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森進一

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2012/01/22 02:20 UTC 版)

森進一
基本情報
出生名 森内一寛
出生 1947年11月18日(64歳) 
血液型 O型
学歴 鹿児島市立長田中学校卒業
出身地 日本の旗 日本, 山梨県甲府市
ジャンル 演歌歌謡曲
職業 歌手
担当楽器
活動期間 1966年 - 現在
レーベル ビクターエンタテインメント
事務所 渡辺プロダクション
森音楽事務所
公式サイト 森進一 ホームページ

森 進一(もり しんいち、1947年11月18日 - )は山梨県甲府市出身の日本歌手である。演歌を代表する人気歌手であるとともに、常に新たな音楽の領域に挑戦し続ける幅広い音楽性の持ち主でもある。一聴して森とわかる、独特のハスキーボイスを特徴とする[1]。本名は森内 一寛(もりうち かずひろ)。身長167cm、体重49kg、血液型O型。

大原麗子森昌子との結婚歴があり(いずれもその後離婚)、昌子との間にできた3人の息子のうち、長男森田貴寛はロックバンド「ONE OK ROCK」のボーカリストである。

目次

来歴

母子家庭に育ち、沼津、下関をなど各地を転々とした。最終的には母の郷里の鹿児島に落ち着き、中学卒業と同時に集団就職で大阪に移住、家族に仕送りするために少しでもいい賃金を求めて17回も職を替えた[2]

1965年、フジテレビ系の「リズム歌合戦」に出場して優勝。チャーリー石黒にその才能を見出され、渡辺プロダクション(ナベプロ)に所属した。元は普通の声であり、ルックスもいいことからポップス系でデビューさせる予定でスクールメイツ入りさせた。しかし個性が弱いとして、チャーリー石黒は売れるためには声を潰し、演歌を歌うしかないと森と渡辺プロを説得。翌1966年、猪俣公章作曲、吉川静夫作詞による「女のためいき」でデビューした。「恍惚のブルース」でほぼ同時期にデビューした青江三奈と共にため息路線として売り出された。猪俣はその後の彼の数多くの代表曲を手がけることになる。

美声歌手が主流だった当時の歌謡界において、かすれ声で女心を歌う森のデビューは衝撃的であり、世間からは「ゲテモノ」「一発屋」と酷評された[2]。しかしその後も「命かれても」「盛り場ブルース」と立て続けにヒットを重ね、ついにはデビュー3年目の1968年、ヒット曲「花と蝶」で第19回NHK紅白歌合戦に初出場を果たした。

1969年には全国の港町の情景を織り込んだ「港町ブルース」を発表。21歳の若さで第11回日本レコード大賞最優秀歌唱賞を受賞、さらに出場2回目にしてこの年の第20回NHK紅白歌合戦のトリを務めた[3]

1971年には「おふくろさん」(作詞・川内康範、作曲・猪俣公章)が生まれ、この曲により2度目の歌唱賞を受賞した。

1972年、森の狂信的なファンの女性から婚約不履行、未成年者略取[4]で告訴された。実際には女性の主張していた内容は全くの狂言だったが、彼女がそうした妄想にとらわれるようになったのは、以前病気療養中の森の母を見舞った際に母から親切に対応されたのがきっかけだった。このことを苦にした母は翌1973年に自殺。山口地裁が森の全面勝訴を言い渡したのはその半年後だった。

1974年にはフォークソング全盛期の黄金コンビ、岡本おさみ作詞、吉田拓郎作曲の「襟裳岬」を発表。この曲で第16回日本レコード大賞、第5回日本歌謡大賞など多くの音楽賞を獲得し、第25回NHK紅白歌合戦で初の大トリを務めた。この「襟裳岬」との出会い以降彼の曲の世界は転換期を迎え、通常の演歌歌手には無い趣向を持ち始める。

1979年2月、デビュー以来約14年間に渡り在籍したナベプロから独立し、「森音楽事務所」を設立した。しかし一流スターが多く在籍する大手事務所からの独立は芸能界における自身の居場所を失う可能性を示唆していた。この独立以降、NHKを除く民放各局へのテレビ出演やコンサート・舞台公演の開催が、ナベプロからの圧力によって困難な状況になったと言われる。ナベプロが雇ったヤクザからの妨害も受けたが、川内康範が助力した。

しかし同年夏、再起を賭けて発表した「新宿・みなと町」がヒット、以降の活動に弾みをつける契機となった。

1980年にナベプロ時代の同僚だった女優の大原麗子と結婚した。

1982年に松本隆作詞、大瀧詠一作曲(元はっぴいえんど)による「冬のリヴィエラ」を発表した。ポップス系のこの曲により従来とは異なる新たなファン層を開拓した[2]

この頃の活動は、公私共に充実し順風であるとしながらも、実際の夫婦生活は既にすれ違いが生じていたと言われる。1984年に大原麗子と離婚。

離婚後、新しい挑戦として社会福祉活動「じゃがいもの会」を設立した。デビュー当時より面識があり、社会福祉活動に力を注ぎその前年からユニセフ親善大使の職を拝命されていた黒柳徹子がこれに賛同した。さらに歌手仲間である原田直之、小林幸子森昌子らが参加した。

