京都時代(60年代後半 - 70年初頭)
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1967年11月、同志社大学の学生だった水谷孝(ギター、ヴォーカル)、中村武志(ギター)、若林盛亮(ベース)の3人で結成。若林の脱退と前後してドラムの加藤隆史が加わったという。翌68年からコンサート活動を開始。ほぼ同時に演出家・劇作家の小松辰男が主催する劇団「現代劇場」と関わり、演奏と上演の合体、相克を直に伝えるような壮絶な公演を行ったとされる。69年4月には京都大学のバリケードの中で行われたイベント「バリケード・ア・ゴーゴー」に出演、また現代劇場の関連団体、モダン・アート・ソサエティの協力を得て「冤罪符としてのリサイタル」と題されたコンサートを4月と10月に敢行した。後者の告知のチラシには「話題のラディカル・ミュージック、黒のジプシー・バンド〈水谷孝と裸のラリーズ〉」という見出しが掲載され、彼らの音楽が当時の全共闘運動などに表出された学生たちの心情的ラディカリズムと強く共鳴するものだったことを伝えている。この時期の演奏は後にアルバム『'67-'69 STUDIO et LIVE』に収録され、騒音的なバンド・アンサンブルと象徴詩風のほの暗い歌からなる両極の音楽世界を窺い知る事が出来る。 バンドのメンバーは水谷を除くと流動的ともいえ、69年4月のリサイタルのチラシには水谷、加藤、多田孝司、昆野正紀、10月のリサイタルのチラシでは水谷、多田、松本務という名前が記されている。そして同年秋に水谷、加藤、多田の3人で行ったライヴが「京都版ラリーズ」の最後の演奏だったという。 翌70年前半頃に、水谷、牧野忠央、久保田麻琴という3人でレコーディングと数回のライヴを行った。後のアルバム『MIZUTANI -Les Rallizes Denudes-』に収められた5曲のスタジオ録音、1曲のライヴ録音はその時のもので、これらはソロ名義による活動/作品として「Mizutani '70 STUDIO & LIVE」とクレジットされている。
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京都時代
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1900年(明治33年)1月京都に行き、粟田の錦光山宗兵衛工場で製陶改良に携わり、彩釉透彫花瓶を製作した。1901年(明治34年)10月7日日本大菩提会(英語版)技術員となり、日暹寺でシャム国王寄贈の仏舎利を入れる仏龕を製作し、1903年(明治36年)10月辞職した。 1906年(明治39年)10月錦光山工場を辞し、1907年(明治40年)1月京都市五条坂に独立して窯を構えた。七官青磁、交趾釉、白高麗、漆黒釉等、多岐に渡る様式を研究し、1913年(大正2年)には鳥の子青磁を考案した。 1914年(大正3年)1月李王職の依頼で朝鮮に渡り、高麗古窯旧跡を調査し、11月帰国して窯の再建を指導した。1915年(大正4年)6月昌徳宮苑内鷹峰に完成すると、8月再訪して焼成実験を行い、10月帰国した。 1917年(大正6年)6月11日宮内省帝室技芸員に選ばれ、1919年(大正9年)久邇宮邦彦王台湾訪問、1921年(大正10年)聖徳太子1,300年忌等に際し作品を献上した。
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京都時代
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1969年、フォークソングの潮流の源であった関西に拠点を移す。高石事務所に所属し、京都山科の下宿で暮らす。高石ともや、岡林信康、中川五郎、早川義夫、加川良、岩井宏、ひがしのひとし、古川豪、藤村直樹らと関西フォーク・ムーブメントの中心的存在となる。しかし、カテゴライズされることを嫌い、まったく独自の存在感と主張を貫いた。 高石事務所が運営するURCレコードから五つの赤い風船とのカップリングアルバムでレコードデビュー。そのほか、LPは『汽車が田舎を通るそのとき』、シングルは「大・ダイジェスト版 三億円強奪事件の唄」「転身」「自衛隊に入ろう」と、通算2枚のLPと3枚のシングル盤をリリースし、ライブ活動の仕事も潤沢にあったが、事務所の不正が発覚した際、抗議して契約解除になる。これは高田本人への不正ではなく、五つの赤い風船へのギャラのダンビングであった。フリーになると仕事は激減したが、しばらく京都でアルバイトをしながら活動する。翌年、高石事務所は音楽舎となる。 1970年、第2回全日本フォークジャンボリーでは、ヒッチハイクで東京に来たブルースシンガーのシバや、アート音楽出版にいた加川良をステージに上げ、二人のデビューを手伝っている。このとき、キングレコードの三浦光紀と出会い、東京での再出発に繋がる。
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京都時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/04 08:51 UTC 版)
