相撲
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歴史
古代


日本における相撲の記録の最古は、『古事記』の葦原中国平定の件で、建御雷神(タケミカヅチ)の派遣に対して、出雲の建御名方神(タケミナカタ)が、「然欲爲力競」と言った後タケミカヅチの腕を掴んで投げようとした描写がある。その際タケミカヅチが手を氷柱へ、また氷柱から剣(つるぎ)に変えたため掴めなかった。逆にタケミカヅチはタケミナカタの手を葦のように握り潰してしまい、勝負にならなかったとあり、これが相撲の起源とされている。
人間同士の相撲で最古のものとして、垂仁天皇7年(紀元前23年)7月7日 (旧暦)にある野見宿禰と「當麻蹶速」(当麻蹴速)の「捔力」(「すまいとらしむ・スマヰ」または「すまい・スマヰ」と訓す)での戦いがある(これは柔道の起源ともされている)。この中で「朕聞 當麻蹶速者天下之力士也」「各擧足相蹶則蹶折當麻蹶速之脇骨亦蹈折其腰而殺之」とあり、試合展開は主に蹴り技の応酬であり、最後は宿禰が蹴速の脇骨を蹴り折り、更に倒れた蹴速に踏み付けで加撃して腰骨を踏み折り、絶命させたとされる。これらの記述から、当時の相撲は打撃を主とする格闘技であり、既に勝敗が決した相手にトドメの一撃を加えて命までをも奪った上、しかもそれが賞賛される出来事であった事から見ても、少なくとも現代の相撲とはルールも意識も異なるもので、武芸・武術であったことは明確である[4]。宿禰・蹴速は相撲の始祖として祭られている[5]。
さらに『古事記』の垂仁記には、
ここをもちて軍士の中の力士の軽く捷きを選り聚めて、宣りたまひしく、その御子を取らむ時、すなわちその母王をも掠取れ。髪にもあれ手にもあれ、取り穫む隨に、掬みて控き出すべし。とのりたまひき。ここにその后、かねてかその情を知らしめして、悉にその髪を剃り、髪もちてその頭を覆ひ、また玉の緒を腐して、三重に手に纏かし、また酒もちてその御衣を腐し、全き衣の如服しき。かく設け備へて、その御子を抱きて、城の外にさし出したまひき。ここにもの力士等、その御子を取りて、すなはちその御祖を握りき。ここにその御髪を握れば、御髪自ら落ち、その御手を握れば、玉の緒また絶え、その御衣を握れば、御衣すなはち破れつ。
とあり、初めて「力士」(ちからひと・すまひひと と訓す)の文字が現れる。以降の記紀や六国史においても、相撲に関する記述が散見される。なお「相撲」という言葉そのものが初めて用いられたのは日本書紀の雄略天皇13年の記述で、当時の木工にして黒縄職人であった猪名部真根が「決して(刃先を)誤らない」と天皇に答えたため、雄略天皇が采女を呼び集めて服を脱いで褌にして相撲を取らせた記述が初見になる[6]。
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力士・行司表現のある須恵器
岡山県瀬戸内市出土。
皇極天皇元年(642年)7月22日には、百済の使節、大佐(だいさ)の平智積(へいちしゃく)らを饗応し、宴会の余興として、健児(ちからひと)に命じて、同年4月8日に亡命していた百済王族 翹岐(ぎょうき)の前で相撲をとらせた、とある[7]。
天武天皇十一年(682年)7月、九州の隼人が大勢きて国の特産品を献上し、朝庭で大隅の隼人と阿多の隼人が相撲をとり、大隅の隼人が勝った、とある[8]。
持統天皇九年(695年)5月13日、大隅隼人を宴会をしてもてなした。 5月21日。隼人が相撲を取るのを西の槻の木の下で観た、とある[9]。
奈良時代から平安時代にかけて、宮中行事の一つとして相撲節会が毎年7月頃に行われるようになる。毎年40人ほどの強者が近衛府により選抜され、宮中で天覧相撲をとった。最初の記録は天平6年(734年)のものであるが[10]、節会を統括する相撲司の初見は養老3年(719年)であることから、8世紀初頭に定着したものと思われる。相撲節会は当初は七夕の宮中行事の余興としての位置づけであったが、後に健児の制が始まると宮中警護人の選抜の意味を持つようになる[11]。時代が下るにしたがって相撲節会は重要な宮中行事となり、先例が積み重なるとともに華やかさを増した。しかし同時に、健児の選抜という本来の趣旨は次第に忘れられていった。12世紀に入ると律令制の衰退、都の政情不安定とともに相撲節会は滞るようになり、承安4年(1174年)を最後に廃絶となる[12][13]。
一方、神社における祭事として相撲をとる風習が生まれた。これを神事相撲という。1956年の書籍『日本相撲史』は、農作物の豊凶を占い、五穀豊穣を祈り、神々の加護に感謝するための農耕儀礼であり、これは一貫して現代になっても続いている、としている[14]。
中世
相撲節会に求められていた実践的な意味での相撲は、組み打ちの鍛錬として、封建制を成立させた武士の下で広まった。これを武家相撲という。武士の棟梁となった源頼朝は特に相撲を好み、鎌倉を中心に相撲が盛んに行われた[15]。
続く室町幕府は、相撲の奨励には消極的であったが、戦国大名は熱心に相撲人の養成に力を注いだ。また、応仁の乱以降都落ちをした貴族とともに京都の相撲文化が地方に伝わり、民衆の間に相撲が定着、相撲を生業とするものが現れる。これを土地相撲、または「草相撲」という[16]。
近世

