難工事とは? わかりやすく解説

難工事

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 12:33 UTC 版)

荒川 (関東)」の記事における「難工事」の解説

結局、この工事当初10年という予定期間を大幅に超え関連工事が完全に完了するまで17年間という歳月要し、3,200万円あまりの工事費費やした。これは最初に計上され総予算1,200万円の実に2.5倍に及んだ。さらに総数300万人以上を工事動員し出水土砂崩れなど多く災害により、30近く犠牲者出した工事大半手作業であり、蒸気掘削機トロッコ浚渫船実用化されていたものの、油圧ショベルブルドーザーダンプカーの様な重機無かった。また工事中幾度も台風襲われ中でも1917年大正6年9月30日台風では、記録的な高潮見舞われ工事機械船舶流出する他、関東大震災では各地工事中堤防への亀裂完成したばかりの橋梁崩落など枚挙に暇がない。さらに第一次世界大戦に伴う不況インフレーションも、難工事に拍車をかけた。

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難工事

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/01/22 08:54 UTC 版)

高見ダム」の記事における「難工事」の解説

高見ダム本格的な工事が行われる前、日高電源一貫開発計画発足後より現地調査北海道電力の手により1950年代より行われていた。だが、前述通り当時ダム建設予定地点ダムサイト)へは静内川沿う道が無く隣の三石町より通じ林道山越えをするか、支流春別川沿いより獣道度重なる渡河開拓入植者が住む奥高見地区まで向かい測量などの調査行った。奥高見地区よりダム地点までは道も無く現地猟師や馬による「ダンコ」と呼ばれる静内新冠特有のポーター協力得て道なき道踏破し静内川急流徒歩渡河していた。その後簡単な吊り橋丸太一本程度けられたが、ダム地点まで向かうのは容易ではなく東京から派遣され電力中央研究所幹部急流流されかけるなどのハプニング伝えられている。また当時高度経済成長に向かう時期で、急激な電力消費対応するため早急な電力開発全国的な至上命令であったことから、夏だけでなく極寒豪雪冬季にも調査実施しなければならなかった。その上ヒグマ多く徘徊しマダニブユ襲い来る中簡易テントでの野営余儀なくされ、調査員苦労筆舌に尽くし難いものがあったといわれている。 こうした激務によって地形地質などの基礎資料整い、かつ林道なども静内川沿いに整備されたことでダム建設のための調査後半になると円滑になった。ダム建設に伴う水没地の補償営林署所有する国有林のみであり、人家水没補償はなかったため比較問題なく進み1978年昭和53年)よりダム発電所工事着手した。だがこの工事相次ぐ労働災害によって殉職者を出す難工事となった。まず1979年昭和54年3月21日には発電所工事搬入トンネル建設現場火薬爆発して3名が死亡1982年昭和57年4月にはダム建設の際に河川流路変更する仮排水路のバイパストンネル工事現場落盤事故発生して3名が死亡、このほか工事現場へ向かう際の転落事故などで作業員死亡するなど建設中の事故相次いだ。さらに冬季から春季にかけての雪崩、それに続く融雪洪水による工事設備損壊など、自然も猛威振るった1982年3月21日には浦河沖地震発生静内町震度5強震記録したダム本体への影響はほとんど無かった相次ぐ災害静内町では「災害水神祟りではないかという噂も流れ作業員の間にも動揺広がったといわれている。このため施工主体である北海道電力静内神社依頼して現地祈祷行い人心の収拾努め一方で北海道電力副社長以下幹部などが現地集まって再発防止策検討し事故再発防止決議採択した合同慰霊祭安全祈願祭静内神社協力実施している。北海道警察労働基準監督署合同現場検証火薬爆発事故は「原因不明」、落盤事故は「予測不可能」であるとして不起訴処分となった。この一件HTB放映予定だった発電所取材番組お蔵入りになっているこうした難工事の末1983年昭和58年1月14日ダム試験的に貯水を行う「試験湛水たんすい)」が開始され7月30日には高見発電所営業運転が行われてダム発電所完成1951年北海道電力発足同時にダム発電所計画検討されてから32年という長い年月掛けて日高電源一貫開発計画根幹事業成ったのである

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難工事

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 14:26 UTC 版)

