適塾時代とは? わかりやすく解説

適塾時代(大坂)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/06 03:54 UTC 版)

福澤諭吉」の記事における「適塾時代(大坂)」の解説

安政2年1855年)、諭吉はその山本家紹介した奥平壱岐や、その実家である奥平家中津藩家老家柄)と不和になり、中津へ戻るようにとの知らせが届く。しかし諭吉本人前年中津出立したときから中津へ戻るつもりなど毛頭なく、大坂経て江戸へ出る計画強行する大坂到着すると、かつての父と同じく中津藩蔵屋敷務めていた兄を訪ねる。すると兄から「江戸へは行くな」と引き止められ大坂蘭学を学ぶよう説得される。そこで諭吉大坂中津藩蔵屋敷居候しながら、当時過所町の先生」と呼ばれ、他を圧倒していた足守藩下士蘭学者緒方洪庵の「適塾」で学ぶこととなった旧暦3月9日4月25日))。 その後諭吉腸チフス患うと、洪庵から「乃公はお前の病気を屹と診てやる。診てやるけれども、乃公自分処方することは出来ない何分にも迷うてしまう。このあの薬と迷うて、あとになってそうでもなかったと言ってまたの加減をするというような訳けで、しまいには何の療治をしたか訳けが分からぬうになるというのは人情免れぬことであるから、病は診てやるが執匙は外の医者に頼む。そのつもりにして居れ」(自伝)と告げられ、洪庵の朋友内藤数馬から処置施され体力回復する。そして。一時中津帰国する安政3年1856年)、諭吉は再び大坂出て学ぶ。同年、兄が死に福沢家の家督を継ぐことになる。しかし大坂遊学諦めきれず、父の蔵書家財道具売り払って借金完済したあと、母以外の親類から反対されるもこれを押し切って大坂適塾学んだ学費を払う経済力はなかったため、諭吉奥平壱岐から借り受けて密かに筆写した築城学の教科書(C.M.H.Pel,Handleiding tot de Kennis der Versterkingskunst,Hertogenbosch、1852年)を翻訳するという名目適塾食客住み込み学生)として学ぶこととなる。 安政4年1857年)、諭吉最年少22歳適塾塾頭となり、後任長与専斎指名した適塾ではオランダ語原書読み、あるいは筆写し、時にその記述に従って化学実験簡易な理科実験などをしていた。ただし生来血を見るのが苦手であったため瀉血手術解剖のたぐいには手を出さなかった。適塾診療所附設してあり、医学塾ではあったが、諭吉医学学んだというよりはオランダ語学んだということのようである。また工芸技術にも熱心になり、化学ケミスト)の道具使って色の黒い硫酸製造したところ、鶴田仙庵が頭からかぶって危うく怪我をしそうになったこともある。また、福岡藩主・黒田長溥が金80両を投じて購入した『ワンダーベルツ』と題する物理書を写本して、元素配列してそこに積極消極プラスマイナス)の順を定めることやファラデー電気説(ファラデーの法則[要曖昧さ回避])を初めて知ることになる。こういった電気新説などを知り発電試みたりもしたようである。ほかにも昆布荒布からのヨジュウム単体抽出淀川浮かべた小舟の上でのアンモニア製造などがある。

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