由緒・歴史
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相内神社の嚆矢となったのは、屯田歩兵第4大隊第3中隊に所属する屯田兵と、その家族・親族の信仰である。現在の北見市相内町周辺に屯田兵が入植したのは明治30年(1897年)から明治31年(1898年)にかけてで、現在の北見市美園に中隊本部を置き、同東相内町、同豊田に分住して開拓と訓練に励んだ。 これら3地区それぞれに小祠が祀られ、日常の参拝はもとより、春は札幌神社(現在の北海道神宮)の例祭日に合わせ6月15日に、秋は伊勢の神宮で神嘗祭が行われる9月17日に祭礼を行って、崇敬心を深めるとともに日々の疲れを癒していた。 まもなく屯田兵制が廃止されたのちも、屯田兵とその家族・親族の多数が同地に残り、大正10年(1921年)、野付牛町(現・北見市)より分かれて相内村が成立すると、彼らを中心に一村の鎮守神としての神社を建立すべしとの声が高まってゆく。まずは新造されてまもない村役場の敷地内西側に、神名を記した木標を立てて祭祀を行い、昭和7年(1932年)、相内小学校の御真影奉安殿が新造されると旧奉安殿を社殿として流用し、現在の相内町市街地の北方中央を社殿地と定め、遷座祭を行った。 これを機に村議会を初め、有志の間より社殿の新造営、村社昇格申請の議がたびたび起きるが、戦時体制へと移行してゆくうちに立ち消えていった。戦後になって、昭和10年(1935年)頃より日夜熱心に社殿に参拝し、氏子や崇敬者の教化に努めていた今村政男を常任神職として祭祀を委ねるべきとの声が高まってきたのを機に、昭和27年(1952年)、同氏の私財及び氏子崇敬者の浄財をもって現社殿を造営、今村政男が宮司に就任。その後境内整備、一層の氏子教化育成を図り、今日の隆盛を見るに至る。
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由緒・歴史
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「杉山神社 (横浜市保土ケ谷区星川)」の記事における「由緒・歴史」の解説
当社の創建時期は不明であるが、貞観11年(869年)に編纂された『続日本後紀』に記載のある「枌山神社」や延長5年(927年)に編纂された『延喜式神名帳』に記載のある「武蔵国都筑郡唯一の式内社」とされる杉山神社の論社の一つとなっている。 また江戸時代には、『新編武蔵風土記稿』にて橘樹郡神奈川領下星川村に鎮座する杉山神社についての記載がされている他、『江戸名所図会』ではこの神社を指して延喜式内社である旨の記載もされている。 昭和に入る頃までは境内に杉や松が密集しており、日光が届かないほどであった。太平洋戦争時には星川から天王町、帷子にかけての地域が全焼しているものの、当社の裾野は延焼を免れている。
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由緒・歴史
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『播磨国風土記』より、8世紀以前に飾磨郡因達里(いたてのさと)因達神山(比定地:八丈岩山、姫路市辻井・田寺・新在家)に伊太代神(射楯神)。 764年(天平宝字8年)6月11日 - 飾磨郡伊和里水尾山(姫路市山野井町にある水尾神社)に兵主神を祭祀。 787年(延暦6年) - 兵主神を飾磨郡国衙小野江の梛本(姫路市本町、現社殿地の北方約500m)に遷座。 『延喜式神名帳』に小社射楯兵主神社とあり、927年(延長5年)までに射楯神が合祀されている。 1181年(養和元年) - 播磨国16郡174座の大小明神社を合祀し、播磨国総社・府中社と称する。 1567年(永禄10年) - 黒田職隆の命により拝殿と御神門を修復。この際、屋根が板葺きから瓦葺きに葺き替えられた。 1581年(天正9年) - 羽柴秀吉が姫路城を築城するのに伴い、現在地に遷座。 1945年(昭和20年) - 姫路空襲により焼失。戦後まもなくして再建。 2006年11月 - 西参道に総社御門を再建。 飾磨郡伊和里(姫路市街地周辺)は伊和族(宍粟市一宮町須行名にある、播磨国一宮伊和神社の伊和大神を祀る氏族)の平野部においての拠点であったようで、兵主神は伊和大神であると言われている。出雲系である伊和大神は大己貴神(大国主命)と同一化され、兵主神も大国主命であるといわれるようになったと考えられる。 神仏習合時代には、神宮寺として般若院(般若寺)があった。また、播磨天台六山(書写山圓教寺・増位山随願寺・法華山一乗寺・八徳山八葉寺・妙徳山神積寺・蓬莱山普光寺)による大般若会が行われていた。 江戸時代には、姫路藩主の崇敬が篤かったと伝えられる。
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由緒・歴史
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西野地域の開拓は、明治18年(1885年)、故郷から産土神を抱いて渡道した五戸の入植者達によって開始され、この五戸の人々が開拓の守護神として三柱を奉斎する小祠を当時の西野地域の中心とおぼしき所に建てたのが、西野神社の起こりとされる。 明治32年(1899年)1月、右股(現在の平和地区)、左股(現在の福井地区)、広島(現在の西野地区)の各集落の小祠を合祀して、西野全域統合の神社として社号を西野神社とする。同年2月、札幌神社(北海道神宮の前身)の禰宜であった野村茂が、他の数社とともに西野神社の社掌(初代宮司)も兼務する。同年7月には、境内地として安井茂右衛門から300坪、安井岩五郎から150坪の寄付をそれぞれ受ける。 大正4年(1915年)、西野神社改築の認可を得て、翌5年に社殿が新築される。同年11月、境内地として久守五作から畑三反歩の寄付を受ける。 大正14年(1925年)12月、西野神社昇格願が内務大臣に提出され、昭和4年(1929年)1月、無格社から村社に列格される。同年7月、神饌幣帛料供進神社の指定を受け、同年8月には上手稲小学校前の神社用地(現在の西野福祉会館の地)に西野神社遥拝所が造営される。 昭和9年(1934年)、江別神社社掌を経て手稲神社社掌となった須浪仙太郎が、西野神社の社掌(2代目宮司)も兼務する。 昭和11年(1936年)11月、上川神社から手稲神社の社掌に転任した山口栄が、同時に西野神社の社掌(3代目宮司)と山口神社の社掌も兼務する。山口栄は戦後、上手稲神社と星置神社の宮司も兼務した。 昭和27年(1952年)4月に神社本庁から、翌28年2月には北海道庁から、それぞれ宗教法人西野神社規則が承認され、同年3月、西野神社の宗教法人設立の登記手続が完了。 昭和42年(1967年)、大正5年(1916年)に社殿が新築されてから50年が経ち社殿の老朽化が著しく進んでいたことから、半世紀ぶりに社殿が建て替えられる。同年、遥拝所が廃止。 昭和51年(1976年)、2代目社掌を務めた須浪仙太郎が、西野神社の神職として初めて社務所に常駐するようになり、これ以降は現在に至るまで、西野神社には神職が常勤している。これ以前は、神職ではない一般の人が、神社施設の管理人として家族とともに境内に常駐していた(神職ではない管理人がいつから常駐していたかについては正確な記録がないため不明)。 昭和53年(1978年)4月、3代目宮司 山口栄の退任に伴い、須浪仙太郎が宮司に再就任する。西野神社にとって、須浪仙太郎は第2代・第4代の宮司であるとともに、初の本務宮司でもある。なお、西野神社の兼務宮司を退任した山口栄は、平成2年8月まで手稲神社の本務宮司を務めた。 昭和57年(1982年)7月、神社前の市道 右股線道路拡幅工事施工のため、境内地の一部を札幌市に売却。 昭和58年(1983年)には、西野神社創祀百周年記念事業の一環として幣殿の造営、拝殿の増築、神饌所の増築、社殿屋根の銅板への葺き替え、回廊や欄干の増設など大規模な増改築が行われ、また、ほぼ同時期に社務所の新築、神札所・物置・渡り廊下の改築、ガレージの移設、手水舎改装等の工事なども行われたため、境内の様相が一新される。 昭和60年(1985年)7月、西野神社創祀百周年記念塔が竣工。同年9月、西野神社創祀百周年記念式典・祝典が挙行される。 平成3年(1991年)1月、前月に4代目宮司 須浪仙太郎が死去したことに伴い、西野神社禰宜であった須浪和弘(北海道神宮出仕として同宮でも奉仕)が5代目宮司に就任する。 平成7年(1995年)10月、創祀百十年記念事業として、授与所と参拝者用トイレが新築される。 平成10年(1998年)、参拝者控室、多目的応接室が建設され、ほぼ同時期に、神饌所改修、屋内手水舎新設、社務所玄関改築、中庭造園工事なども行われる。 平成11年(1999年)4月、西野神社公式ホームページが開設される。 平成17年(2005年)には創祀百二十年記念事業として、創祀百二十年記念碑の建立、拝殿の向拝と境内の参道への御影石敷設などが行われ、境内はほぼ現在の様相となるが、その後も、境内地拡張(隣接地買収)に伴う第2駐車場拡張や第3駐車場新設、拝殿向拝への木彫取り付け、参集殿の改築、土俵の改修、社務所の増築、各種樹木の植樹などが行われる。 平成20年(2008年)2月、株式会社クリーンリバーからの奉納として神輿殿が新築される。 平成27年(2015年)には、創祀百三十年記念事業として、第一駐車場全面や創祀百二十年記念碑周りへの御影石敷設、掲示板の建て替え、氏子青年会の結成などが行われる。 平成30年(2018年)には、老朽化が進んでいた神楽殿が取り壊され、令和元年(2019年)、その跡地に、神前結婚式をはじめとする各種神事が斎行できる殿舎として儀式殿が新築される。儀式殿竣工に合わせて、大祭として竣工遷座祭が盛大に執り行われ、同祭で、本殿で祀られている祭神の分霊が儀式殿内の神殿へも奉遷される。 創建当時(明治18年頃)の西野神社想像図 大正時代の西野神社 大正時代の西野神社 拝殿 昭和42年の西野神社 拝殿 昭和58年の西野神社(諸工事落成記念) 平成27年の西野神社 拝殿 令和元年の西野神社 儀式殿(竣工記念)
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由緒・歴史
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「神明社 (横浜市保土ケ谷区)」の記事における「由緒・歴史」の解説
以下は社伝による。 天禄元年(970年)、天照大御神が榛谷(はんがや)の峰に来臨し、その後、川井、二俣川、北保土ヶ谷宮林へ移転した。嘉禄元年(1225年)、神戸(ごうど)に外宮を造営。榛谷御厨八郷(榛谷氏所領)の総鎮守となる。--『神明社由来書』弘治元年(1555年) 鎌倉時代、榛谷重朝が支配していた当地一帯を伊勢神宮へ寄進していることから、当地が伊勢神宮の荘園(榛谷御厨)になって以降、産土神として存在していた当社に天照大御神を祀った、とも考えられる。北保土ヶ谷宮林とは、現在の霞台という説がある。なお、この書に登場する「北保土ヶ谷」は、保土ヶ谷の地名の最も古い記録である。 その後の来歴 天正18年(1590年)、徳川家康により、社殿の造営が行われ、朱印地が与えられた。 元和5年(1619年)、本社を当地へ移転、社殿の造営や境内の整備が行われた。 明治6年(1873年)、村社に列せられ、後に神饌幣帛料供進神社に指定される。 平成10年(1998年)、平成の大造営が行われ、移転以来の境内社殿12棟が一新される。 平成12年(2000年)、神奈川県神社庁の献幣使参向神社に指定される。
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由緒・歴史
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創祀年代は不明。神社公式ウェブサイト(2021年閲覧)によれば、創建は「今を去る1300余年の昔」という。『下野神社沿革史』(明治35年=1902年)に載せる社伝によれば、藤原隼人という人物が京都より当地に移って邸内に日本武尊を祀ったのが神社の創建とされており、この隼人が石原を家名として祠官石原家の祖先になったという。隼人は日本武尊に仕えた家臣であったともいう伝承もある。日本武尊が東征の折に着用した服の片袖を神体にしていたというが、明治期にはすでに失われ、口承のみになっている。 日光山開山の祖である勝道上人は、古峯ヶ原深山巴の宿で3年間の修行ののちに天応2年(782年)に男体山に登ったとされる。これにより「日光発祥の地」とも呼ばれるといい、山岳信仰の霊地であった。 この由緒に基づき、神仏が習合していた時代には、日光全山26院80坊の僧侶(日光修験)は古峯ヶ原で修業をするならわしであり、「華供峯」は日光入峯の重要な修行であった。『下野神社沿革史』によれば、日光へ赴く修行僧が石原家に投宿して雪中の案内を行い、以後恒例となった。日光にあった金剛童子の像を日本武尊とともに祀り、金剛峯権現(こんごうみねごんげん)と呼んだという。 明治初年の神仏分離に伴って仏具は撤去され(金剛童子像は日光に還仏したという)、祖先石原隼人が祀った日本武尊のみを祭神として「古峯神社」と号したという。1966年(昭和41年)に古峯神社と日光山興雲律院の共催により、華供峯が「巴祭」として復興されている。
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由緒・歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/25 01:55 UTC 版)
古代、現在の泥亀町から釜利谷東にわたる一帯は入り江となっており、現在当社のある辺りの狭い水路によって平潟湾につながっていた。この水路は罪穢を流し去る神聖な場所として、海神が祀られるようになった。 境内やその周辺は縄文時代以来人類が生活していた場所で、「瀬戸神社旧境内地内遺跡」と呼ばれている。1987年(昭和62年)以来の幾度かの発掘調査で、縄文海進期の波蝕台や縄文土器(縄文早期)、古墳時代の土師器や貝塚、室町時代から江戸時代にいたる貝塚や陶磁器、遺構などが発掘されている。 治承4年(1180年)、源頼朝は伊豆で挙兵した際に加護をもらった伊豆三島明神をこの地に勧請し、社殿を建立した。これが今日に至る瀬戸神社の創建である。 室町時代には、鎌倉公方が瀬戸神社を参拝する慣例があり、『鎌倉年中行事』にも4月8日を恒例の参拝日として記述している。
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「貴船神社 (みどり市)」の記事における「由緒・歴史」の解説
社伝に、天暦10年(956年)に関東地方が干魃に襲われた際、山城国の貴船神社(現在の京都府京都市左京区鎮座の貴船神社)から神霊を勧請して降雨と五穀豊穣を祈願したところ霊験著しく甘雨を得たため、渡良瀬川流域の山地に祀ったのが創まりで、江戸時代の寛文8年(1668年)に現在地に遷座したという。
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由緒・歴史
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「杉山神社 (横浜市保土ケ谷区川島町)」の記事における「由緒・歴史」の解説
天文年間(1532年 - 1555年)、北条氏康がこの地に陣を張った際、祠を建てて武運長久を祈ったのが始まりとされる。当社は延長5年(927年)の『延喜式神名帳』において「武蔵国都筑郡唯一の式内社」と記されている、「杉山神社」の論社の一つとなっている。 1844年(弘化元年)2月には社殿が焼失しているが、その後は村民によって再建されている。1873年(明治6年)には村社に指定された。現在の社殿は1955年(昭和30年)5月に造営されたものである。
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由緒・歴史
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長尾の森の広大な神域に鎮座し、『延喜式神名帳』に「葛下郡長尾神社、大、月次、新嘗」と記されている式内の古社。このあたりを支配していた長尾氏の氏神とされるが定かでない。また吉野連との関係があるとされる。『日本三代実録』に、「貞観元年己卯(875年)正月二十七 日大和国従五位下、長尾神社従五位上」とあり、9世紀にはこの地に鎮座していた。社伝によると、寛平9年(897年)より弘安4年(1281年)までの間に九階進昇。弘安4年には正二位、江戸時代には正一位にまで昇進した。『放光寺古今縁起』(1302年)や『大和志』(1736年)によると祭神は伊勢の神宮の内宮及び外宮の大神天照大神、豊受大神である。伊勢の神宮の真西に鎮座していることから、古くから人々の篤い信仰を得た神社であった。また住吉・熱田・諏訪の神々も祀られている。江戸期の文献では水光姫命、白雲別命も祀られたとある。また『放光寺古今縁起』には「長尾神社は葛下郡全体の総社である天武天皇が壬申の乱(672年)で勝利した後に感謝の気持ちから葛下郡一郡を当社に献じられた」と記されている。 鎮座地は竹内街道、長尾街道、横大路が交差する交通の要衝であり、古来より交通安全、旅行安全の神として篤く信仰されている。参道は拝殿に向かって東西に長く伸びており一の鳥居は近年新たに竣工した。二の鳥居の両脇には「なで蛙」が配されて、参拝者を見守っており、安産祈願の神としても名高い。また水光姫命は古事記や日本書紀に体が光って尾が生じていたと記されており、神様の化身が白蛇であると言われるところから蛇の頭が大神神社で尾が長尾神社という伝承がある。さらに長尾神社は西日本の長尾姓の発祥地とも表記がされているが、苗字帯刀の頃より吉川家が代々受け継いでおり、関係性は定かではない。
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由緒・歴史
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1906年 - 出雲大社教2代管長千家尊愛(せんげたかあき)の命を受けた広島県出身の神職宮王勝良がハワイに渡り、ホノルル市アアラレーン周辺において出雲信仰の布教を開始する。 1907年 - ダウンタウンのキング街とベレタニア街の三角地点(パラマ地域)を境内地とし、初めて教会所、神殿が竣功する。 1909年 - 出雲大社教より「出雲大社教布哇教会所」として正式に認可。マウイ島、ハワイ島などにも教会所や講社が開設され、積極的に活動を展開する。 1918年 - 宮王勝良を初代分院長として「出雲大社教布哇分院」に昇格。翌年にはハワイ出雲大社教団の法的組織化がハワイ準州政府より認可される。 1922年 - 同地に本社を模した社殿が新築される。翌年、出雲大社教3代管長・千家尊有(せんげたかもち)ら一行を当地に迎え、盛大な祝祭が斎行される。 1935年 - 宮王勝良帰幽。大日本帝国で神職の資格を取得し、1931年よりハワイで奉仕していた次男・宮王重丸が2代分院長に就任。 1941年 - 大日本帝国軍による真珠湾攻撃により、宮王重丸とその家族、分院役員らはFBIに身柄を拘束され、終戦の1945年までアメリカ合衆国本土に抑留される。抑留中に教団は解散。社殿などの財産はホノルル市郡政府に寄贈され、公園局と衛生局が管理した。 1946年 - 前年末、抑留所より帰布した宮王重丸がヤング街の倉庫を改造して社殿とし、正月より神社としての活動を再開する。 1952年 - 宮王重丸を原告とするハワイ出雲大社教団は1万人を超える署名を集め、社殿返還を求める請願書をホノルル市議会に提出。返還は満場一致で決議されたものの、公園局が返還を不服として以後も係争となる。 1961年 - 6次に亙る返還運動の末、最終的に教団側が勝訴。ホノルル市郡政府より社殿の返還が認められる。 1968年 - ククイ街の再開発計画に伴い、社殿は現在地に移転修復。遷座祭が執り行われる。翌年には千家達彦(せんげみちひこ)出雲大社教5代管長奉仕のもと「布哇出雲大社竣功祝祭並びに例大祭合併祭」が斎行される。 1976年 - アメリカ合衆国建国200年を記念してハワイ州巡業中の日本相撲協会の力士により横綱土俵入りが奉納される。 1990年 - 社殿正面の鳥居脇にホノルル・広島両市の姉妹都市(1960年締結)を記念した“広島平和の鐘”がホノルル市郡政府により設置される。 1993年 - 宮王重丸帰幽。現任者である天野大也氏が3代分院長に就任。 2006年 - 千家達彦・出雲大社教管長奉仕のもと「布哇出雲大社鎮座100周年記念大祭」が斎行される。
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由緒・歴史
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1946年(昭和21年):創建、愛宕神社と命名。主祭神火之迦具土神 1948年(昭和23年):島根県の出雲大社より分祀、祭神大國主大神を拝領合祀して、出雲大社に改名。 1958年(昭和33年):出雲大社大阪分祠に昇格。 1962年(昭和37年):本殿完成。
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由緒・歴史
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「杉山神社 (横浜市西区)」の記事における「由緒・歴史」の解説
白雉3年(652年)、当地を開拓した杉山の一族が出雲大社の大己貴命の分霊を「塩田の浜」に祀ったと伝えられる。さらに当社の創建後には、近隣に「杉山」の名が付く神社が多くなったとも伝わる。 江戸時代には「杉山明神社」と称していた。また願成寺を別当寺とし、幕府より朱印地を与えられていた。その後、1873年(明治6年)には村社に列している。なお、現在の本殿は1956年(昭和31年)に再建されたものである。
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由緒・歴史
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当社の創建時期は定かでないが、雄略天皇3年(皇紀1119年)に厳粛な祭祀が執り行われたという記録がある(『日本総国風土記』)。また、これまでに転社(移転)の記録はないが、同風土記では当社の鎮座地が「相模国鷹倉郡宇都母知郷」とある。なお、『延喜式神名帳』では「相模国十三座(式内社)の内 高座郡六座の内の一座 宇都母知神社」と記されている。 天慶2年(939年)、大和国泊瀬より若日下部命の尊霊を遷座、相殿に合祀した。正応3年(1290年)、鎌倉幕府八代将軍久明親王の執権である北条貞時が社殿を改築、さらに寛永4年(1627年)、当地の領主である高木主水源正次が社地900坪(約3000m2)を寄進して本殿の改築を行なっている。当社の呼称として、江戸時代には「大神宮」「神明宮」とも称されていた。 その後、明治6年(1873年)12月には郷社(近代社格制度)に列せられた。大正12年(1923年)の関東大震災により社殿(安政5年〈1858年〉造)を含み全壊したが、3年後の大正15年(1926年)9月には全復旧し現在に至っている。 境内を西側に出て道を挟んですぐのところにある鐘楼の釣鐘は、昭和20年(1945年)の春に太平洋戦争の物資回収により献納されたため暫く設置のされないままだったが、昭和50年(1975年)になって再建された。また、境内の全域が風致林の指定を受けており、昭和49年(1974年)には自然環境保全地域に指定されている。 拝殿 鐘楼
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由緒・歴史
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埼玉県人の英霊の祭祀は、昭和以前は県内各所に神籬を建てて鎮魂慰霊の祭祀を行っていたが、満州事変で県下の英霊が増えたのを機に、招魂社創設の機運が高まり、昭和9年(1934年)4月9日に朝香宮鳩彦王(当時近衛師団長)臨席の下、「埼玉県招魂社」として鎮座した。同14年3月に「埼玉県護國神社」と改称して4月に指定護国神社となる。 戦後の昭和21年(1946年)2月に宗教法人となり、同23年10月に崇敬者の総意により一時「埼霊神社」と改称したが、同27年に「埼玉県護國神社」に復した。昭和30年(1955年)、奉賛会が設立される。 また、平成25年10月には特攻勇士の像が建立された。
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由緒・歴史
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「天満宮 (横浜市港北区)」の記事における「由緒・歴史」の解説
鎌倉時代末期の1325年(正中2年)に創建したと伝えられ、2025年に創建700年を迎える。 社伝によれば、正中2年5月25日、当地の申酉(西北西)の方角から光物が現れてしきりに震動し、夜になっても周辺を昼のように明るく照らした。ようやく当地の山中に鎮まったが、昼夜電光が乱れ飛び、人々は近づくことができなかった。この時、小蛇が梅の木の下に現れて異香を放ち、正しく観世音菩薩が天神として垂迹したものと思われた。興禅寺(港北区高田町1799)の弁殊法印は「これこそ衆生済度の方便、大慈大悲の誓いなり」と感じ、先達となって榊の枝を小蛇の前に置くと、小蛇は榊の枝の上に留まった。領主の桃井播磨守直常は、これを近くで見聞きして信心止みがたく、社殿を建立して当地一帯の氏神としたという 。 江戸時代の文化・文政期(1804年〜1829年)に編纂された『新編武蔵風土記稿』には「除地三段。村内興禅寺のつづき南の方にあり。上屋は三間四方、内に小社を置く。拝殿三間に二間、南に向ふ。神体は新旧の二躯を安ず。共に長一尺許り。石の鳥居を立つ。村の惣鎮守にして例祭年々九月二十五日なり」とある。 現在の社殿は江戸時代の初期に領主の旗本・曾根氏が造営したもので、幾度かの大規模な改修を重ねている。元は茅葺きであったが、第二次大戦後に瓦に替え、現在のような姿となった。
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由緒・歴史
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明治9年(1876年)の火災により、社殿や古文書に至るまで全て焼失している。以下は当社に伝わる由緒であるが、『総国風土記』や『延喜式神名帳』などの歴史文献に記された内容を除き、正式な文書として今に残っているものではない。
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由緒・歴史
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「小野神社 (厚木市)」の記事における「由緒・歴史」の解説
当社の創建時期は不明であるが、『延喜式神名帳』において「相模国十三座(式内社)の内 愛甲郡一座小野神社」と記されているように、古くから小野の地に鎮座する神社である。当地域は古くより「小野の里」と呼ばれ、『和名類聚抄』にも記載されている愛甲郡「玉川郷」の中心地であった。霊亀2年(716年)、奈良時代の高僧である行基が薬師如来の像を刻んで当社に奉安したと社伝により今に伝えられている。 鎌倉時代には、源頼朝以来三代に渡り御家人として将軍に仕え弓の名手として名高い、愛甲村に館を置く愛甲三郎季隆が当社を篤く信仰していた(季隆を筆頭に愛甲家全体でも崇拝されていた)。古い納札には建久5年(1194年)に当社を再興した記録があり、その時の願主に愛甲三郎季隆の名があり、また鎌倉幕府政所長官の大江膳大夫廣元の名も残っている(以降、社殿は現在までに五回改められている)。なお、愛甲氏の本家である横山氏は小野妹子の子孫といわれている。 その後、江戸時代末期にはわずかに鎮座地の転社(移転)が行われ(転社の歴史については「#旧社地」を参照)、また明治6年(1873年)には郷社(近代社格制度)に列せられている。拝殿はそれまで藁葺屋根(嘉永元年(1848年)築)であったが、昭和43年(1968年)には鉄板葺に替えられている。 扁額に現在も残っている「閑香大明神」は江戸時代に称していた名で、小野の「閑香さま」と一般には呼ばれていた。江戸時代に編纂された『新編相模国風土記稿』からは、当時の社名が「閑香大明神」、祭神は「下春命」であったことが伺える。祭神が現在の日本武命となったのは明治時代に入ってからで、「日本武尊が東国に遠征する際に野火の焼きうちにあった」という『古事記』の記述の地が、小野と関係するとされたことによる。
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由緒・歴史
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「杉山神社 (横浜市港北区新吉田町)」の記事における「由緒・歴史」の解説
房総半島より移ってきた一族が祀ったとする説がある。創建時期は不明であるが、『武蔵式社記』では「都筑郡吉田と云うに杉山という小地名ありて其の処に座す社実蹟なり」、文化・文政期(1804年〜1829年)に編纂された『新編武蔵風土記稿』では「除地二段五畝、村の北方にあり、石階数級を登りて社前に鳥居を立つ、本社二間に二間半、拝殿三間に二間、南向、神体不動、村内正福寺の持」とそれぞれ記されている 。なお、当神社の神宝や由緒書等は別当寺であった正福寺により保管されていたが、同寺院の火災の際に尽く焼失したと伝えられている。 1873年(明治6年)には当時の都筑郡吉田村(1889年の合併により新田村となる)において郷社に列格している。
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由緒・歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/14 22:43 UTC 版)
創設時期については諸説がある。本牧神社由緒書によると、建久2年(1192年)、鎌倉幕府を開設した源頼朝が、鎌倉から鬼門の方角である北東にあたる本牧の地の鎮護のために朱塗厨子を奉納したことが始まりであるとしている。江戸時代に本牧神社の別当寺であった多聞院の由緒書によれば、弘長三年(1263年)元旦に本牧の海岸に漂着した大日霊女命の像を祭ったことが始まりであるとしている。『新編武蔵風土記稿』では、永禄2年(1559年)1月8日に、本牧村の漁師松本次郎左衛門が漁をしていた際、網にかかった十二天の像を本牧に隣接する北方の若宮八幡宮に奉納し、後に本牧の総鎮守にしたとされている。 鎌倉時代には将軍惟康親王、室町時代には関東管領から寄進を受ける。天正19年には、本牧十二天に12石の寄進を受ける朱印状を徳川家康から与えられた。江戸時代には神仏習合によって多聞院の別当に入ることになるが、明治元年の神仏分離令によって、多聞院から再び分かれて独立した。 本牧神社は、元々は東京湾につきだした高さ30メートルほどの本牧十二天の丘(現・本牧十二天緑地)の麓に所在していた。太平洋戦争の際、本牧十二天の丘も空襲に遭い、社殿、境内を消失する。氏子によって仮社殿が造営されるが、戦後アメリカ軍は横浜に進駐し、昭和21年から本牧十二天を含む本牧地区はアメリカ軍の住宅地区として接収された。昭和29年には、氏子が結成した本牧神社復興奉讃会による寄付が行われ、本牧町へと仮遷座した。昭和57年、アメリカ軍から本牧地区が返還され、横浜市による区画整理事業が始まる。平成5年、所在地を本牧和田へと移し、社殿が完成した。
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由緒・歴史
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創建時期は不詳だが、第29代欽明天皇の御代(539年?〜571年?)に創祀したと伝えられている。一方『正倉院文書』によると、天平年間(729年〜749年)には当地は鈴鹿王の所領で土甘(とき)郷と呼ばれていたことから、王の名前より「鈴鹿」という字名が付けられたとも考えられている。また、当社の縁起では「遠く伊勢の鈴鹿郷の祭礼において神輿が海上を渡御していた際、暴風によって漂流し相模国入海の東峯に漂着したといい、このことから里人が座間全郷の鎮守として社を創建し鈴鹿大明神を崇め祀った」という伝説も残されている。 当社蔵、最古の棟札は弘治2年(1556年)の再建時のもので、当地が小田原北条氏の領地であったことから北條藤菊丸(北条氏照)が大壇越(金子五千疋で「鈴鹿大明神再造成就処」)、および地域の領主若林大炊助であった旨が記されているが、これには近世初頭の改竄が見られる。またこの再建時には、京都祇園の八坂神社の祭神「素戔鳴尊」が合祀されている。造立修理を伝える棟札はこの他にも、元和6年(1620年)、寛文6年(1666年)、元禄16年(1703年)、享保3年(1718年)および18年(1733年)、宝暦8年(1758年)の記銘のあるものが伝えられている。 江戸時代には当社が鎮座する座間宿村と入谷村の総鎮守となっていた。その後、明治2年(1869年)12月には、座間宿村と入谷村を含む27村(現在の座間市・相模原市の全域および大和市・海老名市の一部に及ぶ広範囲の地域)の郷社に列格している。また、現代においても昭和43年(1968年)1月に神奈川県神社庁献幣使参向神社に指定され、県内の有力神社となっている。
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由緒・歴史
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「福聚寺 (北九州市)」の記事における「由緒・歴史」の解説
1665年(寛文5年)、小倉小笠原の初代藩主小笠原忠真が菩提寺として創建。開山は即非如一(隠元の高弟)。1679年(延宝7年)、2代藩主小笠原忠雄により現在地に改められた。1866年(慶応2年)、長州藩との戦いの時に多くが焼失したが、本堂や入り口の門、鐘つき堂等は当時のまま残されている。1969年(昭和44年)、県指定史跡。 境内の墓地には小倉藩の戦死者を祀る「慶応之役小倉藩戦死者墓」がある。また、小倉炭鉱出水事故の殉職者慰霊塔も建立されている。
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由緒・歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 00:28 UTC 版)
創建時期は不明であるが、一説には白鳳13年(684年)に発生した大地震に伴って海底が突然三百丈余も隆起して「琵琶島(びわじま)」と呼ばれる島が出現したため、同時期の地震で多くの土地が海没した土佐国から神が土地を引いてきたのだ、と考えた人々がここに引手力命を祀ったのが最初、とも言われる。「琵琶島」はやがて砂洲の形成により陸繋島となり大瀬崎となった。 平安時代末期に源為朝と源頼朝、および北条政子は源氏の再興を祈願して当社に弓矢、兜、鏡、太刀などを奉納し、源氏の再興が叶い鎌倉幕府が成立して以降は、多くの武将たちが弓矢や太刀を奉納するようになったとされる。 室町時代には熊野国の水軍の武将であった鈴木繁伴がこの地を支配し(館の跡とみられる遺構がある)祭祀に勤しんだとされるが、その後の度重なる地震や津波で館も奉納品も全て失われた。しかし砂の中からそれらの一部が見つかるに及んで地元の人々がこれらを奉り、何時とはなしに再興されて今日に至っている。 現在の社殿は1939年(昭和14年)に再建されたものである。伊豆七不思議のひとつである神池を境内地に持ち、禊の地として、また海上守護の神として多くの人々の崇敬を集めている。これと共に、駿河湾の対岸に富士山と愛鷹山を望む景勝地として、またダイビングのメッカとしても広く知られている。 海上安全を願う人々が赤い褌(写真右側の赤い布々)を奉納する風習があり、また漁船の進水式に関連してその漁船の縮尺模型を海上安全と豊漁を祈願して奉納する風習もあった。この関係で、漁の様子を描いた絵馬や漁船の木造模型などが多数奉納され、その一部が絵馬奉納殿に展示されている。ただ、1892年(明治25年)に発生した火災により、それ以前に奉納されていた模型は焼失してしまった。2008年現在は、それ以降に奉納された32隻のうち一部が展示されているが、模型の裏には墨書きで奉納者の氏名住所・奉納年が記録されており、明治・大正・昭和初期の駿河湾沿岸の漁船の様式も正確に再現され、また同神社の信仰圏が駿河湾の広い範囲に分布していたことが見出される。
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