明治4年(1871年)、京都府顧問となっていた実兄・山本覚馬を頼って上洛する。翌年、兄の推薦により京都女紅場(後の府立第一高女)の権舎長・教道試補となる。この女紅場に茶道教授として勤務していたのが裏千家13代千宗室(円能斎)の母で、これがきっかけで茶道に親しむようになる。兄の著書の出版支援も行っていた。 兄の元に出入りしていたアメリカン・ボードの準宣教師・新島襄と知り合い、明治8年(1875年)10月に婚約する。当時、新島のキリスト教主義学校建設を阻止しようと町の僧侶・神官たちが連日のように抗議集会を開き、京都府知事・文部省に嘆願書を提出するなどし圧力をかけていたため、京都府は婚約直後に八重を女紅場から解雇した。 明治9年(1876年)1月3日にアメリカン・ボードの宣教師ジェローム・デイヴィスの司式により再婚した。女紅場に勤務していたときの経験を生かし、同志社の運営に助言を与えた。欧米流のレディファーストが身に付いていた襄と、男勝りの性格だった八重は似合いの夫婦であったという。しかし夫をかしずかせ、車にも夫より先に乗る姿を見た当時同志社の学生だった徳富蘇峰は彼女に鵺というあだ名をつけ世間からは「悪妻」と評された。しかし夫婦仲はとても良く、夫の襄はこの時期にアメリカの友人への手紙で「彼女の生き方はハンサムなのです。」と書いている。 明治9年(1876年)11月より、アメリカン・ボードの宣教師アリス・スタークウェザーと共に旧柳原邸に同志社女学校(後の、同志社女子大学)を開設した。 明治21年(1888年)5月、襄は彼のよき理解者であり、協力者であった奈良県吉野の山林事業家で自由民権運動の主導者・板垣退助の財政的後ろ盾でもあった土倉庄三郎に「小生ノ病症は早ヤ心臓病ニ相違無之、早晩小生ハ此之病之為ニ斃るへきハ覚悟せねばならさる由」(原文ママ)などと書簡で縷々述べ、自分亡き後の学校のこと、八重の生活のことについて協力を求めている。明治23年(1890年)1月23日、襄は病気のため急逝した。 襄の死後の八重は、襄の門人たちと性格的にそりが合わず、同志社とは次第に疎遠になっていったという。ただし、襄の臨終に八重とともに立ち会った徳富蘇峰は、八重に「私は同志社以来、貴女に対してはまことに済まなかった。しかし新島先生が既に逝かれたからには、今後貴女を先生の形見として取り扱ひますから、貴女もその心持を以て、私につきあつて下さい」と述べ、八重が亡くなるまでその言葉通りの交際をした。蘇峰によれば晩年の八重は蘇峰を頼りとし、何度となく相談をしたという。
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京都時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 08:29 UTC 版)
翌年、龍谷大学経済学部へ入学し、桃山学院大学を中退。京都に移り住む。三畳一間の下宿で高校の同級生で関西学院大学に進学した荒木十章らと曲作りに励む。大学は6年在籍したあと中退。祇園のハンバーガーショップ「ホリデーバーガー」で弾き語りで歌ったのを皮切りに、祇園のクラブやスナックでギターの弾き語りを始め、自分の曲以外に様々な曲のレパートリーを増やす。この時期のたかじんは自暴自棄になっており、弾き語りで態度の悪い客には生卵・ママレモン(食器用洗剤)・タバスコ等をぶっかけたり、2階から放り出したりして暴れていたため、次々にクビになったという。
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京都時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/12 06:21 UTC 版)
1937年京都帝国大学文学部(国史科)に入学、西田直二郎を主任教授とした「日本文化史」教室に所属した。卒業論文は、「陸海軍の創設過程―近代日本成立史の一定礎―」であった。京大では心茶会に属して毎週参加していた。 卒業後、大学院に在籍しつつ、同志社中学校・立命館専門学校の非常勤講師をした。1942年、奈良本辰也の誘いで京都市史編纂員(嘱託)となった。1948年に編纂室の閉鎖が決まりその残務整理を引き受けた。市史編纂では近世経済史の分野を担当したが、夢窓国師など中世の宗教や思想の分野にも関心を寄せていた。京都の寺院重宝調査にも加わった。1950年には京都市観光局計画課計画係長となった。
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京都時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/04 09:28 UTC 版)
京都市上京区西陣糸屋町生まれ。今出川新町の辺りに住んでいた頃、明治41年(1908年)頃から川柳の活動を始め、明治43年には京都柳友社という同好会の一員として創作に励む。この流れの中で、地元京都の川柳仲間である藤本蘭華と共に、明治45年(1912年)3月、京都で初めての川柳専門雑誌「みづ鳥」を発刊。
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