江戸時代に入ると武家相撲はその存在意義を失い、土地相撲が興行化して民衆一般に広がる。興行主はこれを神事相撲の「勧進」にことよせて勧進相撲と称し、また武家相撲も力士を大名の抱えとすることでその名残をとどめた[17]。
江戸の爛熟期である明和・安永期(1764年-1781年)には、急速に見世物として の性格が濃厚になり、盲人や女性の相撲が盛況をみせ、明和6年(1769年)の浅草寺の開帳では、30日間興行の予定の女相撲や盲人と女性による相撲が20日間も延長されるほどの人気を博した[18]。11代将軍徳川家斉の時代になると、将軍が観覧する「上覧相撲」がきっかけとなり庶民の娯楽としてさらに隆盛し、なかでも寛政3年(1791年)6月11日に行われた上覧相撲によって相撲熱は一気に高まった[1]。「勧進相撲」は神社仏閣の建立・修繕などの資金として寄進を勧めるための興行から、職業相撲としての営利的興行へと変化し、寛政年間には、第4代横綱谷風梶之助や第5代横綱小野川喜三郎、雷電為右衛門といったスター力士たちが登場し、江戸相撲は黄金期を迎えた[1]。天保4年(1833年)には勧進大相撲が一大歓楽地であった両国を定場所とした[19]。
近代

明治の文明開化で相撲をはじめとする伝統芸能は軒並み危機に陥るが、明治天皇の天覧相撲が繰り返されるなどによりその命脈を保つ[20]。大正14年(1925年)には幕内最高優勝者に授与される天皇賜杯が下賜され、また東京相撲と大阪相撲が合併することにより日本相撲協会が誕生、勧進相撲は大相撲に一本化された。
平成に入って、日本ビーチ相撲連盟というアマチュアの組織が結成された。また、義務教育に武道必修化の必修科目として、相撲・剣道・柔道の三種を基本として加味された。
2020年以降は新型コロナウイルス感染拡大により身体接触を伴うスポーツへの抵抗が高まり、各地の学校の部活動でもなるべく身体接触を避けたいという意向が示されていた。2021年10月15日に開幕した福井県中学校秋季新人競技大会で、相撲競技が2人しかエントリーしないという選手不足のため、過去16回で初の開催中止となった[21]。
注釈
出典
- ^ a b c 「江戸の遊び~けっこう楽しいエコレジャ~」を巡る話題から(3)みるきく楽しみ横山美佳、東北大学附属図書館報、Vol. 32, No.1 2007
- ^ a b c d 井上宗一郎「民俗学における競技の対象化に関する一考察 : 近世以降の素人相撲をめぐる競技体系の近代化から(第Ⅲ部 術語と概念の地平)」『国立歴史民俗博物館研究報告』第165巻、国立歴史民俗博物館、2011年3月、225-249頁、doi:10.15024/00001912、ISSN 02867400、NAID 120005748888、2021年4月30日閲覧。
- ^ 『大相撲ジャーナル』2017年8月号、59頁
- ^ 『日本書紀』
- ^ 野見宿禰神社創建
- ^ 『日本書紀』、巻第十四
- ^ 『日本書紀』、巻第二十四
- ^ 『日本書紀』、巻第二十九
- ^ 『日本書紀』、巻第三十
- ^ 『続日本紀』
- ^ 酒井, pp. 5–6.
- ^ 酒井, p. 61.
- ^ 秋澤亙・川村裕子『王朝文化を学ぶ人のために』 世界思想社、2010年8月2日、ISBN 978-4790714880。
- ^ 酒井, p. 62.
- ^ 酒井, p. 69.
- ^ 酒井, p. 71.
- ^ 酒井, p. 73.
- ^ 渡辺達三, 近世広場の成立・展開火除地広場の成立と展開 (2)}」『造園雑誌』 36巻 2号 1972年 p.27-34, 日本造園学会, doi:10.5632/jila1934.36.2_27
- ^ 牛垣雄矢、田中絵里子、畠山輝雄、佐野 充、「交差の界隈性 : 現代東京における江戸の見附地と辻の役割」『国際交通安全学会誌』 Vol.30 No.2 p.118-128, 2005年8月, 国際交通安全学会, NAID 10019342059。
- ^ 日本の相撲は驚くほど美しかった。貴重な19世紀の写真は伝える
- ^ エントリーは2人だけ…相撲競技が初の中止 福井県中学校秋季新人競技大会、連盟は危機感 福井新聞 2021年10月18日 午後5時10分 (2021年10月19日閲覧)
- ^ a b c 吉崎祥司, 稲野一彦「相撲における「女人禁制の伝統」について」『北海道教育大学紀要 人文科学・社会科学編』第59巻第1号、北海道教育大学、2008年8月、71-86頁、ISSN 13442562、NAID 110006825941。<
- ^ a b c 金田英子「興行としての女相撲に関する研究」『日本体育大学紀要』第22巻第2号、日本体育大学、1993年3月、p97-102、ISSN 02850613、NAID 110000304553。
- ^ a b 金田英子「1212505 北九州地方における女相撲について : 長崎県・佐賀県の場合」『日本体育学会大会号』第43回(1992)、日本体育学会、1992年、907頁、doi:10.20693/jspeconf.43B.0_907、NAID 110001909621。
- ^ 石浦外喜義『弱くても勝てる 強くても負ける』幻冬舎、2017年4月20日、8頁、ISBN 978-4344031036。
- ^ 常陸山谷右衛門 著『相撲大鑑』文運社、1909年
- ^ 大空出版『相撲ファン』vol.06、103頁
- ^ “格闘技大国ジョージアで高まる相撲熱”. 日本経済新聞 (2018年3月7日). 2020年6月10日閲覧。
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