フリーとして
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/26 03:48 UTC 版)
フリーになった後は、映画、ミステリ、テレビなどの評論の執筆や『九ちゃん!』『植木等ショー』などテレビバラエティ番組の構成作家業のかたわら純文学を発表するようになり、1964年に中原弓彦名義で処女長篇『虚栄の市』を河出書房から刊行(なお、前年の1963年に校倉書房から初の著書である喜劇映画論『喜劇の王様たち』を刊行しているが、刊行本の半分を取次が受け取らない事態になり、また出版社からの印税も出ず「代わりに本で」と言われ途方に暮れていた)。 『虚栄の市』は好評ではあったが、「コミック・ノベル」自体が当時の日本の文壇には受け入れられず、十分な理解を得られなかった。そのため小林は「私小説的な、個人的体験を書けばよいのか」と考え、学童集団疎開時の陰惨な体験を描いた第二作『冬の神話』を1966年11月に上梓。だが今度は「あまりに暗すぎる」と言われ、不評であった。なおこの作品から本名(小林信彦)で発表するようになった。 のちに『地獄の読書録』にまとめられるような、膨大な書評をこなしたが、SFでは小松左京や筒井康隆の才能を、逸早く発見。また、アリステア・マクリーンやギャビン・ライアルが冒険小説の第一人者になることを予言した。また、山田風太郎の忍法帖も繰りかえし高評価した。 1969年10月以降はテレビの仕事が途絶えたため、小説の執筆に専念。その後『オヨヨ』シリーズや『唐獅子』シリーズなどのパロディ性に富んだエンターテインメント作品、『神野推理』シリーズや『紳士同盟』シリーズなどのミステリ系の作品等を執筆。並行して長編『夢の砦』、連作短編『家族漂流 東京・横浜二都物語』としてまとめられた自伝的要素の強い純文学作品を発表。たびたび直木賞・芥川賞候補にノミネートされた。しかし放送作家としてのキャリアが災いして、選考委員たちから「新人の資格がない」「テレビの世界で金を稼いでいるのは不純」との反対を受けて受賞を逸した。その事情は文壇諷刺的作品『悪魔の下回り』に反映されている。 自らの文学観が日本の文学界とあまりに違うことに業を煮やし、夏目漱石にはじまりジョセフ・ヘラー、フレドリック・ブラウンなど「笑いの文学」や白井喬二の『富士に立つ影』などを論じた、文学論『小説世界のロビンソン』を1989年に刊行した。『吾輩は猫である』は、落語の知識がないとギャグが楽しめないことを指摘。また文芸評論家の常套句「人間が描けていない」に対抗し、「フラット・キャラクター」という、ディケンズの小説に登場するような「典型的なキャラクター」の有効性も提示した。 連作エッセイ集『パパは神様じゃない』『つむじまがりの世界地図』や「W・C・フラナガンによるエッセイ」等は、浅倉久志によって「ユーモア・スケッチ」と名づけられた、かつてアメリカで人気を博した「生真面目な文体で、馬鹿馬鹿しいことを記す」内容で、日本人作家には他に追随例がほとんどないユニークなものである。 1970年代、晶文社から高平哲郎編集による「バラエティ・ブック」と称するコラム集を何冊も刊行。これは、当時のサブカルチャー愛好者に大きな影響を与え、のちに小西康陽『これは恋ではない』(幻冬舎、編集者:高畑圭)、安田謙一『ピントがボケる音』(国書刊行会、編集者:樽本周馬)、亀和田武『雑誌に育てられた少年』(左右社)など、その様式を真似た「リスペクト本」を生んだ。 1986年、「戦前の下町アメリカニズム」と「戦争を楽しんでしまう日本人」を描いた、自伝的かつ〈笑いの文学〉の集大成的作品『ぼくたちの好きな戦争』で「小説家・小林信彦・第一期終了」を宣言。 以降の小説では、〈笑いの文学〉を封印し、現在・過去の時代風俗を丹念に描いた作品(業界小説や、タイムトラベル物、自伝的な作品)や谷崎潤一郎を意識したフェティシズム的な作品、パトリシア・ハイスミスの影響を受けた「異常者が日常に入り込んでくる」小説などを発表。 だが「小説家・第二期」は、最初の2作(『極東セレナーデ』『世間知らず』)は好評であったが、以降の作品は第一期の作品と比べて特筆して優れているとは言い難いとの批判もある(ただし、小林自身も『マニアックな読者ばかりいて「カルト作家」とよばれるのは、決してありがたいことではない。読者は同じような作品を求めるが、自分の作家的必然性から、作風を変えざるを得ない。失望して離れていく読者も出るだろう』と語っている)。