京都時代とは? わかりやすく解説

京都時代(60年代後半 - 70年初頭)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/09 07:01 UTC 版)

裸のラリーズ」の記事における「京都時代(60年代後半 - 70年初頭)」の解説

1967年11月同志社大学学生だった水谷孝ギターヴォーカル)、中村武志ギター)、若林盛亮ベース)の3人で結成若林脱退前後してドラム加藤隆史加わったという。翌68年からコンサート活動開始。ほぼ同時に演出家劇作家小松辰男が主催する劇団現代劇場」と関わり演奏上演合体相克直に伝えるような壮絶な公演行ったとされる69年4月には京都大学バリケードの中で行われたイベント「バリケード・ア・ゴーゴー」に出演、また現代劇場の関連団体、モダン・アート・ソサエティの協力得て冤罪としてのリサイタル」と題されコンサート4月10月敢行した。後者告知チラシには「話題のラディカル・ミュージック、黒のジプシー・バンド〈水谷孝裸のラリーズ〉」という見出し掲載され、彼らの音楽当時全共闘運動などに表出され学生たちの心情的ラディカリズム強く共鳴するのだったことを伝えている。この時期演奏は後にアルバム『'67-'69 STUDIO et LIVE』に収録され騒音的なバンド・アンサンブルと象徴詩風のほの暗いからなる両極音楽世界窺い知る事が出来る。 バンドのメンバー水谷を除くと流動的ともいえ、69年4月リサイタルチラシには水谷加藤多田孝司、昆野正紀、10月リサイタルチラシでは水谷多田松本務という名前が記されている。そして同年秋に水谷加藤多田の3人で行ったライヴが「京都版ラリーズ」の最後演奏だったという。 翌70年前半頃に、水谷牧野忠央、久保田麻琴という3人でレコーディング数回ライヴ行った。後のアルバムMIZUTANI -Les Rallizes Denudes-』に収められた5曲のスタジオ録音、1曲のライヴ録音その時のもので、これらはソロ名義による活動/作品として「Mizutani '70 STUDIO & LIVE」とクレジットされている。

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京都時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/10 15:38 UTC 版)

諏訪蘇山 (初代)」の記事における「京都時代」の解説

1900年明治33年1月京都行き粟田錦光山宗兵衛工場製陶改良携わり彩釉透彫花瓶製作した1901年明治34年10月7日日本大菩提会(英語版技術員となり、日暹寺シャム国王寄贈仏舎利入れ仏龕製作し1903年明治36年10月辞職した1906年明治39年10月光山工場辞し1907年明治40年1月京都市五条坂独立して窯を構えた七官青磁交趾釉、白高麗漆黒釉等、多岐に渡る様式研究し1913年大正2年)には鳥の子青磁考案した1914年大正3年1月李王職依頼朝鮮渡り高麗古窯旧跡調査し11月帰国して窯の再建指導した1915年大正4年6月昌徳宮苑内鷹峰完成すると、8月再訪して焼成実験行い10月帰国した1917年大正6年6月11日宮内省帝室技芸員選ばれ1919年大正9年久邇宮邦彦王台湾訪問1921年大正10年聖徳太子1,300年忌等に際し作品献上した

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京都時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 03:06 UTC 版)

高田渡」の記事における「京都時代」の解説

1969年フォークソング潮流の源であった関西拠点を移す。高石事務所に所属し、京都山科下宿で暮らす。高石ともや岡林信康中川五郎早川義夫加川良岩井宏ひがしのひとし古川豪藤村直樹らと関西フォーク・ムーブメントの中心的存在となる。しかし、カテゴライズされることを嫌い、まったく独自の存在感主張貫いた高石事務所運営するURCレコードから五つの赤い風船とのカップリングアルバムでレコードデビューそのほかLPは『汽車田舎を通るそのとき』、シングルは「大・ダイジェスト版 三億円強奪事件の唄」「転身」「自衛隊に入ろう」と、通算2枚LP3枚シングル盤リリースしライブ活動仕事潤沢にあったが、事務所の不正が発覚した際、抗議して契約解除になる。これは高田本人への不正ではなく五つの赤い風船へのギャラのダンビングであったフリーになると仕事激減したが、しばらく京都アルバイトしながら活動する翌年高石事務所音楽舎となる。 1970年第2回全日本フォークジャンボリーでは、ヒッチハイク東京に来たブルースシンガーのシバや、アート音楽出版にいた加川良ステージ上げ二人デビュー手伝っている。このとき、キングレコード三浦光紀出会い東京での再出発に繋がる。

