光永寺_(長崎市)とは? わかりやすく解説

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光永寺 (長崎市)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/11/06 23:34 UTC 版)

光永寺 こうえいじ
所在地 長崎県長崎市桶屋町33
山号 向陽山
宗派 浄土真宗大谷派
本尊 阿弥陀如来
創建年 慶長19年(1614年
開基 慶西
法人番号 8310005000345
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光永寺(こうえいじ)は、長崎市にある浄土真宗大谷派の寺院。本尊は阿弥陀如来福澤諭吉嘉永7年(1854年)から長崎に留学していた際に、この寺の庫裏に止宿していた。境内は、宝暦10年(1760年)ごろには1677坪あった[1][2][3][4][5][6][7]

歴史

福沢先生留学址

慶長末年ごろ、肥前国唐津の住人・唐津九兵衛が出家して慶西と称し、浦上村に庵室を営んで、浄土真宗の布教を始めた。慶長19年(1614年)、長崎奉行長谷川藤広からサン・ジョアン・バプチスタ教会跡地を寺地として与えられた慶西は、仏寺向陽山光永寺を創建した。古川町のサン・アウグスチノ教会跡地に移転し、さらに桶屋町に移ったともされる[1][2][3][5][7]>[注釈 1]

元和7年(1621年)、京都本願寺から寺号の公称が許される[2][3][5]

寛文元年(1661年[注釈 2]、御坊格の資格を本山から付与される[1][注釈 3]

同3年(1663年)、大火で類焼するが、唐通事の彭城仁左衛門(劉宣義)らが寄進を募り、その援助で同10年(1670年)に再建される。これ以後、在留唐人から長崎会所を通じて毎年銀2貫目が寄進される[1][2][3][5]

元禄2年(1689年)、園山善爾から明版大蔵経を寄進される[1]

正徳元年(1711年)、5代圓隆が院家に昇進する[1][注釈 4]

寛政7年(1795年)、江戸浅草御坊と同格となり、同11年(1799年)、朱印地同格となる[1][2][3]

再度火災に遭い本堂が焼失するが、文化12年(1815年)に再建される[5]

1879年明治12年)から1881年(同14年)まで、長崎県最初の県議会議場として本堂や書院が使用される[1][2][3][4][5]

1945年昭和20年)、長崎市への原子爆弾投下によって大破し、解体される。1989年平成元年)5月に再建される[4][5]

寺内の建築物・石碑

長崎県議会開設の地の碑

山門は朱印地様式で、もとは桶屋町通りに面していたが、文化元年(1804年)に中島川の側に移した際に新築され、翌2年(1805年)に落成した[7]

山門右側に、1937年(昭和12年)5月に長崎三田会によって建てられた小泉信三筆の「福沢先生留学址」の碑があり、左側には「長崎県議会開設の地」の碑が建てられている[4][5][7]

文化12年に竣成した本堂は間口17間の総欅造りだったが、原爆投下により大破した。平成元年に再建された本堂は間口12間の総檜造り[5][7]

庫裏は本堂の右手で、福澤が起居していたと伝わる鞘の間がある。鞘の間は4畳ほどで内庭に面しており、奥平壱岐[注釈 5]が居住していたという12畳ほどの客間が隣接している[7]

歴代住持

『長崎実録大成 正編』第六巻「寺院開創之部」上[注釈 6]および『福澤諭吉歴史散歩』より。

  • 初代・慶西 - 慶長19年(1614年)より在住25年
  • 2代・慶傳 - 寛永16年(1639年)より在住14年
  • 3代・教順 - 承応元年(1652年)より在住8年
  • 4代・専順 - 万治3年(1660年)より在住28年
  • 4代・圓隆 - 元禄11年(1698年)より在住18年
  • 6代・圓忠 - 享保元年(1716年)より在住47年
  • 7代・圓篤 - 宝暦12年(1762年)より在住27年
  • 8代・日蔵 - 中津藩家老の子・奥平壱岐の母方の伯父。福澤諭吉がこの縁をたよって一時期この寺に止宿した[7]
  • 9代・?
  • 10代・日蔵[7]
  • 11代・羅云 - 奥平壱岐の父方の叔母が羅云の室[7]
  • 12代・?
  • 13代・?
  • 14代・?
  • 15代・?
  • 16代・正木慶晴[7]

脚注

注釈

  1. ^ 「光永寺」『長崎実録大成 正編』第六巻「寺院開創之部」上(長崎文献叢書第一集第二巻、122-123頁)。
  2. ^ 『長崎実録大成 正編』では、天和3年(1683年)と記されている。
  3. ^ 「光永寺」『長崎実録大成 正編』第六巻「寺院開創之部」上(長崎文献叢書第一集第二巻、122-123頁)。
  4. ^ 「光永寺」『長崎実録大成 正編』第六巻「寺院開創之部」上(長崎文献叢書第一集第二巻、122-123頁)。
  5. ^ 中津藩家老の子。福澤はこの人物を頼って光永寺に寄寓した。
  6. ^ 「光永寺」『長崎実録大成 正編』第六巻「寺院開創之部」上(長崎文献叢書第一集第二巻、122-123頁)。

出典

  1. ^ a b c d e f g h 「光永寺」長崎新聞社長崎県大百科事典出版局 1984, p. 297.
  2. ^ a b c d e f 「光永寺」平凡社 2001, p. 152.
  3. ^ a b c d e f 「光永寺」「角川日本地名大辞典」編纂委員会 1987, p. 379.
  4. ^ a b c d 「光永寺」慶應義塾大学出版会 2010, p. 34-35.
  5. ^ a b c d e f g h i 姫野順一 2014, p. 163-164.
  6. ^ 「福翁自伝」『日本の名著』33 1977, p. 249.
  7. ^ a b c d e f g h i j 加藤三明・山内慶太・澤輝嘉 2012, p. 29-30.

参考文献

外部リンク




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