来歴・芸風
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2003年9月 春風亭小朝に入門。その後、師匠の下を辞してお笑い芸人を目指し、春風亭ロミオから猫柳ロミオへ改名。現在も師匠とは繋がりがある。 R-1ぐらんぷり2008 2回戦敗退 主な芸風としては、本人が師範代をしている猫柳流という流派の奥義(ネタ)を披露するもの、『涙そうそう』などをBGMとして自虐的なネタなどを披露するもの(この時は「ナンクルナイサー」という台詞をネタの間に挟んでいる)、などがある。 『吸血鬼ロミーオ』という持ちキャラクターがある。
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来歴・芸風
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1998年2月に、同じ怪人社に所属していた則末チエとなみえのコンビで結成。きっかけは、元々お笑い志望ではなく役者志望で上京し、劇団に入って活動していたが、当時女子の団員が則末となみえの二人しかいなかったということもあり、コンビを組むことになったという。最初は劇団内のことや身の周りことからネタを作ったりしながら普通に演じていたということであったが、だんだんネタがブラックな方へ進むようになり、劇団側の勧めもあって、怪人社代表のIKKANプロデュースによって主に性教育芸人として活動するようになった。女性器を模した着ぐるみキャラクター『まんまんたん』(タンポンのキャラクター『たんぽんたん』なども兼任)と、教える側の『お姉さん』の役をそれぞれ務め、「女子のあるあるネタ」や、ブラックなものや下ネタなどのコントを行っていた。 2005年9月にそれまでのお姉さん役だった則末が脱退、その後お姉さん役も7代目まで交替を続けながら『ちーむちむりん』のメンバーでちむりんの活動を続行、まんまんたん役も一時宮坂うつわに替わったことがあったが、その後なみえが再び務めている。 2007年4月になみえが姫くりを結成、ちむりんは実質上の解散となった。 2000年に、快児、あばれヌンチャク、パペットマペットとユニット『免疫魔神』を組んで公演を行っていた。2010年に当時のメンバーがそのまま再集結して復活公演(8月6日 - 8月8日、東京都新宿・タイニイアリス)を行い、この時に則末・なみえの当時のちむりんのメンバーも揃った。
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来歴・芸風
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1933年に結婚しコンビを結成。1939年に「河内文春・尾乃道子」に改名。戦前から吉本興業の端席に出演、1940年にはわらわし隊の一員として中国戦線へ慰問を行う。その後吉本興業を退社した。戦後は一時廃業していた。1965年松竹芸能に入社。1970年代後半から1980年代前半までは大須演芸場に出演していた。1985年には文春は芸歴65年を迎えた。その後1985年の日本演芸家名簿には名前とコメントがあるが、文春の名は1987年にはなく前後に没したとみられる。道子も間もなく廃業した。 舞台はほとんどが河内文春の独り舞台で、後半尾乃道子が椅子に腰掛けて三味線を弾いた。
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来歴・芸風
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NSC東京校17期生で同期生。ピンでの活動に行き詰まりを感じていた岡田に寺田が結成のアドバイスを送ったことがきっかけで結成。 スローテンポで不思議な世界を展開するファンタジー漫才。 女おぎやはぎと言われる。 コンビ名は、まず「論」という言葉が浮かんで、これにしょうもない言葉を付けたら馬鹿みたいなコンビ名になるということになり、岡田が「すごい」という言葉を選んで名付けた。 2016年5月25日に、6月いっぱいで解散することを発表。解散後はそれぞれピンで活動していくが、喧嘩別れではなく、これからもユニットを組んでネタを披露することもあるかもしれないとのこと。2017年11月1日に再結成を発表したが、2020年9月いっぱいで再解散。 2020年2月より吉本興業とエージェント契約を交わすフリーランスという扱いになっており、再解散後もそれぞれピンで契約を継続する。
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来歴・芸風
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小学校から高校まで一緒だった同級生同士で結成。2006年10月、ワタナベコメディスクールに5期生として入学。翌2007年9月卒業と共に同期生だったあんいーぶん(現在は解散)、岩間よいこ(現・パルフェ)、ガゼル、坂本しろう、サギタリウスと一緒にワタナベエンターテインメント所属となった。 ネタのスタイルは主にコント。主なものに、棒読み調でシュールな会話を繰り広げる「不思議コント」などのネタがある。
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来歴・芸風
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/28 14:04 UTC 版)
二人ともに大分県出身。2005年4月にワタナベコメディスクール2期生として入学、翌2006年3月卒業。 日本語を使わず、でたらめな中国語などの外国語でコントを進めるなどのネタがある。『爆笑ホワイトカーペット』では、このネタを演じた。 当初は東京で活動してたが、その後ワタナベエンターテインメント九州事業本部に移籍。2010年に解散し、ともに引退した。 2017年に釘宮が家族Youtubeチャンネル「かえるのコはカエルCH」を開設し、Youtuberとして活動開始。実崎とも共演している。
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来歴・芸風
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「チャーチル (お笑いコンビ)」の記事における「来歴・芸風」の解説
二人とも同級生で、2005年7月16日コンビ結成。当初のコンビ名は「パティグロン」だった。このコンビ名は彼らの先輩のあだ名に由来したという。当時はアマチュア、フリーで活動。 2007年にサンミュージック企画に預かり契約となり、のちに所属となる。この時に同事務所からの勧めでコンビ名を改名。飯田が適当に挙げた『プーチン』『ミッテラン』『チャーチル』(いずれも大統領の名前)の中から鈴木がチャーチルを選んで決定する。その後「ブッチャーブラザーズの“チルドレン”、ブッチャーチルドレンの略でチャーチル」という意味も付けたことがある。 ネタはコント、ショートコントなどで、「怖い話」がテーマのものなどがあった。
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来歴・芸風
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2010年10月、ミヤを解散したばかりの山田と、ピン芸人として活動していたひょうごにより結成結。当初はM-1グランプリに出る為の即席コンビだったが、2010年12月24日を境に本格的に松竹のコンビとして活動する事を決める。 『あらびき団 presents あら-1グランプリ2014』にて決勝進出。 ネタはコント、漫才共に持っている。キングオブコント、THE MANZAI、M-1グランプリ共に出場している。ギターで弾き語りをしているひょうごが、山田のパンチを腹筋で受け止めながらも歌い続ける。縄跳びしながらパンツを穿いたり風船ガムを割ったり、顏芸をしたりなどの芸も持っている。『超ハマる!爆笑キャラパレード』(フジテレビ系)では「職業ファイター」のネタを披露している。 2017年5月26日の事務所ライブ「松竹NEXTライブ」を以って解散。ひょうごは芸能界引退、山田はピン芸人「山田BODY」として活動を続ける。
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来歴・芸風
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 10:15 UTC 版)
2011年1月に結成。レースクイーンを引退し芸人を志したユリーカが、高校の同窓会でまりこを相方に誘ってみたところ、まりこは二つ返事でOKしコンビを結成することになった。 ふたりとも非喫煙者である。 コンビ名の由来は、アボカドが好きであることと、アボカドは世界一栄養価の高い果物のため「健康的な笑い」をテーマに付けられた。 漫才では、まりこの思いつき発言にユリーカが振り回されるスタイルで展開。ユリーカは漫才中に松田聖子の顔真似や岡本夏生の物真似を取り入れることもある。 コントでは、ユリーカもボケになって「ダブルボケ」になることもある。
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来歴・芸風
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/15 22:14 UTC 版)
出生地不明。幕末?明治初年頃?から初代笑福亭松鶴の門下になる。初代松鶴にとって晩年の弟子で、初名を笑福亭八百蔵といわれる。のちに当時人気を二分していたといわれる初代笑福亭福松と一門の序列で不和になり飛び出し上京した。初代福松没後は帰阪したが一門に戻らず立川八百蔵と改名。生涯立川八百蔵を名乗った。 講釈師と兼業の時もあったが、晩年は端席や慰問・慈善活動が中心だった。 1921年の花月(吉本興業部)および1923年の反対派(岡田興業部)の連名名簿に名前がありこの頃まで存命であった。
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来歴・芸風
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「フィフティーカーニバル」の記事における「来歴・芸風」の解説
専門学校東京アナウンス学院お笑いタレント科(現・芸能バラエティ科)出身の2人により結成。 持ちネタの中には、五十嵐の顔がブ男であるが故に起きた実体験を基にしたショートコントがある。このコントでは、安川のネタ振りから入り、五十嵐がオチにブ男に有りがちな台詞を言う。安川はその外見を生かして、ホスト役を演じることもあった。その他、ブ男ネタ以外で様々なコントを演じることも多い。 『エンタの神様』では五十嵐の「ブ男は〜」の台詞の後、ブ男のあるあるネタを言った後でブリッジとして、二人で「ブ男、ブ男、ぶっちぎり」と歌い、ポーズをとっている。その後、ライブでもこのネタを行っていることがある。 安川には、アメリカ人のような格好をして「そんなんビックリ〜」というネタを連発するといった一人芸がある。なお、この芸は五十嵐だけが『ぐるぐるナインティナイン』の収録に行ったなどの事情で一人だけの出演となったライブ、R-1ぐらんぷりなどで披露していた。 『サンミュージックGETライブ』が、チケットがすぐ売切れるため「若手が見たいのに見られない」などの意見を汲んで、GETライブの前に行う『プレGETシアター』を安川が立ち上げ、2008年12月4日から毎月行っていた。なお、ここでは最初フィフティーカーニバルがメインMCも務めていた。自主的に行っていたこのライブであったが、2010年1月から事務所公認のライブとなり、『サンミュージックGETライブ』がそれまでの2日間から3日間の開催となってその1日目に行われる形となった。この時からGETライブと同じ、しもきた空間リバティで行われている。 2010年5月18日の『青二祭ライブ』(東京都渋谷区・東京ダンス&アクターズ専門学校)を最後に解散した。その後、安川は同年7月にコンビ「ビーワンサン」を結成、五十嵐は同年8月に元ザクマシンガンの石川勇樹とコンビ「フライングマン」を結成するが、2012年に解散。 「ビーワンサン」は一度のライブに出たのみで解散し、安川はNSCに新たに通い直してよしもとクリエイティブ・エージェンシー所属の芸人になる事を目指していた。NSCでは漫才コンビ「テリヤキキャンディー」を結成、ボケを担当していた。安川はよしもと所属になるも間も無くして退社、後にかつて同じ事務所所属だった元あんぺあの安倍洋平と『ドラピンポン』を結成、所属もサンミュージックに預かり所属となり、古巣に戻る形となったが、2015年に解散。 安川は芸人引退後、投資用ワンルーム会社や大手不動産仲介会社に勤務した後に、地元福岡に帰り博多区で不動産会社「RE/MAX Revo」を経営する。
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来歴・芸風
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/24 07:57 UTC 版)
GOとジロは大学時代に柔道の大会に優勝した際、大学の先輩を通じて知り合う。 結成は2001年7月。当初はフリーで活動し、その後にドリームアクション所属となる。その後はSMA NEET Projectへ移籍、2016年より浅井企画所属となった。 2006年3月にジロが脱退。同年6月頃に江波戸が加入。GO、のり、江波戸の3人での初舞台は、江波戸加入から2日後だった。それまで江波戸はGO、のりと面識は無かったという。 ネタは主にコント。GOがまとめ役となることが多く、のりの小ボケが多い。なお、『爆笑レッドカーペット』では「小ボケ先生」のネタを頻繁に披露していた。 同じコントネタであっても起承転結の転結部分が異なり、特に結の部分であるオチが完全に変化しているため見終えた時に異なる印象を受ける場合がある。GOはショートネタによっては、役割通り「一言」で終わってしまうこともある。 2012年4月より、のりが『レコメン!』のパーソナリティとなる。オテンキ及びのり単独の知名度が上昇している反面(のりは「オテンキのりのレコメン!」と番組紹介していることから)GOと江波戸の単独での知名度が低い状態にある。その一例としてのりの「レコメン!」終了後、GOと江波戸の2人で伊集院光の深夜ラジオでオテンキのDVDをPRした。なお、伊集院は「レコメン! 火曜日」に出演したことがある。 2021年8月に江波戸が脱退、GOとのりによるコンビとして活動することが浅井企画から発表された。なお、コロナが落ち着き次第「江波戸最後のツッコミ スペシャルライブ」を開催予定としていたが、2022年7月現在も開催されず、脱退前では2021年8月27日配信の『都会のトム&ソーヤぼくらの砦』スピンオフ「ジュリアスTV」第7回(ABEMA)、脱退後では2022年3月18日開催のライブ『左ハンドル』(東京・びーちぶ)が最後のトリオ出演となった(江波戸はサプライズ出演)。 2人組となって以降はツッコミ不在のコンビとなっており、のりが進行を務めながらも、互いにボケを重ねるスタイルとなっている。
