入りになっていたという。

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