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京都時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/04 08:51 UTC 版)

新島八重」の記事における「京都時代」の解説

明治4年1871年)、京都府顧問となっていた実兄山本覚馬頼って上洛する。翌年、兄の推薦により京都女紅場(後の府立第一高女)の舎長・教道試補となる。この女紅場に茶道教授として勤務していたのが裏千家13千宗室円能斎)の母で、これがきっかけ茶道親しむようになる。兄の著書の出版支援行っていた。 兄の元に出入りしていたアメリカン・ボードの準宣教師新島襄知り合い明治8年1875年10月婚約する当時新島キリスト教主義学校建設阻止しようと町の僧侶神官たちが連日のように抗議集会開き京都府知事文部省嘆願書提出するなどし圧力をかけていたため、京都府婚約直後八重女紅場から解雇した明治9年1876年1月3日アメリカン・ボード宣教師ジェローム・デイヴィス司式により再婚した女紅場勤務していたときの経験生かし同志社運営助言与えた欧米流のレディファースト身に付いていた襄と、男勝り性格だった八重似合い夫婦であったという。しかし夫をかしずかせ、車にも夫より先に乗る姿を見た当時同志社学生だった徳富蘇峰は彼女にというあだ名をつけ世間からは「悪妻」と評された。しかし夫婦仲はとても良く、夫の襄はこの時期アメリカの友人の手紙で「彼女の生き方ハンサムなのです。」と書いている。 明治9年1876年11月より、アメリカン・ボード宣教師アリス・スタークウェザーと共に柳原邸に同志社女学校(後の、同志社女子大学)を開設した明治21年1888年5月、襄は彼のよき理解者であり、協力者であった奈良県吉野山林事業家自由民権運動主導者板垣退助財政的後ろ盾でもあった土倉庄三郎に「小生病症は早ヤ心臓病相違無之、早晩小生ハ此之病之為ニ斃るへきハ覚悟せねばならさる由」(原文ママ)などと書簡で縷々述べ自分亡き後学校のこと、八重の生活のことについて協力求めている。明治23年1890年1月23日、襄は病気のため急逝した襄の死後八重は、襄の門人たちと性格的にそりが合わず同志社とは次第疎遠になっていったという。ただし、襄の臨終八重とともに立ち会った徳富蘇峰は、八重に「私は同志社以来貴女に対してまことに済まなかった。しかし新島先生が既に逝かれたからには今後貴女先生形見として取り扱ひますから貴女もその心持を以て、私につきあつ下さい」と述べ八重亡くなるまでその言葉通り交際をした。蘇峰によれば晩年八重蘇峰頼りとし、何度となく相談をしたという。

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京都時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 08:29 UTC 版)

やしきたかじん」の記事における「京都時代」の解説

翌年龍谷大学経済学部入学し桃山学院大学中退京都移り住む。三畳一間の下宿高校の同級生関西学院大学進学した荒木十章らと曲作りに励む。大学6年在籍したあと中退祇園ハンバーガーショップ「ホリデーバーガー」で弾き語り歌ったのを皮切りに祇園クラブスナックギター弾き語り始め自分の曲以外に様々な曲のレパートリー増やす。この時期たかじん自暴自棄になっており、弾き語り態度の悪い客には生卵ママレモン食器用洗剤)・タバスコ等をぶっかけたり、2階から放り出したりして暴れていたため、次々クビになったという。

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京都時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/12 06:21 UTC 版)

篠崎勝」の記事における「京都時代」の解説

1937年京都帝国大学文学部国史科)に入学西田直二郎主任教授とした「日本文化史」教室所属した卒業論文は、「陸海軍創設過程近代日本成立史一定礎―」であった京大では心茶会属して毎週参加していた。 卒業後、大学院在籍しつつ、同志社中学校立命館専門学校非常勤講師をした。1942年奈良本辰也誘い京都市編纂員(嘱託となった1948年編纂室の閉鎖決まりその残務整理引き受けた市史編纂では近世経済史分野担当したが、夢窓国師など中世宗教思想分野にも関心寄せていた。京都寺院重宝調査にも加わった1950年には京都市観光局計画計画係長となった

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京都時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/04 09:28 UTC 版)

本田渓花坊」の記事における「京都時代」の解説

京都市上京区西陣糸屋町生まれ今出川新町辺り住んでいた頃、明治41年(1908年)頃から川柳活動始め明治43年には京都友社という同好会一員として創作に励む。この流れの中で、地元京都川柳仲間である藤本蘭華と共に明治45年(1912年)3月京都初めての川柳専門雑誌「みづ」を発刊

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