福澤諭吉 研究・評価史

福澤諭吉

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/17 23:57 UTC 版)

研究・評価史

日本における福澤研究をめぐる論争

「脱亜論」再発見から

太平洋戦争大東亜戦争)後、歴史学者の服部之総遠山茂樹らによって諭吉の「脱亜論」が再発見され、「福沢諭吉はアジア諸国を蔑視し、侵略を肯定したアジア蔑視者である」と批判された[112]丸山真男服部之総の諭吉解釈を「論敵」としていたといわれる[113]

平成13年(2001年)、朝日新聞に掲載された安川寿之輔の論説「福沢諭吉 アジア蔑視広めた思想家[114]」に、平山洋が反論「福沢諭吉 アジアを蔑視していたか」[115]を掲載したことで、いわゆる「安川・平山論争」が始まった[116]

平山は、井田進也の文献分析を基礎に[117]、諭吉のアジア蔑視を、『福澤諭吉伝』の著者で『時事新報』の主筆を務め、『福澤全集』を編纂した石河幹明の作為にみる[118]。平山によれば、諭吉は支那中国)や朝鮮政府を批判しても、民族そのものをおとしめたことはなかった。しかし、たとえばの兵士をになぞらえた論説など、差別主義的内容のものは石河の論説であり、全集編纂時に諭吉のものと偽って収録したのだという。

しかしながらこの問題は、平山自身や都倉武之がいうように、無署名論説の執筆者を文献学(テキストクリティーク)的に確定しないことには決着がつかない[119]井田進也は無署名論説認定方法を応用した『福澤諭吉全集』収録の「時事新報論説」執筆者再認定作業を開始している[120]。今後の研究が待たれるところである[121]

わが国が近代国家形成の為にとった選択とは、まさに「脱亜」の二字でありました。しかしその日本には大変大きな不幸があります。それは隣国支那と朝鮮です。人種の違いなのか、教育の差なのか、日本との文化的隔たりは余りにも大きいものです。教育といえば、二千年も昔の儒教と仁義礼智。一から十まで外見を飾り立てる事だけで、中身は空、道徳心などかけらもなく、その残酷さは破廉恥を極めています。いまの支那朝鮮は、日本の為に毛筋一本の値打ちもありません。支那朝鮮とは早々に縁を切り、西欧諸国と進退を共にすべきです。もはや隣国だからと、格別の配慮などする必要はありません。支那朝鮮に対しては、人の住む国とさえ思わず、厳しく対処すればよろしい。私の心はもはや、東方アジアの悪である支那朝鮮とは絶交を宣言しています。 — 『脱亜論』1885年(明治18年)3月16日

「時事新報」無署名論説

平山洋は、井田の分析を基に現行全集の第七巻までは署名入りで公刊された著作であるのに対して、八巻以降の『時事新報論集』はその大部分が無署名であることを指摘した上で、大正時代の『福沢全集』(1925 - 26年)と昭和時代の『続福沢全集』(1933 - 34年)の編纂者であった弟子の石河幹明が『時事新報』から選んだものを、そのまま引き継いで収録しているとした。さらに現行版『全集』(1958 - 64年)の第一六巻には諭吉の没後数か月してから掲載された論説が六編収められていることも指摘している[122]

人気度

2000年(平成12年)3月12日付で朝日新聞により「この1000年・日本の政治リーダー読者人気投票」という特別企画が組まれ、西暦1000年から1999年の間に登場した歴史上の人物の中から、「あなたが一番好きな政治リーダー」を投票してもらう企画で、得票数7,863票のうち、第6位の豊臣秀吉(382票)に次ぐ第7位(330票)にランクインするなど、国民的な人気がある[123]

アメリカ合衆国における評価

中国における評価

平山洋は、「中国人による福沢批判の声の大きさに惑わされて、その主張にほとんど多様性がない」と批判した。

彼ら中国の福沢批判者は、彼の思想を実際に読んでいるわけではなく、ごくわずかだけ中国語訳されている、日本の福沢研究論文の骨子を、中国語で叫んでいるだけなのである。彼らが下敷きにしているのは、服部之総遠山茂樹安川寿之輔らの研究である。それ以外の、福沢を「市民的自由主義者」として肯定的に評価する丸山真男らの論文が出発点となることはない。[124]

