足立寛
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/05/17 04:55 UTC 版)
足立 寛 | |
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生誕 | 1842年6月14日![]() |
死没 | 1917年7月7日(75歳没) |
所属組織 | ![]() |
軍歴 | 1887 - 1895 |
最終階級 | 陸軍軍医総監 |
足立 寛(あだち かん、1842年6月14日(天保13年5月6日) - 1917年(大正6年)7月7日)は、幕末から明治にかけての医師、医学者、日本陸軍軍医、陸軍軍医学校校長。最終階級は陸軍軍医総監。字は士得。号は菊径、欲堂。妻は坪井信道の娘。
経歴
遠江国山名郡国本村(現・静岡県袋井市)生まれ。木村軍太郎に師事した後、緒方洪庵の適塾、福沢諭吉の書生として慶應義塾で学び、のちに塾長も務める。幕府の西洋医学校塾頭となる。1887年(明治20年)陸軍軍医学舎長となり、一等軍医正まで昇格する。陸軍省に出仕し、軍医総監、陸軍軍医学校長、慶應義塾医学所の設立に携わる。文部省医術開業試験委員長、文部省薬剤師開業試験委員長をつとめ、多忙を極める中、衛生学教程本を多数記す。
1917年7月7日、胆嚢炎のため死去。戒名は白楽山院殿静寿実得大居士[1]。

栄典
- 位階
- 勲章等
脚注
- ^ 服部敏良『事典有名人の死亡診断 近代編』(吉川弘文館、2010年)14頁
- ^ 『官報』第2551号「叙任及辞令」1892年1月4日。
- ^ 『官報』第1936号「叙任及辞令」1889年12月10日。
- ^ 『官報』第2994号「彙報 - 陸海軍 - 日本赤十字社録事」1893年6月23日。
参考文献
- 三田商業研究会編 編『慶應義塾出身名流列伝』実業之世界社、1909年(明治42年)6月 。(近代デジタルライブラリー)
公職 | ||
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先代 後藤新平 |
![]() ![]() 1898年 - 1916年 |
次代 田所美治 |
軍職 | ||
先代 石黒忠悳 |
![]() 1891年 - 1892年 校長心得 1890年 - 1891年 |
次代 田代基徳 |
先代 緒方惟準 |
![]() 1887年 |
次代 石坂惟寛 |
足立寛
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