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来歴・芸風
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/06 15:06 UTC 版)
北村は元BangBang、河合は元哀愁ランデブーというコンビ。 ネタの際は、2人ともボーダーのロングTシャツを着用(ショートコントをやっていた頃)。 「気まずい時のリアクション~」など主にショートコントを披露する。ただし、現在はやっていない。 現在は漫才を中心にしている。 ショートコントはブリッジの踊りが恥ずかしくなってきたので、やらなくなった。
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来歴・芸風
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/31 16:16 UTC 版)
2003年にCS放送の番組で二人が出会い、「水着でお笑いをやってみよう」という番組の企画を経て同年8月31日に結成される。 アイドル時代はビキニ姿でセクシーポーズをとるなどの出方も多く、主な持ち芸には自分のバストを活用した双子をあやすネタなどを行い、まいまいは「ビタミン系アイドルです、ブイ!」、みなっち時代の福田ヒロは「エンジェルみなっちです!」といった決め台詞があり、ショートコントのブリッジに両手でハートマークを作って「キュキュキュンキュン!」というセリフを入れる、などというものがあった。 その後は、友達同士の会話、合コンをテーマにしたものなどのシチュエーションのコントを展開している。オチのような形で柔道のような投げ技の連続を披露してコントを終える、ということがある。後期には、ダメな男などを攻撃するという設定の『女ランボー』のコントや、ショートコント、身の周りの女子の話からネタを拾って演じる「こんな子~、いるいる」のコント、まいまいがアフロヘアーの髪型だった頃は、まいまいがパンダや犬などの動物に扮してほとんど喋らずリアクションのみで演じ、福田がそれに喋りを入れていくといったネタ、などを行っていた。ショートコントのブリッジには「それがつーからの面白いとこ」「つんつんくつん」「キュキュキュンキュン」などがあった。かつては『草野☆キッド』『あらびき団』などテレビ出演の時にビキニ姿で出演することもあった。 2008年1月5日に行われた対戦型お笑いライブ『TEPPEN.24 テッペン島』(なかの芸能小劇場)では、まいまいがクレイジードールズの小泉麻衣子と『まいまイキー』、福田ヒロが同じくクレイジードールズの小田原美香と『中坊ーず』のそれぞれのスペシャルコンビを組み、この2組で直接対決が行われた(結果はまいまイキーの勝ち)。 2008年5月から、諸事情により福田が活動を休止、その間まいまいが一人で活動していたが、同年9月から再び二人での活動を再開した。なお、まいまいが一人で活動していた時には『スナック麻衣夢(マイム)』(または『スナック麻衣夢のママ』)という芸名を使ったことがあり、「なんちゃってプー」が決めセリフのネタを行っていた。 また、スーパースター、NOモーション(タイガーこてつと侍PANGの矢野ともゆきとのコンビ)、あがいん、ムートンとの5組での『トドロコ』ライブを定期的に行っていた。トドロコは『ウクイウタ』の2009年7月26日千秋楽公演を以って活動休止となった。一方で『Goro's Bar』でフロアレディとして共演したのをきっかけに知り合った中央線withyouとのライブ『つーからwithyou』を行っていた。 2009年8月22日、公式ブログに於いて、2009年8月の活動限りで解散することが発表された。同年8月29日の『雷ライブ』(浅草東洋館)が関東地方では最後となり、翌8月30日の静岡県内で行われたNOモーション、ムートンと共演のお笑いイベントを最後に活動を終了した。
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来歴・芸風
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/05 05:35 UTC 版)
山形県最上郡最上町出身。母方は先祖代々医師の家系であり、母・シヅエは生涯現役で診察を務めた産婦人科医であった。また、父は海外出張の多い商社マンで、レコードの収集家だった。兄弟をはじめ、一族の多くが医師・歯科医師であるという。 山形県立新庄北高等学校卒業後、家業を継ぐべく日本大学医学部に進学させられたが、教授と相容れなかった(本人曰く、風貌を理由にいじめを受けた)ことと、モダン・ジャズやラジオに耽溺して学業がおろそかになったことから、日本大学芸術学部に転部。同級生には宍戸錠らがいる。 1957年の日大卒業後、本格的に芸人を志し、漫才師・大空ヒットに弟子入り(一部資料では、リーガル天才に師事したとしている)。当初「大空青天」を名乗り、兄弟子の大空曇天と漫才コンビ「大空晴天・曇天」を組むも解散。次いで弟弟子の大空かなた(後の横山あきお)と漫才コンビ「大空はるか・かなた」を組み、自らは「はるか」を名乗った。コンビは南千住の「栗友亭」を拠点にそこそこ売れたものの、解散。 司会業に転身して「坊られい」と改名。ジャズ喫茶を舞台に活躍した。「坊られい」という芸名は、ドメニコ・モドゥーニョのヒット曲『Nel blu dipinto di blu(イタリア語版)』のサビの歌詞で英題でもある「ヴォラーレ(英語版)」と、「ぼられた」に由来する。 1968年、「ケーシー高峰」に改名し、漫談家に転身した。名は自身が医師志望であった過去を活かし、医師が主人公のテレビドラマ『ベン・ケーシー』からとり、屋号の「高峰」は、ケーシーの少年時代、地元の最上町に映画『馬』の長期ロケでやって来て、一目惚れした女優の高峰秀子の名字から名付けた(のちに天才・秀才門下の芸人がケーシー門下に移った際、自身の屋号「高峰」を名乗らせている)。ケーシーは「グラッチェ(イタリア語で、ありがとう)」「セニョール(スペイン語による男性に対する呼び方)」「セニョリータ(同上による女性に対する呼び方)」など、連発する謎のラテン系あいさつは当時の流行語にもなった。『大正テレビ寄席』のセミレギュラー出演などを通じて、お茶の間の爆発的人気を博した。