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進め!電波少年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2012/05/29 05:42 UTC 版)
(アポなしロケ から転送)
| 進め!電波少年 | |
|---|---|
| ジャンル | バラエティ番組 |
| 放送時間 | 日曜 22:30 - 22:54(24分) |
| 放送期間 | 1992年7月5日 - 1998年1月1日 |
| 放送国 | |
| 制作局 | 日本テレビ |
| 製作総指揮 | 棚次隆(CP) 吉川圭三(CP) |
| 演出 | 土屋敏男(1993年6月以降P兼任) |
| プロデューサー | 篠木為八男 長濱薫 小西寛 土屋敏男 |
| 出演者 | 松本明子 松村邦洋 ほか(出演者を参照) |
| オープニング | The Wall 〜長城〜(BEYOND) |
| エンディング | テーマ曲を参照 |
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特記事項: ナレーター:木村匡也 |
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『進め!電波少年』(すすめ でんぱしょうねん)は、日本テレビ系列局で放送された日本テレビ製作のバラエティ番組である。製作局の日本テレビでは1992年(平成4年)7月5日から1998年(平成10年)1月1日まで、毎週日曜 22:30 - 22:54 (JST) に放送。
目次 |
概要
当初『笑撃的電影箱』枠内でスタートしたこの番組は、本来はウッチャンナンチャンの『七人のおたく』の撮影専念のため休止を余儀なくされた前番組『ウッチャン・ナンチャン with SHA.LA.LA.』のつなぎ番組として、制作局から急遽土屋敏男に「何かやれ」と持ち上がったものであった。
制作の経緯
当時ビッグタレントにお伺いを立て、自分の本当にやりたい企画もすぐに拒否されるテレビ番組作りにうんざりしていた土屋は、視聴率を取れなくてもいいからそのストレスを全部ぶつけてやろうと考えたが、出演者の松本明子と松村邦洋は編成で既に決められており、当時2人を全く知らなかった土屋は「このツーショットなんて誰も見たくないだろう」と後述の顔だけのCG合成を決めた。
構成作家の小山薫堂によると、テレビがどこまでやれば取材拒否されるかという境目を探る番組として企画されたという。当初の仮タイトルは『やったろうじゃん』。それではなんだからと、構成作家の都築浩が当時争論の的となった中村敦夫の発言から『怪傑電波芸者』を提案。しかし製作局長から「芸者はダメ」とNGが出たことを受け、同じく構成作家のそーたにが『電波将軍』と滑舌悪く言ったところ、土屋らに「電波少年か、いいねえ」と勘違いされ、さらに「少年なら『進め』だろう」ということでタイトルが完成した。この『電波少年』及び『進め!電波少年』という名称は、日本テレビ放送網株式会社が所有する商標(商標登録番号第3137022号他)にもなった。
社内的にはひっそりと始まった番組ではあったが、初回の視聴率は12%と好調な滑り出しを見せた。また改編期における海外ロケを中心としたスペシャル『電波少年 INTERNATIONAL』や、1997年(平成9年)以降に放送された大晦日特番も多大な人気を獲得。1998年(平成10年)には1月1日のスペシャルを区切りに『進ぬ!電波少年』へとリニューアルし、以後2003年(平成15年)までの10年強にわたる長期シリーズへと発展した。
後の2010年(平成22年)3月12日より、CS放送の日テレプラスで放送されることが決定した(CS放送ではそれ以前にもCS★日テレで1996年(平成8年)から2000年(平成12年)9月まで地上波との同時放送を行っていた)。さらに同年4月9日に初のDVDの発売、それを記念して同年3月31日の深夜(4月1日午前)に約7年振りに放送され、同年7月23日にDVD第2弾が発売、さらに同年9月に第3弾、第4弾と続けて発売した。それに合わせて、2010年(平成22年)3月29日からは電波少年ホームページもリニューアルされた。
特徴・内容
スタジオトークではセットを用いず、松本と松村の2人とゲストの顔だけを映し、CGアートをバックにクロマキーで出演者の顔あるいは上半身だけを合成するという、それまでにない斬新な手法が用いられた。たまに出演者の顔が横に伸びたり、破裂するなどの映像効果があったのもこの番組の特徴である。なお、その映像効果を付けるための機械「ヒット9000」は、当時、日本テレビを含め全世界に数台しか無かったという。
一方でVTRのナレーションでテロップをつけて突っ込む(「好感触♡」とオチをつける、など)手法もそれまでにないもので、後のバラエティ番組に多大な影響を与えたとされている。また、画質が悪かろうがスタッフが映っていようがお構いなしに、ストーリーさえ成立していれば放送するスタイルも斬新であった。
形式上は松本と松村はMCであるが、スタッフはロケの内容を知らせないなどMCというよりリアクターとして割り切った扱いをしており、特に松村には当日のゲストも知らされなかった。ロケの同行スタッフの人数は他番組に比べて少なく、ヒッチハイクの企画では同行ディレクターがカメラマンを兼ねるなど、番組の人気が出るにつれスタッフの人数が反比例して少なくなっていったのも特徴のひとつである。土屋曰く、ビデオカメラの進化、小型化により、少人数でもそれなりの画質を提供できるようになったとのことである。
番組のプロデュースと演出を手がけた土屋は、番組内でも「Tプロデューサー」として若手芸人に使命を伝える場面でたびたび登場。彼の名を大きく知らしめた。
- アポなしロケ
- 当初は「アポなしロケ」という、2人やゲストが事前許可(アポイント)を取らず多くの著名人に様々な依頼を敢行するという企画を中心に行われた。そのスリリングさから人気を博したが、たびたび「無礼だ」などと抗議の的となるお騒がせ番組でもあった。
- アポなし企画は政治家をネタにすることも多かったため、松本と松村の2人は永田町周辺ではブラックリストに載っていたとされている。南アフリカ共和国でのロケでは実際に当時の大統領ネルソン・マンデラと対面し、わざわざ日本から来た松村に驚くどころか感心していた。他にもアポなしでマフィアのボスに会いに行ったり、暴力団の事務所に行ったり、夜のスラム街に行ったりと、生命に関わる危険なロケも多かったが(松村は拳銃で脅されたことすらある)、それが視聴者の興味をそそり高視聴率を記録した。またアポ無し取材で原水爆禁止日本協議会(原水協)に「核廃絶推進番組」のお墨付きをもらったこともある。
- ヒッチハイク企画
- 1996年(平成8年)4月に始まった「猿岩石のユーラシア大陸横断ヒッチハイク」によって番組は空前の人気を博し、社会現象とまでなった。それ以降は無名のタレントを使ってまさに体を張った体験取材企画が中心となったことで、前出のアポなし取材は1997年(平成9年)以降ほとんど行われなくなり、松村も後述の理由から降板を余儀なくされた。
出演者
司会
ナレーター
電波少年INTERNATIONALに登場したタレント
その他の主な企画出演タレント
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