特に1993年の『怪物がめざめる夜』は、主人公である悪役の設定が凡庸であるとの批判があった。また、塩山芳明のように小林のコラムを高く評価しつつ小説は一切認めないとする者もいる。 一方、『世界の喜劇人』や『日本の喜劇人』などで初めて喜劇を本格的な評論の対象に採りあげた。『世界の喜劇人』の原型となった「喜劇映画の衰退」は、1961年に『映画評論』誌に掲載され、イデオロギー批評が全盛の当時に突如出現した異色の評論として多くの人々に衝撃を与えた。その後も『天才伝説 横山やすし』、『おかしな男 渥美清』、『植木等と藤山寛美』など喜劇役者の評伝を執筆し、高く評価されている。 これらの評論は、小林のポリシーとして間接的な資料類に頼らず、「できる限り、自分自身が体験したり、自分の目で見聞きしたものから」論じられている。個人的体験から普遍性を導くという稀有な傑作となっている。また、背広を着た立川談志のピンでのトークや漫談時代の明石家さんまのトークが「アメリカのスタンダップ・コミック芸」にあたることや、『ビートたけしのオールナイトニッポン』での村田英雄をからかう企画が「キャンプ・ユーモア」であることを指摘するなど、「笑いの本場」であるアメリカの芸能との比較も行っている。 映画評論についても、双葉十三郎に私淑して『映画評論』誌を中心に1960年代から盛んに行い、マルクス兄弟再評価や「日活無国籍アクション映画」を同時代から既に評価。映画作家としてのクリント・イーストウッドを一貫して支持している。映画評論が本業ではないが、豊富な鑑賞経験から「確かな映画見巧者」として多数の映画ファンの信頼を得ている。 1960年代を「テレビの黄金時代」と呼び、それ以降はテレビ番組はほとんど見なくなったが、1980年代の深夜番組『オールナイトフジ』をいち早く評価するなど、アンテナは鋭く張っていた。『オールナイトフジ』については、蓮實重彦編集の映画研究雑誌『リュミエール』創刊号で、「アイドル伊代ちゃんの暴力性」という松本伊代を称える文章を書いている。 また『私説東京繁昌記』、『私説東京放浪記』などの東京を題材としたエッセイも、小林の個人的体験をもとに東京の歴史的な地層を解き明かす内容で、小林の東京に対する強いこだわりが感じられる。なかでも、小林がこだわっていた生地「西両国」については、『和菓子屋の息子』(1996年)『日本橋バビロン』(2007年)において、当時の地図を再現までして詳しく描写した。なお、小林は1964年東京オリンピック前の東京の無計画な開発については歴史的な愚行として再三激しい怒りと批判を表明しており、オリンピック開催中は東京の喧騒を嫌がり関西に滞在していた。 美空ひばりの死去の直後には、非常に批判色の濃い文章を発表。以前から抱いていた、著名人死去の際に賛辞一色で埋め尽くされるマスコミの軽躁への苦々しい思いによるものであるが、日本的慣習に反する行為でもあり話題を呼んだ。小林は元々ひばり批判派の急先鋒であった服部良一の仕事を高く評価する立場でもあり、歌手としての資質は認めつつもその業績には批判的であった。 1991年から1992年にかけて松村雄策とビートルズ論争を行った。 かつては政治的発言をあまりしないタイプの作家だったが、近年の連載エッセイでは、原発や自民党への激しい批判が繰り返されている。 2002年、第11回Bunkamuraドゥマゴ文学賞選考委員として、堀川弘通『評伝 黒澤明』(毎日新聞社)に授賞。 2005年の総選挙後、小林は週刊文春で小泉純一郎を以下のように評した。 小泉首相を評して、ナルシシズムとサディズムのかたまりという批判がある。それはその通りなのだが、要するに<幼児性>の発露ではないか。鏡を眺めて、おのれの姿にウットリする。ホメられると喜ぶが、少しでもケナされると、ネチネチ恨む。弱い者を徹底的にいじめ抜く。これが幼児性。 — 小林信彦、「本音を申せば」『週刊文春』2005年11月3日号 また近年の作品『東京少年』(2005年)、『日本橋バビロン』(2007年)、『流される』(2011年)を「自伝的三部作」とする。 2017年4月、自宅で脳梗塞を起こし、急遽入院するが、左半身不随となる。リハビリをして退院したが、その後の二度の左足の骨折のために、再入院・再々入院を余儀なくされた。その入院体験記を『週刊文春』に連載し、2019年3月に『生還』として刊行した。
※この「フリーとして」の解説は、「小林信彦」の解説の一部です。
「フリーとして」を含む「小林信彦」の記事については、「小林信彦」の概要を参照ください。
- フリーとしてのページへのリンク