この「じゃがいもの会」での活動により歌手以外の社会的活動家としての「森内一寛」の一面が開花し、1998年の長野オリンピックの委員会理事、カンボジア地雷除去キャンペーン活動の発起人、在日外国人を支援援助する社会福祉法人「さぽうと21」の理事など、以後数多くの福祉・社会的活動に参画している。この活動には独立当初の騒動で迷惑を掛けた人々への感謝と贖罪の意味があったと言う。

この活動は新しい出会いを作るきっかけともなった。約1年半の交際を経て、1986年9月に森昌子と結婚した。昌子はこれを機に歌手を引退。3児を授かり非常に仲睦まじい森夫妻の在り方は、一般に理想的な家庭像・夫婦像のイメージとして広く認知されるようになった。

1988年の「京都去りがたし」でシングルとしては2回目の作曲を手掛け、はじめて作曲者「森進一」のクレジットでリリースする。

「演歌の枠にとらわれず、いい音楽であれば何の障壁もなく耳を傾け、自分の世界に取り込みたい」という彼の思いに共感する他ジャンルのアーティスト達と積極的に交流し、提供曲を精力的に歌い、発表した。

2002年からは妻・昌子とともにジョイント・コンサートを行うようになる。デュエットソングも2曲発表している(書籍扱いという異色の発売方法)。

しかし、その後昌子との意見の相違等により、結婚19年目の2005年3月に別居。その心労もあってか、彼は間も無くして長年の持病であったC型肝炎を悪化させ入院。4月19日には所属事務所から2人の離婚が発表された。闘病中、うつ病にかかるが、2006年3月に回復して退院した。

2007年2月、おふくろさん騒動が勃発、川内康範との確執が表面化した[5]。両者はついに和解に至ることのないまま、2008年4月6日に川内は逝去した。

2008年10月5日、台東区蔵前にあるビクターのショールームで新曲「波止場」の発表を兼ねたファン限定のミニライブを開催、そのステージ上でC型肝炎が完治したことを報告した。完治自体はおよそ2年前のことだという。

2008年11月、森と川内の遺族が和解したことが明らかになり、1年9ヶ月に及んだおふくろさん騒動に一応の終止符が打たれた。話し合いの席には関係者らと森やレコード会社が同席したという。同年の第59回NHK紅白歌合戦に出演した際に「おふくろさん」を歌唱した。

2009年11月25日には尾崎豊の「I LOVE YOU」や石川さゆりの「天城越え」など、演歌からJ-POPまで様々なジャンルの曲を集めたカバーアルバム『Love Music』をリリースした。コブクロの「」では、自身初の多重録音によるハーモニーを聴かせている[6]

音楽

演歌界を代表する人気歌手だが、固定観念にとらわれず様々なジャンルの作品を歌うことを信条としている。一般的に形式を重んじ急激な変化を好まない演歌界においては森のようなスタイルは稀少である。楽曲提供者には岡本おさみ吉田拓郎大瀧詠一松本隆井上陽水谷村新司シャ乱Qメンバー、須藤晃長渕剛[7]細野晴臣松山千春BORO坂井泉水小室哲哉といった多彩な顔ぶれが名を連ねる。演歌嫌いを公言して憚らなかった淡谷のり子からもその音楽性を賞賛された[8]。森はこうした自身の多彩な活動について「僕が歌ってきたのは演歌ではなく流行歌です」と説明している[2]

日本の国民的な作曲家である古賀政男の知遇を得てその薫陶を受けたこともまた特筆すべきである。プロ歌手として3年目の1968年には古賀メロディーを集めたアルバム『影を慕いて』が製作された。「人生の並木路」の録音の際には歌の内容を自らの人生に重ね合わせてしまい、涙を抑えることができなかった。後日の録り直しを申し出る森に対し、古賀は「歌は生き物だからこれでいいんだ」とそのままOKを出したという[2]




  1. ^ 森進一(Mori Shinichi) - ニュース、インタビュー、特集、レビュー、CD、DVD、Blu-ray、動画、試聴 - CDJournal.com
  2. ^ a b c d e 西日本新聞連載(2005年1月1日〜1月14日) 幸せの道標 森進一とその時代
  3. ^ 出場2回という異例の速さでのトリ抜擢をNHKの製作者サイドに促したのは、紅組のトリとして対戦した美空ひばりだったと伝えられている。
  4. ^ 女性は森との間にできた子供を森が連れ去ったと吹聴し、果てはマネージャーがその子を殺して遺棄したと主張して、鹿児島県警が殺人、死体遺棄の容疑で取調べる事態にまで発展した。実際には女性が子供を産んだとしていたその時期に、彼女は別の男性との間にできた子供を堕胎していたことが地検の捜査で判明した。
  5. ^ 川内は「女のためいき」「花と蝶」「命あたえて」など数多くの森作品の作詞を担当したばかりでなく、私生活でのスキャンダルなどの問題処理を一手に引き受けるなど、森の芸能活動を全面的にバックアップした存在だった。
  6. ^ 森 進一、尾崎豊「I LOVE YOU」をカバー ニュース-ORICON STYLE-
  7. ^ 長渕夫人の志穂美悦子と森の前妻である昌子が古くからの親友であった関係で親交を持つようになった。
  8. ^ 淡谷は森が自身の代表曲である「別れのブルース」をテレビの音楽番組で披露する際にも快く承諾していたという。


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