小川原正道は、「平成22年11月に北京大学で講演し、福沢の文化思想や宗教思想などについて話した際、同大学の著名な教授から「福沢には『脱亜論』以外の側面もあるんですね」と素直に驚かれ、愕然とした」と述べる[125]

また、最も福澤の対外思想へ批判的な安川寿之輔の著書が近年中国で盛んに翻訳されている[126]

だが、区建英の研究によると、以下のように説明されている:

  1. 清朝末期における福澤はむしろ優れた啓蒙思想家、教育家としての一面が強く認識されていた[127]
  2. また1980年代に中国の改革開放政策を進める中、日本の「近代化」の成功へ着目し、日本に成功の秘訣を学ぼうとする傾向が生じた。福澤も日本の「近代化」を支えた思想家、そしてシンボルの一つとみなされ、彼の「脱亜論」を再評価する見方さえも登場した [128]
  3. 決してのちの福澤=脱亜論者というイメージではなかった。

丸山眞男は中国における福澤の人物像に対する主な反論として以下の5点を挙げている:

  1. 「脱亜」は福澤のキーワードではなかった[129]
  2. 福澤が1885年の時点でただ一回だけ「脱亜」の文字を用いて書いた社説は、1884年12月に「甲申政変」の失敗のもとに執筆された。一時的な感情の表現と解釈すべきである[130]
  3. 「脱亜」という言葉は「興亜」という言葉に対するシニカルな反語的表現と思われる[131]
  4. 福澤の思想においては、終始、政府(政権)と国とをはっきり区別した立場がとられ、また政府の存亡と人民あるいは国民の存亡とを厳しく別個の問題として取り扱う考え方が貫かれていた。攻撃の対象は中国・朝鮮の人民ではなく、あくまでも満清・李氏朝鮮の政府である[132]
  5. 「脱亜入欧」という表現が福澤の全思想のキーワードとして世界に流通するのは1950年代以後の傾向である[133]

台湾における評価

李登輝は、講演「学問のすゝめと日本文化の特徴」で諭吉について、欧米を日本に紹介するだけではなく、『学問のすゝめ』を著すことによって、思想闘争を行い、日本文化の新しい一面を強調しながらも日本文化の伝統を失わずに維持したと評価している[134]

韓国における評価

大韓民国脱亜論を引用した研究論文が見られるようになるのは1970年以降であり[135]1980年代に日本で歴史教科書問題が起こり、日本の朝鮮侵略の論理として改めて認知され、現在は韓国の高校世界史教科書にも載っている[136]

諭吉が援助した李氏朝鮮開化派は、その中心にいた朴泳孝日本統治時代の朝鮮において爵位を得るなどの厚遇を得て、金玉均は死後に贈位されたことなどから、独立後の韓国では親日派とみなされ、諭吉への関心もほとんどなかったものと推測される。金に対する評価は北朝鮮の方が高く[注釈 11]、それを受けた形で、歴史研究家の姜在彦1974年(昭和49年)に「金玉均の日本亡命」を発表し[137]、諭吉に触れて「最近の研究で明らかにされてきているように、諭吉の思想における国権論的側面」という言葉が見える。この当時の日本において、諭吉を自由主義者としてではなく国権論者としてとらえ、侵略性を強調する傾向が高まっていたわけだが、姜在彦は諭吉に両面性を見ており、「日本を盟主とする侵略論につながる危険性をはらむ」としつつも、開化派への援助には一定の評価を与えている[138]

現在の韓国におけるごく一般的な諭吉像は、日本における教科書問題を受けて形作られたため、極端に否定的なものとなっている[注釈 12]。一般的に、韓国における諭吉は往々にして征韓論者として位置づけられ、脱亜論など、諭吉の朝鮮関連の時事論説が書かれた当時の状況は考慮されず、神功皇后伝説や豊臣秀吉にまでさかのぼるとされる日本人の侵略思想の流れの中で捉えられている。1990年代辺りから、在日学者の著作にもそういった傾向が見られるようになり、その例としては、1996年(平成8年)の韓桂玉の『「征韓論」の系譜』[139]2006年の琴秉洞[注釈 13]『日本人の朝鮮観 その光と影』[140]を挙げることができる。

