難工事
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結局、この工事は当初の10年という予定期間を大幅に超え、関連工事が完全に完了するまで17年間という歳月を要し、3,200万円あまりの工事費を費やした。これは最初に計上された総予算1,200万円の実に2.5倍に及んだ。さらに総数300万人以上を工事に動員し、出水や土砂崩れなど多くの災害により、30名近くの犠牲者も出した。 工事の大半が手作業であり、蒸気掘削機やトロッコ、浚渫船も実用化されていたものの、油圧ショベルやブルドーザーやダンプカーの様な重機は無かった。また工事中も幾度も台風に襲われ、中でも1917年(大正6年)9月30日の台風では、記録的な高潮に見舞われ、工事用機械や船舶を流出する他、関東大震災では各地の工事中の堤防への亀裂、完成したばかりの橋梁の崩落など枚挙に暇がない。さらに第一次世界大戦に伴う不況・インフレーションも、難工事に拍車をかけた。
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難工事
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高見ダムは本格的な工事が行われる前、日高電源一貫開発計画の発足後より現地調査が北海道電力の手により1950年代より行われていた。だが、前述の通り当時のダム建設予定地点(ダムサイト)へは静内川に沿う道が無く隣の三石町より通じる林道で山越えをするか、支流の春別川沿いより獣道と度重なる渡河で開拓入植者が住む奥高見地区まで向かい、測量などの調査を行った。奥高見地区よりダム地点までは道も橋も無く、現地の猟師や馬による「ダンコ」と呼ばれる静内・新冠特有のポーターの協力を得て道なき道を踏破し、静内川の急流を徒歩で渡河していた。その後簡単な吊り橋や丸太一本程度の橋が架けられたが、ダム地点まで向かうのは容易ではなく、東京から派遣された電力中央研究所の幹部が急流に流されかけるなどのハプニングも伝えられている。また当時は高度経済成長に向かう時期で、急激な電力消費に対応するため早急な電力開発が全国的な至上命令であったことから、夏だけでなく極寒と豪雪の冬季にも調査を実施しなければならなかった。その上ヒグマが多く徘徊し、マダニやブユが襲い来る中簡易テントでの野営を余儀なくされ、調査員の苦労は筆舌に尽くし難いものがあったといわれている。 こうした激務によって地形・地質などの基礎資料が整い、かつ林道なども静内川沿いに整備されたことでダム建設のための調査は後半になると円滑になった。ダム建設に伴う水没地の補償は営林署の所有する国有林のみであり、人家の水没補償はなかったため比較的問題なく進み、1978年(昭和53年)よりダムと発電所の工事に着手した。だがこの工事も相次ぐ労働災害によって殉職者を出す難工事となった。まず1979年(昭和54年)3月21日には発電所工事用搬入路トンネル建設現場で火薬が爆発して3名が死亡、1982年(昭和57年)4月にはダム建設の際に河川の流路を変更する仮排水路のバイパストンネル工事現場で落盤事故が発生して3名が死亡、このほか工事現場へ向かう際の転落事故などで作業員が死亡するなど建設中の事故が相次いだ。さらに冬季から春季にかけての雪崩、それに続く融雪洪水による工事設備の損壊など、自然も猛威を振るった。1982年3月21日には浦河沖地震が発生、静内町は震度5の強震を記録したがダム本体への影響はほとんど無かった。 相次ぐ災害で静内町では「災害は水神の祟り」ではないかという噂も流れ、作業員の間にも動揺が広がったといわれている。このため施工主体である北海道電力は静内神社に依頼して現地で祈祷を行い人心の収拾に努める一方で北海道電力副社長以下幹部などが現地に集まって再発防止策を検討し、事故再発防止決議を採択した後合同慰霊祭と安全祈願祭を静内神社の協力で実施している。北海道警察と労働基準監督署の合同現場検証で火薬爆発事故は「原因不明」、落盤事故は「予測不可能」であるとして不起訴処分となった。この一件でHTBで放映予定だった発電所取材番組はお蔵入りになっている。 こうした難工事の末1983年(昭和58年)1月14日にダムに試験的に貯水を行う「試験湛水(たんすい)」が開始され、7月30日には高見発電所の営業運転が行われてダムと発電所は完成、1951年の北海道電力発足と同時にダム・発電所計画が検討されてから32年という長い年月を掛けて日高電源一貫開発計画の根幹事業は成ったのである。
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難工事
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こうして高さ110.0メートルのアーチ式コンクリートダムとしてダムの骨格が固まり1950年に着工されたが、この頃日本発送電は戦時体制に協力した独占資本であるとして1948年(昭和23年)に過度経済力集中排除法の指定を連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)から受け、着工の同年にはポツダム政令によって電力事業再編令が発令、翌1951年(昭和26年)に全国九地域の電力会社に分割・民営化された。九州地方は九州電力が発電・送電・配電事業を全て継承し、ダム建設も九州電力が引き継いだ。1952年(昭和27年)には本体工事に着手、40キロメートル離れた延岡市から建設資材を輸送したが隘路であったことから輸送は困難を極めた。 さらに、工事の進展に伴い様々な問題にも直面した。まず基礎岩盤を掘削した所予想を超える劣悪な岩盤であったことから、ダムサイトの位置を変更し再度掘削を開始した。続いてアメリカから輸入した工作機械を用いて工事を実施したが、現場では重機の操作技術が未熟な作業員が多く、度々故障が発生した。そして最も工事関係者を悩ませたのは毎年襲い来る台風であった。台風による器材の流失や人的被害を毎年蒙っていたが、1954年(昭和29年)9月の台風12号による被害は特に甚大で、耳川上流域で総雨量700ミリを超える記録的な豪雨がダム現場を襲った。これにより建設中の上椎葉発電所が損壊した他、建設プラント等多くの資材が流失・損壊し被害額は当時の額で4億円、工事進捗も半年遅延を余儀なくされた。だが、肝心のダム本体は全く無傷であり、図らずもアーチダムの洪水に対する耐久性を証明することにもなった。 数々の難工事を経て、1955年(昭和30年)にダム・発電所は完成した。総工費約130億円、建設に従事した労働者延べ500万人と九州電力の社運を賭けたプロジェクトは大団円を迎えた。だがこの栄光の陰に、難工事によって105名の殉職者を出す結果ともなった。完成時ダム近傍には彫刻家富永朝堂の作による仏教・キリスト教・水神の3女神像を建立した「女神像公園」が整備され、公園内に慰霊碑が建立された。これは日本発送電時代からダム建設に携わった九州電力初代社長・佐藤篤二郎やダム工事の共同企業体である鹿島建設・間組・熊谷組・奥村組の各社長が施主となって、尊い人命を失ったことへの痛恨と追悼の意を込め建立したものである。 アーチダムの技術は上椎葉ダムより始まり、その後宮城県の鳴子ダム(江合川・建設省東北地方建設局)では工事の全てを日本人の手で行った。さらにアーチダム技術も進歩しより経済性に優れたドーム型アーチダムが和歌山県の殿山ダム(日置川・関西電力)によって初めて採用され、やがて日本のダムの歴史に燦然と輝く大プロジェクト・黒部ダム(黒部川・関西電力)へとつながっていく。
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難工事
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/03 13:55 UTC 版)
春別ダムと春別発電所の建設に当たっては、地質問題が建設に際して大きな課題となっていた。春別川流域は本計画の中でも屈指の険阻な峡谷であり、現在でも春別ダムより上流は人跡未踏に等しい地である。1952年より静内川水系・新冠川水系の地質・流量などを測量するために設置された静内調査所はメンバーが主に20歳代の若い社員で構成されていたが、春別川流域の探索は断崖と激流に阻まれて難航し、測量班の作業員が滝壺に転落して死亡するという事故も発生した。またヒグマの徘徊やマダニ、ブユの襲来、豪雪・厳寒といった自然の猛威にさらされながらもダムと発電所の基礎調査は終了した。 ダム・発電所工事も難工事の連続であった。ダム本体工事において特に関係者を悩ませたのは洪水である。水力発電に適する河川は裏を返すと「暴れ川」であり、集中豪雨や春季の融雪による洪水被害は一再ではなく、本計画の中核事業の一つだった高見ダム(静内川)が治水目的を加えた多目的ダムへと事業変更する理由にもなった。春別ダムの場合三度に及ぶ大洪水が現場を襲ったが、特にひどかったのが1962年(昭和37年)4月の融雪洪水であった。この洪水では融雪に加えて低気圧による集中豪雨が加わり春別川は過去最悪の出水量となり、ダム建設の際に本体に水が来ないよう河川を堰き止める「仮締切ダム」が洪水によって破壊されダム本体が水没した。このままでは工事の続行は不可であり仮締切ダムの再建が必要だが、通常の工法では完成時期が1年以上遅延する。このため事務を含めた全従事者が仮締切ダム再建の突貫工事に従事し、短時間で再建に漕ぎ着けた。 また新冠川から春別川を結ぶ導水トンネルも難工事であった。アルプス山脈やアンデス山脈などと同時期に形成された日高山脈は日高造山運動によって形成されたが、トンネル建設地点は特に造山運動の影響を受け、方々で褶曲(しゅうきょく)や衝上運動による複雑な地層となっており、これに春別断層という断層が存在するため地質がもろかった。こうした脆弱(ぜいじゃく)な地質に全長4,096メートルの長大なトンネルを建設することになったが、度重なる崩落や鉄砲水によりトンネル横坑が重機ごと埋没するなどダム工事にひけを取らない難工事となった。さらに作業員宿舎がストーブの火の不始末で全焼し工事が中断、これを嫌がったトンネル作業員が集団で離散し人手不足になるなど、労務面でも困難に直面した。 様々な困難が立て続けに襲い掛かったが最新の工法を導入した工事の実施や、現場が一致団結して難工事を克服したこともあって、最終的には予定された工期より2ヶ月短縮して1963年(昭和38年)10月3日、ダムが完成して春別発電所は営業運転を開始した。だがこれら難工事により、6名が労働災害により殉職している。