上椎葉ダム」の記事における「難工事」の解説

こうして高さ110.0メートルアーチ式コンクリートダムとしてダム骨格固まり1950年着工されたが、この頃日本発送電戦時体制協力した独占資本であるとして1948年昭和23年)に過度経済力集中排除法指定連合国軍最高司令官総司令部GHQ)から受け、着工同年にはポツダム政令によって電力事業再編令が発令、翌1951年昭和26年)に全国九地域の電力会社分割・民営化された。九州地方九州電力発電送電配電事業全て継承しダム建設九州電力引き継いだ1952年昭和27年)には本体工事着手40キロメートル離れた延岡市から建設資材輸送した隘路であったことから輸送は困難を極めた。 さらに、工事進展に伴い様々な問題にも直面した。まず基礎岩盤掘削した予想超える劣悪な岩盤であったことから、ダムサイト位置変更し再度掘削開始した続いてアメリカから輸入した工作機械用いて工事実施したが、現場で重機操作技術未熟な作業員多く、度々故障発生した。そして最も工事関係者悩ませたのは毎年襲い来る台風であった台風による器材流失人的被害毎年蒙っていたが、1954年昭和29年9月台風12号による被害は特に甚大で、耳川上流域で総雨量700ミリ超える記録的な豪雨ダム現場襲った。これにより建設中の上椎葉発電所損壊した他、建設プラント多く資材流失損壊し被害額当時の額で4億円、工事進捗半年遅延余儀なくされた。だが、肝心ダム本体は全く無傷であり、図らずもアーチダム洪水対す耐久性証明することにもなった。 数々の難工事を経て1955年昭和30年)にダム発電所完成した総工費130億円、建設従事した労働者延べ500万人九州電力社運賭けたプロジェクト大団円迎えた。だがこの栄光陰に、難工事によって105名の殉職者を出す結果ともなった完成時ダム近傍には彫刻家富永朝堂の作による仏教キリスト教水神の3女神像建立した女神像公園」が整備され公園内慰霊碑建立された。これは日本発送電時代からダム建設携わった九州電力初代社長佐藤篤二郎ダム工事共同企業体である鹿建設間組熊谷組奥村組各社長が施主となって尊い人命失ったことへの痛恨追悼の意を込め建立したのであるアーチダム技術上椎葉ダムより始まりその後宮城県鳴子ダム江合川建設省東北地方建設局)では工事全て日本人の手行った。さらにアーチダム技術進歩しより経済性優れたドーム型アーチダム和歌山県殿山ダム日置川関西電力)によって初め採用され、やがて日本のダムの歴史燦然と輝く大プロジェクト黒部ダム黒部川関西電力)へとつながっていく。

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難工事

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/03 13:55 UTC 版)

春別ダム」の記事における「難工事」の解説

春別ダム春別発電所建設当たっては、地質問題建設に際して大きな課題となっていた。春別川流域は本計画中でも屈指の険阻な峡谷であり、現在でも春別ダムより上流人跡未踏等しい地である。1952年より静内川水系新冠川水系地質流量などを測量するために設置され静内調査所はメンバーが主に20歳代の若い社員構成されていたが、春別川流域探索断崖激流阻まれ難航し測量班の作業員滝壺転落して死亡するという事故も発生した。またヒグマ徘徊マダニブユ襲来豪雪厳寒といった自然の猛威さらされながらもダム発電所基礎調査終了したダム発電所工事も難工事の連続であったダム本体工事において特に関係者悩ませたのは洪水である。水力発電適す河川裏を返すと「暴れ川」であり、集中豪雨春季融雪による洪水被害一再ではなく、本計画中核事業一つだった高見ダム静内川)が治水目的加えた多目的ダムへと事業変更する理由にもなった。春別ダム場合三度に及ぶ大洪水現場襲ったが、特にひどかったのが1962年昭和37年4月融雪洪水であった。この洪水では融雪加えて低気圧による集中豪雨加わり春別川過去最悪出水量となり、ダム建設の際に本体が来ないよう河川堰き止める「仮締切ダム」が洪水によって破壊されダム本体水没したこのままでは工事続行不可であり仮締切ダム再建必要だが、通常の工法では完成時期が1年以上遅延するこのため事務含めた従事者が仮締切ダム再建突貫工事従事し短時間再建漕ぎ着けた。 また新冠川から春別川を結ぶ導水トンネルも難工事であったアルプス山脈アンデス山脈などと同時期に形成され日高山脈日高造山運動によって形成されたが、トンネル建設地点は特に造山運動影響を受け、方々褶曲しゅうきょく)や衝上運動による複雑な地層となっており、これに春別断層という断層存在するため地質もろかったこうした脆弱ぜいじゃく)な地質全長4,096メートル長大トンネル建設することになったが、度重なる崩落鉄砲水によりトンネル横坑重機ごと埋没するなどダム工事にひけを取らない難工事となった。さらに作業員宿舎ストーブの火の不始末全焼し工事中断、これを嫌がったトンネル作業員集団離散し人手不足になるなど、労務面でも困難に直面した様々な困難が立て続け襲い掛かった最新工法導入した工事実施や、現場一致団結して難工事を克服したこともあって、最終的に予定され工期より2ヶ月短縮して1963年昭和38年10月3日ダム完成して春別発電所営業運転開始した。だがこれら難工事により、6名が労働災害により殉職している。