1969年には演芸番組『おいろけ寄席』(東京12チャンネル(現:テレビ東京))の司会に起用された。 このかたわら、1970年代末以降、ピンク映画でヤブ医者役(必ず性病科か産婦人科)を演じるなど、コミックリリーフ担当の俳優として多くの作品に出演する。渋い脇役のこなせる性格俳優としても開眼し、『夢千代日記』(1981年、NHK)でのシリアスな演技が高く評価された[誰によって?]ほか、『木更津キャッツアイ』(2002年、TBS)ではオカマのヤクザという極めて難しい役柄を演じてみせた。 俳優業でノーマルな役柄を演じることが増えるにつれ、その鬱憤を晴らすがごとく高座には更に磨きがかかり、従来の都会的(バタ臭くカッコ付ける)なスタンダップ・コメディ路線から、丸出しの山形弁で恫喝まがいの客いじりをする泥臭い芸風に進化して、爆笑王の地位を不動のものとする。立川談志は「ドクターは凄(すげ)ぇ。ドクターに勝てるスタンダップ・コメディアンは、俺かビートたけしくらいだ」と、その芸のセンスを評価した。1990年頃、落語芸術協会に入会(のち脱退)。 2005年に白板症(舌がん)に罹患したが、完治させて復帰する。療養中にもかかわらず予定されていた独演会を敢行した際は、黒板を前に一言も喋らず舞台を務め上げ、身振り手振りと筆談だけで観客を魅了。「私のがんは……子宮がんです」「病床でも、いつ女を抱けるかなと考えていた」「顔は悪性です」 などとギャグを飛ばし、ゲストのおぼん・こぼんから「師匠は、喋らなくても笑いが取れる」と感服された。 80歳を超えても演芸番組の常連として活躍。「泥臭い」芸風はさらに変化し、軽めの客いじりを絡めつつ、ダジャレや下ネタでオチをつける、ぼやき漫談風のスローテンポな高座を展開するようになった。 2018年に肺気腫を発症。同年9月、BS朝日『お笑い演芸館』の収録を最後に、療養のため仕事を全てキャンセルして休業していたが、2019年2月、容態が悪化し入院。同年4月8日15時35分、肺気腫のため福島県いわき市の入院先で死去。85歳だった。
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来歴・芸風
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 19:00 UTC 版)
2002年5月にコンビ結成(M-1グランプリ公式サイトで公表している結成日時は2008年10月1日)。 かつては吉本興業に在籍し、吉本に在籍していた当時のコンビ名は『キッチン』だった。命名理由は、2人が初めて打合せをした場所がファーストキッチンであったことから。大阪での吉本のライブ『吉本ホルモン女学院』(キッチンは出席番号3番)などに出演。 その後コンビは一時解散することになり、森の方からその旨を伝えたが、その後の佐橋による熱意あるアプローチなどにより、2007年に2人とも上京し東京で再結成、ホリプロに移籍した。 なお、この一時解散の時は、森の方から「もうええわ」などと伝えたが佐橋は「いつものツッコミ」のようなものと思い込み、森は連絡を絶ったものの、解散と受け止めていなかったという佐橋はその後も電話をかけ続けるなど森との連絡を試みていたという。 喋り主体の漫才を展開、森は関西弁を使って行っている。佐橋が自分のことを「えみぴょん」と名乗って、ステッキを持った妖精や魔法使いのキャラクターに扮してのネタも行っていた。 ホリプロに所属していたころから、『奇跡体験!アンビリバボー』(フジテレビ)の前説を務めていた。 2010年12月31日を以って、所属していたホリプロを退社。その後もフリーで活動を続けていたが、2012年秋頃にSMA NEET Projectへ所属。2020年1月20日の最初で最後となった単独ライブ『Best Friend』(東京・千川 Beach V)をもって解散。解散後は二人とも芸人を引退。
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来歴・芸風
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/18 20:13 UTC 版)
2016年2月結成。コンビ名の由来は、きのした先生の代表的なコスプレであるウィル・A・ツェペリの波紋の師匠であり、たかしろのコスプレするジョナサン・ジョースターの大師匠にあたるトンペティから。 傘回し芸とジョジョの奇妙な冒険に関するお笑いライブやトークライブを開催するJJ芸人として活動している。
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来歴・芸風
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/14 03:25 UTC 版)
目黒笑売塾2期生出身。 演じていたのは主にコント。尺の短い番組に出演する際に野球拳ネタをしていたことが多かった。 2008年2月末解散。勝又は、実兄で元マチコの勝又伸悟と『勝又』を結成、オスカープロモーションに所属。永尾はピン芸人『永尾宗大』(ながお そうだい)、その後2009年11月からはコンビ『ベティ』のメンバーとなり、そのままホリプロコム所属で活動。
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来歴・芸風
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/25 16:32 UTC 版)
俳優としても活動する2人により結成。 キングオブコント2009では2回戦突破。 『月笑』など、太田プロダクション主催のお笑いライブに参加している。 コントが多く、タイガーマスクなどキャラクターに扮したネタも持つ。 2010年12月解散。清水は太田プロに残りピン芸人「かがわの水割」として活動。イッキはアクロス エンタテインメントに移籍。
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来歴・芸風
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ワタナベコメディスクール4期生出身。 シルヴェスター・スタローンのファンであるため、この芸名を付け、スタローンの物真似を主とした活動を行っている。髪にパーマを当て、機関銃を持って銃弾をたすき掛けにしたという、映画『ランボー』でのスタローンを意識した格好で様々なシチュエーションの一人コントを演じている。ブリッジや落ちに「フォーフ!」や「バイエルーン!」(スタローンが出演していた伊藤ハムのソーセージ商品『アルトバイエルン』のCMを意識したもの)という台詞を発するのが特徴。単なる物真似ではなく、特徴的な台詞やシーンなどをデフォルメして表現しているが、スタローンが言いそうもないことは言わないようにしている。ものまねショーパブ『リトモ ディ ブリブリブッスン』(東京・麻布十番)で働いていた。その他多くのライブで活動中。 最初はコンビで漫才をやっていたが、ある日先輩芸人から「お前スタローンに似てるな」と言われ、スタローンの物真似をしたところ結構受けが良かったので、これをきっかけにスタローンの物真似芸人をやるようになったという。