西園寺公望 政治家としての西園寺

西園寺公望

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/23 22:08 UTC 版)

政治家としての西園寺

西園寺は聡明で国際的な視野を持ち、学識が深く、文化的にも洗練された人物であるという評価が大勢である[229]。また民主主義の潮流についても支持していたが、一方で大衆の熱狂には批判的であった[230]

またフランス留学の影響からか親欧米的で、軍部などから国家主義に反する者として「世界主義者」と非難されることもあった。また『原敬日記』の記述から、西園寺は権力への執着が乏しく、政治的な手腕がなかったという見方をされることもあるが、伊藤之雄などのように円熟した政治的手腕を持っていると評価する研究者もいる[231]。西園寺は冷淡で物事に淡泊であるというイメージを、秘書である松本剛吉からも抱かれていたが、これは中立的な人物であることを認識させるため、西園寺自らが広めたイメージである[232]。宮中・財界との姻戚関係を背景に、西園寺は元老として宮中と国務、軍部の調整役を務め、日本の政治をリードし続けた。また、文部大臣在任中に教育勅語の改訂を試みるなど昭和初期の国家主義的政治家とは一線を画す言動を散発的に見せるが、軍部の勢力拡大に抵抗したものの、彼だけの力では戦争回避を成し遂げることはできなかった。

西園寺は立命館大学に寄贈した扁額に「藤原公望」と西園寺家の本姓で名前を記したように、自らが千年以上皇室とともにあった藤原氏の末裔であるという自覚を持っていた。また、幼い頃から皇室に親しんでいたこともあって、「皇室の藩屏」という意識が強く、それが政治姿勢となっていた。すなわち絶対的な権力を持つが故に誤謬が許されない天皇の親政に反対し続けた。これは田中義一張作霖爆殺事件(満州某重大事件)の上奏の不一致を昭和天皇に叱責され内閣が総辞職した際、西園寺が天皇に累を及ぼすということを口実にして、天皇による田中への叱責に反対していたことから見ても明らかである。また、「立憲君主として、臣下の決定に反対しない」という昭和天皇の信条は西園寺の影響とする向きもある。しかしながらこの姿勢は一方で、国粋派や革新派の反感をも招いた。

議会主義者

西園寺の死去を受けた『ニューヨーク・タイムズ』が古い「議会主義的日本」を代表する人物であったと評し、また吉野作造らも政党内閣主義者であると評していたように、当時の西園寺は議会主義の擁護者として知られていた[233]

協調外交

西園寺は明確な国際協調派であり、口癖のように「世界の大勢」と唱えていた[234]。ある時、西園寺が三条実万の伝記である絵巻物を執筆して明治天皇に献上した。天皇は「必ず世界の大勢から書いてある」と予想し、果たしてその通りであったため大笑いしたという[234]。西園寺は陸奥との交流でこうした外交思想を固め、「東洋の盟主たる日本」などという狭い気持ちではなく、「世界の日本」に着目してきたと回想している[235]

日清戦争後から台頭した過度な日本中心主義的ナショナリズムについては危惧し[236]、他国のナショナリズムを尊重した上で、国民が国の独立と発展のために力を合わせる健全なナショナリズムを志向していた[237][238]

国際関係においてはイギリスやアメリカと協調するべきと考えており、「フランスやイタリアと一緒になっても日本の進展はない」と断じていた[178]

政治手法

原敬は政友会総裁としても首相としても手腕に欠けていたと評している[239]。しかし元老時代の西園寺は、田中義一内閣崩壊時の小川鉄相に対する態度のように、各派にバランスを取り、いずれに対しても中立的な存在と認識されることでその権威と影響力を保った[144]。この態度を三浦梧楼は「政友会員に面会すれは三派連合(護憲三派)を称し、政友本党員に逢へは本党を称し、何等の定見もなく、元老の資格なし」と批判している[116]。しかし斉藤内閣成立以降は次第に強硬派から疎まれるようになり、倉富枢密院議長や平沼枢密院副議長からはその引退や死を望まれるようになった[240]

宮中との関係

西園寺は一貫して天皇が直接政治に関与して、権威を低下することを防ごうとしていた。このため昭和天皇の政治関与の動きにはたびたび懸念を示している[137]。しかし近衛内閣の頃からは次第に皇室による意志を示す必要があるとも考えており、直宮(天皇の兄弟)がその柱の一つになる必要もあると発言している[241]




注釈

  1. ^ グレゴリオ暦導入後、西園寺は10月23日を戸籍上の誕生日として登録している(伊藤之雄 2007, pp. 8-9)
  2. ^ 京都市北区等持院ちかくの別邸「萬介亭」の竹に因んだ号(出典: 藤井松一「西園寺公望関係文書について」『立命館大学人文科学研究所紀要(27)』p.32)
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