改暦弁とは? わかりやすく解説

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改暦弁

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/28 02:16 UTC 版)

『改暦弁』初版

『改暦弁』(かいれきべん、改曆辧[1]、改曆辨[2])は、福澤諭吉1873年明治6年)に発行した書籍である。出版者は慶應義塾蔵版、出版地は東京

概要

明治5年11月9日1872年12月9日)、明治政府は、来る明治5年12月3日をもって明治6年1月1日(1873年1月1日)とする新たなグレゴリオ暦をもとにした新暦)の施行を定める太政官布告太陰暦ヲ廃シ太陽暦ヲ頒行ス」(明治5年太政官布告第337号)を公布した。

旧暦から新暦に改まるに際し、政府は一片の法令を出しただけで、この大改革の理由を国民に納得せしめるの注意を怠っているのを見て、思想家であり教育者である福澤諭吉は傍より歯がゆく思い、風邪臥床中、床の上でおよそ6時間ばかりで改暦を易しく解説する『改暦弁』を脱稿した[3]。これを出版したところ、おびただしい発行部数を示し、著者自身も驚いたとの次第が記してある[3]。また、浜松県令・林厚徳のように、同書を500部取り寄せ、県下各村へ配布する者もあった[1]。『福澤全集緒言』の「改暦弁」の項には以下のように記してある:

明治五年十一月九日改暦の発令あり。その時の公文、左の ごとし。

今般改暦之儀、別紙の とおり 被仰出候 おおせいだされそうろう、条 此旨 このむね 相達 あいたつし候事

(別紙詔書)
ちん おもうに我邦通行の暦たる太陰の 朔望 さくぼう もつて月を立て太陽の 躔度 てんどに合す。故に二、三年間必ず閏月を置かざるを得ず。 置閏 ちじゆんの前後時に季候の早晩あり、 ついに推歩の差を生ずるに至る。 ことに中下段に掲ぐる所の ごときは おおむ 妄誕無稽 もうたんむけいに属し人知の開達を さまたぐるもの少しとせず。 けだし太陽暦は太陽の躔度に したがつて月を立つ。日子多少の異ありと いえども、季候早晩の変なく、四歳 ごとに一日の閏を置き七千年の後、 わずかに一日の差を生ずるに過ぎず。 これを太陰暦に比すれば最も精密にして、その便不便も もとより論を たざるなり。 よつて自今旧暦を廃し太陽暦を用い、天下永世 これ 遵行 じゆんこうせしめん。 百官有司 ひやつかんゆうし 斯旨 このむね たいせよ

明治五年 壬申 じんしん十一月九日
一 今般太陰暦を廃し太陽暦 御頒行 ごはんこう 相成候 あいなりそうろう つき、来る十二月三日を もつて明治六年一月一日と 被定 さだめられ候事
ただし新暦 鏤版 ろうはん出来次第 頒布 はんぷ候事
一 一箇年三百六十五日十二月に わかち、四年 ごとに一日の うるう おき そうろう
一 時刻の儀、 是迄 これまで昼夜長短に したがい十二時に 相分 あいわかち候 ところ、今後改て 時辰儀 じしんぎ時刻、昼夜 平分 へいぶん二十四時に定め、 子刻 ねのこくより 午刻 うしのこく迄を十二時に分ち午前幾時と称し、午刻より子刻迄を十二時に分ち午後幾時と しようし候事
一 時鐘の儀、来る一月一日より右時刻に 可改 あらたむべき
ただし 是迄 これまで時辰儀時刻を何字と 唱来 となえきたり候処、以後何時と 可称 しようすべき
一 諸祭典等、旧暦月日〔を〕新暦月日に相当し施行 可致 いたすべき
太陽暦 一年三百六十五日、 閏年 うるうどし三百六十六日(四年毎に置之)
一月大 三十一日 其一日  すなわち旧暦 壬申 じんしん 十二月三日
二月小 二十八日(閏年二十九日)其一日 同 癸酉 きゆう正月四日
(三月以下略す)
(別に時刻表あり。二時は うしの刻とか四時は とらの刻とか記したるものなり)。

 以上の公文を見れば古来の大〔太〕陰暦を廃し太陽暦に改むることにして はなはだ妙なり。 吾々 われわれの本願は ただ旧を てゝ新に かんとするの一事のみなれば、何は さて置き ず大賛成を表したりと いえども、 も一国の暦日を変するが ごときは無上の大事件にして、 これを断行するには国民一般にその理由を知らしめて丁寧反覆、新旧両暦の 相異 あいことなる由縁を説き、双方得失の在る所を示して心の底より 合点 がてんせしむこそ大切なれ。 欧羅巴 ヨーロツパ 耶蘇 ヤソ教陽暦国にて、露国の暦は他に ことなること わずかに十二日なれども、古来の慣行にて今日 これを改むるを得ず。 しかるに日本に おいては陰陽暦を一時に変化して およそ一箇月の劇変を断行しながら、政府の布告文を見れば簡単 至極 しごくにしてその つまびらかなるを知るに よしなし、 畢竟 ひつきよう 官辺 かんぺんにその注意なくして つは筆 る人の乏しきが めなりと推察せざるを得ず。 れば民間の私に之を説明して 余処 よそながら新政府の 盛事 せいじを助けんものをと 思付 おもいつき、 怱々 そうそう 書綴 かきつづりりたるは改暦弁なり。その起草は発令の月か翌十二月か、日は忘れたり、少々風邪に犯され床の上にて筆を り、朝より午後に至るまで およそ六時間にて脱稿したり。 もとより 木葉 このは同様の小冊子にて何の苦労もなかりしが、 さてこれを木版にして発売を試みたるに何千何万の際限あることなし。三版も五版も同時に彫刻して製本を 書林 しよりんに渡しさえすれば ただちに売れ行くその 有様 ありさまは之を見ても面白し。一冊何銭とて たかの知れたる定価なれども、 ちりも積れば山と るの ことわざ れず、発売後二、三箇月にして何かの ついでに改暦弁より生じたる純益の金高を調べたるに七百円余に のぼりたることあり。その時、著者は ひとり心に笑い、この書を綴りたるは わずかに六時間の労なり、六時間の報酬に七百円とは実に驚き入る、学者の身に かかる利益を 収領 しゆうりようしても よろしかるべきやと、 あたかも半信半疑に みずから感じたるは、旧藩士族根性の しからしむる所にして今 これを記憶す。二、三箇月の後も 売捌 うりさばきは依然として まず、利益の全額は千円も千五百円も得たることならん。 畢竟 ひつきよう余が今日に至るまで何に一つの商売もせず、工業もせず、家富みて あまりあるには あらざれども、大勢の家族と共に心配なく生活して しずかに老余を楽しむは、改暦弁のみならず他の著訳書より得たる利益の多かりしが故なり。[3]

内容

『改暦弁』の項目立ては以下の通り。

  1. 太陽暦太陰暦との弁別
  2. ウ井ークの日の名
  3. 一年の月の名
  4. 時計の見様

緒言

此度大陰暦を止て大陽暦となし、明治五年十二月三日を明治六年一月一日と定めたるは一年俄に二十七日の相違にて世間にこれを怪む者も多からんと思ひ、西洋の書を調て彼の国に行はるゝ大陽暦と、古来支那、日本等に用大陰暦 との相違を示すこと左の如し。 — 福澤諭吉、『改暦弁』

脚注

参考文献

  • 福澤諭吉『福翁自伝 福澤全集緒言』慶應義塾大学出版会〈福澤諭吉著作集 第12巻〉、2003年11月17日。ISBN 978-4-7664-0888-1 

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