音楽プロデューサー
音楽プロデューサー
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音楽プロデューサー(おんがくプロデューサー、英語: record producer, music producer)は、コンサートや舞台芸術、映画、ドラマなどの音楽全般を、企画から販売まで指揮し監督する者[1]。なお、英語圏など海外では、音楽の作曲・編曲などを行う楽曲の制作者を指し、日本でいうトラックメイカーがこれにあたる。
注釈
- ^ URCの秦政明などもその一人であったといわれる
出典
- ^ a b Moorefield, Virgil (2010-02-26) (英語). The Producer as Composer: Shaping the Sounds of Popular Music. MIT Press. ISBN 978-0-262-26101-2
- ^ “A&R Pioneers” (英語). Vanderbilt University. 2020年11月24日閲覧。
- ^ “A&R Pioneers” (英語). Vanderbilt University. 2020年11月23日閲覧。
- ^ Kot, Greg. “What does a record producer do?” (英語). www.bbc.com. 2020年11月24日閲覧。
- ^ 真保みゆき「MUSIC 音楽プロデューサーってなに?」『広告』1987年9、10月号、博報堂、53頁。
- ^ “FMPJ 一般社団法人 日本音楽制作者連盟 - 音制連とは”. FMPJ 一般社団法人 日本音楽制作者連盟. 2020年11月24日閲覧。
- 1 音楽プロデューサーとは
- 2 音楽プロデューサーの概要
- 3 定義
- 4 日本
- 5 業務内容
- 6 脚注
音楽プロデューサー
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田辺章男 アン・ルイス、TOKIO、ORANGE RANGEなど長年に渡って活躍。シーズン1でキミーの曲をアレンジしてくれたり、落ち込んだキミーの為にアドバイスをし、キミーの新たなる一面を引き出した。シーズン3で審査員として登場。 イイジマケン 通称「イイジマP」。シーズン1から時折出演。ドレッドヘアーにひげ面、いつもアロハシャツを着て登場する。優しい対応が特徴で、シーズン1のMERAに楽曲を提供したり、シーズン2ではリタイアした北條まみの為に褒めながらレコーディングを34回もかけて良い部分をつなぎ合わせたCDを完成させてプレゼントし、北條に自信をつけさせた。
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音楽プロデューサー
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「小室哲哉の使用機材」の記事における「音楽プロデューサー」の解説
契機 小学校の頃から、学芸会・運動会・卒業謝恩会のイベントになると、学級委員として張り切って先頭に立っていた。小学4年生の時の学芸会で前半に笛の演奏会を行い、後半に三億円事件をモチーフにした演劇を開催するというプログラムを決めた後に草案を提出した。3歳から12歳までヴァイオリンを習っていたのを活かし、笛の演奏に関しては各パートのアレンジも手がけた。普段から勉強ができるいい子になり、先生・学校を「お金を出してくれたり、場所・環境を与えてくれるスポンサー・クライアント」として見ていて、先生を仲間に入れることはもちろん、クラスメイトにも気を使って引き込むようにしていた。ただし、中学では小室と同格の生徒・小室を快く思わなかった生徒もいたことにショックを受け、普段の学校の授業には人並み以上に参加し、コミュニケーション技法・音楽の練習を0からやり直した。この頃から既に「終始自分だけで楽しむ」という気持ちは毛頭無く、それがプロデューサーとしての立ち振る舞いの原点となった。 高校生の頃から本格的に音楽プロデューサーになることを志し、その立場と役回りに拘った。「外部からプロデューサーとして推薦されたら、アーティストより偉いから速く物事が進む。