海外俳優キャラのメリットは話しかけてもらいやすいこと、デメリットはキャラを維持する為に経費がかかること。衣装や小道具代などは全て自腹であり、自身の髪質が極度の直毛の為、スタローン風のパーマをあてるのに毎回11,800円かかり、今の髪型に落ち着くまでの時間も3年近くかかったと言う。あるインタビューの仕事でスタローン本人に会ったこともあり、その際に「アイム ジャパニーズ ランボー」とスタローン本人に言ったところ、スタローンから「ユーアー ニューランボー。アイム オールド ランボー」と笑顔で言われたという。 2008年7月9日に映画『ワン・ミス・コール』のジャパンプレミア試写会が行われた時には、デーブ・スペクターのハリウッドデビューを祝うという形で、デーブと渡辺直美(ビヨンセの真似)、プチ・ブルース(ブルース・ウィリスの真似)と一緒に舞台挨拶に出演した。 2015年3月4日にスタローン主演映画『エクスペンダブルズ3 ワールドミッション』の“最強日本語吹き替え版”完成披露プレミア試写会が行われた時には、観劇の一般応募に当選し、プライベートで来場していた所、当日司会の飛石連休・藤井ペイジに発見され、ステージに呼ばれ即興で『ランボー3』のランボーの物真似を行った。この時にスタローンの吹き替えを担当するささきいさおとの共演を果たしている。なお、この時ランボーの物真似ができるよう、事前にタンクトップとバンダナを用意していたが、本当にプライベートであったという。 スタローンの他にもノッポさん(高見映)、アンタッチャブル山崎弘也、ロビンマスク(『キン肉マン』のキャラクター)などの物真似レパートリーがある。ただし、ロビンマスクの物真似を関係者に披露したところ不評だったため、現在ではボツ扱いになっている。 ワタナベコメディスクール卒業後は、ワタナベエンターテインメント所属となった後、フリーとなり、一時はワタナベエンターテインメントのライブ『STEP! STEP! STEP!』に出演してワタナベエンターテインメント再所属を目指していたこともあった。その後、アミー・パークに所属となった。 2013年時点では、自身のプライベートの自宅は沿線横、家賃5万円(共益費なし)、トイレ・風呂付き、6畳1ルームのアパートに、別の同期の芸人と2人でシェアで同居していた。
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来歴・芸風
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「アンジェラ・デストロイ」の記事における「来歴・芸風」の解説
NSC東京校10期生(2004年)出身。 お笑い芸人になる前は、アイドル歌手として活動していた前歴がある。1997年にアイドルのオーディションに合格、5人組グループ「HAKO with THE BIBIAN」を結成し、翌1998年にスパイス・ガールズのカバー曲『Spice Up Your Life』(1998年3月25日発売)でデビューしたが、当時所属していた事務所が倒産したためにグループは解散、その後はフリーター生活をしていたがある日、ルミネtheよしもとで歌の芸をしていた芸人を観たことがきっかけとなって再び歌う夢を追うように、NSCに入学し芸人を目指すようになった。 物真似では、工藤静香や浜崎あゆみなどを主なレパートリーにしている。ハンマミーヤの一木陵平が石橋貴明の物真似を演じて、二人で『A.S.A.P.』を歌ったこともあった。 漫談においては、ゴスロリ漫談というスタイルがあり、衣装は黒系が多い。 「デストローイ!」という決め台詞がある。 ブログにおいては、「紳士淑女の皆様ごきげんよう」から始まり、「一寸先は闇」の言葉で締めている。なお、この言葉はネタを演じた時の決め台詞にしていることもある。 2018年6月に「アンジェラ・デストロイ」に改名。しかし現在も歌手として活動する際などに「暗黒天使」の名義を使用している。 2020年10月28日に発売された藤井隆プロデュースのアルバム『SLENDERIE ideal』収録の楽曲「Dirty Angel」に作詞とボーカルで参加し、初のソロシンガーデビューとなった。
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来歴・芸風
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三人ともワタナベコメディスクール10期生(2009年4月入学、2010年3月卒業)出身。上田と嘉数は同スクール在学中の2009年中にコンビ『ヘッドスライディング』を結成。なお、鈴木は同スクール入学前から芸歴があり、2007年8月30日から2008年12月31日までコンビ『たんたかたん』で活動。スクール入学後の2009年から2010年途中までピン芸人、2010年途中からは、'らむとのコンビ『西千葉コメディスター』で活動。西千葉コメディスターは2011年10月で解散、この後くりおね結成までは再びピンでの活動になる。 2012年10月にヘッドスライディングとのユニットでライブに出演、翌11月に正式に鈴木がヘッドスライディングに加入、同時にトリオ名を『くりおね』とする。 2019年8月に解散を発表。上田は引退して「株式会社ネットテン」の常務取締役に転身、嘉数は乙・島山ノブヨシとのものまね芸人ユニット「ノブとカカズ」として、鈴木はeスポーツ芸人として活動する。 ネタは漫才、コント共に行う。漫才では、ツッコミとして三人で一斉につんのめるという振りがある(これと共に、ボケとして一人だけつんのめるという振りもある)。
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来歴・芸風
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「デスペラード (お笑いコンビ)」の記事における「来歴・芸風」の解説
NSC東京校8期生に在籍した3人により結成。以前は『デスリガン』というコンビ名も並行して使っていたことがあった。 2004年9月に一人脱退し、現在のコンビとなる。脱退した一人はピン芸人「茶柱立乃助」として活動。 コンビ名は、アメリカ合衆国のバンド・イーグルスの曲『デスペラード(ならず者)』から付けられた。名付け親は途中で脱退したメンバー(後の茶柱立乃助)。 スタイルは主に漫才で、日本人とイラン人の違いやそれぞれの国の違い、また時事問題を絡めたネタなどを披露している。イランのネタに入る時は、時々過激な方向に行くこともある(アルカーイダ、自爆テロなど)。ターバンを巻いて出演することが多いサラミは最初「ターバンは本来、政治家とか偉い人が巻くもの」としてターバンを巻かずに出演していたが、『爆笑レッドカーペット』に出演する時にターバンを巻くようにアドバイスされ、以後ターバン姿で出演することが多くなったという。なお、ネタ、ライブによってはターバンを巻かずに出演することもある。 2009年4月8日には、住友商事の新入社員研修に「講師」として招かれ、コミュニケーション能力向上の一環として漫才を教えた。 2020年1月、武井が公式ツイッターにてコンビ解散を発表。