1990年代におけるこういった韓国の状況が、諭吉に侵略性を見る日本側の教科書問題と連動し続けていることは、安川寿之輔が『福沢諭吉のアジア認識』の「あとがき」で詳細に述べている。高嶋伸欣1992年(平成4年)に執筆した教科書において、日本人のアジア差別に関係するとして脱亜論を引用し、検定によって不適切とされ訴訟になった。日本の戦争責任を追及する市民運動に身を投じていた安川は、この訴訟を契機として、諭吉を「我が国の近代化の過程を踏みにじり、破綻へと追いやった、我が民族全体の敵」とするような韓国の論調に共鳴し、30年ぶりに諭吉研究に取り組んだという。

杵淵信雄は安川とは異なり、『福沢諭吉と朝鮮』の中で「脱亜論の宣言を注視するあまり、(諭吉は)アジアとの連帯から侵略へと以後転じたとする誤解が生じた」として、諭吉の侵略性を強調する立場ではないが、1997年(平成9年)の時点において、「李氏朝鮮の積弊を痛罵し、しばしば当り障りの強い表現を好んだ諭吉の名が、隣国では、不愉快な感情と結びつくのは自然な成行である」と、韓国における感情的な反発に理解を示している[141]

一方、1990年代の韓国において、諭吉研究に取り組む研究者が複数現れたことを林宗元は述べている[142]。林の紹介するところによれば、その観点も、日本における「自由主義者か帝国主義者か」という議論を引き継ぐもの、朝鮮の開化主義者と諭吉を比較するもの、諭吉と朝鮮開化派との関係を追求するもの、諭吉の反儒教論を批判分析するものなど多岐にわたっており、否定的なものばかりではないことが注目される。

2000年代に入り、こういった学問的取り組みと並行して、近代化の旗手としての諭吉への一定の理解が新聞論調にも見え始める[143]2004年(平成16年)前後に登場したニューライトは、金玉均など朝鮮開化派を高く評価し、日本統治時代の朝鮮における近代化も認める立場をとっており、従来の被害者意識から離れた歴史観を提唱するなど新しい風を巻き起こした。同年、林宗元によって『福翁自伝』が韓国語に翻訳・出版されたことも、韓国における諭吉像に肯定的な彩りを加えた。韓国主要紙はのきなみ好意的な書評をよせ、ハンギョレは「ハンギョレが選んだ今年の本」の翻訳書の一つとして紹介している。

しかし、韓国において諭吉に侵略性を見る従来の見解は根強く、また日本においても脱亜論が一人歩きする傾向が著しい[136]2005年ノリミツ・オオニシニューヨーク・タイムズ東京支局長は「日本人の嫌韓感情の根底には諭吉の脱亜論がある」[144]とした。東京発のこういった報道を受けてか、中央日報では再び諭吉を「アジアを見下して侵略を肯定した嫌韓の父であり右翼の元祖」と評してもいる[145][146]

また、稲葉継雄は、韓国で諭吉の侵略性の認識が高まっていると論じてもいて[147]、韓国における諭吉像は、韓国内の政治情勢とともに、日韓の外交関係、世論のキャッチボールによっても大きく揺れ動いている。


注釈

  1. ^ 学術誌、研究書、辞典類、文部科学省検定教科書など。一方、慶應義塾大学をはじめとする学校法人慶應義塾の公式ホームページでは「福澤諭吉」と表記されている。例えば、慶應義塾についてを参照。なお、学術書でも「福澤諭吉」の表記を用いるものも近年、出現している。
  2. ^ 他にも諸説ある平山洋・信州福沢11カ所めぐり参照
  3. ^ 百助が所持していた伊藤東涯の『易経集注』という書は福沢家に残され、現在は慶應義塾大学に寄託されている。
  4. ^
    製薬の事についても奇談がある。るとき硫酸りゆうさんを造ろうと云うので、様々大骨折おおぼねおつて不完全ながら色の黒い硫酸が出来たから、これを精製して透明にしなければならぬと云うので、その日はず茶椀に入れて棚の上に上げておいた処が、鶴田仙庵が自分で之を忘れて、何かのはずみにその茶椀を棚から落して硫酸を頭からかぶり、身体からだまでの怪我けがはなかったが、丁度ちようど旧暦四月の頃で一枚のあわせをズダ/\にした事がある。 — 福沢諭吉
  5. ^ それまで、中津藩邸に近い木挽町にあった佐久間象山の塾には多くの中津藩士が通っており、象山は中津藩のために西洋式大砲二門を鋳造し上総国の姉ヶ崎で試射したりしている。象山に学んだ岡見彦三清熙は江戸藩邸内に蘭学塾を設けていた
  6. ^

