ニューヨークへ
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「アドルフ・ドゥエイ」の記事における「ニューヨークへ」の解説
しかしながら、彼が公言していた無神論のために反対派反発を買い、1860年にはこの町も再び去ることになる。 彼はニュージャージー州のホボーケンに移り、そこでドイツ系の学校の校長になり、ニューヨークの「デモクラート」紙の主席編集者になる。1866年にはついにニューヨークに移り住み、そこでも幼稚園の開設に向け尽力する。彼はお送り学校を開設し、1871年には幼稚園のハンドブックを執筆、教育の指針となるものを書き記した。これらの学校や幼稚園の校長にして指導者として、彼は常にフレーベル教育学の指導的な理念が実践に反映されるべく努力を重ねた。 1868年から1870年まで彼はニューヨークの「労働組合」という労働者向けの新聞の編集者を務め、ニューヨークではマルクス主義の指導者としても知られた。1878年から彼の死に至るまで、彼は10年間にわたりアレクサンダー・ヨナスとともに「ニューヨーク民衆新聞」という、アメリカでは最も長命であった新聞の編集に携わった。 個人生活の上では、ドゥエイは、卓越したピアニストでもあった。そればかりか、社交的な場で多くのミュージシャンと交友を持ち、60曲の作曲もこなしている。サン・アントニオ時代からすでに彼は、合唱サークルを結成し、それを指揮し、その一員として1853年にはニュー・ブラウンフェルスにでかけ、そこで最初の合唱祭を催している。 彼はその人生の最後までに総数35冊の著書とそのテキサスでの生活についての回顧録を書き残した。
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ニューヨークへ
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「ジョニー・バーネット・トリオ」の記事における「ニューヨークへ」の解説
1956年3月、3人はエルヴィスの全国テレビ出演に触発され、ニューヨークへ向かう。恐ろしく古いフォードで積み切れなかったドーシーのベースを除いて出発、ヒーターなしの車で10年ぶりの雪嵐に見舞われた彼らの二日間の旅は過酷なものとなった。昼間ジョニーはドレス工場、他の2人は電気技師組合の斡旋で電気技師として働いた。 テレビ番組「テッド・マック・アマチュアアワー」出演のためのオーディションを受ける。3人の審査員の前で「トゥッティ・フルティ」「ハニー・ハッシュ」「ブルー・スウェード・シューズ」を演奏、オーディションを通過。4月1日放映予定のTVショー出演が決まる。本戦も順調に勝ち残り、9月開催のマディソン・スクェア・ガーデンでの決勝の出場資格を得、他の勝者と共に3度のツアーに出る。彼らの将来性を見込んだオーケストラの指揮者のヘンリー・ジェロームがマネージャーとなる。ツアー後、キャピトル、ABCパラマウント、コーラルから契約の打診を受ける。ポールはある種のカリスマ性を持ったキャピトルとの契約を望んでいたが、バーネット兄弟はより条件の良いコーラルの言葉に賛成していた。 7 May 1956 Decca Recording Studio, Pythian Temple, 135 West 70th St., New York City – Rock'n'roll Trio (Johnny Burnette [vcl/gt], Dorsey Burnette [vcl/bass], Paul Burlison [gt], Eddie Grady [drums, percussion] + *orchestra (32 pieces)) マトリクス曲目作曲者89908 SHATTERED DREAMS George Motola 89909 MIDNIGHT TRAIN D.Burnette-J.Burnette-P.Burlison-A.Mortimer 89910 YOU'RE UNDECIDED D.Burnette-J.Burnette-P.Burlison 89911 TEAR IT UP D.Burnette-J.Burnette-P.Burlison 89922 OH BABY BABE D.Burnette-J.Burnette-P.Burlison-A. Mortimer 1956年5月7日、NYピディアン・テンプル・スタジオでボブ・シール(Bob Thiele)をプロデューサーに迎え第一回録音が行われた。「セミアマチュアのような私たち3人にとって恐ろしくも刺激的な体験でした。スタジオ入りすると32人のオーケストラが私たちを待ちかまえ『彼らと一緒にやりたいことをするように』と言われました。スタジオ内の空気は冷ややかで、誰もが急いでいるように見えました。」(ポール談)。最初に彼らは用意されたオーケストラのためにゼム・フューチャリング・ヒムの「シャッタード・ドリームス」 を吹き込んだ。そしてドラマー、エディ・グレイ(Eddie Grey)だけがトリオに参加する形で残り4曲を録音する。このセッションから「ティア・イット・アップ/ユア・アンディサイデッド」がシングルカット、コーラル最初のリリースとなる。だが彼らにとってこのNYでのセッションは良い印象は無く、マネージャーにナッシュビルでの録音を強く訴えた。
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