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来歴・芸風
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山形県立山形南高等学校の同級生でラグビー部の主将を務めていたタツキと副将だった吉村は、一緒にアメリカでWWEのプロレスラーになることを夢見ていた。 高校卒業後吉村は東海大学に進学、タツキは仙台のスポーツトレーナー専門学校に進学するも中退し、アメリカへ向かう資金を貯める為に土木作業員のバイトをしていた。タツキは矢沢永吉の『成りあがり』を読んで「ビッグになろう」と思い立ち、勢いで上京。東京に引っ越してからある日、世田谷区に位置する某大物芸人の豪邸の前を通り、芸人になることを思いついて吉村を誘った。その頃吉村は当時付き合っていた彼女に「外国には行かないで」と言われて夢を諦めていたため、タツキの誘いに乗る形で芸人の道を選ぶことになった。タツキの両親は芸人になることをあっさり了承するも、吉村の両親は放任主義だったが芸人への道には反対した為、デビューしてから2年間黙っていた。 芸風は主に漫才。タツキの体を張った芸(タツキが畳まれたタオルの上に頭を乗せた状態で三点倒立をし吉村がタツキを回す、ブリッジの状態になったタツキの上に吉村が乗る等)が持ち味。コンビ揃って強面でVシネマに出演経験があるが、2人とも温和な性分。 2021年5月31日、双方の公式ツイッターアカウントにて、解散を発表。吉村は今後も芸人を続けるが、タツキは別の世界での活動を予定している。M-1グランプリ2021には吉村が土屋とのコンビ「孫だしひやしとがし」として出場。
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来歴・芸風
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小学校時代からの同級生。浜村は小学3年生頃から漠然とお笑い界を目指すようになり、小学生の頃から浜村が一番の仲良しの浜口を毎日のように誘っていた。その時浜口は「その時はそんな気が無く、笑ってごまかしていた」と言う。高校は別々の所に進学したが、浜村は中退、浜口も卒業後の進路は決まっておらず、この時にこれが最後のつもりで浜村が改めて浜口を誘い、浜口も最後には「こいつとならやって行けそう」と思い、二人で名古屋NSCに入学。ネタ見せに受からず4年間通い続けたという。なお同校の15期生にカウントされている。 2008年8月に名古屋吉本を退社、東京進出し翌年1月からマセキユースに所属。2014年1月にマセキ芸能社所属となる。 2011年7月に無期限休養を発表、同年10月に復帰。 2014年の第4回「THE MANZAI」にて、初めて認定漫才師50組に選ばれる。なおこの大会には初年度から出場しているが、2011年度は1回戦敗退、2012・2013年度は共に2回戦敗退だった。 主に漫才を行っていた。シュールなやりとりを得意とする。浜村がネタ中に浜口の改名を提案する、「5 4 3 2 1、ドカーン」と数字を交えたネタ等がある。 漫才でありながら、物語のようなストーリー性、展開のあるネタを得意とし、笑いだけではなく郷愁や感動をも生み出す稀有な漫才師である。 立ち位置がコンビ名の並びと逆になっている。 ゴッドタンの「この若手知ってんのか!? 2013秋」で「華はないけど実力はピカイチな芸人(非よしもと)」 5位に選ばれた。 三四郎・浜口浜村・ドリーマーズの3組のライブ(仮)での出囃子ははっぴいえんどの「風をあつめて」を使用している。 2015年12月14日、マセキ芸能社主催のライブ「ライラックブルー」において、ツィンテルとともに解散を発表した。
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来歴・芸風
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「やさしい雨 (お笑いコンビ)」の記事における「来歴・芸風」の解説
専門学校東京アナウンス学院の卒業生同士でコンビを結成。結成当初のコンビ名は「優しい雨」だったが、後に現コンビ名に改名。本人たち曰く「事務所によって勝手に変えられた」とのこと。 あきげん、ラブアンドピースとの3組の合同ライブ『僕の細道』を行っていたことがある。 ネタは主にコント。松崎のアニメ・漫画好きを生かした形の「オタクの兄と、兄を慕う弟」などのネタがある。ここでは松崎が弟役の吉本に初歩(ABC)を教える場面があり、このABCのネタは語呂合わせになっている。また、この時松崎は萌えキャラのTシャツを着ていることが多い。この他、吉本のギター演奏に合わせて二人で歌いながらネタを繰り出す(途中で松崎がハーモニカを吹き出すことや、新聞や冊子などの文をそのまま歌にして読みながら歌い上げること)というものがある。 2020年4月18日、吉本のブログにて同年6月6日にコンビの解散と、同日にコンビ最後の単独ライブ『LAST LOVE LETTER-幸福絶頂版-』の開催を発表した。なおコンビ解散後、吉本はお笑いの世界から離れ松崎は引き続きピン芸人として活動を続ける。 しかし新型コロナウイルスの影響により、単独ライブは同年6月6日のZoom有料配信に変更することが5月19日に発表された。
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来歴・芸風
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「ぽんぽこ (お笑いコンビ)」の記事における「来歴・芸風」の解説
2人は共にピンで活動していた頃にライブでの共演がきっかけで知り合い、先輩から「面白そうだから付き合え」と言われ「縦社会だから断れなかった」ということで知り合って6時間で付き合い始め、コンビとして結成した。高木はそえじまの実家で同棲しており、カップル芸人であることを公言している。 主に漫才。事あるごとに「キャーッ!」「ウギーッ!」などと叫ぶ高木の濃いキャラを活かしたネタが多い。
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来歴・芸風
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元は正統派音楽バンドだったというコンビで、成城大学の同級生同士。バンド解散をきっかけにお笑いに転向する。2006年4月、ワタナベコメディスクールに4期生として入学(2007年3月卒業)。けいたまんから吉田を誘う形でお笑いに転向した。 2008年11月「WEL」で企画としてWCS先輩のしんのすけとシャンとさんぴん、後輩の坂本しろう(ザ・ゴリラバンド)と「C-BOYS」というグループでコントも行う。 ネタのスタイルは主に歌ネタを織り交ぜたコント。けいたまんがギターなどの演奏を務める。「お経の弾き語り」「“どっちにしようかな”の歌」などのネタがある。 コンビ名は、二人の名前(啓太→ケチン、幸市→コチン)に由来する。「ダ」を入れたのは「そのまま繋げるとTV的にダメな言葉が出る」という理由。 キングオブコント2011にて、初の準決勝進出。 2016年3月1日をもって、コンビの解散を発表。吉田は引退し、けいたまんはピン芸人として活動。その後、けいたまんも同年12月31日をもって引退。