    併(しか)しこの航海に就(つい)ては大(おおい)に日本の為(た)めに誇ることがある、と云(い)うのは抑(そ)も日本の人が始めて蒸気船なるものを見たのは嘉永六年、航海を学び始めたのは安政二年の事で、安政二年に長崎に於(おい)て和蘭(オランダ)人から伝習したのが抑(そもそ)も事の始まりで、その業(ぎよう)成(なつ)て外国に船を乗出(のりだ)そうと云うことを決したのは安政六年の冬、即(すなわ)ち目に蒸気船を見てから足掛(あしか)け七年目、航海術の伝習を始めてから五年目にして、夫(そ)れで万延元年の正月には出帆しようと云うその時、少しも他人の手を藉(か)らずに出掛けて行こうと決断したその勇気と云いその伎倆(ぎりよう)と云い、是(こ)れだけは日本国の名誉として、世界に誇るに足るべき事実だろうと思う[10][11]

  7. ^ 福翁自伝』に航海中の海舟の様子を揶揄するような記述が見られる。富田正文校訂 『新訂 福翁自伝』、岩波書店岩波文庫〉、1978年、ISBN 4-00-331022-5 の「初めてアメリカに渡る」の章にある「米国人の歓迎祝砲」(112頁)を参照。福翁自傳 - 200 ページを参照。