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難工事
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/13 08:58 UTC 版)
「黒又川分水」計画は下流より黒又川第一(6万1,500キロワット)・黒又川第二(1万3,500キロワット)・黒又川第三(1万3,700キロワット)・黒又川第四(1万1,000キロワット)の四発電所を建設、奥只見ダムから全長6キロメートルのトンネルを通じて黒又川第四発電所に分水して発電した後、黒又川第一ダムと黒又川第二ダムにおいて貯水。発電に利用後灌漑用水として放流し越後平野に供給を行うことになった。また黒又川第二発電所と黒又川第四発電所は揚水発電とすることも計画に盛り込まれた。下流の水力発電所出力も増強させることで合計12万1,000キロワットの出力が確保される。1953年12月1日に現地調査所が開設されダム・発電所建設に着手したが、早期完成が最大の命題であったことから冬季も工事を進めることが決定した。 まず地元である入広瀬村大栃山集落などとの補償交渉を妥結させた後、本格的な工事に入ったが最大の難点は発電所建設地点における地質の軟弱さであった。黒又川流域における地質の問題は既に経済安定本部や商工省が1948年頃には指摘しており、OCIが「只見川分流案」を却下する最大の要因でもあった。導水トンネルを建設する地点は地すべり地帯で毎年地すべり被害を受けていたが、試験的に掘削を開始したところ湧水や軟弱な地盤が次々現れるなど工事は困難を極めた。軟弱地盤への対応策にはトンネルの鉄筋コンクリートによる補強が施されたが、湧水については排水ポンプがしばしば水没して使用不能になるなど難航し、最終的には排水専用の横坑を掘削して排水するに至った。 黒又川第一ダムの本体工事については電源開発が北海道の十勝川水系で進めていた十勝糠平一貫電源開発計画の根幹事業であった糠平ダム(音更川)で使用された工事用プラントや大規模工事機械を使用することで比較的順調に工事が進捗したが、冬季も工事を進めなければならなかったことから積雪や雪崩に悩まされた。1956年(昭和31年)には観測史上最大の豪雪があり積雪は4.5メートルにも達し、雪崩や着雪による設備への被害が深刻であった。さらに翌1957年(昭和32年)には黒又川流域に豪雨があり設備が流失するなど再度被害を受け、予定工期内に完成させるためその年の冬も工事を続行しなければならなかった。 こうした自然の猛威や地質との戦いを繰り広げながら1957年12月15日にはダム本体が完成し試験的に貯水を行う試験湛水(しけんたんすい)が開始され、翌1958年(昭和33年)2月17日には黒又川第一発電所の一部運転が開始された。そして10月12日に全面運転が開始され、難工事の割には4年11ヶ月という短期間で黒又川第一ダムと発電所は完成したのである。
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難工事
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/20 16:38 UTC 版)
「イラン・イスラーム共和国鉄道」の記事における「難工事」の解説
イラン縦貫鉄道は多くの山脈を通過し、ループ線や制限勾配36分の1区間が各処に見られる。建設開始時にはほとんどの区間で地図が作成されておらず、地質学的に未知の部分が多かった。そのためトンネルをふくむ数区間は、地質の不適合のため開通を目前にしても路線変更が必要となったのである。このような状況にもかかわらず、路線全体としては計画よりも早期に完成している。
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難工事
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丹那トンネルの工事は、1918年(大正7年)に予算770万円(当時)で着手され7年後の1925年(大正14年)に完成する予定だったが、約16年後の1934年(昭和9年)に総工費2,600万円(当時)で完成した。この工事期間の長さと膨れ上がった工費、事故による犠牲者67名(うち熱海口31名、函南口36名)が難工事を象徴している。
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