例えばヨーロッパで『小室というプロデューサーがいるだろう』となったら、『あいつに相談したら窓口とつながりがあるから、レコード会社を紹介してくれるぞ』と様々な話が出てくる。これが『キーボーディストで小室がいるよ』となったら、そこで終わってしまって後に続いていかないんです」「中学生の時から聞いていた洋楽にはプロデューサーの名前がメンバーよりでかく載っていて、インタビューでも『プロデューサーを選ぶところからレコーディングが始まった』『今度はこのプロデューサーでやろう』『プロデューサーと喧嘩してレコードを没にした』等、かなり立場が高かったことが窺えた。無理してフロントに出なくても存在感が確保され、上手くいけば必然的にオファーが来るポジションを目指したい」「ミュージシャンはエゴが強いから、喧嘩にならずにバンドとして統一するためにまとめ役が必要」「自分の思いを伝えるには、自分で演奏して歌うのが一番シンプルだから。でも、そういうシンガーソングライターみたいな事はできないと自覚していたから触媒・フィルター役で音楽に関わっていきたい」「『この人と組んだらこういう音になる』というのを研究しているアーティストから選出され、世に送られて、ステータスが上昇する。そこから、楽曲を自分の好きな音楽の方向に持っていって、まとめていく。そういう洋楽案内人みたいな立場になれればいいなと思っていた」と考えていた。 音楽プロデューサーとしての仕事の進め方の点で、影響を受けたのがクインシー・ジョーンズ・ベイビーフェイス・ナイル・ロジャース等ターゲットを絞らなくても大勢に広まる宣伝戦略・ブラックミュージック専門の黒人音楽プロデューサーの手腕に一気に魅せられた事だった。 本格的に制作進行・予算管理等の裏方に徹し始めたのが1992年からで「自分が表に出てツアーや取材に時間をとられるのが嫌でその時間を裏方仕事に使えば音楽業界のどれだけお役に立てられるか」を考えていた。TMNが活動終了を発表した1994年当時は以後の派手な活動とは裏腹に、ステージから降りて完全に裏方に徹する予定だった。そのため「一連の大ヒットは僕にとっても予想外の出来事だった」「僕の口から『TKサウンド』と言ったことは一度もないのに『TKサウンド』だけで独立してしまったために、人伝えではないために良くも悪くもないそのままの言葉が伝わるから、自分の発言に責任を持てて『こんなことは言っていない』という意思表示になるホームページの必要性を迫られた」と語っている。 姿勢 プロデューサーとしての方針として、「こういうことのために、こういう仕事をして、形にしてほしい」というビジョンの明確な依頼を外部から受け、飽くまでも1スタッフとして関わる形で成り立たせている。例として「CDを○万枚売ってほしい」という依頼がきたら、極力それに向かって進み、「アーティストを育てたい」と言われた時には、人選して、マネージャー・タレント・エージェントとして素材であるアーティストをあくまでもスポンサーから提示された予算・スケジュール内で、音色作り・作詞・作曲・演奏・ボーカルのレコーディングに時間をかけて、「服装やメイクや髪型といったビジュアルはどうするか・どんなダンスを踊るのか・どんな言動をしていくのか」の順番をコントロールして、リスナーがお金を出そうと思えて、カラオケで唄い、アーティストに憧れるまでのクオリティにするまで面倒をみるのをプロデューサーとしての基本フォーマットにしている。 プロデューサーとして一番恐怖心を抱くのが、他方面・他国で大ヒットが来ることであり「自分達がやっていることが本当に大丈夫なのか」と不安になる。そのため、自分の仕事と世界の音楽の流行の膨大な音色の種類・アーティストの動向を1フレーズ単位で調べている。転機になったのが「SF Rock Station」のレギュラーを担当することで、今まで以上に新譜が聴けれる機会が増えて、メンバー・スタッフにもプロデューサーとして自信をもって強気で「今の所は大丈夫だから、これでいけるよ」と言えるようになった。逆に一番「プロデューサー冥利に尽きる」と嬉しく思うのは、自分達が新しいことをやっていたら、それに近いものが他方面・他国からも出てきて「同じことを考えているんだな、タイムリーだから大丈夫だ!」というノリで行けるという。 「主役はスターではなく、飽くまでも聴く側」「自分から名乗っても『誰、それ?』と言われる感覚を如何なるときも忘れないようにする」という意向から、素材集めのための流行の音楽の調査・クレームへの対応・ファンとの交流とリサーチは欠かさない。アーティスト・スポンサーと食事をしながらプライベートな話をしつつ、形を作って行く。地方でのコンサートが終わった後の夜のクラブハウスに一定の間を空けた事前の予告無しで出入りし、ラフな格好でファンとも普通に話す。新聞・雑誌のチェックは隅の細かい記事まで読む。対象は主に新聞では読売新聞・日本経済新聞・日刊スポーツ・サンケイスポーツ、雑誌はホットドッグ・プレス・POPEYE・週刊プレイボーイ等男性向けファッション雑誌・流通系の雑誌を中心にしている。女性向けファッション雑誌は「メーカーとのタイアップが多くて参考にならない」と敢えて手を出さず、直接女性ファンと交流するときにどのような様子なのかを事細かく観察している。ギガネットワークス・エクシング等の大手通信カラオケ会社から歌唱曲ランキング等細かいデータを送ってもらっている。ロサンゼルスを拠点に活動していた時には、麻生香太郎を介して大量の雑誌等を送ってもらい、日本のマーケット事情を調べていた。プライベートでも「スマートフォンのアプリだけで作曲しているアマチュア・若手が出ている」と聞けば、全く新しいタイプの楽曲が生まれる可能性を見いだし、話題の制作アプリにも自分から確かめ、ニュースを読むときは音楽欄・経済欄ではなく真っ先にIT欄を読む等、技術の進歩の情報収集も積極的に行っている。 特に業界人からは「アイドル評論家」と言われる程にアイドルに詳しい。「普通の女の子がどうしてビッグスターになれるのか」とプロデューサーとして興味を持ち、常日頃から「自分が管理できる、時代を象徴するアイドル」という企画を機会があったらやりたいと思っていて、ある人から「小室は自分で究極のアイドルを作りたいのか!」と問われた際、「当たっているじゃん!」と喜んだという。日頃からアイドルは「大衆芸術の一つ」「社会や時代を映す鏡であり、どれだけクリアに映すかで存在の大きさが決まる」「日本には必要不可欠です。良い意味で玩具業界のようなエンターテイメントだと思うから。無くなってしまったらつまらないし、寂しい」「僕達はテレビに出ても隅っこでいい。アイドルの人達が真ん中に座って欲しいんです。ミュージシャンは隅で白けているのが逆に絵になる。アイドルが隅に座って寂しそうじゃ絵にならない」と捉えつつ期待している。そのアイドルに自己投影するファンが楽曲提供する過程や結果で見えるため、アイドルに楽曲提供する時のポイントは事前に『アイドルが誰を相手にしているのか?』『アイドルの鏡に映るのはどんな人たちなのか?』『アイドルは今どんな時期にいるのか?初動期なのか?成長期なのか?安定期なのか?』等立ち位置と時代性を加味しつつ、声質・声域を調べていく。個人としての好みのアイドルとして、「僕の用意した曲に乗ってくれて、『このパートはキーボードにするか?ギターにするか?』と尋ねたときにハッキリと答えられて、結果に責任を持てるアイドル」と答えている。相性としては友情を深めないと心を開いてくれない男性より、割り切りのいい女性との仕事を「やりやすい」と好んでいる。それに対して小室は、「その際に音楽に対しては『後は好きにやってください』という開き直りができる」「歌が終わって、次は俳優への道を選んだら、僕のことを忘れてその監督に身を任せると思う」と話している。 オーディションに審査員として関わる場合はトレーニングでどうにかなる歌唱力より、変えようのない声質・倍音の構成を重視して選んでいた。それが逆にインパクトのある楽曲を生み出すきっかけになった。 総合的な予算は広告費の原価・広告代理店の手数料を合算した上で幾らかかるかをはっきりさせて、貸しスタジオの料金からどれを日割りにするかを明らかにしながら予算が組み立つようにしている。シングル1枚に対しての総製作費は最高でも500万円であり、たとえ低予算だったとしても、手間や時間がかかっているように見える「高級感」が出るように演出する。しかし、時々小室が1部分に対して締め切りに間に合わせるために見切りを付けるように指示しても拘るスタッフもいて、予算を超過することもありその交渉も慎重に行った。 1980年代後半より、ライブツアーの際にスポンサーが手配した宿泊先で自腹で追加料金を支払い、スイートルームを使うようになる。