    勝麟太郎(かつりんたろう)と云う人は艦長木村の次に居て指揮官であるが、至極(しごく)船に弱い人で、航海中は病人同様、自分の部屋の外に出ることは出来なかった

  8. ^ 諭吉は『福沢全集緒言』において以下のように述べている:
    たと えば英語えいご のスチームを従来じゅうらい 蒸氣じょうきやく するのれい なりしかども、何か一文字にちゞ めることはかな うまじきやと思付おもいつ き、 れと目的はなけれども、蔵書ぞうしょ康熙字典こうきじてん持出もちだ してたゞ 無暗むやみ火扁ひへん 水扁みずへん などの部を捜索そうさく する中に、 う字を見て、その ちゅう に水の なりとあり、 れは面白しとひと首肯しゅこう して始めて の字をもち いたり。ただ西洋事情せいようじじょう の口絵に蒸滊済人じょうきさいじん 云々うんぬんしる したるは、対句ついくじょう の一字をくわ えたることなり。今日こんにち りてはなか滊車きしゃ と云い滊船きせん 問屋どいや と云い、誠に普通ふつう の言葉なれども、その もとたず ぬれば三十二年前、余が盲捜めくらさが しにさが てたるものを即席そくせき頓智とんちまか せてまん版本はんぽんのぼ せたるこそ の字の発端ほったん なれ。又当時とうじコピライト意義いぎふく みたる文字もなし。官許かんきょ えば や似寄りたれども、その じつ政府せいふ忌諱きい れずとのしめ すのみにして、江戸の慣例かんれい れば、臭草紙くさぞうし の類は町年寄まちどしより権限内けんげんない にて取捌とりさば き、それ 以上、学者の著述ちょじつ聖堂せいどう 、又飜訳書ほんやくしょ なれば蕃書調所ばんしょしらべしょ と称する政府せいふ洋学校ようがっこう にて許可きょか するの法にして、著書ちょしょ 発行はっこう名誉めいよ 権利けんり著者ちょしゃ専有せんゆう すと うがごと私有権しゆうけん意味いみ を知る者なし。よっ て余はその コピライトの横文字よこもじ直訳ちょくやく して版権はんけん新文字しんもじ製造せいぞう したり。其他そのた吾々われわれ 友人間ゆうじんかん にて作りたる新字もはなは だ少なからず。わす れたり、学友がくゆう横文おうぶん にあるドルラル記号きごう $を見てたて似寄により りの弗の字を用い、ドルラルと ませたるが如き面白おもしろ思付おもいつき にして、これはん し余がポストヲフヒス飛脚場ひきゃくばポステージ飛脚印ひきゃくじるし と訳して郵便ゆうびんゆう の字に心付こゝろづ かず、ブックキーピング帳合ちょうあい と訳して簿記ぼき の字を用いざりしは、あまぞく ぎたる故か今日こんにち に行わるゝを ず。 — 福沢諭吉、『福沢全集緒言』22-24頁
  9. ^ 次郎長もこの石碑が建てられた際に来ているが、意味がわからない子分のために漢文の内容を分かりやすく教えている。自己犠牲というアウトローが尊ぶ精神構造と似ていたせいか諭吉と教養面で隔絶した文盲の子分たちは大いに納得していたという。
  10. ^ ただし、塾内の掲示物等では教員も君付けだが、塾生や塾員が教員に向かって面と向かって君付けで呼びかけるわけではない。これは、義塾草創期は上級学生が教師役となって下級生を教授していたことの名残といわれている。
  11. ^ 1960年代にすでに朝鮮社会科学院歴史研究所が邦題『金玉均の研究』を出版。
  12. ^ その典型的な例を挙げれば、2001年中央日報、各国貨幣に扱われた人物について述べたコラム【噴水台】ユーロ貨の橋の次のような文言:「日本の1万円札には19世紀末、韓国を征伐するよう主張した福沢諭吉の肖像が入っている。日本では開化思想家として知られているが、韓国の立場からするとけしからん人物だ」
  13. ^ 総連系の学者で金玉均の研究家

出典

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  102. ^ 富田正文校訂 『新訂 福翁自伝』、岩波書店岩波文庫〉、1978年、ISBN 4-00-331022-5 の「緒方の塾風」の章にある「不潔に頓着せず」(65頁)を参照。福翁自傳 - 118 ページを参照。
  103. ^ 時事新報史 第15回:朝鮮問題(1) 壬午事変の出兵論 都倉武之 慶應義塾大学出版会
  104. ^ 富田正文校訂 『新訂 福翁自伝』、岩波書店岩波文庫〉、1978年、ISBN 4-00-331022-5 の「大阪修行」の章にある「書生の生活酒の悪癖」(57頁)を参照。福翁自傳 - 103 ページを参照。
  105. ^ 福翁自伝』の「禁酒から煙草」参照。
  106. ^ 北康利『福沢諭吉 国を支えて国を頼らず』p.156、講談社、2007年3月。ISBN 978-4-06-213884-0
  107. ^ 富田正文校訂 『新訂 福翁自伝』、岩波書店岩波文庫〉、1978年、ISBN 4-00-331022-5 の「幼少の時」の章にある「稲荷様の神体を見る」(23頁)を参照。福翁自傳 - 44 ページ を参照。
  108. ^ 北康利『福沢諭吉 国を支えて国を頼らず』(7-9頁)、講談社、2007年3月。ISBN 978-4-06-213884-0
  109. ^ 時事新報史 第4回:創刊当初の評判 慶應義塾出版会
  110. ^ a b 長谷川精一、鈴木徳男・嘉戸一将(編)「福沢諭吉における兵役の「平等」」『明治国家の精神史的研究:<明治の精神>をめぐって』 以文社 2008年、ISBN 9784753102655 pp.126-136.
  111. ^ 週刊将棋編『名局紀行』(毎日コミュニケーションズ)P.47
  112. ^ 服部之総論文「東洋における日本の位置」、遠山茂樹論文「日清戦争と福沢諭吉」(1951)(遠山茂樹著作集第5巻所収、岩波書店,1992
  113. ^ 東谷暁インタビュー 平山洋
  114. ^ 2001年(平成13年)4月21日付「朝日新聞」に掲載
  115. ^ 同年5月12日付同紙)
  116. ^ 平山洋『福沢諭吉の真実』文藝春秋〈文春新書394〉、2004年、ISBN 4-16-660394-9 なお、同著『アジア独立論者福沢諭吉』(2012、ミネルヴァ書房)には、『福沢諭吉の真実』に収められなかった社説判定の方法論についての詳しい記述がある。
  117. ^ 「歴史とテクスト 西鶴から諭吉まで」光芒社、2001年
  118. ^ 『福沢諭吉の真実』。なお、平山は「福沢署名著作の原型について」(2015) において、福澤が後に単行本化した長編社説の原型社説を石河が全集に入れていないことを指摘し、石河は故意に福澤直筆社説を全集から排除したとも主張している。
  119. ^ 東谷暁インタビュー 平山洋また都倉武之『時事新報』論説をめぐって(1) 〜論説執筆者認定論争〜
  120. ^ 「歴史とテクスト 西鶴から諭吉まで」光芒社、2001年
  121. ^ 都倉武之『時事新報』論説をめぐって(1) 〜論説執筆者認定論争〜
  122. ^ 平山洋、2004、『福沢諭吉の真実』、文藝春秋〈文春新書394〉
  123. ^ 朝日新聞2000年3月12日、1位・坂本龍馬、2位・徳川家康、3位・織田信長、4位・田中角栄、5位・吉田茂、6位・豊臣秀吉、7位・福澤諭吉、8位・西郷隆盛、9位・市川房枝、10位・伊藤博文
  124. ^ 平山洋「中国に「福沢諭吉は『アジア侵略論』者だ」と言われたら」『歴史の嘘を見破る 日中近現代史の争点35』(文春新書、2006年),pp.35-36。
  125. ^ 小川原正道『福沢諭吉「官」との闘い』(文藝春秋、2011年),p.208。
  126. ^ 安川寿之辅著,孙卫东、徐伟桥、邱海水译:《福泽谕吉的亚洲观 : 重新认识日本近代史》(香港社会科学出版社,2004年)。安川寿之辅著,刘曙野译:《福泽谕吉的战争论与天皇论》(中国大百科全书出版社,2013年)。安川寿之辅著,刘曙野译:《福泽谕吉与丸山真男 : 解构丸山谕吉神话》(中国大百科全书出版社,2015年)
  127. ^ 区建英「現代中国における福澤理解」『近代日本研究』 7, pp.121-145, 1990。区建英「中国における福沢諭吉理解--清末期を中心に」『日本歴史』 (525), pp.63-80, 1992-02。
  128. ^ 卞崇道"福泽谕吉与中国现代化"《延边大学学报(社会科学版)》1983年12月31日。区建英「福泽谕吉政治思想剖析」『世界历史』1986年07期。何为民“《脱亚论》解读过程中的误区”《日本学刊》2009年04期。
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  131. ^ 丸山 (2001, p. 283)
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  133. ^ 丸山 (2001, p. 285)
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  138. ^ 姜『朝鮮の攘夷と開化 近代朝鮮にとっての日本』平凡社、1987年。ISBN 4-582-82251-7
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  144. ^ Ugly Images of Asian Rivals Become Best Sellers in Japan
  145. ^ 【その時の今日】福沢諭吉…侵略戦争正当化した日本右翼の元祖 中央日報 2009.08.12
  146. ^ 「日本の『嫌韓流』は警戒心理・劣等意識の発露」NYT紙 中央日報 2005.11.20
  147. ^ 稲葉継雄、「井上角五郎と『漢城旬報』『漢城周報』 : ハングル採用問題を中心に」 筑波大学文藝・言語学系 『文藝言語研究. 言語篇』 12巻 1987年 p.209-225, ISSN 0387-7515
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  154. ^ 福澤大四郎『人事興信録』第8版 [昭和3(1928)年7月]
  155. ^ 『聞き書き・福澤諭吉の思い出: 長女・里が語った、父の一面 』P.10~P.11,P.114~P.147 ( 中村仙一郎 中村文夫 著 / 近代文芸社 刊, 2006)
  156. ^ 慶應義塾 創立150年記念 未来をひらく 福沢諭吉展






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