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難工事

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/13 08:58 UTC 版)

黒又川第一ダム」の記事における「難工事」の解説

黒又川分水計画下流より黒又川第一(61,500キロワット)・黒又川第二1万3,500キロワット)・黒又川第三1万3,700キロワット)・黒又川第四1万1,000キロワット)の四発所を建設奥只見ダムから全長6キロメートルトンネル通じて黒又川第四発電所分水して発電した後、黒又川第一ダム黒又川第二ダムにおいて貯水発電利用灌漑用水として放流し越後平野供給を行うことになった。また黒又川第二発電所黒又川第四発電所揚水発電とすることも計画盛り込まれた。下流水力発電所出力増強させることで合計121,000キロワット出力確保される1953年12月1日現地調査所が開設されダム発電所建設着手したが、早期完成最大命題であったことから冬季工事進めることが決定した。 まず地元である入広瀬村大栃山集落などとの補償交渉妥結させた後、本格的な工事入った最大難点発電所建設地点における地質軟弱であった黒又川流域における地質問題は既に経済安定本部商工省1948年頃には指摘しており、OCIが「只見川分流案」を却下する最大要因でもあった。導水トンネル建設する地点地すべり地帯毎年地すべり被害受けていたが、試験的に掘削開始したところ湧水軟弱な地盤次々現れるなど工事は困難を極めた軟弱地盤への対応策にはトンネル鉄筋コンクリートによる補強施されたが、湧水については排水ポンプがしばしば水没して使用不能になるなど難航し最終的に排水専用横坑掘削して排水する至った黒又川第一ダム本体工事については電源開発北海道十勝川水系進めていた十勝糠平一貫電源開発計画根幹事業であった糠平ダム音更川)で使用され工事プラント大規模工事機械使用することで比較順調に工事進捗したが、冬季工事進めなければならなかったことから積雪雪崩悩まされた。1956年昭和31年)には観測史最大豪雪があり積雪4.5メートルにも達し雪崩着雪による設備への被害が深刻であった。さらに翌1957年昭和32年)には黒又川流域豪雨があり設備流失するなど再度被害を受け、予定工期内に完成させるためその年の冬工事続行しなければならなかった。 こうした自然の猛威地質との戦い繰り広げながら1957年12月15日にはダム本体完成し試験的に貯水を行う試験湛水しけんたんすい)が開始され、翌1958年昭和33年2月17日には黒又川第一発電所一部運転が開始された。そして10月12日全面運転が開始され、難工事の割には4年11ヶ月という短期間黒又川第一ダム発電所完成したのである

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難工事

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/20 16:38 UTC 版)

イラン・イスラーム共和国鉄道」の記事における「難工事」の解説

イラン縦貫鉄道多く山脈通過しループ線制限勾配36分の1区間が各処見られる建設開始時にはほとんどの区間地図作成されておらず、地質学的未知部分多かった。そのためトンネルをふくむ数区間は、地質不適合のため開通目前にしても路線変更が必要となったのであるこのような状況にもかかわらず路線全体として計画よりも早期完成している。

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難工事

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 06:09 UTC 版)

丹那トンネル」の記事における「難工事」の解説

丹那トンネル工事は、1918年大正7年)に予算770万円当時)で着手され7年後1925年大正14年)に完成する予定だったが、約16年後1934年昭和9年)に総工費2,600万円当時)で完成した。この工事期間の長さ膨れ上がった工費事故による犠牲者67名(うち熱海31名、函南36名)が難工事を象徴している。

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