全盛期には複数台の高級車とレコーディングシタジオを併設した別荘を所有していた。大のフェラーリファンとしても有名で、色違いのフェラーリを複数台所有している。過去にはプライベートでF1観戦に訪れ、フェラーリチームのピットでレースを観戦する姿も何度となく目撃されている。また、メルセデスベンツ・CLK-GTRも所有していたが、並行輸入で購入していたものであったため乗ることができず、飾り物にしていたとのことである。カリフォルニア州に6億3千万円の住宅・オアフ島に1億2千万円の住宅・バリ島には2億円の住宅を建てていた。アーティスト・スタッフへの労いとして、関係者を引き連れて自家用ジェットでラスベガスに行き、カジノの軍資金も全額負担した。TRFのメンバーとクリスマスパーティを行った際、メンバー一人ひとりに現金1千万円をプレゼントし、YU-KIにはさらに「誕生日プレゼント・御苦労さん代」と称して1千万円以上もするベンツをプレゼントした。ヨーロッパで活動を行っている時に電車で移動する際には車両ごと予約していた。これはステータスの誇示のためだけではなく、所属事務所に在籍しているスタッフ・ミュージシャンへのギャランティと仕事の関係者との打ち合わせの場所・時間を確保するためでもあった。この姿勢に松浦勝人は難色を示し、なんとかエコノミークラスで行ってもらうためにファーストクラスのない航空会社を斡旋した。しかしエイベックスが大きくなるにつれ、小室の希望する移動手段に合わせると宣伝戦略に工夫を凝らすことを忘れかけるという弊害が出た。 自身のポリシーとして、 「『今○○がブームだから、○○の音にしましょう』と言われても、『借り物という企画意図が見透かされてしまう』と断り、筋の通った一本道を作って、『音楽ができる人』として自立の道を開けるようにしている」 「僕みたいな仕事になると音楽を趣味で聴くことはないんですよ。99%仕事。レコード聴いて感動しているだけじゃだめで、その中の色んな要素を分解・追及して、一番の元となる部分を探さなければならない。そうやって突き詰めた所から僕の音楽が生まれてくる」 「まず最初に企画書があって、たくさんの人から提供された情報から一番企画に合う人を絞り込んでいく」 「ファンが真似しやすいもの、サウンドは今日完成したら明日すぐお店に出せる品質、カラオケに通うファンに対してお酒・おつまみ・おやつが似合うものを皆に作らなければいけない」 「完成形が見えない限り、行動には移さない。『この服を着て、こんなトークをするキャラクターで、誰に人気が出るのか』という絵が見えて初めて取り掛かる。それが自分の中でぼやけていては、他人にも指示が出せない」 「今や1つの楽曲にレコード会社、CM・ドラマの制作会社、広告代理店、クライアント、音楽出版等ものすごく大勢の人間が関わっています。僕の場合、そういう人達全員を納得させることを考えながら作るんですね。『それはピュアな作り方じゃない』と言われるかもしれないけど、僕はそういった具体的な枠が見えてこないと曲のイメージが浮かんでこないんですよ。だから、いわゆる芸術家肌ではないと思います」 「一番肝心なのは、僕・スポンサー・アーティストの中ではっきりと共通の目標や目的が意思統一されていることであり、『何が何だか分からないけど、一生懸命頑張ろうよ』というのはだめ」 「プロデュースする人が悪く言われないように配慮する」 「『クリエイティブな作品』であるかどうかは、『如何に新しく、新鮮であるか』で決まります。みんなが『これ知ってるよ』『見たことあるよ』『簡単なもの』というものと全くの正反対であること。『こんなの思いつかなかった』『誰もやってない』『始めてみる』と思われるものです。ただ、僕の場合は受け取る人からそこまで離れすぎてはいけなくて、受け手がほんの1,2歩踏み込めばできる・後1,2日経てばわかる範囲になるように考えていますそれが結果として『わかりやすいもの』になるかもしれません」 「アーティスティックで難解な作品を作るのではなく、アンディ・ウォーホルみたいに何十万人もの老若男女に受け入れられるコピーを作るのが僕の役目」 「基準はキャパシティの広い子。歌以外の別の何かができないと、活動の展開が進んでいる時に突然止まってしまう」 「新人をプロデュースする時、必ずしもボイストレーニングから始めるのではなく、ダンサーと踊る経験からさせる場合もあるし、一緒に洋服を買いに行くことから始める場合もある。