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来歴・芸風
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「おたまじゃくし (お笑いコンビ)」の記事における「来歴・芸風」の解説
2人とも別々のコンビとして活動していたが、芸人による草野球チームにて意気投合したのがきっかけでコンビ結成。コンビ名の由来は中西の祖母が、老若男女に覚えてもらえやすいようにと名付けた。 漫才・コント共に行う。主によしもと漫才劇場へ出演。 2022年6月15日、同日を以って解散を発表。中西はTwitterで「僕は芸人を続けるので、おたまじゃくしで得た経験を今後の芸人人生に活かしていきます」とコメントしている。
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来歴・芸風
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「ロビンフット (お笑いコンビ)」の記事における「来歴・芸風」の解説
2000年5月結成。大阪でそれぞれ活動していた頃からおぐに目を付けていたマー坊が誘い、東京に呼び寄せてコンビを組んだ。かつてはワタナベエンターテインメントに所属していた。しかしおぐは東京に馴染めなかったことで、上京後僅か1カ月で一度大阪へ戻る(この時おぐは当時交際していた彼女を残したまま上京しており、芸人を辞めて大阪で結婚しようと思っていたという)。そこでマー坊はおぐを東京に戻すためドッキリを仕掛けることになり、運転手をしていた原田の名を出して「東京で泰造さんが呼んでいる」と嘘をついておぐを呼び戻す形で再び上京させ、すぐにその足で『ネプチューンのallnightnippon SUPER!』(ニッポン放送)へ出演させ、この番組内でコンビ名を募集する企画を行った。 ネタは2人で作っている。 2018年、キングオブコントの決勝へ初進出、最終5位。同年12月のお笑い全日本カップ2018にて優勝。
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来歴・芸風
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前のコンビを解散した福田が、吉本主催の演技ワークショップで出会ったかなでとユニットコントのライブで出会ったゆめっちを誘い、2017年1月1日に結成。当初から「こういうトリオにしたい」という構想を持っており、どちらか1人にでも断られたらこの構想は無しにするつもりだった。コンビ志望だったかなでは一度断ったものの、その後思い直して加入した。2018年1月7日、初の単独ライブ「こんな私に恋してくれますか?」をヨシモト∞ホールで開催。 トリオ名は「おやつの時間(午後3時)だけはヒロインだよ」ということに由来する。 ヨシモト∞ホールや神保町花月若手芸人ユニット ゲキノビ!のチーム「ビ」のメンバーとして活動していた。 2019年開催の第3回『女芸人No.1決定戦 THE W』では、1stステージは朝ドラ風のトリオ漫才でハルカラに勝利。最終決戦では失恋ネタのコントで、はなしょーに大差をつけ優勝を果たした。THE Wでのキャッチフレーズは『大中小のトリプルプレー』。決勝のネタで使用したジュリア・マイケルズの『Uh Huh/ア・ハー』は披露後に話題となり、ダウンロードが前日比132倍、ストリーミングでは22倍を記録している。福田によるとTHE Wでこのネタを3年越しに選んだということで「優勝できなくても、これでブレイクしよう」と思い、今回で「アッハーン」を"成仏"させようといった気持ちで行ったという。「お笑い第七世代」の女性芸人の枠にちょうど収まる形となり、2020年上半期のブレイクタレントランキングの1位、年間ランキングでは3位となった。 福田の、他の2人を操縦するその様子をして松本人志(ダウンタウン)は安田大サーカスをもじり福田大サーカスと表現したことがある。
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来歴・芸風
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/30 09:12 UTC 版)
コントを専門とする。ボケとツッコミはネタによって変わるが、中岡によるリアクションが活かされるものが多い。後述の2015年のキングオブコント以降は中岡がボケ、コカドがツッコミに専念するようになっている。 中岡・コカドは共にNSC大阪校出身であるが、吉本興業所属時は別々のコンビを組んでいた。中岡は22歳で一旦芸人を辞めて名古屋の工場にて勤務、一方コカドは吉本を辞めて東京進出、事務所を転々とした後にワタナベエンターテインメントへ入った。友達4人で沖縄に3泊4日の旅行へ出かけ、その旅行にて仲良くなった2人は2005年にコンビを結成。中岡もコカドと同じ事務所に入った。 コンビ名の由来は、コンビを組んだ2005年に日本一になった千葉ロッテマリーンズにあやかって少しもじって名付けられた。ただし千葉ロッテマリーンズの選手も『VS嵐』で共演するまで知らなかったという。玩具メーカー・コスモスが発売していたロッテ・ビックリマンのコピー商品とは無関係で、2人ともこの騒動を知らなかった。 キングオブコントでは2008年に屈辱の2回戦落ちを味わったが、その後の2009・2010年では連続で決勝進出を果たし2009年は6位、2010年は7位という結果に終わった。2015年には5年ぶり3度目となる決勝進出を果たし、ファーストステージの「試着室」で同年の大会の最高得点を叩き出し優勝まであと一歩と迫ったが、ファイナルステージにてコカドがボケを担当する「ボクサー」でまさかの低得点を挙げてしまい、全体3位まで沈むという番狂わせとなった。審査員を務めた松本人志(ダウンタウン)は後に別番組で「ファーストステージで一番オモロかったのがロッチで、ファイナルで一番オモロなかったのがロッチ」と語っていた。また、この出来事が起きて以後はファーストステージでウケたのにファイナルステージではウケなかったことをロッチ現象と称されることがある。ロッチ現象の例としては2018年のチョコレートプラネットがある。 2014年頃から中岡が『世界の果てまでイッテQ!』に準レギュラーとして出演するようになって以降、それぞれピン(単独)での出演も増えている。
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来歴・芸風
