花園愛子とは? わかりやすく解説

桂金吾・花園愛子

(花園愛子 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/01/12 14:11 UTC 版)

桂金吾・花園愛子(かつらきんご・はなぞのあいこ)は、戦前・戦中に活躍した夫婦漫才コンビ。コンビ結成時期不明。

来歴・芸風

  • 桂金吾は京都の生まれ、落語家三代目春風亭柳好(野ざらしの柳好)の弟子。
  • 花園愛子は鹿児島県肝属郡大根占町(現・錦江町)出身。
  • 桂金吾は落語の雰囲気を取り入れた軽妙なタッチ、花園愛子は歌と三味線が得意であった、2人は名古屋で知り合い、吉本興業専属として浅草寄席を中心に活躍、たびたび大阪の寄席にも出演していた。
  • 1941年6月吉本興業が中心となって桂金吾が団長で奇術の松旭斎清子・小清・清美親子、浪曲師・物まねの漫談らと演芸慰問団を結成し中国の北支那(河南省)を慰問、同年7月22日の昼に済源から胡令へ移動中の乗っていたトラックが中国軍の砲弾を受け先頭車両に乗っていた花園愛子は戦死した(数えで36歳)[1]。25日には朝日新聞に負傷が報じられ30日には都新聞が死を報じた。死後金吾は奇術の小清を相方に一月ほど慰問を続けたが慰問団は帰国、東京駅には駅長、警察、軍、吉本関係者ら出迎え、8月には東條英機夫人が参列した告別式が行われた、9月にも当時所属だった帝都漫才協会(現在の漫才協会)主催の葬儀が行われその席で勲八等が送られた。
  • 花園愛子は没後の1965年4月21日、陸軍所属として靖国神社に合祀された。漫才師で合祀されているのは花園愛子だけだとされる。
  • 遺児の娘・稲田トシはのちに六代目古今亭志ん馬と結婚した。
  • 桂金吾はその後引退し静岡県伊東市に住んでいた。

メンバー

桂 金吾
1899年(明治32年)2月9日 - 1981年(昭和56年)8月18日。本名は稲田清治郎(のちの浅井清治郎)。
花園 愛子
1906年(明治39年)3月15日 - 1941年(昭和16年)7月22日。本名は稲田ミサ。

脚注

  1. ^ 押田 2019, 113頁.

関連項目

参考文献

  • 「大衆芸能史資料集成 第七巻」
  • 戦時演芸慰問団「わらわし隊」の記録(早坂隆 中央公論新社 2008年)
  • 押田信子 著『抹殺された日本軍恤兵部の正体』扶桑社、2019年。ISBN 9784594082369 

花園 愛子

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/08 14:54 UTC 版)

桂金吾・花園愛子」の記事における「花園 愛子」の解説

1906年明治39年3月15日1941年昭和16年7月22日本名稲田ミサ

※この「花園 愛子」の解説は、「桂金吾・花園愛子」の解説の一部です。
「花園 愛子」を含む「桂金吾・花園愛子」の記事については、「桂金吾・花園愛子」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「花園愛子」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「花園愛子」の関連用語

花園愛子のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



花園愛子のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの桂金吾・花園愛子 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの桂金吾・花園愛子 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS