人物と芸風
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祖母は御詠歌を唸らせる名人であった、そんな縁で幼少の頃から地元の河内音頭に親しみ、3歳で初めて櫓に立つ。関西大学法学部法律学科卒業後、八尾市役所に勤務の傍らアルバイトで音頭取りを続けていたが、人気が嵩じてプロに転向し市役所を退職。1955年に盆踊りの司会者であった光子と結婚。太鼓が得意であった為に伴奏でコンビを組む事になる。歴代の三味線奏者は、小野忠雄、暁照雄、富岡花子(浪曲師の藤川友春〈初代〉の姪)、津軽三味線佐々木流の佐々木壮明など。 1959年に新世界・新花月で寄席初舞台。1961年にレコード『鉄砲節河内音頭』がミリオンセラーになり、河内音頭ブームを再燃させた結果、テレビ、ラジオの演芸番組のみならず、歌謡曲、仁侠映画の世界、海外公演にも活躍の場を広げた。1968年12月、浅草国際劇場の舞台に立ち、関東において「河内音頭」を先駆的に伝えることとなる。 1981年、大阪府文化功労賞受賞。1995年、文化功労者受章。
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広島の工業高校から北海道に渡る。23歳で帰郷し京山呑風に入門し雲井如雲を名乗る。30歳の時、大阪に行き関西女流浪曲の大家、初代春野百合子の一座に入り天竜軒出雲を名乗る。1940年上京、翌年東三光と改名後、松平国十郎と名乗る。百合子との二枚看板で、両国国技館、有楽座に2代目広沢虎造、伊丹秀子(元2代目天中軒雲月)らが加わって出演。朗々たる妙節と、品格ある舞台で聴衆を熱狂させた。当時浪曲は流行歌を凌ぐ一大ジャンルを誇っていたが、木村若衛、天中軒雲月、東家浦太郎とともに四天王と呼ばれ人気浪曲師となった。1984年の舞台を最後に引退して後進の指導にあたり三笠優子らを門下から出した。 一時「京極佳津照」を名乗る(後に松平国十郎に戻る)。 常に正しい浪曲道を説き、軽薄な浪曲に警告を鳴らし浪曲の将来を憂いた。
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昭和の名人・浪曲師の初代京山幸枝若の妹。トリオのメンバーであった華ぼたんの門下。1966年に2、3ヶ月ほど『東文章・華悦子』のコンビで漫才をしていたが、ぼたんに誘われ、あやめと交替でフラワーショウに加入、後に脱退し歌手に転向を熱望したが復帰。1989年にフラワーショウのリーダー・華ぼたんが没後はフラワーショウ ゆり・ばらとして再出発したが、2006年のばらの死去に伴い消滅、ゆりがひとりで芸能活動したが現在は休業状態。しかし松竹芸能にはプロフィールがある。丸顔でボケ役。ばらとは対照的にスローテンポのしゃべくりが特徴。ゆり・ばら結成後は、突っ込み役となり、早口のしゃべりになった。現在は髪を金髪にしている。
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「中村翫雀 (3代目)」の記事における「人物と芸風」の解説
京都伏見の生まれ。父は淀藩与力・飯田直次郎。幼くして髪結床の養子となるも、嘉永4年(1851年)歌舞伎役者二代目嵐璃珏の門人となり、四代目嵐珏蔵を名乗って大坂の舞台に立つ。その活躍が四代目中村歌右衛門に認められ、翌年歌右衛門の養子となるが、間もなく歌右衛門は急死、後ろ盾を失った珏蔵は大坂で舞台活動に専念する。 文久元年(1861年)8月、大坂大西芝居の『敵討天下茶屋聚』の源次郎で三代目中村翫雀を襲名。以後は若手花形役者として活躍し、初代實川延若と一座を組む。その人気は、延若、中村宗十郎とともに「道頓堀の三大将」と謳われた。明治以降は東京の舞台にも立ち、四代目中村芝翫と兄弟の盃を交わして東西成駒屋の提携を結ぶなど当地での足場を着実に固めていき、五代目歌右衛門の有力候補と目されていたが、1881年(明治14年)2月神戸菊水館『大岡政談』の大岡越前守をつとめていたときに倒れ急死した。 温厚な性格で、古い役者の型に通じる博学さは東西の役者から尊敬を受け、九代目市川團十郎の信頼も厚かった。小柄だったが、溢れるばかりの色気に恵まれ、口跡容姿ともに良く、立役、女形ともに巧みだった。和事の本格的な芸風は実子の初代中村鴈治郎に継承された。
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中学生時代より在阪民放局の素人演芸番組で活躍。音楽ショウのあひる艦隊(山名派)のボーヤを経て、1960年に千土地興行の川上のぼる門下に移籍。19歳で新世界新花月にて『おしゃべりギター』と題打った、物真似ギター漫談でピン初舞台。1963年に師匠が『川上のぼると大阪ヤローズ』を結成すると、パーカッション・ドラム担当で直ちに参加した。 1967年に独立し上京、持ち前の客いじりにも磨きを掛け、以降40数年間に亙り活躍中。NHKラジオ第1放送の『サンデージョッキー』や『真打ち競演』に数多く出演するのみならず、構成・演出から芸人のブッキングまで幅広く手掛けている。 1980年代後半以降は、物真似から『なんでか?フラメンコ』に比重を移し、新境地を開拓。20回以上出演している日本テレビの『笑点』では、五代目三遊亭圓楽から「この人は、大金脈を掘り当てました」と讃えられた。 1990年代後半には西川貴教(T.M.Revolution)に顔が似ていると話題になり、TBSの『うたばん』に西川が出演した際に「堺すすむに似ている」とネタにされたほか、『東京スポーツ』1998年1月25日号では「TMレボリューション西川貴教・堺すすむ 親子だった!?」の衝撃的な見出しが一面を飾った。また堺自身も『うたばん』(1998年1月20日放送)など若者向け歌番組にも出演し、西川と同じ様な半裸の衣装で大型扇風機の前に立ち「WHITE BREATH」を熱唱したのみならず、寄席の出囃子にも「WHITE BREATH」を用いた。西川も答礼として「♪な〜んでか?」を披露している。 現在は寄席に出ることは通常なく、テレビ・ラジオの演芸番組や地方公演が活動の主体となっている。 プロモーション・ススムの代表を務め、若手育成にも力を入れている。弟子にキングジョーの堺たいようがいる。
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師匠は仁輪加師の大和家小宝楽(落語家の初代桂南天の父親)で大和家楽三郎と名乗り大阪の弥生座で初舞台を踏む(一説には市川多三郎門下で4歳で初舞台)。その後父の死で旅回りの役者林田多平に林田五郎ともに養子になる。6歳で嵐三五郎(代数不明)の一座で子役、1918年に小宝楽の師匠大和家宝楽の一座ですらっとした細身の体を生かして女形のモダンガールをしていた。1926年に白粉がもとで鉛毒に侵され漫才に転向し吉本興業の専属となる。いろいろコンビを変えたが、1928年に元落語家の芦乃家雁玉と漫才コンビ結成。雁玉ともに戦時中は一座「コロッケ劇団」を結成しドサ周りや京都の富貴に出る。なお雁玉とコンビを組んでいたときの出囃子は「大拍子」。 『上方演芸会』(NHK大阪放送局制作)の司会を永く務め、独特の調子の「こんばんわ」で全国的な知名度を得る。当番組は上方漫才ブームを引き起こし、戦後の漫才復興に大きな役割を果たした。 雁玉が「タコ壺」とあだ名されたのに対して十郎はサイラ(サンマの事)と呼ばれた。 1950年より関西演芸協会副会長も務めた。 映画にも十郎とのコンビで出演し人気を博す。1958年に角座のこけら落としで大トリを務めるなど上方漫才の大御所となったが、1958年に仕事先の南紀白浜で脳出血で倒れ、雁玉とのコンビ解消。1959年11月に角座で引退興行。以後は闘病しながら静かに暮らし、孫にも恵まれた。1967年に大阪府松原市の自宅で死去。享年68。 戒名は釋良信。墓所は一心寺。
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唯一の、津軽三味線主体の寄席芸人。津軽弁の漫談(代表的なネタとして、津軽三味線の奏者として海外の放送局などに招かれた際に居合わせた外国人から自国の音楽を三味線で演奏してくれ、と頼まれた話を回想する設定で様々な音楽を三味線で演奏するものがある。前フリとして「断ることができねぇんだ。何ったって日本、代表だかんな」と強調して演奏に入る。)に、曲弾きを織り交ぜ、「じょんから節」をキッチリ聴かせて締める。
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陸上競技選手として活躍した実兄に倣って、自らも陸上競技に打ち込み、1965年に県立広島工業高校に推薦入学したが、練習中に肩を脱臼し選手生命を断たれたため、絶望の余り3ヶ月で中退。 程なく、浪曲コメディアンとして人気絶頂の玉川良一を頼って徒手上京。礼儀正しさを買われて入門を許されたものの、正式な浪曲修行のために、良一の弟弟子の三代目玉川勝太郎に預けられ、玉川勝美を名乗る。4年後に年季明け独立。 二代目玉川福太郎は年長の弟弟子に当り、『NHK浪曲新人コンクール』では優勝を争った。 高座をミサと呼び、神父姿で漫談を交えながら浪曲を唸る独特のスタイルで人気となり、『爆笑ゴールデンショー』(1975年、フジテレビ)でテレビ初レギュラー。 1980年、歌舞伎座にて真打披露、カタカナ名の芸人として初めて歌舞伎座の桧舞台を踏む。1980年代前半には『江川代参』『ひょうきん朝潮太郎』等、自作のケレン読みと客いじりで若手演芸ファンにも浸透を図った。 1996年には、国立演芸場で芸能生活25周年記念独演会を開催。 2001年、デビュー30周年記念カセットテープ『たぬきと和尚さん』を発売。 2007年8月5日と11月25日放送の『笑点』(NTV)に久々に出演し、ブラックジョークの青森ネタが話題を呼ぶ。 2011年、突如玉川カルテットの新リーダー・玉川玉太郎として玉川カルテットに加入。 2013年、玉川カルテットを脱退。 現在は再びピンで神父姿の漫談と浪曲を口演している。 2018年1月現在、木馬亭定席公演に復帰している。
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幼少から芸事が好きであった。俄役者の東明幸三郎を兄に持つ。袋物商に奉公しながら、勝手に春の家雁玉を名乗り天狗連で活躍する。1916年頃に晩年の笑福亭吉右衛門(当時は5代目笑福亭吾竹)に見出され弟子に迎え入れられ落語や音曲の修業を積む。1917年頃に雁玉と名乗り独立。 その後、玉子家春夫と名乗り軽口に転向、安来節、万歳の一座に入る。1922年に吉本に買われて寄席に出るようになった。低調だった漫才に落語ネタを持ち込み、新風を起こそうと、漫才師に転向する。相方を変えながら続けていたが、1928年、俄の女形出身の林田十郎とコンビを組む。出囃子は「大拍子」を使う。「雁玉・十郎」コンビの洒落た軽口や独特な味のある掛け合いは人気を呼び、「エンタツ・アチャコ」に次ぐ人気を持ち、活躍した。相方の十郎が漫才のネタに、雁玉の風貌を「タコ壺」と言って観客を爆笑させていた。戦時中は一座「コロッケ劇団」を結成しドサ周りや京都の富貴に出る。一時、コンビを解消したこともあるが、戦後、復活し、1947年から始まったNHK大阪(=コールサインからJOBK、または略してBKと呼ばれた)製作の公開演芸番組、『上方演芸会』の司会を務め、オープニングの「いらっしゃいませ」「こんばんは」で全国的な人気を得る。また、この番組は上方漫才のブームを引き起こし、戦後の漫才復興に大きな役割を果たした。新花月、千日劇場、角座などで活躍。十八番ネタは「元は役者」「笑売往来」「スキ問答(秋田實:作)」 また吉本の広報誌の「笑売往来」(1926年から1933年まで発行)は雁玉・十郎のネタに由来。 映画にも十郎とのコンビで出演し、一時妻を喪った「ぼやき漫才」の都家文雄と組む、後に十郎とのコンビを復活も1957年に十郎とのコンビ解消、1958年、十郎が脳出血で倒れた後も、単独でラジオ、テレビ出演するなど活躍した。1960年脳溢血で引退し同年死去。 また、野球ファンとして知られ、戦前は藤沢桓夫等と野球チーム作って芸人仲間と試合をよくしていた。南海ホークスの私設応援団長を務めたこともある。
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人物と芸風
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三田マサル門下の三田みつおが、2歳下の弟まさおと結成。少年時代からの芸歴がある。 脱力系のインチキ手品と、とぼけて明るく、シュールながら愛敬のある芸風が人気を呼び、4週勝ち抜いた『ザ・テレビ演芸』では、漫才芸には人一倍厳しい司会者の横山やすしからも賞賛され、弟分として可愛がられた。1980~81年の『お笑いスター誕生!!』グランプリシリーズでも4週勝ち抜き、銅賞受賞。
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人物と芸風
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中学時代に見た、ジャン=ルイ・バローの「天井桟敷の人々」を見てパントマイムにあこがれ、学園祭などで披露していた。第一経済大学在学中は、宮﨑重明(飛鳥涼)、柴田秀之(Chage)らと同窓。チャゲ&飛鳥は7名を加えたバンドで、そのメンバーらと共に活動していた。メジャーデビューにあたり2人だけが売り出される事になり、他の創立メンバーはチャゲ&飛鳥から放逐された(西田はバンドメンバーではないので直接の関係はない)。 その後、欧州放浪の旅へ。ドイツのケルンで発話障がいの人が演じるパントマイムを見て衝撃を受ける。 帰国後、お笑いに目覚め、コメディアンを志して上京、ポール牧主宰の『田端グループ』入り。ゆーとぴあ・ホープの一番弟子。『ホープ軍団』(チャンプ企画)に籍を置く。ポール牧の孫弟子にあたる。 『コント・ぼん&正月』(愛称「ぼんちゃん」の由来)を結成、坊主コントを売りにした。初代正月は美和けんじ、二代目正月はレオナルド熊門下で、コント山口君と竹田君の山口君の元相方田口(元チャゲ&飛鳥バンドのベース担当)、三代目正月は、元ミスターポテトの伊藤忠。 『お笑いスター誕生』(日本テレビ)のオープントーナメント・サバイバルシリーズ出場時、審査員に水野晴郎がいた。映画が好きなことを水野が知り、アルバイトで事務所に誘われる。西田曰く「これが愛の始まり」。 以降、水野の片腕として重用され、映画情報番組『映画百科』などに出演。水野が行くことができなかった、ハリウッド、メキシコ、香港九龍などのロケ地を精力的に訪問、映画の知識を深める。並行してタレント活動も継続。 その後、水野が『金曜ロードショー』の解説を降板。『シベリア超特急』を監督するにあたり、サポートとして参加。『シベリア超特急シリーズ』では準主役級の扱いでレギュラー出演した(役名は出身地の佐伯に因み「佐伯大尉」、読みは「さえき」)。 また水野が助教授を務めていた倉敷芸術科学大学に招聘され、同学の臨時講師にもなった。この当時テレビなどでも水野との共演が多かったことから、水野とのホモセクシャル疑惑を持たれ、爆笑問題などにお笑いのネタにされた(先述のように、自身もおもしろおかしく話している)。 2005年2月『シベリア超特急5』封切りイベントにて『コント・ぼん&正月』を一夜限りで復活させた。水野の没後も、著述業の他、タレントや喜劇役者としても活動。 2010年7月18日阿佐谷ロフトAにて、フォークシンガーなぎら健壱が扮するイタコによって口寄せされた水野の霊により『異母栗ぼん』と命名され、即時に襲名披露(トークイベントなどでは異母栗名を使っている)。 2013年、芸能養成所「アクターズステーション」を開設。代表に就任。2014年、水野が立ち上げた日本映画批評家大賞を運営する新組織「日本映画批評家大賞機構」を設立、代表理事に就任。2015年には『シベリア超特急 EPISODE1』に製作着手する。 2018年に詐欺疑惑を報じられ、2017年をもって日本映画批評家大賞機構から退いていたことも明らかになるが、記者の直撃取材に対し疑惑を否定している。これ以降、公の場に姿を見せなくなり、『シベ超』など、予定していた映画制作は事実上頓挫。 2020年に復帰。「ぼんちゃんの映画百科」を立ち上げYouTuber活動を始めたり、ゆーとぴあ・ホープや中村有志といったかつての芸人仲間とオンライントークショーに出演するなどしている。 女性との婚姻歴があり、元妻は元宝塚歌劇団星組の匠鴻(たくみ こう)で、間に2子、他に1子がある。
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「すぐ終わりますから」「終わったら、お知らせしますから」「はい、終わりました」のボヤキを交えて、全国各地の民謡を弾き語りつつ、気付かれないように自作のニセ民謡やムード歌謡などを混ぜ込み、客を煙に巻く芸達者。
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明治大学卒業後、上宮高校教諭の傍ら、アルバイトで歌謡ショウの司会などしていた。 うめだ花月が開場した1959年、吉本興業に入社し吉本新喜劇の旗揚げに参加、一時は座長も務めた。 1965年、吉本首脳陣との対立から千土地興行に集団移籍。ルーキー新一、森信とのトリオを中心にルーキー爆笑劇団を結成しルーキーと漫才を組んだこともある、その後、マスコミを賑わせるような事件を起こし、人気低迷、千日劇場閉鎖などが重なり、劇団活動は頓挫、解散。 映画の端役、脇役を経て、1974年以降は松竹新喜劇に移り、主に脇役として活躍。一時松竹喜楽座に移って2代目博多淡海のパートナーとして活躍、1980年に松竹新喜劇に復帰。2003年まで舞台で活躍していた。2005年12月26日、肺炎のため大阪府守口市の病院で死去。82歳。 自家用操縦士免許を持っていた。
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日本大学在学中にロックバンド活動に熱中し、1年で中退。『ナッツダンディーズ』を経て、コミックバンド『那須三郎とダスターポット』→『岡本八とダスターポット』ではリードギターを担当。 1972年の『ダスターポット』解散後はナイトクラブで弾き語りをしていたが、1974年に元同僚の岡本とのコンビで『(中小企業楽団)バラクーダー』を結成。作曲を手掛けた「日本全国酒飲み音頭」(72万枚)、「チャカ・ポコ・チャ」(40万枚)、「演歌・血液ガッタガタ」(50万枚)の連続ヒットで、人気者となる。 1986年に『バラクーダー』を円満解散。以降、シンガーソングライター兼ギター漫談家として活動中。
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人物と芸風
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/15 03:28 UTC 版)
都々逸などする俗曲師の中でも、独特の弛い雰囲気と、美声でコアなファンを持つ。テレビ・ラジオの演芸番組には滅多に出演しない。
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北海道樺戸郡新十津川町の出身。地元高校を中退し、役者を志すため単身で上京する。しかし実際のところ中々芽が出ることが無く苦労し、十余年地方巡業をして活動していた。その後浅草に定着してストリップ劇場で幕間コントをこなしつつ、副業として小料理店を経営し生計を立てていた。しかし1973年に持病の結核が悪化してしまい、治療に専念するためにおよそ5年間にわたる長期入院をすることになった。当時の芸名は 北海の熊 → 熊田にげろうである。 熊のことを『師匠』と仰ぐ弟子も少なくなかったが、本人の性格や金銭・健康面など諸問題もあってのコンビ解消と再結成をこれまでに数多く繰り返して来ており、相方は25人ほど交代するに至っている。 病気療養中の1979年にホープの紹介で、俳優出身でどつき漫才を売りに活動していた「チャップリンズ」を解散したばかりの石倉三郎と「ラッキーパンチ」を結成し初デビューを果たした。しかし売れて来たにもかかわらず、病み上りで更に体調不良気味である熊が舞台を続けて休む事態となった。それが要因で仕事が無くなりコンビ仲も悪化する。その結果、1年弱で解散する形になった。この熊とのコンビ解消を機に石倉は一旦、芸能界から引退した。 石倉との「ラッキーパンチ」を解散した直後から、弟子であるブッチー武者と2人で「熊田うつぞう・にげろう」を組み、間もなく「コント・レオナルド」(初代)に改称すると同時に、自身の芸名を「レオナルド熊」に改名した。しかし、命名者であるポール牧に事前許可もなく無断で改名した為に、破門されることになってしまう。 コンビ名と自身の芸名を改称し、相方を変えた上で新たに芸能活動を始めたが、弟子である武者とのコンビ仲は良好とはいえなかった。武者が熊の執拗ないじめが原因だと思われるノイローゼ(神経症)になる深刻な状況となり、更にその後『花王名人劇場』へ出演直前に、コント中の舞台で転倒してしまう不運も重なった。武者はその転倒で骨折する負傷で休演せざるを得なくなったために、ホープと澤田隆治の仲裁で武者とのコンビを解消させた後に、芸能界を引退して千葉県富津市にあるマザー牧場で勤務していた石倉を呼び戻し、1981年に「コント・レオナルド」(二代目)を再結成させる形となった。 若手が中心の漫才ブームの中で、比較的年輩の熊が政治・経済・時事問題を不条理コントで茶化すスタイルは当時異色の存在となり、これが受けて人気を不動のものにする。 1983年に出演したサントリービール「生樽」のテレビコマーシャルで、熊が発した『いかにも一般大衆が喜びそうな』は、この年の流行語にもなり広く知られた顔にもなった。 コメディアンとして人気を得たのと共に俳優としても活躍し、テレビドラマ『江戸川乱歩の美女シリーズ・人間椅子』(1984年、テレビ朝日)では、美女が座る椅子を愛する職人・黒川純一役を演じ、怪優としての側面も見せていた。 しかし、石倉とのコンビ仲は「ラッキーパンチ」の頃と同様に良好ではなかった。自ら作・演出を手掛ける熊にとって『コント・レオナルド』は、最初から「自分の名を冠した自身の持ち物」という意識を常に持ち続けており、強いこだわりとプライドがあった。石倉はその熊に対して我慢が出来ずに愛想を尽かし、熊も石倉の酒癖の悪さを批判した。人気が安定していたのにもかかわらず、喧嘩別れをする形で1985年10月に再びコンビを解消し、絶縁する形となる。ちなみに二代目「コント・レオナルド」としての活動期間は4年間であった。 絶縁後の熊と石倉はその後一切顔を合わせることはなかったが、2人が再会したのはコンビ解消からおよそ9年後となる1994年12月11日に、熊が死去した葬式に石倉が参列した日となった。 その後は石井光三と「劇団七曜日」を立ち上げ、若手お笑い系役者の登竜門となる。またピン活動の傍ら、その場で若手を相方にコンビを組み地道に活動を続けていたが、肝心である芸の切れ味が鈍ってしまったこともあり、次第に芸能界から距離を置く様になる。 1994年の10月に、末期の膀胱癌と診断される。後にホープ・マギー司郎など「田端グループ」の仲間達による「癌祝いの会」が開かれた。その約2か月後の12月11日、家族と共に焼肉を外食し終えた直後に容体が急変し、搬送先の国立第二病院で死去した。59歳没。
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人物と芸風
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7人兄弟の末っ子。幼少時に他家へ養子に出され、栃木県宇都宮市で育つ。1940年に17歳で単身上京し、関東節の任侠物で人気絶頂の二代目玉川勝太郎に入門、玉川良太郎の名で住み込み弟子になったが、便所で師匠の十八番『天保水滸伝』(正岡容作)の稽古をしたことを内儀にとがめられ、破門される。 1944年、20歳で応召。北支戦線を転戦中、余興で披露した浪曲を絶賛され、上官の計らいで演芸慰問部隊に転属される。同僚には山本薩夫(映画監督)らが居た。1946年に復員し帰国、1951年から一座を率いてドサ回りの旅を東北地方などで10年続ける。 1955年に再上京。泉和助の世話で浅草に落ち着き、玉川良一に改名。浪曲声帯模写で浅草松竹演芸場や日本劇場、国際劇場で人気を博す一方、東けんじと漫才コンビ「Wコント」を結成し、千日前大阪劇場やなんば花月等に出演。翌年には新宿フランス座で活躍していた三波伸介を大阪に呼び、コント「おとぼけガイズ」を旗揚げ。これが当って関西ローカルのテレビにも進出したが活動期間は1年弱ほどで、自然消滅に近い状態で1957年頃解散した。これは活動展開で意見が分かれ玉川のピン芸人としての仕事が増えたこと、東の酒癖の悪さと仕事上の怠慢から活動が不安定になったことへ三波が見切りをつけ東京の活動復帰で終結した。 その後は俳優の杉山俊夫と組んで、『キイハンター』のコメディ系のストーリーでは、セミレギュラーとして数多くのゲスト出演する一方、ピンのコメディーリリーフとして、演芸番組、バラエティ番組でも活躍。1974年放送の『元祖どっきりカメラ』(日本テレビ)では、玉川が熊のぬいぐるみを着てターゲットを脅かすつもりが、猟師(実はこちらが仕掛け人)に銃口を向けられる逆どっきりに遭い、「俺だよ俺だよ、玉川だよ!」と叫んで命乞いをする光景が、番組を語る上で欠かせないものとなっている。他にも、同番組では幾度となくだまされており、故郷に玉川の銅像を建てたので除幕式に来て欲しいとのニセ依頼を真に受け、恭しく銅像の幕を引き下ろしたところ、そこには銅像はなく子門真人が土台から顔を出してきたため、あぜんとして数秒間動きが止まったこともあった。 作詞家、台本作家としても活動し、ピンク映画出演歴もある。誕生日前日の1992年10月14日、急性心不全のため死去。67歳没。
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人物と芸風
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父は根付作家、母は声楽家。小学生の頃から落語と俳句に熱中して東京まで寄席通いを続け、群馬県立渋川青翠高等学校2年生の時に桂幸丸に弟子入りを許され、自宅で稽古を付けて貰うようになる。 2003年(平成15年)3月、卒業と同時に正式入門、桂夏丸の名で前座。2007年(平成19年)9月1日二ツ目昇進。四代目桂米丸一門伝統の新作落語で研鑚中。 実力派の若手俳人としても評価が高く、高校在学中の2002年度上毛新聞社主催『上毛ジュニア俳壇』にて最優秀賞。翌2003年には『上毛ジュニア文学賞特別賞』受賞。 2018年(平成30年)5月新宿末廣亭上席より、真打に昇進した。 桂小すみとともにユニット「サマスモ」を結成している。
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人物と芸風
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「まじかる落語」は、落語のマクラや、『子ほめ』『道具屋』などのネタの合間に奇術をはさむ、独自の改変をおこなったものであった。 『道具屋』では、多くの演じ方のサゲに登場する笛を実際に持ち出し、瞬時に僧侶の絵が入れられた額縁に変えてみせ、「僧が描かれているので高いのか?」「ハイ坊主丸儲けです」とサゲた。 たばこを消すように見せるシガレットマジックのタネは、たばこを単純に飲み込むというものであり、身体への負担が大きかったらしく、ダウンタウンの松本人志はデビュー直後、京都花月の楽屋で何度も嘔吐しているたけしを目撃したという。 酒好きで知られ、旧なんば花月近くの居酒屋「赤垣屋」によく出入りしていた(西川のりお談[要出典])。また、酒癖が悪く、出演前夜に千鳥足で転倒して利き手の右腕を怪我し、左手一本で高座をつとめたり、酔ったまま舞台に上がりマジックを失敗したりしたこと[要出典]もあった。
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人物と芸風
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東京都世田谷区に生まれ、演芸好きの父に連れられ寄席にかよった。従軍中には余興で様々な芸を披露した。 復員後の1945年、人見明率いるボーイズ「人見明とスイングボーイズ」に加わり、浅草花月劇場にて正式初高座。 その後も歌謡ショーの専属司会者を経て、相方を替えながら、歌謡漫才(流行歌の替え歌を織り混ぜた漫才)を続けたが大成せず、1974年よりピンの漫談家に転向した。 1991年に大腸癌を発病、入退院を繰り返しながら高座を勤めた。晩年は肺にも転移するなど、悲惨な状況でも浅草や名古屋の大須演芸場などの高座に上がり、かつての司会者時代の思い出話を織り混ぜたネタや、病気をテーマにした自虐ネタを口演していた。 ビートたけしの無名時代に面倒を見ていたことでも知られ、度々『ビートたけしのオールナイトニッポン』でエピソードのネタにされたり、たけしの小説『漫才病棟』にも登場した。 その面倒見の良さから、若手芸人たちに、頭が大きなことから『頭(あたま)ケンの師匠』と呼ばれて慕われた。 著書に『ビートたけしのへその緒』(潮出版社、1994年 光森忠勝 聞き書き。帯の推薦文はビートたけし)がある。
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人物と芸風
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1968年、3代目玉川勝太郎に入門。イエス玉川は年若の兄弟子、妻は曲師の玉川みね子。 1974年、NHK浪曲新人コンクールで優勝し、同年2代目玉川福太郎を襲名。読み物は読み物は玉川一門のお家芸とも言える「天保水滸伝」の他「清水の次郎長」「忠治山形屋」など多数。任侠物を得意にし、豪快かつ色気のある芸風で人気を博す。1990年には文化庁芸術祭賞を受賞し、現役浪曲師として頂点の評価を得た。 玉川のお家芸、「天保水滸伝」を連続読みする企画、「玉川福太郎の徹底天保水滸伝!」を2004年に5ヶ月連続開催、成功させ、四代目勝太郎を継ぐと誰からも目される存在になったが、2007年5月23日事故の為、急逝。61歳没。 ウィキニュースに関連記事があります。浪曲師・玉川福太郎氏が事故死 (2007年5月24日)
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人物と芸風
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/23 06:08 UTC 版)
京都生まれの神戸育ち。生家は理髪店[要出典]。師匠を持たず独立独歩で歩み、数え10歳の1911年に梅中軒鶯童を名乗り、神戸の相生座で初舞台。 名人・古老と言われた多くの浪曲師からネタを譲り受け、自家薬篭中の物にする。1934年8月発売の「紀伊國屋文左衛門」(SP盤)が大ヒット、その他の演題でもレコード吹き込み多数。 舞台・座敷に加え、戦後はラジオ・テレビにも活躍の場を広げ、多くの録音を残した。1947年に浪曲親友協会会長、1973年には同協会の名誉会長に就任。 喉が大変に弱く、ちょっと酷使をすると喉が腫れて寄席を休まざるを得ないことが度々あった。がそれが逆に「鴬童節」と呼ばれる胴声ではない、上声の独特の軽味のある節調につながり、マイクの発達に合わせて時代の主流を張るようになる。 得意ネタは「みかん大尽(紀伊國屋文左衛門)」「吃又」など。落語家や落語関係者とも親交があったため、落語の大ネタ「高津の富」「らくだ」を浪曲化している。膨大なネタ、資料、台本(ネタ帳)は、直弟子の天龍三郎に受け継がれた。 1965年に出版した自伝『浪曲旅芸人』は、明治末期から昭和の浪曲世界を書き記した貴重な随筆集で、1968年にNHKで「流れ雲」の題でドラマ化、金田龍之介が鶯童を演じた
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人物と芸風
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/23 14:53 UTC 版)
公称体重115kgの巨体を売りにしたキャラクターであり、いわゆるデブタレントの先駆けとも言われている。 太り始める前は中学高校を通してバスケ部員で、芸能人水泳大会の競泳でも当時人気絶頂の西城秀樹、田原俊彦を抑えて連覇するなどスポーツ万能ぶりを発揮した。しかしあまりのスポーツ万能ぶりにテレビ関係者には煙たがられていた。 特技の早食いに関しては「カレーライスは飲み物である。」と自ら公言していた。しかし、この暴飲暴食が皮肉にも死を早めてしまう結果になってしまった。なお、この言葉が元となり、命日は芸能人仲間の間で「カレー忌」と名づけられ、ケイ・グラントを発起人として、同様にウガンダ本人と親交のあった芸能人がこの命日に毎年集まり、カレーやコーラを飲食しながら故人を偲ぶことが恒例となっている。 石塚はパパイヤ鈴木と『元祖でぶや』(テレビ東京系)の収録で『うがちゃん』を訪れ、メニューも何品か賞味している。 実父はジャズドラマーの佐藤イサオ。ウガンダも本職のドラミングでは、東京音楽祭でザ・クルセイダーズの前座を務めた際に、ジョー・サンプルから「お前のビートは良い」と一門入りを口説かれた程のテクニックを誇った。 本名の信一郎の名付け親は、父の音楽仲間であった小野満である。
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人物と芸風
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俳優としても活躍した夫婦漫才コンビ、桂竜夫・竜子の長男と次男。正統派のしゃべくり漫才で、東京の寄席を中心に出演。 2004年頃、凸凹一番・二番に改名した後、現在は活動休止中の模様。
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人物と芸風
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兄弟の漫才コンビで高丸は二所ノ関部屋の流れをくむ花籠部屋の力士で国碇という四股名であった。 1964年に弟とコンビを結成。主に漫才であった、コントやったり楽器もってボーイズやっていたこともある。桂高丸は「桂高丸とカントリー・ボーイズ」を組んでいたこともある。 1973年コンビ解消。解消後、高丸は「日高はじめ」の名で放送作家・演芸作家となり菊丸はタレントをしている。
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人物と芸風
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/01 10:15 UTC 版)
軍隊一家で、父は中将、兄は少将だという(=自称)。1933年に、エノケン一座に入り「ピエル・ブリヤント」で初舞台、芝居、タップ、歌などの修行を積む。その後、藤山一郎に師事して歌を習ったのち、吉本興業(東京吉本)に入り、レビューの「吉本ショウ」に加入。1940年に召集されたが、1945年の終戦までずっと二等兵のままだった。 帰国後、関西で藤原釜足の一座に3ヶ月加わったのち、自らの一座を旗揚げ。最盛期は100人近くの座員がいたという。一方、京都の撮影所で殺陣師もし、阪東妻三郎の斬られ役に憧れていた。 名古屋で進駐軍の慰問をした後に、日劇ミュージックホールの開演時に迎えいれられ、全盛期のトニー谷と共演する。また玉川良一、関敬六、ミッキー安川、E・H・エリック/岡田眞澄兄弟、トリオ・ザ・パンチらに芸を仕込んだ。一座では、後の作家深沢七郎が、桃原青二の名でギター伴奏していた。 1958年には、1年間ミュージックホールを休演し、本場のパリでボードビルの勉強をして来る程の、ギャグの鬼であった。テレビの「お笑い娯楽館」で「ギャグ教室」を担当。また、フランキー堺のテレビ・コメディ「コメディ・フランキーズ」でもギャグマンをつとめた。 多くの後輩芸人にギャグを教え、台本も能くし「和っちゃん先生」と後輩たちから慕われたものの、自身が演じると受けず、持病の喘息もあり、芸人としてはあまり芽が出ずに終わった。 1969年1月から、心臓病、喘息、糖尿病で入退院を繰り返す。同年9月には離婚。翌1970年2月1日、アパートで死去しているのを発見され、1月28日に死亡していたと推定された。解剖の結果、死因は持病の喘息による嘔吐物が、喉に詰まったことによる窒息死であった。享年50。 通夜の席上で泉のネタ帳が奪い合いになったが、中身は妙な記号が羅列してあるだけで誰にも判読できなかった。 その「玄人好み」の芸が、ミュージック・ホールで共演したこともある立川談志や、マイナーな芸人を好む色川武大らに愛され、泉の死後に、彼らの著書の中で大きく取り上げられた。 小林信彦は著書『日本の喜劇人』において、「彼は明るさがないため、受けなかった。彼のギャグを若手の左とん平がやると俄然光るが、自分がやると受けないという、悲劇的な芸人であった」と述懐している。 弟子に紙切りの泉たけし、泉ワ輔(一時期ナンセンストリオに在籍)等がいる。
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