相手毎に順番の整理の仕方を変えることで結果が全然違ってくる。ギターのエフェクターをつなぐ順番を決めるのと同じ感覚」 「最終的にはアーティスト達が僕をいらなくなっちゃう位に活躍してくれたらいい。そうすれば僕もずっとスタジオで自分の本当に好きなことができる」 「やり方は『大改造!!劇的ビフォーアフター』と似ています」 「売れなくても売れ過ぎるのもだめなんです。『小室さんの予測通りです!』でないと。いくら成功しても、また次にオファーが来た時に困るし、僕もプロデューサーとしての信頼が得られない」 「『始まりがあって、観客の心が揺れ、高揚感を覚え、静寂に戻って終わる』というストーリーのある観客の反応ありきの音楽作り」 「古典派音楽の時代に活躍したオペラの宮廷楽長と立場は変わらない。自分で曲を書き、劇場で観客を楽しませ、王様にも喜んでもらい、次の仕事をもらわなければいけない」 と答えている。 他の芸能人と比べ個人レーベル・個人企業・個人スタジオを設立した数が比較的多い。小室曰く「今日思いついたアイディアを明日実践する機動力を持って面白いことをするため」「必ず結果を出す前提で一から十まで好き勝手やりたい放題行うための責任表明」とのこと。しかし、後に「僕は事業運営に向いていなかった」と親交のあるテリー伊藤に述懐していた。 制作プロセス シングルをプロデュースする際は、1曲目がオリジナルで2曲目・あるいはアナログ盤にオリジナルのリミックスバージョンを入れるのが基本構成である。クラブ等通常のかける場所とは違うシーンでかかることを想定しながらリミックスバージョンを作り、最新の音色・メロディ・アレンジに対する反応を確かめて、反応がいいときはすぐに次のデモテープに活かす。リミックスバージョンを制作する際には「どの楽器を前面に出すか」「どれだけ踊れるような構成にするか」という気持ち良さを重視し、そのためにジャングルの制作ノウハウを踏襲している。 アルバム制作に発展させたい場合には、基本構成は1990年代までは通しで聴くことを前提に、1曲目と最後の曲目に注意を払うようにしていたが、2000年代以降はインターネットで試聴する1曲で印象が決まってしまうので、その1曲毎に芸術として勝負できるように心がけている。制作方法はシングル用の楽曲制作の時点でコンセプトを煮詰めた後に時間をかけるか、プライベートで商業上の制約を一旦抜きにして好き勝手に曲を作りそれを商業向けに手直しするかのどちらかを選ぶ。後者の一例としてTM「Self Control」「RHYTHM RED」・trf「trf 〜THIS IS THE TRUTH〜」・globe「globe」「Love again」・ソロ「Digitalian is eating breakfast」が挙げられる。 コンセプト・キャッチコピー等の全体的なマーケティング戦略を考える期間はある程度の売上目標を予想しつつも、締め切りギリギリまで「クオリティの高い・自分でも格好良い」と思える楽曲を作れるレコーディングに時間を回し、締め切り前の最後の1ヶ月~2週間で考えていく。 久保こーじと二人で関わる場合は様々でtrf・安室は二人で音色作りの段階から最終的なアレンジまで関わり、globe・華原は小室のみで進めていき、hitomiは久保主導で行い、アーティストの選定は小室中心で進行していく等、ケースバイケースで立ち会う。はっきりとしたサビ・大まかなメロディとコード進行等の60%を小室が作り上げ、イントロ・編曲・マスタリング等残りの40%をテーマ・イメージ等をまとめた企画書を渡した上で久保率いるロックバンドNo! Galersがアレンジをまとめ上げて、完全パッケージメディアに仕上げるための海外のエンジニア達を管理する作業を一手に担う。 宣伝戦略 レコーディングと同じ程に宣伝を大事にしている。「a-haのように楽曲の内容を最初に知って、そこからどういうアーティストなのか」と思われるとその後が続くかどうか心配になるため、「チャーリー・セクストンみたいに楽曲より先にアーティストそのものを宣伝して、キャラクター性を知ってもらう」ことを優先している。TMの「Love Train/We love the EARTH」からアーティストのプロモーションとして、カラオケのビデオに歌っている本人達を登場させることを幾度と提案していたが、当時のソニー・ミュージックエンタテインメントの内規・肖像権の問題で通らなかった。TMの宣伝会議に出ても「何故アーティストが来ているんですか?」と直接迷惑そうな言い方をされ、小室も「何故この辺の問題が、演歌界ではスムーズにことが進むのかがおかしかった」と語っている。逆にプロデューサーとして出ると言いたい事を全て言えて、アーティスト・現場スタッフとしての視点で話せて説得力も持った。篠原の「恋しさと せつなさと 心強さと」で本人出演の許可を得たことで、「交渉過程のゴタゴタで、霧が晴れた感じがした」と語っている。 テレビCM・主題歌等のタイアップでは、特にテレビCMに関して「CM・ドラマで流れる15秒~1分の制限の中で引きつけねばならない。でもCDを買ったら『そこしかインパクトがなかった』というのではいけないので、手法としては『1つの波を作り、その中から一部をタイアップ用に分ける』という考え方です」「15~30秒ながら、MTV並みの完成度を持つ映像を作るわけですから、僕がCMのタイアップに関わるのは既に一種のコラボレーションだと考えているんですよ。社内会議の投票で他:7・僕:3だともう僕の入る余地は無いから席を立ちます。スポンサーにはそういう制作現場の重みを理解したうえで、数々のミュージシャンの中から僕を価値を見出して欲しい」と特別視している。
※この「音楽プロデューサー」の解説は、「小室哲哉の使用機材」の解説の一部です。
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音楽プロデューサー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/03 03:32 UTC 版)
自身のアーチスト活動のほか、他アーティストのプロデュース作品も数多い。おなじ香港で活躍する俳優の黄秋生も英語名がアンソニー・ウォンと同じだが、同姓同名の別人。両者は友人であり、黄秋生の音楽活動においても黄耀明が楽曲プロデュースをおこなうなどの交流がある。他にプロデュースを手がけたアーティストは梅艶芳(アニタ・ムイ)、莫文蔚(カレン・モク)、ミリアム・ヨン、彭羚(キャス・パン)、梁朝偉(トニー・レオン)など。
※この「音楽プロデューサー」の解説は、「黄耀明」の解説の一部です。
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音楽プロデューサー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 07:12 UTC 版)
日本の音楽プロデューサー。 HIRO (音楽プロデューサー) - Digz, inc.に所属。トラックメイカーでもある。 元THE STAR CLUB(1987年 - 1993年)、黒夢(1993年)、CROWLEYのドラマー。
※この「音楽プロデューサー」の解説は、「ヒロ」の解説の一部です。
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音楽プロデューサー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 01:30 UTC 版)
全体の音楽プロデューサーとは別に、各ユニットには音楽プロデューサーが存在する。 Happy Around!:斎藤滋 Peaky P-key:上松範康(Elements Garden) Photon Maiden:水島精二 Merm4id:都田和志 燐舞曲:中山雅弘 WITH eMPIRE SOUND SYSTeMS Lyrical Lily:中村航
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音楽プロデューサー(ジャレッド・ハリス)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 07:30 UTC 版)
「オーシャンズ12」の記事における「音楽プロデューサー(ジャレッド・ハリス)」の解説
バシャーの楽曲制作をしているプロデューサー、歌詞に禁止用語が使われすぎていて曲として成り立たないことに悩んでいる。
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