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桂金吾は京都の生まれ、落語家の三代目春風亭柳好(野ざらしの柳好)の弟子。 花園愛子は鹿児島県肝属郡大根占(現・錦江町)出身。 桂金吾は落語の雰囲気を取り入れた軽妙なタッチ、花園愛子は歌と三味線が得意であった、2人は名古屋で知り合い、吉本興業専属として浅草の寄席を中心に活躍、たびたび大阪の寄席にも出演していた。 1941年6月吉本興業が中心となって桂金吾が団長で奇術の松旭斎清子・小清・清美親子、浪曲師・物まねの漫談らと演芸慰問団を結成し中国の北支那(河南省)を慰問、同年7月22日の慰問中の移動中の昼に乗っていたトラックが中国軍の被弾を受け先頭車両に乗っていた花園愛子は戦死した(数えで36歳)。25日には朝日新聞に負傷が報じられ30日には都新聞が死を報じた。死後金吾は奇術の小清を相方に一月ほど慰問を続けたが慰問団は帰国、東京駅には駅長、警察、軍、吉本関係者ら出迎え、8月には東條英機夫人が参列した告別式が行われた、9月にも当時所属だった帝都漫才協会(現在の漫才協会)主催の葬儀が行われその席で勲八等が送られた。 花園愛子は没後の1965年4月21日、陸軍所属として靖国神社に合祀された。漫才師で合祀されているのは花園愛子だけだとされる。 遺児の娘・稲田トシ子はのちに八代目古今亭志ん馬と結婚した。 桂金吾はその後引退し静岡の伊東市に住んでいた。
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来歴・芸風
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/24 10:07 UTC 版)
桜美林大学文学部英語英米文学科卒業。2004年頃デビュー。フリーで活動後、2009年2月にげんしじん事務所に所属。2010年1月に宍戸ヴィシャスに改名。2014年1月にげんしじん事務所を退所して引退したが、その後もフリーとして活動。 持ちネタは主にコント、ショートコント。以前はオチに赤ペンを口の周りに塗りながら「最高だわ〜」と叫ぶショートコントをしていた。その後上半身裸で頭にターバンを巻いた姿で合コンの反省会、ラジオ番組のADやライブ中のアイドルなどのコントをしている。オチに以前と同様「最高だわ〜」と叫ぶ事が多い。 趣味はアガサ・クリスティの小説を読むことで、自身のブログに感想を書く事が多い。
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来歴・芸風
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/02/02 02:01 UTC 版)
2006年6月1日結成。翌6月2日に東京都杉並区のあさがやドラムにてアバンギャル'Sとして初ライブ。コンビ名の由来は、アバンギャルドという『前衛的・型破りな』という意味と、自称ギャルが2人という意味から、たか子が命名する。なお、たか子が以前結成し活動していたバンドの名前でもあったという。 お笑いの活動の他に、音楽ライブで司会を務めることもある。その他、2009年には、ロックバンド『横濱Bay Rock Stars』のライブにチアガールとしても出演。 2010年7月13日には、目黒鹿鳴館にてロックバンド『Vagu*Project』主催のライブのオープニングアクトにもチアガールとして限定出演もしている。 たか子が奔放的なボケを見せるネタがある。以前はボケとツッコミを交換して演じるネタを披露していたこともあった。 2010年11月上旬以降、アバンギャル'Sとしての活動は約二ヶ月に一度程度とし、お笑いライブ ファミコン道場にてMCを務めるのみで、お笑いのネタは発表していない。 2012年12月、ブログ上にて解散を発表、2012年12月31日を以て正式に解散となる。
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来歴・芸風
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/03/26 04:20 UTC 版)
古川一郎は楽劇団「古川一萬一座」を率いた古川一萬の実子で大阪府大阪市の生まれ、1936年の5歳のときに初舞台を踏む。終戦直後は台湾、朝鮮、満州などを慰問した。大阪府立天王寺中学校(現在の大阪府立天王寺高等学校)出身。のちに松原千賀七にアコーディオンを習い、のらくろショウに8年間在籍。 古川二三子は兵庫県神戸新開地のお茶屋の娘。もろ多玉枝・広多成三郎の門下で1941年に大谷夢蝶の名で同じ一門の荒川小玉と組み初舞台を踏む。1952年にのらくろショウに入った。そこで知り合った二人が結婚しコンビを組んだ。 戦後長らく西成区山王にあった芸人が多く住んだ地域「てんのじ村」に住み、余興や地方の営業中心で神戸松竹座に出ていた時期もある、戎橋松竹、松竹芸能の角座、吉本興業の花月など主要劇場はほとんど上がっていなかった。また新世界にあった朝日劇場(現在の大衆演劇の劇場)の社長・橋本繁太郎の息子と同級生だったためにお世話になっていた時期もありよく劇場に上がっていた。 晩年の1995年ごろは二三子が腎不全で人工透析で入退院を繰り返していたためほとんど舞台に上がっていなかった。 一郎のアコーディオン、二三子が三味線を持った、オーソドックスな歌謡曲の音曲漫才であった。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/03/26 04:22 UTC 版)
恵一は1910年に愛媛の生まれ。16歳のときに家出同然で飛び出し広島で住み込みで働く、同僚の親友に寄席小屋の席亭の息子がいたので寄席にの楽屋に出入りするようになる。貞子は竹の家喜雀の娘で1913年の生まれで幼いころから竹の家定奴の名で女道楽で舞台に出る。 後に2人は結婚しコンビを組むに伴い定奴は玉木貞子と改名。 安来節などの歌を得意とし、恵一は薬缶や茶筒を鼓に見立てて合奏が得意であった。 1980年の晩年は劇場、寄席の出演は少なかったが、珍しい珍芸ということでよくテレビに出てこの芸を披露していた。 後ろ面踊りの小松まことは同じ竹の家喜雀の一門。
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来歴・芸風
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/03/26 04:25 UTC 版)
「柳エンド・水町千代子」の記事における「来歴・芸風」の解説
エンドは最初は「東幸夫」という芸名であった。また1938年頃に吉本興業で秋田實が開いた漫才道場の第一期研修生になる。のちに柳枝門下で「三遊亭柳馬」から「柳柳笑」を経て「柳エンド」と改名した。コンビ別れが多く最初の相方が東九馬で以降何度も変え、柳馬の時の最初の相方が三遊亭柳太郎、戦後の柳笑時代には東文章と組む。解散後妻の千代子と組んだ。 千代子は芸能一家に生まれ、母は若松家正八・前田すみ子のすみ子で父も兄弟もみな芸人だった、幼い頃から芸を仕込まれ戦後エンドと組む。 一時吉本興業の花月に出ていたこともあったがほとんどが地方での活動で、その後エンドの病気がちで舞台に出なくなった、舞台でなくなってからは道頓堀角座の頭取をしていたが没した、千代子もその後引退した。2011年1月現在は千代子は茨木で隠居生活を送っている。 芸風はエンドの背広と千代子のドレス姿にアコーディオンを持った歌謡音曲漫才であった。
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